■盲目(藍染惣右介)



都内の某高級マンション。その一室にオレンジ色の猫が住んでいる。
猫の主人はエレベータの壁に背を預け、自身の帰宅を待っているであろう猫を脳裏に浮かべて口元に小さな笑みを刻んだ。
コートのポケットには僅かな膨らみ。
それを布の上からさらりと撫でて、猫の主人はエレベータから降りる。
最上階のフロア全体を所有するその人物は、そうして自宅のドアノブを握った。




「ただいま。」
「・・・おかえり。」

気だるげな声が半テンポ遅れて返ってくる。
部屋の奥から聞こえたそれはいつもどおりの猫の声で、主人である男は変わらぬその様子に僅かな安堵を覚えていた。
そんな事はないと頭で思っていても、いつか猫がどこか遠くへ。己の手の届かない所へ行ってしまうのではないかという不安が付き纏っているからだ。
だからこそ、変わらぬ様子に安堵する。

しかし今日は少し違った。男にとっては良い意味で。
男はコートのポケットから小さな包みを取り出すと奥の部屋のソファで寝そべっているであろう猫の名前を呼んだ。

「一護、おいで。」
「なに?」

返事は、タンッという軽い足音と共に。
呼ばれなければ近寄ってこない猫は、そうして呼ばれて男の正面に立った。
蜂蜜を濃くしたような瞳が二つ、男の茶色い双眸を捕らえる。
男は機嫌良く微笑を浮かべ、猫のオレンジ色の髪に指を滑り込ませた。

「・・・藍染?」

猫は目を眇め、髪を梳くように頭を撫でる手の持ち主を見上げる。

「今日はね、君にプレゼントがあるんだ。」
「言っとくけど、首輪はお断りだぜ。」
「それは承知しているとも。」

即行で返って来る憮然とした言葉に藍染は苦笑を浮かべ、その頭を撫でている手とは逆の方に持っていた包みを猫の正面に差し出した。

「首輪が嫌いだと言うけれど、せめてこれ位なら構わないだろう?」
「・・・・・・ピアス、か。」

包みを開け、小箱に入っていた金属と石から出来たそれを摘み上げた猫が確認のためだけの言葉を吐く。
決して喜びはしないけれど、それでも嫌そうな表情を見せない猫に、藍染は再び笑みを浮かべた。
そして、銀色に輝く金属と無色透明の石で形成されたピアスを示して短く説明を加える。

「君のために作らせた、この世でたった一つだけのものだ。」
「それはそれは・・・大層な所有印だな。此処から出すつもりも無ェくせに。」
「所詮自己満足だからね。・・・さぁ着けてくれるかい?」
「これなら、な。」

猫は親指と人差し指で摘んでいたピアスを藍染の手に落とすと、右を向いて左耳を男に向けた。
主人であるはずの藍染は従者のように恭しく、猫のピアスホールに金属の針を刺し込んでいく。

「・・・もう構わないよ。」
「ん。・・・・・・藍染、腹減った。」
「わかったよ。私の愛しい、橙色の猫。今日は何が食べたい?」
「何でもいい。」

そっけない声。
けれどもキラリと存在を主張する左耳のピアスに藍染は満足感を覚え、そうして本日の夕食を作るために立ち上がった。















■嫉妬(松本乱菊)



「いっちごー!たっだいまー!」
「乱菊さんお帰り。」
「はいはーい!ただいまただいま〜!」

乱菊と呼ばれた女性は床の上に座っていた猫の頭を抱きかかえて鼻先をそのオレンジ色の髪に潜らせる。
猫が「くすぐったい。」と小さな非難をあげるものの、そんな可愛い非難は非難の内に入りませんとばかりに抱きしめ続けた。

「乱菊さん・・・また飲んで来ただろ。何か嫌な事でもあった?」

呼気に混じる酒精の香り。
乱菊の豊満な胸を押し付けられながら猫はウェーブのかかった金色の髪に指を絡める。
それを少し引っ張って、視線がかち合った主人にポツリと声を投げかけた。
途端、乱菊は大人しくなり、空色の瞳を瞼の奥に隠して小さく頷く。

「仕事のこと?」
「違うわよ。」
「・・・恋人と喧嘩した?」
「今の私はフリーだって知ってるでしょ。」
「乱菊さんくらいの女性なら相手なんかすぐに見つかるだろ。」
「お世辞をありがとう。」
「本当のことだって。」

抱きしめたまま、抱きしめられたまま問答は続き、そしてとうとう猫が溜息をついた。

「・・・で、どうしたんだ?」

猫の柔らかな声で乱菊は目を開け、しかし猫の左耳に輝く小さな金属と石の塊に表情を歪める。
自分が与えたものではない、たった一つの人工物。
服もクッションもテレビもゲームも猫を取り囲む全ては乱菊が与えたものだと言うのに、そのピアスだけが違った。
自分では無い誰かを連想させるそれを乱菊は憎々しく見つめる。

「乱菊さん?」
「一護がね、こうして私が出かけている間にも何処かに行っちゃうんじゃないかって思ったら、どんどん嫌な方向に考えが走っちゃって。」
「俺が何処かに?今の俺はちゃんと乱菊さんのものだけど?」
「わかってるわよ・・・。でも、」

自分の知らない猫の「もの」は以前にこの猫を所有していた誰かがいたということ。
そしてその以前の猫の主人はすでに猫に捨てられてしまった人物だと言うこと。
(この猫を自分の意思で捨てようとする者がいるなど、そんな事は考えられない。だからきっと猫を捨てたのではなく猫に捨てられたのだ。)
その「前の主人」に自分がなってしまう可能性を考えると、乱菊はいてもたってもいられなかった。



「大丈夫。今、俺は此処にいる。」

猫は静かに呟いて乱菊の腰に腕を回す。
まるで不安から護るように少し強めの力で抱き、「だろ?」と口元に孤を描いた。

「・・・そうね。貴方はここにいる。」

乱菊もそれに返すように猫の頭を抱く力を強め、鼻先をオレンジ色の髪に押し付ける。
猫も今度ばかりは非難の声を上げず、ただされるがままに身を預けていた。















■刹那(市丸ギン)



「前の飼い主さん、どないな人やった?」
「金髪美人のナイスバディ。」
「思い当たるところがあるってのが、何や怖いなぁ。」
「笑いながら言っても、ちっとも怖がってるように見えねぇぜ。」

そう言ってから猫は銀髪の主人に背を向けて真っ赤に塗られた己の爪を見つめる。
主人はそんな猫を後ろから抱き締めて肩口に顎を乗せながら問うた。

「その爪も前の飼い主さんにやってもろたん?」
「ん。爪の手入れはあの人が全部やってくれてたから。」

猫は手をひらひらと振りながら答える。
その手を主人はぱしりと捕らえ、開いているのか閉じているのか判らない双眸で赤いマニキュアの塗られた指を一本一本舐めるように眺めた。
塗られたばかりとは言えないが未だ美しさを保っているそれは、猫が飼い主を乗り換えてからそれほど経っていないことを示している。
そんな爪の様子と先日から無断欠勤を始めた幼馴染兼同僚の女性を思い出しながら、銀糸の男はふっと呼気を吐き出して皮肉っぽく笑った。

「市丸?」
「ん?なんやの一護ちゃん。」
「・・・いや、なんか笑ったから。俺、可笑しなこと言ったか?」
「なーんもあらへんよ。・・・ま、自分の行き先が少し見えたってとこかいな。」
「ワケわかんねぇって。」

市丸の回答に猫は短い感想を告げてから頭を退かすよう、捕まえられていなかった方の手で銀糸に触れる。
それに素直に従いながら市丸はスルリと猫から身を離した。
左耳にピアス、爪に赤を塗った猫が向かった先は玄関。
それからくるりと主人を振り返って手招きをする。

「市丸、外行こ。家猫はもう厭きた。」

気紛れな猫はそう言って薄く笑い、市丸の苦笑を誘った。




「セーターにコートに手袋にマフラー、それと靴。買うモンはこれでエエか?」
「チョコレート。」
「ああ、一護ちゃんの一番好きなもの忘れとったわ。許したって。」

素っ気ない猫の隣を、市丸はニコニコと機嫌良さそうに歩く。
今年の冬用にと買い揃えた防寒具の他に、本日の猫は好物のチョコレートを御所望らしい。
一緒に外を歩けるだけでも楽しくて仕方なかったと言うのに、こんなに可愛らしい我儘を言われては折角取り繕っていた表情が崩れてしまいそうで、市丸は慌てて両頬に手をやった。

「…どうかしたのか?」
「一護ちゃんと居れる僕って幸せ者やなぁ、と。」
「ッ、なんだよそれ。」

猫はそれきり、そっぽを向いてしまったが、市丸は寒さで元々赤くなっていた猫の耳が更に色味を増したのに気付いてニンマリと口角を上げる。
例えいつかは誰か他の人のものになろうとも、今はまだ、このオレンジ色の猫は自分のものなのだと。
そう胸中で呟いて数歩先を歩く猫に追い付くため、市丸はタンッとアスファルトを蹴った。

「一護ちゃ〜ん、置いて行かんといてぇ。」
「コラ。腕を掴むな、腕を。」

手を握るのは少々躊躇われて、代わりと言わんばかりに猫の左腕を掴む。
すぐさま非難の声が飛んできたが、その声自体に嫌がっている様子は無い。
そのことに安堵を覚えながら、市丸は猫の腕を引いて近くの菓子屋へと足を向けた。

「ついでにケーキも買って行こなー。タルトが有名らしいで。」
「チョコの一つや二つ、別にスーパーで買っても良いのに・・・。まぁタルトも見てみたいけど。」
「ほなエエな。帰ったらタルトでお茶や。」
「おう。」

目的の菓子屋はもうすぐそこ。
普段と比べてほんの少し楽しげな猫の様子を横目で見ながら、市丸は幸せそうに笑った。




菓子屋から男が一人出てくる。
くすんだ金髪のその男は中でケーキを買ったらしく、持ち帰り用の箱を手に提げていた。
「まったく、夜一サンったら・・・」と呆れ声で呟いているところからすると、どうやら“夜一サン”の我侭で買いに行かされたらしい。
嫌そうに白い紙製の箱へと視線をやる男を、市丸は何とはなしにチラリと窺う。
と、その時。
男が市丸の視線に気づいたのか否かは定かではないが、ふと市丸達・・・否、猫に顔を向けた。

(見るな・・・ッ!)
「・・・市丸?」

急に立ち止まった飼い主を振り返り、猫が小首を傾げる。
しかし当の市丸はそんな猫の様子に構うことも出来ないほどに正体不明の嫌な予感と怒りに全身を駆け巡られ、薄らと開けた双眸から男を睨み付けていた。
金髪の男はそんな市丸に視線を流して目を細める。
薄い唇が嘲笑の形で殊更ゆっくりと弧を描き、しかし次の瞬間、男は何事も無かったかのように市丸達の傍を通り過ぎて行った。

「おい、市丸。通行人にガンつけんなよ。」
「・・・・・・ガンつけ、ね・・・。」
「市丸?どうかし・・・」
「一護ちゃん。今はまだ、キミはボクのモンやんな。」
「・・・・・・そうだよ。今はまだ、アンタのものだ。」

幾ばくかの熱を失った声で静かに猫が返す。
その言葉に市丸はいつの間にか強張っていた体の緊張を解き、普段と同じような笑みを浮かべた。

「行こか。」
「ん。」















■崩壊(浦原喜助)



「まさか自分の意思カンケー無しにゴシュジンサマが変わるなんてなぁ・・・。」
―――市丸には悪いことしちまった。

そう続けた猫に新しい“御主人様”から叱責が飛んだ。

「前の飼い主達の名前は口にするなと、最初に言ったはずでしょう?それからピアスも。」
「・・・わかったよ。今捨てる。」

猫はそう言うと己の左耳についていたピアスを躊躇いもなく引き千切り、そのままゴミ箱へと放り投げた。
力任せにした所為で猫の耳からは真っ赤な血が滴る。
それは、今の主から与えられた白のコットンシャツをポタリポタリと汚していった。

猫にとってこんな境遇は初めてだった。
今までは自分の意思で己の主人を決めてきたと言うのに、今回は前の主人から無理矢理引き離される形となってしまったのだ。
現在の飼い主は以前、猫と前の飼い主である市丸が共に町を歩いていたときに見かけたのだという。
そんなことを猫は覚えてなどいなかったのだが、もしかしたら前に市丸が睨み付けていた人物がそうだったのかも知れない、というくらいの認識だけは持っていた。

「浦原、これで良いか?」
「・・・十分です。」

新しい飼い主、浦原は猫の左耳に視線をやって満足そうに微笑んだ。
その笑みは本当に優しいもので、己の今の状態が気に入らない猫もこの笑みだけは別だと言える。
優しくて、嬉しそうで、そして安堵したような表情が。

「一護サン。アタシから逃げないでくださいね。」
「そんなことハッキリ言ったのってアンタくらいだぜ。」
「だって本心ですから。」
「そうかよ。」

ぶっきら棒に答えて猫は主から顔を背ける。
すると飼い主は猫を背後から抱き締めるように腕を回し、それから血が滴る左耳へと唇を寄せた。

「ッ、」
「キミはアタシのものだ。他人が残した痕なんて許さない。」
「だからピアスも爪も禁止ってか。」
「そうっスよ。・・・キミが望むなら何だって差し上げます。だから他人の存在を漂わせたりしないで。」
「なぜ、」
「怖いから。」

静かに呟き、主は腕の力を強める。
あまりの強さに猫は痛みを覚えて顔を顰めるが何も言わず、怖いものなど無さそうな主の「怖いから。」という奇妙な言葉の続きを待った。

「あの時、一目見てキミが欲しいと思った。絶対手に入れてやる、とも。だから卑怯な手を使って、こうしてキミを手元に置けるようになりました。・・・けれどキミは簡単に飼い主の元を離れてしまう。例えアタシが手を出さなくとも、そう遠くないうちに『彼』を捨てるつもりだったんでしょう?」
「否定はしない。」

猫の言葉に主は微かに苦笑を漏らす。

「だから怖かった。折角キミを手に入れたのに、キミはそのうちいなくなってしまう。ピアスやマニキュア・・・キミに残る他人といた証はそのことを嫌でもアタシに思い知らせるんです。」
「・・・・・・最初から俺にはアンタ一人しかいなかったって思いてぇの?」
「思いたいです。」

主人の声は弱々しく、切実だった。
強引な手で猫を前の主人から奪ったくせに、そんなことを微塵も感じさせないような、むしろ真逆の声。
猫はそんな主人の手に己の手を重ねて薄らと口元に笑みを刷く。

「意味無ェのに。」
「一護サン!」
「浦原。アンタって奴は全くもって愚かだな。」

そこまで言って猫は緩んだ腕の中から抜け出し、己より背の高い主の顔を見上げた。

「俺の御主人様は常に誰かだけど誰でもない。常に複数で常にゼロ。たまにはアンタ等が望む嘘もついてやるし素振りもするけど、基本的には自分主義。これはアンタがどう思おうと変わらない事実。」

愕然と目を見開く浦原に向かって猫は誰もが見惚れるくらい綺麗に笑う。



「だって俺は猫なんだから。」















(07.01.18up)














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