１

「しーずーしずしず静雄ぉ、朝だよー」
　ガチャリとドアが開く音。
　次いで自室に侵入してきた他人の気配に平和島静雄は布団の中でうめき声を上げた。
「はいはい、うなってないで布団から出ようね。残念ながら今日は平日、学校行かなきゃ」
　そう言ってべりっと掛け布団を引き剥がした人物を静雄はまだ眠い頭で見据えながら、ようやくベッドから起きあがる。
「おはよう、静雄」
「……はよ。兄貴」
　静雄に兄と呼ばれにこりと笑みを浮かべたのは、髪を金色に染めた静雄とは正反対の黒髪に幼い顔つき――殆どの人間が兄と弟を間違える程の――をした少年、否、青年。短く切られた前髪が更にその幼顔を強調しているのだが、似合っているので静雄を含む家族も兄の友人達も何も言わない。
　そんな青年の名を帝人と言う。
　穏やかな笑みを浮かべて弟を眺める平和島帝人。最近巷で自動喧嘩人形と称され始めている静雄とは似ても似つかないこの兄は、正真正銘、静雄とその下の弟と同じ母親から生まれた兄弟だった。















２

「兄貴、学校は？」
「今日は昼から。でももうちょっとしたらバイトに行くよ。あと幽は日直だって言ってもう出ちゃった」
　顔を洗ってようやく意識がハッキリした静雄は来神高校の制服の上着を脱いだ状態で朝食を食べながら、正面で新聞に目を通す兄へと語りかける。
　大学生の兄は今年になってから随分と受講する講義の数が減ったらしく、本格的に（？）アルバイトに勤しんでいるらしい。らしい、と言うのは兄が何をやっているのか良く知らないからだ。本人曰く『趣味と実益を兼ねた仕事』だと言う事なのだが。
「あ、そうだ静雄。今日の放課後、来神まで迎えに行ってあげようか？」
「え、ほんとか！？」
　バイクで大学まで通う兄の提案に嬉しく思う静雄。だが厄介な――それはもう厄介すぎていつも死んでしまえと思う程の――同級生がいる事を思い出して整った顔をしかめる。
「静雄？」
「……やっぱいい。うちの学校、ヘンな奴がいるから」
「新羅君なら顔見知りじゃないか」
「いや新羅も変人だけど」
　小学校と高校が同じ友人をあっさりと変人扱いしつつ、静雄は首を横に振って兄の言葉を否定した。
「もっと厄介な奴。だから駄目だ」
　大事な兄が目を付けられては大変なので。
「まあ静雄がそう言うならやめておくけど」
　兄の答えに静雄はほっとしつつも、あの『蟲』の所為で兄の送迎が駄目になった事に苛立ちを覚える。
（もうホント死ねばいいのに。あのノミ蟲め）
　今日は普段より三割り増しで叩きのめしてやると誓いながら、静雄はひとまず正面の兄の微笑で心を落ち着ける事にした。















３

　バイトの子から少し遅れると連絡が入ったのは、ちょうど帝人が本日最後の講義を聴き終えた時だった。
　メールを見たついでに携帯電話の待ち受け画面で時間を確認すると、弟の高校も授業が終わり、部活動に所属する生徒達が本格的に動き始めた頃だと気付く。ただし連絡してきた相手は帝人の上の弟と同い年であるが、確か部活には所属していなかったため、それ関係で遅れるという事は有り得ない。
「……ま、なんで遅れるのかは大体見当がつくけどね」
　独り言ち、帝人は携帯電話を仕舞う。
　その背後から弾むような声がかけられた。
「おー、みっかどー。今日は仕事か？」
「うん。本当は午前中だけのつもりだったんだけどね、弟にフラれちゃって夕方も暇だからさあ。……あ、それでバイトの子から遅れるって連絡が来たんだけど、正臣今日うちの事務所に寄る？」
「行く行く！」
　嬉しそうに答えたのは帝人の幼馴染にして大学も講義が重なる事の多い青年、紀田正臣。
　明るい茶色に染めた髪とその間から覗く沢山のピアスは真面目な帝人と正反対の様相を呈していたが、自他共に認める大親友である。
　ただ正臣は帝人の言う『バイトの子』が少々苦手というか気に食わないというか、とにかくあまり顔を見たくないらしい。しかし親友と共有する時間はなるべく多く取りたいと思っているようで、帝人の提案に破顔して共に駅へと足を向けた。















４

　―――田中コンサルティング
　15分程電車に揺られて着いた駅のすぐ近くにあるオフィスビル。そのワンフロアを丸々使った場所が帝人の仕事先である。
　エレベータを降りた帝人はおもむろに鞄からカードキーを取り出し、扉に取り付けられた装置に暗証番号を打ち込んでからそのカードを横のスリットに通した。
　ピーと小さな音がして装置の小さなライトが赤から緑に変わる。
　開錠を確認した帝人はそのまま正臣を後ろに伴って仕事場へと足を踏み入れた。そして帝人が己の鞄を置いたのはフロアの一番奥に置かれた机の上―――このコンサルティング会社の経営者が座るための席だ。
「太郎さーん、俺コーヒーね」
「もう。場所知ってるんだから自分で淹れてよね」
　フロアの一角にある応接セットのソファに腰掛けた親友を眺め、帝人は苦笑する。
「僕はここの経営者なのに」
　太郎――フルネームは田中太郎――は正真正銘、このコンサルティング会社……を装った情報屋の主だ。つまりこの場で太郎を名乗る帝人は家族に説明したアルバイター（雇われる側）ではなく、雇う側なのである。とは言っても、現在は学業優先なのでバイトが一人だけのお気楽経営であるのだが。
（って言ったら、正臣は『こんな場所に事務所構えてるくせに何がお気楽だ！』って騒ぐんだろうけど）
　くすりと笑い、帝人は簡易キッチンへと向かう。
「俺、砂糖なしでー」
「知ってるよ」
　親友と軽口を交わしながら。















５

「すみませんっ遅れました！！」
　慌てて入室してきた学ラン姿の少年を帝人は笑顔でもって出迎えた。（ちなみに正臣は帰宅済み）
「そんなに慌てなくてもいいのに。あ、怪我は大丈夫？」
　帝人が出迎えた少年は眉目秀麗という言葉を具現化したかのような整った顔立ちをしており、（肉親の贔屓目を差し引いても）美形の静雄とはまた違う美しさを備えていた。だからと言って女らしい訳でもなく、ああこれは将来（むしろ今でも）異性にモテるんだろうなぁと思わせるものだ。
　そんな美少年の顔には、しかし残念な事に大きなガーゼが貼られている。おそらく服で隠れた部分にも傷を負っているに違いない。
　……と帝人が予想するのは少年の性格と通っている高校とそこでの所業を知っているからだ。
「また同級生君と喧嘩したね？　遅れてくるって聞いたから多分そうなんだろうなとは思ったけど、今日はまた一段と激しかったみたいだねえ」
「おかげで太郎さんと会う時間が減って散々ですよ」
　むすっとした顔で答える少年。
　その様子に苦笑して帝人は「まあまあ」と話をしながら用意していたマグカップを相手に手渡す。
「あ、ありがとうございます。……太郎さんってコーヒー淹れるの上手いですよね」
「お世辞言っても何も出ないよ」
「お世辞じゃないですって」
　カップから口を離し、少年は自分の容姿を良く理解した顔でにこりと笑みを浮かべた。
「今度は太郎さんの手料理が食べたいなあ」
「ふふ。それはそのうち、ね。臨也君」
　―――少なくとも静雄が知ったら絶対に許してくれないだろうけど。
　とは口にせず、帝人は実弟が（兄の前では言わないがそれ以外では）『ノミ蟲』と称する少年を眺め、相手の黒髪をくしゃりと撫でた。
　そうやって自分に向けられた微笑を真正面から受け止めた臨也は、
「……俺、太郎さんの弟か旦那になりたい」
「何言ってんのこの子」
「なーりーたーいー」
「ほんと何言ってんのこの子」


















６

「ただいまー」
「お帰り、遅かったな」
「だって静雄にフラれて寂しかったから夕方からもバイトしたんだもん」
「なっ……！？　誰が兄貴をフルんだよ！　誰が！！」
「帝人兄さんお帰り。あと静雄兄さん、顔赤くなってるけどなんで？」
「か、かすか！？」
「幽ただいまー」
　帝人が帰宅すると扉の所で静雄が出迎え、続いて奥から下の弟である幽も顔を出す。
「幽は今日の撮影、早めに終わったんだね」
「うん。なんかスムーズに進んで」
　あたふたと赤くなった顔に慌てる表情豊かな静雄とは真逆の淡々とした様子で下の弟である幽が小さく頷いた。
　この三人兄弟の中で一番の美形である幽は中学生であるにも拘わらずちょくちょく雑誌のモデルなどをしており、その関係で帰宅が遅くなる事も多い。だが今日は予定をいつもより早く消化できたらしい。
　もう少し遅ければ迎えにいこうと思っていた帝人は上の弟だけでなく下の弟の送迎もできなかった事を少し残念に思いつつ、けれどもまだまだ子供の彼が早めに帰宅できてよかったと表情を緩ませた。
「もうご飯できてるから、帝人兄さんは早く手洗ってきて。それと静雄兄さんはさっさと落ち着こうね」
「おっ俺は落ち着いてる！」
「はいはい」
　そんな二人の弟のやりとりを横目で見ながら帝人は上着を脱いで洗面所へと向かう。背後でバキッと何やら不穏な音が聞こえたが、いつもの事なので気にとめる事なく。















７

「兄貴？」
　夜中に目が覚めて水を飲むために自室を出た静雄は、長兄の部屋から明かりが漏れているのに気付いてそっと中を窺った。
「……寝ちまったのか」
　呟く静雄の視線の先、同世代と比べて線が細く小柄な兄はベッドに入らず机に顔を伏せて寝入っている。
　これでは風邪を引いてしまう。
　静雄はそっと薄い肩を揺らすが、少しどころかかなり自分の力の使い方に不安のある静雄はあまり強く揺らす事ができない。それにすやすやと寝入っている兄を起こすのもなんだか忍びない。
「………………」
　しばらく逡巡した後、静雄は帝人の肩から手を離し、代わりに兄の身体をそっと抱き上げた。
　相変わらず驚くほど軽い――と言うと兄は静雄が力持ちなだけだと反論する――身体に多少の不安を、腕や胸など触れ合った部分から伝わる温もりに若干の気恥ずかしさを感じながら、静雄は相手が目覚めないよう慎重にその身体をベッドへと移す。
　掛け布団をかけてやってから瞼が未だ閉じられている事にほっと一息吐き、静雄はぼんやりと兄の寝顔を見つめた。
　安らかな眠りについている幼顔に僅かな笑みを浮かべ、静雄はさらけ出された白い額に軽く唇を落とす。昔この兄が幼い自分にしてくれたように。ただしその時とは少し違うかもしれない意味を伴って。
「おやすみ、兄貴」
　小さくそう告げて静雄は兄の部屋を出る。
　最後にパチリとスイッチの音がして、消灯。


END