藤本雪男は孤児だった。父は知らない。母も雪男を産み落としてすぐに死んでしまった。そして母と知り合いだった神父に引き取られ、雪男はここ南十字男子修道院で暮らしている。
 修道院には片手で足りるほどの修道士達も一緒に住んでおり、皆、幼い雪男に良くしてくれた。雪男もその優しさに答えるかのごとく、自分ができる精一杯のことをしては偉い偉いと誉められていた。ただ自分ではどうにもならないことが一つ。それは雪男の体の弱さである。
 雪男は未熟児で生まれてしまったため、現在七歳なのだがあまり体が強くない。季節の変わり目には必ず体調を崩し、養父となった神父・藤本獅郎や修道士達を心配させてしまうのだ。
 そんな自分のことを早々に理解していた雪男は、それゆえに無理をして他の子供達のように走り回っても後々養父達に迷惑をかけるならばと、室内で遊ぶようになっていった。年の割に聡明だったこともあり、本を読むなどして暇を感じることがなかったのもそれを助長させた理由の一つだろう。
 行動範囲は小さな修道院――と言っても一般家庭の一戸建てとは比べるべくもないが――の敷地内。正門のすぐ傍で薄紅色の花びらを散らす桜の木を見上げる雪男は、今もまた門の外へ一歩でも踏み出す様子など微塵も見せない。
 ここに養父がいれば雪男の手を引いて近くの公園へ行ったかもしれないが、生憎と獅郎は少し前から仕事で外出中である。ただしその仕事とは神父としてのお勤めではない。獅郎はこの教会の神父を任される傍ら、本業は祓魔師という特殊な職業の人間なのだ。
 この世の人や物に憑依して現れる別世界の存在、悪魔。雪男はまだ魔障を受けたことがないので悪魔を目視したこともないが、養父と修道士達が人に害をなす悪魔を祓う職業にあることは既に知らされている。だが、だからと言って養父達と同じ祓魔師になろうとは思っていなかった。雪男の将来の夢は今のところ「医者」だったので。
「……」
 大きく張った枝からひらひらはらはらと落ちる花びらは息を呑むほど美しい。思わず将来の夢を医者から植物学者に変えてもいいと思うくらいには幼い雪男の心を捕らえた。
 だがよく見ると枝の一本が手折られており、ギザギザの断面を晒している。桜の枝を切ると木が弱ってしまうとしてあまり推奨されないのだが、それと同時に雪男の頭に「花泥棒に罪はない」という言葉も浮かんでいた。これだけ美しければ、家に持って帰りたいと、別の誰かに見せてあげたいと思ってしまう人もいておかしくないだろう。
 やがて雪男はおもむろに両手を伸ばす。そして優しく包み込むように小さな両の手のひらを閉じれば、花びらはまるで導かれたかのようにその中へと収まった。
 雪男は己の手の中に一枚の薄紅を見て頬を緩ませる。どこにでもある桜の花びらだが、綺麗な物はありふれていてもやはり綺麗なのだ。
「本に挟んでおいたら押し花になるのかな」
 独りごち、雪男は自室へと足を向ける。流石に枝を手折ることまでしないが、この花びらを自室に持ち込むのは、なんだか宝物を手に入れたような気分だった。
 だが建物内に入った雪男ははてと小首を傾げた。
 幼いながらも雪男に与えられた部屋とは反対方向の廊下に白っぽくて小さな物が落ちている。何かと思えば、それは雪男の手の中にあるのと同じ桜の花びらだ。
 風に吹かれてここまで飛んできてしまったのだろうか。
 雪男は自室ではなく僅かばかり暗いそちらの廊下へと進んで花びらを拾い上げる。小さな手の中に花びらが二枚。どちらも傷一つなく美しいままだ。
 見ているだけで嬉しくなり、雪男はこれも一緒に本に挟んでみようと思う。だがふと手のひらから視線を上げると、今立っている場所より更に奥でまた一枚花びらが落ちているのに気付いた。
 二枚目を手に入れた後に三枚目をどうしようかと迷うことなどありはしなかった。
 雪男は更に奥へと進んでそれを手に入れる。するとまた奥にもう一枚。更に一枚。まるでヘンゼルとグレーテルのように桜の花びらを追いかけて奥へと進む。
「……あれ」
 夢中で花びらを集めていたが、ある場所で薄紅のそれはぱたりと消えて無くなっていた。周囲を見渡せば、そこは己がほとんど足を踏み入れない場所だと判る。
 確かこちらは修道士が増えた場合や宿を求めて訪れた人を宿泊させる部屋があったはず。ただしこちらを使うような誰かがこの修道院を訪れた記憶など雪男には一つもない。現にすぐ傍の扉からは全く人の気配がしなかった。
 だがこんな所にまで外にある桜の花びらが風で飛ばされるはずもなく。だとすれば誰かが桜の枝を手折ってここまで持って来るぐらいしか、この状況は成立し得ない。
 雪男は意を決して扉を開けた。ゆっくり慎重に木製のそれを開くと、定期的に油が注されているらしい蝶番は音もなく動いて雪男を中へと招き入れる。
「やっぱりだれもいない」
 呟きは二人部屋らしき空間に落ちて霧散した。
 窓にカーテンがかかっており若干薄暗いが、それでも掃除は行き届いているようで埃っぽさなどは微塵もない。
 入って左手側の壁には雪男の身長を遙かに超える宗教画が飾られていた。雪男はその絵画のすぐ下にまた一枚桜の花びらを見つけて目を丸くする。
 どうやら桜の花を持った誰かがこの部屋を訪れたらしい。だが部屋の中央や窓際ではなく、この絵の前に花びらが落ちているのは何故だろう?
 なんとなく足音を忍ばせながら雪男は絵画に近付く。しゃがみ込んで花びらを摘み上げると、やはりと言うか、それはこれまで拾ったのと全く同じものだった。
 どういうことだろうと思いながら雪男は立ち上がる。しかしその瞬間、幼い体は立ちくらみを起こした。雪男は思わず何かに捕まるため手を伸ばす。すると小さな手は絵の額縁に触れて―――

 ガコン。

「え、……わっ」
 壁に掛けられているはずの絵が動いて雪男をその奥へと誘い込む。足をもつれさせた雪男は踏ん張ることもできずに絵の後ろにあった空間へと放り出された。
 べち、と擬音語にするならそんな感じで雪男は床に体を打ちつける。鈍い痛みが全身を襲い、眼鏡の奥の双眸にじわじわと熱い水が溜まり始めた。だがその水が許容量を超える前に、雪男は自分が放り出された隠し部屋の様相とそこにいた先客≠フ姿を視界に入れて目を丸くする。
 そこは柔らかな光で満ちた小さな部屋だった。窓はなく、光源は天井にあるフックに引っ掛ける形のランプのみ。
 外の景色を見ることもできず部屋自体もあまり広くない割に息苦しさを感じないのは、置かれている家具が一人用の椅子一脚と小さなテーブルだけだからだろう。
 テーブルには半ば雪男が予想していたとおり、シンプルな花瓶に生けられた桜の枝が薄紅の花を沢山咲かせている。
 そしてまるで花を捧げられたかのように椅子には人がおり、その人は深く腰掛けた状態で両手を肘置きに軽く乗せ、目を閉じていた。
 艶やかな黒髪はランプの光を弾いて青みががって見える。長さは耳の上部が僅かに隠れる程度で、男――そう。座っていたのは中学から高校くらいの少年だった――としては普通だろう。肌は白い。太陽の光に当たったことがないのだと言われれば信じてしまえるほど白かった。
「にんぎょう?」
 どこか人間離れした様子に雪男はぽつりとそう呟く。
 だがよく観察すれば、胸は呼吸に合わせて上下しているのが判った。もっと近付いたなら呼気も感じ取れるだろう。
 椅子に腰掛けた少年は薄い瞼を閉じたまま静かな眠りについている。雪男はそんな彼にそっと近寄り、テーブルの傍らに立つ。
 いくら相手が眠っているとは言え、見ず知らずの少年の目の前にいきなり立つほど雪男は人見知りをしない性質ではなかった。
「この桜はだれかがあなたのために折ったのかな」
 答えが返ってくるはずもないと解っていながら疑問を口にし、雪男はテーブルの上の桜に手を伸ばす。
 だが小さく柔い指が枝に触れる前に、

「その通りだから、桜はそのままで」

「っ!」
 声がした。それもすぐ近くで。
 ぎょっとして雪男が視線を向けた先では椅子に座った少年がうっすらと両目を開いていた。
 薄い瞼の向こう側から現れたのはロイヤルブルーの双眸。宝石のようなそれに雪男はしばし呼吸さえ忘れる。
「それはアイツが俺のために持ってきてくれたやつなんだ。だからいくら雪男でもあげられねえよ」
 ごめんな、とその少年は続ける。
 だが桜の枝を手折った人物がどうこうよりも、雪男はある一つの単語に反応した。今、この人物は雪男の名前を呼ばなかっただろうか。
「あ、の……ぼくの、なまえ」
 雪男はこの少年を知らないと言うのに、少年は雪男のことを知っている。
 そもそも少年はどうしてここにいるのだろう。こんな隠し部屋としか言いようのない場所に。加えてここには誰か――おそらく修道院の誰か――が通っているらしい。桜の枝を少年にプレゼントした誰かが。
 なぜ? どうして? この少年は一体誰で、何の目的でこんなところにいるのだろう。
 一瞬にして湧き出る疑問に雪男自身、それらを音にすることができない。多すぎる疑問は幼い子供の喉の奥で大きな塊になり留まってしまう。
 そんな雪男の様子に気付いたのか、少年は眠そうな顔のまま穏やかに笑って告げる。
「そっか。雪男はまだ俺のこと知らなかったんだよな。はじめまして、俺は燐」
「り、ん?」
「そう。奥村燐だ。お前は藤本雪男。ここで神父やってる藤本獅郎の養い子でおっけー?」
「え、あ。はい」
 少年の名前は奥村燐と言うらしい。しかも獅郎のことさえ知っているようだ。
 それもそうか、と雪男は思う。この修道院の主は藤本獅郎で、燐はこの修道院にいるのだから。でも、どうして―――。
「りん、さんは……どうしてこんな所に?」
 どうしてこんな隠し部屋で微睡んでいたのだろう。養父はこの隠し部屋の存在を知っているのか。燐がここにいることを、その理由を知っているのだろうか。
 雪男がそう尋ねると、燐は元々あまり開いていない青い双眸を更に細めた。
「ここが俺の部屋だからな。獅郎にもらったんだ。ここにいて良いって」
「神父さんに?」
 それならこんな隠し部屋ではなく、皆と同じように普通の部屋を与えて一緒に暮らせば良いではないか。それとも燐にはそれができない事情があるとでも言うのか。
「りんさんのことを知ってるのは神父さんだけなんですか?」
「獅郎と、あとここの修道士達は一応。ただ、お前を除けば、ここに来るのは獅郎一人だけだぜ。この花も……」
 言って、燐は手折られた桜の枝に手を伸ばす。
 白い指先が優しく花びらに触れる様は、燐がこの花と花を持って来た人物に向ける喜びと愛情をありありと感じさせた。
「獅郎が持って来てくれたんだ。俺は外に出ないから、少しでも季節を感じられるようにって」
「外に、出ない? この部屋から?」
 問えば、燐はこくりと頭を縦に動かす。そんなバカなと雪男は思った。
 この部屋には椅子とテーブルしかない。ベッドも無いのに燐は一体どこで眠るつもりなのか。そして風呂は? トイレは? 修道院の水周りは全て共有であるし、この部屋の住人のためだけにそういったものが作られた形跡はない。何せこの部屋の唯一の出入り口すら絵画に偽装された扉一枚だけなのだから。
 だが燐はそれが事実であるとでも言うように微笑んでいる。
「だって俺は―――」

「燐は人じゃねえからな」

「獅郎」
「神父さん……?」
 燐の代わりに答えたのは、音もなくこの部屋に入ってきた藤本獅郎だった。
 新たな人物の登場に燐は嬉しそうな声を出し、雪男は驚きとうしろめたさを持って養父を迎える。居心地が悪いと感じるのは、養父に黙って隠されていたこの部屋を見つけてしまったからだ。
「燐には力≠ェある。その力でこの教会を守護してくれてんだ」
「しゅご?」
「結界を張ってくれてるってことさ。雪男は見えねえから知らないだろうが、この修道院の敷地内には魍魎(コールタール)すらいねえんだぜ。全て燐の結界が弾いてくれてる。……まあ、その所為で燐はいっつもこんな感じなんだけどな」
 苦笑し、養父は雪男の前を横切って燐の正面に立つ。腰を屈めて何をするのかと思えば、燐の眠たげな瞼の上に唇を落とした。そして頬にも。
 燐はそれを嫌がるどころか当然のように受け入れ、いつの間にやら白い腕がすっと伸ばされて養父の背に回っている。カソックを纏った養父の黒い背に回された傷やシミ一つ無い白い手は、なんだか見てはいけないもののような気がした。
「っ、どうしてそこまでするんですか」
 二人のやり取りに幼い雪男は訳も分からず息を呑みながら、声の震えを押さえて尋ねる。
 何のためにどこにでもいる悪魔(コールタール)すら弾く緻密な結界をこんな修道院に設けているのか。
「守りたいものがあるからな」
 答えたのは燐だった。
 獅郎の背から手を退け、強力な結界を張るために力を使って眠そうな顔になっている(らしい)燐は視線をこちらに向けて口の端を持ち上げる。
「修道院(ここ)には俺の守りたいものがある。だから獅郎に頼んでここに置いてもらってるんだ」
「オイオイ、置いてもらってる≠ネんて寂しいこと言うなよ。俺はお前がここにいてくれて嬉しく思ってんだぜ」
 燐の言葉に獅郎は苦笑しながらそう告げる。その顔は本当に嬉しそうで、ただの社交辞令ではないことぐらい雪男にも容易く理解できた。
「本当はちゃんとオモテ≠ナ一緒に暮らせりゃいいんだがなぁ」
「しょうがねーよ。俺はこんなだし。……いくら結界を張ってるからって何年も姿の変わらない奴なんか気持ち悪いだろ?」
(え?)
 するりと耳に入り込んできた台詞に雪男は目を丸くする。今、彼は物凄く重大なことを言わなかっただろうか。何年も姿が変わらないとは一体―――。
 確かに燐の容姿は精巧に作られた等身大の人形と言われれば信じてしまいそうなほど浮き世離れしている。それでも彼は瞬きも呼吸も会話もする生きている存在≠セ。
「……さっき神父さんも言ってましたけど……本当にりんさんは人間じゃないんですか」
 疑問は蚊の鳴くような声となって外に出た。騒がしい空間だったならば誰にも聞き咎められないそれも、雪男を含めて三人しかいない室内ではそうもいかない。案の定、互いを捉えていたはずの燐の青い双眸と養父の赤い双眸が揃って雪男に向けられる。
「人間なら……俺はもう獅郎よりずっと老けたジーサンだろうな」
「え、そんなに?」
「おう」
 くすくすと笑いながら燐は頷く。
「それにまあ、ただの人間にあれ≠ヘ抑えられないだろうし」
 あれ、とは結界に関わる話だろうか。雪男はそう予想しながら次いで養父を見る。すると養父も燐の話を肯定するように首を縦に振った。
(りんさんは、人間じゃない)
 二人の反応から雪男の頭の中で結論が出る。
 燐は人間ではない。ずっと変わらぬ姿でこの修道院を守ってくれている。神を信仰する者達が集まるこの場所を。
 そんな存在を雪男は本や教会のステンドグラス、それに修道士達から聞いた話の中で知っていた。
「りんさんはてんしさま≠ネんですね!」



□■□



「天使様かぁ」
 雪男を自室へ帰した後、燐はぽつりとそう呟いた。眠たげな声には苦笑が混じっており、それを聞いた獅郎もまた苦く笑う。
「さながらこの修道院の守護天使ってところだな。一応あいつも教会育ちだから唯一神―――主≠セとは言わなかったが、それが無けりゃ神様だって言ってたかもしんねーぜ」
「えー、俺が神様?」
 嬉しそうに、申し訳なさそうに、照れるように、悲しむように。燐は複雑な表情を浮かべる。
 事実、雪男からの好意的な視線は嬉しかった。けれど自分が何者なのか≠考えた時、燐はうしろめたさに襲われるのだ。
 何故ならば―――

「俺、悪魔なんだけど」

 そう言った燐の背後からしゅるりと黒くて細いものが現れる。持ち主の意志に従って動くそれはまさしく悪魔の尻尾。だが神の僕であり魔を祓う祓魔師である獅郎は目の前の光景を当然のように受け入れていた。
「けどお前は俺達を、そしてアイツ≠守ってくれてる。いるかどうかも判らねえ天使なんかよりずっと有り難くて愛おしい存在だよ」  丸眼鏡の奥の双眸を細めて目尻に皺を寄せながら獅郎は微笑む。
「たとえただの悪魔どころか虚無界の神の血を引いているとしても」
 虚無界の神、青焔魔。
 それは祓魔師である獅郎が最も敵視しなくてはいけない存在である。しかしその息子を前にして最強の祓魔師・聖騎士の称号を戴く獅郎は敵意を微塵も抱いていない。あるのは慈しみや愛おしさといった感情のみ。
「お前は奥村燐。大事な俺達の守護者だよ」
「……ありがと、獅郎」
 はにかむように燐は笑った。
「むしろ礼を言うのは俺らの方だ。お前にはかなり無理をさせてるからな。本当だったらこの部屋から出ていろんな所に行きたいだろ? 雪男とだってもっと別の関わり方をしたかったはずだ。でもお前にはここの結界と……何よりあれ≠封じてもらってる所為で負担がいっきに掛かってる」
「ん。まぁ俺がいっつも眠いのは確かにあれ≠封じてるからだし、外に出られないのはここの結界を維持させるためだけど。それは俺が望んでしてることだから」
「燐……」
「だからそんな顔してくれるなよ、獅郎。あんたには笑っていて欲しいんだ」
 眠気の所為でまともに椅子から立ち上がることもできない燐は微笑みながら両手を伸ばす。その行動に合わせて目の前に跪いた獅郎の頬を白い手で包み込み、先程自分がしてもらったように、今度は燐の方から獅郎の瞼と頬に唇を落とした。
 青い双眸と赤い双眸を合わせて燐は笑う。
「だから、さ。笑ってくれ、獅郎。この修道院は俺が必ず守る。そしてあれ≠ヘ―――あいつに宿った青焔魔の炎は俺が封じ続けるから」

「雪男は絶対に覚醒させない」