「これは僕らの馴れ初めの話」と最強術師は言った
1 この国はたった一人の気まぐれによって生かされている。 ◇ 「君が宿儺の器? ……へぇ、本当に混じってるね」 天井に穿たれた大穴から暗い地下室に光が降り注ぐ。 瓦礫を避けるため腕で顔と頭を覆っていた虎杖は、いつの間にか至近距離でこちらを覗き込んでいた白髪の男にぎょっと目を瞠(みは)った。 なお、覗き込むと言っても相手の両目は虎杖から見ることができない。男の顔の上半分は黒い布で覆われてしまっている。 しかしそれでも整っていると分かる容貌を笑みの形にし、彼は「僕を殺すために飼われているって話だけど、現状じゃまだまだ力不足って感じだ」と虎杖を嘲笑った。 「ア……アンタ、誰」 「それ、わざと? それとも自分の立場も理解しないままこんな暗くて狭い部屋に大人しく閉じ込められてたの? 君、変態か何か?」 「だっ、誰が変態か!」 「じゃあ分かってるよね?」 ニッコリ、と薄い唇が弧を描く。虎杖は無意識のうちに唾を飲み込んだ。 分かっている。予想はついていた。 白い髪に目隠しをしたスタイル。そして何より圧倒的強者であると理解せざるを得ない呪力量。加えて先程の台詞。「もしかして違うかもしれない」などという甘えを完全に捨てさせる男の様子に虎杖は身体の脇で拳を握り締め、自身の最期すら悟った。 「……呪詛師、五条悟」 「大正解〜! そして君は虎杖悠仁?」 「ああ」 素直に頷けば、白髪の男――五条の機嫌はますます良くなり、今にも鼻歌さえ歌い始めそうな雰囲気で「虎杖悠仁……悠仁でいっか!」と勝手に呼び方を決めてしまう。 「器だってことだけじゃなく、俺の名前まで知ってるんだ?」 「まぁね。ほら、僕最強だから」 ふふん、と楽しげにそう告げて、五条は虎杖から顔を離す。それでも手を伸ばせば届く距離だ。 五条ならば虎杖など簡単に縊(くび)り殺せてしまうだろう。そして彼にはそうするだけの理由がある。 「俺を殺すの?」 ――両面宿儺の器として、五条悟を殺すための武器として、自分が充分な力をつけてしまう前に。 虎杖悠仁は元々呪いなどとは一切関わりを持たない一般人だった。しかし通っていた高校で起きたある事件がきっかけで特級呪物『両面宿儺』である指の屍蝋を飲み込み、呪力を得ると共に宿儺の器となった。 本来であれば呪物が受肉した時点で、呪術界の規定に則り即刻死刑になるはず。しかしその場に居合わせた呪術師の嘆願と、何より呪術界上層部の思惑によって虎杖はこうして今も生かされている。 その思惑こそ、目の前に現れた男に関係することだ。 特級呪詛師、五条悟。 十年以上前は呪術師として、今の虎杖も属する東京都立呪術高専に通っていたが、卒業前に大量殺人を犯して出奔。そのまま呪詛師に認定された。実力は本人が『最強』と恥じらいも無く言えてしまうほど。つまり自他共に認める実力者であり、彼に敵う呪術師は現代に存在していない。 それどころか五条悟に関してはこういう言葉が呪術界でまかり通っていた。 この国はたった一人の気まぐれによって生かされている――、と。 五条にとって一国を滅ぼすなどあまりにも容易い行為。呪術師が束になっても、現代兵器を集めたとしても、彼を打ち倒すことはできないだろう。この国は五条の気まぐれによって今も存続しているに過ぎないのだ。 しかしそんな現状が虎杖の出現によって僅かに揺らいだ。少なくとも呪術界の上層部はそう考えたらしい。 大昔に天災と同じレベルで捉えられていた呪術師、両面宿儺。その『最凶』が死後に呪物となったものを虎杖が飲み込み、受肉させた。つまりは、『最凶』の再臨。 宿儺の指をさらに取り込ませて強化した虎杖悠仁――両面宿儺を五条にぶつけることで、少なくとも彼を弱体化、あわよくば葬れるのではないかと上層部は画策したのである。 無論、五条本人に知られてはならないため、虎杖のことは厳重に秘密にされていたのだが……。どうやら情報が漏れ、そして五条は自身を脅かすかもしれない芽を早々に摘み取りに来たらしかった。 ――と、虎杖は思考を巡らせ、そして己の最期に覚悟を決めたのだが。 「は? 殺さないよ?」 まるで予想もしなかった言葉を言われたかのように五条がポカンとして首を傾げた。 「つーかなんで殺さなきゃなんないわけ?」 「え……だって俺はアンタを殺すためにここにいるわけだし」 「でも君じゃ僕は殺せない。宿儺の指が全て揃ったとしても勝つのは僕だ」 現代最強の呪詛師は単なる事実確認であるかのようにそう告げる。 「じゃあなんでこんな所に来たんだよ」 「なんでって? そりゃあ勿論――」 戸惑う虎杖に対し、五条はバッと両手を広げ、舞台に立つ俳優のように高らかに言い放った。 「面白そうだったから!」 「……は?」 「上層部のクソジジイどもがどんな駒を用意してるんだろーって気になってね! ちょっとばかし見に来たわけさ。いやぁ予想以上に良い子そうでびっくりしたよ。うん、実に面白い! こんな暗い部屋に閉じ込められてる所為か若干目が死にかかってるけど、まだまだ元気そうだし。あ、君じゃ僕を殺せないどころか傷一つつけらんないよ。でも一応悠仁も彼我の実力差はちゃんと分かってるみたいだね。そこは花丸あげちゃおう。でも己の死期を悟っちゃう辺りは減点かな」 「花丸とか減点とか……なんだよ、それ。教師かよ」 「教師やってんのは僕じゃなくて僕の親友……まぁこの話はいいや」 広げていた手を下ろし、何故か代わりに虎杖の両手を取る五条。「それで、だ」と彼は虎杖に視線を合わせ――と言っても両目は目隠しの下だが――、「そろそろ高専内の呪術師が騒ぎを聞きつけてやって来るだろうけど」と言葉を続けた。 「邪魔が入る前に悠仁を誘拐したいと思います」 「なんで!?」 反射的に身を引いたが、五条に掴まれた手はびくともしない。 それどころか五条は大して力を込めているような様子でもないのにズルズルと虎杖を引き寄せ、ひょいと小脇に抱えてしまう。 「理由はただの思いつき。僕がそうしたいと思ったからさ!」 「だからそれを何でだって訊いてんの!」 もしかして邪魔者のいないところで改めてなぶり殺しにされるのか。 青ざめる虎杖の顔をのぞき込み、「もう、悠仁ってばぁ」と五条が笑う。 「さっきも言ったでしょ。面白そうだから、だよ!」 2 大きな窓がまず視界に飛び込んでくるような、とても明るい部屋だった。 自分が押し込められていた地下室とは正反対の、広くて、綺麗で、あとちょっと良い匂いがする部屋。出て行こうと思えばいつでもドアや窓を蹴破って出て行けそうな作りもあの地下室とは大違いだ。 「こ、こは……」 小脇に抱えられていた体勢から無事フローリングの床に足をつけた虎杖は、おそるおそる背後の五条を振り返った。 目隠し男は相変わらず唇に弧を描いたまま「僕が持ってるセーフハウスの一つだよ」と、あっさり答える。 「セーフハウスなんてフィクションの中だけの話だと思ってた。まさか自分が実際に目にするとか……マジ予想外」 「意外と身近なもんさ。そこそこ稼いでいれば呪術師だろうが呪詛師だろうが持ってると思うけどね」 五条はそう言うものの、ここは高層マンションの一角。値段も相当なものだろう。到底、そこそこ≠フ稼ぎで用意できるとは思えない。 この人、何をやってどんだけ稼いでんだ……と、虎杖はリビングからピカピカのキッチンへと向かう五条の背を胡乱げに眺めた。 「あ、悠仁はテキトーに座ってて。何飲む?」 「いやなんでくつろぐこと前提に話進んでんの!? 早く高専に帰してよ」 「えー折角誘拐したのに」 冷蔵庫前に立つ五条がへらへらと空気よりも軽い調子で振り返る。 「もっとお話ししよーよ。君のこと、教えて?」 「お、教えても何も名前だって知ってたじゃん……」 「名前しか知らないんだよ。あとは上辺だけの経緯くらい。悠仁がどんな人間で、何を感じて、どんな気持ちと考えであんな部屋に閉じ込められていたのか、僕は何も知らない」 少なくとも自ら望んであの場所にいたわけじゃないだろう? と、五条は暗くて寂しい地下室を指して告げる。 虎杖は何も言えない。事実、その通りだからだ。 誰も好き好んであんな場所にいたわけではない。 呪いの世界と関わるようになってからまだ数ヶ月ではあるものの、高専に連れて来られてからずっと呪術の訓練と任務の時以外は出ることも叶わず、生きる上で必要最低限のものしか与えられていなかった。 気にかけてくれる人はいた。しかし誰も彼も上層部が決めたことを覆すほどの力はなく、悲しそうな、あるいは悔しそうな目で虎杖を見るばかり。 いつか力をつけた虎杖が五条の前に放り出されるまで、暗い地下室での生活は続くのだろう。そしてその時こそ己の最期でもある。虎杖はあの部屋でずっとそう思っていた。 「悠仁はどうしてあんな部屋で大人しく暮らしてたの?」 改めて五条が訊ねる。 リビングに戻ってきた彼の手には見慣れないラベルの瓶が二本とグラスが二つ。「ただのジュース。こっちが炭酸ありで、こっちが炭酸なし」と説明を付け加えてガラステーブルに置く。「ほら、悠仁も座って」 「……」 優しい声に促されるまま虎杖はテーブルの前のソファに腰を下ろした。斜め向かいに五条も座る。 「家族は?」 「……爺ちゃんがいたけど死んだ」 「そりゃあ高専にとってはやりやすいね」 「かもしんねぇ」 「宿儺の指は今何本喰ってる?」 「三本」 「二十分の三かぁ。まだまだだ」 「だから隠されてたんですけどぉ?」 「でも高専が保有している指は五本のはずだよ。元いた高校で一本目を喰った君にあとから二本与えたとしても残りは三本。……うーん。あんまり生活環境が良くなさそうだったことも踏まえて、育てて強くした君を戦わせると言うより、一度に大量の指を喰わせて一時的に宿儺が表に出てきた状態の君を爆弾みたく僕にぶつけるつもりだったのかな?」 「……アンタさ」 「うん?」 虎杖はガラステーブルの上の開栓済みの瓶と透明なグラスをぼんやり見つめたまま呟く。 「性格悪いって言われん?」 「よく言われる」 「やっぱり」はあ、と虎杖は溜息を吐いた。「ンなこと俺だって薄々気づいてたよ。まぁ可能性の一つとしてだけど。……俺に呪力の扱いとか体術とか教えてくれる大人達は少なくとも俺を強くすることに……アンタと戦っても俺が生き延びられる可能性を少しでも上げるために、色々気ィ遣ってくれてた。でも上はそうじゃない。あの人達にとって俺は呪術師どころか人間ですらないんだ。呪霊か、もしくはアンタが言うような爆弾。どっちにしたって最後は死んでオシマイってやつ。どうせ死刑にするならその前に上手く使ってやろうってつもりなんだろうな」 あの地下室で虎杖は死ぬために生かされていた。そして虎杖自身も上の思惑を察していた。 しかし上層部の意向を拒否すれば死だ。逃げれば即座に死刑だ。ゆえに虎杖は僅かな時間を生き延びるために殺される準備をしていた。 大人しく地下室住まいをしていたのも、二本目以降の指を喰ったのも、残された時間を少しでも引き延ばすため。結末が変わらないことなどとうに知っていたのに。 「なんだ、充分わかってんじゃん」性格の悪い男はあえてそう告げて小さく笑う。「悠仁は逃げようとは思わなかった?」 「アンタは俺が逃げられたと思う?」 即座に切り返した。 すると五条は軽く頬を掻いて「ごめん」と一言こぼす。性格の悪い男でも今の発言は流石に質が悪すぎるだと感じたのだろう。 「悠仁が僕くらい強ければ良かったんだけどねぇ。もしくは僕自身か、僕みたいに強いヤツが君の傍にいれば」 「もしも、なんて意味ねーよ。実際アンタは俺達の敵で、俺を庇うような立場じゃないんだから。それにアンタに敵うような呪術師もいない。……でも」 ふと、虎杖は思う。 虎杖悠仁は呪術界から死を望まれる存在だ。けれども最初に指を喰った夜から今の今まで、虎杖は何とか生かされてきた。 それは。その理由は――。 「アンタがいてくれたから、か」 「……え?」 目隠しをした男がきょとんとして虎杖を見やる。布越しのその双眸を虎杖も見つめ返して、何とも皮肉な事実に形だけの笑みを浮かべた。 「アンタのおかげで俺は生かされてたんだな」 何故か五条が息を呑んだ。 別段、虎杖の言葉に感謝の気持ちなど籠もっていない。ただの事実確認だ。それでも『呪詛師』五条悟にとって、彼のおかげで生き延びた人間というのは意外と少ないのかもしれなかった。 「アンタにぶつける爆弾として、だけど。五条悟がいたから俺はあの夜で終わらずに今まで生かされてきたんだ」 そう告げた虎杖は視線を五条からテーブルの上の瓶へと戻し、手に取って中身をグラスに注ぎ入れた。 緑のガラス瓶に入っていたのは無色透明の炭酸飲料。柑橘系の香りがふわりと漂い、虎杖は呆れ交じりに「ははっ」と笑う。 「アンタ、めちゃくちゃイケメンそうだけど、冷蔵庫に入ってるもんまでオシャレなん?」 「……普通にその辺のコンビニで売ってるジュースとかデザートとかも入ってるよ。それを出してきたのはただの……まぁ格好つけ、みたいなもの」 「俺相手に格好つけようとしたんだ?」 「日本じゃよく知られてない外国のものとか出してきたら、なんかそれっぽくない? 五条悟のイメージ」 「分かるけど分からん」 「分かってんじゃん!」 「五条悟も人間なんだなー」 「最初から人間ですけど!?」 声を荒げる五条には答えず、虎杖はグラスに口をつける。舌の上に広がり喉を通って落ちていくのは、爽やかな香りと炭酸の刺激と虎杖の好みからはちょっと外れた甘すぎる味。 パチパチと口内に広がる刺激と共に、五条悟に対する『最強の呪詛師』という肩書きが虎杖の中で少しずつ形を変えていく気配がした。 もっと醜悪でどうしようもないものを想像していたけれど、ひょっとしたら違うのかもしれない。 「ねぇ、俺からも質問していい?」 「誘拐された側なのに図太いね、悠仁って」 「格好つけの誘拐犯に言われても」 「格好つけたっていいじゃん。人間だもの。さとを」 「ごめん、ネタであることは分かるんだけど元ネタが分かんない」 「ジェネレーションギャップ! てかこれは流石に一般教養の範囲じゃない!?」 「俺、詩とかよく分かんないんだよね」 「おっとこいつは知ってるくせに知らないフリをしてるパターンか」 五条は呻くようにそう告げ、次いで「……ふふ」と肩を揺らした。 「悠仁って面白いね。会話がポンポン弾む」 「そう? 実は相性いいんかな、俺ら」 「じゃあ『アンタ』じゃなくて『悟さん』って呼んでみる?」 「五条さん」 「オイオマエ」 「っ、ふは」 虎杖もまた自然と笑い声を漏らしていた。 呪いに関わってからこちら、まともに笑えたのは初めてかもしれない。数ヶ月ぶりのちゃんとした笑い声は次第に大きくなり、「五条さんって面白いし楽しいね」と目尻をこすって虎杖は告げる。 「悠仁もそう思うよね! なのに皆、僕のこと性格悪いって顔をしかめるんだよ。ツンデレかな? 絶対僕のこと優しくて頼もしくて面白いグッドルッキングガイだと思ってるはずなのに」 「いやそれはどうかな……」 「悠仁が裏切り者に!?」 「そもそも仲間じゃないよね?」 「そうだけどー!」 でもそういうことじゃなくてー! と駄々を捏ねる五条に虎杖は改めて「優しくて頼もしくて面白いグッドルッキングガイの五条さんに質問いいですかー!」と声をかける。 「いいともー!」 「ネタが古いよ」 「やめろアラサーの心に傷をつけるな」 「アラサーなんだ……」 「アラサーなのよ。こんなにイケメンでも」 「うわっ、マジでイケメンじゃん!」 ちらりと目隠しを取った五条に虎杖は思わず声を上げる。しかし両目を見せてくれたのは一瞬で、星が瞬く空のような瑠璃の瞳はすぐにまた黒い布の下に隠されてしまった。 「でしょ。ほら、質問どーぞ」 「う、うん」 頷き、虎杖はなんとなく姿勢を正す。 美貌というのは本当に恐ろしい。目にしたのはほんの僅かな時間だというのに、こうして虎杖を戸惑わせる。小さく心臓が跳ねたのは、決して、虎杖を見つめた青い双眸がとても優しそうな光を宿していたためではない。絶対に。 虎杖は改めて呼吸を整え、問いかけた。 「五条さんはなんで呪詛師になったの?」 会話をしていて思ったのは、『この人は呪術師達が語るように本当に醜悪な存在なのだろうか』ということ。 確かに強いのだろう。確かに性格は破綻気味なのだろう。しかしどうしても憎めそうにない。敵対する呪術師達から化け物のように語られる五条は、けれどもこうしている限り、どう足掻いても人間だった。 虎杖の問いかけに五条は大して沈黙を挟まなかった。「そうだねぇ」と口の中で呟き、目隠し越しに虎杖へと微笑みかける。 「自分でそう名乗ったことはないんだけど、原因は非術師を殺したからだろうね。悠仁は知ってる?」 「五条さんが高専に通ってた時に……ってやつ? 本当に非術師を殺したの?」 「殺したよ、たくさん」 虎杖と軽口を叩き合っていた時と同じ調子で五条はそう答えた。 「二年の時だから今の悠仁より一個上だね。ちょっとした護衛任務があってさ」過去を思い出しながら語る五条は空のグラスの縁を長い指でそっと撫でた。「たぶんアイツらも別に悪人ってわけじゃなかった。信じているものがあって、それにそぐわないものが死んだから喜んだだけだった。でもあの時の僕はアイツらがとても醜悪なものに思えてね。別に憎いとか嫌いとか思ってたわけじゃなかったよ。そんな感情は全く浮かんでこなかった。どうでもよかった。でもあれは俺≠ェ知っている基準に照らし合わせればどうしようもなく醜いものだったんだ。殺されても仕方がないものだと思った」 「……だから、殺した?」 「うん。そうした方がいいんだろうなって」 「それで呪詛師に認定されちゃったんだ」 「そーいうこと」 五条悟は感情で人を殺さない。基準は少し曖昧だが、必要であるからその命を消し飛ばす。 しかしその行為は高専の上層部にとっても、その他大勢の人間にとっても、大変都合の悪いものだった。だから五条悟は『呪詛師』なのだ。 ひょっとしたら間違っているかもしれないが、虎杖は目の前の相手をそのように理解した。 (つまり) 虎杖は「いっぱい喋ったから喉渇いちゃった」と言ってグラスにベリー系と思しき澄んだ赤色の液体を注ぐ五条を眺めやり、胸中で独りごちる。 (俺とこうして会話してても、この人はそうした方がいいと思った瞬間に俺を殺すんだな) 今はその必要がないから、虎杖が五条と比べものにならないほど弱いから、見逃されているだけ。 けれどもいつか虎杖が強くなり、『爆弾』として充分に機能するようになったとしたら、五条悟は虎杖悠仁を殺すのだろう。怒るでもなく、憎むでもなく、作業のように。 (それは……少し……) 人間、五条悟。 感情ではなく理性で人を殺す人。遠くはない未来に何の感慨もなく虎杖悠仁を殺す人。 (さびしいなぁ) 五条に対してそんなことを思ってしまう時点で自分はすでに随分とこの男に絆されてしまっているのだろうと、虎杖は密やかに自覚した。 3 殺されるために生かされている子供がいた。 その境遇が、己が呪詛師に堕ちるきっかけとなった事件の中心人物だった少女にほんの少し重なる。だからといって同情はしない。自分達が生きているのは、そういう腐ってどうしようもない世界なのだから。 けれど、本人の姿を一目見て――。 (暗い地下室に閉じ込められて、死んだような目をしているのが、あまりにも似合わない≠ニ思った) ここは地獄だ。それでもこの子供がいるべきなのは明るい陽の光の下だと、その直感を疑いもしなかった。 だからあの部屋から拐かした。自分を殺すために用意されていた未熟な爆弾を五条悟は躊躇いもなく光の下に連れ出したのだ。 無論、子供を奪えば高専の上層部が慌てふためいて、きっと面白いことになるだろうと考えていたのも事実である。しかし理由を問われて「面白そうだから」と答えたあの時、五条はきっと大わらわな老人達を思い浮かべてほくそ笑むと同時に、天井の大穴から差し込む光に照らされた子供の姿に、確かに胸が高鳴っていた。 そして連れ出した子供は告げる。 「アンタのおかげで俺は生かされてたんだな」――と。 繰り返すが、彼はいずれ五条が殺す存在だ。今はその必要さえないものの、子供が役目を果たす時が来れば、五条はこれまでどおり躊躇いもなくその首を手折るだろう。 けれども「貴方によって生かされていた」と告げられた瞬間、五条は確かに彼を――虎杖悠仁を、殺したくないと思ってしまった。 (なんでかなぁ) 高専から拐かした子供の寝顔を見つめて、五条は胸中で独りごちる。 時刻は午前零時。 あれから幾度か「帰して」と言われたが、全て無視して雑談を続行し、この場に留まらせた。そして無理やり食事も風呂も済ませると、ほとんど使われたことのない寝室に放り込んだ。本当に眠ってしまった時は流石に五条もびっくりしたが、ともあれ虎杖は現在すっかり夢の中だ。 宿儺の器が奪われて高専側はてんやわんやの状態だろう。今も人員をかき集めて器の捜索に当たっているに違いない。 しかしこのセーフハウス周辺は実に静かなものだった。家電の小さな駆動音と虎杖の寝息しか聞こえない。 部屋の照明は消して、睡眠の妨げにならないようにしている。ただしカーテンから透ける街の灯りがうすぼんやりと虎杖の寝顔を照らし出していた。 完全に遮光することも可能だが、それは虎杖が拒絶したので行っていない。彼はあまりはっきりと言わなかったものの、拒否した理由はあの地下室を思い出してしまうからだろう。本来であれば、五条の元よりあの地下室の方が虎杖にとっては安全であるはずなのに。 何故か五条のテリトリーで安心したように眠る子供。 何故か子供をこれから先も殺したくないと思う五条。 ああ不思議だ、と五条は胸の裡で繰り返す。 どうして僕らは敵なのだろう。 どうして僕はそんなことを疑問に思うのだろう。 ぐるぐると答えの出ない問いかけが頭の中を巡り、五条は小さく息を吐く。そして「そんなの知るかよ」と呟くと、目隠しを外して虎杖が眠るベッドに潜り込み、子供を起こしてしまわぬようそっと身体を横たえた。 ◇ 男には特別な子供がいた。 とても大切な子供だった。 最強と称される自分にいずれ並ぶであろう人材の一人として男が手元に置いたその子供は、いつしかどう足掻いても手放せない存在へとなっていた。 しかし子供を取り巻く世界は残酷だった。 多くの人間が子供の死を望み、悪意を向け、子供自身もまた己を人間ではなく巨大な機械の歯車に喩え、役目を果たし終えたその先に自らの死を望んだ。 まだたった十五歳の少年だったのに。 そしてそんな子供を守り導くはずだった男は肝心な時に傍にいてやれず、再びまみえた子供は悲しいほどに変質してしまっていたのだった。 変わってしまった後も相変わらずその子供は優しくて、愛おしくて、けれどもすでに進む道を決めてしまっていて。 まだまだ幼い命は男の手をすり抜け、悲しそうに、満足そうに、散っていった。 男はその後も生きていた。子供に比べればずっとずっと長い時間を過ごして、そして自らの命が尽きるその直前に至高とされる両目を手で覆い隠して呟いた。 「もし僕がこんな立場じゃなかったら、悠仁はもっと長く生きられたのかなぁ」 ◇ 「…………」 夢を見た。 内容は覚えていない。 けれど寝起きのぼんやりとした頭で目を開けると、すぐ近くで自分と同じくらい寝ぼけた琥珀色の眼(まなこ)がちょうど瞼の下から現れ、互いの視線が絡まった。 「んぁ……おはよ」 薄いカーテン越しの優しい朝の光が子供の髪にも瞳にも当たってきらきらと輝いている。 五条がいたから生かされた命が、五条が連れ出した光の下で「おはようと」と、馬鹿みたいに暢気に告げる。 たったそれだけで、 「……うん。おはよう」 まるで最初から決まっていたかのように、五条悟は恋に落ちた。 4 禪院恵は必死の思いで虎杖悠仁の捜索に当たっていた。 呪詛師・五条悟の襲撃を受け、高専内は一時大混乱に陥ったが、被害が宿儺の器≠セけだと知ると、半日程度でその雰囲気は変わってしまう。「どうせすでに殺されている。処刑の手間が省けて良かったではないか」と嘲笑う者、「今回の件は五条悟を殺そうと画策していたのが本人にバレていたということだろう。警戒を強めなければ」と恐れる者、それに対して「まだまだ弱い器にそこまで価値を見出しているとは思えない。どうせ適当に嬲って捨て置き、それで仕舞いだろう」と楽観視する者。そんな者達が目立つようになったのだ。 このように、今回の誘拐に対して多くの者は自分達の心配はしても虎杖悠仁という少年の心配など一切していなかった。 つまり上層部は当てにならない。虎杖を探して取り戻せるのは自分を含めたごく一部の人間だけ。 そんな思いで、式神を使って丸一日街中を彷徨っていた禪院だったが、路地裏にいたその背に聞き慣れた声がかけられた。 「恵」 「夏油先生……」 振り返った先にいたのは、黒髪をハーフアップにした黒いウインドブレーカー姿の男――夏油傑だった。 「もうやめなさい。今夜の任務に差し支える」 「ですがッ!!」 まだ攫われた虎杖の手がかり一つ見つけられていない。今こうしている間にも彼は命の危機にさらされているかもしれないのに。 しかし焦る禪院とは対照的に夏油はひどく落ち着いている。 「……なんだ、結局アンタも虎杖のことなんてどうでもいいってか」 ザラついた言葉が禪院の口からこぼれ落ちた。 特級呪術師、夏油傑。東京高専の一年生担当教師、つまり禪院の担任である。 地方での任務で虎杖と出会った禪院が、特級呪物を口にしてしまった彼の処刑を回避しようとした際、大人として、特級術師として、手助けしてくれたのが夏油だった。 ゆえに今回も禪院と同じく虎杖捜索に奔走してくれると思っていたのだが、どうやら見込み違いだったらしい。 禪院が醸し出す刺々しい空気に夏油は眉尻を下げて笑う。幼子の我儘を眺めて、困った子供だと上から目線で呟く大人の顔だ。 「恵、聞き分けなさい」 「俺はアイツに命を救われました。だからアイツのために俺が動くのは当然のことです」 「それで自分に与えられた任務をすっぽかして、救えたはずの命を救わず、ついでに上層部からの心証も悪くする? もしくはコンディション不良のまま任務に赴いて、する必要の無い怪我を……最悪死亡してしまう道を選ぶのかい?」 それでも構わない。見ず知らずの他人の命や自分の評価がどうなっても知るものか。――そう禪院が答える前に夏油は続けた。 「君が気遣っている子は君がそうなることを望むような人間なのか?」 「……その言い方は卑怯ですよ」 「だろうね。私は優しいだけの教師でいるつもりはないから」 夏油は良い教師だった。尊敬できる相手だ。 しかし今の状況で、彼の言葉を受け入れることなど禪院には到底できない。 「このままじゃきっとアイツは帰って来ません。一刻も早く見つけてやらねぇと……」 「それで君が無茶をするのかい?」 「無茶でもしないと虎杖は取り返せないでしょう?」 「恵、君達は私にとって大切な生徒だ」 「だから虎杖を蔑ろにするんですか? 俺達のためにっていう薄っぺらい理由で? アイツはそんな風に軽んじられて良い人間じゃない。報われるべき側の人間だ」 「知ってるよ」 「……?」 夏油の言葉に矛盾を感じて禪院は眉根を寄せる。 どういうことだと表情で問えば、担任は穏やかな表情で、けれどどこか悔しそうに心中を吐露してみせた。 「恵、私だってね、三人目≠フ教え子の安否は嫌と言うほど気になっているんだ」 東京高専の一年生は禪院を入れて二人。 もう一人の釘崎野薔薇という女子生徒は現在、禪院とは別の場所で虎杖の捜索に当たってくれている。彼女と虎杖に直接の面識はないが、禪院の様子から「しょうがないわね。ソイツの特徴は? この私が探してやるんだから感謝しなさいよ、アンタ」と協力を買って出てくれたのだ。 しかし三人目の一年生など存在しない。きっと釘崎も知らないだろう。 困惑を強める禪院に夏油はもったいぶることなく答えを告げる。 「君が今必死になって探している少年に――悠仁に、呪術を教えていたのは私だ。あの子は君達と同じ、私にとって大切な生徒の一人なんだよ」 「……初耳なんですが」 「彼のことは外部に一切漏らしてはいけなかったからね。上層部の悠仁に対する扱いについては知っているだろう? いずれ五条悟にぶつけるために上の爺さん達もある程度の訓練は必要だと考えていた。けれど相手は制御しているとはいえ宿儺の器だ。生半可な術師じゃ教師役なんてできやしない」 だからこそ夏油が選ばれ、そして。 「たった一晩で君がこうなってしまったんだから、当然、何度も顔を合わせる私だって見事に絆されたさ。決まっているだろう? あんなに眩しい人間はこの世界じゃ稀だ。君以外にも虎杖悠仁を贔屓したい人間くらいいるんだよ」 「……」 担任教師がこれまで心中に秘めていたものを知り、禪院は呆気にとられる。裏切られたと思った矢先にこれだ。 そんな禪院の驚きが手に取るように分かるのだろう。夏油は苦笑し、次いで後ろめたさを隠すように視線を逸らした。 「できることならあの地下室から連れ出して君達と肩を並べて学べるようにしてやりたかった。私じゃそれをすることは不可能だったけれどね。あの子の目が日に日に陰っていくのを見ているしかできなかったんだ」 「先生……」 穏やかさの中に紛れ込んでいた悔しげな表情の理由はこれか、と禪院はようやく思い至る。自分と同じかそれ以上にこの教師もまた虎杖の境遇を嘆いていたのだろう。 「同じ『特級』でも段違いだ。私にもアイツみたいな力があればねぇ……」 「夏油先生?」 「何でもないよ」担任の小さな呟きに禪院が何事かと問いかけるが、夏油はかぶりを振って答えをはぐらかす。「全く意味のない戯言(たわごと)だ」と。 「さあ、君はもう帰りなさい。きちんと休んで任務に備えるんだ。悠仁の捜索は私が続けておくから」 「あ、あの。釘崎も虎杖を探すのを手伝ってくれてて……」 「それも知っているよ。野薔薇も帰らせるから、二人ともしっかり休むように」 ここまで言われてしまっては禪院も引き下がる他ない。 「……はい。よろしくお願いします」 うん、と答えて手を振る教師に一礼し、禪院は高専へ戻るため踵を返した。 ◇ 「どこにいるんだい、悠仁」 生徒を見送り、もう一人にも連絡を入れて、一息ついた夏油は路地裏から狭い青空を見上げる。 「悟のことだからきっと無事ではいるんだろうけど」 最強の呪詛師と称される五条悟はかつての夏油の級友であり親友だ。その人間性には道が別たれた後でもある程度の信頼を置いている。 そんな夏油からすれば、おそらく虎杖を攫ったのも面白そうだと思ったのが理由だろうと推測できる。きっと慌てふためく上層部を想像してほくそ笑んだに違いない。彼は昔から上のお爺ちゃん達≠ェ大嫌いだったから。 そうして興味本位で両面宿儺の器を攫った彼は、今頃どうなっているのだろう。 「なぁ、悟」 ここにはいない親友へ夏油はそっと語りかける。 「私と君は生まれも好みも悩みも主義主張も全て異なっていたけれど、そのくせ妙に馬が合っていたね。決して似た者同士ではなかった。ただ欠けた場所が、それを埋めるために必要ものが、たぶん同じだったんだ」 目を閉じ、暗い部屋に囚われた太陽みたいな子を思う。 夏油はこれからその子供を取り戻さなければならない。取り戻して、またあの地下室に放り込まなくてはならない。自分ができるのはそれだけだから。 再び瞼を押し上げて、夏油は路地裏からでは見えないはずの太陽に目を眇めた。 「地下から連れ出した子は君の前で笑ってくれたかい? 眩しいだろう? 美しいだろう? なぁ、悟。私にできなかったことを、君ならやり遂げてみせるのかな」 5 その日、虎杖悠仁の一日は絶叫から始まった。 何やら物凄く寝心地の良い場所で目を覚ますと、目の前には見覚えのある顔。反射的に「おはよう」と告げた気もするが、その相手が自分を攫った呪詛師であること、そして何よりあまりの距離の近さに、次の瞬間、虎杖は「ほぎゃーーー!!」と叫び声を上げていた。 「な、なななな、なん……」 「朝から元気だねぇ、ゆーじ」 苦笑しながら起き上がる同衾の相手こと、五条悟。薄いカーテン越しの朝日に照らされて、その存在自体が輝いているかのように美しい。 しかしいくら美しくとも、男で呪詛師で誘拐犯の予想外な物理的急接近は心臓に悪すぎる。 一時的に言語機能が喪失した虎杖は無言でズリズリとシーツの上を這って後退し、五条から距離を取った。しかし動揺の所為で動きはもたつくし、ベッドそのものも大きい。地下室のシングルとは天と地ほどの差がある。 そうして虎杖の脚が床を踏みしめるより前にベッドが揺れた。シーツを共有していたのは大層美しい男一人だけであるので、相手については言わずもがな。虎杖はびくりと肩を跳ねさせる。 しかしベッドの揺れは虎杖を捕まえるためのものではなかった。 「まぁもうちょっとゆっくりしときなよ。朝ご飯、作ってあげるから」 「へ?」 就寝中に外していた黒い目隠しを回収した五条は軽い微笑みと共にそう言ってベッドから降り、去り際に大きな手で虎杖の髪をくしゃりとかき混ぜて離れていった。 寝室を出て行く背中を唖然と見送った虎杖は、一人取り残されたベッドの上で他人の指の感触が残る頭に自らもまた手を触れさせる。 「……なに、今の」 目を細めて、口の端をほんの少しだけ持ち上げて、自然とこぼれ落ちてしまったかのような微笑。新雪のごとき真っ白なまつげに縁取られた青く輝く瞳が捉えていたのは間違いなく虎杖だった。 「何なんだよ……」 誘拐犯で愉快犯のくせに。必要と判断すれば大した感慨もなく宿儺の器≠殺すくせに。 「そんな顔で笑いかけんなよ」 きゅう、と胸が痛む。 その痛みを耐えるように虎杖はベッドの上で身体を小さく丸めて独りごちた。 それからおよそ二十分後。 五条が朝食の用意をしている間に何とか平静を取り戻し、現在虎杖がいるのはダイニングテーブルの前。木目を活かした天板の上にはベーコンエッグ、サラダ、トースト、コーンポタージュといった、絵に描いたような朝食がセッティングされていた。 「簡単なもので悪いけど。あ、おかわりが必要なら遠慮なく言ってね。追加で作るから」 「え、あ……うん。いただきます」 「召し上がれ」 席について箸を取る。ナイフもフォークも用意されていたが、物心ついた時から祖父と二人暮らしをしていた虎杖にはこれが一番使いやすい。一方五条は……と思って正面に視線をやると、彼はトーストにベーコンエッグをのせて口に運ぶところだった。 「あ?」 大きく口を開けたまま止まる五条。 人形のように綺麗な顔をしているくせに意外とやることは大雑把だ。そしてそれが自分の容姿と合っていないことを自覚済みのようで、虎杖と目が合った彼はベーコンエッグトーストを口の中に入れようか、それとも皿に戻すべきか、僅かな逡巡を見せる。 「……それが一番美味い食い方だよなぁ」 五条が一瞬固まってしまった隙に虎杖は苦笑して正面の相手を真似ることにした。 つやつやと油で光るベーコンエッグを厚めのトーストにのせて両手で持ち、大口を開けて頬張る。表面サクサク中もちもちのトーストにベーコンの塩気とうまみ、そこに半熟卵の黄身がとろりと絡んで、口の内が幸福で満たされた。パンの上からこぼれ落ちそうになる黄身を思わず舌で追いかければ、それを見ていた五条が同じようにベーコンエッグトーストを口へと運ぶ。不思議と胸が温かくなるのを感じながら虎杖は口の中のものをしっかり咀嚼し飲み込んで、二口目に取りかかった。 「これめっちゃ美味いね。なんか良いところのベーコンとかパンとか使ってんの?」 「いや、普通にスーパーで売ってるやつ」 「五条さんスーパー行くん!?」 「一応スーパーもコンビニも行くし、家事は一通りこなせるよ。しょっちゅうやってるわけじゃないけど」 「はぁ〜。顔に似合わず」 「褒め言葉として受け取っておくね」 トーストを半分ほど食べ終わった五条が箸でサラダのレタスをつまむ。所作が美しいのは流石だが、フォークじゃないんだ、と虎杖はひっそり思った。ついでに自分はポタージュが入った深皿を手に取る。スプーンも用意されていたが、そのまま皿に口をつけた。 「いいね。男子高校生って感じ」 「どうも。てかこっちも美味いわ」 「ありがとうって言いたいところだけど、それは単なるレトルトでーす。僕は封を切って鍋にいれて温めただけ。面倒な時はマグカップでレンチンとかするし」 「クルトンが自家製とか」 「ないない。一緒の箱に入ってるやつだよ」 「ですよねー。でも俺この味好き」 「そう? じゃああとでメーカー教えたげる」 起床した時は色々あったが、やはり五条との会話は心地良い。初手で五条が大口を開けてトーストを囓ろうとしていたのも虎杖にとっては気安さが増す結果となっていた。 その気安さからだろうか。皿の上が綺麗になり始めた頃、虎杖はサラダを箸でつつきながら五条に問いかけた。 「なぁ五条さん、そろそろ俺のこと高専に帰してくれる気になった?」 「なんで帰りたいの?」 トーストの最後の一欠片を口に放り込み、黄身がついた指先を舐め取って五条が問い返す。 「そりゃあ呪詛師のセーフハウスにいるよりはずっと正しいじゃん」 「はい却下ー。そんな理由は即時却下です」 「ええ……?」 その却下理由こそこちらは即時却下したいのだが、五条は聞き耳持たないとばかりに「なので!」と声を張り上げ宣言した。 「今日の悠仁の予定は僕とのデートに決定しました!」 「はあ!?」 「拒否権はありませーん!」 「なんで!? いやホントなんで!?」 意味分からん! と虎杖が頭を抱えれば、五条は「朝ご飯作ってる間に考えたんだけど、君を連れて行きたいところがあってね」と理由を告げる。理由になっていないが。 「たった三十分足らず……しかも朝飯を作りながらの考えで……?」 「いいじゃんいいじゃーん。一緒に行こうよ、悠仁。と言うか拒否っても連れて行くけど!」 「ううーん。まぁそうなるんだろうけど……」虎杖は眉間に皺を寄せて現実を見る。「あとなんか、五条さん昨日よりテンション高くなってねぇ?」 「ふふふ。よくぞ見抜いた。実はちょっとした気づき≠ェあってね。ありきたりな言い回しをすれば、今の僕には世界が輝いて見えるのさ」 「へー」 「興味ゼロ!」虎杖の反応に五条はカラカラと笑った。「ま、いいや。デートは決定だし」 「はいはい。仰せのままに」 「服は途中で買っていこうね。お金は気にしなくて良いから」 「はーい。世話になります」 「お世話しちゃうよー!」 6 「悠仁はどんな服が好き?」 五条がそう訊ねてしまうのも仕方がない。 地下室から連れ出された時に虎杖が着ていたのは何のアレンジもされていない高専の制服。自由に買い物へ行くこともできず、また宿儺を受肉してすぐにほぼ着の身着のまま高専へと連れてこられたため、あまり私物も持ち込めなかったのだ。また黒い制服と共に与えられた襟付きの白シャツは虎杖の体格の良さを考慮しておらず――おそらく身長だけで用意されたのだろう――ボタンを留めることができなかったため、中に着ているのはザ・量産品と言わんばかりのゆるいTシャツである。 そんな格好から虎杖の好みなど推し量れるはずもなく、五条はセーフハウスを出る前に好きなデザインやブランドはあるかと訊ねた。彼の問いかけに対し、虎杖は「好きな服、ねぇ」と唸りながら腕を組む。必要に迫られた時は即断即決するものの、そうでない場合だと色々と悩んでしまって中々決められないタイプなのだ。 「じゃあよく着てた服は?」 「あ、それなら、パーカー! 色々考えて結局パーカーばっか着てた!」 「そっかぁ。……って、ちょっと待って。過去形?」はた、と悪い予感を覚えたかのように五条が口元を手で覆う。「これもしかして弄ってない制服だけ渡して放置してたパターンか?」 「五条さん? なんかもごもご言ってっけど、どうしたん? あ、服の方は俺に呪術のこと教えてくれてる先生がなんか自腹で買って持ってきてくれてたよ。あんまやりすぎて上層部に目つけられると大変だから、二回……くらい、だったかな」 「その時に自分の好みは伝えなかったの?」 「なんか、そんな気も湧かなくて」 「あー……まぁそうかもね」 嫌なこと聞いてごめん、と悪くもないのに謝罪した五条が、虎杖の頭をくしゃくしゃとかき混ぜた。 「お詫びにとびきり格好良くしてあげる」 「五条さんより?」 「それは難しいかなぁ。僕、見た目も最強だし」 「そこはリップサービスしてよ」 「事実は事実だから」 「うわ、ひっでぇ」 五条と交わす軽口は本当に楽しい。虎杖が控えめに笑い声を上げれば、目隠しからサングラスに変えた五条も真っ黒なレンズの奥で目を細める。 デートと称してどこへ連れて行かれるのか知らないが、こうして自分がうっかり顔をほころばせてしまうような場所なのだろうと、虎杖は理由もなくそう考えていた。 ――だったの、だが。 「……なに、ここ」 唖然と周囲を見渡しながら呟く。 新しい服を買ってその場で着替えて、さぁ今日の目的地だと五条に連れてこられたのは、山間にある人の気配が全くしない打ち捨てられた集落だった。 五条のよく分からない能力で瞬間移動したり、かと思えば公共交通機関を使ったり、最後は徒歩だったり。それなりに時間をかけて辿り着いた先の光景に虎杖は言うべき言葉を見つけられない。 隣に並んだ五条が静かに告げる。 「呪いによって滅んだ村の跡地だよ」 「ッ!」 傍らの男を見上げて虎杖は息を呑んだ。 「どういう、こと?」 「悠仁が生まれる前の話だから僕も詳しく知ってるわけじゃないんだけど、ここは地脈の関係やら何やらで普通の土地よりも呪いが溜まりやすい場所でさ。その対策として、いつの頃からか強力な呪物を祀って他の呪いを寄せ付けないようにしていたんだ。でも長い年月の中で呪物の封印は劣化し、呪いを退けるどころか呼び寄せるようになってしまった。……聞いたことある話でしょ?」 「俺が前にいた高校と同じ……?」 「そう」五条は頷く。「そしてその強力な呪物もまた悠仁がいた学校と同じ、両面宿儺の指だった」 「――っ」 虎杖は反射的に自分の腹を押さえる。そこに形として何があるというわけではないが、自分が取り込んだ三本の指のうちの一本がこの光景を作り出した原因である可能性に思い至れば、そう動いてしまうのも仕方がないだろう。 「村で祀ってたっていう指は、今どこに」 「お察しのとおり高専が回収して保管している。悠仁がすでに喰ったものの一つかどうかは分からない。まぁ悠仁の腹ン中にある方が劣化した封印より安全な気もするけどね」 「……それは、どうだろ」 「何か心配事でも?」 黒いレンズの隙間から気遣わしげな青い瞳が覗いていた。 虎杖は僅かな逡巡の後、己の死期を早めないために黙っていた事実を目の前の呪詛師にだけぽつりとこぼす。 「宿儺のヤツが何を企んでんのかよくわかんねぇんだ。一本目を喰ったすぐ後はまだ頭の中でうるさくしてたんだけどさ、俺が地下室に入れられてからは段々喋んなくなってって……今じゃずっと沈黙してる」 「黙り込むようになる前に宿儺は何か言ってた?」 「つまらん、とは言われたかな。ひょっとしてアイツ、本当にただつまんないから喋んないだけなのかな」 「さぁ。それは宿儺本人に訊ねてみないと分からないね」そう言って五条は虎杖の頭を撫でながら「でも」と続けた。「悠仁がとんでもない危機に陥って宿儺の力に頼らざるをえない状況にでもならない限りは変な縛りも結ばれないだろう。勿論、用心しておくに越したことはないけどね」 「……うん、気をつけとく」 それにいざとなれば、宿儺が何かをしでかす前に強い術師に自分ごと呪力で祓ってもらえばいい。宿儺の指は現代の術師では破壊できない強力な呪物であるが、受肉した分であればその器の死と共に消滅することを虎杖本人もすでに上層部から知らされていた。 覚悟と言うほどではないがそんな思考に陥っていると、少しトーンを落とした声で五条が「あのね」と身体ごと虎杖の方を向く。 「今もそうだけど、悠仁ってさぁ、あんまり自分のこと大切にしてないでしょ」 「なにを、」 「あ、違うか。自分のこと人間だって思ってないんじゃない?」 「……っ」 知らず、息を呑んでいた。 たとえるならば無意識の領域に手をかけ、べりべりとカサブタを剥がされていく感覚。五条の声は相変わらず優しいのに、目を背けるなと酷いことを強制する。自覚には痛みが伴い、見えない傷口からは血が流れた。その血を踏みつけるようにして五条は告げる。 「君が上のお爺ちゃん達から何を言われてどんな風に扱われてきたのかは昨日の話で大体察したよ。それを何ヶ月も続けられちゃあ、君の心理に影響してしまうのも仕方がない。どんなにメンタルが強いヤツだってね、追い込まれれば壊れるんだ」 「壊れて、なんか」 「本当にそう思ってる? 味方になってくれそうな大人に自分の服の好みすら伝える気力もなかったくせに?」 「……」 反論できず完全に沈黙した虎杖になおも五条は続ける。 「今の君はきっと自分のことを呪霊やモノのように捉えている。しかもいずれ僕に祓うか壊されてしまうモノだってね。少なくとも、あんまり自分に価値があるとは思っていない。ああ、勘違いしないで。悠仁に非はないよ。それは全面的に上のお爺ちゃん達の所為だ。彼らは君を人間じゃないものとして扱ったし、加えて君の存在意義をそれだけに固定していた。虎杖悠仁という人間が持つ価値はもっと大きいはずなのに」 「俺の価値?」 その言葉にハッとして虎杖は下がりかけていた視線を上げる。 「うん、そうだよ」 五条は頷き、両目を隠すサングラスを取り去った。 六眼。呪術界における至高の品の一つ。この眼と五条家が持つ無下限術式によって五条悟は最強の術師とされているのだという。しかし今この瞬間だけ、五条の双眸は力を示すためだけではなくただ単純に虎杖へと安心感を与えるために晒されていた。目隠しや黒いガラスで遮ることなく、自分が告げる言葉は虎杖のためのものであり、また偽りない本心であると証明するために。 「君の価値はもっと大きなものだ。それを教えるために、僕はあえて君をここに連れてきた」 ついと青い双眸が捨てられた村を見渡す。 「悠仁、さっきも言ったけどここはかつて両面宿儺の指を用いて呪霊を退けるどころか、逆に集めてしまって滅んだ土地だ。宿儺の指は容易くこういう状況を作り出す。また、もし呪霊が取り込めば、そいつは大きな力を得て別の被害を生み出すだろう。宿儺の指ってのはそれほどまでに恐ろしいものなんだ。でも君はそれを飲み込んで抑えつけることができる」 再び虎杖に向けられる、青。 「意味分かる? 君が指を呑み込んでくれるおかげで、この先、こういった被害がなくなるんだ。呪いで苦しむ人が少なくなるの。虎杖悠仁のおかげで」 五条が手を伸ばす。 指の長い大きな両手が虎杖の頬を包み込み、これまで以上にしっかりと互いの視線が絡まった。 「……五条、さん」 「ん。ねぇ悠仁、君の行為は大勢の人を助けることになる。勿論、呪術師として力をつけ、呪いを祓う任務をこなした場合も」 至高の青は真っ直ぐに虎杖を見つめて脳髄に刻みつけるように言葉を紡ぐ。 「覚えておいて。君はモノじゃない。呪霊でもない。死ぬためだけに生きてるわけじゃない」 空のように澄んでいて、海のように深くて。 星が舞い散る美しい世界に虎杖だけが映っていた。 「虎杖悠仁は人間で、呪術師で、すでにたくさんの人を助け始めている尊い人なんだよ」 微笑む五条はあまりにも美しい。滲む視界でも虎杖にはそれが分かった。瞬きをすれば目から熱い水がこぼれて頬を伝い、少しだけ視界がクリアになる。 虎杖を見つめて微笑む青は相変わらずそこにあり、星の舞い散るその青に虎杖悠仁はどうしようもなく囚われてしまった。 7 目の前で泣かれるなんて鬱陶しい以外の何ものでもないと思っていた。 けれど、琥珀色の双眸に張った透明な涙の膜がほろりと溢れて頬を伝い落ちる様は心臓が痛くなるほど美しくて、そうさせたのが己であることに体中が熱くなった。 廃村を離れて、今は帰りの電車の中。利用客は少なく、車内はがらんとしている。 ボックス席に座る斜め向かいの虎杖を見やれば、「どったの?」とあどけない表情で頭を傾けた。流石にもう涙の痕跡は見えないが、胸が詰まったような感覚を覚えるのは相変わらずだ。 これまでの人生で初めて知った事実に、五条は今も少し足元がふわふわとして覚束ない。 ただし虎杖の泣き顔に興奮したのだと赤裸々かつ誤解を招くような発言ができるはずもなく、別の話題を口に出す。 「悠仁ってさ、地下室に監禁されてはいたけど、呪術や体術の指導をしてくれる人は一応いたんだよね? どんなヤツ?」 咄嗟に出た言葉は自分が無意識のうちに気にしていた内容でもある。音として発して初めてそれを自覚しつつ、五条は「教えてよ」と虎杖に微笑みかけた。 この子供に指導ができる人物とは、つまり高専上層部から両面宿儺の器と接することが許された人間だ。五条ほどの力はなくとも、それなりの実力者であることは間違いない。 ただし教師役が誰か気になったのはソイツの実力について思いを巡らせたから……だけ、ではなかった。よくよく考えるまでもなく、五条は出掛ける前に虎杖が話してくれた内容にひっかかりを覚えていたのだ。 確か虎杖はこう言っていた。支給された制服以外の服は教師役の人間が自腹で買い与えてくれていた、と。つまり五条の『好きな子』は、五条以外の男(仮)から贈られた服を身にまとっていたということになる。 (いざという時のために名前くらいは知っておかないとね) そんな五条の思惑など知る由もなく、虎杖は「えっと」と口を開く。 「高専で先生やってる人。……あ、五条さんも知ってるんじゃないかな、その人も特級だし」 「もしかして夏油傑?」 一瞬前まで抱いていた敵意のような感情は霧散し、代わりに驚愕と納得半々の声が五条の口からまろび出た。 現代において『特級』を冠する術師は五条を含めて四人。そのうち教職に就いているのは一人だけだ。かつての五条の級友であり、そして今もなお親友だと思っている男、夏油傑のみ。 「正解! 夏油先生は一年の担当だけど、俺のことも気にかけてくれてるみたい」 「へぇ……高専で教師やってんのは知ってたけど、悠仁の先生もやってたんだ」 「うん。たまに地下室に来て授業してくれたり、あとは信頼できて俺のことを怖がったりしない術師に頼んで任務に同行させてくれたり……まぁ任務に連れてってもらえるのは本当に稀なんだけど。てか今のところ一人だけだし」 「ちゃんと呪術師になることを見据えてくれてんだねぇ」それなら虎杖が置かれていた状況も最悪の状態ではなかったのだろう、と思いつつ続ける。「上のお爺ちゃん達の指示って言うより、夏油先生≠ェできる範囲で頑張ってるって感じかな。悠仁も少しは周りに恵まれたね」 「そうかも。いっぱい苦労はかけちゃってるだろうけど」 「そういう苦労は教師冥利に尽きるっていうんじゃない?」 あの親友殿とは高専を去ってからずっと顔を合わせていないが、元気にしているだろうか。虎杖と接する機会が多かったなら、やはりこの子のことを大なり小なり好きになってしまっているのかもしれない。……などと考えつつ、『虎杖悠仁の先生』に対しては警戒を解いた――ただし虎杖が置かれていた環境に関してのみであり、恋愛方面では未だ警戒を解くことはできない――五条が、もう一人の人物について問いかけた。 「で、任務に同行させてくれたって術師は?」 教師役に続いて気になるのがこの『虎杖を任務に同行させた呪術師』である。夏油が紹介した人物であるなら問題はないのだろうが、今のうちに確認しておいても悪くはないだろう。 五条の問いかけに対し、今度もまた虎杖は躊躇う気も隠す気もなく答えた。 「七海さんって言うんだけど、知ってる?」 「もしかしなくても七海建人?」 神経質そうな雰囲気の整った顔立ちは今でも思い出せる。 一時は呪術師を辞めていたものの、いつの間にか復帰して今や押すに押されぬ一級術師だ。 「えっ! 五条さん、七海さんのことまで知ってんだ?」 驚く虎杖に五条は「知ってるよー!」と明るく頷く。 「ふっふっふ。何を隠そう夏油先生こと傑は僕の元同級生にして親友だし、七海は一つ下の後輩なんだ」 「うっそお! 感じが全然違うじゃん! 二人ともめちゃくちゃ真面目なのに!!」 「……色々と言いたいことはあるけど、傑は結構アレだよ? 外面の良さに騙されてない?」 虎杖の歯に衣着せぬ物言いに五条は一瞬詰まりつつ、記憶の中にある親友の自分に負けず劣らずな性格を思い出す。 ただし五条が知っている時代と今虎杖が置かれている状況は全く異なるもの。それを改めて知らしめるかのように虎杖は眉尻を下げた。 「外面の良さも何も、夏油先生って俺と会う時は大体ちょっと申し訳なさそうな顔してるから……」 「……ああ、もう。なにそれ重傷じゃん」 虎杖の傍らに夏油がいたことはある種の安心要素だと思ったのだが、事態はそこまで優しくなかったようだ。 (そうだった。前もこの子自身が言ってたな……) 気まずそうに頬を掻き視線を逸らす子供を眺め、五条は胸中で独りごちる。 (つーか何やってんだよ、傑のヤツ。そんな状況くらいひっくり返せよあのバカ! 俺もオマエも最強だろうが。……あ、今なんか『私と君は違う』って言われた気がする。ふざけんなアホ) 「五条さん? どうしたん?」 唇を引き結び不機嫌そうな顔つきになった五条へ虎杖が心配して問いかける。その声に五条は眉間の皺を解き、「バカに電話してバカって言うか言うまいか迷ってるとこ」と冗談半分で笑ってみせた。ちなみに残りの半分は本気である。 「えー何それ。ってか高専のこと訊いてくるのって、もしかして俺を帰す気になったから? だって帰す気がないなら、もう戻らない場所について知る必要もないじゃん?」 そう告げた時の虎杖の表情を五条はよく見ていなかった。「帰す気になった?」と告げる唇の動きをただ追っていただけだ。やっぱりこの子は高専に帰りたいのかな、という思考に意識の大半を奪われて、彼の表情にまで気が回らない。 (こういう言い方をするってことは、やっぱり悠仁本人に帰る気持ちがあるからだよね……。帰したくない。帰したくないよ。ずっとこうして一緒に過ごしていたい。でも悠仁にとって呪詛師である僕の隣はストレスで、高専の傑達の傍にいる方が安らぐのかな) それにもし『五条に虎杖を殺す気はない』と虎杖本人に理解してもらったとしても、高専に帰らず五条の傍に居続ければ、少年もまた呪詛師として扱われるようになるだろう。そうしたら彼は自分を思いやってくれた大人達と敵対することになってしまう。 たとえ上層部が悪巧みをしていようとも、呪詛師である五条の隣にいるよりは、夏油達に守られて高専で過ごす方が虎杖にとっては望ましい未来なのかもしれない。 興味があるだけなら無理やり傍に置くことができた。 けれど今の五条は虎杖に想いを寄せてしまっている。好きな子には傍にいてほしいが、それよりも好きな子には笑顔でいてほしい。幸せになってもらいたい。 一体どちらが虎杖にとっての幸福なのだろう。 五条は悩み、口を噤んだ。その沈黙に引き摺られるようにして虎杖もまた次の言葉を発せないのか、両膝の上に手を置いて黙り込んでしまう。 ここは元々乗客の少ない車内。二人が共に黙ってしまえば、あとはただ電車の音だけがガタガタと響き続けていた。 術式を用いてトぶ≠スめにその身体へ触れることも躊躇われ、五条は往路よりずっと時間をかけて街中に帰ってきた。太陽はすでに姿を隠し、代わりに人工の灯りがキラキラと街全体を照らし出している。 駅で拾ったタクシーがセーフハウスの入っているビルの前まで到着し、五条は支払を済ませて降車する。黙って虎杖も隣に並んだ。タクシーは自分達を置いて静かに去って行く。少し前まで驚くほど軽快な会話をしていたはずなのに、今は一言も発せない。 五条が今も黙り込んでいる所為で虎杖も言うべき言葉が見つからないのだろう。それを申し訳ないと思いつつ、しかしそれどころではない心の荒れように五条は襲われていた。 部屋に戻ったら何でも良いから言葉をかけよう。そう決意して五条は歩き出し―― 「悠仁っ!!」 第三者の声が虎杖の名を叫んで呼び止めた。 五条が虎杖を連れてきたセーフハウスは高層ビルの上層にあり、下層部分は商業施設になっている。地上部分の開けた場所は綺麗に整備され、街路樹には季節に合わせた色のイルミネーションが施されていた。その向こうから駆け寄ってきて、しかし数メートル手前で立ち止まったのは、黒い長髪をハーフアップにした黒いウインドブレーカー姿の男。 「……先生? 夏油先生!!」 沈黙に押し潰されるようにして沈んだ目をしていた虎杖が顔を上げて男の名を呼ぶ。 イルミネーションの光を弾いてキラキラと輝きだす瞳に映し出されたのは、五条の親友にして高専の教師、特級呪術師の夏油傑だった。 特級の呪術師に見つかったなら、呪詛師である五条は警戒するなり逃走の素振りを見せるなり、はたまた挑発してみせるなり、何らかの反応をすべきなのだろう。しかし五条の視線は懐かしい親友の姿には向けられない。 サングラスの奥に隠された青い瞳が捉えていたのはただ一人。琥珀の双眸に光が戻り、親愛の情が浮かび上がる様を、五条はその横ではっきりと見てしまっていた。 (……帰したくないなぁ) けれど五条は愛しい相手の幸せを踏みにじりたくないとも考えている。 傍らと数メートル先の相手を交互に見やれば、夏油も虎杖も特級呪詛師で誘拐犯たる五条を警戒して動くに動けないでいた。 ふっと唇がほころぶ。 五条悟という男は今も夏油傑を親友だと思っているし、信頼している。そして何より、愛しい子には望む場所で幸せになってほしかった。 「帰りな、悠仁」 五条は優しく虎杖の背に触れてそっと押し出す。「えっ」と驚きに見開かれた目が五条を捉えた。 琥珀色に映り込んだ自分を最後に見つけて満足し、五条は二人に背を向ける。虎杖を招いたセーフハウスには帰れない。今夜からは別の寝床を使うことになるだろう。 「あ、そうだ」 しかし完全に二人の前から姿を消す前に五条は虎杖ではなく夏油に視線を送って笑いかけた。 「おい、バカ傑。折角返してやるんだから、もっとちゃんと悠仁を守れよ。オマエならできるだろう?」 (俺達は最強なんだから) 言うまでもないことを心の中で付け足す。 そして今度こそ五条は二人に背を向けて歩き出した。 二度は振り返らない。夏油へと駆け寄って行くであろう虎杖の姿を見たくはないから。 ◇ 五条悟にとって虎杖悠仁は大して特別な相手ではなかった。 人混みの向こうへと消えてしまった背を探すように未だ視線を彷徨わせながら虎杖はそう結論づけた。 当然だな、と思う。しょうがないよな、とも思う。 そもそも自分達は立っているステージが違うのだ。 心臓が潰れそうなほど痛いのは自業自得。優しくされて、付け上がって、相手を自分の中の『特別』に据えてしまった虎杖自身が悪い。 だから両肩に夏油の手が置かれ、五条を探す視線を遮るように視界が黒いウインドフレーカーで覆い尽くされた時、虎杖は顔を上げてすぐ傍の黒瞳を真っ直ぐに見つめた。 「……ただいま、夏油先生」 大人の手を振り払って、消えてしまった背を追いかけることもない。 「心配かけてゴメンな、ちゃんと戻ってきたよ。……俺がやるべきことをやるために」 悔いのない選択をしよう。 心奪われた相手の隣にいることは叶わずとも、せめてその人が尊いと言ってくれた自分であるために。 「だからさ、上の人に伝えてくんない? 五条悟と戦って勝つのは無理そうだから、代わりに所在が分かってる宿儺の指、全部俺に喰わせてから処刑してほしいって。これで呪いの被害に遭う人も少しは減ってくれるよな?」 8 頭を鈍器で思い切り殴られたかのような衝撃だった。 虎杖が見つかったことには素直に安堵している。あのまま五条が虎杖を攫って彼に幸せな生活を与えくれたならと思っていたのも確かだが、自分にとって特別な子供が五体満足で手元に戻ってきて再び名前を呼んでくれるのは、夏油にとって紛れもない喜びだった。 しかし高揚したのも束の間。五条が去った後、虎杖が告げた言葉に夏油は顔から血の気を引かせて、少年の肩を掴んでいた両手に力を込める。 「彼に、五条悟に、何を言われた」 「ちょっと夏油先生、痛ぇし、顔怖いよ」 虎杖に苦笑しつつそう言われ、夏油は慌てて手を離した。「すまない」と謝れば、「ヘーキ。俺、丈夫だから!」と、地下室にいた時よりも明るくなった顔が向けられる。 「悠仁……アイツに一体何を言われたんだ?」 「変なことは言われてないよ」むしろ誇らしいのだと言わんばかりに少年は告げる。「先生なら知ってた? 俺が宿儺の指を喰えば、呪いの被害を受ける人が減るんだってさ」 そして喰った指と共に器である虎杖が死ねば、特級呪物『両面宿儺』による被害は永遠に起こらなくなる。夏油があえてこの場でそれを口にすることはないが、上層部も今の虎杖も知っている事実だろう。 「でもさ、俺がいつまで宿儺を抑え込めるかは誰にも分かんないじゃん。……夏油先生にも教えてなかったけど、アイツ……宿儺のヤツさ、俺とは別に意識があんの。最近は静かだけど、前は頭ン中で結構うるさく喋ってたりしたんだ。ってことはさ、俺、下手したら明日にでも暴走してる可能性だってあるわけだろ? 折角指を喰って呪いで苦しむ人を減らせてたのに、それ以上の被害を出しちまうかもしんねーんだ。だったらさっさと喰える分だけ喰って万全の態勢で宿儺もろとも祓ってもらった方が絶対良い。どうせ最初から俺が死ぬことは決まってたんだし」 禪院と先生には悪いけど、と虎杖は口の中でもごもごと呟いて眉尻を下げつつ微笑んだ。 「ね、先生。俺に一番価値のある選択肢を選ばせてよ」 「悠仁、君は……」 穏やかな虎杖の表情を見て夏油は何も言えなくなってしまう。 少年の言ったことは紛れもない事実だった。しかし彼に絆されてしまった大人としては絶対に選んで欲しくない道だった。 もう虎杖の目に以前までのような陰りはない。五条との時間は確かに少年の心を救ったのだろう。けれども、もたらされようとしている結末は下から数えた方が早いバッドエンドだ。 この状況を、虎杖の意識を、彼を取り巻く環境を、今の自分に覆せるか? 夏油は自問する。 だが答えは虚しいものだった。己は五条悟ではないのだから。 ゆえに。 「よろしくな、先生」 大切な生徒からの最悪の信頼に、夏油は吐きそうな思いで頷くしかなかった。 ◇ 夏油経由で伝えられた虎杖の意思は拍子抜けするほどあっさりと上層部に承認され、死刑の日取りが決定した。 万が一に備えて、執行される場所は高専の外に作られた専用の儀式場。処刑人は夏油傑と、まだ学生であるものの夏油と同じく特級を冠する乙骨憂太になるらしい。 高専が所有する指は残り三本。結界で厳重に囲われた儀式場に身柄を移された虎杖がこれを三日に分けて呑み込み、最終日または宿儺現出の兆候が見られた時点で、特級二名により処刑が実行される予定である。 夏油ではなく上層部からの使者に直接そう言い渡された後、虎杖は一人、地下室のベッドに寝転がって天井を眺めていた。 自身の行動によってきっと多くの人間が救われる。呪いによる死を回避することができる。……上層部に伝えたその考えに嘘はない。 けれど……と、虎杖は誰もいない地下室で独りごちる。 「俺は指を喰って処刑される。そうすることでたくさんの人を救うことができるから。あの人が認めてくれた、褒めてくれた、尊い自分でいられるから。……ははっ、違うだろ。少なくとも、それが『全部』じゃないだろ」 唇を無様に歪ませ、虎杖は虚空に向けて嘲りを放った。 「取り繕うな。格好つけようとすんな」 吐き捨てるように告げながら脳裏に描き出したのは、この世の何よりも美しい青。 あの夜に、自分にとって五条は特別で、けれども自分が五条の特別になることはできないと思い知らされた。きっと処刑が滞りなく進められても彼は何とも思わないだろう。 そもそも手を離される前から自分は理解していたはずだ。五条悟は感情ではなく理性で人を殺す人。遠くはない未来に何の感慨もなく虎杖悠仁を殺す人である、と。 つまるところ――。 「俺は、あの人が俺を殺す時に、あの青い目に何の感情も浮かばないのを見ちまうのが怖いだけだ。だから俺は五条さんの手にかかって死ぬことだけは嫌だと思ってるんだ」 それが虎杖悠仁の真実。 固く瞼を閉じ、さらに上から腕で両目を覆い隠して少年は呻く。 「あー……ほんと格好ワリィ」 9 誘拐騒動から一週間後。処刑のための三日間が始まった。 地下室まで虎杖を迎えに来たのは上層部から直接派遣された二人の使者。処刑の日取りが伝えられてから今日まで夏油には一度も会えていない。来られないのか、来る気がないのかは定かではないが、処刑する側とされる側なのだから虎杖自身も特におかしいとは思わなかった。 移動の間は呪符と目隠しによって自由に動くどころか周囲を確認することさえ禁止され、連れて来られた儀式場が一体どこにあるのか見当もつかない。 車を降りた後は誘導されるまましばらく歩く。スニーカー越しの感触から床はコンクリート製、音の反響の仕方から空間そのものはかなり広いということが分かった。 「お疲れ様でした。すぐそこに椅子がありますので、私が目隠しを外したら座ってお待ちください」 「あ、うっす。じゃない、はい。分かりました」 使者の一人に告げられて虎杖は頷く。 言われたとおり、それからすぐに両目を覆う布が外されて、補助監督と同じ黒いスーツ姿の男女が虎杖の視界に入った。 彼らの向こうに見えるのは儀式場≠ネどという呼び方からは程遠い、廃棄された工場か倉庫のような空間。高さは一般的な住宅の三階分程度だろう。屋根に近いところに明かり取りの窓が設けられているだけで照明器具はなく、天井から導線剥き出しの電源ケーブルが垂れ下がっていた。床には埃が積もって自分達の足跡が点々と後ろに存在している。とても人間を三日間生活させるような場所とは思えない。 「……あの、ここって」 「座りなさい」 「え、っわ」 虎杖の戸惑いを無視して命じたのはスーツの女。と同時に虎杖に別の新たな呪符を貼り付けて腕を引いたのはスーツの男だった。本来の虎杖であれば容易く抵抗できるはずの膂力であるにもかかわらず、呪符により身体からは力が抜けて、引っ張られるまますぐ傍に設置されていた椅子へと無理やり座らされる。 尻をつけたそれはこの空間にあまりにもミスマッチな代物だった。 後から用意されたのだから当然……とさえ言えやしない。鉄製の頑丈そうな冷たい椅子は、四つの脚を太いボルトで床にしっかりと固定されていた。そして肘置き部分と前方の脚二本には分厚い革製のベルト。嫌な汗が背中を伝い落ちた時にはすでに遅く、虎杖の両手両脚はそのベルトでしっかりと椅子に固定されてしまっていた。 「っ、なんで!」 こんな屈辱的なことを! 怒りと戸惑いに任せて叫ぶ虎杖の前に、素早く拘束を終えた男女が揃って立つ。その二人の顔を見て虎杖は二の句が継げなくなった。 「ごめんね」 女が包帯のような呪符と真っ白な布に包まれたそれ≠開きながら呟く。 布の中から出てきたのは赤黒く変色した指の屍蝋だった。しかも本数は三本ではなく五本。聞いていた数よりも二本多い。 男がそのうちの一本を掴み取って虎杖の口に近づける。 「こうしないと俺達も危なくてな……。いや、俺達が死ぬのはもう決まったことだ。だが約束を果たせば俺達の息子だけは助けてくれるんだと」 「総監部と縛りを結んだの。私達はこれから君にこの指を全て食べさせます。そうしたら君はきっと両面宿儺に取って代わられる。呪いの王は私達を殺すでしょう。そして――」 女がその台詞の続きを告げることはなかった。言葉の代わりに女もまた指の屍蝋を手に取って虎杖の唇に押しつける。 「呪いに関わった。それが君と私達の運の尽きってやつね。あと、上の人達と交渉するなら、せめて私達みたいにちゃんと縛りを結ばなきゃダメよ」 力の入らない身体は顎の動きさえ思い通りにならない。無理やり開かされた口に一本二本と指を押し込まれ、虎杖が最後に聞いたのはそんな女の後悔と自嘲に満ちた声だった。 ◇ 虎杖を高専に帰してから一週間。 自らそうすると決めて手を放したというのに、あの日から胸の詰まったような、逆にぽっかりと穴が穿たれてしまったような、そんな表現しようのない感覚が無くなってくれない。 だって特別だったんだ。――と、五条は胸中で独りごちる。 自分の我儘よりも相手の幸せを心から願ってしまえるような、そんなかけがえのない存在だったのだ。虎杖悠仁という少年は。特別大事で、特別愛おしい。それを手放したのだから叫びたくなるほど苦しいのは当たり前だろう。 あの子は今頃、仲間に囲まれて少しは穏やかに過ごせているだろうか。そう考えつつも、五条が虎杖の周囲を探ることはもうない。自分ではない誰かに笑いかける少年のことなど知りたくなかった。ゆえに穏やかであることを願うだけにとどめている。 そう遠くない未来に、虎杖は仲間との時間を過ごした後で五条の元へ送り込まれるだろう。無論、五条に彼を傷つけるつもりはない。丁寧にお帰りいただくか、虎杖を死んだことにし、親友にも話を通して上層部の手が届かないところへ逃がしてやるか……。誘拐したままでは与えられなかった選択肢をあの少年に与えたいと心から思う。そこに五条との生活を含めてもらえたなら嬉しいが、高望みはしない方が楽だ。 求めるのはあの子の幸福。彼が笑って生きている世界。 ただ、どれだけ綺麗なことを願ってみても、苦しいことに変わりはない。五条は己の苦しみを払うように、ここ最近、多くの依頼を請け負うようになっていた。 それはイコールで仕事内容をあまり精査しないという事実に繋がっている。ヤケクソと言ってもよかった。 今日の仕事もその一つ。余程後ろ暗い所があるのか、依頼は何人もの仲介役を通して五条に届けられた。内容は単純に殺人。しかもご丁寧に、依頼者は殺害対象を人気のない場所まで連れて来てくれるらしい。五条は客から指定された場所に赴いて、レストランのディナーよろしく何もかもセッティングされた状態で対象の人物を殺すだけでよかった。 きな臭いとは当然思っている。そもそも殺す相手が呪術師なのか非術師なのかも明かされていない。だが『最強』たる五条にとって、相手が誰であろうと結果は同じ。今はただ、虎杖への想いから気を逸らしてくれるなら、それだけで依頼を受ける理由に足り得た。 「……で、足を運んでみたものの」 大仰だねぇ、と目隠しの上からこめかみを掻きつつ呟く。 五条がいるのは都内から車で移動できる距離にある、鬱蒼と木々が生い茂った場所。山を削って作られたものの、今は廃棄された工場である。 誰からも忘れ去られたようなそこには、現在、五条ではない者の手によって何重にも結界――帳――が降ろされていた。 五条はおもむろにその帳へと手を伸ばす。黒い膜は一切の手応えを返すことなく手を通過させ、そして引っ込める時も抵抗らしきものは全くなかった。 入るのは容易く、また出るのも容易い。 「ああ、なるほど。中にいる特定の何か≠セけを閉じ込めておくよう縛りを設けて強度を増しているのか」 手の感覚と六眼で捉えた形からそう判断する。 ここまで厳重に閉じ込められているのは一体何なのか。うなじにチリチリと焦げ付くような感覚を覚えながら、五条は内と外を隔てる帳の中へ足を踏み入れた。 その直後、見知った呪力に息を呑む。 「……ゆ、うじ? いや、違う。これは――!」 帳を通り抜けた先で察知した、それ。 息を呑んだ五条はしかし、愛しいものとは似て非なる大きくなり過ぎた気配に目隠しを毟り取ってその名を口にした。 「両面宿儺……っ!」 10 「随分と慌てた様子だが、どうした。呪術師」 無骨な鉄製の玉座にその王は腰掛けていた。 椅子の肘置きと前方の二本の脚には、拘束のための太いベルトが無惨に千切られてぶら下がっている。その足元には人間二人分の死体。性別さえ分からなくなるほど細切れになった肉片が血の海にぶちまけられていた。 焦燥に駆られる五条の視界の端を小さな紙片が舞い落ちていく。焼き切れてしまっているものの、読み取れた文字から察するに、あれは使用した対象を拘束するための呪符だ。少し遅れて、玉座の王が己の頭上に振ってきた別の紙片を片手で払いのける。 焼き切れて四散した呪符が空中を舞い、足元ではまだ温かさを残した血と肉片が広がっている。王の現出とそれに伴う惨劇がたった今起きたことであると、この状況の全てが如実に示していた。 「ちょうど良いタイミングだったぞ、呪術師。俺を待たせることなく現れたのは褒めてやろう。……それとも、こう言った方が良いか?」 ケヒッと、五条の愛しい子と同じ顔で呪いが嗤う。 「残念だったな。貴様がもう少し早くここへ辿り着いていれば、小僧がこうして俺に取って代わられることもなかっただろうに」 「――っ、悠仁に何をした」 全身の毛が逆立つようだった。 まさか呪術師としての経験が浅い虎杖に不平等な条件で縛りを結び、身体の主導権を奪ったのか。大人しくしていたのもそういう作戦があってのことだったのかと、怒りを込めて、黒い布に遮られることのない両目で相手を睨みつける。 普通の相手であればそれだけで失禁しかねないレベルの怒気と呪力量。しかしそんな五条に対し、呪いの王は頬杖をついて愉しげに唇を歪ませた。 「そう怖い顔をするな。俺が小僧に何かをしたわけではない。小僧はそこの――」宿儺は組んだ足の先でぐちゃぐちゃの肉片を示す。「人間に騙されたまで。実に滑稽だったぞ。小僧(バカ)が愚かな決意をして、結果、呪術師共(バカども)に騙される姿は」 「どういうことだ」 「わざわざそこまで説明してやる義理はない」 黒い紋様が浮かぶ顔をニヤニヤと愉悦に歪ませながら、呪いの王は玉座から腰を上げた。 「それよりも、俺とて動ける時間は限られているのでな。どうせなら楽しませてもらいたいと考えるのは当然だと思わんか? 小僧の中にいるのは実に退屈でなぁ。貴様なら退屈しのぎ程度にはなるだろう」 凶悪な呪いが血溜りと肉片を踏みつけて五条の方へと近づいてくる。 虎杖が何本取り込んだ状態なのか不明だが、たとえ全ての指が揃っていたとしても戦って勝つのはこちら側だと五条は確信していた。しかし両面宿儺の表情は間違いなく強者のもの。四肢をもいだ獲物をなぶって遊ぶ獣のような雰囲気を滲ませている。 五条は思わず舌打ちしそうになった。 呪いの王は気づいているのだ。あの身体が誰のものであり、それが五条にとってどういう意味を持っているのか。唯一の救いは宿儺自身が時間制限の存在を示唆したこと。つまり肉体の主導権が虎杖に戻るまで凌(しの)ぎきれば五条の勝ちとなる。 残りの問題は五条にこの依頼をした人間が誰で、どんな思惑を持っているのかということ。しかしそれに思考を割く前に、呪いの王が真っ赤に濡れた靴底でコンクリートの床を蹴った。 ◇ 両面宿儺にとって虎杖悠仁という器は本当につまらない人間だった。 初めて受肉した時は肉体の主導権を奪い返して正気を保つ姿に宿儺も驚いたものの、その後は唯々諾々と地下室に閉じ込められて飼い殺される日々であり、これには本当に辟易とした。宿儺が何もしなくともゆっくりと心が死んでいく姿に揶揄する気さえ失われ、ひと欠片も興味を抱けないまま、まどろむように時間を過ごす。どうせ取り込まれた指は三本。このまま子供が殺されても大して惜しくはないと思っていた。 しかし現在、虎杖が取り込んだ宿儺の指は全部で八本。流石にこの本数を失ってしまうのは躊躇われる。と同時に、これまた状況が愉快だった。 呪詛師を名乗る術師、五条悟との邂逅によって自らの意思で死ぬことを決めた虎杖。しかし愚かな子供は自分が周りにどう思われ、どう扱われているのか全く理解していなかった。その結果、残りの指を安全に取り込んだ上での処刑ではなく、五条悟と戦う気がない子供に代わって両面宿儺を無理やり顕現させ、件の呪詛師にぶつけるという作戦を騙し討ちで実行されてしまったのだ。 表に出た宿儺の中で、今、虎杖は血相を変えて喚き散らしている。 指の本数も、取り込むタイミングも、おまけに配置される呪術師も、虎杖が思っていたものとは全然違っていた。愚かな子供はその事実を嘆き、また五条を殺そうとする宿儺に怒りを露わにしているが、まだ呪いを処理し切れておらず肉体の主導権を取り戻すには至っていない。 嗚呼愉快だ、と宿儺は五条を殺す気で攻撃しながら両目を細めた。 実のところ指八本分の力で目の前の術師に勝てるとは、両面宿儺自身全く考えていない。しかしこの肉体の持ち主を五条悟はいたく気に入っているらしい。ほぼ防御に徹し、たまに繰り出す攻撃にもキレがなく、急所を外してばかりだ。宿儺が示唆した時間切れを狙いつつ、誤って致命傷を与えてしまわぬようにしているのだろう。 戦いという点では何ともつまらない相手だ。しかし宿儺の顔から笑みが消えることはない。 五条は虎杖悠仁≠ノ気を取られて分かっていないようだが、自分達の近くにはまだ生きた人間が存在していた。それらは虎杖に指を喰わせたスーツの男女とは違い、戦うことができる呪術師達である。彼らの目的は十中八九、五条を殺害すること。 宿儺に負けて五条が死亡するならそれで良し。そこまで上手く事が運ばずとも、宿儺との戦闘に気を取られて隙を作ったタイミングか、もしくは宿儺が負けても五条が負傷した状態の時に、一斉に攻撃を仕掛けてこの男を葬り去る予定なのだろう。結局、五条と虎杖どちらも騙されてこの世から消されようとしているのだ。なんと愚かで、面白い状況になっているのか。 (ただし……) 近接戦を仕掛けながら宿儺は胸中で独りごちる。 (流石の俺も八本分の指は惜しい。それに呪術師共の思惑どおりにこのまま消されてやるのも癪だからな) ちょうど肉体の方も徐々に虎杖へと制御が戻りつつあった。 ゆえに宿儺はこう動く。 「ほぅれ、これで射線が通るだろう?」 「は……?」 五条からすれば、宿儺が意味もなく横に逸れたと思っただろう。 しかしその動きによって五条と物陰に隠れていた刺客の間から全ての障害物が取り除かれる。付け加えれば、五条はまだ己に向けられた第三者からの殺意に気が回っていない。 宿儺がわざと作った五条の隙。それを狙って呪霊ではなく人間を殺すことに特化した武器が弾丸を吐き出した。 「五条さんっ、逃げ――……」 声を発したのは当然のことながら宿儺ではない。宿儺が内側へ引っ込み、代わりにようやく肉体の主導権を取り戻した虎杖が、攻撃に気づいて五条の前に飛び出した。 虎杖悠仁は五条悟の術式に関してほとんど理解していない。宿儺が肉体を操って戦っていた最中もどういう仕組みで五条に攻撃が当たらないのか分かっていなかった。だからこそ、五条に向けられた――きっと五条にとっては予期していない、そしてする必要もない――第三者からの攻撃に虎杖は過剰反応を起こした。自分よりもずっと強い人間を守ろうと愚かにもその身を投げ出し、そして。 「悠仁っ!」 五条の目の前で大きな赤い花が咲く。 呪術界で至高とされる青い目がこれでもかと見開かれ、絶望と怒りに染め上げられた。 11 呪詛師・五条悟に誘拐された虎杖が戻ってすぐ、彼が示した意思。それを上層部に伝えた翌日に夏油は海外出張を命じられた。期間は一週間で、帰国の翌日に虎杖が残りの指の取り込みを開始し、三本の指を呑み込んだ後に処刑を執行するという、心身共にダメージの大きなハードスケジュールとなっている。 万が一、両面宿儺が表に出てきて戦うことになったらどうするのか。海外出張後の万全とは言えない状態でそのような危険な任務に当たらなければならないのか。――つまるところ、虎杖の処刑が行われる前に彼と過ごす時間は得られないのかと上申したものの、海外出張が取り下げられることはなく、夏油はそのまま出国。次に虎杖と顔を合わせるのは彼が指の取り込みを開始する時となってしまった。 しかし夏油は上層部の指示に従いつつも、それをそのまま受け入れる気にはなれなかった。虎杖と過ごす時間を少しでも長く設けたい一心で、最後の悪足掻きとばかりに任務を急いで片づけ、予定よりも一日早く帰国したのである。 それは奇しくも、上層部が夏油には教えなかった本当の虎杖悠仁処刑実行日、もとい特級呪物『両面宿儺』を一度に複数個喰わせて現出した宿儺を五条悟と戦わせようとしていた日。 そうとは知らずに、一日だけでも虎杖と過ごせる日が確保できたと、上層部への報告さえ後回しにして急いで地下室を訪問した夏油は―― 「悠仁……?」 もぬけの殻となったその部屋で唖然と大切な教え子の名を呼んだ。 これは一体どういうことだと夏油は困惑する。 基本的に虎杖は同行者なしに地下室から出ることは許されていない。そしてその同行者とは大抵の場合、夏油であった。おまけに今は処刑を目前に控えた重要な時期。そう簡単に虎杖の外出が許されるとは考えられない。 言い知れぬ不安に心臓は早鐘を打ち、じっとりと背中に汗が滲む。と、その時。ウインドブレーカーのポケットに入れていたスマートフォンが着信を告げた。 「恵?」 画面に表示されていたのは教え子の一人、禪院恵。 夏油は震える指先で画面に触れ、耳にスマートフォンを押し当てた。 「どうかしたのかい、恵。君がいきなり電話なんて――」 『先生! まだ出張中ですか!? 早く戻って来てください! 上の人間にはめられて虎杖が連れ出されました!! 上層部はアイツを五条悟にぶつけて殺す気です!!』 「…………は?」 ミシリ、とスマートフォンが軋む。 『先生、だから、虎杖が――』 「私はもう帰って来ているよ。今は高専内にいる。恵、どうしてそう思ったのか詳しく話してもらえるかな」 努めて冷静にそう告げて己の生徒に先を促す。 しかしこの状況を精査して夏油は気づき始めていた。どうやら虎杖も自分もまんまと上層部にはめられたらしい、と。 (随分とナメた真似をしてくれるじゃないか) これまで幾多の理不尽に耐えてきた精神がぷつりと切れる音がした。 電話で告げられた内容はこうだ。 夏油が高専に戻って来たのとほぼ同時刻、禪院恵もまた高専内にいた。体力増進のために敷地内を走っていた彼が通りかかったのは高専に属する職員や補助監督らが利用する喫煙スペース。昨今の禁煙ブームで随分と建物の隅の方に追いやられ、実はそのおかげで中々便利なサボり場所となっているエリアだ。 そこで一服していたのは二人のスーツ姿の男達。遠目には補助監督に見えたらしい。大人達の折角の憩いを邪魔しては悪いと気を使った禪院は、距離が近くなると足音を殺し、彼らに気づかれないようその場を通り過ぎるつもりでいた。しかしその時、偶然にも彼らの会話が耳に入ってくる。 「今日だろ? 宿儺の器をあの呪詛師にぶつけるって話」 「ああ。担当の奴らがもう連れて行ったよ」 「お偉方もよくやるぜ。あんな博打みてーなこと」 「それだけ五条悟も宿儺の器も邪魔だってことだろ」 「器の方は大人しく死刑になるつもりだって聞いたんだけど」 「ガキの戯れ言なんざ上が聞き入れるかよ。そもそも人間とすら思ってねーだろうし」 「ははっ、確かに。これでどっちも上手いこと死んでくれりゃあ世話ないんだけどなぁ」 「そういや上は夏油特級術師を海外に出張させて、わざと器から引き離したらしいぜ」 「あの人、器の子供にも優しくしてたもんな」 「本人は隠してたみたいだけど」 「いやあれはバレバレでしょ」 「だよなー。そう言えば器のこと気にしてるって言えば、二級の禪院恵も――」 そこまで聞いて禪院は彼らの前に姿を見せ、そして容赦なく締め上げて知っていることを全て吐かせたのだった。 ただでさえ虎杖の処刑決定の話を聞いて我慢の限界に至っていた禪院である。容赦は一切しなかった。 そうして判明したのは、やはり上層部が虎杖と夏油の両方に嘘を吐いていたこと。そして高専から連れ出された虎杖の行き先。通話の途中で禪院と合流した夏油はそのまま高専を飛び出し、虎杖が連れて行かれたという山中の廃工場へと向かった。 そして――。 「悟……」 夏油達が目にしたのは建物の床や壁、それどころか高い天井にまで飛び散った赤、赤、赤。帳を降ろしていたと思しき術師まで、この場にいた全員を一人の例外もなく殺害せしめた特級呪詛師の姿だった。 12 「さて、小僧。心臓を治してやる代わりに少々俺と縛りを結んでもらおうか」 足元には踝まで浸る暗い色の水。頭上には天井の代わりに巨大な肋骨。そんな異様な空間で、山と積まれた牛骨の上に呪いの王が座していた。 受肉した都合なのか、自分と同じ顔。それが自分では絶対に浮かべないであろう表情で笑っている様を見るのは、言葉にできない気持ち悪さがある。 「なるほど。それがしたくて俺と五条さんをはめたのか」 呪いの王を見上げて虎杖は吐き捨てた。 この異様な空間は両面宿儺の生得領域――心の中、であるらしい。そして自分達の意識があり、生得領域内に存在しているということは、虎杖悠仁の肉体はまだ死んでいないということ。宿儺の力によって心臓を治せば生き返れるのだと、目の前の呪いは虎杖にそう説明していた。 ただし。 「心臓を治してやるための条件は二つ。俺が『契闊』と唱えたら一分間体を明け渡すこと。そして、この約束を忘れること」 「駄目だ」 宿儺が出した条件を虎杖はきっぱりと切り捨てた。 「オマエのことは信用できん。五条さんも用心しろって言ってたし。それに今回のことで嫌ってほど理解した。オマエ、周りにいた奴らのこととか、上層部の思惑とか、全部気づいた上で俺と五条さんをはめただろう。そんなヤツの出した条件を俺が呑むと思ってんのか」 相手は呪い。忌むべきもの。人に害を為すもの。そんな邪悪な存在の言葉を容易く信じるわけにはいかない。 虎杖は相手を睨みつけたまま付け加える。 「それにどうせオマエが表に出てもロクなことにはならん。たとえ一分であってもな」 「ふむ。ならばその一分間、誰も殺さんし傷つけんと約束しよう。オマエが大事にしているヤツらに危害を加えんと言っているのだ。これで充分だろう」 「だから信じられんって言ってるだろ!」 「信じる信じないの話ではない」 激高気味に叫ぶ虎杖とは対照的に、呪いの王はあくまで冷静に、かつ、どこか嘲笑うように、厳かな声で告げる。 「言っただろう、これは縛り=\―誓約だ。守らねば、罰を受けるのは俺。……ああ、そう言えばオマエは縛りのことも大して分からぬまま上層部とやらと約束を交わして、結果、裏切られてあのような目に遭ったのだったな。それなら縛りの重要性は身に染みて分かっただろう? さあ、俺の出した条件をよく考えてみろ」 血のように赤い目がじっと虎杖を見下ろして、やがて三日月のように細くなる。 「それにこのままだとオマエは本当に死ぬぞ。あの男を置いたまま、な」 「……っ!」 宿儺の生得領域内で初めて虎杖の表情に怒りと警戒以外の感情が滲んだ。 脳裏をよぎるのは白い髪と青く輝く瞳を持つ、うつくしい人。虎杖にとって、とても大事で特別な人。 彼にとって虎杖など路傍の石も同じだと思っていたが――だからこそ処刑を望んだのだが――、実はそうではないらしいということを、宿儺の中で見ていた今の虎杖なら分かっている。 勘違いならそれまで。しかしもし本当に、あの美しい男にとって虎杖がただの他人でないのだとしたら。 置いて逝きたくない。せめてもう一度、会って言葉を交わしたい。 そんな欲が虎杖の中で頭をもたげる。 虎杖の心の揺らぎに気づいた宿儺がくすりと嗤い、「どうする?」と問いかけた。 「……分かった。条件を呑む。何がしてぇのかよく分からんけど、生き返るためだ」 そう告げてから虎杖はおもむろに足元に転がっていた牛と思しき獣の頭蓋骨を拾い上げ、 「なんて言うわけねぇだろ! あの人のことまで持ち出しやがって!」 呪いの王に向けて思い切りぶん投げた。 常人を遙かに超える膂力で投げられた頭蓋骨は玉座代わりの骨の山に直撃し、両面宿儺はひらりとその場から離れる。足をつけたのは水が満ちた地面。虎杖は自分と同じ目線の高さになった王へと歯を剥き出しにして吐き捨てた。 「無条件で生き返らせろ。そもそも、テメーの方こそ俺と心中したくねぇんじゃねーの? もう俺、オマエの指八本も取り込んじまってるんだぜ。一本二本じゃどうか知らんけど、ほぼ半分だ。流石に惜しいだろ」 五条のことは確かに気にかかる。だが彼が言っていたとおり、用心しないわけにはいかない。特に相手の意図が分からないまま提示された条件を呑むなど以ての外だ。 生き返るなら無条件で。それ以外は聞き入れられない。結果として五条に二度と会えなくなったとしても……本当は嫌だが、背に腹は代えられない。 と、未だ少し揺れる虎杖に呪いの王が「ふむ。ではこうしよう」と付け足した。 「今から殺し合って、小僧が俺に勝てば……いや、一発でも俺に攻撃を当てることができれば無条件で、俺が勝ったら俺の縛りで生き返る。ああ、俺が勝つと言うのは無論、オマエをこの生得領域内で殺すということだ。安心しろ、外の世界で死ぬことはない」 虎杖にとって非常に有利な条件が提示される。まだ僅かに揺れていた虎杖の背中を押すように。 呪いの王が非常に強いことを虎杖は中で見ていて知っていた。しかし一度は処刑を望んだものの、虎杖は決して死を望んでいたわけではない。死ぬ時に、特別な相手から何の感情を向けられないまま死ぬのが嫌だっただけだ。けれどその嫌な想像は思わぬ出来事によって打ち砕かれつつある。 希望があった。幸せの片鱗が見えてしまっていた。 ゆえに―― 「……いいぜ。はめられた分の恨みも込めてボコボコに――」 キンッ、と宿儺の術式によって虎杖の頭部が上下に分割される。 希望の欠片をちらつかされた結果、虎杖は宿儺の思惑どおりに縛りを結んでしまったのだった。 ◇ 凶弾を受け、胸に穴を穿たれた愛しい子。 五条は脱力しきったその身体を宝物のようにそっと抱き上げる。 「なぁ。オマエらんとこの上層部、僕が全員殺してもいいよね?」 どうしようもなく湧き上がってくる殺意に突き動かされるまま、現れた者達へとそう告げた。 かすり傷一つない五条の周囲は血と破壊の痕跡で満ち満ちている。過剰、の一言では言い表せないほどの惨劇。その中央に立つ五条は、全て終わってからやって来た親友と見知らぬ黒髪の子供に、つい、と青い目を向ける。 「答えは『はい』しか認めねぇ。邪魔するってんならオマエらから殺してやる」 両面宿儺の現出。しかしそれは、あの呪いが虎杖に何かしでかしたからではないらしい。ならば答えは一つしかない。呪術師達が――虎杖悠仁と五条悟を邪魔に思っている老人達が、全て仕組んだのだろう。 ゆえに、もし五条の行動を邪魔すると言うのなら、たとえ親友であっても容赦はできそうになかった。五条の心の中は、今、怒りと悲しみで満たされている。これまで感情だけで人を殺した経験などなかったが、どうやら虎杖との出会いによって五条はそんな『はじめて』を経験することになってしまうらしい。 抑えられない殺気を垂れ流したまま五条は親友達の方へ足を向ける。カツン、とわざとらしく革靴を鳴らすのは威嚇の意味も含んでいた。退くならば良し。そうでないなら発言のとおりに殺すまで。 ゆっくりと近づく五条に対し、夏油は顔を伏せ、黒髪の少年は無表情とも取れる固い顔つきで五条とその腕の中にある子供を見据えている。 彼らは一歩も退かなかった。そんなに今の立場が大事かよ、と五条は怒りのあまり逆に冷静になりつつある頭で考える。だが手を伸ばせば届くほどの距離に近づいた時、ふいに夏油が顔を上げた。 「邪魔? 馬鹿を言うな」 「……へぇ」 向けられた夏油の表情を見て五条は口の端を持ち上げる。 虎杖のことが大事なくせに何もできなかった親友殿。五条の目には蔑みの感情さえ浮かんでいただろう。しかしどうやらその必要はなかったらしい。自分の胸の裡にあるものと同じ感情を目の当たりにして、五条は腹の底から暗い喜びが湧き上がってくるのを感じた。 夏油の顔に貼り付いているのは冷笑。二つの黒瞳に憎しみをたぎらせて、五条が認めるもう一人の『最強』は告げる。 「あんな虫ケラ共、生かしておく価値もない。殺すのは私の役目だ」 「俺のことも忘れないでくださいね、先生」 黒髪の少年もそれにしれっと加わる。夏油が傍らに視線を向けて「勿論だよ、恵」と答えた。 これで『特級』を冠する術師の半分が呪詛師に堕ちることとなる。おまけに夏油が目をかけているらしい少年も。五条が「その子は?」と訊ねると、少年自ら「禪院恵と言います」と答えた。 「御三家の子供か」 「オマケに次期当主候補さ」 「そりゃ大物だ」 夏油の補足説明に五条はニヤリと嗤う。虎杖は随分と大物ばかりに好かれるらしい。「すごいね、ゆうじ」と五条は腕の中の子供にそっと囁きかけた。 「そんじゃま、ジジイ共には自分達がやったことを盛大に後悔してもらうとしますか」 「上層部と関わった他の奴らもあぶり出さないとね」 「うちと加茂家の上の方は大体『黒』なんじゃないですか。五条家の方は知りませんけど」 「こっちは僕が呪詛師認定されてから随分干されたらしくてねぇ。直接関わってる可能性は低いかな。だから放っておいても良いけど、もしこの機に乗じてしゃしゃり出てくるようなら消してくれて構わないよ」 「分かりました」 完全に狂った台詞の応酬を日常会話のように交わす。五条も、他の二人も、顔には薄い笑みが浮かんでいた。 「全員殺してしまおう。保身馬鹿、世襲馬鹿、高慢馬鹿、ただの馬鹿。腐ったミカンは全て廃棄処分が相応しい」 五条はもう一度腕の中の存在を見下ろして「ね、悠仁」と、その額に口づける。 「君の死を望んだ奴ら全員、僕らが一人残らず殺してあげる」 まるで愛を紡ぐようにその声は甘い。五条は額に続いて、閉じられた両方の瞼にもまた羽根のような軽さで口づけた。 と、その時。 もう二度と動かないはずの瞼がふるりと震え―― 「なんかすげぇ物騒な単語が聞こえてきたんだけど」 奇跡が、起きた。 13 「悠仁ッ!」 強い力で抱き締められる。内臓が出るんじゃないかと危惧するほどに。 けれど苦しみよりも、服越しに伝わる熱と視界の端でチラつく白い髪に胸がいっぱいになって、虎杖はぐっと唇を噛み締めた。 「っ、ああ……心臓、動いてるね」 夢じゃないんだ、と夢のように呟きながら五条の双眸が虎杖を見つめる。 星が舞い散る稀有な瞳。涙に濡れた二つの瑠璃はとびきり美しく、虎杖は自然と頬が緩むのを感じながら、優しく「泣かないで」と囁いた。 「おかえり、悠仁」 「ただいま、五条さん」 それからすぐ傍で驚きに目を見開いている既知の二人に顔を向けて「先生と禪院も、ただいま!」と片手を上げた。 「宿儺の指を食べた時からそうだけど、君って大概規格外だね。……おかえり、悠仁」 「心配させんな、馬鹿」 返ってくる声も表情も優しくて虎杖は喜びを堪えきれずに破顔する。くしゃくしゃの笑顔に夏油と禪院も思わず目尻を下げた。 「悠仁、傷が治ってるのって……」 「うん、たぶん宿儺が何かしたんだと思う」五条の問いに答えながら虎杖は血塗れの服の下で完全に傷が塞がっている胸を撫でた。「でも何も覚えてないんだよな」 奇妙な記憶の欠落。もしかしたら五条が危惧していた縛りとやらを結ばされてしまっているのかもしれない。五条もそれを察して表情を僅かに曇らせた。 だが今は再びこうして言葉を交わせる事実が嬉しくて仕方ない。 虎杖は腕を伸ばして一度ぎゅっと五条を抱き締めると、彼を促して横抱きの状態から解放してもらい、地面に足をつけた。 改めて眺める三人の顔にやはり胸が熱くなる。 ただしその周囲に広がるのは惨劇の痕跡だ。そして目覚める直前に五条達が喋っていた言葉を、断片的ではあるものの虎杖も聞いていた。 「あのさ、もしかしなくても上層部に殴り込みに行くつもり……だよな?」 瞬間、周囲に緊張感が満ちた。 ピリピリと物理的な痛みさえ感じそうな雰囲気に虎杖はごくりと息を呑み、しかしここで気圧されるわけにはいかないと拳を握り締める。 「駄目だ。そういうのは絶対に駄目だ」 「どうして? アイツらは悠仁をはめて一番最悪な殺し方をしようとしたんだよ?」 君の身体に僕を殺させ、僕に君を殺させようとした。 そう告げる五条の双眸には暗い影が落ちる。虎杖自身、その事実には腹が立ってしょうがない。夏油と禪院を見やれば、彼らもまた同じ気持ちであることが察せられた。 「でも」 憎しみよりも怒りよりも優先したいものが虎杖にはある。 「俺は夏油先生と禪院が俺の所為で人殺しになっちまうのは嫌だ。呪詛師になるのも嫌だ」 夏油と禪院の顔を順番に眺めてそう告げれば、二人ともぐっと耐えるような仕草を見せた。 「五条さんにも、これ以上、俺の所為で人を殺してほしくない。て言うか――」 青い双眸を見上げてそう言い切った虎杖は、しかし続く言葉を発する前に視線を落とす。これを言って、自分は五条に呆れられてしまわないだろうか。そんな心配が脳裏をよぎった。しかし結局のところ、言わずにはいられない。その言葉こそ自分の本心なのだから。 「悠仁……?」 五条の呼びかけに応えるように虎杖は再び視線を上げる。 「五条悟は感情で人を殺さない=\―そのはずなのに、たとえ負の感情だったとしても五条さんに感情を伴って殺されるとか、そんなの、俺、上層部がうらやましくなっちまうだろ」 「へ?」 ぽかん、と口を開ける五条。 予想外なのは当然だろう。虎杖は苦笑して、けれども「冗談なんかじゃないよ」と念押しする。誤魔化すことはない。これが己の真実だ。 「もう全部言っちゃうけどさ。五条さん、俺ね、もし五条さんと戦わされて、殺されることになったとしたら……その時、俺を殺す五条さんの目に何の感情も浮かんでなかったらどうしようって、それが怖くて上に処刑してくれって頼んだんだ」 虎杖の告白に五条だけでなく夏油と禪院も息を呑んだ。 「ごめん。たぶん禪院のことも、夏油先生のことも、五条さんのことも、裏切るやり方だったと思う。でも嫌だったんだよ。俺にとって特別な人は、俺のことなんて特別に思ってないって思い知らされるの」 「何……馬鹿なことを……」 震える声で告げる五条。大きな手が虎杖の両肩を掴んだ。 「こんなに僕を惚れさせておいて、悠仁はただの勘違いで勝手に死のうとしてたの? 許さないよ。絶対に許さない」 「うん、うん。ごめん。今の五条さんを見れば俺が馬鹿だったってことくらいちゃんと分かってる」 己の肩を掴む大きな手に自分の片手を重ねて握り締める。 「五条さん。俺、五条さんと一緒にいたい。一緒にいてもいい?」 地獄のような光景の中、自身も血塗れのろくでもない姿で一世一代の告白を。 見上げた先にある瑠璃の双眸には、今、虎杖がはっきりと映り込んでいる。まだ涙の気配をいくらか残すそれが虎杖の告白にゆらりと揺らめき、そして数多の星を瞬かせた。 「いいよ。一緒にいて。離れたいって言っても死ぬまで放してあげないから」 ◇ 「このまま悠仁をもう一度誘拐しちゃうって手もあるんだけど……ねぇ、悠仁。僕から離れないのは当然として、ぶっちゃけ悠仁は傑や禪院の子とも離れたくないって思ってるでしょ。だとしたら一つ良い方法があるよ」 五条と虎杖が一生一緒にいると誓い合った後、二人は夏油、禪院と共に車で山を下りていた。 高専から廃工場まで虎杖を運んだとされる黒塗りのセダン。運転するのは唯一自動車免許を持っている夏油で、助手席に禪院、後部座席に五条と虎杖が並んで座っている。 四人の行き先はまだ決まっていないものの、山を下りるルートは一つだけ。その途中で五条が発した言葉に虎杖のみならず夏油と禪院も首を傾げた。 三人分の疑問符が浮かぶ車内で五条一人だけが悪巧みをする子供のようにニッと口の端を持ち上げる。 「傑にも手伝ってもらう。当然だよね、僕達親友なんだし。つかオマエも悠仁のこと大好きだろ? それに禪院の子……もう恵って呼んでいい? 恵、オマエ禪院の次期当主候補ならそっちのコネって使える? まぁなくても良いんだけど、あれば便利だから」 「え? ご、五条さん?」 「悟、オマエ何をする気だ?」 「虎杖のためになることなら協力しますけど……」 三者三様の反応に五条は満足げな表情で頷き、どこまでも軽い口調で言い放った。 「僕、呪詛師やめて呪術師になろうと思うんだよね」 14 天井から吊り下げられた燈籠が部屋の中央のみをぼんやりと照らし出していた。 灯りの真下に立つのは真っ白な髪をした長身の男。目隠しによって顔の上半分が見えずとも、その容姿が非常に整っていることは容易に察せられる。髪とは対照的な黒い上下に身を包んで佇む姿は若さと老獪さを併せ持ち、男を取り囲むようにして姿隠しのための障子の向こうに座す老人達とは、まとう空気に天と地ほどの差があった。 この場において強者であるのは確実に白い髪の男。それは男も老人達も互いに理解している。しかしこの老人達こそ、呪術界の権力者であり、呪術師を統括する集団――上層部だった。たとえ自己保身と世襲にまみれて腐敗しきっていたとしても、その事実は変わらない。 男も無理やり上層部が集まる場に足を踏み入れたのではなく、老人達の召喚命令に応じて出頭しているに過ぎなかった。……と言うのは建前であり、自身の実力と友人知人の伝手を使って上層部にこの場を設けるよう促した張本人である男こと五条悟は、開口一番、普段よりもわざと高い声でにこやかに言い放った。 「この度は呪術規定第九条の違反に伴う私の呪詛師認定及び処刑命令の撤回、まことに感謝致しまぁす! 上層部の皆々様の寛大なご処置には涙がちょちょぎれるほど笑っ……いえいえ、感涙の雨あられでございまして!」 わざとらしく煽る五条。障子の衝立の向こうでは老人達が憎々しげに奥歯を噛み締める。 充分な灯りがなくとも、姿を隠す衝立があろうとも、己が目隠しをしていようとも、そんな様子をはっきりと察知している五条は、さらに声を大きくして、ついでに舞台役者のごとく両腕を広げて続けた。 「呪詛師としての罪科をチャラにしていただく代わりに、わたくし五条悟はこれから誠心誠意、呪術界と非術師の皆様にご奉仕させていただく所存です。特級呪術師≠ニして! 今後の活躍にどうぞご期待ください! あまりの仕事っぷりに目ん玉ひん剥いて泡吹いて倒れちゃわないでね、お爺ちゃん達。まぁそのまま心臓止まってくれても僕は全然構わないんだけどさ。おっと今のは聞かなかったことにして。オフレコオフレコ。てかお爺ちゃん達の老化しまくりな頭なら僕がわざわざお願いしなくてもすぐに忘れちゃうか。こりゃまた失敬」 くすくすと笑ってそう告げれば、障子の衝立の向こうでますます怒気が膨れ上がる。我慢の限界だとばかりに叫び出す者が現れるのも間も無くだろう。しかしそんなものに耳を傾けてやる義理は五条にはない。そもそも老人達には五条を口汚く罵る権利など一切存在しないのだから。 五条は愚かな老人達が分を弁えず口角泡を飛ばして叫び出す前に、彼らに自身の立ち位置を理解させるため言い放った。 「皆様には本当に色々と感謝してるんですよ。今回の僕の件だけじゃなく悠仁の……そうそう、分かるでしょ? 虎杖悠仁君のことでも大変お世話になってますからねぇ。身寄りのないあの子に宿儺の器として衣食住を与えて、高専で随分と丁寧に*ハ倒見てあげてたんでしょ? どうやら中々に好待遇≠セったようで! ははっ、お爺ちゃん達もやるじゃない。おかげで僕はあの子に会えたんだから、感謝してもしきれませんってやつ! ねぇ、知ってるかな。あの子、本当に良い子なんだよ。僕、すぐに大好きになっちゃった。分かる? 好きなの。愛してんの。五条悟は虎杖悠仁のことが大切で大切で仕方ないの。あの子に笑ってもらうために、わざわざしがらみいっぱいで超面倒臭い呪術師に戻ろうなんて言っちゃうくらいには。……それで、だ」 一気に声のトーンを落として、ついでに目隠しを首元まで下げてやれば、叫ぼうとしていた老人達が喉を詰まらせ衝立の向こうで震え上がる。 彼らもようやく気づいてくれたらしい。自分達が最初から五条悟の地雷を盛大に踏み抜いていたという事実に。 この場は五条によって招集された老人達が五条を憎々しく思いつつも、呪詛師認定および処刑命令の撤回を改めて宣言する場ではない。五条悟が腐りきった愚者達に己の立場を理解させ、もう二度と五条とその大事なものに手を出そうなどとは考えないようにさせるための場所なのだ。 「わざわざこうして時間取ってやってんのは、僕達を出会わせてくれた分の御礼でもある。でなきゃなんでオマエらの人間性が滲み出たきったねー顔なんざ見に来るかよ」 そう下品にせせら笑って、けれどもすぐに上品な微笑を唇に刻み直して、きっと己を今すぐにでも排除したくてたまらないだろう老人達に五条は殺意と嘲弄を浮かべてみせた。 「僕が呪詛師になってから十二年。その間にオマエら、僕を殺すなり封印するなり、とにかく無力化できる方法ちゃんと見つけられた? 無理だったよねぇ。そうだよねぇ。でなきゃ両面宿儺をぶつけるなんてこと考えつくはずないもんねぇ? もうオマエらにできることはない。そもそも生きてる価値すらないよね。本当ならオマエらをこの国ごと塵にしてやっても構わないんだよ」 この国はたった一人の気まぐれによって生かされている。 冗談のような、けれど冗談では済まされない、紛れもない事実だ。五条悟にはそれができる。 化け物め、と衝立の向こうから小さな罵りが聞こえて五条はますます笑みを深めた。 「僕が化け物? 大いに結構。どうせ悠仁にも化け物だ呪いだ何だと罵ってたんだろ。お揃いなら嬉しい限りさ。そんでもって人間であるはずの僕らのことが化け物に見えちゃう矮小なお爺ちゃん達に朗報だよ。――オマエらが無事に長生きできるように、一つ、縛りを結ぼうか」 ざわり、と空気が揺れた。 呪術師にとって縛りとは非常に重要な要素である。呪いの世界に深く長く身を置く者ほどその重要性は身に染みて理解しているだろう。 たとえ腐りきっていようとも呪術界の頂点に座す者達が揃って息を呑む。 五条はひっそりと嘲笑した。彼らは一体何を期待しているのだろう。そんなにも価値のない命を一日でも永らえさせたいのだろうか。 ならばこの縛りを、誓約を、文字通り命をもって遵守すればいい。 「誓約する。オマエらが余計な手出しや干渉をせず、悠仁が元気に生きていられるなら、その間に限って、僕は絶対にオマエらを殺さないし、勿論この国も滅ぼさないであげるよ」 五条悟が呪術師になったのは呪術師である虎杖悠仁の傍にいるためだから。 そして彼の笑顔が保証されないなら、世界だって必要だとは思えない。 (でも悠仁が死んだ後は知らない。これまでどおり存続するのか、悠仁の死と同時に破滅するのか、その時の僕の気分次第だ。……ちゃんと長生きできるよう、ついでにお家も繁栄し続けられるよう、精々頑張りな。ジジイ共) 口には出さず、胸中でのみ付け足す。 さて、狡猾で醜い老人達は五条の言葉に隠れた真実を正しく見抜けるだろうか。 薄暗い空間を沈黙が支配した。老人達は五条の出した条件を拒否したくてたまらないはず。しかしそれは不可能である。断れば、今この場で五条に命を刈り取られるのだから。 やがて一人の老人が五条の出した条件を呑むと頷いた。するとそれに従うように次々と承諾の声が衝立の向こうから発せられる。本当に渋々ではあるが最後の一人まで頷いたのを確認し、五条は「よし」と呟いた。 これは縛りとは名ばかりの、事実上の脅迫。けれども誓約は為された。 虎杖悠仁が健やかに生きている限り、五条悟は絶対にこの国を滅ぼさない。老人達も殺さない。もし縛りを破ったならば、罰を受けるのは五条である。 だが込められた意図はたった一つ。 あえて口にするまでもないものだが、五条は呪術界の至宝たる瑠璃の瞳で老人達を睥睨し、これ以上ないほど美しく唇に弧を刻んで、絶対の理を告げた。 「今度、虎杖悠仁に手を出したら、死ぬよりももっと凄惨に、残酷に、おぞましく、生まれてきたことを後悔させてやるから覚悟しな」 15 「五条先生ーっ!」 黒い学ランに特徴的な渦巻き模様のボタン、ただし各人に合わせてカスタムされているため全く同じというわけではない制服姿の男女三人が、校舎内の休憩スペースのソファに背を預けて休んでいた担任教師へと声をかける。 仮眠中だったが呼びかけの声で起きたのか、それとも最初から寝ていなかったのか、学生達には判断がつかない。ただし黒い目隠しを押し上げて晒された片目には眠気など欠片もなく、すでに四十歳近いというのに驚くほど若々しい顔がにこりと笑みを浮かべた。 「おはよ。皆どうしたの」 とびきり整った造形に宝石よりも美しい青い瞳。髪は新雪のように白く、そして何より自他共に『現代呪術師最強』と認める圧倒的な実力者。神が二物も三物も与えたというより、最高傑作を作ろうとして全てを注ぎ込んだかのような存在である男――五条悟。 その力はたった一人でこの国を滅ぼすことも可能だと言われているが、彼の職業は呪術師を育てる専門機関、東京都立呪術高専の教師だった。現在は特級呪術師としての任務をこなしつつ、高専一年生の担任教師を務めている。 その彼の生徒の一人である少年が人懐っこい笑みを浮かべ、三人を代表して五条の問いかけに答えた。 「んー、用はないけど見かけたから!」 「あはは、何それ」壁に掛かった時計を一瞥して五条が付け加える。「この時間だと……ああ、悠仁の授業が終わったんだね」 「大正解! 俺らのって言うかあの先生の授業時間把握してる辺り、先生ほんとブレないよね」 「つか生徒の前で他の教師のこと、下の名前で呼ぶか? フツー」 「五条先生そういうとこあるよな」 「まぁいいじゃん。仲が良いってことだろ?」 他の二人もそれぞれ呟き、彼らの発言に最初の少年が苦笑でもって答えた。 呪術師は一般の人々と比べて数が少なく、一学年に数人のみというのも珍しくない。東京高専の現在の一年生もこの三人だけ。協力して任務に取り組むことも多々あり、仲は非常に良好だった。 明るく人好きするタイプの少年と、しっかりした芯を持つ気の強い少女、そして控えめに見えつつも確固たる信念と実力を併せ持つ少年。彼らは高専に所属する幾人もの教師達に見守られてすくすくと成長を続けている。 五条が口にした「悠仁」という人物もそんな教師陣の一人だ。 名は虎杖悠仁。二十代半ばの青年で、元一般人。学生の頃に特級呪物『両面宿儺』の指の屍蝋を取り込んで、死亡せずに受肉。呪術規定に則り死刑になるところだったのだが、紆余曲折を経て今では立派な呪術師兼教師である。その身体にはすでに宿儺の術式が刻まれており、呪術を扱うことも可能だが、学生達に教えてくれるのはもっぱら体術の方だった。 特級呪物を取り込んでも死なない千年に一人の逸材とされる虎杖は、フィジカルギフテッドと言っても過言ではない優れた身体能力を持っている。肉体的な強靱さに彼の生徒一人一人にしっかりと向き合う性質も相まって、学生達は虎杖の授業を一コマ終えるだけでへとへとになってしまうのが常だった。 「ま、相手が殊更嫌がらない限りは下の名前で呼んでるけどね。過去にガチで嫌がったのって学生ん時の後輩くらいだったし。ともあれ、僕と悠仁が特別仲良しなのは事実だよ」 うらやましいでしょ、と口には出していないが、五条の顔がそう告げている。明るい少年の隣で少女が「マウントとってんじゃねーよ」と、ぼそりと毒づいた。虎杖の授業は大変だが、三人とも件の教師のことは大好きであるので。 「あーそうそう!」少女の毒を含んだ呟きを誤魔化すように少年はわざとらしく声を張り上げる。「五条先生、先生達っていつ頃知り合いになったの? なんか長い付き合いだってのは雰囲気で察してるけど」 少年の問いかけに興味を引かれた五条が少女からそちらへと視線を戻した。誤魔化し成功……かと思いきや、五条が発言する前にまたもや級友達が口を挟む。 「どうせそこのサボり教師が呪詛師やってた時に、虎杖先生が任務で捕まえようとしたとかじゃないの?」 「それだとどう見積もっても当時の虎杖先生は学生だったってことになると思うんだが。流石に特級呪詛師の捕縛で学生は派遣しないだろ」 少女が鼻で笑い、もう一人がそう付け足した。 現在呪術師として学生達の指導に当たっている五条であるが、彼が十年ほど前まで呪術界から呪詛師の烙印を押されていたのは今でも有名な話である。呪詛師認定とそれに伴う処刑命令が撤回された当初は五条の力を恐れて誰も大っぴらに批難することができず、そして今では彼の呪術師としての活躍ぶりを認めるが故に誰も過去のことを蒸し返して批難することができなくなっていた。 したがって今のように軽々しく五条が呪詛師であったことを口にする者は珍しい部類に入る。ただ、珍しいことをしたからと言って、生徒達が五条を嫌っているわけでは決してない。むしろ甘えていると言っても構わないだろう。本人は否定するかもしれないが。 五条の方もそれは理解しているようで、怒るどころか生徒達の疑問にニンマリと口角を上げて身を乗り出した。 「えーなぁに、気になる? 気になっちゃう? 僕と悠仁のこと」 最早その姿は学生の疑問に答える教師ではなく、単純に自分達のことを語って聞かせたい惚気野郎にしか見えない。 学生達にとって五条悟という男は、実力は確かで尊敬し見習うべき所も多々ある人物である。しかし奔放な性格や振る舞い故に、簡単にそれを認めるわけにもいかない。そんな男にだらしない顔で惚気話をされるのは正直なところ勘弁したいのだが、五条と虎杖、二人の過去には興味があった。 三人は顔を見合わせ、後者を優先させることを選択する。 「教えてよ、先生達のこと」 「うん、いいよ。そこ、座りな」 生徒達が自分の話を聞く気になったのを見て、五条は他の椅子を三人に勧める。 各々が腰を下ろしたのを確認すると、最強術師は静かに、そして慈しみを込めて、そっと語り始めた。 「これは僕らの馴れ初めの話」 二人が出逢って、惹かれて、手を取り合うまでの、そして結ばれてからも続く物語だ。 2021.03.06〜2021.04.10 Privatterにて初出 |