子供の頃、平和島静雄はよく見知らぬ場所に迷い込む事があった。
普通に歩いていたはずなのに、気が付くと周囲の街並みが変わっており、通り一本向こうの雑踏も何も聞こえない。代わりに鳥が鳴いていた。そして空は抜けるように高く、少し移動すれば田んぼや畑に突き当たる。 池袋らしくない場所。自分の生活範囲外の場所。初めてそんな所に知らず迷い込んでしまった日、静雄は軽くパニックを起こしかけ、その頃にはもう発揮されるようになっていた常軌を逸する怪力で周囲の物に手当たりしだい混乱と怒りをぶつけようと――― 「どうしたの?」 ―――ぶつけようとして、けれど突然かけられた幼い声にその動きをピタリと止めた。 振り返ると、自分より年下であろう少年が黒く大きな瞳で静雄を見上げていた。白い肌と高い声で一瞬少女かとも思ったが、短く切られた髪や背中の黒いランドセル、それから少年らしい服装に相手が自分と同じ性別だと気付く。 「だいじょうぶ?」 「……あ、ああ」 ほっとした。 この少年もまた静雄の知らないものの一つなのに、それでも心配そうに見上げてくる瞳は静雄の心を落ち着かせる。 静雄は彼と出会うまで誰の姿も見なかった訳ではないのだが、言葉を交わしたのは初めてだった。この見知らぬ町で見かけた人間、主に大人は静雄がただ遊んでいるだけの子供だと思っていたし、静雄は静雄で自分の力で害を被った他人を知っているだけにそう易々と誰かに近付く気にはなれなかったためである。 しかしそんな心情の静雄に話しかけてくれた少年が目の前に。その存在は不可思議な体験の真っ直中、誰かに頼るという考えを浮かばせる事ができず不安に押し潰されそうだった静雄を優しく救ってくれた。 パニックになりかけていた静雄を無自覚のまま宥めた少年は、「ああ」という短い返答に「よかった」と笑みを浮かべる。 実際、大丈夫かと問われて大丈夫だと返せる立場ではないのだが――何せただいま絶賛迷子中だ――、その笑顔を見ていると静雄の不安な心は見る間に落ち着いていった。 「ねえねえ。きみ、何年生?」 「え?」 「僕はね、4年生だよ」 黒い目をきらきらと輝かせて少年が問う。 どうやら相手は元より物怖じも人見知りもしない性格らしく、見慣れぬ子供(静雄)に好奇心が湧き出てきたようだ。 ここ最近他人から向けられる事のなかった好意的な視線を受けた静雄は若干たじろぎつつ、同時に相対する少年が己と同じ年だと知って純粋に驚いた。 目を見開く静雄に少年はこてんと小首を傾げる。その仕草がまた幼くて、静雄は思わず「見えねー」と呟いてしまいそうだった。実際にはその台詞を音にする事なく、代わりの言葉を口にするのだが。 「俺も、4年だ」 「わあ! やっぱり一緒だ!」 (やっぱりって何だ。やっぱりって。その顔で言うのかお前) 再び心情の吐露をぐっと抑えて、代わりに苦笑いをする静雄。呆れはしても怒りが湧かないのは、少年の人畜無害そうな雰囲気が原因だろうか。 とそこまで考えて静雄はまだ自分が相手の名前を知らない事に思い至った。 目の前の少年は同い年という予想が当たった事を喜んでいる最中で、名乗る事にまで気が回っていない。彼が名乗ってくれたなら自分もすぐ名乗り返せるのに……と思う静雄だが、どうやら相手に任せっぱなしでは進まない事もあるのだと理解する。 「なあ」 「なぁに?」 「お前、名前なんて言うんだ? 俺は平和島静雄」 「静雄君だね! 僕は……」 本当なら名前など聞かずともここがどこでどうすれば池袋に帰れるのか、それだけ判れば充分なはずなのに、静雄はそれに気付かない。それは静雄もまた目の前の少年と同じように相手への好奇心を抱き始めていたからに他ならなかった。 「僕は竜ヶ峰帝人。よろしく、静雄君」 (中略) ある時、いつものように周囲の景色が滲んで場所を移動した静雄は、視線の先に帝人の背中を見つけて声をかけようとした。 しかし、 (みか、ど……?) 過去に二人で遊んだ事もある河原に座り込んでこちらに背を向ける帝人は、どこか意気消沈しているように見えた。ランドセルを背負った小さな背が更に小さく感じられる。 僅かに逡巡した後、静雄は一歩前へ踏み出した。じゃり、と靴の下で音が鳴り、川面を見つめていた帝人の肩が揺れる。 「どうしたんだ」 「しずお、くん……」 振り返った帝人の双眸には涙こそ浮かんでいなかったものの、今にも泣き出しそうな気配があった。もしこれが誰かに苛められでもしたためなら確実にその相手をぶっ飛ばそうと心に誓いながら、静雄は帝人の隣に腰を下ろす。 「なんかあったのか」 「う、ん」 「苛められたのか」 「ちがうよ」 「じゃあなんで……」 そんな顔してんだよ、と続けた静雄に帝人は眉尻を下げた情けない顔で笑った。 「正臣って知ってるよね?」 「ん? まあ名前だけなら」 帝人との会話の中で何度か出てきた彼の幼馴染の名前だ。 紀田正臣。会った事はないが、静雄の中ではあまり良いイメージがない。別に帝人が話す『紀田正臣』が静雄の気に食わない人格だったという訳ではないのだが……いつの頃からか帝人のヒーローを語るようなキラキラした目と楽しげな口調が、静雄の胸にチクリとした痛みをもたらしていたのは事実だ。 それはさておき、その正臣がどうしたのだろうか。 視線で続きを促せば、帝人がぽつりぽつりと語りだした。 「僕、ちっちゃい頃からずっと正臣と一緒で、何をするにも正臣が引っ張ってくれてたんだ」 「ああ」 静雄が現れるのは何故か正臣がいない時ばかりで、この町の事を知らない静雄に対しリーダーシップを取っているのはいつも帝人である。しかしそうでない時、つまり紀田正臣と一緒にいる場合、帝人はその活動的な幼馴染に手を引っ張ってもらっていた。 それは静雄にも周知の事実だ。 帝人にとって紀田正臣が憧れの対象である事も解っている。 「…………」 自覚がないまま静雄は手元に転がっていた石を片手で粉砕しかけ、しかし次の帝人の一言に驚きで目を見開いた。 「正臣が転校するんだって」 心細そうに帝人が呟く。 落ち込んでいるのは当たり前の事だろう。帝人の一番の親友は彼なのだから。 静雄は何か慰めの言葉をかけようとして口を開く。だが開かれた口から音が出る事はなかった。 平和島静雄という人間は良くも悪くも自分に正直である。ゆえに自分が望んでいない事≠ヘできない。今もまた帝人の元から彼の親友が去ると聞いて胸に去来したのは確かな安堵だった。 これで帝人には静雄しかいなくなった。もう帝人の口から紀田正臣の話が出る事はない。―――その思いが静雄の中で明確な言葉になる事はなかったが、だからこそ本心であるとも言えるのではないだろうか。 静雄は開いたままだった口を一度閉じ、今度は一片の逡巡もなく告げた。 「俺がいるだろ」 「え……?」 「お前の傍にはまだ俺がいるだろうが」 確かにいつ現れていつ消えるか不安定な存在だろうけども。でも今は確かにここにいる。 「な?」 「……うん」 そうだね、と帝人が微笑む。 「静雄君がいる」 小さな手がこちらのシャツの裾をぎゅっと握りしめるのを見て静雄も笑みを返した。 |