平和島静雄は真っ青になった。
 自分の血の気が引いていく音を聞きながら、やってしまった事実に愕然とする。少し離れた所ではドレッドヘアの上司も顔色を無くし、静雄と同じ方向を見つめていた。
 二人の取立て屋の視線の先―――。そこには静雄が投擲したばかりの自動販売機が転がっている。すぐ傍らに明るい茶髪にピアスの少年が立っており、もう少しで彼を意識不明の重体に陥らせる所だっただろう。しかし少年は無傷であり、五体満足のまま目を見開いて自販機を見つめていた。……否、少年が見つめているのは自販機それ自体ではない。
「みかど、」
 少年が名前を口にする。
 静雄達とその少年が見ていたのは自動販売機という鉄の凶器に潰された少年の連れだった。
 本来この自販機で脅されるべき取立て相手が逃げてしまったのはもういい。今はとにかく多大なるとばっちりを食ったもう一人の少年を助けるのが先決だ。
 一番最初に自失状態から抜け出した田中トムが後輩の名を呼ぶ。
「静雄! とにかく自販機退かせ!」
「ッ! あ、はい!」
 金髪サングラスにバーテン服。池袋最強を示す姿の静雄は真っ青になったまま、上司の指示に従って少年達の元に駆け寄った。後方ではトムが救急車を呼ぶため携帯電話を取り出している。だが予想外の出来事に頭が混乱しており――何せ無実の少年を一人、最悪の場合死なせてしまったのかもしれないのだから――、指が震えて上手く電話をかけられずにいた。
 そんな中、トムが救急車を呼ぶよりも、また静雄が自販機に手をかけるよりも早く、平静を保った声がもたらされた。
「やめてください」
「は……?」
 静雄とトムの視線が声の主を捉える。
 そこには面倒そうな顔をして、焦る大人二人と自販機の下の友人を眺める少年がいた。茶髪の彼は自分の友人が大変な事になっているのに取り乱した様子もなく、周囲を一瞥してから「周りに人がいなくて良かったっす」と独り言のように呟く。
 その言葉はまるで友人の緊急事態を――喜んでいるとはまでいかずとも――容認しているようで、人を人とも思わぬその所業に静雄はカッと頭に血が上るのが分かった。自販機を退かすために伸ばされた腕は鉄の塊ではなく成長途中の少年を掴み上げ、静雄は犬歯を剥き出しにして唸る。
「手前、そりゃ一体どういうつもりだ」
「どうも何もその通りの意味っすよ」
 少年の台詞に静雄は己が引き起こした事態を忘れて相手を投げ飛ばしそうになる。だがその寸前、少年が付け加えた言葉に動きを止めた。
「もし他人に見られたらあんたらも困るでしょうけど、それよりもまず帝人が困っちまうんです」
 みかど、というのはこの少年の連れにして現在自販機の下敷きになっている被害者の事だ。
 意味を測りかねた静雄は後ろのトムを振り返った。するとトムは静雄に答えるのではなく、ポカンと呆けた顔で静雄達―――否、そのすぐ横を見ているではないか。釣られて静雄もそちらを見ると、百キロを軽く越える自販機の下で細い手がパタパタと元気に動いていた。
「…………。」
「みっかどー大丈夫かぁ?」
 この場にそぐわぬ能天気な声が茶髪の少年から発せられる。すると自販機の下で動く手がピースサインを作って、
「へいきー」
 声が返された。勿論、自販機の下から。
「人がいないみたいで良かったね。あと早くこれ退けてくれると嬉しいんだけど」
「と言う訳らしいんで、早く退けてやってくれませんか」
「……あ、ああ」
 茶髪の少年に促され、静雄は彼の胸倉を解放して自販機に手をかける。横では少年が襟元を正しながら「ふー、怖かった」と呟いていた。
 一方、静雄が手をかけた事でようやく鉄の塊が退いてくれると気付いたのか、さっきの声が「あ、どうもー。よろしくお願いしますね」などと言ってくるではないか。随分と平気そうな声だが、それでも一応、静雄は下敷きになった相手になるべく負担がかからないよう配慮して自販機を退かせた。
 その下から出てきたのは―――
「ありがとうございます。それとご心配をおかけして申し訳ありませんでした」
 茶髪の少年と同じ高校のブレザーを纏ったその人物は、友人よりも幼い相貌に笑みを浮かべる。
 染色も脱色も知らない艶のある黒髪に大きな黒い瞳、平均よりも細く小柄な体躯は、彼が守られてしかるべき、か弱い存在であると示しているようだった。
 だがこの黒髪の少年―――帝人は、静雄が投げた自販機に潰されても怪我一つ負う事なく無事に生還してみせた。
「正臣もごめんね。僕がぼけっとしてたばっかりに」
「いーって、いーって。ま、服もそんな汚れてねえみたいで良かっ……あ」
 正臣と呼ばれた茶髪の少年はへらへら笑いながらそう返したが、台詞を言いきる前に何かに気付いて言葉を止める。それから友人の制服――ブレザーの中にパーカーを着ている正臣とは違い、きちんと白いワイシャツを着込んでいる――の襟元に赤い液体が付着しているのを「ここ」と指摘した。
「あれ? 回収しきれてなかったみたい」
「ってかお前、実はどんだけ出血してたんだよ」
「んー……自販機の外には一応広がらない程度、かなぁ?」
 少ない方だよ、と付け足す友人に正臣はガックリと項垂れて「いや、多いから」と答える。
 そんな会話を当然のように交わす少年達を眺め、静雄は上司と共に混乱の渦に叩き込まれていた。
 これは一体どういう事だ。
 少年の台詞から推測すると、帝人は静雄が投げた自販機によって潰され、かなりの出血までしたらしい。だが実際に鉄の塊の下から姿を現した帝人には傷など見当たらず、ただほんの少し赤いものが襟に付着しているだけだ。普通の人間ならば「どこか小さな怪我でもしたのかな?」と思う程度のそれを、しかし正臣は帝人が大怪我を負ったこと前提で話を進めている。確かにこんなにも頼りない身体の少年が自販機に潰されてほぼ無傷という方が有り得ないのだが……。こんな少年達が下手な当たり屋でもあるまいに。
 静雄は目の前の奇妙な少年達が何者なのか判らず、ただじっと凝視するしかなかった。
「……あ、僕達だけで話し込んでしまってすみません」
 静雄の視線に気付いた帝人がふにゃと笑って頭を下げる。
「いきなりの事で混乱しているでしょうに……。必要ならばどういう事かお話しましょうか? 僕の方もちょっと公言されては困るものがありますので」
「え? あ、っと……」
「それだったら俺らの事務所に来るか? 駄目なら近くのファミレスか何かでもいいが」
 誘いに乗って良いのか悪いのか静雄が判断できずにいると、後ろからトムが顔を出してそう告げた。
 少年達は互いに視線を交わしてどうするか決めかねていたようだった。しかしそれもあまり長くかからず、二人同時にこくりと首を縦に振る。
「人払いができるのでしたら、あなた方の事務所で結構です。ファミレスはやっぱり他の人の存在が気になりますし……」
「随分あっさりと俺らの事を信じてくれるんだな。もしかして事務所に着いたら縄で縛られて東京湾に沈められるとか考えねえのか?」
「まさか。あなた方は平和島静雄さんとその上司の田中さんでしょう? 確かに平和島さんはこの街で凄く怖がられている存在ですけど、そういうアナクロなチンピラヤクザみたいな事はしないと思っています。それにさっきだって、僕をあんまり心配してなさそうだった正臣の態度に静雄さんは本気で怒ってくれたじゃないですか」
「……ま、そうだな」
 帝人の言にトムは苦笑しながら頷き、「じゃあついて来てくれ」と歩き出す。
「静雄ー。おめーも行くべ」
「あ、うっす」
「正臣、行こう?」
「おう」
 二人の取立て屋に続いて少年達も歩き出す。その最中、帝人の白い指が己のシャツの襟をひと撫でした。正臣がその動作に気付いて視線を向けると、黒く大きな瞳が苦笑によって細められる。
「クリーニング代が勿体無いんだもん」
「……せめて帰宅してからにしろよ」
「でももうやっちゃったし」
 先を行く二人に聞こえないようこそこそと会話を交わす少年達。
 白い指が撫でた白いシャツの襟には、まるで最初から汚れなど無かったかのように、血の跡が全く見当たらなくなっていた。



* * *



「あなた方は『不死者』という存在をご存じですか?」
 人払いがされた事務所の一角で、竜ヶ峰帝人と名乗った黒髪の少年はそう告げた。
「読んで字の如く死ぬ事がない人間です。足を潰されようが手を潰されようが、そして頭を潰されてしまっても不死者は甦ります。加えて不死者になった人間はその時点から老いる事もありません。僕はこの姿の時に不死者の仲間入りをしてしまったので、永遠にこのままなんです」
「……漫画の読みすぎじゃないのか、坊主」
「漫画の読みすぎ程度なら良かったんですけどね。残念ながら事実です」
 唖然とした表情で告げるトムに帝人は如才ない笑みで返した。
 応接セットのテーブルを挟んだ帝人の向かいにはトム、その隣に静雄、そして静雄の正面であり帝人の隣に腰掛けているのは正臣。
 大人二人は唖然としたり難しい顔をしたりと、非常に困惑している事が伺える。一方、帝人は微笑んだり苦笑したりと『笑顔』からは変わらず、正臣の顔に浮かぶ感情も面倒なのが半分、残りの感情を隠す曖昧な笑みが半分といった所だった。
「証拠が見たいと仰るのでしたら、今この場で腕くらいならもいでもいいですよ。すぐにくっつきますから。血が飛び散っても僕に全部戻りますしね。まあ本当に捻じ切ったりする場合は平和島さんのお力を借りないとできなさそうですけど」
 とんでもない事を何でもない事のように帝人は告げる。だが言い終わってすぐ、横に座る正臣がチラリと視線を寄越した。
「帝人、」
「……ごめん正臣。今の無し。自分からスプラッタになるのは禁止だったね」
 帝人のその返答に正臣は若干不満そうな顔をしつつも、親友が腕を切り離すなどという暴挙に出る事は無さそうなので良しとしたようだった。おそらく正臣はスプラッタな現場を作るのが嫌なのではない。……が、ならば何が最も嫌なのかは、静雄にもトムにも判らなかった。
(でもまあ、その不死者とやらが本当だとして……こうもサラッと腕をもぐとか言えちまえるって事は、ひょっとして痛みも感じない身体なのか?)
 トムはそう考え、静雄を一瞥する。
 隣の青年も同じ考えに至ったようで、ならば自販機の下敷きになった帝人は苦痛を感じなかったのだろうと胸を撫で下ろした。死なないとは言っても無実の人間に痛みを与えてしまうのは非常に忍びない。特に自分の力を嫌っている静雄にとっては。
「そっちの茶髪の兄ちゃんも……えっと、不死者、なのか?」
 不死者に関しては一応信じるという形を取って――そうでなければ話が進まない――、トムは更に質問を重ねた。
 帝人と仲良くし、その内情も知っている人間とくれば、その彼も所謂『お仲間』なのかと。
 だが帝人は苦笑を浮かべて首を横に振った。
「いえ、正臣は普通の人間ですよ。だからさっきの僕みたいな目には合わせないでくださいね。死んじゃいますから」
 トムの質問に答えつつ、帝人の黒い双眸が静雄を射る。
 帝人を自販機で押し潰したのは事実なだけに、静雄は「あ、ああ」と焦ったように頷いた。若干の嫌味を含んだそれに静雄がキレないのは、帝人に対して負い目があるからだろう。
「……ま、そう言う訳でして。自販機がぶつかった事は気にしないでください。幸い制服も破れてませんし、変に言い触らしそうな目撃者もいなかったので問題は無いと思います」
 己の特異性と平和島静雄が罪無き高校生を自販機の下敷きにしたという噂が広がる事、そして制服の汚れを一緒に扱って帝人はソファから腰を上げる。
「お解かりかと思いますが、僕の事は他の人に話したりしないでくださいね。言っても大抵の人は冗談だと思うでしょうけど……」
「わーってるよ。俺らも周りから変な目で見られるのは勘弁だからな」
 確かに何の証拠もなく不死者だ何だと言っていては精神科への入院を勧められてしまうかもしれない。よって他言する事はないと告げ、トムは少年達二人を事務所の外まで送る。
「じゃあな、坊主共。余計な時間取らせて悪かった」
「僕もあの平和島さんや上司の田中さんとお話できていい経験になりました。それじゃあ、失礼します」
 きっちり四十五度に腰を折り、帝人はトム達に背を向けた。それに続いて正臣もぺこりと首から上だけを動かし、親友の後を追う。
「……うーん、竜ヶ峰君とやらは友好的なのかただ礼儀正しいだけなのか。どっちか判らんが、紀田君とやらは完全に俺らのこと嫌ってるな」
「みたいっすね」
 そりゃあ自分達は親友に怪我をさせた人間なのだから当たり前である。だから不思議なのは帝人の方だ。
「変な奴でしたね、あの竜ヶ峰って兄ちゃん」
「まあな。でも、もう関わる事も無いだろうよ」
 自分達はテレクラの取立て屋で、彼は真っ当な身体でないにしろ真っ当な高校生活を送る学生だ。こんな万に一つの機会でも無ければ関わる事などあるはずもない。
「不死者、か……」
 さすが首無しライダーのいる街、と冗談混じりに呟いてトムは事務所へと踵を返した。



□■□



「みかど……」
「大丈夫。もう骨まできちんとくっついたから痛くないよ」
 心配そうな正臣の声に帝人はやわらかな笑顔で返した。
「だからそんな顔しないで。正臣のそんな顔見てる方がよっぽど痛い」
 紀田正臣の親友はそう言ってそっと正臣の頬に手を触れさる。
 池袋の自動喧嘩人形こと平和島静雄の取立て業務に巻き込まれた彼らは、静雄達の事務所で少し話をした後、こうして帝人のアパートに戻ってきていた。
 西日が射し込む赤い部屋で正臣は頬に添えられた親友の手を己の手で覆い、こくりと頷く。そうしていつもどおりの軽さを意識した表情を浮かべれば、帝人は安堵したように口元を緩ませた。
 正臣の親友は不死者である。だから死ぬ事も老いる事もない。怪我をしてもすぐに治る。そして帝人は先刻のような普通の人間なら重傷レベルの被害にあっても顔色一つ変えはしない。そのため帝人が不死者と知った人間はこの少年に痛覚がないものだと思ってしまう。トムと静雄もそうだった。
 けれど。
(こいつは我慢強いだけだ)
 自販機の下敷きになった後、帝人の額にうっすらと浮かんでいた脂汗を思い出し、正臣は胸中で呟く。それ以外は顔色も何も全く変化がなかったため静雄達は勘違いしたようだが、打撲に骨折に出血。下手をすれば死んでも可笑しくないレベルの怪我だ。相当、痛かっただろう。
 それでも帝人は他人に余計な心配をかけまいとして気丈に振る舞う。(勿論心配云々の前に、痛みを訴える事で負傷が周囲に知られ、不特定多数の人間に傷が瞬時に治るシーンを目撃されたくないというのも大きな理由の一つだが。)
 彼が「どうせすぐに全部治るんだから他人の前で痛がってもねぇ?」と笑ったのは随分前の話で、当時小学生だった正臣は恥も外聞もなく大声で泣いたものだ。まあその出来事があったために帝人は正臣の前でだけ我慢の程度を緩めてくれるようになったのだが。
 ともあれ、そう言う訳で正臣は静雄達の事務所で不死者の証明方法として提案した「腕をもぐ」という行為に不快感を露わにしたのだ。
 冗談でも自分を傷つける発言は止してほしい。帝人が「正臣が痛そうな顔すると僕も辛い」なんて言うからいつも平気そうな風を装っているのに、これ以上何でもないフリ≠ニいう苦行を強いてくれるな、と。
「ごめんね正臣。痛い思いをさせちゃって」
「痛いのはお前の方だろ」
「僕はもうだいぶ麻痺してきてるから」
「嘘つけ」
 手を握ったまま正面から睨み付ければ、「まいったなぁ」と苦笑が返された。
「これからはもっと気を付けろよな」
「うん。相手にもビックリさせちゃうしね」
「……お前に怪我させる相手なんかどうでもいいけどよ」
 自分の怪我に無頓着な親友を前にして正臣は大きく溜息を吐く。
 だがもうあの喧嘩人形と関わる事は無いだろう。そう思い、正臣は己を宥める。あとはカツアゲの類を警戒すれば帝人が余計な怪我を負う事も防げるはずだ。
 中学時代はやんちゃ≠していた正臣にも流石に自販機を跳ね返す事はできないが、数人程度の不良を相手に立ち回るくらいなら余裕である。
 戸籍の有無すら怪しい親友に無理を言って池袋の高校に通ってもらっている正臣にできるのは、情けないがそれくらいしかない。だからこそできる事は全部やってやろうという気持ちで正臣は親友の手をぎゅっと強く握りしめた。
(こいつは俺が守る)
 その言葉を不死者の親友に対して音にするだけの実力は、まだ無いけれど。