[ Prologue_A.D.201x-1 ]


 スペイン南部のアンダルシア州にある小都市グラナダ。その街を南北に分けて流れるダーロ川の南岸の丘の上に築かれているのが、かの有名なアルハンブラ宮殿である。
 アルハンブラは『宮殿』と呼ばれているものの城塞の性質も備えており、その中に住宅、官庁、軍隊、厩舎、モスク、学校、浴場、墓地、庭園といった様々な施設を擁していた。また大部分はイベリア半島最後のムスリム政権・ナスル朝の時代に建設され、スルタン(王)の居所として用いられた。
 白を基調とした建物であるが、代々のスルタンが改修・増築を行った際、夜を通して篝火を燃やして工事したため、グラナダ平野から見上げた宮殿は赤く染まって見えたことから、アラビア語で「赤い城塞」を意味するアル=カルア・アル=ハムラーと呼ばれるようになり、それがスペイン語において転訛してアルハンブラと呼ばれるようになったという説がある。
 ともあれ、そんな大規模な建造物を作り上げた王朝も、キリスト教勢力によるレコンキスタ(再征服運動)により十五世紀末に滅亡した。最後のスルタンであった男は、現在のモロッコ地域を支配していたフェズ王国に亡命し、そこで生涯を終えたという。
「はー……いやでもまぁあんま歴史には興味ないんだけど」
 と、レオナルド・ウォッチはガイドブックを流し読みつつ身も蓋もないことをひとりごち、紙媒体から顔を上げた。
 目の前に広がるのは白亜のアラベスク。壁一面を飾る幾何学模様は称賛を通り越して最早溜息しか出て来ない。八月の強い光の中、水と緑に彩られた中庭(パティオ)とのコントラストは目にも鮮やかで、天井を飾る壮麗で優美な鍾乳石装飾(ムカルナス)と合わせ、ぐるりと首を巡らせるだけでも王朝が滅亡して尚この建造物が取り壊されなかった理由を十分に理解することができた。
 現在レオナルドがいるのはアルハンブラ宮殿内でも特に有名な獅子(レオネス)宮。ナスル朝の最盛期に増築された部分で、当時はハレム(ハーレム)の女性達が住んでいたという。
 この季節、グラナダの気温はかなり高いものになるのだが、丘の上に作られたアルハンブラ宮殿は平地に比べて涼しく、その中でもこの獅子宮は避暑に最適の場所とされていた。
 中庭には十二頭のライオンの像によって支えられる噴水があり、それを取り囲むようにして百二十四本の細い白大理石の列柱が立っている。この『ライオンの中庭(パティオ)』の北側にあるのが二階建て住居の『二姉妹の間』。この建物の塔になった部分の内部にも小さな噴水が拵えられており、その真上の天井に広がるのが先述の鍾乳石装飾である。
(吸い込まれそうだ)
 レオナルドは天井を見上げて、普段限りなく細めている両目をうっすらと開いた。
 八角形の塔にはそれぞれの壁に二つずつ窓があり、そこから入り込む光が天井の模様に複雑な陰影を与えている。中央に行くほど高くなる天井は、したがってその部分がより暗い色となり、限りない深淵を覗いているような気にさせた。
 それをじっと眺めていたレオナルドは、しかし突然くらりと強い眩暈に襲われて手に持っていたガイドブックを取り落とす。「……っ」と息を呑み足を踏ん張るが、踏み出した先に床の感触がない。
「うそだろ」
 短く呟いた直後、身体が大きく傾いだのを感じながらレオナルドの意識は闇に閉ざされた。


[ Chapter 1_A.D.1467-1 ]


 水の音が聞こえる。吹き出した水が水面に落ちてパシャパシャと涼やかな音色を奏でていた。
 頬に感じるのは冷たく堅い感触。それが大理石の床面であると気付いたのは、瞼をゆっくりと持ち上げ、アーチの向こうにライオンの噴水が見えたからだった。
(ああ……そうか。俺、倒れたのか)
 レオナルドはこうなる直前、急に強い眩暈に襲われたことを思い出す。おそらくそのまま床に倒れてしまったのだろう。観光客や施設の管理者が騒いでいないところを見ると、倒れてまだ間もないのかもしれない。その割には痛むところもないのだが、気にせずレオナルドはゆっくりと身を起こした。
 が、しかし。
「貴様、何者だ」
「――ッ」
 大理石の床よりも冷たく硬質な声と共に、目の前に突き付けられる『それ』――銀の輝きを放つ三日月刀(シャムシール)。わずかに曲がった細身の片刃刀が、うつ伏せの状態から身を起こそうとしたレオナルドの首筋を狙っている。
 ぞっと血の気の下がる音を聞き、レオナルドは糸目を大きく見開いた。海を思わせるブルーサファイアが三日月刀の持ち主の前に晒される。それを見たまだ幼い少年≠ヘ、
「きれいだ……」
 刀を下ろし、レオナルドの前に跪いた。白を基調とした丈の長い上衣の裾が汚れるのも気にせず、先程まで警戒心を露わにしていた少年は魅入られたようにレオナルドの頬へ手を伸ばす。癖のある黒髪の奥、赤みがかった双眸が丸く見開かれ、ひたとレオナルドのコバルトブルーの双眸を見つめていた。
「母上の宝石よりも美しい。お前、もしかして母上への新しい贈り物か?」
「へ? あ、は?」
「最近の父上は側室のソラヤにばかり構っていたが、ようやく正室である母上の素晴らしさを思い出してくださったんだな。こんなにも美しい贈り物をされるなんて……」
 レオナルドの頬を両手で包み込むようにして青い瞳に見入る少年はわけの分からないことを次から次へと口にする。相手の方はいろいろと納得しているようなのだが、レオナルドにはさっぱりだ。
 いきなり眩暈がしたかと思えば床に倒れていて、しかも民族衣装っぽいものに身を包んだ小さな子供に警戒心バリバリで刀を突きつけられ、かと思えば眼が綺麗だと言われ、おまけにどこかの誰かへのプレゼント扱い。混乱極まったレオナルドはひとまず確実に答えられることを叫んだ。
「申し訳ないけど、僕は君のお母さんへのプレゼントじゃないってば!」
「贈り物じゃない……? だったら何故こんなところに倒れて――」
 少年が改めてレオナルドの正体を尋ねようとしたその時、第三者の声が割って入った。
「殿下? どうかなさいましたか。……殿下!? その者は一体!」
 少年と同じくゆったりとした、けれどももっと簡素な衣装を身にまとった女性が出入口からこちらを覗いて息を呑む。侍女ってやつかな、とレオナルドは直感的に思った。
 侍女らしきその女性は少年を「殿下」と呼び、彼の身を案じると共にレオナルドへ警戒の目を向ける。
「殿下、お下がりください! 今、女衛兵を――」
「慌てるな。こいつは侵入者じゃない」
(は?)
 侍女に冷静な声で答えたのは殿下と呼ばれた少年。彼はレオナルドの頬をひと撫ですると、「ほら見てみろ」と青い瞳を侍女に示す。
「これは母上への贈り物だ。宝石のような青い眼を持っているだろう?」
「しかし! お、男ではありませんか! ここは王と王子殿下がた、そして宦官以外は男子禁制です!」
「大丈夫だ」にこり、と少年が微笑む。「彼はすでに去勢が済んでいる」
(……ッッッ!!)
 レオナルドは思わず股間を押さえそうになる。不審な行動は取れないと寸でのところで我慢したが、ズボンの奥で大事なところが縮み上がった。
 と同時に、否応なしにここがどこだか悟る。場所は観光に訪れていたスペインのグラナダ、そこにあるアルハンブラ宮殿の獅子宮だ。しかしここ≠ヘ観光地ではない。イスラム風の民族衣装に、王・正室・側室・殿下・衛兵・宦官という呼称。そして特定の男子以外は禁制とされる空間であること――。
(ガイドブックで読んだわー。アルハンブラに王様がいた時代のハレムってやつだ)
 カスティーリャ王国(後のスペインの中核となる国)に攻め入られ滅ぶことになったグラナダ王国。その王の住まいにレオナルドは時代を越えて迷い込んでしまったのだ。
(これが一般人を巻き込んだテレビのビックリ企画じゃなけりゃって話だけど)
 じわり、と背中に嫌な汗がにじむ。心臓が早鐘を打っていた。
 しかしそんなレオナルドの異変に気付くことなく、侍女は『殿下』の言葉に「左様でございましたか」と笑みを見せ、自身の非礼を詫びてその場から去った。彼女が十分に遠ざかった後、少年の瞳が再びレオナルドを捉える。
「有り難く思えよ。これで僕はお前の命の恩人だ」
「そうらしいね。でもよかったの?」
 少年に手を差し出され、レオナルドは今度こそきちんと起き上がる。立ち上がれば、視線はレオナルドの方がずっと高い。
「どうして自分がここにいるのか解らないけど、僕はきっと招かれざる客ってやつだ。そんな僕を一時とはいえ匿った君にお咎めがあるかもしれない」
「さぁな。ただ、僕を咎められるのは父上か母上しかいない。そして父上は絶賛他の女に入れあげ中で、こちらを見ようともしていないな。したがって残るは母上のみ。今からお前を母上の元に連れて行く。そこで全て決めていただくさ。少なくとも、お前の首を刎ねるか否かはその辺の侍女や衛兵が決めることじゃない。このハレムの主、我が母上がお決めになることだ」
 それにこんなに見事な青い眼の者を早々に殺してその色を濁らせてしまっては勿体無いだろう、と恐ろしいことを呟きつつ、少年はレオナルドの手を引く。きっとどこへも逃げられない――逃げ込む場所などこの時代にはない――と悟ったレオナルドは、少年に促されるがまま、建物の奥へと歩を進めた。


「ほう……。ハレムに突然現れた男、か。それは面白いのう」
 少年に連れて来られた先で面会した女性――少年の母とされる彼女は息子の説明を聞くと、しどけなく長椅子に身を横たわらせたまま、顔を隠す薄絹のヴェールの向こうでうっそりと微笑んだ。
 グラナダ王アブルハサン・アリーが正妃、アイシャ。そう名乗った女性にレオナルドは「レオナルド・ウォッチと言います」と返し、「僕はどうなりますか」と尋ねた。
「本来ならばハレムに現れた不審者として即刻首を刎ねるところじゃが」レオナルドがびくりと肩を震わせると、アイシャの嫣然とした笑みが深まる。「我が息子の言う通り、お前は綺麗な眼をしておる。天からの贈り物とも思える代物じゃ。なればしばらく我が手元で可愛がってやるのも一興」
「じゃあ……」
 アイシャの物言いに希望を見出し、レオナルドが期待を込めて彼女の言葉の続きを待つ。
 ハレムの女主人はそんなレオナルドの反応に苦笑を零すと、「安心せよ」と告げた。
「お前はわたくしが王より賜った新しい宝物(ほうもつ)の一つとする。忌々しくも我が王はわたくしより側室の若い女に夢中じゃ。その嘘が王本人の耳に届くことはなかろう。まぁ、届いても気にされぬかもしれんがな」
 ヴェールの奥で赤褐色の双眸が忌々しげに歪む。しかしそれをすぐに隠し、今年七歳になる子供がいてもなお美しい容姿を保っているアイシャ王妃は柔らかく微笑んだ。
「して、レオナルドよ」
「はい」
「お前をわたくしと息子の傍に侍らせるとして、その前に一つ訊いておきたいことがある」
「なんでしょうか……」
「ふふ。いやなに、そのように気を張るでない。ちょっとした確認じゃ」
 赤い唇が楽しげに歪み、こらえきれない笑みがその隙間から零れ落ちる。美しい微笑なのに嫌な予感がして、レオナルドは一歩後ずさった。しかしそれ以上の逃走は隣に立っていた少年が許してくれない。どこへ行く気だと問う紅茶色の眼にレオナルドが動きを止めると、その隙にアイシャがカラリとした声で尋ねた。
「お前、去勢はしておるか?」
「してません! 怖いこと言わないでください!!」
 大事なところがひゅんとすること本日二回目。実はハレムという空間において致命的なその回答に、しかしアイシャはコロコロと鈴の音のような声で笑って「そうかそうか」と返した。
「なれば気を付けよ。お前の衣食住はわたくしが保障してやるが、ハレムにいる限り王とその息子以外が去勢しておらぬのは問題じゃ。決して他の者に悟られるでないぞ」
「うっ……わ、わかりました」
 遅れて自身の答えが完全にアウトなものであったと気付いたレオナルドは、アイシャの何とも言えない寛大さに感謝しつつ、震える声で「ありがとうございます」と礼を告げる。
「よいよい。お前は面白いな、レオナルド。お前の扱いは先程言った通りわたくしが頂戴した宝物の一つとするが、部屋に閉じ込めておくのも面白味がない。しばらくは我が息子の世話役として侍るがよい」
「はい、よろしくお願いします」
 何とか首の皮一枚で繋がったらしい。レオナルドはほっとして肩から力を抜いた。それから隣に立つ少年を見遺り、目が合った彼にへらりと微笑みかける。
「だそうなんで。どうぞよろしく、王子殿下」
「……っ、あ。あぁ」
 静かに母親の決定を見守っていた少年が慌てたように頷いた。息子の様子にアイシャは興味深そうな視線を向けたものの、少年とレオナルドが気付くことはなく。その後、レオナルドはアイシャが呼び付けた侍女に別の部屋へと案内され、王妃の部屋を出た。

* * *

 レオナルドが去った後、アイシャは己の息子をすぐ傍まで呼び寄せる。
「スティーブン、こちらへ」
「はい、母上」
 グラナダ王国第一王子。最も次の玉座に近しいとされる少年の頭を撫で、アイシャは互いによく似た色の瞳をじっと見つめた。
「スティーブン、よくぞあの者を衛兵に殺させずわたくしの元まで連れて来た。褒めてやろう」
「あ、の……ははうえ?」
 まだ十にも届かぬ幼い少年は真剣な母の様子に戸惑いの表情を浮かべる。先程まで楽しそうに笑っていたとは思えない重さが部屋を満たしていた。
「お前は、お前が生まれた時、星読みの占い師達から言われた予言について知っておるか」
「いえ……あまり良くない予言だったとのことで、詳しくは」
「そうじゃな。次の王になるはずのお前にとってあれはあまり喜ばしいものではなかった」
 スティーブンが生まれた時、星を読んで赤子の将来を予言する占い師達はこう告げたのだ。
 ――この赤子が成長し、王になれば、グラナダ王国は滅ぶ。
 所詮は不吉なことしか言えないペテン師共の言葉だ。あれらはいつも縁起の悪いことしか言わない。真剣に耳を貸す必要はなく、当時まだ側室がおらず正室のアイシャに全ての愛を傾けていた王は無礼な占い師達の首を容赦なく刎ねとばした。
 ただしその占い師達はこうも告げていたのである。アイシャの子供――スティーブンの魂には三度祝福が訪れる。祝福は二度スティーブンの命を救い、一度スティーブンの魂を慰める……と。
 このハレムにおいて、王の子を産むことは王の妻達にとって絶対に成し遂げねばならないことである。子が産めなければハレムの他の女と共に貴賤関係なく十把一絡げの扱いを受けることになるからだ。しかし子供を産んでもその子が次の王にならなければ、結局、王位継承の際に王太后(新王の母)以外はハレムを追い出されるので惨めな運命が待ち構えていた。
 ゆえにアイシャは己の息子を王にするためならば何でもすると心に誓っている。たとえ不吉な予言があろうとも、それを鼻で笑い、危機は全て弾き飛ばし、必ず我が子を王に、己を王の母にしなければならない。
 だがそう決意すると同時に、アイシャは我が子を深く愛していた。王になってはいけないかのような不吉な予言は信じない。けれども大事な我が子を救ってくれるという三度の祝福は――。都合の良いことかもしれないが、それだけは信じてやりたいと思うのだ。
「レオナルドはお前が生まれた時に星読み達が告げた『祝福』であるのやもしれぬ」
「あの者が、ですか……?」
「そうじゃ」
 アイシャは深く頷く。
「獅子(レオネス)宮に、誰にも見咎められることなく現れた、青き宝石の眼を持つ獅子(レオナルド)。あの色はまさしくお前の対となるべきものではないか」
 赤い瞳を覗き込むようにしてアイシャは告げる。その言葉にスティーブンはごくりと唾を飲み込んで、熱に浮かされたかの如く繰り返した。
「レオナルドが……僕の、対」
「うむ。あれを大切にせよ、スティーブン。お前の母はこの手のことに関して勘を外したことがないのじゃ」
「わかりました、母上。では早速、僕はレオナルド……レオの元へ行ってまいります」
 息子の言葉にアイシャは頷く。
 それから小さな背を見送って、彼女はふっと息を吐き出した。
「我らが神よ……どうか我が子に幸いを」


[ Chapter 2_A.D.1467-2 ]


 それから数日、レオナルドは落ち着いた日々を送っていた。
 服は王子殿下のものと負けず劣らず布がひらひらした綺麗な民族衣装を与えられ――王妃の宝物を着飾らせるのは当然のことらしい――、ここへ来た当初身に着けていた服や持ち物は、部屋の隅の櫃にひとまとめにされている。無論スマートフォンは圏外で、ふと思い立ちこっそりと王子殿下の写真を撮った後は電源を切っていた。
 窓から見える風景、人々のやりとり、出される食事、その他諸々から考えて、まことに残念ながら一般人を予告なしに巻き込むテレビ局のビックリ企画ではないらしい、と無駄にあがくのは止めた。僅かな希望も潰えて落ち込むレオナルドだったが、その代わりこちらの傍から離れず何故か慕ってくる王子殿下の態度に癒されたのは隠しようもない事実である。
 またハレムの片隅で生活していると、少しずつその内情も理解できるようになってきた。
 現在、この後宮には正妃(正室)であるアイシャの他に数えきれないほどの側室が囲われている。その中でも王が特に目をかけているのは側室のソラヤという女性。彼女にはすでに王との子供もできており、ソラヤは自身の子こそ次の王にすべきだと、正妃アイシャやその息子たる王子殿下にはあまり良い感情を持っていないとのことだった。
 順当に何も問題なく進めば、レオナルドを慕ってくれている赤い眼の王子が次の王となる。
 しかし現時点で王が寵愛しているのはアイシャではなくソラヤ。正妃よりも若く美しい姫とされるソラヤ――レオナルドは本人の顔を見たことがないので何とも言えない――に骨抜きになっている王がいつ判断を狂わせるか、アイシャや王子殿下側の従者達は気が気でないらしい。しかもソラヤはその若さと美貌を駆使して王以外の重鎮達とも繋がりを持ち始めているとかいないとか。
 ただし気が気でないのはソラヤも同じだ。王はソラヤにぞっこんだが、まだ王としての判断を著しく鈍らせるほどではない。つまり相変わらず王位に近いのはソラヤの子ではなく、正当な血筋を持って正室に迎えられたアイシャの子。もしアイシャの息子に何らかの不幸が起これば話は別だが、平穏な日々が続くのであればソラヤは次の王の母にはなれず、後宮に入る前の身分――女奴隷に戻ることとなってしまうのだ。
(ネックは『王子殿下に不幸が起こらなければ』なんだよなぁ)
 まるでフラグだ、とレオナルドは自分の思考に顔を顰める。権謀術数及び愛憎渦巻く後宮のドロドロなど趣味ではない。可憐な花のように、また澄んだ青空に輝く太陽のように、快活かつ美しく微笑む実妹の姿を思い出して、レオナルドは胸に溜まりそうになる重い物を追い払った。
 愛しの妹は元気にやっているだろうか。一人旅に出かけた兄が帰って来ないと、胸を痛めてはいないだろうか。
(だめだ。考えてたらまた別の意味で落ち込んでくる)
 ふるふると頭を振ってレオナルドは窓から外を見た。
 与えられた部屋は獅子宮の二階にあり、風通しが良い。今は八月――夏真っ盛りなのだが、随分と過ごしやすい部屋を与えてもらえたと思う。それもそのはず。ここはアイシャ王妃の部屋の隣、王子殿下の部屋だったのだから。
 ただし部屋の主は現在、レオナルドが窓から見下ろした庭先にその姿があった。剣術の稽古中である彼は、本物の三日月刀――初対面時にレオナルドの顔面に突き付けた物だ――を使って剣の師匠と打ち合いを続けている。これが終われば今度は書物との格闘が待っているとのこと。次の王になることを定められた少年は、実はあまり暇がない。そして数少ない暇を母親とレオナルドに捧げているのだ。
「良い王様になりそうだよなぁ。あ、でも王様一人が優秀でも国は成り立たないのか。大事なのは周囲にどれだけ質の高い人間を集められるか……だっけ?」
 自分が生きていた時代の政治家や会社の経営者達を思い出してひとりごちる。
 トップの出来が良くても周囲がボロボロなら立ち行かないし、トップに足りないところがあっても周囲がしっかりしていれば組織は上手く回ってくれる。――さて、あの王子殿下の周りには良い人材が配されるのだろうか。
「アイシャ王妃がしっかりしてそうな人だから何とか……いやでも本来王子のために人材を残してやるべき王様はソラヤっていう人に溺れちゃってるし、ソラヤ姫も結構譲れない立場らしいし……あとはタイミングとか運とかもあるだろうからなぁ」
 それに西暦何年頃のことだったか忘れてしまったが、この王朝はいずれ滅ぶのだ。あの王子殿下の代でそうなるとは限らないが、滅ばないという保証もない。これならもう少し世界史の知識をきちんと頭に入れておくべきだったと思うが、それも後の祭りである。
 こんな心配をするということは、レオナルド自身、随分あの幼い少年に絆されてしまっているということなのだろう。
 レオナルドには戻りたい場所(時代)があって、でもどうすれば戻れるのか分からなくて。
 そんな中、慕ってくれるあの少年に心を寄せずにいられるはずもない。
(そう言えば……)
 ぼんやりと剣術の練習風景を眺めていたレオナルドは、少年の相手をする男に僅かな違和感を覚えた。毎日行われている剣術の練習だが、教師役の男の様子が昨日までと少し違う。
 一体どこが違うのかとよくよく観察してみれば、男が腰に佩いている剣が練習用の物の他にもう一振り。
(なんでだ。殿下は重さに慣れるためってことで本物を使ってるけど、教師役は万が一のことがあっちゃいけないからって模造刀を使っていたはず。だったら別のをもう一振り用意して持ち歩く必要はない)
 じりじりと頭の後ろの方がしびれてくる。いつの間にかレオナルドはガラスのはまっていない窓枠に手を掛け、身を乗り出すようにして二人の練習風景を注視していた。教師役の男は右手で見事に模造刀を扱っている。王子殿下の打ち込みを全て華麗に往(い)なし、使っていない左の手を腰に――
「ッ!」
 何かを考えるよりも早く、レオナルドは窓から外に飛び出していた。

* * *

「申し訳ありません、スティーブン王子殿下」
 剣術の練習中、ふいに聞こえてきた目の前の相手からの謝罪。その真意を問う前に、教師役の男の左手が自身の腰に伸びる。そして引き抜かれたのは、銀の輝きを放つ片刃の剣。練習用の刃を潰しているものとは違い、切っ先が鋭くきらめいていた。
「ッ、貴様」
「あの方≠アそこの国の王太后に相応しい」
 短く告げた男は模造刀を放り出して真剣を構える。狙うはスティーブンの首。異常に気付いた周囲の者達が慌てて駆け寄ろうとするも間に合わない。
「御覚悟を!」

「殿下ッ!!」

 その叫びはこれまでスティーブンの世話をしてきた侍女や護ってくれていた後宮専任の女性衛兵らのものではなかった。男とスティーブンの間に割って入ったのは、つい先日新しくアイシャ正妃のものとなった宝石≠フ姿。
 青い宝石はスティーブンを抱き締めるように男から庇い、直後、決して大柄ではない身体がびくりと震える。レオナルドの肩越しにスティーブンが見たものは、突然の乱入者に動揺しつつも刃を振り下ろした男の姿と、その剣の切っ先が通り過ぎた場所から赤い血が舞っている光景。
「れ、お……?」
 侍女が叫び、教師役の男を捕らえようと衛兵達が必死の形相で走り寄ってくる。
「ねぇ、レオ。レオナルド」
 だがスティーブンを包み込む熱が呼び声に応えてくれることはなく。
 それどころか、
「だ、誰か。レオを助け――……あれ」
 ふわり、と溶けるように失われる温度と感触。
 まるで最初からそこには誰もいなかったかのように、スティーブンの目の前からレオナルド・ウォッチの姿は掻き消えてしまった。
 衛兵らが教師役の男を取り押さえる光景をぼんやりと赤い眼に映しながら少年は呟く。

「レオ? ねぇレオ、どこにいったの」


(以下略)