森の奥へ行ってはいけない。あそこには恐ろしい悪魔が住んでいるんだ。

 そう教えられたのは三日前。森の近くに別荘を構える友人が神妙な顔をしてヨハンに告げた。
 ヨハンはその友人と同じく伯爵の地位をいただくファウスト家の次男であり、家を継ぐ必要がないおかげで放蕩息子だの道楽息子だのと称されるぐらい家には寄りつかない。その分、ふらふらと旅に出たり今回のように友人の家や別荘に泊まったりと、悠々自適な生活を送っていた。
 こちらの別荘を訪ねたのは今回が初めてだが、黒に近い緑に染まった森はその奥に宝物か物語の眠り姫を隠しているような雰囲気があって、最早悪癖レベルに達したヨハンの好奇心をこれでもかと突いてくる。しかしそんな好奇心とは裏腹に、森の奥にあるのは宝でも姫でもなく悪魔であるらしい。
 ―――悪魔。物語の中では頻繁に登場する種族であるけれども、ヨハンは悪魔という存在が本当にこの世にあることを知っている。
 何せファウスト家はその悪魔を祓うための組織・正十字騎士團に多くの寄付をしている名家なのだから。しかも寄付だけではなく、過去にはファウスト家から祓魔師を幾人か輩出したという記録もある。
 商業関連に強いファウスト家であり実はその中でもかなりの才能を有すヨハンも、一応商売のことを抜いて悪魔祓いの知識は持ち合わせていた。魔障も幼い頃に自ら進んで受けている。
 ただしヨハンに悪魔祓いの知識があっても、友人までそうとは限らない。彼もまた正十字騎士團に多額の寄付を行っている家であったが、本人は魔障を受けておらず、正しい知識もない。彼にとっては騎士團への寄付も教会への寄付も同じように神への信仰を示すための手段なのだろう。
「まぁだからと言って、プロでもない私が近付いて良いものでもないのですが……」
 それでも好奇心は抑えられず、ヨハンはおそらくここがギリギリという所にまで足を踏み入れていた。
 森は大きく、もっと奥まで広がっているだろう。しかしこれ以上進むと本格的に陽の光が届かなくなってくる。
 暗闇は悪魔が好む要素の一つだ。空気中を漂う小さな悪魔―――魍魎の数が増し始めたのに気付いてヨハンはそろそろ潮時かと思った。
「仕方ない。名残惜しいですが、陽が暮れる前に帰るとしましょう」
 従者も何もつけずにやって来たためその呟きを聞く者はいない。だが時間的にもそろそろ引き返さなければ心配した友人が人を寄越すかもしれなかった。
 そうして踵を返そうとしたヨハンだったが、
「……?」
 視界の端を何かが掠めたような気がして足を止める。
 目を凝らせば、木々の向こう側に人間サイズの何かが動いているのが確認できた。
 その人影らしきものは目的地が決まっているのか、さくさくと森の奥へ進んでいる。ヨハンの視線はそれを追う。そして彼の足が人影を追いかけ始めるまで数秒とかからなかった。
 悪魔が住んでいるという森の奥へ向かう人影。これは面白そうだと疼きだした好奇心を抑えられずに、ヨハンは足下をよく確認することもなくどんどん歩みを進めた。
 その結果。
「…………は、?」
 ガクリ、と身体が傾ぐ。
 次の瞬間、足を踏み外したヨハンは下草に隠れて見えにくくなっていた崖下へと真っ逆様に落ちていった。



* * *



 頭が重い。全身が痛い。喉が渇いて声が出ない。
 瞼を開けることすらできずにヨハンは小さく呻いた。
「目が覚めたのか?」
「……、」
 傍に誰かいるらしい。知らない声だ。
 だがとにかく今はひたすら喉が渇いていた。ヨハンは気力を振り絞って再度口を開く。
「……み、ず」
「水、だな。わかった。ちょっと待ってろ」
 そうして声の主らしき気配が遠ざかる。しばらくすると気配は再び近付いてきて、どうやらベッドに寝かされているらしいヨハンの上体を起こそうと背中に手を入れた。しかし、
「ッ」
 激しい痛みがヨハンを苛む。
 相手もそれに気付き、ヨハンを起こして水を飲ませることができないと分かって動きを止めた。
「病人用の水を飲ませる道具なんてねーぞ、ここ」
 困ったように呟くが、ヨハンの耳にはあまり入ってこない。喉の渇きと痛みで頭の中はいっぱいだった。早く、早く水が欲しい。どうして全身が痛いのか、それすら考える余裕もない程に。
 すると水を求めて薄く開いていた唇に何かが触れた。冷たさの後にじんわりと温もりが伝わってくる。感触は柔らかく、心地よい。そう感じた直後、口の中に求めていた水分が進入してきたのを察し、ヨハンは仰向けの状態のままごくりとそれを飲み込んだ。
 たった一口が全身に染み渡るようだ。若干生ぬるいそれが食道を通り胃へと落ちていくのを感じながらヨハンはようやく一息つく。
「……どうだ?」
 唇に触れていた温もりが離れ、代わりに声が降ってきた。
「ちゃんと飲めそうか?」
 こちらがまともに答えられないのは解っているため、そう問いかけながらも気配はしっかりとヨハンの様子を窺っている。声の主は「飲めそうだな」と判断を下し、問を重ねた。
「もっと要るか?」
「……、」
 声を出す代わりにヨハンは小さく頭を縦に動かす。声の主は「わかった」と答え、すぐにまたあの感触が唇から伝わってきた。
 口の中に流れ込む水を飲み込みながら、ヨハンはようよう気付く。
 ああ、自分は口移しで水を飲んでいたのか、と。


 幾度か水を飲んだ後、ヨハンの意識は再び闇に落ちた。そうして二度目の目覚めを迎え、ヨハンはとっくに夜が明けていることを知った。
 窓から入り込む陽光の角度は高めであるから昼間なのだと予想はついたが、その陽の光は随分弱い。今日は曇りなのだろうか。
 そう考えながら薄く開いた両目で部屋を見渡す。未だ全身は痛みで満足に動かなかったが、軽く確認したところ手当はされているようだった。
(……そう言えば、崖から落ちたんでしたっけ)
 足を滑らせた時の気味の悪い浮遊感を思い出しながらヨハンは身を震わせる。悪魔に会わずともあのまま全身を強く打って死んでしまう可能性だってあったのだ。一命を取り留め、手当まで施されている今は非常に幸運と言える。
 目が覚めたのだから、まずは自分を助けてくれた何者かに礼を言った方がいいだろう。そして友人の別荘に帰った後はヨハンの荷物の中にある金貨を数枚渡して、それを謝礼としよう。この地域ならば破格の値段になるはずであり、感謝の意を示すには十分だと思えた。帰宅に関しては、今は痛みで身体が上手く動かないが、ヨハンを助けてくれた何者かの手を借りればどうにかなるかもしれない。すぐには無理でも数日経てば、きっと。
(おや、私の命の恩人が戻ってきましたか)
 ドアノブがカチャリと音を立てたのを聞いて、ヨハンの意識が外へと向けられる。
 一度目の覚醒の際に聞いた声から相手はおそらく男だろうと予想はついたが、水の飲ませ方がまぁ何と言うかアレだったので、ムサいおっさんよりも見目の良い方がまだ救いはあるな、と基本的にノーマルな性癖を持つヨハンは思った。
 果たして、開かれた扉の向こうにいたのは―――
「あ、もう起きてたのか」
(……ほほう)
 ヨハンは胸中で感嘆の吐息を漏らす。
 取り替えるための包帯と水差しを持って現れたのは十代半ばと思われる少年だった。
 東洋の血が混じっているのか、髪は艶のある黒。肌は白く、整った顔立ちを淡く光らせているようにも見える。そして何より印象的だったのが両の眼に収まった青い瞳だ。瞳孔に赤い光を潜ませたそれは、ヨハンがこれまで見てきたどんな宝石よりも美しい。もしこれと同じ輝きを宿す鉱石が見つかったならば、世の富豪達は我先にとその青い宝石を求めるだろう。たとえどれほど金を積んでも。この瞳はそういう類のものだ。
 ヨハンが瞳の美しさに呆けていると、少年は小首を傾げて「どうかしたか?」と問うてきた。
「熱はたぶん下がったと思うんだけど……。まだちょっとあったかな。けど悪い。ここ、熱を計れるような物もなくて」
 包帯もこんなだし、と言って広げたそれは、何かの布を引き裂いて作られた物のようだった。よく見れば、それは少年が今着ているシャツと同じ生地ではないだろうか。
「ちゃんと洗ってるやつだぜ! あー、でもやっぱアンタみたいな金持ちそうな奴にとっちゃ気持ち悪かったかな。……ごめん」
「何いきなり謝ってるんですか。こちらこそ、わざわざ服を駄目にしてまで手当していただいたのですから、感謝しなくては。ありがとうございます」
「え、あっ、いいって! そんな、礼、とか」
 感謝されることに全く慣れていない様子で少年はわたわたと首を横に振る。きっと両手に何も持っていなければ、そちらも大きく左右に振られていたことだろう。
 可愛らしいものだと思い、自然と顔が綻んだ。
「ああ、そうだ。私をこちらまで運んでくださった方は? その方にもお礼を申し上げなくては」
「へ?」
「おや?」
 少年の反応に何かおかしなことでも言ったかとヨハンは首を傾げる。
 この少年に手当してもらったのは事実だろうが、まさか転落した崖下から屋内まで運び込んだのもこの少年だとは思えない。他に人がいて、それも細身の部類だが大人の体格であるヨハンを運べるような力の持ち主だと想像していたのだが……。
 少年の反応は、まるで他人などいないかのようではないか。
「まさか、ここには君一人しか……?」
「あ、うん。俺は一人暮らしだけど」
「じゃあ私をここまで運んでくださったのも」
「俺だよ」
 当然のことのように少年は答える。
 だがその本人の体格を改めて眺めても、まさかこんな細身の身体に大の大人一人を移動させられる程の力があるとは到底思えなかった。
 自分より小さい人間を運ぶのでもかなりの重労働となるはずなのに、この少年はどうやって長身のヨハンを自分の家まで運び込んだのだろうか。
「一体どうやって」
「どう、って。そりゃあ背負って? 俺、力持ちだから」
「……とてもそうは見えませんけどねぇ」
 もしそれが本当ならばこの少年は人間ではないのかもしれない。
 そもそも力を出すというのはその使い方も重要だが、やはり基本は筋肉の量だ。にも拘わらず、少年の身体は――手足が棒切れのようだとまではいかないが――とても細い。もしこれで見た目を遙かに凌ぐ力を出せると言うならば、それはもう人体を構成する要素や力の流れを支配する法則が人とは異なっているからだろう。
「ですがまさか、悪魔というわけでもないでしょうが」
 森の奥には悪魔が住んでいるという話を聞いていたヨハンは冗談混じりでぼそりとそう呟いた。
 少年も「なんだよそれ」と呆れるか、もしくは「命の恩人を悪魔呼ばわりするな!」と怒ると思っていたのだが、しかし実際の反応はヨハンの予想と全く異なっていた。
 彼はヨハンの呟きを耳にしてビクリと身を震わせたのだ。
 まるで知られたくないことを言い当てられたかのように。
「え?」
「あ……」
 ヨハンが「まさか」と目を見開き、少年は一歩後ずさって視線を下に向ける。
「君は本当に悪魔なんですか」
「……」
 沈黙が落ちたが、否定の言葉も仕草もない。
「この森に住む、悪魔?」
「……うん」
 少年がこくりと頷くと同時に、その背後からしゅるりと黒い物が現れた。今は元気なく垂れ下がるそれは確かに悪魔の象徴たる尻尾。
「あ、でも心配すんな! ここ一帯は悪魔の力を封じる仕掛けがいっぱいあって、今の俺は普通よりちょっと力持ちってだけなんだ。それに俺には人を喰う習慣とかも無いし、ちゃんとアンタを外に送り届けるから!」
 自分の方が圧倒的強者であるにも拘わらず、少年は怯えたようにそうまくし立てる。
 言葉通り悪魔の力が封じられていても少年が常人より強い力を持っているのは既に証明済みであるし、またその一方でヨハンは怪我人であるのに、だ。
「何か人間に弱みでも握られているんですか?」
「え、そんなこと……ない、けど」
「けど?」
 恐れるでも拒絶するでもなく、ふと疑問に思ったことを口に出したヨハンだったが、少年にとってその反応は予想外だったらしい。青い目を丸くして呆けたように答える。
「アンタは俺が恐くねえの?」
「愚問ですね」
 ヨハンは鼻で笑った。
「ここまで献身的に世話をされてどう怯えろと言うんです? 君が私を害するつもりなら最初からそうできたと言うのに。むしろ今は私より君の方が人間に怯えているように見えますよ」
「に、人間に怯えたりなんかしねえよ」
 ぼそりと少年は呟く。
 青い視線はヨハンを外れ、斜め下の床へと向けられる。それを勿体無いとヨハンが思ったのも束の間、少年の放った台詞に今度はこちらが目を丸くすることとなった。
「だって俺、人間好きだし」
「悪魔なのに?」
「本当はハーフなんだよ。しかも弟はちゃんと人間だった」
「だった、と言うことは……」
「悪魔は長生きだからな」
「そうですか」
 天寿を全うしたかどうかは知らないが、少年――と思っていたが見た目以上の年齢のようだ――の弟は既に亡くなっているらしい。ともあれ、そんな弟の存在もあり、この悪魔は人間を嫌いになれないのだろう。
「君の力を封じる仕掛けがこの森に施されていても?」
 窓から入る光が暗かったのは外が曇っているからではなく、ここが日当たりの悪い森の奥だから。そんな所に力を封じられて(おそらく)閉じ込められているというのに、それでも少年はヨハンの問いに対して首を縦に振った。
「だって人は……弟も育ててくれた親父も、優しかったから」
 思い出に縋るように少年はふわりと微笑む。
 その笑みは本当に人間が好きだと語っていたが、台詞を聞いてヨハンの脳裏に浮かんだのは、『弟』と『父親』以外は少年に優しくなかったのではないかという推測だった。
 おそらくその二人以外は悪魔である少年を恐れてた。いや、今でも恐れている。そしてその恐れを少しでも抑えるために少年を森の奥へと追いやり、力を封じた。未だ祓っていないのは、『祓わない』でのはなく、おそらく少年の本来の力が強くてこんな片田舎の人間では『祓えない』からだろう。その代わりに森の奥へ封じている。
「君はこの森から出られない?」
「あ、うん。出ようとしたらすっげぇダルくなる。無理すれば出られるかもだけど……他の人間にも怖がられちまうしな。だから、ごめん。アンタ自身が動けるようにならねえと家には帰れねえんだ。途中までなら俺が背負って連れて行けるんだけどさ」
「お気遣いなく。自分で言うのもなんですが、私、放蕩息子なんで。しばらく帰れなくても支障はありませんよ」
 別荘を提供してくれた友人は多少心配してくれるかもしれないが。
 元々他人を気遣う方ではないヨハンは自分に対する他人の心配の仕方もそんなものだろうと高を括った。
 加えてヨハンが怯えを見せず、しかも動けるようになるまでここへの滞在を承知しただけで、
「そ、そっか」
 と少年が嬉しそうに目を輝かせるものだから、ヨハンはじわりと胸が暖かくなるのを感じて余計に帰る気が失せてしまった。