悪の華





◆01


 ――オマエは強いから人を助けろ。
 たった一人の肉親だった祖父の遺言に背中を押されて、高校卒業後、虎杖悠仁は警察官になるべく警察学校に入学した。
 生来の高い身体能力が遺憾なく発揮された結果、学内でも上位の成績を収め、その先には輝ける未来が待っている。……はず、だったのだが。


 将来有望な生徒には教官も唾をつける、もとい、何くれとなく構うようになる。本来は全ての生徒を平等に扱うべきであっても、現実とは得てしてこういうものだ。
 その夜、虎杖もまた研修という名目である一人の教官から食事に誘われていた。ただしドレスコードがある店で待っていたのは教官だけではない。卒業後の配属先になり得る当局の上級役職者まで顔を見せていたのである。そうして初めてではない会食を虎杖はつつがなく終え、教官達に寮まで車で送り届けてもらうこととなった。
 しかし店を発ってしばらく行くと、交通量の少なくなった脇道で一台の高級車に行く手を遮られた。
 何事かと不快そうに顔をしかめる教官達。運転手を残して虎杖を含めた三人が車から出ると、こちらの様子を窺っていたのか、合わせたかのように黒塗りの高級車の後部座席から人影が降りてくる。
 僧侶が身につける袈裟をまとった人物だ。背は然程高くない。夜でも分かるほど髪の色が薄く、また車のライトに照らされて見えた顔は若く整っているものの、男か女か判断がつけられない中性的なものだった。
「お初にお目にかかります」
 一礼する人影。その声からも性別は判断しかねる。
「……」
 ただ、虎杖が思わず眉を顰めたのは、相手の性別が分からなかったからではない。頭を下げられた先にいたのが教官や将来の上司ではなく、明らかに虎杖だったからだ。
 教官達の視線がちらりと虎杖に向けられる。
「私は裏梅と申します、虎杖悠仁様」
 そう名乗った性別不明の人物は両目を細めて虎杖を見た。
 優しく微笑んでいるようにも、ひっそりと嘲っているようにも取れる。それからすぐ、緩く弧を描いた口元が再び開かれ、裏梅がこの場に姿を現わした理由を虎杖達に告げた。
「この度、アナタ様の血縁上のお父上であらせられる両面宿儺様が引退のご意志を示されましたので、宿儺様のご子息、ご息女、皆々様にお伝えしに参った次第でございます」


 両面宿儺。
 それはこの国で最大の黒社会(マフィア)を統率する首魁の名である。
 彼が妻帯者であった記録はないが、その魅力に惹かれる女がいないはずもなく、虎杖の母もその一人だったらしい。
 そして犯罪者――しかも大規模マフィアのボス――の血を引く人間が警察官になれるわけもなく、虎杖は即刻、警察学校を退学させられることになってしまった。
 これで警察官になるという夢は完全に絶たれた。それどころか公務員およびそれに関わる仕事には一切就けなくなるだろう。一般企業でさえ難しいかもしれない。
 教官に呼び出された部屋で自身も知らなかった背景とこの先について告げられ、虎杖は目の前が真っ暗になった。
 しかしいつまで経っても全て話し終えたはずの教官が虎杖に退室を命じる気配がない。それどころか机の向こうにいる教官は虎杖を立たせたまま懐のポケットから携帯電話を取り出すと、どこかへ電話を掛け始めた。戸惑う虎杖に教官からの説明はなく、やがて二人しかいなかった部屋に新たな人物が入室してくる。
「君が虎杖悠仁か。私はそこの男と古くからの友人でね。君が非常に優秀だということも頻繁に聞かされていたんだ」
 教官と同じくらいの年齢と思しき男性が虎杖の肩を軽く叩いてその横を通り過ぎ、教官の隣に並ぶ。左胸には警視の位を示す胸章が輝いていた。
 アンタは誰だ、と問いかけたいが、この場において虎杖の発言はまだ許可されていない。しかし視線だけでもその意志は伝わったのだろう。新たに現れた警視が自身の名前と階級を告げ、そして早々に本題を口にした。
「マフィアのボス……いや、元ボスの血を引く君が普通の方法で警察官になることはできない。だが……だからこそ、君に一つの道を提示したい」
 友人であるらしい教官と視線を交わした後、警視は再び虎杖を見やってニヤリと口の端を持ち上げた。
「君の血筋を利用してマフィアに潜入してほしい。奴らに気づかれず、こちらに情報を流すんだ。それで助かる命がある、守られる安寧がある。……警察官なら、できるだろう?」


◆02


「……見ない顔だな」
 看守に付き添われ虎杖が鉄格子の内側へと足を踏み入れると、これからしばらく同室となる男が話しかけてきた。黒髪がツンツンと跳ねた若い男だ。年は虎杖と同じくらいだろう。牢屋の中は光量が十分でないものの、瞳は髪よりも明るい色だと分かる。青か、緑か。顔立ちは虎杖と同じ国のもののように思えたが、外国の血が混じっているのかもしれない。
「ま、初犯だかんね」
 とはいえ虎杖の方もこの国の中では浮いた色彩をしている。珊瑚色の髪は染色したものだが、瞳は自前の琥珀色。それに気づいたらしい男がぱちりと両目を瞬かせた。
「名前は? 俺は伏黒恵」
「虎杖悠仁。ちなみに今年で二十歳。まだ十九だけど」
「俺もだ。同い年か」
 牢屋の中には二段ベッドが二つ、つまり四人部屋だ。しかし先客は伏黒一人のみ。所詮相手は牢屋にぶち込まれるような犯罪者。人数は多いより少ない方が気楽だと虎杖はひっそりと思う。
 支給された着替えや最低限の物品を伏黒が腰掛けるベッドとは逆側のベッドの下段に置いて、虎杖はこれから共同生活を送る相手に笑いかけた。
「短い間だけど、どうぞヨロシク」


 マフィアに潜入するにあたって、警察学校を退学になったばかりの人間がそのまま裏側の世界に入り込めるわけがない。ゆえに虎杖は血筋の所為で警察学校をクビになり、自暴自棄になった≠ニいう設定で、しばらく路地裏にたむろするチンピラ達をこれでもかと殴り飛ばし、ついに先日、暴行の現行犯として何も知らない警察官に逮捕された。
 経歴作りのついでに服役中の犯罪者と伝手でも作っておけ、と虎杖の正体を知るごく少数の一人である警視は言ったが、刑務所に容易くぶち込まれるような犯罪者との間に伝手を作ってもこの先役立つものだろうか? 同室になった伏黒が眠りについているのを気配だけで確認し、刑務所暮らし初日となる虎杖は暗闇の中で上司の言葉に疑問を抱く。
 まだ出会って数時間しか経っていないが、伏黒は静かで大人しい男だった。社会の裏側で他者を蹴落とし、暴力を振るい、薬で狂って唾を飛ばしながら叫んでいる輩には到底見えない。……つまりは、何らかの罪で服役中だったとしてもその程度の犯罪者であるということだ。罪があまり重くなく、また闇にどっぷりと浸かっておらず、模範囚として大人しくしているから、他の受刑者とは分けて人数に余裕のある牢屋に入れられていたのではないか。そんな風にさえ思えてくる。
(なんでここにいるのかは知らねぇけど、仕方のないことでもあったんかな……。悪い奴じゃないなら、ちょっとは仲良くなれるかも。いやいや、むしろそれだと伏黒にとっちゃ俺の方が怖くて悪い奴ってことになんのか。だとしたらこの状況も負担だったりすんのかな)
 だとしたらゴメン、伏黒。と、虎杖は心の中で謝って目を閉じる。
 明日からは本格的に壁の中で犯罪者として扱われる。そして出所後にはこれまで以上に犯罪に手を染めることとなるだろう。
 唯一己を保たせるのは「自分は市民を守るための警察官である」という矜持のみ。折れるなよ、と自分自身に言い聞かせ、虎杖は眠りへと意識を手放した。

     ◇

 硬いベッドの縁に腰掛け、向かい側にある背中を眺めながら、不思議な男が来たものだと伏黒恵は思った。
 まだ日も昇らぬ早朝。明かりは乏しく、近くに人がいることは分かってもその表情まではうかがい知れない。昨日この牢屋に新しく入ってきた服役囚も流石にまだ目覚めていないようである。
 虎杖悠仁と名乗った新入りは、罪を犯した割には少しだけ日向の匂いがした。それは人工の明かりを受けて琥珀色に輝いていた瞳の所為かもしれないし、金と桃の間のような色に染められた髪の所為かもしれない。ただ、やはり最大の要因として考えられるのは、己が彼よりもずっと深い闇の底にいる所為だろう。だから相対的に相手の方が明るく見えてしまうのかもしれない。
 伏黒は二ヶ月ほど前にここへやって来た。しかしそれも慣れたもので、大した感慨はない。自分が所属する組織のちょっとばかり偉い人間の代わりに捕まって刑務所暮らしをしたこともある身だ。おまけに今回は自分の直属の上司から己の身の安全を確保するため′Y務所へと送り込まれている。馬鹿な服役囚や面倒な看守には辟易とするが、上司が危惧する面倒ごとに巻き込まれることと比較すれば、こちらでの生活はずっとマシなものだろう。
 ちょうど伏黒が服役する三日前、突如としてこの国の中でも最大と言えるマフィアのボスが引退を宣言した。後継者候補は彼の血を継ぐ子供達と彼の側近、そして同じ組織に属する幹部達。つまりは多岐にわたる。混乱は必至であり、新たな黒社会の王の座を巡って血で血を洗う内乱が起ころうとしていた。
 いち早くそれを悟った伏黒の上司は、「元」がつくこととなったボスから幾分目をかけられていた伏黒に面倒ごとが降りかからぬよう、また己が最大限自由に動けるよう、伏黒を檻の中に避難させた。
 伏黒の所属と直属の上司を知っている者は最初から伏黒を恐れたし、また知らない者も伏黒の癪に障る行動をしでかして瞬く間に伏黒本人に沈められ逆らわなくなった。そんな伏黒の行動を看守は見て見ぬフリ。終いには他の服役囚と牢屋を分けて物理的に他者が伏黒を苛立たせないよう取り計らうようになった。
 ただし看守も馬鹿はない。否、本当の意味では馬鹿なのかもしれない。
 ここ最近、どんな荒くれ者であっても伏黒に叩きのめされることで大人しくなることを知った看守達は問題を抱えた服役囚を最初にわざと伏黒のいる牢屋に放り込むようになってきたのだ。看守達の思うとおりになるのは業腹だが、伏黒も面倒な奴をそのまま放っておく気はない。「うるせぇ」の一言と共に実力行使で伏黒が馬鹿を黙らせ、服役囚が充分に脅えて大人しくなったら看守達はその者を他の牢屋に移すという行為が数回繰り返されることとなった。
 ゆえに次の同室となる服役囚はどんな奴かと思ったのだが、拍子抜けするほど問題など感じられない人間だった。
 その振る舞いに伏黒が嫌う要素はなく、あまり多くはなかったが会話も一切苦ではない。重大犯罪に関わっている様子もないし、一体虎杖のどこにここへ放り込まれるほどの理由があるのだろうと伏黒は首を捻る。
 ただし相手が自分から喋り出すならともかく、こちらから追求していくべき話題でもない。自分が訊ねられる立場なら、伏黒は舌打ちと共に相手を蹴り倒してさらに上から踏みつけただろう。ゆえに伏黒は口を噤む。
 少なくとも同室の服役囚がストレス要因にならないなら、状況は悪くない。檻の外のゴタゴタが落ち着くまでもうしばらくのんびりしていようと思った。


◆03


「へぇ、伏黒って姉ちゃんいんの」
「ああ、血は繋がってないけどな」
「ってことは伏黒の女版を想像すりゃいいってもんじゃないのね。どんな感じ? 美人?」
「美人かどうかは知らねーけど、まぁ穏やかでお人好し、でも芯はしっかりしてると思う」
「そっか」
 本日の刑務作業も終わり、牢の中で僅かな時間を持て余していると、何となく家族の話になった。
 虎杖が唯一まともに覚えている肉親が祖父であり、高校に上がってしばらくして亡くなったのだと明かせば、伏黒もまた肉親は姉一人だけだと教えてくれた。
 義姉について語る伏黒の表情はどこか柔らかく、「姉ちゃんのことが本当に大切なんだな」と虎杖の胸の奥が少し温かくなる。
「早く姉ちゃんに会えるといいな」
「そうだな。アイツは一般人だから、会ったらまず『何やってんの馬鹿!』って怒られそうだけど」
「ははっ! 伏黒の姉ちゃんカッケー!」
 虎杖は声を上げて笑う。
 刑務所に入って大した人脈は築けそうになかったが、伏黒恵という男に出会えたのは決して悪くないことだと思えた。
 伏黒の方も同じように感じてくれているだろうか。虎杖を怖がるわけでも嫌悪するわけでもなく、こうして自分の大切な人について話してくれるくらいなのだから。
 そうだといいな、と虎杖は願った。まるで他者からの好意を心の支えにするかの如く。
 警察官を目指していたにもかかわらず、人格や能力には何ら関係無いはずの血筋の所為で道は絶たれ、しかしそれでも縋る羽目になった先では悪事を働きその影で善を為せと命じられ――。「なんで俺がこんな目に」と思わないはずがなかった。しかしそれでも虎杖はこの道を進むしかない。罪を重ねて、マフィアの内部に潜り込んで、重要な情報を警察に流し、市民を、人を、守る。それだけが己に残された道だと信じて。
 辛い道だ。だからこそ、小さな希望に縋りたくなるし、何よりもそれを慈しみたいと思う。
「はあ? 格好良いか?」
 義姉が格好良いと評されたことに対し首を傾げる伏黒を虎杖は目を細めて見やる。すると伏黒は僅かに目を見開いて、それから眉尻を下げ、「もう一つアイツのことで思い出した」と続けた。
「何を?」
「似てるんだよ」
「……?」
 要領を得ない話し方に虎杖が疑問符を浮かべると、伏黒は吐息だけでフッと笑って答えを告げる。
「津美紀とオマエ、雰囲気っつーか、善人っぽいところが似てる。俺のことそんな顔で見てくるしな」
「そんな顔ってどんな顔だよ……」
 両手で頬を揉んでみるが、鏡もないのに虎杖が自分の表情を確認できるはずもない。その仕草に伏黒がまた吐息だけで静かに笑い、虎杖を見つめる。
「オマエ、実は悪い奴じゃないだろ」
「……」
 ドキッとした。
 ただ伏黒がこちらの本当の所属に気づいたわけではないのは明らかで、虎杖は「まさか」と彼の言葉を笑い飛ばす。
「俺は悪い奴だよ。……悪い奴にとっても、善良な市民の皆様ってやつにとっても」


◆04


 四人部屋を二人で使う囚人生活は、伏黒が先に出所したことで終わりを告げた。
 刑期はまだ終わっていないはずなのだが、ある日突然看守が虎杖達の牢の前にやって来て「伏黒恵、釈放だ。出ろ」と扉を開けたのである。
 しかし驚く虎杖に対し、伏黒は平然としたまま「……ある程度片付いたってことか」と零していた。その意味を問う暇もなく、伏黒は僅かな私物を持って外へ。そして最後に虎杖を振り返り、「また縁があったら、どこかで会うかもな」と口の端を持ち上げた。
「……おう。元気でやれよ」
「オマエも」
 そんな会話を交わして、虎杖は伏黒の背中を見送ったのだった。
 これで牢の中には虎杖だけとなった。しかし一人部屋生活もそう長くは続かない。他の受刑者が入ってきたのは勿論のこと、今度は虎杖が――こちらはきっちりと刑期を終えて――釈放となったのである。


「お世話になりました」
 刑務所の出入り口で見張りをしている看守達に頭を下げた後、虎杖は顔を上げて彼らに背を向け、改めて塀の外の空気を吸い込んだ。
 これからまたチンピラの如く路地裏を這いずって、少しずつ、少しずつ、闇の深い場所へ身体を浸していく。この身に流れる血を上手く利用すれば多少は早くマフィアの構成員と接触できるだろうが、それでやっとスタートラインに立ったことになる。いつ終わるともしれない任務に、肺が鉛のように重くなった。
 しかしここで足を止めるわけにはいかない。虎杖は一歩踏み出し、刑務所の壁沿いに舗装された道を歩き始めた。
 十メートルほど進むと路肩に車が止まっており、スモークガラスのそれに違和感を覚えながらも通り過ぎる。しかし虎杖が完全にその車を追い越した直後、ゆっくりとドアの開く音がして、

「君が虎杖悠仁?」

 振り返れば、やけに背の高い男が車の後部座席から降りてきたところだった。
「ふぅん。両面宿儺の血を引いている割には大人しい雰囲気だね。……あ、でも不機嫌そうな表情は良く似てる」
 虎杖よりも年上と思しき、しかもとびきり美しい男だった。
 髪は雪のように白く、丸いレンズのサングラスの奥にある瞳は海とも空ともつかぬ青。本当にその辺のモデルなどお話にならないような整った顔立ちと抜群のスタイルの持ち主である。しかし軽薄な空気と不躾な物言いがそれら全てを台無しにするような男でもあった。
 名前を言い当て、横を通り過ぎてすぐ声をかけてきたということは、彼は他の誰でもなく虎杖悠仁が出てくるのを待っていたらしい。しかも黒社会の大御所たる両面宿儺と虎杖の関係を理解した上で。
 両面宿儺と虎杖の関係はその手の者が調べれば分かるものだが、その意図を持って調べなければ分からないものでもある。つまり目の前の男は街の裏側を知る者。十中八九、マフィアかその関係者だろう。
 虎杖の中で警戒心が一気に跳ね上がる。
 自分に流れる血がここまで早く物事を進めてくれるとは思ってもみなかった。任務を遂行する警察官として足がかりを得られたことに僅かな歓喜と興奮を覚えないわけでもなかったが、宿儺の血縁としての虎杖悠仁がすでにマフィアから目を付けられているという事実は背中に銃口を突きつけられているのとほぼ同義でもあった。下手を打てばここで任務どころか命そのものが終わってしまう。
 慎重に言葉を選び、けれども何も知らない風を装って、虎杖は口を開く。
「そうだけど……アンタは?」
「僕は五条悟。宿儺が傘下に収めていたマフィアの一つ『五条家』の頭目をやってるよ」
「……あの『五条家』?」
「おや、知ってる?」
「知ってるも何も、ちょっと街の裏側を覗いた奴なら誰だって知ってる。その頭目だって? なんでそんな大層な人がわざわざ俺なんかに会いに来てんのさ」
 この国で最大規模のマフィアのボスである両面宿儺は一つの大きな組織を統率するだけでなく、大小様々なマフィアを傘下に収めていた。つまり実質的にはこの国を裏側から牛耳っていた存在でもある。その傘下のマフィアとして特に有名なのが『御三家』とも称される三つの組織――加茂家、禪院家、そして五条家だ。家(ファミリー)の名の通り、頭目(トップ)にはその家の血を引く人間がつく。
 御三家の各頭目は宿儺が直轄するマフィアの幹部であると共に、宿儺の首を落としてその玉座を己が物とするため虎視眈々と機会を狙っている者達でもある。中でも近年では五条家が他の二つを押しのけて台頭してきていると、警察側も警戒を強めていた。
 つまり五条家の頭目とはこの国の裏側の実質的なナンバー2ということ。そんな人物がわざわざ自分で『両面宿儺の血を引いてはいるものの、警察学校をクビになった所為でやさぐれて暴力行為に走っているだけのチンピラ』の顔を見に来るものだろうか。
 疑い半分、否、疑い八割くらいの目を向ければ、五条悟を名乗った男は「あれ? 信じてもらえない? 取り巻きを連れてこなかったのがマズかったのかな」と独りごちた。
「ま、いいや。何でも良いから車に乗って」
「は?」
「僕について来いって言ってんの。拒否しても良いけど、その場合は無理やり連れて行くから覚悟してね。君も痛いのはいやでしょう?」
「ッ!」
 一瞬にして空気が重苦しいものへと変わり、虎杖は息を呑んだ。反射的に片足を一歩後ろへ退いて半身の体勢を取れば、「おっ、なになに僕とやる気?」と五条がサングラスの下で目を輝かせる。それはプレゼントを前にした子供のようでありながら、しかし同時に人の破滅を喜ぶ悪魔のようでもあった。
 ただし五条が虎杖の戦闘態勢に応える前に第三者の声が割って入る。
「五条さん!」
 運転席側から慌てて出てきたのは黒髪ツンツン頭の青年――伏黒恵だった。
「えっ、ふ、伏黒!?」
 ちょっと罪を犯しただけの一般人が五条悟を名乗る男と一緒にいるなど想像もしていなかった虎杖は目を見開いて彼を見る。すると伏黒はこちらを一瞥し眉根を寄せた後、五条から虎杖を守るようにその前に立ちはだかった。
「虎杖に酷いことはしないって言ったじゃないですか!」
「恵、言葉は正しく使わなきゃ。君が『虎杖悠仁に酷いことはしないでくれ』と言ったのに対して、僕は『両面宿儺の最後の息子≠会ってすぐ殺さない』とは言ったけど、『暴力を振るわないし無理強いもしない』なんてことは一言も言ってないよ」
「……っ!」
 虎杖を背に庇い、伏黒がギリ……と歯軋りをする。
 状況が飲み込めず虎杖が目を白黒させていると、それに気づいた五条が「ああ。恵はね、僕の部下なんだよ」と、とんでもない発言をぶちかましてきた。
「元々僕は君にこの世からサヨナラしてもらうつもりだったの。両面宿儺の後継者として最有力候補に挙がるのはやっぱり彼の血を引く子供達だからね。それを、君の正体も知らずに出会っていた恵が拒否したワケ。先入観なしで君と知り合った所為かな。随分と僕の部下は君を気に入ってしまったらしい」
 両面宿儺が座っていた玉座に近いのは目の前の五条も――彼が本当の『五条悟』であるならば――同じだろう。ゆえに競争相手を無力なうちに排除しようとしたということか。
 黙って虎杖が状況の理解に努めていると、五条はさらにペラペラと続けた。
「ちなみに君より先にコッチに来た子供達は宿儺自らが気に入らないと言って文字通り切って捨てた。本当に、文字通り、だよ。見捨てたってことじゃない。バラバラにしたってこと。よっぽど気に入らなかったんだろうねぇ。で、君がムショ暮らしをしている間に宿儺はさっさと秘書役の人間一人を連れて国外へ。君は運良く生き残ったというわけだ」
 両面宿儺の血を引くたった一人の生き残り。それが今の虎杖悠仁の価値なのだろう。黒社会の大御所がわざわざ出向いてきた理由が徐々に明らかになってきた。
「宿儺が持っていた全てを引き継ぎたい輩はまだまだごまんといる。僕も立場上そうしなきゃいけない人間でね。で、僕らにとって一番の邪魔はやっぱり君になるわけだ。この国じゃ昔から実力よりも血筋が優先される。君が一番玉座に近い位置にいるし、何も知らない君を玉座に座らせて裏から操ろうと考えてる奴なんて掃いて捨てるほど。たとえただのチンピラであっても、君の価値は宿儺の血を引いてるってだけで跳ね上がるんだ。ちなみに僕は君みたいな面倒な駒に動かれるのが嫌でね、だったら先に首を落としちゃえば良いと思ったわけだ」
「!?」
 口調は軽いものだというのに、それを聞いた虎杖の全身に鳥肌が立つ。恐怖という単語がピタリと当てはまった。まだ何もされていないにもかかわらず、虎杖は本能的に目の前の男を恐れている。『これ』には絶対に勝てない、と。
 だが脅える虎杖に五条は小さく笑い声を上げ、「安心しなよ」と肩をすくめた。
「言っただろ。恵がね、君を殺すのは反対だって言ったんだ。君は良い奴だからって。あの宿儺の息子が良い奴って! そりゃあ観察してみたくなるでしょ。だから殺すのは保留にした」
 そうして五条は役者のように大仰な仕草でバッと両手を広げる。
「僕のところにおいで、虎杖悠仁。君がどういう人間なのか僕は知りたい。それに僕の元にいれば君を操りたい馬鹿や君に死んでもらいたいと思っている同業者からも守ってあげる。無論、僕にも益はあるよ。あの@シ面宿儺の血を引いている唯一の生き残りが僕の部下になれば、それだけで随分と箔がつくからね」
 あくまでWIN-WINの関係であると五条は語る。しかし虎杖が差し出された手を取らなければ問答無用で死が待っていた。たとえ伏黒が虎杖を守ろうとしてくれても、五条がそれを認めなければ何にもならない。
 つまるところ、これは提案ではなく強制だ。
 虎杖は数秒黙し、伏黒の前に出た。
「わかった。アンタについていく」
「僕は君の上司になるんだけど?」
「……貴方に、ついていきます。五条さん。これからよろしくお願いします」
「うん、よろしくね」
 にっこりと五条が微笑む。
 美しく、しかしやはり悪魔のような笑みだった。


◆05


 公衆電話を使い、あの五条悟の部下になったと報告した途端、虎杖が警察官であることを証明し得る数少ない人物――警視は、電話口で『よし! よくやった!』と諸手を挙げて喜んだ。
『そのまま五条悟の傍で情報を集めて私に流すんだ。あとはこちらで有効に活用する』
「了解です」
『ふふっ……これでようやく私も……。あのインテリクォーターめ、目にもの見せてくれるわ』
 どうやらこの上司殿には目の敵にしている同僚がいるらしい。市民の命を守るという最終目的が果たされるならどんな意図で情報を使ってくれても構わないと言えば構わないのだが、それでもやはりそういった発言は自分に聞こえないところでしてほしいな、と虎杖は思った。
 しかし相手に幻滅するなど今更だ。
 そもそも自分でも分かっているとおり、虎杖はスパイになど向いていない。身体能力は高いが、本来こういった任務に必要とされる技能や技術を虎杖は得意としていない――それでも一応、身につけはしたが――のだから。警視もそれを分かっているだろうに、ただ血筋だけで無理やり虎杖を今の任務に就かせた。虎杖が断らないだろうと予想して。そういう人間なのだ。
「……っ、あー。お仕事ってツラい」
 さらに二言三言会話を続けて電話を切った後、電話ボックスを出て戯れにそんなことを呟いてみるが、心が軽くなるはずもなく。
 虎杖はビルとビルの隙間から濁った空をぼんやりと見上げた。


 両面宿儺の血を引く唯一の生き残り。そんな存在を後ろに従えて歩く姿は、それだけで五条悟という存在にさらなる箔をつけてくれるらしい。
 少しでも宿儺の雰囲気が出せるようワックスで前髪を上げさせられた虎杖は、自分とその前を行く五条にチラチラと視線を投げかける人々を眺め、内心で感嘆した。
 服は気軽なパーカーにジーンズだが、髪を上げて不機嫌そうな表情を浮かべればそれだけで随分と虎杖は宿儺に似るらしい。「あの方の若い頃そっくりだ……」と呟く老人も見かけた。ちなみにこの髪型は五条が出発直前に彼の住まいとなっている屋敷で彼が手ずからやったものである。フンフンと鼻歌つきで五条が虎杖の髪を弄っていたなど、その老人には想像もつかないだろう。
 五条の配下に加わると決まってすぐ、虎杖は彼の自宅に部屋を与えられることとなった。呼び出してくれればいつでもすぐに来ると虎杖は五条に言ったのだが、自分のいないところで虎杖がどこかの誰かに手を出されては困ると五条が反対したのだ。だからと言って自分のテリトリーである自宅に住まわせるのはいかがなものかと思う。いくら家が広くとも。
 それでもほんの少しマシだったのは、同じ敷地内に伏黒もまた住んでいたことだった。大事な義姉に一般人として過ごしてもらうため、マフィアに身を置いている伏黒自身は彼女と別の場所に住む必要があったのだと言う。そして五条の家は広いし便利だということで、ここに住んでいるのだそうだ。
 伏黒がちょっと罪を犯しただけの一般人ではなくどっぷりと街の裏側の世界に浸かっていたのは驚きだが、彼もまたその血筋が少々問題で五条の庇護を受け始めたのがこの世界にいるきっかけとなったのだと、本人が虎杖に教えてくれた。まだ詳しくは聞けていないものの、伏黒にも色々と事情があるらしい。「オマエほどじゃねぇけどな」と苦笑いしていたが。
 ともあれ、虎杖の立ち位置はあっと言う間に確立され、今夜はそのお披露目も兼ねて五条に付き従っている。
 場所は歓楽街のすぐ近く。屋台が建ち並び一般人も利用できるものの、荒くれ者も多く集まるため近隣住民はあまり近寄らないエリアでもある。たまに誤って足を踏み入れた観光客がカモになる場合もあるが、運が良ければ服も財布も残されたまま帰してもらえることだろう。
 普段ならガヤガヤと騒がしいその場所は五条が通るだけでしんと静まりかえる。そして彼の後ろを歩く虎杖の姿に目を留めてぎょっとし、声を失い、護衛の部下を含む五条一行が通り過ぎてしばらくするとようやくさざめきのように話し声が復活するのだった。
 そんな五条の今夜の目的はただ単に虎杖を部下として見せびらかすだけではない。そんなものは彼にとってただのオマケで、本命は別にあった。
 屋台が建ち並ぶ通りを抜けて、五条がノックも無しにドアを蹴破る勢いで足を踏み入れたのは一軒の火鍋屋だった。
「やあやあ、お三方! 楽しげに鍋なんて囲んじゃってるけど、僕のことは仲間はずれ? いやぁ寂しいなぁ。同じ宿儺の部下やってたってのに!」
 そう言って五条は鍋を囲む先客達の肩を気軽にぽんぽんと叩いて回る。護衛役でもある虎杖のことは出入り口のところに置いてけぼりで、単身近づいていった形だ。
 丸テーブルに腰掛けていたのは男が三人。中央には金属製の丸鍋とコンロが置かれ、鍋の中では辛味の強そうなスープの中に野菜などが浮いている。肉は薄切りのもので、各自が箸で掴んでスープにつけ、火が通ったら引き上げて食べるのだろう。
 しかし楽しい鍋の時間も五条の来訪によって時間が停止してしまっている。
 否、『楽しい』は誤った表現か。そもそもこの食事は決して和やかで楽しいものとして行われていたものではないのかもしれない。そう思うのは席に着いていた三人が虎杖も知っている顔だったからだ。
 入り口から近い側から時計回りに、東坊城(ひがしぼうじょう)家、清岡(きよおか)家、繻エ(くわはら)家のボス達が雁首を揃えていた。彼らも御三家ほどではないが、両面宿儺が傘下に収めていたマフィアとして有名な部類に入っている。
 五条は四人座れる丸テーブルの残った一席――東坊城と繻エの間――にドカッと腰を下ろしてその長い脚を組むと、「僕もご一緒させてよ」とサングラスで両目を隠したまま胡散臭い笑みを浮かべた。
 その振る舞いにまず東坊城が眉をひそめ、苦言を呈する。
「アンタと俺達が同じ部下? 御三家の一角が何をぬるいことを。アンタと俺らじゃ月とすっぽん、釈迦と餓鬼だ」
「そうそう。まぁ飯を食いに来たなら歓迎するがな。……それ以外なら断る」
 東坊城に続いて発言したのは、その正面に腰掛けている繻エ。その繻エがチラリと一瞥を送ると、彼の右隣に座る清岡が視線を鍋に向けたまま五条に「言っておくが、アンタの部下になれってのはお断りだ。いくら御三家の中でも台頭してきているとは言え、アンタがトップに立ったわけじゃないからな」と吐き捨てた。
 両面宿儺が引退したものの、まだ誰もその後釜にはすわっていない。宿儺が残した巨大な組織を掌握するのは一体誰か……あらゆる組織が行く末を見定めようとしている。あわよくば自分達が美味しい位置につきたいと思いながら。
 東坊城達もその一つなのだろう。ましてや五条悟は御三家の中で最も若い頭目である。いくら力を示してきているとは言え、そう易々と彼の下につくとは宣言できまい。また組織の間に優劣はあるものの、東坊城・清岡・繻エの三勢力が手を組めば、五条家一つであれば相手取ることもおそらく可能だった。その事実が、東坊城達が強気に出ている理由でもあるのだろう。
「ふふ、そっかぁ」
 しかし散々なあしらわれ方をしても五条はその美しい顔から胡散臭い笑みを消し去らなかった。
「ゆーじ、おいで」
「はい」
 五条に呼ばれ、虎杖は店の出入り口の陰から五条の斜め後ろへと移動する。表情を消し去ったその様子は随分と冷たく見えたことだろう。虎杖の顔を見て三人が息を呑み、それから五条へと視線を戻した。
「これでも駄目?」
 にこりと笑ったまま訊ねる五条。
 しばらくして、ふん、と東坊城が鼻を鳴らした。
「……ただのガキだろ」
「禪院のガキの次は両面宿儺の息子か。アンタもよくやるな」
「でも凄いのは両面宿儺であって、そのガキじゃねぇ」
 東坊城に続いて清岡と繻エもそう発言する。
 五条は「やれやれ」と言いたげに肩をすくめた。そうしておもむろに席を立ち、自分から見て左隣にいた東坊城の腕を掴むと椅子から立たせ、テーブルから少し距離を取ると肩を抱き込むようにして内緒話を始める。
「東坊城、最近色々遊び歩いてるみたいじゃん? この前もマカオに遊びに行ったんだって? 楽しそうだねぇ。ところでその旅行、君一人で行ったんじゃないんだってね。綺麗な女と二人旅行……。その美人さん、君と一緒に食事してる清岡の奥さんにそっくりなんだけど……あ、写真見る? ちょうど持ってきてるよ、僕。あんまりにもそっくりだから清岡にも見てもらおっか?」
「…………」
 東坊城が押し黙った。それから彼はゆっくりと息を吐き、五条の腕を逃れてテーブルにいる二人へと視線を向けた。
「俺は五条家の下につく」
 それだけ告げて、東坊城は店を出て行く。五条は満足げに微笑み、続いて清岡に手招きをした。
「東坊城がアンタの下についても、私まで従う必要性はないだろう」
 渋々五条の方へ歩み寄りつつも顔をしかめて告げる清岡。だが五条は再び内緒話の体勢を取るとその耳に悪魔の囁きを落とした。
「ねぇ、清岡。このところ繻エと殊更仲が良いみたいだけど……。一緒に密輸した麻薬、誰かに奪われちゃったんだって? 二人揃って大損だねぇ。でも君が管轄する倉庫で奪われた分と同量の麻薬が見つかったんだけど、繻エは知ってるのかな。今ここで僕の口から教えてあげようか?」
「……貴様」
「どうする?」
 勝敗など最初から決している。
 清岡は苦虫を何百匹も噛み潰したような顔をして、ぼそりと「うちも五条家に従う」と告げ、店から去って行った。
 残るは繻エのみ。そして五条家と繻エ家単独ではあまりにも持っている力が違う。
 たった一人丸テーブルに座っていた繻エは二人が出て行った店の出入り口を眺め、やがて大きく溜息を吐いた。
「まぁ、上納金を支払う先が変わるだけだしな。損はさせてくれるなよ、五条家」
「努力するさ。じゃあ今後ともよろしく」
「ああ」
 繻エが頷いたのを確認して五条もまたこの場から去る。店を出た途端、中から盛大にテーブルをひっくり返す音が聞こえたが、五条の顔から笑みが消えることはなかった。


◆06


「ま、こんなモンかねー」
 火鍋屋を後にした五条は屋台がひしめく通りを歩きながら来た道を戻る。
 本日の用件はこれで終了。表通りに車を止めているものの、それに乗り込んだ五条が向かう先は仕事に関係のないレストランとなっている。虎杖も詳しくは知らされていないが、どうやらデートらしい。流石は美男。そういったものは引く手数多で、関係を持っている女性はかなりの数に上っているようだ。肉欲を満たすための相手だけではなく、財界の重鎮や政界に伝手を持つ女性も含まれているようで、虎杖にとっては調べ甲斐のある関係でもある。
 そんなわけで五条はそのまま外泊する予定となっているが、一方で虎杖は帰宅するよう言いつけられていた。一応、虎杖の現在の立ち位置は五条の部下であり、付き従っている以上は五条の護衛役も担っている。しかし五条が虎杖を連れ歩くのは周囲に『両面宿儺の唯一生き残った息子は五条悟の下についている』と見せつけるため。そのパフォーマンスが終了すれば、わざわざガキを連れ歩く必要など五条にはない。
 もっと五条の信頼を得て、虎杖を護衛役として連れ歩きたいと思わせるようにしなければならないのだが、そう簡単にはいかなかった。
 そんな虎杖は大通りに向かって五条の後ろを歩きながら、パーカーのポケットに突っ込んだ手を小さく動かしていた。そこに隠し持っているのは警視から与えられた盗聴器。小さなそれを指先で叩くことによって、モールス信号で警察側に情報を流しているのだ。
 五条悟の現在地、○○通り、△△前。十九時ジャストに××で乗車予定。車は黒のセダン。ナンバーは……と言った具合に。
 この情報が警視の方でどのように利用されるのか虎杖には分からない。そもそも虎杖は警察側の情報をほとんど与えられていないのだ。それは警視からの不信の証に思えた。虎杖を警察官としてではなく、いずれ切り捨てる駒として見ているかのような。
(あーダメダメ。今はそんなこと考えんな)
 虎杖は小さくかぶりを振って悪い妄想を払いのける。
 やがて表通りに停めていた車が見えてくる。来る時は五条と共に乗ってきた虎杖であるが、今はここでストップだ。足を止め、先を行く五条の背中に深々と一礼する。五条がこちらを振り返ることはない。
 顔を上げた虎杖は別の部下にドアを開けてもらい後部座席へ乗り込む五条の姿を確認し――
「……っ!」
 直後、視界の端に映った異常事態≠ノ気づいて全力で走り出した。
「五条さんッ!!」
 視界の端では猛スピードで突っ込んでくる車の姿が捉えられていた。助手席から身を乗り出した男が銃を構えてこちらを狙っている。唾を飛ばしながら狂ったように何かを叫ぶその男。運転席でハンドルを握る別の男も目を血走らせ、さらにアクセルを踏み込んだ。
 狙いは五条。おまけに銃弾を避けられたとしても車ごと突っ込んでくる気なのは明らかだった。五条が車に乗り込んで、その車が即座に走り出した場合でも絶対に逃げ切れない。
 虎杖は車に乗り込もうとしていた五条の元へ人間離れした身体能力で一瞬で辿り着き、その胴に腕を回して引っ張る。驚きに見開かれる瑠璃色。彼が文句を言う前に虎杖は車から離れ、自分よりも大きな身体を庇うようにして抱き込みつつ地面に伏せさせた。
 その直後、背後で耳をつんざく発砲音が鳴り響き、わずかに遅れて車が衝突する。
「――――ッ!」
 発砲よりもなお酷い爆発が起こった。ぞっとするような熱気が虎杖の項を撫でていく。
 爆風が通り抜けた後、虎杖よりも随分遅れて異常事態に気づいた他の部下達が襲撃犯に制裁すべく銃を構える。だがすでに襲撃者に息はあるまい。二人とも車の衝突と爆発に巻き込まれてしまっている。
 虎杖は安全を確認してからゆっくりと身を起こし、五条に「ご無事ですか」と声をかけた。
「ああ。怪我も君に押し倒されてできた打ち身以外は特にないと思うよ」
 皮肉げな言い方ではあるものの、つまりは無事と言うことだ。五条の返答に虎杖はほっと肩から力を抜く。そんな虎杖の態度に五条がサングラスの奥で軽く目を見開いた。意外だ、とでも言いたげに。
「……どうかされましたか」
「いいや。何もない」
 虎杖がそう訊ねるも、五条は薄く笑って誤魔化す。
 彼は炎上する車を眺めて「あーあ」と呟いた。
「これじゃ今夜の予定はキャンセルだねぇ」
「一応、別の車を手配することもできますが……」
「車は呼んで。でもデートの気分じゃなくなった。今夜はこのまま家に帰るよ。悠仁もついておいで」
「はい。分かりました」
 虎杖は五条から与えられている携帯電話で別の車を手配しつつ、車の到着まで時間を潰すために再び屋台がある方へ戻る五条の後に続く。
 自分についてくる虎杖を振り返って一瞥した五条は、つい先程命を狙われたにもかかわらず、どこか楽しげに瑠璃色の双眸を細めた。


◆07


 五条悟の命を狙った実行犯はその場で死亡。しかし命令した者がいるはずだと調査は続けられ、その犯人がついに見つかった。
「はーい。じゃあ調べるのは恵がやってくれたから、拷問して情報を吐き出させるのは悠仁がやって。頼んだよ」
 五条にそう命じられ虎杖がやってきたのはファミリーが所有するビルの一角。窓のないコンクリート打ちっぱなしの狭い部屋に、すでにボコボコにされたスーツ姿の男が椅子に座らされ、後ろ手に縛られていた。
 天井を見上げれば、隅の方に監視カメラが一台。音声は拾えないタイプだ。一人で仕事を任せてもらえる程度には信用されているのか、それとも監視カメラがなければ駄目だと思われるくらい信用されていないのか。どちらとも判断つけられないまま虎杖は五条悟殺害を命じたという男を見下ろした。
「おーい、起きて。起きろって」
 ぺちぺちと軽く頬を打って覚醒を促す。
 すると小さな呻き声と共に男が億劫そうに瞼を持ち上げる。部屋の光源は天井に設置された蛍光灯が一つだけだが、男にとっては眩しすぎたらしい。「うっ」と呻いて再びきつく目を閉じてしまった。
「おい、オッサン。寝るな。目、開けて。俺の声聞こえてる?」
 粗雑ではあるが害意はない。そんな虎杖の言い方に男はようやく視線をこちらに向けた。そして、
「ひぃっ、りょ、りょう、めん、すく……!」
「違います〜」
「へ、あ……あ?」
 ガタガタと椅子を鳴らして逃げようとした男に思わず虎杖は唇を尖らせる。そんな虎杖の様子に、男もまた目の前にいる存在が黒社会の王ではないと気づいたのだろう。驚いたように何度も目を瞬かせ、それから「ち、がう?」と、うわごとのように呟いた。
「その息子ではあるらしいけどな」
「むすこ」
「うん」
 虎杖は頷く。
 事前情報によると、この男は中規模マフィアの幹部だったらしい。しかし男が属していた組織は両面宿儺引退後、五条家に乗っ取られる形で吸収された。その恨みをぶつけるために五条悟の命を狙ったようだ。
 虎杖の仕事は『組織が食い潰されて行き場を失ったこの男が一体どこから情報を得て五条をあの場で狙うことができたのか』を本人の口から吐かせることである。相手が目を覚まして落ち着いたのを確認し、虎杖はひとまず直球で問いかけた。
「五条悟があの時間、あの場にいるってことを、アンタはどうやって知ったんだ?」
「……」
「黙ってても状況は良くなんねーよ?」
「……」
 虎杖を両面宿儺と勘違いした時は盛大に怖がってくれたのに、違うと分かればこの態度。無言を貫き、顔はそっぽを向いている。ナメられてんなぁ、と虎杖は思った。
「ぶっちゃけさ、アンタは五条悟の命を狙った。それだけでアンタが殺されることはもう決まっちまってる。そんなことは馬鹿でも分かるよな? あとはボコられる前に情報をちゃんと吐いて楽に死ぬか、情報を吐くまでボコられてしんどいまま死ぬか、情報を吐かずにボコられてもっとしんどい状態で死ぬか、の三択しかねーの。だったら一番楽な方が良くない?」
「……はっ、黒社会(こっち)に来たばっかのガキがエラそうな口をきくもんだな」
「それがアンタの答えか」
 虎杖は天井の隅に設置された監視カメラを再度一瞥する。その映像がどこに送られ、誰が見ているかなど分からない。ただ、最終的には五条悟の元へ届くのだろう。虎杖悠仁がきちんとお仕事≠こなせたかどうか確認するために。
 襲撃から身を挺して五条を庇ったあの一件以来、五条が虎杖を連れ歩く頻度は格段に増した。『両面宿儺の唯一生き残った息子』というステータスが必要ない場面でも、だ。ゆえに徐々に気に入られてきているとは思うのだが、まだまだ今回のような件で彼の意に沿わぬ行動をするわけにはいかない。
「……やだなぁ」
「あ?」
「独り言。そんじゃあさ、別のこと訊いていい? ってか勝手に質問するんだけど、アンタこれまで何人くらい殺してる?」
「なんでそんなこと訊きやがる」
「俺の気持ちの問題かな。悪人ってのが分かりやすい方が良心の呵責も少ないかなって」
「はあ?」
 すっかり虎杖を舐めきっている男は心底訳が分かりませんと言いたげに声を裏返らせた後、腕を縛られたままの状態でクツクツと肩を震わせ始めた。
「はっ……ははっ、あの両面宿儺の最後の子供がこうも腑抜けとはなァ。いいぜ、先輩が教えてやるよ。直接殺(や)った奴だけか? それとも薬漬けにしてボロ雑巾みたいにしてやった奴か? ああ、ヤり殺した女も何人かいたなぁ。なぁおい、おぼっちゃん、殺したってのはどの括りまで含め――……「ごめん、もういいや」ごっぅ」
 あまりにも胸くそ悪くて、そこから先は言わせなかった。
 罪悪感を軽減させたい、なんて考えるものではない。虎杖はそんな風に後悔しつつ、自分の置かれた状況も忘れて意気揚々と喋り出した男の頬を手の甲で打ち払うように殴り飛ばす。覚醒を促すために軽く叩いていた時の比ではない。椅子ごと吹っ飛んだ男は冷たい床に倒れ込んで、目を白黒させながら虎杖を見上げた。
 虎杖の膂力があれば意識を刈り取るどころか頭蓋を吹っ飛ばすことも可能だったが、必要な情報を欠片も得ていないのに初手からそれをするわけにはいかないだろう。倒れ込んだ男の顔の前に移動した虎杖は「あのさ」と相手を見下ろした。男が「ひっ」と息を呑む。
「五条悟があの時間、あの場にいるってことを、アンタはどうやって知ったんだ?」
 最初の質問と一字一句違えずに問いかけた。しかし先刻のものと違ってその声からは一切合切の感情が削がれ、問われた相手は目の前にナイフでも突きつけられているかのように顔を青ざめさせる。
「なぁ、黙ってちゃ何もわかんねーんだけど」
 無辜の民が何人もこの男によって殺されたという事実に対する怒り。
 五条悟の信頼を得るために虎杖悠仁がしなくてはいけないこと。
 それは本来、相反する位置に存在する。しかし今この瞬間だけ、その二つは虎杖に同じ結論をもたらしていた。
「沈黙が答えなら、仕方ないか」
 言って、虎杖は男の顔のすぐ傍で足を軽く振り上げた。


 ひゅーひゅーと風切り音のような高い音が小さく聞こえる。満身創痍を通り越してズタズタに引き裂かれた血袋のような物体が転がっていた。
 虎杖はその場に片膝をつき、血袋の端の方――ドロドロに汚れた頭髪を引っ掴んで顔を上げさせる。
 ここまでやり切る前に男は脅えきって自ら情報を吐こうとしていた。しかし虎杖は手を止めずに、最早喋れるかどうかも怪しいところまで相手を痛めつけていた。
 ようやく止まった暴行に男は涙を流す。嗚咽を漏らすほどの体力はすでになく、ほんの一筋だけの涙だ。
 目尻から零れたそれが頬を伝って落ちていく様を見届けたのち、虎杖はそっと口を開いた。
「五条悟の情報をアンタに流したのは誰だ?」
 ひゅ、ひゅぅ、と男が声とも呼気ともつかぬものを漏らす。小さなそれを聞き取るため、虎杖は男の顔に耳を近づけた。男は虎杖に言われるまでもなく、もう一度答えを告げる。
「○○署の××警視だ」
「………………………………そっか」
 ごとん、と。虎杖に手を離された頭が冷たい床に打ち付けられる。
 虎杖は立ち上がり、男はそんな虎杖を一方しか機能していない眼球の動きだけで追った。そして無表情のままの虎杖を見上げて男は小さく唇を震わせる。

 ――やっぱりオマエ、あの両面宿儺の息子だよ。

 男は多分そう言った。
 しかし確かめるつもりもなく、虎杖はこの男から潜入中の我が身の立場を脅かす『真実』が漏れるのを防ぐために、軽く、しかし常人からすればあまりにも強すぎる力で、男の頭蓋を踏み抜いた。

     ◇

 五条悟殺害を命じた男に、五条の居場所に関する情報を流した者は誰か――。
 調べた結果は『匿名の情報提供者であったため、捕らえた男も知らなかった』というものだった。
 なんとも不満の残る結果である。しかし調査を命じた側である五条悟は大変機嫌が良かった。
「最初は平和に育った一般人みたいな顔でさ、めちゃくちゃ油断させて。なのにその時点で自分の状況も理解できずに喋らなければ、あの両面宿儺を彷彿とさせる顔で一切の容赦なく嬲って嬲って嬲り倒す。そりゃあ、やられてる側は心も折れるよ。何せギャップが酷い。そういうの分かってやってたのかな。だとしたら最高じゃん。いや、分からずに無意識でやってたとしても最高だよ」
 今にも両手を叩いて喜びそうな五条の前にはパソコンが一台。画面に映し出されているのは無機質な部屋で行われる拷問シーンだった。
 一挙動ごとに血が飛び、虎杖の髪が、頬が、服が、靴が、赤黒く汚れていく。その様に五条はぞくぞくと背筋を震わせた。
 拷問されている側は王とも称されていたあの両面宿儺を思い出して恐怖に震えているようだが、宿儺と虎杖では全くやり方が違う。あの凶暴性は虎杖悠仁という人間だけのものだ。
 黒社会の王の血を引きながらも全くオリジナルの凶暴性。それと相反する、五条を襲撃から救った時の偽らざる安堵の表情。
 二律背反。あまりにもアンバランス。だからこそ、五条は虎杖から目が離せない。
「いいね。イカレてる。すごくいいよ、悠仁」
 録画されていた映像が終わり、画面が暗くなる。
 五条はそれでもうっとりと画面を見つめて、熱い吐息を吐き出した。
「ああ、そうだ」
 名案を思いついたとばかりに五条は目を輝かせる。
 取り出したのは携帯電話。身の内に熱を燻らせながら、新たな黒社会の王となりつつある男は先程まで画面越しに見つめていた相手本人に電話を掛けた。
『……五条さん? どうかされましたか』
「あのさっ、悠仁」
 自分でも笑えてしまうくらい弾んだ声で五条は告げる。
 本来ならば『自分の部下』にこんなことはしない。だが『虎杖悠仁』なら構わないだろう。
「昨日キツめの仕事をしてもらったばっかで悪いんだけど、今から僕の部屋においで。ああ、安心して。叱責じゃないよ、褒めてあげたいの」
 困惑、警戒、それから安堵。
 喋らなくとも虎杖の感情の変化が手に取るように分かる。五条はくふくふと笑いながら、長い指で電話を撫でた。
「僕ね、今すごく機嫌が良いんだ。うんと優しくしてあげるから、早くおいで」


◆08


 襲撃からも庇ったし、体格は向こうの方が良くとも取っ組み合いになれば自分が勝つと思っていた。
 しかしそんな思い込みは間違いだったと身をもって知る。
 そもそも立場上逆らえないのだが、それを抜きにしてもこの男には勝てないと、その夜、虎杖悠仁は嫌と言うほど理解したのだった。


 服を脱いで、と目の前でストリップを強要された時はやはり叱責だったのだと半分諦めモードに入った。
 しかしそれも仕方ない。五条悟襲撃の件で命令役だった男が捕らえられ、そいつに情報を流していた者を吐かせるよう虎杖は命じられた。だが蓋を開けてみれば、命令役に情報を流していたのは虎杖の警察官としての上司だったのである。この真実がバレてしまえば、警察に情報を流すスパイが五条のすぐ傍にいることなど簡単に予想されてしまうだろう。ゆえに虎杖は口封じを行い、偽の情報を報告した。
 情報提供者不明の報告は五条にとって決して良いものではなかったはずだ。ゆえに担当であった虎杖は叱責を受ける。どんな辱めを受けるのか、五体満足でいられれば良いのだが……と、五条悟という男を警戒していた虎杖だったのだが――。
「……は?」
 五条の自室に招かれ、ストリップを強要された虎杖は、次いで全裸の状態でベッドに押し倒されていた。目が点になるのも仕方ない。スプリングの効いたベッドマットレスに肌触りの良いシーツ。オマケに良い匂いまでしている。
 状況が理解できない虎杖を押し倒した男はサングラスをサイドボードに置いて、不思議な輝きを宿す瑠璃色の双眸を楽しげに細めた。
「悠仁、昨日はお仕事お疲れ様」
「え……あ、はい。ありがとうございます?」
「録画だったけどちゃんと見たよ。良い仕事っぷりだった」
「でも大した情報は……」
「いいのいいの。僕が満足したんだから」
「……っ」
 五条の長い指が虎杖の頬を這う。
 浮かべられた笑みにも、その指の感触にも、明確な夜の気配を感じ取って虎杖はまさかと目を見開いた。
「あ、の……その、五条さんはマイノリティなお方で……?」
「わお、直球」クスクスと五条は笑う。「でもそういうの嫌いじゃないよ」
「じゃあ……」
「悠仁も僕のデートの相手が女ばっかだって知ってるでしょ? あ、でも男も抱いたことはあるよ。教養の一つみたいなもん」
 五条の親指が虎杖の唇に触れた。
 予感は外れないらしい。虎杖がごくりと唾を飲み込むと、五条は笑みを崩さずに「抵抗したい? しても良いけど、たぶんできないよ」と囁く。
「それは……どういう……」
「悠仁はさ、僕が血筋と、あとは多少の知恵だけでここまで来たと思ってるでしょ」
 五条の指先はするすると虎杖の皮膚を滑り、喉仏の凹凸を確かめ、鎖骨を撫で、心臓の上へと辿り着いた。「緊張してるね」と落とされた呟きは楽しげで、甘い。
「残念だけど不正解」
 指が離れ、五条が上着を脱ぐ。その下から現れたのは虎杖よりも立派で、そして彫刻よりも美しい男の身体だった。
 上半身を晒した五条は左腕一本で虎杖の両手をひとまとめにして頭上で押さえつける。虎杖は反射的に抵抗するが、ビクともしない。
「……っ!」
「ほら、ね」
 うつくしいおとこが、微笑む。
 その笑みは圧倒的強者の証であり、弱者への最後通牒でもあった。
「今夜は準備していないから最後まではしないよ。でも思い切り可愛がってあげる。悠仁は僕に身を任せて、ただ、受け入れるだけで良い」
 たぶんこれは好意だ。ただし相手の都合など一切考えない類いの。
 再び長い指が虎杖の肌の上を這い始める。官能の気配を漂わせるそれに虎杖は小さく身体を震わせた。

     ◇

「……虎杖?」
 突然部屋を訪ねてきた同僚に伏黒恵は驚きつつも相手を迎え入れた。
 おずおずと入室する虎杖は眉尻を下げ、不安そうな様子で伏黒を見る。その目に縋るようなものを感じて伏黒はことさら優しく声をかけつつ、虎杖を椅子に座らせた。
「何かあったかいモン持ってくる。待ってろ」
「……ん」
 こくりと頷く虎杖。言葉数も少なくなってしまっている彼に心配はいや増しつつ、伏黒は簡易キッチンへと向かった。


 インスタントコーヒーをミルク多めで淹れて虎杖に手渡す。温かなマグカップを両手で掴んだ虎杖はカップに口をつけて中身を啜った。
 それを見届けてから伏黒もマグカップに口をつける。普段使っていない物を引っ張り出してきたので分量を誤ってしまったのか、随分と薄いコーヒーになっていた。
 だが今はコーヒーの濃淡よりも虎杖だ。少し落ち着いたのを見計らって伏黒は「何があった?」と問いかけた。
「夜中に悪い。でもこういうことは伏黒にしか相談できないと思って。……つか、頭ン中ぐちゃぐちゃで一人じゃ抱えきれねぇって言うか」
 よく見ると虎杖の髪は湿っていた。
 頬はそれほど上気していないが、目は少し潤み、少し暗めにしているライトの灯りの下で艶やかに輝いている。
 虎杖が真っ先に頼った相手が己であったことを純粋な気持ちで喜びつつも、いつもと違う彼の様子に伏黒は己の胸が早鐘を打ち始めたのを自覚した。
 何故かうしろめたい気持ちになって伏黒は視線をカップに落とす。薄茶色の液体がゆらゆらと揺れていた。
「ヤベェことでも起こったか?」
「ヤベェことって言うか……その」
 煮え切らない虎杖。そんなにも言いにくいことなのかと伏黒は自分の中にあるうしろめたさを押さえつけて虎杖を見やった。続きを待つまで間を持たせるためにコーヒーを口に含む。そして虎杖がうっすらと唇を開き、

「今度呼んだ時は事前に腸の洗浄もしてこいって言われたんだけど、どうやれば良いか教えてくんね?」

「知るかッッッ!!!!!!」
 魂からの叫びだった。思わず口の中のコーヒーも一緒に吹き出してしまったが、それどころではない。零れた液体を袖で拭いつつ、伏黒は虎杖に詰め寄って「なんで俺に訊いた!?」と肩を揺さぶった。
「えっ、えっ、だって伏黒もそうなんじゃねぇの?」
「何が!? 何を!?」
「だ、だから、五条さんの夜の相手を――」
「してるわけねぇだろ!!」
「ええっ!?」
 いやだって俺みたいな体格の奴に手を出すなら……云々、と独りごちる虎杖に伏黒はよろよろと一歩下がって頭を抱える。ついでに中身が残っているマグカップは近くの棚に置いた。液体に気を配っていられる場合ではないのだ。
「オマエそれ、洗浄してこいってやつ、聞き間違いじゃないんだよな」
「聞き間違いだったら良かったんだけどさぁ」
「……そうか」
 とんでもないことを聞いてしまった。あの五条悟が虎杖悠仁にそういう意味で手を出した? 有り得ないだろ。――そう、伏黒は胸中で言葉を並べる。
 だが嘘でも幻覚でもないらしい。虎杖は今、伏黒の目の前にいて、肩を揺さぶられた際に少し飛び散ってしまったコーヒーをティッシュでトントンと拭っている。
「あのな、虎杖」
「お、おう」
「まぁ相談されたし、やり方を調べるくらいは一緒にやってやるけどさ……」それを聞いて虎杖の顔色が少し明るくなったのが嬉しいやら悲しいやらで眉間に皺を寄せつつ、伏黒は続けた。「たぶん、オマエが初めてだぞ」
「何が?」
「五条さんが自分の部下に手を出すの」
「うん?」
 虎杖が首を傾げる。自分が特別な唯一などではなく群衆の中の一人でしかないと考えているのだろう。だから五条の珍しい行動に対し、伏黒にも被害が及ぶような方向でとんだ勘違いをしてしまったのだ。
 五条にどのような意図があってそうしたのか伏黒には皆目見当もつかないが、ともあれ事実だけは虎杖に伝えてやることができる。それが今後どのように転ぶのか予想できないものの、伏黒は息を吸い、そして声として吐き出した。
「俺はガキの頃からあの人を知ってるけど、五条さんが男女含めて自分の部下に手を出したのは一度もないんだよ。虎杖、オマエだけだ」
「……どういう意味」
「知るか。本人に訊け」
「訊けると思う?」
「……………………」
「ほらぁ。どうせ聞いてもろくな答えじゃないって」
 虎杖が眉尻を下げてへらりと笑う。
 きっと何も訊ねないままコイツはこれからも五条の命令に従うのだろう。そう思うと急に胸が苦しくなって、伏黒は自分が叫びだしてしまわぬようにキツく唇を噛み締めた。


◆09


「……っン、ぅ、ふ……ぅ、ッ」
 くちくちと粘ついた水音が響いていた。その発生源が自分の尻である事実に虎杖は泣きたくなる。
 噛み締めた唇の合間から漏れ出るのは嬌声ではなく、他人の指で無遠慮に肛門を広げられ内部を圧迫される気持ち悪さから生じる呻き声だ。
 ベッドの上に仰向けになった体勢で、尻の下には枕。おまけに両脚を自分で持ち上げるよう指示されており、力なく項垂れたままのペニスの向こう側では虎杖にそう命じた張本人――五条悟が、ローションにまみれた指を細かく動かしていた。
 こうして五条の部屋に呼ばれるのは今夜で四度目となる。一度目は最後までされなかったが、二度目からは腸内洗浄をしてくるよう言いつけられ、挿入までされてしまった。それなりに時間をかけて慣らしたのが功を奏したのか中が切れて血が出るような事態にはならなかったが、虎杖にとっては苦しいだけで全く気持ち良さなどない行為となった。五条の方も一応虎杖の体内で果てたものの、女の柔らかい身体と比べれば随分と味気ないものだったに違いない。
 しかし五条は再び虎杖を部屋に呼び、裸に剥いて組み敷いた。三度目の接触は二度目よりも多少スムーズに進められた。虎杖の心はその行為に全く追いついていなかったが、五条が虎杖の身体の扱いに早くも慣れてきたのと、虎杖自身の身体も本人の気持ちを無視してこの状況に慣れようとし始めていたためだ。しかしそれでも虎杖が腹の中で快楽を感じることはなく、前戯として五条に前を擦られて射精したのを除き、ペニスは始終、股の間で項垂れたままだった。
 そして四度目となる今夜。五条は虎杖の反応の方に興味が湧いたのか、二度目の時と同じように時間をかけて虎杖の後孔を弄っていた。たっぷりとローションをまとわせた指で丁寧に襞を広げ、中を解し、挿入可能な程度に柔らかくなってもまだ内部を探るように指を動かす。
「さっきから前立腺ってとこを触ってるんだけどねぇ。悠仁、何か感じない?」
「中から押されてるってことくらいしか、っ、わからな、い……っ、です」
 頭目である五条には丁寧な言葉で応じること。それは彼と出会ったあの時、虎杖が最初に教え込まれたことだ。ベッドの上でもそれは継続され、五条の問いかけに虎杖は途切れ途切れになりながらも、ですます調で答える。
 虎杖の反応に五条は「まぁ悠仁は男娼じゃないもんな」と納得しつつ、けれども中を弄る動きは止めない。「だから開発できたら楽しいんだけど」とのこと。全くもって迷惑な話である。
 このまま五条が飽きて止めてくれればいい。そう思う虎杖であったが、しかし残念なことに天秤は五条の側に傾いた。
 五条が親指で虎杖の会陰に触れつつ人差し指と中指をぐっと腹側に押し込んで、指三本で揉み込むように動かす。体内に埋め込まれた指が、こり、と内部のしこりを殊更強く刺激した。
「――――ァ、っ?」
「……あは。ようやく、かな」
 ぞわり、と下腹部から這い上がってきたのは疑いようもない快楽。決して大きな波ではなかったが、これまで圧迫感と気持ち悪さしか感じていなかった虎杖にとっては劇的な変化だった。
 小さく身体を跳ねさせた虎杖に五条も口の端を持ち上げる。ぺろりと唇を舌で湿らせ、男は同じ場所にもう一度、今度はさらに強く指を押し当てた。
「あっ、ま、て、っ、ぃゃ……!」
 下腹が勝手に震えてつま先に力が入る。虎杖は首を横に振って快楽を逃がそうとするが、ペニスを扱いた時とは異なる熱に我が身は翻弄されるばかりだ。
「や、やだ……やめっ、なにこれ、やだ……こんなの、しら、なぃ……ひっ、い!」
「ほぉら、ゆーじ。お腹ン中、気持ちいいねぇ」
「く……ふぅ、アァ、あっ、あっ、ぅ、ゃ」
「このままナカの刺激だけてイってみない? そしたら悠仁、女の子になっちゃうかもね」
「っ! やだやだ、やだぁ!」
 じんわりと涙が滲んで視界がぼやける。部屋にはぐちゅぐちゅと水音が響き、ローションが足された分だけさらに酷さが増していた。
 望まない快感と、耳を冒す音への嫌悪と、それから相手に逆らうことができない悲しさと悔しさに虎杖は言動まで幼くなる。五条は「かぁわいい」と声を弾ませた。その声がさらに虎杖を惨めにさせる。
 ツラくてツラくて仕方ないのに、身体は熱を持ち、汗を滲ませる。その汗が飛び散ったローションと混ざり合い、すすり泣くように嬌声を上げ続けていた虎杖は「あっ」と手を滑らせた。
 抱えていた脚の片方が支えを失って落ちる。が、その脚が五条の身体に当たってしまう前に五条本人が手を伸ばして支え持った。
「駄目じゃん、悠仁。ちゃんと持つように言ったでしょ?」
「ぅ、ぁ……」
 ぐちゅん、と後孔から指が引き抜かれた。その動きでさえ快楽となり、虎杖は小さく嬌声を上げる。
「言うことを聞けない子にはお仕置きしなきゃいけないんだけど……」
「っあ、ご、ごめんな、さ」
「ま、いいや。可愛いから許してあげる」
 そう言って五条は自身が支え持っている虎杖の脚に唇を触れさせ、ちゅうと吸いつき、「今度は離しちゃ駄目だよ」と、もう一度虎杖に両脚を抱えさせた。
 そして空いた両手で手早く自分のズボンをくつろげると、ゆるく立ち上がったペニスを軽く扱く。それだけで充分な硬度を持った凶器を五条は当然のように虎杖の後孔に宛がった。
「じゃ、いくね」
「――ぃ、あッッッ」
 熱が入り込んでくる。
 痛みはこれまでで一番少ない。それどころか一番太い所が通り過ぎれば、虎杖の体内は本人の意思を無視して、侵入してきた太い肉棒をほどよく締め付け始めた。ここを突いてと言わんばかりに覚え立ての快楽の場所へと五条を誘う。
 自身の身体の変化に虎杖は喉を引き攣らせるが、膨れ上がった前立腺を五条の亀頭でえぐるように擦り上げられれば悲鳴はたちまち嬌声へと変わった。
「あ、あっ、ぁア、や、あ、ァ、ぅっ、ア」
 浅いところでピストン運動を繰り返され、前立腺を集中的に責められる。
「ふっ……はは、ねぇゆーじ、気持ち良い? 浅いとこコンコンされて気持ち良くなっちゃってるんだ?」
「あぅ、あっ、ゃ……ァ、あ、ぐっ」
 ゆさゆさと身体を揺さぶられる。
 いつの間にか虎杖の両脚は五条の手によって支えられ、虎杖自身は太腿に添えている程度にしかなっていない。その五条の手が虎杖の両脚をぐっと腹の方に押しつけてくる。何を、と問う暇もない。虎杖の脚は大きく開かれ、五条がさらに腰を突き入れた。
「――ッお、あっ」
 入ってはいけないところに入ろうとしている。
「ゆーじばっかり気持ち良いのはズルいじゃん? 次は僕の番ね」
 そう言って男は虎杖の奥へと欲望を突き立て、さらに腰を揺すった。「ひ、ぐ」と虎杖の喉から今度こそ嬌声ではなく悲鳴が漏れる。
「やっ、やだ、やだぁ! やめて! はなせっ、はなせよぉ」
 五条のペニスが閉じた口を開かせようと、幾度も幾度も突き入ってくる。その動きに合わせて結合部からはローションが漏れ、ぐちゅぐちゅと泡立ちながら激しい水音を立てていた。
 前立腺は太い幹の部分でこれでもかとえぐられ、同時に亀頭で奥の慎ましやかな部分にキスをされる。過ぎた快楽と、こじ開けられる恐怖。最早虎杖には言葉に気を遣う余力もなかった。
 そして生意気な口をきく子供を咎める立場であるはずの五条は、
「ああ……ゆうじ何それ、かわいい。その言い方すっごく可愛いね」
 怒るでもなく、躾けるでもなく、快楽で目尻を赤く染めながらうっとりと微笑んだ。
「ぅ、おっ、ご、……ひぃぁ……あっ、あっ、やめっ、やだ」
「ちゃんと話せって言ったのは僕だけど、悠仁ならその喋り方で良いよ。むしろそっちが良い。なんか甘えられてる感じがするね! かわいい!」
「いっ、ひ……ぐ、あっ、あっ、……あ、あぅ、い」
 饒舌な五条がさらに虎杖の脚を開かせる。
 ごつごつと奥を突かれて苦しいはずなのに、虎杖は途切れることのない快楽に舌を出して喘いだ。ぐっと腰を折り曲げ近づいてきた五条がその舌を食み、頬に口づけ、耳を舐める。
「本当は中だけでイってみせてほしいけど、今でも充分可愛いから今日はチンコ擦ってイかせてあげるよ。もちろん僕も悠仁の奥でイかせてもらうけどね?」
 五条の手が虎杖の勃起したペニスに伸びる。しかしそれは片手だけで、もう片方の手はしっかりと虎杖の脚を開かせていた。
 ――ほら、イって。
 甘ったるい囁きと共に腰を深く突き入れられ、直後、ペニスを強く扱かれる。
「あ、ぉっ、――ッ!!」
「……く、ぅ」
 びゅっと吐き出される精液は虎杖の腹を汚し、吐精に伴う中の締め付けによって五条もまた達した。胎の中で精液がじわりと広がる感覚に虎杖は「ひ、ぁ……」と声を漏らす。
 それが嗚咽なのか、嬌声なのか、最早虎杖本人にさえ分からなかった。


◆10


「……五条さん、なんか機嫌良さそうだね。良いことでもあったん?」
「あ、わかるー? いっつも仕事で忙しいダチがようやく僕の依頼を受けてくれるって、さっき連絡があってさぁ」
 柔らかな日差しの下、屋敷のテラスで五条が優雅にアフタヌーンティーを楽しんでいた。
 傍に控えるよう命じられた虎杖の居場所は何故か彼の斜め後ろでもテラスの隅の方でもなく、五条の正面。テーブルを挟んだ向かいの席に座らされている。
 甘い物好きの彼のために用意された食事は軽食の類いを控えめにし、菓子がそのほとんどを占めていた。「キュウリのサンドウィッチなんて誰が食うの?」とのことである。礼儀作法や格式よりも主人の好みが優先された結果、ティースタンドにはきらきらと輝く宝石のようなフルーツタルトや愛らしいロールケーキ、ジャムとクロテッドクリームが添えられたスコーンの他、エッグタルトや豆腐花(トゥファ)といったアジアらしい甘味まで揃っていた。
 ベッドの上での命令は昼間でも効力を有し、虎杖は五条家の中で唯一、部下でありながら五条悟に敬語を廃した口調で語りかけるようになっている。最初の頃は慣れずに注意されたものの、元々が目上にあまり敬語を使う性質ではなかったため、数日もあればすっかり馴染んでしまった。警察学校でこれでもかと叩き込まれた厳格な規律と教官に対する姿勢の気配は微塵もない。
 虎杖の喋り方を初めて耳にした者達は皆一様にぎょっと目を剥き、生意気な態度を取った小僧の頭に銃弾が貫通しやしないかと冷や汗をかく。しかし彼らの予想に反して五条は一切機嫌を損ねることなく虎杖に応じ、それがさらに周囲を驚愕の嵐に突き落とすのだった。
 今もまた給仕係の女が虎杖達の会話に一瞬だけ息を止めていた。流石に向こうもプロなのであからさまな態度ではなかったが、随分と驚かせてしまったようだと虎杖は微妙な心地になる。おまけにそんな虎杖の様子に気づいて五条が小さくニヤつく始末。呆れて物も言えない。
 ともあれ、虎杖は五条に随分と気に入られてきているのだろう。しかしその気に入られように反して虎杖が五条から得られる情報はあまり多くなかった。
 今も珍しくアフタヌーンティーと洒落込んでいるものの、これは夕方から何らかの仕事≠予定しているが故の事前の腹ごしらえという意味を持っている。しかし五条が一体どこで何をするつもりなのか、虎杖は一切知らされていなかった。ただお茶の相手をし、他愛もない会話に興じるだけである。
 ダチと呼ばれる人物についても同様だ。どんな人物で、どういう関係で、何を依頼するつもりなのか、虎杖には皆目見当もつかない。こういった情報こそ警察側が欲しているに違いないというのに。
「ソイツ、近々ウチに来るから、悠仁も時間が合えば挨拶しとけばいいよ」
「えっ、あ、うん。……俺が挨拶してもいいの?」
「いいよ〜」五条は行儀悪くテーブルに両肘を突いて組んだ手の上に顎を乗せる。「これから長い付き合いになるかもしれないし」
「長い付き合いって?」
「それは今後のお楽しみってやつさ。ま、どう転ぶかは僕もまだ分かんない……いや、どう転ばせるかまだ様子見してるところ≠セから、この先については断言できないんだけど」
 気楽に行こうよ、ね。と、わけも分からず同意を求められる。
 しかしおずおずと頷いた虎杖を前にして唇に弧を描いた五条は実に満足そうな様子だった。

     ◇

 昼間にアフタヌーンティーと洒落込んでいた五条の姿は、現在、スラム街近くの雑居ビル内にあった。
 五条に同行していた伏黒は室内をぐるりと見回す。
 道路側の窓は全て閉め切られ、ブラインドがかかっている。このフロアそのものは雀荘の体を取っており卓が複数設置されているものの、一般客の姿は全くなかった。人がいるのはただ一卓。五条が腰掛ける席の対面に髪の長い女が座っていた。
 薄青の髪をサイドではなく前後で三つ編みにした特徴的な髪型は、女の表情を絶妙に隠し、本心を悟らせにくくするのに一役買っている。その胸の裡にあるのは好意なのか悪意なのか、こちらに対して肯定的なのか否定的なのか。そういった情報が表情から得にくいというのは商談する上で非常に便利なカードとなるだろう。
 そう、『商談』である。
 この国では冥冥という名で通っている女は、今宵、五条と商談の席に着いているのだ。
 五条と冥冥、双方互いに連れてきている護衛の数は二。五条の方は伏黒ともう一人――五条よりも年上のスキンヘッドの男。そして冥冥の方は憂憂という名の少年と、冥冥に『烏(カラス)』と呼ばれている黒いスーツの男となっている。ちなみに烏と呼ばれる護衛の人間は頻繁に入れ替わっており、噂では『烏』というのは名前ではなく役職名かそれに類するものであり、冥冥を守るための肉の盾として機能することが仕事なのだとか。そして役目を果たして死亡すれば新しい人間がその名を引き継ぐのである。
「相変わらず元気そうで何よりだよ、五条君。伏黒君とは『にどめまして』だね。そちらのスキンヘッドの君とは『はじめまして』だ」
 五条の斜め後ろに直立で控える伏黒、そして少し離れた窓の傍で商談の席を見据えるもう一人の護衛へと、冥冥が順に視線を向ける。伏黒が無言で会釈すると、冥冥は薄く笑って「禪院で最も有望視されている子もすっかり五条家の人間って感じだねぇ」と呟いた。
「伏黒君の件でもそれなりに騒がしくなったけど、今度はあの両面宿儺の子供の生き残りまで引き取ったんだって?」
「まぁね。最初は火種になりそうな奴は大事になる前に消しておこうかと思ったんだけど、なーんか先に恵と仲良くなっちゃっててさ。面白そうだから生かしてる。なかなか良い子だよ、悠仁は」
「おや、随分とお気に入りじゃないか」
「冥さんにはそう見える?」
 五条がサングラスの位置を直しながら返した。
「違うのかい?」
「うーん、違わない……かな」含み笑いをしながら五条は続ける。「色々と*ハ白いから、僕もついつい構っちゃうところがあるんだ」
「ふふ……何やら伏黒君の時とはまた少し様子が違うようだ。深入りはしないが、君が楽しそうなのは良いことだと思うよ」
「そりゃドーモ」
 近況報告なのか腹の探り合いなのか伏黒には判断しかねる会話が一段落し、冥冥が「……さて」とトーンを落とした声で告げる。五条がまとう空気も僅かに鋭さを増し、商談が始まった。
 まずは冥冥がひらりと繊手を胸の位置まで持ち上げて背後の少年に命じる。
「憂憂、煙草(シガー)を」
「はい、姉様」
 冥冥は憂憂が差し出したシガレットケースを受け取って蓋を開いた。大きめのそれは紙巻き煙草ではなく葉巻用の物であり、中身も当然葉巻だ。
「品質は?」
「もちろん最高級品さ」
 そう告げて微笑む冥冥からケースを受け取った五条は流れるように一本取り出してスキンヘッドに手渡す。無論、火をつけて一服するわけではない。葉巻を受け取ったスキンヘッドは別の卓の上でそれをねじ切った。
 中に詰まっていたのは煙草の葉ではなく白い粉末――コカイン。それをテーブルの上に落として広げ、ストローの代わりに紙幣を丸めて近づける。即席のストローの頭を鼻の穴にくっつけ、もう一方の鼻の穴を指で塞いでから空気と共に粉を吸い込んだ。
 しばらくの沈黙を挟んだ後、スキンヘッドは五条の方を向き、
「……上物です」
「オーケー、流石は冥さん。取引成立だ」
「毎度あり」
 満足げな微笑みを浮かべる冥冥。それを一瞥した後、五条が携帯電話を取り出して外で待機していた別の部下達に連絡を取る。「××埠頭へ」GOサインを出された彼らは素早く車を発進させたことだろう。夜の暗がりに乗じて目立たぬよう小さな船で荷を運んできた冥冥側の人間から、今宵の商談の唯一にして目玉の商品――大量のコカインを受け取るために。
 次いで五条はまた別の場所に電話を掛け始めた。ワンコールで出た相手に五条は弾んだ声で指示を出す。
「伊地知ィ、予定通りに金(カネ)持ってきて。全額」
 これもまた用件を告げてすぐに通話が終了し、五条は冥冥に視線を戻して「全部現金で用意してるからちょっと待っててね」と告げた。他の支払方法などいくらでもあるが、紙幣が最も足がつきにくく便利なのだ。それは冥冥も承知の上であり、彼女は「喜んで待たせてもらうよ。ふふ、帰りが楽しみだなぁ」と、口元に手を当てて含み笑いを漏らした。
 伏黒は護衛役らしく黙ってそのやり取りを眺めている。
 一方、コカインの純度確認をし終わった後のもう一人の護衛役――スキンヘッドの男は、また窓際に戻って静かに佇んでいた。癖なのか、左手にはめた大きな指輪を右手の爪でカツカツと叩いている。不規則なリズムは部屋の話し声や外を走る車のクラクションに紛れてほとんど人の意識に上らない。伏黒もまた仲間のそんな小さな動作を一瞥しただけで何も言わなかった。
 しかし間もなくこの部屋に金が到着し、同時に埠頭ではコカインの引き渡しが行われようとしていた時、五条の携帯電話が着信を告げた。冥冥との談笑を中断し、電話を耳に当てた五条は――
「冥さん、取引は中止だ。向こうに警察(サツ)が向かってる。恵、埠頭に向かった奴らに連絡入れて。その場からすぐ逃げろって。すでに荷物を受け取っていたなら全部廃棄だ。海に捨てさせろ。……伊地知、電話出るの遅ェよ、あとでマジビンタな。それとオマエすぐ金持って戻れ。たぶんこっちにも警察が来る」
「憂憂」
「はい、姉様。すぐに」
「伏黒です。取引中止。警察が来ます、そこから逃げてください。荷は全て破棄で」
 五条、憂憂、伏黒が各々携帯電話で連絡を入れる。
 コカインの大量取引現場を警察に押さえられてしまってはどれほどの損害が出るか分からない。しかし商品であるコカインが手元になければ罪の立証は難しいだろう。警察が勝つか、マフィア(こちら)が勝つか、僅かな時間で勝敗が決する。
 連絡を入れつつ、伏黒は憂憂と共に手元にあった少量のコカインを部屋の隅の洗面台に流す。そして僅かその数分後、大きな音と共にドアが開かれ、部屋に警察がなだれ込んできた。
「警察だ! 動くな!」
 黒いニット帽を被った青年が声を張り上げる。
 私服警官の集団の先頭に立っていたのは淡い色の髪を七三に後ろへ撫でつけたスーツ姿の男。異国の血を感じさせる風貌をしたその男に目を留めた五条が「なぁんだ」と露悪的に唇を歪ませて笑みを刻んだ。
「七海警部……いや、昇進して警視になったんだっけ? 久しぶり〜。元気してた? 相変わらずお堅い雰囲気しちゃってるねぇ」
 五条に七海と呼ばれた警官は「フゥ……」と呆れたように溜息を吐いて「貴方も相変わらずのようで」と五条に返す。
「ところで、そちらにいるのは冥冥さんですね。一体どのような用件で会っていたのか伺っても?」
「ただ旧交を温めていただけさ。悪いことなんて何もやってないよ。それとも君達の別部隊が今頃何か見つけたのかな? そんなことないよね。だってそこには何もないんだから」
 伏黒の連絡はギリギリのところで間に合い、コカインはすでに海水に溶けてしまっている。証拠がなければ逮捕もできず、あちらに向かった警察は手ぶらで帰ることしかできない。
 五条も、そして七海も、状況は理解しているだろう。七海の方からチッと大きな舌打ちが聞こえた。五条の笑みが深くなる。
「冥さんとも充分話せたし、今夜はここまでにしておくよ。それじゃあね、冥さん。七海も、また。悪かったね、しょっ引ける材料が揃ってなくてさ」
 席を立った五条はそう言ってすれ違いざまに七海の肩を叩き、部屋を出る。伏黒ともう一人の護衛もその後に続いた。
 警察の横を通り過ぎる際に伏黒は七海を一瞥したが、彼と視線が合うことはなく、双方無言で距離が開いていく。七海の後方にいたニット帽の青年が最後まで五条を忌々しげに睨んでいるのが印象的だった。


「さてさて」
 屋敷に戻った五条は玄関ホールで立ち止まり、おもむろに携帯電話を取り出した。伏黒は黙って、スキンヘッドの同僚は困惑して、その様子を眺める。
「あ、冥さーん。さっきはどうも。それでさ、『本命』の取引なんだけど。……うん。……うん、そう。あ、憂太がちゃんと受け取ってくれた? ありがと。金は夜蛾先生に任せてあるから、はいヨロシク」
 憂太というのは五条の遠い親戚であり、部下でもある乙骨憂太という青年である。そして夜蛾は五条が世話になっているコンサルティング会社の代表だ。
 どうやら五条と冥冥の間で行われた本当の商談は無事に上手くいったらしい。伏黒は内心でほっとしながら、己が為すべき次の動作に備えて身体から余分な力を抜いた。
「はい、これでお終いっと」
 通話を終えて五条が伏黒達を振り返る。
「警察は見事に囮(デコイ)に引っかかってくれた。おかげで取引は無事終了。いやぁ良かった良かった」
 パチパチパチと手を叩く五条。一人分の拍手が広い玄関ホールに響く。
「で、××埠頭の方が囮だってことは僕は当然、冥さんも憂憂も知ってる。恵も。烏は無視して良い。僕ら四人と一人以外で、囮の情報をそうと知らずに警察に流した裏切り者(スパイ)が存在するわけだけど……。××埠頭の名前を出したのはあの雀荘が初めてになる。――もう、分かるよね」
 五条の微笑みを合図として伏黒はスキンヘッドの同僚の足を思い切り蹴りつけた。自分よりも身長がある相手を地面に倒れさせ、起き上がる前に全体重で押さえつける。うつ伏せの姿勢で拘束すれば、五条がコツコツと足音を響かせてスパイの顔の前に膝をついた。カチャリ、と音を立てて銃がスパイの頭部に押し当てられる。
「命乞いでもしてみる?」
「ま、待ってください! 俺は何も! それに怪しいなら荷を受け取りに行った奴らだって……!」
「ほほう、しらばっくれるか。往生際が悪いなぁ」
 指輪を爪で叩いていたの、知ってるよ? モールス信号だね。僕が分からないとでも思った? ――そう、五条がつらつらと喋るに従って裏切り者の顔色は悪くなっていく。
 やがて裏切り者はゴクリと唾を飲み込み、震える唇で許しを乞うた。
「どうか、命だけは……」
「助けてほしい?」
「はい」
「そっか」
 五条の指は引き金から離れない。
「ま、ダメだけど。だってオマエは♂ツ愛くないもん」
 パンッと乾いた音が響き、伏黒が押さえ込んでいた身体が跳ねる。遅れて火薬の匂いが鼻をついた。
 温かな血が床に広がり始める。五条はそれに一瞥もくれず、「片付けはよろしくね」と言って屋敷の奥へと姿を消した。


◆11


 パンッと乾いた銃声が響き、自室で眠っていた虎杖はベッドから跳ね起きた。
 すわ襲撃かと、寝間着代わりのTシャツと短パン姿のまま銃と携帯電話だけを持って部屋を飛び出す。音がしたのは玄関ホールがある方向。にわかに騒がしくなりつつある屋敷の廊下を虎杖は全力で走り――。
「なんだ、悠仁の方から来てくれたの?」
「えっ、あ……五条、さん?」
 薄暗い廊下の真ん中にへらりと笑う美丈夫が立っている。足を止めた虎杖は頭目の落ち着いた雰囲気に「今は異常事態ではなかったのか?」と訝った。
「さっき銃声みたいな音が聞こえたんだけど……」
「ああ、あれね。悠仁と違ってちょっと可愛くない奴がいたもんだからお仕置きしちゃった」
「……えっと、つまり銃声は俺の聞き間違いじゃないけど、撃ったのは五条さんだったってこと?」
「その通り。だから安心してね」
 笑いながらそう言って五条は虎杖に近づき、シャツの中に手を潜り込ませるようにして腰を抱いた。「……ッ!」と虎杖の肩が跳ねる。そんな部下の様子に五条はフッと吐息を零し、耳元で囁いた。
「心配して飛び出して来てくれたんだ。やっぱり悠仁は可愛いなぁ」
「……っ、ぁ」
 五条の指先に肌を撫で上げられて、虎杖は部屋から持ち出していた銃と携帯電話をぎゅっと握り締める。傍らの男に躾けられた身体は夜の気配に酷く敏感になってしまっていた。下腹部がじわりと重くなるのを感じながら、虎杖は熱の籠もった息を吐く。
 夜でも着けているサングラスの奥で瑠璃色の目がきゅっと細くなった。
「ねぇ、悠仁」
「な……に……」
 腰と腹を撫でていた手がするすると下がり、ゴムの緩いズボンの中へと入る。「ぁ……」と思わず背中を丸める虎杖。その耳たぶをぱくりと食んで、舐めて、ちゅっとわざとらしく音を立てて口づけて、五条が命じた。
「ゆーじの部屋、行こっか」


「なんっか、今日は仕事中ずっと、……っ、ゆーじのこと考えちゃっててさぁ」
「あっ……ふ、ぅ……あ、ン、んっ、」
 ギシギシと一人用のベッドが揺れる。五条の部屋にある立派なものとは違い、虎杖の部屋のベッドは一般的なサイズと強度だ。体格に恵まれた男二人が行為に及べば、喘ぎ声や粘ついた水音、肌を打つ音に混じって不穏な軋みも聞こえてくる。
 虎杖は尻だけを高く上げたうつ伏せの状態でその音を聞いていた。両手で枕を抱き締めて口に押し当てるものの、腰をしっかり掴んで身体を揺すられれば、涙と唾液と鼻水でずるずるに汚れた枕から呆気なく顔が離れて女のような声が出る。
 前立腺を散々弄られた身体はすでに快楽の前に屈服しており、触れられずに立ち上がったペニスが五条の律動に合わせて揺れている。飛び散るカウパーはシーツを汚し、同時に五条の機嫌をこれでもかと良くしているようだった。
「仕上げに……っ、馬鹿を撃ったら、『相手が悠仁だったら僕もこんなこと絶対しないのになぁ』って、思って……っハ、く」
「んぅ……ん、あっ、ひ、ン! あっ、やっ……奥、やめっ……」
 ごつごつと奥を穿つ動きに虎杖の腰が引ける。だが五条は逃がしてくれない。
 助けを求める子供のように腕を前に伸ばせば、五条が背中に覆い被さってきてその手を両方とも上から押さえつけられた。指の股に一本一本指を差し入れ、絡め取るように握り締められる。
 そして、ごちゅん、と奥がこじ開けられた。
「――っンお、ぁ」
 尻を押し潰すような態勢を取られたことで結合が深くなり、虎杖は胸を反らして喘いだ。目の前がチカチカする。
 酷いことをされているのに圧迫感と快楽が一緒くたになって頭を犯し、上手く物事を考えられない。舌を出して犬のように呼吸をしながら、体内で反射的に五条のものを締め付けた。
 虎杖の最奥に先端を潜り込ませ、直後の締め付けを喰らった五条が「……っは」と小さく喘ぐ。
「ふっ……ははっ、ゆーじの中、繋がる度に気持ち良くなってく……かわいい……」
「ぃあっ、あぅ、ひっ、ぃ、ン、あっ!」
 獣の交尾のようにぐっちゅぐっちゅと責め立てられ、過ぎた快楽に虎杖の意識は半分以上トんでいた。分かっているのは五条の機嫌が良さそうなことと、この夜がまだまだ終わらないことくらい。
「ほんっと、悠仁は可愛いなぁ……どうしてこんなに可愛いんだろ……」
 虎杖の首筋に吸い付きながら五条が独白する。
 まだ成熟しきっていない身体に所有と執着の証を残され、虎杖は小さな痛みに身体を震わせた。その反応に五条が笑う。
「ゆーじ、      」
 笑ったまま五条が囁く。
 呪いのようなそれはベッドの上限定のただの戯れ言の一つだった。

     ◇

 裏切り者の死体の処理をして報告のために五条の部屋を訪ねた伏黒は、一切反応がないことに扉の外で首を傾げた。が、その後すぐに通りがかった使用人が五条は不在だと教えてくれる。ついでにどこへ行ったのか知らないかと訊ねれば、少しの躊躇いの後、虎杖悠仁の部屋へ向かったのを見た者がいると告げられた。
 自分達の頭目がどこで誰と何をしているのか容易に想像でき、伏黒は深い溜息を吐いた後、報告は明日にしようと踵(きびす)を返す。ついでに適度に時間をおいてから虎杖の部屋を訪ねようと思った。
 どうせ五条のことだ、虎杖を犯した後で充分な気遣いを見せるとは思えない。何せ初っ端から虎杖に腸内洗浄を命じたような男である。ついでに言えば、伏黒は五条の部屋に呼ばれた後の虎杖が深夜にフラフラと覚束ない足取りで自室に戻る姿を見かけたことが幾度かあった。そしてそのうちの何度かは虎杖の様子に胸が痛んで彼を介抱したこともある。今夜もまたそうなるだけだ。
 散々身体を暴かれた後の虎杖の姿に男として一切反応しないわけではなかったが、薄汚い欲よりも心配の方が遙かに勝る。それは虎杖も感じてくれているようで、情けなさを抱きつつも、それでも伏黒には安心しきった顔を見せるようになっていた。
 これはきっと五条が気づいていない二人だけの秘密。決して甘くはなく、気分が良いものでもなかったけれど。
 一旦自室に戻った伏黒は少し時間を潰し、そうして近くはないが遠くもない位置にある虎杖の部屋へと向かった。


「虎杖」
 ノックの後、時間帯を考慮して小さな声で中の人間を呼ぶ。耳を澄ませて待っていれば、伏黒よりも小さな声で「開いてる」と応えがあった。
 その言葉の通り、ドアノブに手をかければ抵抗なく扉が開く。足を踏み入れた室内はベッドの脇にあるライトだけが灯され、ほの暗い空間の中で虎杖がぐったりと横たわっているのが見えた。
「……オマエ、今日は特別あの人を煽るようなことでも言ったか?」
「ふ、へ……? あ、あー……わかんね……でも、今日はなんか……ゲホッ……興が乗ってた、みた、い?」
 答える声は酷く掠れている。一応喋れる程度には回復しているようだが、身体を起こすことはまだできないようだった。
 乱れたシーツを下敷きにして横たわる裸体は至る所に鬱血痕や歯形が散りばめられ、腰の辺りにはくっきりと手型までついている。
 執着を表すのはそれだけではない。痣の他に虎杖の身体は白く濁った液体で汚れていた。特に股間からは大量に滴っており、「一体何発ヤったんだ」と下世話な思考が脳裏をよぎる。乾きつつある白濁の粘液が誰のものかなど想像したくもないが、虎杖を犯したのは伏黒もよく知る男であるので勝手に脳内が映像を生み出してしまうのだ。
 伏黒はいつもより悲惨な状況に顔をしかめ、ひとまず虎杖の身体を起こす。汚れた枕を引っ掴んでベッドの頭の方に置き、クッションの代わりにしてから虎杖をそこにもたれさせた。その動きに合わせてコプッと溢れ出した白濁には気づかないフリをする。虎杖もまた小さく眉をひそめただけで何も言わなかった。
「水、持ってくる」
「ん」
 頷く虎杖。それを確認し、伏黒は勝手知ったる何とやらで部屋の隅にある小さな冷蔵庫を開ける。中にはアルコールやちょっとしたツマミ、菓子類の他にミネラルウォーターも入っていた。それを一本拝借してベッドの方に戻る。
 疲労で意識が飛びかけているのか、虎杖は僅かな間に瞼を下ろしていた。しかしここで意識を手放して苦労するのは虎杖だ。ペットボトルの蓋を開けつつ、「おい、起きろ」と伏黒は声をかける。その視界の端に、虎杖の部屋にはそぐわぬ物が映り込んだ。
「……?」
 ほの暗い部屋の、ベッドの隅の方。そこに黒くて丸いレンズのサングラスが転がっている。
 見間違えるはずもない。それは五条悟の物だった。

「ゆうじー、まだ起きてる? そっちに僕のサングラスが……」

 伏黒のように扉を開ける前の確認など一切ない。
 突然入ってきた人物はベッドの上の虎杖とその傍に佇む伏黒を見やり、一旦声を途切れさせた。
 驚いているのだろうか? 驚いているのだろう。そりゃそうだ、と伏黒は思う。
 五条の虎杖に対する扱いは特異であるものの、部下として必要な情報を与えたり今夜の伏黒のように重要な仕事に連れ回したりはせず、またこうしてセックスをした後は後処理もせずに放置するのが常だ。つまり人間として大切に扱っているとは言えない。むしろ幼い子供がお気に入りのオモチャで遊び、飽きたら放置する――。そんな形に近かった。
 しかしそれでも身体を重ねた直後の相手の傍に自分以外の男がいれば、流石の五条も動揺するはずだ。その後の反応はろくなものではないかもしれないが。
 恵も悠仁の身体に興味湧いちゃった? だったら抱いてみる? ――なんてふざけたことを言われた日には、勝てないと分かっていても全力で殴りに行ってしまうだろう。
「……五条さん?」
 だが予想に反し、あまりにも長く五条が沈黙を続けたので、伏黒は不思議に思って呼びかけた。
 その直後。

 ――ドンッ

「ッッッ!」
 五条がすぐ傍の壁を殴りつけ、黒いガラスに遮られることのない瑠璃色の双眸で伏黒を睨みつけた。あまりにも殺気のこもったそれに伏黒はたまらず一歩後退る。
「ご、じょ……」
「退けよ、恵」
「……っ」
 いつもの飄々とした雰囲気など微塵も無い。
 心臓の真上に銃を突きつけられているような恐怖が全身を走り抜け、伏黒は命じられるまま横に逸れた。ちょうど伏黒の身体に隠れるような位置だった虎杖の姿が五条の前に晒される。
 いつもと全く異なる抜き身の刃のような気配に虎杖もまた身体を強張らせていた。
 五条は無言でベッドに近づくと、そんな状態の虎杖を見下ろし、おもむろに抱き上げる。「え、ちょ……」と、八十キロを超える体重の持ち主である虎杖はその重さをものともしない五条のフィジカルに目を見開きつつ、煮えたぎるような青に晒され黙り込んだ。
 虎杖を横抱きにした五条は次いで傍に立ったままの伏黒へと顔を向ける。無表情であるにもかかわらず、こちらを睨みつける目だけがギラギラと感情を露わにしていた。
「気づかせてくれてありがとね、恵」
「え……」
 抑揚を欠いた声で感謝を告げられる。
 そして伏黒に向けた視線は逸らされぬまま、五条の唇が虎杖の首筋に触れた。
「これは僕のものだ」
 ――誰にもやらねぇし、どこにも帰してやらねぇ。


◆12


 ビリビリと肌を嬲るような殺気に何も言えず、虎杖は横抱きにされたまま五条の部屋にまで運ばれてしまった。
 扉を閉める際の荒々しい所作にもいちいち肩が跳ねる。しかしベッドの上に降ろされた時の手つきはこれまでにないくらい優しく、虎杖は目を白黒させた。
 そのまま覆い被さってきた五条が「はぁ……」と大きな溜息を吐く。
「っ……ごじょう、さん?」
「脅えないで。酷いことは絶対にしないから」
 虎杖の胸に額を押しつけて囁くように五条が告げた。素肌に触れる吐息がくすぐったい。
「悠仁、恵に抱かれたの?」
「ち、がう……介抱してもらってた、だけ。俺、動けなかった、から」
「そう」
 五条がほっと肩から力を抜く。
 虎杖はさらに困惑した。本当に何が何やら分からない。
 しかし顔を上げた五条はそんな虎杖を前にしてへらりと表情を崩してみせた。
「まぁそんなとこだろうとは思ってたけど。悠仁がこういうことで嘘をつけるとは思えないし、安心したよ」
「なんで」
 思わず疑問の言葉が口を突いて出た。
「なんでって? 僕がほっとしちゃ可笑しい?」
「それは……」
 この男にとって虎杖などただのオモチャだ。そのはずである。
 ある程度は気に入られているようであるものの、いつ相手の気が変わってしまうか分からない。手を出さなくなるならまだ良い方で、下手をすれば別の人間に犯させそれを見学する……などといったことまで始めかねない相手だ、五条悟という男は。――そう考えてしまうほど虎杖は可愛がられつつも粗雑に扱われてきた。
 そんな男が何故今更、虎杖が五条にしか触れられたことがないと知って安心するのか。
 心情をそのまま吐露するわけにもいかず虎杖がただ黙って瞳を揺らめかせれば、五条はそっと眉尻を下げ「悠仁が特別だって、やっと気づいたからだよ」と言った。「他人に気づかされるなんて癪だけど」
「特別って……俺、何かしたっけ?」
「してくれたじゃん。元々知り合いだった恵と違って、恩も義理もない、むしろ死んでくれた方がマシかもしれない僕を襲撃から守ってくれたのは誰?」
「でも、」
 その件は虎杖の警察官としての上司が仕組んだもの。つまり大きな区切りで見れば自作自演だ。虎杖自身がそんなつもりは無かったのだと言い訳をしても結果は変わらない。
 言葉にできず唇を噛み締める虎杖に五条が「だからね、そういうとこ」と独りごちた。
「まあ、守ってもらった件はただのキッカケだよ。……うん、そう、きっとあれが始まりだった。あとはね、君を気にするようになってそのままズブズブと。お人好しな君も、古参も真っ青な恐ろしい君も、僕に逆らえなくてぐちゃぐちゃになっちゃう君も、全部、全部――」
 大きな両手が虎杖の頬を包み込む。
「――僕のものにしたい」
 たまらなく美しい青い瞳が虎杖だけを映していた。
 まるでこの男が虎杖悠仁という人間を心から愛しているかのようで、虎杖は目を逸らすこともできぬまま息を呑む。チクリと胸が痛んだのは己の本来の立場を思い出したためか。
 そっと顔を近づけてきた五条が互いの吐息さえはっきりと感じられる距離で微笑んだ。
「好きだよ、悠仁」
「っ、ぁ……」
「好き。悠仁、好き。大好き。今までごめんね。君が僕に逆らえないって知ってるから、君が並大抵のことじゃ僕から離れていかないって知ってるから、随分と酷いこともしちゃったよね。僕は馬鹿だった。君のことが好きなのにそれに気づけなくて、ずっと君を蔑ろにしてた。君を捕まえておく努力を怠っていた。……でも、ちゃんと気づけたから」
 溢れんばかりの愛の言葉と共に捧げられたのは、この男が好むとびきり甘い菓子のような極上の笑み。
 敵わない腕力よりも強烈に、それは虎杖から抵抗の意志を奪った。
「僕は君が好き。大好き。離したくない。独り占めしたい。ずっと一緒にいたい」
 睦言を囁き、五条は唇で虎杖の頬に触れる。
「ゆーじ、あいしてるよ」
 数刻前と同じ台詞だというのに全く違う表情で、五条悟は虎杖悠仁を呪った。

     ◇

 この子は自分の変化に気づいているのだろうか? いないだろうな。――と五条悟は考える。
 気持ち良さと愛しさで沸騰しそうな頭のまま見下ろすのは、大きく脚を開いて五条を受け入れている若い身体。律動のたびに、じゅ、ぷちゅ、じゅぶと粘ついた水音が奏でられ、不安定に揺れる脚が縋るように、そしてねだるように、五条の腰に擦りつけられた。
 虎杖悠仁。年若い、五条悟の部下。平均よりもずっと立派な体躯は男に抱かれるよりも女を抱くためにあるようなものだ。しかし顔の横でシーツに押しつけられた手は五条の大きな手と指を絡め合っているし、顔を近づけて名前を呼ぶだけでその唇はキスを受け入れるが如く薄く開かれる。
 これまで立場上、虎杖は五条に逆らうことができず、五条に言われるままその身体を明け渡してきた。しかし今夜は違う。諦観や屈辱、隠しているつもりでも隠しきれていなかった抵抗……そういったものがほとんど感じられない。五条が愛を囁くたびに頬は上気し、胎の中がきゅんと五条のものを締め付けた。
 きっと虎杖はそんな自分自身の変化に気づいていない。そしてもし指摘すれば、虎杖は羞恥と困惑で叫びだしてしまうだろう。それは勿体無いな、と五条は悪戯心に蓋をする。今はただ、無自覚に五条を受け入れているこの子を愛し尽くしたくてたまらなかった。
「ゆーじ、気持ち良い?」
「ひ、ぁ……あっ、あァ、あ、ン」
 前立腺を集中的に責め立てた結果、虎杖のペニスは触ってもいないのに天を向き、五条との腹の間で揺れている。時折わざと身体を近づけて性器の先端が五条の腹筋に触れるようにしてやれば、亀頭が擦れて気持ち良いのか、悠仁の腰がカクカクと動いた。
 このまま扱いて熱を解放してやれば、虎杖にとってはさぞかし気持ちが良いだろう。しかしそれでは五条が楽しくない。折角虎杖の身体が無意識に五条を受け入れようとしているのだから、もっともっと貪欲になりたかった。
「ねぇ、悠仁」
「ふ、ぅ、っあ……?」
 涙で揺らめく琥珀色が五条を見上げる。
 遮る物のない青い瞳で真っ直ぐに見つめれば、それだけで虎杖の中がきゅうきゅうと締め付けてきた。
「チンコ触らずにさ、ナカだけでイってよ」
「な、か?」
「そう。ナカだけで。……こういう風に」

 ごちゅん。

「――ッッッ!!」
 いきなり最奥をえぐられて虎杖の身体が大きく跳ねる。だが五条は指を絡めた両手をしっかりと握り締めて一切の逃げを許さない。そして間髪を入れずに奥を小刻みに穿ち始めた。
「ンあ、あっ、ひ、ぃン、ん、おっ! ぅ、あっ、あ!」
 前立腺も共にごりごりと擦り上げれば、虎杖の口から高い声が律動に合わせて迸る。
 その声に苦痛の気配はない。それどころか肌はますます上気し、琥珀の瞳はとろけるように濡れ光っていた。
「はっ……ねぇ、ゆーじ、気持ち良い?」
 五条もまたきゅんきゅんと絶妙に締め付けてくる虎杖の中を味わいながら、熱い吐息と共に訊ねる。
「や、ああ、ひぁ……、あ、ンっ、あ……ッ」
「気持ち良いって言って。僕に奥まで突かれて気持ち良いって」
「ご、じょ……ッ、あっ、ひも、ち……きもち、い……」
「もっと、もっと言ってよ。ゆうじは僕に抱かれて気持ち良い?」
「い、ンッ、あ、きもち、い……きもち、いい……ッ!」
 洗脳するかのように「気持ち良い」と繰り返させる。まるで言霊だ。繰り返すたびに虎杖の反応は良くなり、五条の腕の中で乱れ狂った。
「ゃあっ、あンっ、きもちぃ……きもち、い、よ……ごじょ、さ……あっ、あっ」
 最奥も前立腺も容赦なく責め立てられた若い身体には最早まともな思考などあるまい。立場も義務も考えられずに喘ぐ虎杖を五条は恍惚とした表情で眺める。
 そろそろこちらも限界が近い。
 五条はさらに強く腰を打ち付け、虎杖を強く求めた。
「ゆー、じっ……!」
「ごじょ、あ、きもち、い、あっ、ア、あ、あぁあアアあ!!」
「っ、ぁ――」
 気持ち良いと繰り返しながら虎杖が達した。射精はない。ビクビクと大きく身体を痙攣させて、終わりのない快楽に「あ、アァ、あ……」と小さく嬌声を漏らし続ける。
 強い締め付けに五条もまた虎杖の中で熱を放ち、最後まで絞り出すように軽く腰を揺すった。
「あっ、あン……っ」
「は、はは……さいっこう」
 最早意識もほとんど無いだろう虎杖のとろけた顔を見下ろして五条は呟く。
 頭が馬鹿になりそうなくらい気持ちが良かった。ゆっくりと腰を引いて虎杖の中から出れば、ぽっかりと開いた穴からコプコプと白濁がこぼれ落ちる。その感触にまた虎杖が身体を震わせ、五条の欲を刺激した。
 ただしこれ以上の行為は虎杖に負担がかかりすぎる。五条は虎杖の額に優しく口づけ、「お疲れ様」と声をかけた。
「寝てていいよ。あとはやったげる」
「ん……」
 半分落ちかけていた瞼が完全に閉じ、虎杖は眠りの世界へと誘われていく。深くなる呼吸に五条は淡く微笑んだ。
 そうして絡ませあっていた指を一本一本丁寧に解き、虎杖の横に座り込む。
「ねぇ、ゆうじ」
 眠りについた虎杖がその甘い声に反応することはない。しかし五条は構うことなく「ゆうじ」と再度呼びかけながら、虎杖の片手を掬い上げた。
 指を撫で上げ、手の甲を愛撫し、手首にくるりと己の指を回して、力の入っていない無防備な手のひらに唇を寄せる。
「……僕は君が好き。大好き。離したくない。独り占めしたい。ずっと一緒にいたい」
 五条は手のひらに唇を触れさせたまま、虎杖の意識がある時に告げたものと全く同じ台詞を繰り返した。虎杖の指の隙間から彼の寝顔を見つめてそう告げる声は腐り落ちる寸前まで熟れた果実よりも甘く芳しい。
「だから」
 しかし虎杖の手の中で五条の唇が三日月のように弧を描いた。とろけそうな青はそのままに、妖しくも美しい、そしてあまりにも残酷で残忍な悪魔の笑みが極上の顔(かんばせ)を彩る。
「悠仁はどこにも帰さない。君の居場所はここだけにしなきゃ、ね?」


◆13


 肌に触れる布はさらさらと心地良く、降り注ぐ陽光は起床を促すものであるが瞼の奥を突き刺してくるような強さはない。
 穏やかな微睡みの中、胎児のように身体を丸めて目を瞑っていた虎杖はシーツに頬を擦りつけながらその瞼をゆっくりと持ち上げた。
「ん、ん……」
「ゆーじ、起きた?」
「……ごじょう、さん……?」
 寝起きの顔をくすぐる長い指。掠れ気味の声で名を呼べば、ベッドに腰掛けたままこちらを眺めている五条が満面の笑みを浮かべた。
 まさに大輪の花が咲き誇るが如く。整った顔に浮かべられたその笑みに虎杖も思わず息を呑む。
 虎杖の反応に五条はますます嬉しそうにしながら、覆い被さるように距離を詰めてきた。
「ねぇ悠仁、気持ち良かった?」
「……ぁ……、っ!」
 一瞬、虎杖は何を言われたのか理解できなかったが、直後によみがえってきた昨夜の記憶に顔も身体も血液が沸騰したかのように熱くなる。羞恥と焦りで矢も盾もたまらず身を起こせば、体中の軋みと奥から響く甘い鈍痛に再びベッドへと撃沈した。
「ぇ、……わ……なに、これ」
「あれ? ゆーじ?」
 きゅんきゅんと胎が勝手に疼いている。すでにそこには何もなく、放たれた熱さえ残されていないというのに、虎杖の体内は昨夜散々注ぎ込まれた快楽を求めて収縮を繰り返していた。
 一糸まとわぬままシーツが中途半端にかかった状態で虎杖は己を抱き締め、両脚を強く擦り合わせる。胎の疼きと共に股間のものが硬くなり始めているのがとても恥ずかしいと思った。
「もしかして昨日のが良すぎてまだ感覚が抜けきらない?」
「ひゃっ……ぁ、や……だめ、さわんない、で……ッ」
 虎杖に覆い被さったまま、五条が首筋や胸を優しく撫でてくる。たったそれだけの接触で肌はいつも以上に熱を持ち、背骨が甘く痺れるような感覚に全身がビクビクと震えた。
「嗚呼……」五条が熱のこもった息を吐き出した。「最高に可愛いよ、悠仁」
 囁きの後、そのまま耳の後ろに吸いつかれて虎杖は「ゃ、あっ」と高い声を上げる。快楽にじわりと涙が滲み、それを見つけた五条が「あは、ごめんね」と軽く謝罪しながら頬に口づけてきた。
「まだ身体ツラいでしょ。これ以上はしないから安心しな」
 大きな手が虎杖の髪をくしゃりと撫でる。艶めいた行為ではなく穏やかな愛情を感じられるその仕草に虎杖は驚いて目を見開き、そして昨夜の五条の態度が決して嘘ではなかったのだと今更ながらに実感した。
「……」
 ツキツキと胸が小さな痛みを訴える。
 本来の立場では五条の想いを受け入れられないことによる罪悪感か。それとも警察官でありながら目の前のマフィアに絆されかけている――つまり自分が正義に背いている――という背徳感のためか。
(俺は警察官。警察官なんだ)
 胸中で繰り返し、虎杖は己を保つ。昨夜五条に抱かれた己がこれまでとは全く違う様子だったことには気づきもせず。
 そんな状態の虎杖の身体に五条がシーツをかけ直し、「もう少し寝てていいよ」と優しく囁いた。これ幸いと虎杖は頷いて目を閉じる。今の状態であまりたくさんのことを考えたくなかった。
(あ……そういや急いで部屋から出てきた所為で盗聴器持ってきてねーや)
 折角五条の部屋に長く滞在できるというのに惜しいことをしてしまったと、これだけは染みついた潜入中の警察官根性で考える。しかし未明まで酷使された肉体は休息を訴えて、ゆるゆると虎杖の意識を眠りへと誘っていった。


「へぇ、この子が君の……」
「あんま見るなよ。悠仁が減る」
「減るの?」
「減るんだよ。だから見んな」
「はいはい。男の嫉妬は醜いねぇ」
「うっせぇ」
 男が二人、すぐ傍で軽口を交わしている。一方は五条だが、もう一方は知らない声だ。
 ぼんやりとした意識の中で虎杖はそう判断し、次いで「そうだ、ここは五条さんの部屋だった」と思い出した。直後、全裸で寝ているところを五条以外に見られたのだと気づいて一気に意識が覚醒し、虎杖はカッと目を開く。
「あ。眠り姫が起きたようだよ、悟」
「だから! 見るな! あっち行け! あ〜悠仁おはよう。身体の調子はどう? 大丈夫?」
 前半は刺々しいがそれゆえに相手とは気の置けない仲なのだろうと予想させる声で、後半は砂糖菓子のように甘い声で、五条が語りかける。虎杖はあたふたと身体をシーツで隠しながら身を起こし、「う、うん」と頷いた。幸いにも二度寝する前の甘く熱っぽい感覚はすでにない。時間が経った所為もあるだろうが、五条以外の目があるというのも大きく影響しているのだろう。
 ベッドの上から見知らぬ誰かさんに視線を向けて虎杖はひとまず頭を下げた。
「は、はじめまして。初対面の人にこんな格好ですんません」
「気にしないで。どうせ悟の所為だろうから」
 優しげな声で返される。
 五条と親しげな様子のその人物は、長く伸ばした黒髪をハーフアップにしている青年だった。五条が童顔であることを考慮すれば、おそらく彼と同い年くらいだろう。穏やかな微笑みと緩めのシャツにブラックジーンズという出で立ちは街の表側にいそうな好青年然としている。しかし五条と親しいことや情事の跡がくっきりと残る虎杖を前にして一切動じないことから分かるように、決してただの一般人ではあるまい。
「え、っと。五条さんと知り合いならもう知ってるかもしんねーけど、俺、虎杖悠仁って言います」
 ひとまず相手の名を知るために自分から名乗ってみる。すると黒髪の青年はすっと両目を細めて「強かだねぇ」と呟いた。
「え?」
「何でもないよ。私は夏油傑。そこで嫉妬心を燃やしている男の昔馴染み……親友だね」
 よろしく、と言って夏油が手を差し出す。それに応えて握手をすれば、すぐに五条が割って入ってきてベッドに乗り上げ、虎杖を抱き締めた。
「傑!」
「ふぅん、随分と惚れ込んでるねぇ。なんだか意外だ。……ま、いいさ」
 中途半端な位置にあった手を戻し、夏油は肩をすくめた。
「生憎と私も時間が押している。早めに本題に入ろうか」
「はいはい。オマエほんっと忙しいよな」
 虎杖を抱き込んでいた五条はそう言って溜息を吐き、一度改めて虎杖を少し強めに抱き締めた後、身体を離してベッドの縁に腰掛けた。ベッドの中央に座り込んでいる虎杖からは彼の背中しか見えない。一方、夏油もベッドの近くにあるソファセットの一つに腰を下ろして脚を組む。
「その多忙さの何割かは君の依頼によるものだけどね」
「あー、あれ。どんな感じ?」
「九割九分完了。あとは君のゴーサインが出れば終わる」
「早いな……。そこまで行ったから顔を出せたってことか」
「ああ。まだ他から受けた仕事も残っているけど、それなりに余裕をひねり出せたよ。……で、新しい依頼の内容は?」
 五条と夏油は親友であるものの、何らかの仕事を依頼する側と仕事を請け負う側でもあるらしい。だが五条家専属ではないことがその台詞からうかがえる。
 何らかの仕事をフリーランスで請け負っている夏油。一体どのような犯罪行為に手を染めているのか。生憎と手元に盗聴器がないため、ここからは己の記憶力だけが頼りだ。些細な情報も決して漏らさぬよう、虎杖は五条の背中に隠れて二人の会話に意識を集中させた。
 夏油に訊ねられた五条は少しだけ間を置いて告げる。
「ある人物に関する電子データを削除してほしい」
「ターゲットとデータの保管先は?」
「ん」
 五条が何らかのハンドサインをした。しかし虎杖からの位置では確認できない。
 もどかしく思っているうちにも、五条の意図を解した夏油が「なるほどね」と呟く。
「構わないけど、それだと紙のデータもあるんじゃないか? そっちは私じゃ手が回らないよ?」
「書類の廃棄ならうってつけなのがいるだろ。アイツ≠ノ任せる」
「……ああ、彼≠ヒ。もう潜って何年だっけ?」
「一浪扱いで大学に入れて、卒業後はソッコー潜らせたから……かれこれ七年? いや、八年か。この前昇進したんだぜ」
「長いねぇ。というかよくバレずにいるもんだ」
「アイツ、クソ真面目だからな。周りの奴らよりよっぽど『らしい』だろ」
「確かに」夏油が口元を指で隠すようにしてくすくすと笑う。「でもそれじゃあ前々から予定していた分とダブルで彼も働かなくちゃいけないわけだ。『労働はクソ』ってまた愚痴をこぼしていそうだね」
「どうせ僕には聞こえないし?」
「私が聞かされるんだよ。情報を渡す時に」
「お悩み相談係だな。ちょうど良いじゃん、表じゃ真っ当な教祖サマやってんだから、ついでにアイツの悩みも聞いてやってよ」
「その一番の原因が君だと思うんだけどねぇ……。いつも無茶ぶりするし。あ、虎杖君、話について来られてないよね。ごめんごめん」
 ひょいと夏油が身体を傾け、五条の背に隠れてしまっていた虎杖に視線を送る。ついでに五条も身体を捻ってこちらに顔を向けた。
 夏油の正体もよく分からないというのに、二人の会話には新たな人物も登場して何が何やらさっぱりだった――しかし不穏な気配だけはひしひしと感じ取ることができていた――虎杖は、一気に二人分の視線を浴びてびくりと肩を跳ねさせる。
 そんな虎杖に五条がニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべつつ夏油を指差した。
「名前で気づかなかった? 夏油傑だよ、夏油傑。コイツ、≪盤星教≫の代表者もとい教祖サマ」
「へ……?」
 はて、と虎杖は首を傾げる。盤星教、盤星教、さて何だったかな、と。しかし数秒考え込んでからハッと息を呑んだ。
「思い出した! 盤星教の夏油様=I 信者から仏様のような人だって慕われてるって、何かで聞いたことある!」
「そう、それ」
 パチン、と五条が指を鳴らした。
 盤星教とはこの国で広まりつつある新興宗教の一つである。新興宗教と言えば、世界各地で様々な集団が非道な行いをして話題になったこともあり、人によってはカルト的なものを想像する場合もあるだろう。しかし盤星教はカルトとは全く異なる健全な組織で、様々な人種や職業の人が入信しているのだと言う。天元と呼ばれる存在を信仰し、互助の精神を持って日々活動している……云々。虎杖も詳しくは知らないが、名前とその代表者の名前だけは頭の片隅に残っていた。
「え……でもそれじゃあ、クリーンな組織のトップが実は裏でマフィアと繋がってたってことに……?」
「悠仁大正解」ニッコリ、と五条が笑みを浮かべた。「傑はね、僕の昔からの知り合いで、教祖サマをやり出したのは僕が五条家を正式に継ぐことが決まった辺り。十五年くらい前かな。ちなみにまだ三十三歳だけど二人の子持ちでさぁ、その子らがデジタル系にめちゃくちゃ強いんだよね。だからハッカーの真似事ができるってわけ。ついでに盗んできた情報を使って情報屋も営んでる。ちなみに情報提供屋じゃなく情報操作屋って言った方が正確」
「『操作』に関しては基本お客様≠ノも秘密だけどね。今日の客が明日のターゲットになる場合もあるし。ともあれ二人とも私の自慢の娘達さ。血の繋がりはないけど、大切な家族だと思っているよ」
「その台詞、あの子らが聞いたら狂喜乱舞じゃ済まないな」
 苦い顔でぼそりと五条がこぼした。夏油の娘達は夏油をとても愛しているようだが、それに比例するように五条のことは嫌っているのかもしれない。
 ともあれ、虎杖はとんでもないことが判明してしまったと無意識のうちにシーツの下で拳を握る。
 盤星教の代表が実は黒社会と繋がっており、特に五条家と親密であるということ。ひょっとしたら後者は黒社会の中でも特に秘されている事柄かもしれない。何せ一つの組織と親密になっているとバレれば情報屋としての信頼度が限りなく下がってしまう。夏油は他からも依頼を多く受けているようなので、きっと五条悟との繋がりは秘密中の秘密だ。
「今更だけど、俺ってその話聞いても大丈夫なん?」
「ダイジョーブダイジョーブ!」虎杖の疑問に五条がビシッと親指を立てて答える。「ほら、これから悠仁と長い付き合いになるかもしれない奴が来るって昨日話したでしょ? それ、傑のことだから。まぁまさか僕も次の日に来るとは思ってなかったけどねー」
「翌日も近々≠フうちに入るだろう? とは言っても、たまたま時間が空いたから、早い方が良いと思って来てみたんだけど」
 夏油が補足し、そのまま「ところで」と五条に問いかけた。
「新しい依頼を受けるのは全く構わないが、それが君にとってどんな益になるんだい? 君のことだから単純に相手を弄って遊びたいだけなのか……」
 ちらり、と夏油が虎杖を一瞥する。その理由が分からず虎杖が首を傾げると、夏油は胡散臭く微笑んで五条に視線を戻した。
「でもちょっと違うようだね?」
「最初は、最終的に死のうが壊れようがどうでも良いから、とりあえず遊んでやろうってつもりだったよ」五条が静かに告げる。「自分を証明してくれるものを全部奪ったらどんな顔してくれるのかなーって」
 そう告げる五条の顔を虎杖は見ることができない。ただ、残酷な内容の割に声は穏やかだった。
「過去形か」
「そ、過去形」五条は頷き、そして小さく笑う。「今は本気で手に入れようと思ってる」
「……やることは変わらないが、その理由が変わったってことか」
「イエース。てなわけで、よろしくな。傑」
「オーケイ。どうやら君も本気のようだし、いつも以上に丁寧な仕事をさせてもらうよ」
「期待してる」
 五条の言葉に夏油は微笑んで頷き、左腕に巻いた腕時計をちらりと確認する。どうやら本当に時間が押しているらしい。
「すまない、そろそろお暇する時間だ」
「おう。じゃあアッチの件はすぐに進めてくれ」
「了解。今夜にでも動きがあると思う」
 そう答えて夏油が立ち上がる。五条は座ったまま友人の背を見送り、そうして部屋にはまた五条と虎杖の二人だけとなった。
 やはり五条と夏油の会話は肝心なところが隠され、今夜にでも何が起こるのか虎杖には予想をつけることすらできない。しかし何かが起こることは明らかだ。加えて夏油傑と五条悟の繋がりも判明し、これらを今すぐ警察側に伝えることこそが虎杖の最優先事項だと言えるだろう。
 しかし――
「五条、さん……?」
 あまりにも容易く押し倒され、虎杖は五条の顔を見上げながら真意を問うために名前を呼ぶ。すると五条はニッコリと美しい笑みを浮かべ、
「ねぇ悠仁、シよ?」
「え、や……あの、さっきシたばっか」
「うん。だけど傑があんまりジロジロ悠仁のこと見るから嫉妬しちゃった」
「し……っ、え?」
 戸惑っている間にも五条の指がするすると虎杖の身体を愛撫し始める。再び熱をともすその感覚に一度「んっ」と声を上げてしまえば、あとはもうなし崩しだった。
 虎杖の腹部に唇を押しつけながら五条は囁く。
「夜まで一緒にいようね、悠仁」

     ◇

 その日の夜、警察によるマフィア・禪院家の一斉摘発が決行された。


◆14


 夏油傑の来訪から一夜明け、今朝もまた五条の機嫌はすこぶる良いようだった。
 結局、あのあと五条に再び気を失うまで抱かれ、目が覚めた時にはすでに窓の外は夜。おまけに身体は全く言うことを聞かず、五条が嬉々として世話を焼く始末。自室に戻る隙など無く、虎杖はまた五条の部屋で朝を迎えたのである。
 ただし昨日と違って虎杖の目覚めを促したのは男二人の会話ではない。きっちりと着込んだスーツ姿でベッドの傍らに立ち、電話をしている五条の声だった。
「上出来じゃん。こっちも動くから、オマエも最後までしっかりな。最後の最後に失敗して尻尾掴まれんなよ」
 最後にそう告げて五条は電話を切る。そして目を覚ました虎杖に気づくと「おはよ」と額にキスを落とした。
「本当は悠仁とゆっくり朝食でもって思うんだけど、これから出掛けなきゃいけなくてさ。この部屋にいてくれていいから、良い子で待っててね」
「……どっか行くの?」
 ベッドの上から虎杖が掠れ気味の声で訊ねれば、五条は携帯電話の角をそっと自分の口元に押し当てて弧を描く唇を隠した。
「禪院家だよ」
 黒社会の玉座を巡って争っている組織の名を出し、五条はサングラスの奥で青い目を細める。
「昨日の夜、禪院家が警察の一斉摘発を受けたんだ。警察側からすれば入念な準備の上でようやく成功した作戦だったんだけど、当然のことながら禪院家にとっては青天の霹靂、寝耳に水。突然のことにてんやわんやさ。終いには当主さえ逃がしきれずに豚箱行き。あ、まだ取調室かな? どっちでもいいや。ともあれ禪院家は壊滅状態に陥った。だからこれから僕が向こうへ赴いて、立て直しのお手伝いをしてくるってわけ」
「……は」
 理解が追いつかない。
 両面宿儺が玉座から退き、彼の血を引く者が一人を残して全員殺された後、この国の黒社会は実質的に五条家、禪院家、加茂家の三つ巴状態となっていた。その一角がたった一晩で陥落。しかも五条悟がこれからその禪院家に一枚も二枚も噛みに行くという。これは一体どういうことなのか。
 情事の後の気怠ささえ吹き飛ぶニュースに虎杖は意味もなく口を開閉してしまう。驚きを隠せないその姿に五条がますます口を軽くした。
「次のトップは禪院真希っていう女の子でね。悠仁や恵の一個上。家の中じゃあんまり良い待遇をされてこなかったんだけど、そのおかげで滅茶苦茶強く育ったんだ。スゴいよね。で、真希とその仲間は以前から僕が度々面倒見てきててさ、これが最後の仕上げってわけ。ちなみに恵と真希は従姉弟だよ。禪院家の次期頭首に関しては恵でも良かったんだけど、真希本人も恵も真希と双子のツンデレ妹や仲間達も真希を推したから、次の禪院家を仕切るのは真希になる」
 これは五条悟による禪院家の実質的な乗っ取りだ。たとえ五条悟と禪院真希の関係が完全な主従ではなかったとしても、外部はそう受け取らない。禪院家が五条家に陥落したと判断するだろう。
 これでこの国の黒社会は一気に五条家へと傾いた。否、最早黒社会の新たな王が決まったと言っても過言ではない。
 禪院家の陥落、そして五条悟の下には御三家の一角と同等に戦えるだけの戦力――以前下した東坊城、清岡、繻エの三家――が備わっている。イコール、残った加茂家には五条家と敵対して潰されるか、圧倒的戦力差を前に無傷で服従するか、その二択しかないのだから。
 禪院家を手中に収め、この状況を生み出すため、宿儺が現役の頃からおそらく何年もかけて準備をしてきたであろう五条。このタイミングで動くということは、警察による一斉摘発でさえ彼の仕組んだものなのか。ふと、昨日出会った夏油の姿が虎杖の脳裏をよぎった。
「まさか」
「おっ、その顔。悠仁は察しが良いね」大して驚いた様子もなく、五条が教え子を導く教師のように微笑む。「頃合いだから僕も色々ヒントを散りばめてみたけど、そうやってちゃんと気づいてくれて嬉しいよ。流石は悠仁。僕の期待どおりだ。ってなわけで行ってくるね。夜には帰って来られると思うから。……ああ、そうそう」
 携帯電話を懐の内ポケットに仕舞い、五条は大きな手を伸ばして虎杖の頬を撫でた。
「可愛い可愛い僕の悠仁。そんなに魅力的な姿のままで、僕のいない間にうっかり他人におイタされちゃダメだからね?」

     ◇

「悟、オマエ何持ってんだ?」
「ああ、これ? 僕の可愛い子虎ちゃんが隠し持ってたやつ。電源は入ってないよ」
「は?」
 五条悟がポケットから取り出した小さな黒い塊を禪院真希は訝しげな表情で見つめる。しかしもう少し詳しく見ようと思ったところで五条がそれを地面に落とし、革靴の踵(かかと)で踏み潰してしまった。
 粉々になった物体は何らかの機械のようであったが、ここまで砕かれてしまってはどのみち用を為さないだろう。
「それよりさ、ほら。真希の方は準備いいかい?」
「はっ、誰に言ってやがる。……いくぞ、バカグラサン」
 壊れた物のことなどどうでもいい。
 真希は不敵な笑みを浮かべながら目の前の屋敷に足を踏み入れた。かつて自分が生まれ、そして虐げられ、出て行った場所。しかし今度は貶められるために来たわけではない。己と妹を散々に苦しめた奴らを嗤い、彼らの上に君臨してやるために真希は今ここにいる。
 五条悟を後援者とし、禪院真希は新たな禪院家のボスになるのだ。


 これは、禪院真希の物語と虎杖悠仁の物語が五条悟を介してほんの一瞬交錯したという話。ただそれだけのことである。
 ゆえに彼女は気づかない。真希の斜め後ろを歩く五条がふっと楽しげな笑みをこぼし、「盗聴器も使えないし、そろそろ業を煮やした馬鹿にあの子が呼び出される頃合いかな」と独りごちたことなど。


◆15


 五条からは部屋にいて良いと言われたが、自室に戻ることも外出することも禁止されたわけではない。ゆえに虎杖は昨日からの一連の出来事で掴んだ情報を報告するため一旦自室に戻った。部屋には持ち運び損ねた盗聴器がある。……と思って部屋に戻ってみたものの、何故か盗聴器は隠した場所に存在しなかった。
 間違って別の場所に置いてしまったのかと探していると、五条から支給されている携帯電話が着信を告げる。まさか五条本人が何かを悟って電話をかけてきたのかと思ったが、聞こえてきた声は彼のものではない。虎杖の警察官としての上司である警視だった。
 潜入中の組織から支給された携帯電話に警察が電話をかけてくるなど、とんでもない危険行為だ。しかし虎杖がそれを咎める暇もなく、警視は虎杖に至急顔を見せるよう命じてきた。そして落ち合う場所と時刻を手短に告げると、反論も何も許さぬまま電話を切ってしまう。
 従わなければならないのだろう。それが虎杖の今の立場だ。また警視のやり方は強引かつ無鉄砲ではあるものの、虎杖の方も報告しなければいけないことが山程ある。盗聴器が見つからないこともその背を後押しし、虎杖は五条不在のこの隙に、誰にも見咎められることなく屋敷の外に出たのだった。


「一体どうなっている! あのインテリクォーター……七海の奴、また上手いことしやがって! 禪院家の一斉摘発だと!? それに比べてオマエは何だ、虎杖悠仁! 折角五条家の、しかも五条悟のすぐ傍に潜り込めたと言うのに、全く有益な情報を持ってこない!!」
 久々に直接顔を合わせた警視の第一声は叱責と八つ当たりから始まった。
 オフィスワーカーが睡魔と戦う午後二時すぎ。街の中心部、乱立するオフィスビルの一つに虎杖はやって来ていた。
 ここは部外者以外立ち入り禁止、おまけに空調設備や変電設備、給水設備等が人の目を遮り、小さな話し声も機器の駆動音によって隠すことができる。密会をするには意外と穴場で、虎杖が潜入捜査を始めてからもたびたび使ってきた場所だった。
 苛立ちを隠そうともしない警視の態度に虎杖はただ黙って耐える。
 マフィアに潜入中の虎杖にとって己の警察官としての地位を証明してくれるのは僅かな書類とアクセス権が極度に制限された電子データ、それから目の前の男を含めたたった二人の人間――残る一人は警察学校時代の教官――しかいない。おまけに書類を保管し、電子データにアクセスするためのパスワードを知っているのは、この警視ただ一人である。つまりこの男は虎杖にとっての生命線。多少どころかほとんどの難には目を瞑るしかない。
「何とか言えよクズ! のろま!」
 たとえ暴言と共に手を上げられようとも。
 正面から肩を強く叩かれる。しかし身体能力が高い虎杖は体幹も常人より遙かに優れており、体力の衰えが見え始めている男に叩かれた程度では小揺るぎもしない。それがマズかった。後退ることさえしない虎杖に警視はますます腹を立て、怒りで顔を真っ赤に染めていく。虎杖が自身の失態に気づいた時には遅く、警視は容赦なく虎杖の頬を狙って拳を振り上げた。
 避けることは容易い。しかし拳を避ければ火に油を注いでしまうのは必至だった。ゆえに虎杖は動かずその場で歯を食いしばる。

 ――バシンッッッ

 相手に気づかれない程度に顔を逸らしてダメージは軽減させたが、それでも口の中は切れている。鉄錆の味が口内に広がり、虎杖は反射的に顔をしかめた。直後、今度は反対側の顔を殴られる。当たり所が悪く、脳が僅かに揺れた。
「……っ、ぁ」
 ふらりとよろめき、虎杖は一歩二歩と後退る。そして踵(かかと)がビルの屋上を這うパイプの一つに引っかかった。揺れた脳では体勢を立て直すこともできず、虎杖はその場に倒れ込む。
「何のためにオマエを潜入させたと思っている! マフィアの情報を充分私に%`えるためだろうが!」
「申し訳……っ、ありません。五条悟は情報の取り扱いに非常に慎重で――」
「誰が言い訳をしろと言った! この役立たずが!」
「ぐぁっ……!」
 倒れ込んだ身体に足を振り下ろされる。そのままみぞおちの辺りをぐりぐりと踏みつけられ、虎杖は口に溜まった血を唇の隙間から溢れさせた。鼻血も出ており、顔半分が血だらけになる。
 そんな虎杖をサディスティックな醜い顔で見下ろして警視は嘲笑した。
「はっ。オマエ、まさかマフィアに寝返ったんじゃあるまいな?」
「そんっ、な」
 虎杖の生きる指針も信念も踏みにじるような一言だった。反射的に反論しようとするが、身体を踏みつける足に体重をかけられて虎杖は言葉を途切れさせる。
「あーそうか、そうだよな。何せオマエは五条悟の下でアンアン喘ぐような奴だったもんなぁ! 男のくせにすっかり五条の雌犬じゃないか! 大した情報も聞き出せないくせに、男を咥え込むのだけは得意ですってか? 汚い喘ぎ声ばっかり聞かされるこっちの身にもなってくれんもんかねぇ? なあ?」
 プライバシーなど考えるな。可能な限り盗聴器を身につけ、全ての情報を警察に流せ。――そう命じたのは警視だった。にもかかわらず、この男は自分が出した命令も忘れて虎杖を詰(なじ)ることに心血を注いでいる。同じ地位にいる人間に功績を挙げられ、その焦りと苛立ちと嫉妬を全て虎杖にぶつけて鬱憤を晴らそうとしているのだ。
「まぁ五条悟も五条悟だがな。こんなガタイのいい男のどこが良いんだか……。ああ、尻か。オマエの尻はそんなに具合が良いのか?」
 正義の味方とは思えない、本当に醜悪な顔と声だった。
 こんな男が、こんな状況が、自分の目指していたものだったのかと、虎杖の心はザリザリと音を立てて削られていく。失望を通り越して絶望に近い。そこで怒りを爆発させて殴りかかれたなら、どれだけ良かっただろう。しかしこの男は虎杖を警察官であると証明することができる数少ない証人。反抗することすら容易ではなかった。
 そして男は虎杖が自分に逆らえないのを充分承知した上でニヤリとさらに醜悪な表情を浮かべる。出世欲と自己顕示欲にまみれた醜い警察官は一度虎杖の上から足を退け、うつ伏せになるよう虎杖の腹を蹴りつけた。
「だったら私にもその尻を振ってみせろよ、淫乱。まともに情報も得られなくてすみません、せめて俺でキモチヨクなってくださいってな」
 うつ伏せになり視界が狭まった虎杖の耳にベルトのバックルを外すカチャカチャという金属音が届く。
「抵抗したら……分かるよなぁ? オマエは警察官に戻れなくなるぞ。一生マフィアとして、雌犬として、地べたを這いずり回ることになる。そんなのは嫌だろう?」
「……ッ」
 気持ちの悪い声が虎杖の項を、背を、そして尻を撫でていく。気持ち悪くて気持ち悪くて仕方がない。だと言うのに抵抗は許されず、虎杖は爪が肌に食い込んで血が滲むほど拳を強く握り締めた。
 そして男の手が虎杖のズボンにかかり――。

「だから言ったでしょ? 僕のいない間にうっかり他人におイタされちゃダメだからねって」

 パシュン、と消音器(サイレンサー)により小さく抑えられた発砲音が給水設備の向こうから届く。僅かな間を置いてどさりと重い物が倒れ込む音が続いた。
 虎杖は「え……」と目を丸くしながら身を起こす。
 足元には頭から血を流して倒れている警視。そして警視が倒れ込んだのとは逆方向に視線を移せば、
「なん、で?」
「迎えに来たよ、悠仁」
 五条悟が笑みを浮かべて立っていた。


◆16


 人を殺すことに微塵の躊躇いもない。むしろ頭から血を流す男の存在すらすでに意識から除外した様子で五条悟は虎杖に近づき、その手を引いて立ち上がらせた。
「あーあ、血だらけじゃん」
 呆れたように告げながら、五条は銃をサイレンサーつきのまま無理やり腰に引っかけ、空いた手で今度はハンカチを取り出す。赤く汚れた虎杖の顔を少し強めに拭いて綺麗にすると、続いて指先で顎を持ち上げ検分し、「骨は……折れてないね」と呟いた。
「悠仁なら避けることも反撃することも可能なのに……。そんなにも自分の立場が無くなっちゃうのが怖かった?」
「――っ」
 五条は完全に虎杖の立場に気づいている。
 いつから? と、焦燥と共に疑問が頭の中を駆け巡った。
 その考えが表情に出たのだろう。五条は虎杖の顎を指先で持ち上げ視線を合わせたまま、笑みを深くし、親指で虎杖の唇をそっとなぞった。
「悠仁が潜入捜査官だってことは大分前から知ってたよ。いくら恵が信用しているとは言え、僕まであっさり信じてあげるわけにはいかない。当然、調べるさ。……とは言っても、君の上司も君も随分とお粗末だったからねぇ。黒と判断するのは容易かった」
「じゃあなんで俺を始末しなかったんだ」
 スパイは見つけ次第、処分する。それがこの世界の常識だ。しかし五条はそうしなかった。虎杖に与える情報を制限しつつ自分の傍に置き続け、あまつさえベッドまで共にした。
 問い質された五条はふっと口元をほころばせ、その大きな両手で虎杖の頬を包み込む。
「最初はね、君の両面宿儺の息子って立場を利用しつつ、警察官としての意識とマフィアとして行動しなきゃいけない任務の狭間で苦しむ君を眺めて楽しむつもりだったんだ。悠仁一人に拷問係を任せたのも、君を無理やり抱いたのも、その一環。……でもね、僕はいつの間にか君に対して本気になっていた」
 五条に苦しむ様を眺めながら遊ばれていたのだと知って胸が痛み、そして、しかしながら今は本気なのだと告げられて再び胸が痛む。
 僅かに唇を噛み締めれば、それを見下ろす瑠璃の瞳が黒いレンズの奥で甘ったるく揺らめいた。
「ねぇ、悠仁。僕と一緒においで」
 それは悪魔の囁きだ。美しい姿と美しい声で、正しくあろうとする心を激しく揺さぶってくる。
 上司だった男に殴られ、罵倒され、あまつさえ性的に襲われかけた虎杖にとってあまりにも甘美な誘惑だった。事実、「でも、俺は警察官だ」と反抗する虎杖の声は弱く、震えていた。
 それでも首を縦に振ることだけはしない。自分は警察官であるという矜持を弱く震えた声と共に思い返し、「警察官がマフィアと一緒に行くなんて正しくない」と五条を強い視線で見つめ返す。
「それが悠仁の意志?」
「ああ」
「もう悠仁を警察官だと証明できる人間はいないのに?」
「……っ、」
 一瞥したのは、五条に撃ち殺された警視。虎杖の警察官としての生命線。
 しかしそれでも、電子データに紙のデータ、加えて警視と知り合いであり虎杖が潜入捜査官になることを決めたあの場所にいた警察学校の教官が残っている。これらが存在する限り、虎杖はれっきとした警察官であるはずだった。
 虎杖のことを調べたのなら、五条はそういったデータの存在や人間のことも知っているだろう。けれども五条は美しい笑みを崩さない。それどころか――。
「ちなみにね」
 悪戯を成功させた子供のように、サプライズパーティーを見事に成し遂げた若者のように、五条は虎杖に秘してきた情報を開示する。
「傑に頼んだから君の警察官としての電子データは今頃全部消えているよ。それに紙の書類だって七海がすでにシュレッダーに突っ込んだ後だ。あ、七海ってのはいわゆる君の先輩ってヤツね。警察官としてじゃなく、スパイとしての。潜入先は警察で、送り込んだのは僕(マフィア)だから、悠仁とは真逆の立場だけど」
「――ッ!?」
 五条悟は虎杖よりも、警察という組織よりも、何倍も上手だったのだ。
 目を見開いて息を呑んだ虎杖は、それでも残った希望に縋りつく。
「で、でもまだ教官がっ」
 しかし五条はやはり一切の手抜きも見落としもしていなかった。
 するりと頬を撫でさすり、その手を首筋、肩へと順に滑らせながら虎杖の身体を抱き締める。
「やだなぁ、僕がもう一人の証人を生かしておくような甘い人間だと思う?」
「……ぁ」
 虎杖は絶句し、膝から崩れ落ちそうになる。しかし五条の腕がそれを許さない。
「さあ、これでもう虎杖悠仁を警察官だと証明してくれるものはない。君に残されたのは両面宿儺の血と、彼に良く似た顔と、僕に囲われているという外部の認識、そして僕が与える愛情だけ」
 逃しはしないと、茨のように五条の腕が虎杖の身体に絡んでいく。
「諦めて。君が選べる道は一つだよ」
 虎杖悠仁を望んだ男は虎杖に己以外の選択肢を与えることさえ許さない。
「僕のものになりな、悠仁」
 そう囁いて五条が唇を近づける。
「…………」
 虎杖はとうとう目を瞑った。
 一つ以外の全ての選択肢が潰されて、残ったのはこの道だけ。最初に望んだものからは遙かに遠く、底なしの泥濘が虎杖の全身を取り込んで、溺れさせ、呼吸を奪う。――それを心地良いと判断する頭はきっと異常で、大層イカレているのだろう。

「君の居場所はここだけだ」

 触れ合った粘膜は柔らかくて温かく、けれどもこれが地獄へ続く道だと示すように鉄錆の味で満ちていた。







2020.10.26〜2020.11.23 Privatterおよびpixivにて初出