1
弟を捜してるんだ、とその人は言った。 夕暮れ時の池袋。真っ赤に染まった太陽はビルの向こうに消える寸前で、その青年の白い顔も、帝人のインドア派ゆえに焼けていない肌も今は同じ色に染まっているのだろうと思う。 「ケータイは水に落として成仏しちゃったし、弟の番号なんて覚えてないし。お手上げだよ」 「待ち合わせ場所は決めていなかったんですか?」 「それが全く」 大仰なポーズで首を振りながら、青年は「はあ」と溜息を吐き出した。 彼と帝人が座っているのは東池袋公園の階段状になった噴水の正面であり、待ち合わせ場所としては別に特殊なものではない。しかし場所を決めていないと言うのだから、ここに青年が座っているのはただの偶然だったのだろう。 (そして僕がこの人と話しているのも、ただの偶然) 青年の整った横顔を眺めながら日角は胸中で呟いた。 軽いショートカットのつもりで公園を横切ろうとした時、帝人は彼を見つけた。黒髪に白い肌の、とても綺麗な男性を。 彼をちらちら見つめるのは帝人だけでなく、女性などは特に熱い視線を送っていた。横に彼氏らしき別の男性を連れている女性がそんな視線だったのには驚いたが。 ともあれ、帝人は「ちょっといい(珍しい)もの見たなー」くらいの気分でその一方的な邂逅を終わらせるつもりでいた。明日は土曜日だから明々後日の学校で正臣に報告でもしようかな、と思いながら。 しかし帝人が歩きながらその人を眺めていると、突如、本人が帝人の方に顔を向けたのだ。 (え、) 驚いて背後を振り返るが、後ろには青年の相手らしき人間などいない。あまりにも現実的には確率が低く、しかし物語の中ではベタすぎる展開が脳裏をよぎる。 再び前に向き直って青年へと顔を向けると、彼は整った顔に微笑を浮かべて手招いた。勿論、帝人をだ。 (え、え、……ええ ) そろりと自分を指さすと、青年は首を縦に振る。どうやら見間違いでも思い違いでもないらしい。帝人はあの名も知れぬ綺麗な青年に呼ばれている。 整った顔に浮かべているのは怒りではなく笑みなのだから、帝人の視線が不快で呼びつけたなどとは思いたくないが……。ビクビクしながら近付いた帝人に、そうして青年は微笑んだ。 「はじめまして。俺、折原臨也って言うんだ。突然で悪いんだけど、俺の弟を知らないかな?」 反射的に「竜ヶ峰です」と帝人が名乗ってしまった後、青年もとい臨也は己の隣に座るよう勧めて、それから色々と話をしてくれた。 臨也は新宿に住んでいるらしい。だが弟の方は今年池袋に上京してきたばかりで、週末(金曜の夕方である今日から明後日の夜まで)は共に過ごす予定だったのだとか。 不運だったのは昼過ぎに池袋へ来た臨也が誤って携帯電話を水に落としてしまったこと、彼の弟が最近アパートを引っ越したばかりで住所がよく判らないこと、そして会うことは決めていても正確な場所と時間を決めていなかったこと、この三つが重なってしまったことだろう。 「竜ヶ峰君と同じ制服だから学校にも行ってみたんだけどねぇ。もう帰ってたらしくて空振り。困ったな」 「弟さん、来良の生徒なんですか?」 「うん。一年生だよ」 「じゃあ僕と一緒ですね。でも折原っていう姓の生徒はA組にいなかったから……」 他のクラスの生徒だろう。 「折原さんの弟さんならきっと格好良いんでしょうね」 「うーん、どっちかって言うと可愛い系かな。動物にたとえるなら子犬かウサギ」 「子犬がウサギ……ですか?」 「兄の贔屓目かもしれないけどね」 苦笑する臨也からは弟が可愛くて仕方ないのだという感情が伝わってくる。きっと彼は弟にとってとても良い兄なのだろう。ひょっとしたら甘やかしすぎるダメ兄なのかもしれないが。 顔も知らない弟に臨也が構っている姿を想像して、帝人は小さく笑い声を漏らした。 「竜ヶ峰君?」 「あ、すいません。きっと折原さんって良いお兄さんなんだろうなって思って」 「いやいや。俺なんて本当にダメダメだよ。離れて暮らしてる所為でまともに言葉を交わすことも無いし。まあチャットではしょっちゅう話してるんだけどね」 「折原さんもチャットはよくするんですか?」 「あ、その言い方だと竜ヶ峰君も?」 「はい」 帝人は池袋に上京する前からとあるチャットルームを頻繁に利用していた。田中太郎というハンドルネームで、甘楽やセットンというメンバーと池袋を中心とした話題に花を咲かせている。 「ひょっとしたら知らない間に話したことがあるのかもしれないねぇ」 「確率は低そうですけどね」 「確かに」 広大なネットの海で偶然臨也と出会える確率など、それこそ砂漠の中で砂金の粒を探し出すのと同レベルのものだ。 「でももし本当に、知らない間に話していたりしたら……。それってなんだか特別な縁があるように思わない?」 「もし本当にそんなことがあれば、ですけど。そういうのがあると素敵だと思います」 帝人が返答すると、臨也は「だよね」と嬉しそうに微笑んだ。美形は何をしていても美形だが、こうやって微笑みを浮かべたりするとそれは更に格別だった。 同性であるにも拘わらず、帝人の頬は思わず赤く染まりそうになる。慌てて両手を頬に添えると、何も知らない臨也が「ん?」と小首を傾げた。 「どうかした?」 「いえ、なんでもないです!」 帝人は大げさなくらいの勢いで首を横に振る。その様子がおかしかったらしく、臨也が「ならいいけど」と答えつつも苦笑を滲ませていた。 (……うう) なにやら余計に恥ずかしい思いをしてしまったと帝人は胸中で独りごちる。 と、その時だ。帝人の耳に聞き慣れた着信音が飛び込んできたのは。 「え? わっ。すみません」 「いいよ、友達から?」 携帯電話が告げるのは、メールではなく電話の着信。画面に浮かぶのは親友の名前で、帝人は臨也に断ってから通話ボタンを押す。 「正臣?」 『よっ、帝人。今どこにいる?』 「どこって、東池袋公園だけど……」 『なんだよ家にいねーのか』 「悪かったね。で、用件は?」 『帝人きゅんが冷たい』 「切るよ?」 『わ、ごめん! マジたんま! ふざけすぎましたーっ!』 ほんとこのとーり、ごめん! と謝る親友に帝人はわざとらしく溜息を吐き、「いいよ」と苦笑を浮かべる。 「それで正臣、どうしたの? 今日はバイトじゃなかったっけ?」 『あー、それがさぁ。なんかいきなりシフト替わってくれって奴がいてさ。明日の夕方からになった』 「ふーん。ってことは、正臣は今ヒマってわけだ」 『そ! だからさ、帝人の部屋の片付けでも手伝おうかと思って。どうせまだ片付いてないんだろ?』 「う……よく分かったね」 『わからいでか!』 携帯電話の向こう側からケラケラと明るい笑い声が聞こえてくる。 実はつい先日、帝人はアパートを引っ越したばかりだった。入学当初から借りていた所は今年の梅雨の際に激しく雨漏りし、大家が全面改装を決めてしまったため借りていられなくなったのだ。代わりにその大家のツテで新しい所をそれなりの値段で借りられた帝人は、まだ部屋をきちんと片付けられずにいたのである。パソコンと寝具は真っ先に設置したが、洋服等は未だ段ボールの中でお休み中だった。 正直言って、正臣の申し出はかなり有り難い。 「じゃあ頼んじゃってもいい?」 『おう! この紀田正臣様にどーんと任せておけ! で、お前はいつ帰ってくんの? なんなら勝手に入っとくけど』 「先に入っといて。鍵は前の所と同じ場所にあるから」 『ラジャー! んじゃ、先入って待っとく』 「うん。お願い。僕もすぐ行くから」 そう言って電話を切る。 臨也を見上げると、彼は心得たように一度だけ頷いた。これだけの距離の近さなら会話の内容が聞こえていたのかもしれないが。 「行ってあげなよ」 「あ、はい。弟さんを一緒に捜せなくてすみませんでした」 「いいって。俺の相手をしてくれただけでも十分だし」 にこりと微笑み、それから臨也ははたと気付いたように手帳を取り出した。 「あのさ、もし不都合じゃなかったら連絡先教えてくれないかな」 「え」 「いや、ほら。弟が見つかったら連絡もしておきたいし!」 きょとんと目を見開く帝人に臨也は若干慌てたような仕草でペンと手帳を差し出す。だめかな? と伺う顔は年上であるにも拘わらずどこか可愛らしい。 「いえ、ダメじゃないですよ」 帝人はくすりと笑い声を漏らし、手に持ったままだった携帯電話で自己の連絡先を呼び出す。そして臨也から手帳とペンを受け取り、さらさらとそこに電話番号とメールアドレスを記入した。 出会ったばかりの人間に安易に連絡先を教えるなど、あまり褒められたことではないのだが、臨也ならいいかなと思ってしまう。むしろ彼から連絡がくるのなら、それがたとえちょっとした報告であっても心待ちにするだろう自分が簡単に想像できてしまった。 (こんな体験、滅多にないよね) 相手は偶然街で出会った、とても見目麗しい年上の男性。一般の高校生である自分が容易く体験できるものではないと、帝人は生来の好奇心に背中を押されながら手帳とペンを臨也に返した。 「ありがとう。また連絡するね」 「はい。弟さん、早く見つかると良いですね」 「うん」 「それじゃあ」 「ばいばい」 そう告げる臨也に手を振り返し、帝人は公園を出る。そして振り返らず己の新しいアパートへ。 だから帝人は知らない。 帝人の背中を見つめながら臨也が薄く、薄く。まるでナイフのような鋭さを秘める微笑を浮かべたことを。 |