ワンダーランド・エリミネーター 第二部




[chapter:1]

「ねぇ、津美紀。アンタ、お母さんと恵、一緒にいるならどっちがいい?」
 それは突然の問いかけだった。
 伏黒津美紀は夏休みの宿題を広げていたテーブルから顔を上げて瞬きを繰り返す。扇風機の風が長く伸ばした津美紀の髪をふわふわと揺らした。
 正面の席に腰掛けている母親は特に気負った様子もなく、「ねぇどっち?」と頬杖をついて再度津美紀に訊ねる。
「どっちか一人しか選んじゃだめ?」
「そうね。一人だけ選んで」
 津美紀は母の問いかけの趣旨を欠片も理解することができない。しかしこの質問はとても大事なことなのだと、幼い少女は直感していた。だからこそ、はっきりと答える。
「恵!」
「どうして?」
 理由を問う母は優しく微笑んでいた。
 娘の選択を責めている気配はない。むしろ褒めるような様子に津美紀はこっそり安堵しながら「だってね」と口を開いた。
「お母さんは一緒にいてくれる人を探すのが上手だけど、恵はあまり上手じゃないから。さびしくならないように、私が一緒にいるの。お姉ちゃんだもん」
「そっか。流石は私の娘」
 母は笑みを深くして腕を伸ばし、津美紀の頭を撫でる。褒められたことも、頭を撫でてもらったことも、そして「恵のお姉ちゃんとしてしっかりやりなさい」と激励されたことも、津美紀は嬉しくて破顔した。
「宿題の邪魔しちゃってごめんね。残りも頑張んなさい」
「はーい!」
 離れていく手。席を立つ母。その姿を見送って、津美紀はテーブルの上の宿題に視線を戻す。
 計画的に進めてきた宿題は間も無く終わるだろう。あとは毎日つける日記だけだ。
 新学期が始まるまで残り一週間、小学一年生の弟は年齢にそぐわぬほどしっかり者なので、津美紀よりも先に宿題を終わらせてしまっていた。姉として格好悪いところは見せられないと津美紀は鉛筆を握る手に力を込める。
 母が家に帰って来なくなったのはちょうどその一週間後の新学期初日。津美紀にとっては義理の父、血の繋がらない弟である恵にとっては実の父である男、伏黒甚爾がいなくなってから三年後のことだった。

     ◇

「恵、入学おめでとう」
「虎杖さん!」
 はらはらと淡いピンクの花弁が舞い散る中、校門前でこちらが出てくるのを待っていた人影に伏黒恵は思わず声を弾ませた。機械的に足を動かしていたはずが、自然と駆け足になり、『さいたま市立浦見東中学校 入学式』と書かれた看板の横をさっさと通り過ぎる。
「来てくださったんですね。今日は任務があるって言ってましたけど……」
「うん。それで急いでみたんだけど、結局この時間。式に出席できなくてごめんな」
「いいえ。ありがとうございます」
 来てもらえただけでも充分に嬉しい。感謝の言葉は紛れもない本心からのものだ。
 伏黒は己よりも上背のあるその人物を見つめて双眸を細め、かすかに笑う。
 真新しい制服姿に加えて、ブレザーの胸には新入生であることを示す造花が鮮やかに咲いている伏黒に対し、相手の方はパーカーにカーゴパンツというカジュアルな出で立ち。街中でも違和感なく人混みに紛れ込むことができ、かつ動きやすさを重視した服装は、本人の好みもあるが仕事において都合が良いという側面もあった。
 明るい色の髪と琥珀色の双眸を持つその男性の名は虎杖悠仁。呪術師であり、伏黒にとっては二人いる師のうちの一人でもある。
 年は四十近いが、実年齢よりもずっと若く見えた。当人曰く「三、四年封印されてたから、その期間は成長……老化? してないんかも」とのことだったが、三〜四年程度の差ではないだろう。ただしもう一人の師――五条悟がそこに輪をかけて老化が止まっているとしか思えない見た目をしていたので、伏黒もこれ以上の追求は控えている。
 伏黒が虎杖達と出会ったのは小学一年生の時。血の繋がらない母が蒸発し、一つ上の姉との二人暮らしが始まって間も無くの頃だった。
 向こうは伏黒の存在をもっと前から知っていたらしい。また、細々と支援もしてくれていたそうだ。しかし当人達が接触してくることはなかった。
 もし、もっと早い段階で呪術界でも有名な五条悟と虎杖悠仁が伏黒達に接触したとしたら、一体どうなっていたか。良くも悪くも伏黒一家は呪いに関わる者達から注目されることになる。その結果、幼い伏黒は出自を探られてその素質と血を狙われ、一般人である母と姉は見えないものからの危険に晒されただろう。そうならないように、母親が姉弟の前から去るまで二人は伏黒との接触を絶っていたのだそうだ。
 母親の行動に関して、彼女が姉弟を無責任にも捨てたと取るか、それとも今後呪いの世界にどっぷり浸かって行くであろう息子に一般人である自分が寄り添っても迷惑になるだけだと思って身を引いたのか、真実は本人にしか分からない。虎杖も五条も何も言わないし、母と同じ一般人でありながらこちらに残った姉ですら静かに微笑むだけだった。
 ゆえに伏黒は母のことと、ついでに記憶のない実父のことを、尊敬はしないが恨みもしない相手として見るようにしている。
 また、親がいないことを寂しいとも思っていない。伏黒達姉弟には虎杖がいたからだ。
 母親がいなくなってから頻繁にこちらの様子を見に来るようになった成人男性である虎杖のことを伏黒は当初、大変警戒していたのだが、自分達に向ける眼差しも差し伸べる手も純粋な好意に由来することに気づき、いつしか警戒心は解けて姉弟共々慕うようになっていった。二回り以上違う年齢のことも相まって、無償の愛情を注いでくれる虎杖に「父親とはこういうものだろうか」と思ってしまったのは本人にも秘密だ。ただ、慕っていることは虎杖にもはっきり伝わっており、こちらが好意を行動で示すと、実に嬉しそうに笑ってくれる。そんな虎杖の顔を見るのが伏黒は大好きだった。
「あ、恵。折角だし校門前で写真撮っとかねえ?」
 他の新入生が親と共に写真を撮っているのを見かけて虎杖が提案する。つい先程、伏黒が一瞥をくれることもなく通り過ぎた場所だ。
 加えてこの状況で写真を撮るとすれば、撮影者は虎杖となり、伏黒一人の写真になるのは必至。そんなものに興味を抱けるはずもなく、「別に……」と伏黒は提案を断ろうとする。
 しかし。
「あら、親子で記念写真でしたらお手伝いしましょうか?」
 代わりにシャッターを押しますよ、と第三者の和やかな声。我が子の入学式のために来ていた保護者の一人だろう。白のセレモニースーツに淡いピンクのコサージュがいかにもという感じだ。
 そんな彼女が言った「親子」という単語に伏黒はピクリと反応してしまう。しかし小さく揺れた肩に相手は気づくこともなく、ニコニコと微笑んだまま父親≠見上げている。
 伏黒は恐る恐る彼女と同じ方向に視線を向けた。
 まだまだ追いつけそうもない身長、立派な体躯、明るい色の髪、琥珀色の瞳、伏黒とは全く似ていない容貌。その持ち主がニコリと笑ってスマートフォンを取り出した。
「じゃあお願いしちゃっていいっすか?」
「ええ、もちろんよ」
「ありがとうございます。……ほら、恵」
「っ、ああ」
 大きな手で背中を押され、共に入学式の看板の横に立つ。頬は僅かに熱く、ドキドキと胸の奥で鼓動が響いていた。
 正面ではスマートフォンを構えた婦人が祝いの場に相応しい表情で伏黒と虎杖の準備が整うのを待っている。大きな大人の手が伏黒の肩を抱いた。「恵、ほら笑って」優しい声にますます胸が熱くなる。
 撮りますよー笑って! と正面からも声。隣の虎杖は太陽のようにニカッと笑い、その横で伏黒はムズムズする唇を引き結んだ。婦人が微笑ましそうに両目を細める。そして、デジタルのシャッター音。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます。あ、綺麗に撮れてます!」
「お役に立てて何よりだわ。それじゃあ、私はこれで」
「はい。ありがとうございました!」
 感謝の言葉を繰り返す虎杖と、背を向けて去って行く婦人。少しして娘と思しき新入生の女の子が早速できた友人達から離れて彼女の元へ駆けていく。自然と触れ合う手。仲の良い親子の姿。
 その姿を虎杖の隣で見送って、伏黒は制服に皺が寄らない程度に鳩尾の辺りを押さえる。
「恵、見て見て。ほんと良く撮れてるけど……ははっ、オマエ折角の写真なのに仏頂面じゃん」
「ワリィですか」
「いんや、悪くない。恵! って感じする」
「何ですかそれ……」
 わざと呆れたように言ってみるが、悪い気はしなかった。
 虎杖に見せられたスマートフォンの画面には満面の笑みを浮かべる男と微妙な仏頂面をした――でも嬉しさを隠しきれない――子供が写っている。その姿は他人の目に『親子』として映るらしい。
(本当にこの人が俺の父親だったら良かったのに。そうしたら……)
 もっと素直に甘えられた?
「……っ」
 ふと脳裏をよぎった考えに伏黒は小さく息を呑む。
 もし自分達が本当に親子だったなら。この人と、血という特別な縁で結ばれていたなら。もっと甘えて、もっと慕って、彼の息子であることを誇らしく思い、胸を張って、そして。
 先程の親子の姿を思い出す。あの二人は一緒に家へ帰って、家族で温かい食卓を囲んで、同じ屋根の下で眠るのだろう。羨ましいな、と思った。虎杖は伏黒の父ではなく師で、毎日会えるわけでもない。そしてそんな彼を伏黒は我儘で引き留めることもできない。
(間に合わないと分かっていてもわざわざ学校まで来てくれたんだ。それで充分だろ)
 そう胸中で告げて自分を納得させる。
 スマートフォンをポケットに押し込んだ虎杖が「それじゃあ俺達も帰るか」と呟いた。これで短い逢瀬も終了だ。
 ひっそりと落胆する伏黒に虎杖は琥珀色の双眸を向けて、
「んじゃ一旦家に帰って津美紀も誘ってメシ食いに行こうぜ。折角の入学祝いだし!」
 何でも好きなもの食わしてやっからな、と告げる。
 伏黒は知らぬ間にうつむいていた顔をガバッと音がしそうな勢いで上げる。いいんですか? 忙しいんじゃないんですか? そんな良い子≠フ言葉が頭の中を巡ったが、口から出たのはたった一言だった。
「はい!」
「よっし。じゃあ何食いたいか考えといてくれよ」
 伏黒の返答に虎杖も満足そうな顔を見せる。大きな手がぐしゃりと伏黒の黒髪をかき混ぜた。
 決して永遠にはならないけれど、心弾む時間はまだもう少しだけ続いてくれるらしい。

     ◇

 伏黒家から母親が姿を消した後、虎杖は五条と共にすぐさま残された姉弟の元へ赴いた。
 まだ幼い子供には難しい部分も沢山あっただろうに、呪術師のこと、将来のこと、そのほか多くのことを伏黒に語って聞かせ、そして道を選択させた。
 そんな始まり方であったため、伏黒が持った虎杖達への印象はかなり悪いものだっただろう。事実、最初の頃はかなり警戒されていた。しかし根気強く二人の元へ通っている内に、まず姉の津美紀が虎杖達の存在を受け入れ、そして弟の方も次第に態度が軟化していった。
 虎杖が伏黒恵を下の名前で呼ぶことにもすっかり慣れた頃、虎杖は体術を、五条は呪術や呪術師としての心構えを、それぞれ教える師として伏黒に接するようになった。ただし虎杖と五条、二人が全く同じように伏黒に接していたわけではない。
 五条はあくまで他人としてのスタンスを崩さず、必要なことを必要な分だけ。一方、虎杖の方はどうしても必要以上に構いたくなり、師と言うよりも馴れ馴れしい親戚のおじさんのように姉弟の様子を見に行ってしまっていた。
 かつて大切な仲間の一人であった伏黒恵。今は二回り以上も年が離れているが、あの時と同じく大切であることに変わりはない。……否、あの時の感情とは少し違ってきているだろうか。何せこの時代において伏黒と言葉を交わすようになったのは彼が小学一年生の時。おまけに、本人には明かしていないが、彼の両親のことと彼が赤子の時の様子も知っているのだから、虎杖の心境もそれなりのものになっている。具体的には父親目線的なあれこれだ。
 死んだことにしているものの本物の父親が生きている今、実父の代理をしたいわけではない。ただ大切にしたかった。父親の生存すら伝えてやれないのだから、これくらいはいいだろう、と。
 そしてこれ≠烽サの一環。
「本当にファミレスで良かったん? ちょっとお高いレストランとかでも……」
 これでも俺、特級だから給料良いんだよ。と告げる虎杖に、メニューを眺めながら伏黒が淡々と答える。
「いいんですよ。肩が凝りそうな形式張った所より、こっちの方が気楽だし好きなもの何でも頼めるじゃないですか」
 虎杖が伏黒姉弟を連れてやって来たのは近くのファミリーレストラン。四人席の通路側に伏黒、隣の窓側に津美紀、そして二人の正面に虎杖が座っている。
 入学祝いで姉弟にどこへ飯を食べに行きたいかと訊ねたところ、お高めの店よりもずっとリーズナブルなここを指定されてしまった。二人がそれで良いなら虎杖としても構わないのだが、もし遠慮されているのなら一応そういったものは要らないと言っておくべきだろう。しかし伏黒の返答やそれを聞いて頷いている津美紀の態度から察するに、遠慮ではなく本心であるようだ。
「津美紀もいいの?」
「ええ。こっちの方が沢山お喋りできますし」
「……なら、いっか」
 そう納得して、虎杖もメニューに視線を落とす。決して同じ店ではないけれど、学生の頃に三人で良く飯を食いに出掛けたことを思い出して少し懐かしくなった。


「五条さんは今日も任務ですか?」
 全員分の料理が届き、それぞれ食べ始めると、伏黒がぽつりと訊ねた。
「おう。でも今年から臨時講師として高専の教壇に立つ予定なんだぜ、悟のヤツ。まぁいつも忙しくしてるからあんまし授業は持てないらしいけど」
 実はそうなのだ。
 今の五条は教職には就いていない。特級術師として全国各地、時には海外にまで赴いて、非常に忙しくしている。出張で一週間以上家を空けることも少なくない。ちなみに自宅は低層レジデンスだとか何とか言われる部類の都内にあるマンションで、虎杖も高専の職員寮を出て一緒に住んでいた。
 五条の忙しさは関係者にとって周知の事実だが、虎杖もそれなりに任務に出ており、同居していてもまともに顔を合わせることさえ難しいような時期もあった。しかし最近は少し落ち着いてきて、本人の意志と親友の勧めにより、教鞭を執ることにしたそうだ。
「え……あの人に教師なんて務まるんですか?」
 呪術について教わっているはずの伏黒が盛大に顔をしかめた。虎杖は苦笑して「そう言ってやるなって」と告げる。
「意外とやってみれば……うん、きっと大丈夫」
 何せ自分もかつて彼に指導を受けた身なのだから、それは自信を持って言える。性格は多少難ありかもしれないけれど。
「あ、でさ。その関係で今、口調を変えようとしてんだよね。今のままだと学生を怖がらせちゃうって親友に言われて。一人称も『俺』から『僕』にすんの」
「あの人が……? できる……は、できるんでしょうけど、胡散臭さ倍増ですね」
 伏黒は容赦がなかった。
 このまま行くと俺、あの人に学校でも教わることになるのか……? と、若干嫌そうに呟いている。
 ちなみに先生と言えば、現在、五条に喋り方の件を指摘した親友もとい夏油傑が東京高専で教職に就いている。呪霊を生み出す非術師を呪術師が命をかけて守らねばならない状況に苦しんでいた彼は、悩みに悩んだ末、こちら側≠ノ残ることを決めたのだ。
 ただしそれは非術師を助けるためではない。同じ呪術師を助けるためだった。したがって上層部から下されればどんな命令でも従うわけではなく、非常に任務の選り好みをするようになっている。術師の生存率を上げるための任務には参加するが、非術師を助けるための単独任務は拒否する、というように。
 また高専の教師として教鞭を執ったのも、生き残れる術師を育て上げるため。非術師を嫌う思想まで学生に押しつける気はないようで――「それは私の心の問題ですから」とのことだ――、今も立派に、そして学生から大人気の教師として働いている。さらに付け加えると、彼が高専三年生の夏にとある任務で助けた双子の少女達は伏黒と同い年。ひょっとすると揃って夏油の生徒になるのかもしれない。無論、状況が変わって五条が伏黒達の担任になる可能性もある。
 余談だが、五条と夏油の同級生だった家入硝子はちょっとした裏技を使って医師免許を取得。すでに高専所属の医師として勤務している。
 そして彼らの一年下の後輩だった七海と灰原は、一旦呪術師の世界から離れて社会人生活を満喫中だった。どうにも先輩達――誰とは言わないが――を見て、呪術師として働く前に社会に出て世間の常識というものを身につけておいた方が良いと感じたらしい。大学を卒業し、それなりの優良企業に勤め、どうしてもこちらの手が足りない時にだけ臨時に呪術師として働いてもらっている状況である。
 彼らが本格的に戻ってきたら教育の方面で手を借りるのも良いだろう。近接戦闘の七海と中距離戦闘の灰原に教わることができれば、学生達の戦術の幅も知見も大きく広がるはずだ。
 そんなもう少し先の未来を思って虎杖は口元をほころばせる。小さな変化に気づいた伏黒が「どうかしましたか?」と訊ねた。
「ん? いんや、楽しいなぁと思って」
 今も、この先も。
 微笑む虎杖に伏黒も津美紀もつられて目尻を下げる。
 虎杖は改めて「楽しいなぁ」と、噛み締めるように胸中で独りごちた。

     ◇

 実際に鼻で感じる類いのものではない。しかしどうしようもなく醜悪で顔をしかめたくなるような腐臭が、薄暗い空間に満ち満ちている。
 小さな行灯の明かりに照らされて格子に障子紙を貼った衝立が一つ二つ……と並び、その向こうに姿を隠した者達がしわがれた声で囁き合っていた。
「指は残り一本か」
「忌々しい化け物め」
「どうにかして殺せぬのか?」
「生憎と相互不可侵の縛りが……」
「こちらは指の収集の邪魔をしない。また、こちらが理から外れた行動を取らぬ限り――つまり理由もなく我々から先制攻撃をせぬ限り、あの化け物も我々には手出しできない=c…だったか」
「分をわきまえぬ縛りなど要求しおってからに」
「おまけにまんまと五条の六眼を誑し込みおって」
「嗚呼、なんと腹立たしい」
「今は禪院の子供まで虜にしているようだぞ」
「確か伏黒と名乗っていたか。術式は十種影法術と」
「無下限と六眼の次は十種影法術か」
「あァおぞましやおぞましや」
「化け物め」
「呪いのくせに」
「我らをコケにしおって」
「罰を与えねばならん」
「あの縛り、どうにかならんものか」
「化け物め」
「化け物め」
「化け物……」
 本来、呪いを祓うはずの者達が呪いの言葉を吐き続けていた。
 今の呪術界を牛耳るのは、己の醜悪さを自覚せず、肥え太り、保身と欲を満たすことだけに執心する、腐りきった害悪達。彼らが顔を揃えるその場にはそこらの呪霊よりもよっぽど醜くおぞましい空気が満ちていた。
 やがて薄暗い空間にぽつりと悪魔のような呟きが落とされる。
「我らは呪術師。ならばおぞましい呪いはやはり祓ってしまうに限る」
 縛りはどうする、と疑問の声が飛んだ。
 衝立の向こう側からは小さな笑い声。
 そして。
「なに、縛りに触れぬ方法などいくらでもありますよ」



[chapter:2]

 六月も半ばを過ぎたある午後のこと。
「……最後の指、見つかったんだ?」
「うん。フリーの術師が見つけた指を高専側が譲り受けるんだって。おまけにその人が東京(こっち)の高専まで持ってきてくれるらしい」
 リビングのソファの背側から五条がマグカップ片手に虎杖のスマートフォンを覗き込んでくる。虎杖の説明を聞きつつ画面に表示されたメールにも目を通した彼はソファの前側に移動し、当然のように虎杖の隣に腰を下ろした。小さな音を立てて啜ったのは淡い茶色の液体。匂いから察するに、砂糖とミルクがたっぷり入ったコーヒーだろう。
「京都(あっち)の高専の術師が現物を確認。それから念のために現地で封印を重ね掛けして、順調に進めば三日後に到着……か。なんか呆気ないねぇ。もっとこう劇的な展開――例えばド派手なアクションとかお涙頂戴なストーリーとか無いもんかな」
「最後の一本だからって、そんな映画みたいな事態になったら俺が困るっての!」
「ははっ、でも二十本目だよ? これで特級呪物『両面宿儺』は全部悠仁の腹ン中に収まるわけだ。しかも悠仁は意識を保ったまま、ね。おかげで宿儺の指による呪いの被害は未来永劫抑えられる。呪術界にとっては千年越しの悲願と言ってもいい事態なのに、あまりにも呆気なさ過ぎない?」
「何よりも平和が一番じゃん」
「そりゃあね、そうだけど」
 五条が僅かに口ごもる。
 その表情が「何もなくてつまらない」といった子供じみたものではなく、あまり言葉にしたくない類の不安を抱えているように見えて、虎杖は「……悟?」と、サングラスの奥にある青い瞳を覗き込んだ。
 呪術師最強、五条悟。
 二十五歳になった彼がそう呼ばれるようになってもう何年も経つが、純粋な実力で言えばまだ虎杖の方が上である。何せこちらは両面宿儺の術式と、宿儺ほぼ二人分の呪力を持ち合わせているのだから。
 しかし上層部の立場的に特級呪物を取り込むことで力を得た虎杖を呪術界トップの実力と認めるわけにはいかないのと、何より虎杖悠仁という受肉体――いわば『呪い』――が五条悟という純粋な人間よりも強いという事実は周囲に要らぬ心配や恐怖を抱かせてしまうことから、特級術師という肩書きはあれど、虎杖悠仁は周囲から五条のような認識のされ方をしていなかった。本当のことを知っているのは近くにいる一部の人間だけだ。
 その一部の中の一人――つまり虎杖の実力を知る五条が、名を呼ばれてあからさまに表情を曇らせる。
「何の問題もなくスムーズにことが運んでいると逆に心配になるっていうか」淡い茶色の液体に視線を落として五条は続けた。「悠仁のおかげで宿儺の指による呪霊被害はなくなって、呪術界としては万々歳なわけだけどさ。でも実際にはそれを喜ぶヤツばかりじゃない。むしろ上は大体がそれ≠セ」
「つまり、俺に死んで欲しい上層部が何かを仕掛けてくるかもしれない?」
「正解」再び瑠璃色が虎杖を視界に捉えた。「今までだって縛りに触れない程度の嫌がらせなんてしょっちゅうあったでしょ。まぁそのために伏黒甚爾を悠仁につけているわけだけど……。でさ、ちまちまとウゼェことこの上ないジジイ共が最後の指と悠仁が揃う場面で何もしないわけがないと思うんだよねぇ」
「素直に渡してもらえるとは思わない方がいいってことか」
「そういうこと。指があるかもしれない¥況で、偶々任務を請け負っていた悠仁が呪霊とバトってド派手なアクションをしたり巻き込まれた一般人とお涙頂戴なストーリーを繰り広げたりした結果、指を手に入れたんなら、腐ったミカンも大した手出しはできなかっただろうね。これまで何度かあったように、危険と分かっていて悠仁に単独任務を任せる程度のことしかできないはず。でも今回は向こうが舞台を整えるのに充分な時間がある。ひょっとしたら『二十本目の指』ですらジジイ共が隠し持っていたものをこのタイミングで出してきたって可能性すらあるんだから。指の回収をする悠仁の邪魔をしないって縛りも、『時期が来れば無償で譲る予定だった』とか何とか言えば回避できるだろうし」
 最後は吐き捨てるように告げてから五条は甘いコーヒーを啜る。しかし甘い飲み物も大した癒やしにはならなかったようで、「本当にロクでもねぇな」と苛立ちたっぷりに毒づいた。
「あーあ。はやく人を育てて上層部を入れ替えないとねー」
「だから教師なんてやる気になったん?」
 およそ二ヶ月のうちに何度か高専に顔を出している五条。まだ回数自体は然程多くないが、忙しい任務の合間を縫って教師として教壇に立ったり学生達を連れて実地訓練をしたりと、精力的に働いている。一部の人間からは「道楽だ」などと言われているが、そうではないことくらい虎杖もよく分かっていた。
「少数の実力者だけじゃ現状は変わらない。上の首をすげ替えるくらい僕なら簡単にできるけど、そんなんじゃ別の害悪が上に立つだけだからね。だったら強く聡い仲間を育てて呪術界に変革をもたらす。そのための教師さ」
 五条はサングラスを外すと、マグカップを持っていない方の手を虎杖に向けて伸ばす。
 その手で虎杖の頬に触れ、指先で目尻をくすぐり、そっと顔を近づけた。
「悠仁」
「ん?」
 こつり、と額が触れ合う。
 吐息さえ感じられる距離で、五条は青い瞳を細め、口の端を持ち上げた。
「――近い将来、必ず悠仁にとっても暮らしやすい世界にしてみせるよ。楽しみにしてて」
 囁きと共に虎杖へ向けられたのは、自他共に認める整った容貌を遺憾なく発揮した極上の、砂糖たっぷりなコーヒーよりも遙かに甘い笑みだった。


 その三日後、虎杖は都内で単独任務についていた。
 久々に伏黒甚爾もいない、本当の意味での単独任務だ。上層部が何かを仕掛けてくるなら虎杖と両面宿儺の最後の指が揃う場面だろうし、また今回の任務の補助監督は五条も信頼している二つ下の後輩――伊地知潔高だったからこその状況である。
 ちなみに甚爾には本日移送される両面宿儺の最後の指の方を追って関西方面に飛んでもらっていた。呪力が全くなく、加えて天与呪縛により五感を含む身体機能がとんでもなく底上げされた彼は、今回のような諜報活動には最適だったからだ。また彼ほど強い人間であれば、移送の途中で上層部が何らかの罠を仕掛けようとしても気づいて食い止めることができる……かもしれない。断言できないのは、上層部の老人達の狡猾さをこちらもよく知っているためだ。
 指が無事に東京の高専まで運び込まれた場合、その翌日以降に虎杖が呼ばれて指を口にすることになる。一応、高専側からも予定を空けておくよう連絡が来ていた。
 つまり最速で明日、二十本の特級呪物『両面宿儺』が全て揃う。
「二十本目か……」
 感慨深く虎杖はそう呟いた。
 すでに呪霊を祓い終え、帳も上がって、人のいない工事現場で迎えの伊地知を待っている状況である。帳の内側は夜のように暗かったが、それを取り払ってしまえば、最も日照時間が長い季節の太陽の光が燦々と真上から降り注いでいた。
「でも本当は四十本目なんだよな」
 誰も知らない、そして言われてもきっと信じないだろう、虎杖悠仁だけが知っている真実。五条でさえ虎杖の中に最初から宿儺の指が二十本揃っていたことを未だ知らずにいる。
 出会ったばかりの頃、幼い五条は虎杖の体内に強力な呪物が収まっていることには気づいていたが、それが両面宿儺であるとまでは分かっていなかった。その後で実際に一本目の指――本当は二十一本目――を虎杖が食べたことで六眼でも見分けがつかなくなってしまい、加えて両面宿儺の指は四十本ではなく二十本存在しているという先入観も手伝って、最強の名を冠するようになった今でも五条は虎杖の腹に収まった正確な指の数を知らないのだ。
 そんな彼が一本目だと認識している指を虎杖が口にしてから十二年と少し。理由も分からぬ焦燥感と義務感に追い立てられるようにして宿儺の指を集めてきた。しかし感情とは裏腹に、実際には最初の二十本と比較にならないゆっくりとしたペースである。
「遅かったな」
 思わずそんな独り言がこぼれ落ちた。
 以前は確か……、と虎杖は随分前の記憶を漁る。まだ取り込んだ呪物の数が片手の指の本数だけで足りていた頃、一度に十本以上も取り込む羽目になったことがあった。
 そこまで思い出して、虎杖ははてと首を捻る。

 ――自分は一体いつ、どこで、どんな状況で、誰に宿儺の指を十本以上も喰わされてしまったのだろうか?

「……っ!?」
 息を呑み、目を見開く。
 覚えていて当然のはずの記憶が一切思い出せない。まるで頭の一部に無理やり封をされたかのように、関連する情報が全く脳裏に浮かばなくなってしまっていた。
 一つの違和感に気づくと後は芋づる式に己の異常さを自覚する。
 何故か五条家の敷地内に現れ、幼い五条悟に拾われた虎杖悠仁。その直前まで自分は一体何をしていたのだろうか。成人し、呪術師として働いていたはずだ。では一体どんな任務をどんな風にこなしていた? 仲間は? 伏黒恵、釘崎野薔薇、そして先輩や後輩達、担任の五条悟、外部の頼りになる大人達、彼らは一体どうしていた?
 それに宿儺のことも。
 最後にあの呪いの王の声を聞いたのは一体いつだっただろうか。少なくとも『ここ』に来てからこちら、一度たりとも宿儺の声を聞いたためしがない。改めて意識すれば、確かにその存在を感じ取ることはできる。しかし身体の表面に目や口を出現させるどころか頭の中で声を響かせることすら宿儺は行わなくなっていた。そして虎杖本人はそのことにさえ疑問を覚えなくなっていた。
 アレにより忌まわしい記憶はいつだって新鮮さを持って虎杖の中に渦巻いていた、そうであるはずだった。しかし今の虎杖悠仁は魂に刻みつけられるような激しく痛ましい記憶を覚えていない。
 額を鷲掴むように押さえ、「え? あれ?」と視線を彷徨わせる。
 普通の高校生から呪術高専に入った経緯も、そこで一度死んでしまったことも、復活してまた仲間達と戦うようになったことも、些細で楽しい学生生活も、思い出せることは沢山ある。生き返っていたことを隠していた間に出会った友人との思い出や残酷すぎる別れ、そして決意のことも。なのにぽっかりと思い出せない部分があった。その空白はある時期を境に頻発し始め、月日が流れるにつれて覚えている分より覚えていない分の方が大きくなっていく。大人になってからの記憶などほとんど存在していなかった。ただ、自分が成人し、呪術師として働いていたという事実しか思い出せない。
「なん……だ、これ」
 動悸が激しくなり、視界は明滅し、声が掠れる。
 明らかな異常だった。それなのに異常であることさえ今まで気づくことができなかった。
 特定の記憶の完全なる忘却。
 誰が一体どのように、何のために。
「――っ」
 虎杖が混乱の極致に立ったその瞬間、ポケットに入れていたスマートフォンが振動する。はっとして画面を見れば、甚爾からの電話連絡だった。急いで通話をオンにすれば、こちらから言葉を発する前にただ一言。
『すまんミスった』
「……は」
 そして電話越しにぐしゃりと何かが潰れる音。
 唖然とする虎杖へさらにたたみ掛けるように、らしくもない乱暴な運転で現れて車を急停車させた伊地知が窓越しに真っ青な顔で叫んだ。
「虎杖さん大変です! 両面宿儺の指を移送中の術師が何者かに襲われて消息を絶ちました!」



[chapter:3]

 近畿地方南部、千メートル級の山々に囲まれた標高八〇〇メートル付近にある山上盆地。そこには数多の寺院が建ち並び、周囲に人が集まって一つの町を形成している。古くから多くの人間に信仰されているとある仏教の宗派の総本山として世界的にも有名な場所だ。
 最後の両面宿儺の指が見つかったのは、彼の地でもほとんど人が立ち入らない山の奥にひっそりと存在していた小さな祠の中。封印のほころびから呪力を垂れ流し、聖地と言われるその地にさえいくつもの呪霊を呼び寄せ始めていた。
 彼の地を管理する宗教法人から調査を依頼されたフリーランスの呪術師が原因となっていた呪物を発見後、京都の呪術高専に連絡が行き、呪物が本物の両面宿儺であると判明。虎杖へ東京の呪術高専経由で知らせが入り、同時に移送のための再封印がその地で施されることとなった。
 呪物が持つ呪力は非常に強く、現代の呪術師に完璧な封印を施すことはできない。しかし相応の実力を持つ――具体的には二級以上の――術師が指を持って東京へ向かう程度のことはできるようになるはずだった。
「でもこの楼門を抜ける前に術師は襲われ、消息を絶った。状況から察するに、襲われてすぐ異常を知らせることはできたんだろうね。そしてしばらく奮闘したものの襲撃者に敗退。その途中か後で伏黒甚爾(あのバカ)も襲撃者と戦闘になった。……が、何らかの問題があってアイツも」
 死亡した可能性がある、という言葉を五条は飲み込む。そうして朱色の楼門と、その楼門を境として向こう側に下ろされた闇色の帳から視線を外し、隣に佇む虎杖を見た。
 東京からこの地までは新幹線もしくは飛行機で移動した後、車を使うのが一般的だろう。しかし今回は急を要したことと、幸いにも五条がトぶ≠スめの条件を満たしていたため、五条は虎杖からの要請を受けて、瞬きの間に二人で東京のアスファルトからこの聖地の土を踏むこととなった。
 両面宿儺の指の存在が明らかになってすぐ観光客の立ち入りは完全に禁止され、住民も退避。残っている寺院側の人間も必要最小限に抑えられている。おかげで周囲に人の気配はなく、実に静かなものだ。一般人の被害はないと見て良いだろう。
 ただしこの門の奥でどのような状況になっているかは入ってみないと分からない。非術師には何の隔たりもないように見えているのだろうが、呪術師である自分達の目には黒い帳がはっきりと映っており、その向こう側を見通すことができないでいる。性質としては、入るのは容易く、出るのは困難、といったところか。
 この聖地の大部分を覆う巨大で強力な帳を下ろしているのは、おそらく中にいる僧侶達だ。「おそらく」としているのは寺院側とまともに連絡が取れていないため。同様に、指を運ぶはずだった術師も甚爾も消息を絶ったままである。五条の隣に佇む虎杖の表情は実に険しいものだった。
 帳が襲撃者を逃がさないためのものだとすれば、犯人も指もまだこの内側にいるということになる。それは不幸中の幸いと言えたが、表情を明るくできるほどの情報でもなかった。無論、襲撃者が上手く逃げおおせた可能性も否定できない。
「……とにかく中に入ってみよう。襲撃者が中にいるにしろ、万が一もう外に出ているにしろ、被害に遭った人がいるだろうし」
 ぽつりと虎杖が告げ、方針が決まる。人命を最優先に考える彼らしい判断だ。
 特級の術師が二人もいるのだから帳の内と外で手分けして被害者の救助及び襲撃者の捜索を行うことも可能だったが、『両面宿儺の最後の指』と『虎杖悠仁』が揃っているこの状況下で本当に偶然、指が何の関係もない呪霊または呪詛師に奪われただけ≠ニ単純に判断するのは愚かすぎる。
 効率よりも安全を。指の消息が分からなくなることよりも、虎杖に危害が及ばないことを。
 優先順位をはっきりつけて、五条は静かに頷き、虎杖と共に楼門をくぐった。

     ◇

 頭の中がぐちゃぐちゃで今にも吐きそうになっているというのに、その一方で何をすべきなのか冷静に判断している自分もいる。逃避、なのかもしれない。考えれば考えるほど己の身に降りかかった異常事態に混乱してしまうから、まずやらねばならないことに意識を逸らして、恐ろしいことを真正面から見ないようにしているのか。――そんな風に考えながら虎杖は五条と共に朱色の楼門を抜ける。
 黒い帳は何の抵抗もなく、虎杖達を内側に迎え入れた。そして通り抜けると同時に、肌に触れた感覚でふと気づく。
「あれ? この帳、出て行くのも簡単なんじゃ……」
 中のものを閉じ込めるための帳であるはずなのに。
 試しに引き返そうとすると、入ってきた時と同様に全く抵抗がない。これでは単なる目隠しとしてしか機能していないではないか。
 そんな虎杖の困惑に答えたのは、隣で同じ感覚を味わっていた五条――……ではなく、楼門の柱の陰に身を潜めていたもう一人だった。

「この門の部分だけ自由に出て行けるようになってんだ。そういう『縛り』で全体の強度を上げてんだよ」

「っ、甚爾!」
 朱色の柱に背中を預けて地面に座り込んでいる黒髪の男を見つけ、虎杖は慌てて駆け寄った。五条は少し驚いた顔をした後、周囲を警戒するように遅れてゆっくりと近づいてくる。
 琥珀色を見つめ返したのは暗緑色の瞳。電話の途中で消息を絶っていた伏黒甚爾がそこにいた。
 しかし、
「……っオマエ、腕が」
 虎杖はひゅっと息を呑む。
 地面に座り込んでいる甚爾は無手であるものの、武器庫の役目を果たす芋虫型の呪霊を身体にまとわせていつでも戦える状態を保っていた。ただしその身体には右腕がない。肩の付近からごっそりと消失し、止血と呪いによる傷の悪化を防ぐという二つの効果を持つ呪符が傷の断面およびその周辺にべったりと貼り付けられている。
 その彼が駆け寄ってきた虎杖を一瞥し、次いで五条が周囲を警戒しているのを確認すると再び視線を虎杖に戻す。
「やっと来たな」
「なんつー危機感のない声! 今、治すから!」
 甚爾の応えを聞く前に虎杖は呪符を剥がして反転術式をかけ始めた。
 あまり出番はないものの、両面宿儺由来の規格外の反転術式は大きな傷も腕や足の欠損もたちどころに癒やしてしまう。死にかけの人間ですら治してしまえるほどだ。しかし虎杖の表情は厳しい。
 いくら治癒できると言っても、それは対象が生きていなければならない。流石の宿儺も死者蘇生まではできないのだ。そして甚爾の傷はあまりにも大きかった。幸いにも万が一の時のために所持させていた呪符のおかげで出血多量による死は免れたが、ちょっとでも状況が違えば本当の本当に最悪の結末を迎えていたかもしれない。
「心配したんだからな」
「……悪い」
 傷一つない状態で復活した腕。その調子を確かめるように曲げ伸ばししつつ、甚爾はぼそりとそう返した。
「電話の途中でなんかヤバそうな音が聞こえたけど、あれは」
「腕ごとスマホを吹っ飛ばされた」
「吹っ飛ばしたヤツって指を狙って襲ってきた襲撃者?」
「おう。一応撃退して、今は退いてる。こっちを警戒してんだろうな」
「甚爾の腕を吹っ飛ばせる程の実力があんのに、門を突破しねぇで退いてんの?」
「それは暗に俺の方が弱ぇって言いたいのかよ」ナメんな、と甚爾は呟く。「俺の方が強い。向こうもそれが分かってるから、様子見か……あるいは……」
 甚爾の目が虎杖と五条を交互に捉えた。
「あるいは?」
「オマエらも来たことだし、敵わないと踏んで帳を下ろしてる方を狙いに行ったんじゃねーか?」
「!? じゃあ助けに行かねぇと!」
「焦んなよ。このでっかい帳を下ろしてんのは聖地(ここ)の僧侶達だ。戦闘面は……まぁ期待できねーが、自分達の土地なんだし守りを固めて時間を稼ぐくらいはできるだろ。だからその前に――」
 甚爾の視線が虎杖達とは反対側へ向けられる。そこに何があるのかと虎杖が覗き込めば、甚爾と柱の陰になっていた部分に人が転がっていた。
「ソイツの傷も診てやれよ。折角俺が腕一本ダメにして助けてやったんだから、ここで死なれちゃ骨折り損だ。あ、『腕の飛ばし損』か?」
「この人は……っ」
「今回の運び役の術師。名前は知らん。つか男の名前に興味ねぇし」
「……猪野さん」
「あ? なんだ知り合いかよ」
「一方的だけどね」
 虎杖は甚爾の前を通り過ぎて気絶した人間の傍らに膝をつく。黒いニット帽は遠い記憶にある通りで、脱げかけたその下から額の左半分に走る大きな古い傷跡が覗いていた。
 猪野琢真。東京高専に所属している呪術師だと記憶していたのだが、この時期は元々フリーの術師をしていたのか、それとも虎杖が知るものとはいくらか違ってきているこの世界において彼の人生にもまた変化が生じているのか、その辺りは定かではない。前は七海を大層慕っている様子だったから、その七海がまだ本格的に呪術師側に戻ってきていないことにも関係があるのだろうか。
 ともあれ、一方的な知り合いの傷を癒やすために虎杖は早速反転術式を発動させた。
 猪野は満身創痍であったが、甚爾のような身体の欠損は見られない。指を奪いに来た襲撃者と戦闘になり、高専に連絡を入れた直後に敗退。しかし殺される前に甚爾が介入したことでその命を拾ったのだろう。
(もしかして……)
 ちらりと甚爾の方を見る。
 猪野よりも強いはずの甚爾が猪野よりも酷い怪我を負っていた。彼は猪野を庇うために襲撃者の攻撃をまともに受けたのではないだろうか。
「……ンだよ」
 こちらの考えを読んだかのようなタイミングで甚爾が虎杖を睨む。
 ばつが悪そうなその表情に虎杖は自分の予想が事実であると確信した。思わず目尻が下がり、それを見た甚爾が視線を逸らして頭を掻く。
「悪いか」
「全然」
「はっ」
 鼻で笑い、甚爾は独りごちる。

「自分も他人も尊ばない生き方はもうとっくの昔に止めてんだよ」
 ――オマエと再会したあの日から。

「甚爾? 今なんて……」
「なんでもねぇ。気にすんな」
 台詞の後半が聞き取れずに首を傾げた虎杖へ甚爾は素っ気なくそう答え、猪野の治療が終わったことを一瞥して確認すると、すっくと立ち上がる。
「ほら、そろそろ行くぞ。アイツには俺の血がついている。いくら残穢だ何だと呪力の痕跡を消しても追いかけるのは簡単だ」
 にやりと口の端を持ち上げた顔のなんと悪いことか。
 まるで獰猛な猟犬のように甚爾は獲物がいる方向を見定める。彼の索敵能力の高さは自分達もよく知っているので、虎杖は「オッケー」と頷いた。
「相手は一人?」
「ああ」
「じゃあ猪野さんをここに寝かしてても大丈夫だな」
 よし、と虎杖は独りごちる。
 相変わらず頭の中はごちゃごちゃだ。しかし甚爾は生きていたし、思わぬ所で知人の命を救うこともできた。ならばこの調子で、まずはやるべきことをやろう。
 そう己に課し、虎杖は暗緑色の瞳を見つめる。
「甚爾、案内頼む」
「おう」
 頷いて、すぐに甚爾が地面を蹴った。虎杖と五条もそれに続く。甚爾が先行し、五条が虎杖に並ぶ形だ。
 虎杖の隣を走る五条がちらりと視線を向けてくる。
「……悠仁」
「ん?」
「分かってると思うけど、油断しないで。あと、できるだけ僕から離れないで」
 甚爾が無事で気が抜けたかもしれないが、上層部が虎杖悠仁を良く思っていない状況は相変わらずだ。ゆえに気をつけろと五条は囁く。その言葉はもっともであり、虎杖も否やはない。
 ただ難しい顔をしている五条を少しでも安心させるため、そしてこっそりと自分に言い聞かせるため、虎杖はあえて笑った。
「大丈夫だよ」
 襲撃者を絶対に捕まえるし、そいつには帳を下ろしている僧侶達を傷つけさせないし、指もきちんと確保する。そして皆で東京に帰る。
 本当にそう思ったからこそ告げた言葉であり、嘘を吐いたつもりは微塵も無かった。



[chapter:4]

 聖地の奥、数多の燈籠が灯り続ける御堂の中で幾人もの僧侶達が経を唱え続けていた。
 今からおよそ一二〇〇年前に開祖が張ったとされる結界と現代呪術師も用いる帳を連動させて使用する独自の結界術は、現在、内に入った異物である襲撃者を外へ逃がさぬために発動されている。わざと容易く出入りできる場所を一カ所設け、その弱点によって全体を強化する縛りを施した結界は、穴である楼門に戦力を集中させて守ることで巨大かつ強固な壁になるという寸法だ。
 しかしこの地が保有する戦力は誰一人として楼門付近に配置されていなかった。戦闘可能な僧侶達も結界の維持に注力し続けている。
 理由は一つ。複数の僧侶を楼門の守護に回すより、たった一人の外部の人間にその穴を守ってもらった方が確実に襲撃者を結界内に閉じ込めることができると判断したからだった。
 たった一人の外部の人間――……黒髪と暗緑色の瞳を持つ男。非常に口が悪く、楼門の守護に向かった僧侶達を「邪魔だ、クズ共」と一蹴し、しかしその台詞が許されてしまうほどに強い。名前は不明だが、この地で見つかり再封印を施した特級呪物を東京へ移送する役目を担っていた呪術師を襲撃者から真っ先に助けていたので、おそらく呪術高専の関係者なのだろう。態度は悪いが実力と所属は信頼できる。ゆえに僧侶達は楼門の守護ではなく結界の維持と強化に全力を注ぐこととした。
 ちなみに僧侶達が張っている結界は二つある。一つは聖地全体を覆い、内のものを外に逃がさないようにするためのもの。そしてもう一つは御堂の周囲をぐるりと取り囲むもの。こちらは襲撃者が僧侶達を狙った場合に備えた、外のものを内に入れないようにするための結界だった。穴を作っていないため外側の結界のような強化の縛りはないものの、御堂およびそれと隣接した最重要施設である御廟(ごびょう)を覆うこちらも堅牢な守りを維持している。
 しかし僧侶達が経を唱え続ける中、御堂と御廟を守る結界が僅かに揺れた。
 ざわり、と僧侶達の気配がざわめく。
「気を散らすな。我らの役目に専念せよ」
 位の高い一人の僧侶が厳かな声を発し、動揺する僧侶達を静める。そして自身もまた再び経を唱え始めるが、その視線がちらりと外側に向けられた。
 襲撃者は黒髪の男を退けて楼門を抜けるのではなく、こちらを狙って結界を維持できなくさせることを選んだようだ。
 こちらの守りも容易く破れるものではない。しかしそう分かっているものの、やはり自分達が狙われたという事実には焦りが募った。
 あの黒髪の男は襲撃者の意図に気づいて行動を起こしてくれるだろうか。もしくは高専側からそろそろ応援が到着してくれるだろうか。今はそれが自分達にとっての希望だ。
 高位の僧侶は前を向いて瞼を下ろし、己が役目に専念する。いつくもの燈籠の灯りに照らされて、僧侶達の経を唱える声が御堂の中に響き渡っていた。

     ◇

 直線で約二キロメートル、舗装された道を行けばおよそ四キロメートル。それが楼門から結界術を扱う僧侶達が集まっている御堂までの距離である。しかし直線で進む場合は複数の山が存在するため現実的ではない。襲撃者も無茶な直線ルートは選択していないらしく、その痕跡を追う甚爾は迷い無く楼門から続く参道をひた走る。
 時刻は正午を過ぎ、一日で最も暑い時間帯に突入している。まだ梅雨明けしていないものの上空に雲はほとんどなく、照りつける太陽によって黒いはずのアスファルトは白っぽく光っていた。
 立派に観光地化されたこの都市は土産物屋や食事処が多く、道も非常に美しく整備されている。しかし今は人影がなく、どこか空虚な雰囲気が漂い、さらには襲撃者と猪野および甚爾との戦闘の痕跡が至る所に残されていた。
「こっちだ」
 分かれ道になっている箇所で、襲撃者の痕跡を猟犬のごとく辿っていた甚爾が短く告げて先導する。その後に続く虎杖と五条。地面はアスファルトから石畳へと変わり、橋を渡ってその先へ。さっき通り過ぎたのは手水舎だろうか。
 橋を渡ると景色は一変する。
 頭上には生い茂る巨大な杉の枝葉。左右には数多の墓石。
 この参道沿いには二十万基以上あるとも言われる墓が並び、皇族から一般人まで数多くの御霊が眠っていた。膝よりも下にある小さな墓碑から、見上げるほど大きな石塔まで、墓の大きさや形は様々である。
 それらを横目にひたすら杉林を走り続けていると、新たに石橋が見えてきた。僧侶達が結界を張るために籠もっている御堂はその先だ。
 川は此岸と彼岸を分けるもの。そこにかかった橋の中央を境に別の結界が下ろされている。そして、結界の前に人影。外からの侵入を防ぐための壁を壊そうと、大槌型の呪具を叩き付けていた。幸いにもこちらとあちらを隔てる壁はまだなんとか保たれている。
「間に合った……。って、おい、甚爾! 殺すなよ!」
 かなりのスピードで走っていたはずの甚爾がさらに速度を上げて襲撃者に襲いかかった。
 宿儺の指の所在や移送の情報がどこから漏れたか聞き出すためにも襲撃者を生かしたまま捕らえる必要があり、慌てて虎杖が声を上げる。元より甚爾の心配はしていない。
 甚爾と襲撃者が肉薄する。大槌による打撃は、受ければ大ダメージだろうが――それこそ男の片腕を吹き飛ばすほど――、当たらなければ意味はない。身を低くして大槌の攻撃範囲のさらに内側へと入り込んだ甚爾が、伸び上がる勢いと共に襲撃者の顎を掌底で打ち抜いた。
 バンッともドンッともつかぬ、人体をぶつけたとは思えない重い衝撃音と共に襲撃者の身体が浮く。その背中に今度は甚爾の右足が回転蹴りの要領で容赦なく叩き込まれる。
 空中にあった襲撃者の身体は勢い良く石畳へと叩き付けられ、数度バウンドしてから動かなくなってしまった。
「で、出番が無ぇ……」
「まぁ、足手まといがいなけりゃあれくらいアイツには容易いでしょ」
 手を出す暇もなかった虎杖の横で五条が肩をすくめる。
 何にも遠慮する必要のない状態で、全快した本気の甚爾の攻撃だ。殺すな、の一言があったとはいえ、襲撃者にとってはひとたまりもなかっただろう。
 付け加えるなら、襲撃者の意識は結界の破壊に向かっていたので、甚爾の攻撃は不意を突いた形になる。この条件でもし甚爾と同等にやり合える術師であったなら、ソイツはきっと特級に分類されているはず。そうではないから、この襲撃者は負傷した甚爾の攻略ではなく、僧侶達を襲って帳を上げさせる作戦にシフトしたのだろうが。
「それじゃあ犯人確保ってことで、四肢でもねじ切っとく? 目が覚めても逃げらんないように」
「拘束の仕方エグくね……? てかその前に宿儺の指を確認しとかねーと」
 五条にそう告げて、虎杖は完全に意識を失っている襲撃犯へと近づく。すると傍らにいた甚爾が先んじて襲撃犯の胸元を探り、「これか?」と屍蝋と化した両面宿儺の指を放り投げてきた。
「お、ホンモノじゃん」
 片手でキャッチした虎杖は特級呪物を軽く眺めてから「それじゃあ」と口を開ける。これで四十本。本来の宿儺の指の二倍の本数だ。
「よくそんなもん口に入れる気になるよな……」
 甚爾が呆れた調子で告げながら横を通り過ぎていった。襲撃犯の拘束は五条に丸投げする気らしい。むしろ自分が近くにいれば、ねじ切る作業にうっかり♀ェき込まれかねないと思ったのか。最後に「何か美味いもの食いにいこーぜ」と付け加えて、さっさと来た道を戻ろうとしている。
 虎杖もまた五条の呪術の邪魔にならないよう横に移動した。一瞬だけ皮膚の上に現れていた宿儺の紋様は早くもほとんど消えてしまっている。
「美味いものかぁ。この辺だと焼き餅? 生麩まんじゅう? なんかすげぇポスターとかで土産物アピールしてたよな」
「甘いモンばっかじゃねーか」
「悟は喜ぶよ。俺も嫌いじゃないし」甘いものの話をしているのに苦虫でも噛み潰したような顔をしている甚爾に笑いかけてから、虎杖は五条へと視線を送る。
「悟、ホントにねじっちゃうの?」
「だって目が覚めて暴れられたら手間だし」
「う……うーん。まぁ死なないならいっか……?」
 甚爾を傷つけ、猪野や結界の向こうにいる僧侶達を殺そうとしたのだし、それくらいされても仕方ないのかもしれない。「いくよー」と告げる五条に虎杖は「おう」と頷いて、
「そんじゃよろしく――……ッ!?」
 ゾワリと肌を撫でた不快な気配に息を呑んで上空を睨みつけた。
 参道の両側には背の高い針葉樹が生い茂り、青い空をとても狭いものに見せている。そこから何かが降ってきた。姿は異形。球形の身体に短い四肢と長い尻尾がついている。そして発しているのは圧倒的な殺意。狙いは――。
(コイツか!)
 気絶したままの襲撃者だ。
 五条は呪術の照準を襲撃者の四肢に定めており、甚爾は虎杖と五条の中間地点に立っている。どちらも空から降ってきた呪霊の存在とその標的には気づいていた。しかしどちらも襲撃者を守るにはほんの僅かな時間だけ足りない。一方は別の予備動作をしていたために、もう一方は駆けつけるにも武器を投擲するにも距離があるために。
 加えて、おそらく二人は襲撃者の命にあまり頓着していなかった。襲撃者が突然現れた呪霊に殺されて尋問できなくなってしまうのは痛手だが、わざわざ焦って守ってやるほどのものでもない、と。
 しかし虎杖は違った。数歩先に――手の届く位置に、襲撃者の身体がある。だから自然と身体が動いていた。
「ッおりゃあ!」
 斜めにジャンプして襲撃者と呪霊の間に入り込み、中空で異形の土手っ腹へとその落下速度を上乗せした拳を叩き込む。黒閃には至らない、ただ呪力をのせただけのパンチだ。しかしそれは両面宿儺の呪力を指四十本分も抱え込んでいる虎杖のもの。虎杖の身体が地面に着地するより早く異形は風船が破裂するような音を立てて弾け飛んだ。
「よしっ」
 呪霊の祓除を確認して虎杖は橋の上に片足を着地させた。そしてもう片方のつま先が地面につく、直前。

 ――トスッ

「あ?」
 馬鹿らしくなるほど軽い音と共に虎杖の心臓を薄い刃が貫いた。
 そして、引き抜かれる。
 一瞬遅れて赤色が噴き出し、血で汚れた幅十センチ程度の白い帯のようなそれは欄干の上を通って橋の下へと引っ込んでいく。
「…………ッ悠仁!!」
 叫んだのは五条か、はたまた甚爾か。
 確認する間も無いまま虎杖の意識は闇に溶けた。

     ◇

 まるで帯を蛇腹に折りたたんだかのような長い手足を使って石橋の下から身体を持ち上げ、五条達の前に姿を見せたのは、本日二体目の呪霊だった。僧侶達の呪力と彼らが張っている結界の影響でその存在に気づくのが遅れたのは愚かとしか言いようがない。ただその自責の念よりも先に五条の意識は虎杖だけへと向けられていた。
 そして出力を間違えた『赫』によって件の呪霊はすでに欠片も残っていない。虎杖の胸を貫いた腕も同様に霧散してしまっている。そもそも五条は呪霊の本体部分をまともに確認することさえしなかった。
 欄干ごと呪霊を消し飛ばした五条は立ち尽くす甚爾の横を抜けて虎杖の身体に縋りつく。
「悠仁っ! ねぇ、悠仁っ!! ……っくそ、血が止まんねぇ!」
 五条悟では虎杖に反転術式を使えない。伏黒甚爾は言わずもがな。
 両手で押さえた傷口からはぞっとするほど大量の血液が溢れ出ている。急激に失われていく体温と、対照的なまでに熱く濡れた感触に、頭の中が真っ白になっていた。
 呪霊の帯状の腕で心臓が破壊されてしまった事実さえ受け止められていない。ただ血を止めなければと、五条は甚爾に向かって叫ぶ。
「オイ! 止血用の呪符はまだ残ってんのかよ!」
「……っ」
 その声に甚爾の肩がビクリと跳ねる。
 唯一無二の男の死に唯一無二の妻の死を重ねて、甚爾は自失状態にあった。そして五条の言葉を緩慢に噛み砕くと、彼は血を吐くように声を絞り出す。
「もう、無ぇよ」
 虎杖から渡されていた呪符は一回分。すでに自身へと使ってしまった後だったのだから。
「――ッ!!」
 五条の口から「なんで」とも「役立たず」とも「オマエが代わりに死ねば良かったのに」とも吐き出されなかったのは、その全てに意味などないと五条自身が分かっていたからだ。
 すでに虎杖の心臓は動いていない。真っ二つになった状態で、砕かれた肋骨の中に収まっている。
「……………………………………………ははっ」
 小さな笑い声を上げ、五条は真っ赤に濡れた地面へと座り込んだ。
 虎杖から視線を外して狭い空を見上げると、三体目、四体目、五体目……と、呪霊が次々と姿を現わし始めていた。元より宿儺の指に引き寄せられていたものだろうが、どいつもこいつも一丁前に五条達を獲物と定めて機を窺っている。
 この、最強たる五条悟を、だ。
 祓うのは容易い。一瞬で全てを塵にすることができるだろう。
 しかし――。
「……もう、いいよ」
 どうでもいい。薄い唇を震わせて五条はそう言った。
 真っ赤な血の上に座り込んで、真っ赤に染まった両手を握り込んで、黒い布の下にある真っ青な両目をきつく閉じる。
 虎杖が封印された時は待つことができた。絶対に取り戻してやるのだと唇を噛み締め、前を睨みつけていた。
 けれど。

「悠仁がいないなら、生きてたって仕方ない」

 最強の男が己を守っていた無限を解く。
 それを察したと言うより、五条が諦めた≠アとを感じ取ったのだろう。呪霊達が一斉に襲いかかってきた。しかし五条も、そして甚爾も、指先一本動かさない。彼らはすでに何も見ていなかった。
 襲い来る呪霊を睨みつける理由など、最愛の人がいなくなってしまった場所で生きる意味と同様に、最早存在しないのだから。
 呪霊の攻撃が五条達に迫る。
 爪や牙や刃がやわらかな人間の肉を貫こうとした――……その時。

「ケヒッ」

 全てを嘲笑うかのような、傲慢な王の笑い声と共に。
 五条達に襲いかかっていた全ての呪霊が一瞬のうちに切り刻まれ、跡形もなく消滅した。



[chapter:5]

「まったく……。どこぞの阿呆共の所為で折角の縛りが台無しではないか」
 うんざりとした気配を隠すこともなく呟いて身体を起こす何者か。その姿は確かに虎杖悠仁のものであるはずなのに、彼とは似ても似つかない雰囲気をまとっている。
「その顔、久しぶりに見たぞ。呪術師」
 血のように紅い四つの目が五条を射貫いた。
 唖然とする五条をそのままに、虎杖の身体を操る『ソレ』は立ち上がり、数歩離れた先にあった『赫』で破壊された橋の破片の一つに腰を下ろす。
 即席の玉座の上で優雅に足を組む厄災。血塗れの服の下から一瞬だけ何かが沸騰するような音が聞こえ、それが収まると傷一つない胸板が裂かれた服の下に存在していた。
 未だ血溜りに座り込んだままの五条が掠れた声で呟く。
「両面、宿儺……?」
「ケヒッ。何とも情けない姿よなぁ、呪術師。俺が出てきたことがそんなに信じがたいか」
 返ってきた言葉は肯定でしかない。
「…………ほう。わざわざ庇ってやった命、自ら捨てにくるとは」
 宿儺が両目を細め、呟く。
 生まれながらに呪術師であったがゆえの本能か、それとも生き物としての危機感か、とにかく五条は即座に立ち上がって呪いの王を睨みつけた。黒い目隠しを外して一切の障害物がなくなった視界の端では、伏黒甚爾もまた警戒を露わにしている。
 虎杖悠仁を失って生きる気力さえ手放したはずだったのに、その姿をした呪いが動いて喋っているのを目の当たりにすると、身体は勝手に生きる方へと動き出していた。相手は呪いの王なのだから警戒は怠れない。しかしもし虎杖が肉体の主導権を両面宿儺から奪い返すことができれば……と、絶望が希望へと姿を変え始める。
 その希望を現実のものとするためにも、全ての指を揃えて完全となった呪いの王を相手に負けることは許されない。たとえ六眼で捉えた術式が、呪力量が、自身の実力を上回っていようとも。
(指一本当たりの呪力量を単純に二十倍した……って量じゃないな)
 虎杖悠仁の肉体に何本の宿儺の指が取り込まれているのか。その正しい数≠知らない五条にとって、目の前の相手は想定を遙かに超える化け物である。
 しかし退けない。退くわけにはいかない。できるかどうかにかかわらず、自分は虎杖悠仁を取り戻したいのだから。
(悠仁の器としての能力に賭けるよ。だから悠仁が戻ってくるまで絶対に持ち堪える)
 こちら側の勝利条件を改めて意識して、五条は全力を出し切る覚悟を決める。
 地形が変わるだとか、まだこの地に残っている者達に被害が及ぶだとか、そんなことを考えている余裕はなかった。目の前の相手は他者への配慮をさせてくれるような甘い存在ではないのだから。
 油断なく攻撃の構えを取る五条。
 呪いの王はそんな五条と、同じく攻撃の意思を見せる甚爾を順に眺めやり、

「案ずるな。こちらに貴様らを害する意志はない。そんなことをすれば俺が小僧に恨まれるだろうが」

 肩をすくめ、溜息交じりにそう告げた。
「……は?」
 五条は呆気に取られて目を見開く。
 瓦礫に腰掛けてこちらを睥睨しているのは呪いの王だ。厄災だ。災害レベルの呪いだ。しかし甚大な被害を及ぼし、人が抗うことさえ諦めざるを得ないような天災は、たった一人の人間の感情に己の判断基準を委ねていた。「小僧」と口にした時の宿儺は片手で己の身体――つまり虎杖悠仁を示しており、固有名詞を出さずともそれが誰であるかは明らかである。
 だが、呪いの王などと呼ばれる存在がたった一人の人間に絆されてしまうものだろうか。そこまで深い付き合いでもないだろうに……と五条は思った。五条の認識では、虎杖が初めて宿儺の指を口にしたのは五条と虎杖が出逢ってから何年も後だ。人間であればその歳月を長いと感じるか短いと感じるかは人それぞれだろうが、千年以上前から存在する呪いにとってはどう足掻いても瞬きほどの時間であるはず。
 二人が出逢うよりも前に虎杖の中には何らかの呪物が取り込まれている様子だったが、幼い五条はそれが何なのかまでは判断できなかった。ただし宿儺の指は二十本であり、妻を亡くして失踪した甚爾を探す最中に虎杖が見つけた指が一本目であったことは間違いない。その指から数えて今回の物がちょうど二十本目だったのだから、イコール、五条と出逢う以前の虎杖は宿儺を取り込んでいないということになる。
 怪訝そうな五条の表情に気づいて宿儺が口の端を持ち上げる。
「そもそも俺はこうして表に出てくる予定さえなかったのだがな」
「じゃあなんで今更……」
「貴様は馬鹿か? 俺が出なければ、心臓を貫かれたこの身体はすぐにくたばっていただろうが」
 呆れたように宿儺が吐き捨てた。
 いくら反転術式を扱えたとしても、『人間』である虎杖悠仁では破壊された自身の心臓を治して蘇生することはできない。しかし『呪い』である両面宿儺であれば、心臓がなくともある程度動くことができる。その間に機能停止した心臓を再生させたというわけだ。
 身体の主導権を奪った理由を説明した宿儺はおもむろに視線を下げると、治癒した心臓の上に手を当てて独りごちた。
「今、小僧は俺の生得領域で眠りについている。かつては子犬のようにキャンキャンとよく吼えていたものだが、それも最早、昔のことだ」
 まるでその『昔』とやらを懐かしむように、呪いであるはずの存在はそっと眉根を寄せる。
「小僧の怒りも苦悩も悲哀も絶望も、すでに充分、俺の腹を満たした。流石にもう要らん。ゆえに俺が表に出ないことを対価として、こいつの記憶の一部を封じてやっていたのだが――……」
 視線が上がり、紅い四つの瞳が五条を射貫いた。
「よく聞け。虎杖悠仁には貴様らの知らない過去がある」
 いきなり何を語り出すのか、と口を挟める雰囲気ではない。自身の予期せぬ顕現に苛立つように、そこから強制的に訪れる悲劇を哀れむように、そしてその悲劇を何とか回避しようとするかのように、宿儺は厳かに告げる。
「繰り返すが、その一部は俺が封じていた。ゆえに小僧さえ知らん。だが、あえて小僧が貴様らに語らなかったことがある」
 一拍置いて宿儺は有り得ない事実を語った。
「この身体が取り込んだ特級呪物『両面宿儺』は、先程の物が四十本目だ」
「嘘だ」
 反射的に五条はその言葉を否定していた。そんなことは有り得ない、と。
 だが宿儺は薄く笑うだけ。彼(か)の王にとって五条の反応は予想どおりのものなのだろう。
 それでも認められずに五条は続ける。
「特級呪物『両面宿儺』は全部で二十本だけだ。倍の数なんてあってたまるものか」
「だろうな。俺も腕が八本だった記憶はない」
 宿儺は「だが」と逆接を使ってさらに信じがたいことを口にした。
「小僧が初めて貴様の前に現れた時、すでに指は二十本揃っていた。ここではない世界の特級呪物が、な」
「は?」
 五条の間の抜けた声に呪いはケヒケヒと気味悪く嗤う。しかし嘲弄はすぐに止み、呪いの王は淡々と言葉を付け加えた。
「虎杖悠仁(アレ)はこの世界の人間ではない。アレは元の世界で二十本全ての指を揃え、それ以外を失った。そして壊れた。ゆえに俺が手を貸してやったのだ」
「……っ」
 虎杖悠仁とその縁者の戸籍が存在しないことはすでに高専の方で調べがついていた。そして、五条の前に初めて虎杖が姿を現わした時、すでに彼の身体には何らかの強力な呪物が取り込まれていた。宿儺の言が正しいなら、この奇妙な二つの点にも納得がいく。
 しかし慕っている人間が元々この世界の人間ではなかった≠ニ言われて、ハイそうですかと容易く受け入れられるわけもない。――と、普通なら宿儺の言葉を遮って文句の一つでも言いたいところだったが、その後に続く「壊れた」という単語に五条の意識がまるごと持って行かれる。
 息を呑む五条の様子から今は話を聞くことを優先しているのだと読み取ったらしい宿儺が「本来、この世界に虎杖悠仁は存在しない」と繰り返す。
「存在しないからこそ比較的容易く小僧をこちらに送り込めたのだが……まぁ、今は存在の競合による転移の難度について解説してやる場でもなかろう。ただ、小僧には貴様らの関与し得ない惨い記憶があるということだけ理解していればいい。そしてその記憶は俺が表に出ないという縛りによって封じられていた。しかし、こうして俺が出てきてしまった以上、縛りは破られ、小僧の記憶は蘇る」
 紅い四つの目がじっと五条の青い双眸を見据えた。
「この意味が分かるな? 俺が内側に戻れば、目を覚ました小僧は途端に狂うぞ」
「だからオマエは悠仁の身体を奪ったままでいる気だと?」
 五条は宿儺を睨み返す。久しぶりに言葉を挟めた気がした。
 しかし攻撃的な五条に対して宿儺は溜息をこぼし、「そうではない」と首を横に振った。
「俺は用を果たした。もうこの身体を動かす必要はない」
 鮮血色の目が一度自身を見下ろし、そして再び五条へと向けられる。
「俺が引っ込んだ後、小僧を現実に繋ぎ止めろ。過去の悪夢ではなく今のオマエに意識を向けさせろ。俺はできうる限りのことをしてやった。だからあとはオマエらに賭けてやる」
 そして呪いの王は身体の主導権を本来の持ち主に返すために四つの目を閉じ、たった一人のために[[rb:命じた > ねがった]]。

「――虎杖悠仁を救え」



[chapter:6]

 世界の境を越える対価は、特級呪物『両面宿儺』の指の屍蝋二十本の蒐集。
 そして悪夢のような記憶を封じる対価は、身の内に潜む両面宿儺の沈黙。
 たった今、前者は達成され、しかし後者は破られた。
 一度結んだ縛りを破った代償は、一切の過不足なく虎杖悠仁に流れ込む。


「………………ぁ」
 瓦礫の一つに腰掛けたまま虎杖は双眸を大きく見開いた。
「……ぁ……ァ、あ」
 揺れ惑う二つの琥珀に、しかし目の前の光景は映っていない。
「あ……あ、ぁ、ァ……ぁ」
 ハロウィンから、あるいはずっと前から始まった一連のおぞましい事件。
 五条悟の封印。宿儺が犯した、つまり虎杖悠仁の肉体が実行した、大量殺人。慕っていた大人の死。仲間達の脱落。己の出生の秘密。千の人間が巻き込まれた殺し合い。
 呪術界そのものを敵に回しながらも僅かな人数で五条の封印を解き、それらを含めた全てを解決した。人は、世界は、救われた。けれどもその先――最後の最後に残ったのは、大切なものを全て取りこぼしてしまった己の手。
「……ひ、ぃ……ぁ……っ、ぅ」
 堰き止められていた全ての記憶が一気に頭の中へと流れ込む。
 虎杖は何も掴めず、ただただ血塗れになっただけの両手で、己の皮膚を剥ぎ取りかねないほど強く顔を掴み、

「あ、あ、あ、ア、ァ、あァああアああああアァァァァ!!!!!!」

 絶叫した。
「悠仁!?」
「オイ、どうした!」
 虎杖の異常な様子に五条と甚爾が血相を変えて駆け寄ってくる。
 だが虎杖は彼らの存在に気づきもせず、瓦礫から転がり落ちるようにしてその場にうずくまる。
「ご、なさい。ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! 俺が……っ、俺の、せいで……! おれが、おれが、あぁァ……っ!」
 頭を抱えて、額を地面に擦りつけて、見開かれた両目から壊れたようにぼろぼろと涙をこぼす。嗚咽交じりに虎杖はひたすら謝罪と懺悔を繰り返した。ここではないどこか、今ではないいつかを見つめる琥珀色は、急速に光を失い、濁っていく。
 五条が傍らに膝をついてその肩を揺らすが、虎杖が顔を上げることはない。
「悠仁、悠仁っ! しっかりしろ!」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……うえっ……お、っぁ」
「おいっ、悠仁ッッッ!!」
「う、ぐっ……おえ……ご、あ……ごめん、なさい。ゴメンなさイごめんなさ、い」
「……ッ!」
 呼びかけても、肩を揺すっても、虎杖が五条を見ることはなく。目を見開いて壊れたように涙をこぼし、そして時折嘔吐きながら、病んだ獣のように口元と地面を唾液と吐瀉物で汚す。
 五条は歯噛みした。両面宿儺の言ったとおりになってしまっている。しかし呼びかけても虎杖が応えない今、何をすれば彼をこちら側に引き戻せるのか分からない。
 焦っている間にも虎杖の心はどんどん壊れていく。
 彼を壊すその記憶が一体どんなものなのか五条は知らない。自分は虎杖悠仁のことを何も知らないのだ。悔しさと苦しさで涙が出そうだった。
 だが内側に沈みかけた意識は甚爾の焦った声によって再び浮上する。
「馬鹿! よせっっっ!」
「やっ、じゃま、すんな! すんなよぉッ!!」
「するに決まってんだろボケェ!」
 言い争う甚爾と虎杖。
 五条が一瞬だけ気をやったその隙に、虎杖は自責の念に押し潰されて己の心臓をえぐり出そうとしていたのだ。それを甚爾が背後から必死の形相で押さえ込んでいる。羽交い締めにされた虎杖は未だここではないどこかを見つめ、しかし自殺を止められていることははっきりと理解して、駄々を捏ねる幼子のように身をよじった。
「悠仁!?」
 五条も慌てて正面からその身体を押さえつける。
 骨までは到達しなかったようだが、えぐられた皮膚から再び血が溢れ出していた。その傷をつけた悠仁の右手の指先には真っ赤な血が付着している。
「悠仁っ、頼むから、やめてくれ……正気に戻ってくれ……お願いだから」
「死なせて! お願いだから死なせてくれよぉ! 殺してくれ! 俺の所為で、俺が……俺が、あ、ァ……ッ! それに……もう、独りは、ひとり、なのは、いやだ……ッ!!」
 虎杖は『今』を見ない。その心は五条も甚爾も知らない過去に囚われている。
 しかし謝罪と懺悔を繰り返す中、濁った琥珀色がほんの一瞬、正面の五条を捉えた。虎杖と目が合ったと感じた五条はようやく彼が正気を取り戻し始めたのかと安堵したのだが――。
「ゆう……っ」

「……ああ、先生。そこにいたんだ」

「は?」
 拘束を解こうとする身体の動きは止まっていた。だが輝きを失ったままの瞳で五条を捉えた虎杖は、ぼろぼろのぐちゃぐちゃになった顔で口の端を持ち上げ、歪んだ笑みを形作る。
「ゆ、うじ?」
 唖然とする五条。
「ねぇ、せんせい」
 虎杖は未だ背後から甚爾に拘束されつつも、前方へ僅かに身を傾けて告げた。
「おれを殺してよ。五条先生ならおれを殺せるだろ?」
「何を……言って……」
 五条の優秀な頭は、虎杖の言う『先生』が彼の元いた世界の『五条悟』の立ち位置であったことを容易く理解していた。宿儺の指があったのだから、『五条悟』もまた虎杖の世界には存在していたのだろう。
 そういう意味では納得できる。しかし五条は唇を噛んだ。――納得できない、と。
「……悠仁」
「どったの、せんせい」
 その少しあどけない口調は、虎杖にとって『五条先生』が守るべき対象ではなく、自分を守ってくれる存在であったからなのか。
 五条は一気に噴出した苛立ちに任せ、目の前にいる男の胸倉を掴み上げた。
「!? せんっ……」
 瞠目する虎杖に五条は額を突き合わせ、その目を覗き込む。
「悠仁、俺≠見ろ」
 鼻先が触れ合い、唇で互いの吐息が感じられるほどの距離。互いの瞳の輪郭がぼやけてしまいそうなその位置で、五条は激情を滲ませた声のまま重苦しく告げた。
「俺を見ろ、悠仁。俺は、誰だ?」
 ぎちぎちと容赦なく胸倉を掴んで締め上げながら繰り返す。
 気道が圧迫された虎杖は苦しげに顔をしかめた。その背後にいる甚爾が「それ以上やったらコイツ、オチるぞ」と警告する。しかし五条は手を緩めない。
「せん、せ……くる、し」
「ッ! 俺はオマエの先生じゃねーよ!」
 怒りと嫉妬と悲しみで脳が焼き切れそうだった。
「よく見ろ、虎杖悠仁!」
 ――よく見てよ、悠仁!
 五条は両手で強く虎杖の顔を挟み込み、合わない視線を無理やり合わせる。
 自分に魂さえ譲り渡すと約束してくれた唯一は、五条を見ているのに見ていない。五条が縋りついても、懇願しても、琥珀色に映っているのは別の男だ。
 だったら、と五条は噛み締めていた唇を解く。そしてさらに虎杖との距離を詰めた。ほんの僅かしかなかった空間は一秒もせずにゼロ距離となる。
「……ねぇ、悠仁」
 かけがえのない相手と初めて交わした口づけは、噛み締めていた唇の感覚が強く残りすぎてまともな余韻も何もなかった。

「俺は、オマエの目の前にいる五条悟は、虎杖悠仁の何? オマエにこういうことをしても、まだ『先生』だって言うの?」

「………………………………ぁ」
 顔を離し、虎杖の唇を親指で優しく拭いながら問いかければ、琥珀がゆっくりと瞬いて、濁っていたそこにじわじわと光が戻る。
 やっと本当の意味で五条と目が合うと、虎杖は唇を震わせて吐息をこぼすように呟いた。
「さ、とる?」
 そのたった三音に五条の全身から力が抜ける。
「うん、そうだよ」
 虎杖の頬に優しく手を滑らせ、首筋を撫でて、五条は安堵と愛しさで目頭を熱くしながら唯一無二の存在を抱き締めた。
「誰よりも先に虎杖悠仁を見つけて、悠仁が守ってくれて、悠仁を魂ごと手に入れた、五条悟だ」

     ◇

 視界いっぱいに広がる美しい顔。
 絹糸のような滑らかさを持つ髪は新雪のごとき白。その髪と同色の白いまつげに縁取られた瞳は世界中のどんな『青』より美しく、中では星々が瞬いている。スッと通った鼻梁に、厚すぎず薄すぎない最高の形に整えられた唇。それら絶妙な位置に配されたパーツは、一つ一つが神の手によって作られたのだと言われても虎杖は信じてしまうかもしれない。
 しかし今、そんな性別の垣根さえ容易く跳び越える美しさは、くしゃりと崩れて幼子のような泣き顔へと変わっていた。
「ゆうじ」
「……うん」
「ゆう、じ。心配、したんだからな」
「うん」
 呪霊に心臓を貫かれたことも、その後、宿儺に身体の主導権を取って代わられたことも、そして心が過去の惨劇に囚われていたことも、全てを指して五条が両目から涙を溢れさせる。
 全てを思い出した虎杖は記憶を混同させることもなく、幼い頃から見守ってきたその相手の頭を「心配かけてごめん」と言って撫でた。
 虎杖悠仁にとって魂さえも譲り渡すと誓った、特別な存在。
 大切なものを何もかも取りこぼしてしまったはずの虎杖が、それでも手にした一等美しいもの。
 虎杖を拘束する必要がなくなり、二人から少し離れた位置の瓦礫に腰掛けた甚爾が、そんな五条の顔を見て「ひっでぇカオ」とせせら笑う。しかしどんなに崩れた泣き顔であっても、虎杖にとってそれは大層美しいものであった。
 きっとこの何より美しいものを失えば、今度こそ自分は正気ではいられなくなるだろう。五条の両手を掬い上げるようにして握り締めながら虎杖はそう確信する。
 無論、大切なのは五条だけではない。この世界で初めて交流を持った甚爾も、前の世界でも同じく大切だった者達も、虎杖悠仁という存在に関わってくれたたくさんの人々が大切で、愛おしくて、たまらない。そしてその大切な者達を、誰一人として失いたくないと思う。
 ゆえに虎杖は過去の残酷な記憶から戻ってくることができた。
 あの世界で大切だった人々とこの世界で大切になった人々を同一視することはない。僅かに重ねることがあったとしても、彼らは別の人間だ。何年もここで過ごす中、虎杖自身も無意識下で理解していたし、五条が改めてそれを教えてくれた。同一視など、どちらに対しても失礼になる。ただ、どちらも大切だから、せめて今この手に掴める人達だけは二度と奪われたくないと強く願った。
 守るために、絶望してなどいられない。空虚なままではいられない。重すぎる罪も、心臓をえぐり出したくなるほどの絶望も、全て抱えて前を向く。
「……もう大丈夫だよ、悟」
 真っ直ぐに一対の瑠璃色を見据えて虎杖は宣言した。
 二度と頭を抱えてうずくまったりしない。大切なものを奪われないようにするために、これから訪れるかもしれない悲劇を回避するために、やるべきことは山程あるのだから。
「虎杖悠仁、再誕だ。悟を泣かせちまうのもこれで最後。これからはずっとオマエも皆も笑っていられる世界にしてやるよ」
「……その世界で悠仁もちゃんと笑ってんの?」
「当然だろ。悟の隣で大口開けて笑ってやるさ」
「それなら僕も全面協力しないとね」
 口調を戻した五条が未だ涙に濡れた瞳で笑みを浮かべる。
「『最強』の全面協力かぁ。マジで心強いわ。ありがとな、悟」
「どういたしまして。……と言っても、元より僕が教師なんて道を選んだこと自体、悠仁が動機だったし。優れた人材を育てて、悠仁にいちゃもんつけてくる今の腐った上層部をぶっ潰せーってね。だから悠仁のためなら何だってやれるよ」
 五条は手を握られていた状態からするりと繋ぎ直して指を絡める。そして「本当に、悠仁のためなら何だって」と囁き、虎杖の指先に唇を触れさせた。
「……まぁ、悠仁に協力したいのは僕だけじゃないみたいだけどね」
 付け足されたその台詞に促され、虎杖はこの場にいるもう一人へと頭を巡らせる。
「甚爾にも協力してもらっていい?」
「あ? 勝手にしろよ。報酬を払うのはそっちだろ」
 虎杖が問いかければ、そんな答えが返ってくる。つまりは甚爾も今までどおり協力してくれるということだ。虎杖はニッと歯を見せて笑い、「あんがと」と礼を告げた。
 そうして虎杖は思う。
 自分はこれまで多くの人に助けられてきた。だが今後は大切なものを守り続けるため、もっと多くの人に、もっと多くの助力を乞うことになるだろう。どうせ自分一人でできることなどたかが知れているのだから。二人へ向けたのは、そんな虎杖が告げる最初の感謝の言葉となった。
 だが同時に、もう一人の存在へ虎杖は礼を告げねばならない。
「…………」
 思わず唇を引き結んでしまう。
 疑いようもなくそれ≠ヘ悪だった。呪術師として歩んできた虎杖悠仁という人間にとって吐き気を催すほどの邪悪、その一つ。しかしそれは虎杖の呪術師としての人生の中で常に隣にあり、虎杖が心を壊す要因の一つになりながらも、壊れた虎杖をいつしか密かに保護するようになっていた存在。虎杖に再起の機会を与えたばかりか、自身の顕現を対価にしてまで宿主の心が再度壊れてしまわぬよう守り続けてくれた者。
 それが表に出ている間、また生得領域で虎杖がそれと共にいた間、この厄災と呼んでも差し支えない存在が何を思い何をしていたのか虎杖は正確に把握していない。けれどもそれが自分自身を対価にして虎杖を守ってくれていたことははっきりと理解していた。
 ゆえに。

「――――宿儺」

 その名を、虎杖は口にする。
 憎しみと親しみ。嫌悪と感謝。相反する感情がいくつもいくつも浮かび上がって胸を圧迫した。
「なァ、おい……宿儺。聞こえてるんだろ」
「何事だ。鬱陶しい」
 左目の下にある傷跡が瞼を押し上げるように開いて三つ目の眼球が現れる。そのさらに下には口が一つ。
 この世界に来て初めて体表に現れた宿儺へ虎杖は苦く笑ってみせた。
「そう言いつつも応えてはくれるんだな。オマエも随分と丸くなったじゃねぇか」
「……。用がないなら呼ぶな」
「用があるから呼んだんだよ」
 少し離れた場所には甚爾。すぐ隣には正面から移動した――けれど手は握ったままの――五条。そして身体の中に宿儺。三者が静かに聞き耳を立てる中、虎杖は決して大きくはない声で、しかし一字一句はっきりと告げる。
「ありがとう、宿儺。俺をずっと助けてくれて」
「ふん。価値のない言葉の羅列だな。感謝の意を示すなら、もっとまともなものを差し出したらどうだ」
「相変わらずオマエってホント腹立つヤツだなぁ」
 しかし確かに、五条や甚爾とは違い、宿儺は感謝の言葉だけで満足してくれるタイプでもないだろう。納得し、虎杖はそれならばと訊ねる。
「じゃあ一体何が欲しい? 叶えられるかどうか分からんけど、言うだけ言ってみろよ」
 これで鏖殺がしたいなどと言われても虎杖は絶対に叶えないつもりだ。それどころか即座に無視を決め込み、一生そのままだろう。しかし脳裏に浮かんだ小さな予想に反し、宿儺は即答を避けて沈黙を保った。
 遠慮でもしているのだろうかと不思議に思う虎杖の左頬で、一旦引き結ばれていた口がようやく開く。
「身体が欲しい」
「駄目だ。この身体はやれん」
 虎杖は即答した。が、「阿呆が。知っている」と宿儺の方も即座に返す。
「じゃあどうしろって言うんだよ。他の器を探すってのも、俺が指全部喰っちまってる時点でナシだし。まさか二十一本目……ってか四十一本目? が、あるとか? でもオマエぐらいの強い呪物に耐えられる器ってのは滅多にないんだろ?」
 身体を得て何をするのかと問い詰める前に、まず虎杖の身体を明け渡す以外で肉体を用意すること自体が非常に困難である。そして当然、虎杖はたとえ感謝を示すためであっても自分の肉体を宿儺に明け渡すつもりはない。
 というわけで、宿儺のその希望は叶えられないとはっきり断るはずだったのだが――。
「方法はある」
「え……?」
 困惑する虎杖達に淡々と宿儺は告げた。
「オマエの中にある俺の指は四十本。それを使ってこの身体を割り、それぞれの足らん部分を呪力で補填すれば良い。……なに、反転術式の簡単な応用だ」



[chapter:7]

 むやみに他人を傷つけたり殺したりしないこと。無辜の民の鏖殺など以ての外。ただし自分や近しい者に害を為すものに関しては宿儺の裁量で手を下す。――それが両面宿儺復活に対する条件とされた。
 この縛りによって宿儺は肉体を得た後でも虎杖に正面から逆らうことはできなくなる。
 加えて、肉体および指の分割により、宿儺が新しく得た肉体に宿る呪力は指二十本分。虎杖悠仁の肉体にも指二十本分。そして五条悟の能力は指二十本よりも高い。すなわち、縛りがなくとも虎杖と宿儺が戦えば相打ちになり、五条と宿儺が戦えば宿儺の敗北が決定している。
 そうやって意見のすり合わせと条件付けが為された後、ようやく宿儺の言う方法が実行された。

     ◇

「こちらの仕事はしてやった。……で、何がどうしてこうなったんだ? そろそろ詳しく教えてもらおうじゃないか」
 東京都立呪術高等専門学校内、医務室。自分用の肘掛けつきの椅子に足を組んで腰掛けたまま、家入硝子は目の前の光景に対する説明を要求した。
 現在この部屋に集まっているのは、部屋の主である家入、任務地から戻ってきた五条と虎杖、呪力が検知されないのを利用して二人についてきた伏黒甚爾、それからもう一人。
 その一人は虎杖悠仁と全く同じ姿をしている。違うのは諸事情で購入したという衣服と表情くらいだ。
 家入の正面に置かれたスツールには、診察を終えて異常なしと判断されたばかりの虎杖。その後ろに五条が立ち、少し離れた壁際には甚爾が気怠げに佇んでいた。そして視界の端に映るソファセットの一角に王者の如く腰を下ろしている、虎杖と同じ姿をした、それ。最後の一人を一瞥し、再び虎杖へと視線を戻して、家入は厄介事の気配に溜息を吐いた。
 同じ姿をした二人からは同じ呪力と術式が確認されている。これは五条の言だ。
 ちなみに呪術高専の結界内では未登録の呪力が検知されるとアラートが鳴る仕組みになっている。言い換えれば、登録されている呪力であれば、たとえそれが強力かつ凶悪なものであろうとも素通りさせてしまうということ。そしてこの虎杖悠仁の呪力は、本来、両面宿儺のものである。虎杖は形式上とはいえ呪術師の一人として認定されており、アラートの対象外となっていた。つまり実質的には、両面宿儺そのものも高専内においてアラートの対象外になっている。この事実も五条の見解を補強する理由となっていた。
 加えて家入の見立てでは、二人の肉体は同じものを元にしている。単純な見た目だけの話ではなく、医学を学んだ者として、そして他者に反転術式を施せる者としての見解であった。
 まさかとは思うが……と、家入は冗談半分で虎杖と五条に訊ねる。
「虎杖の身体を半分に割ってそれぞれに反転術式でもかけたのか?」
「おっ。説明もなしにそこまで予想するとは流石じゃん、硝子」
「うそだろ。プラナリアか何かか?」
 冗談で言ったことをあっさり五条に肯定されて家入は思わず顔をしかめた。
「実際に見たら凄かったよ。一時的に宿儺が――」
 と言いつつ五条の視線がソファセットの方へ向く。
 やはりあの虎杖悠仁そっくりさんは両面宿儺で間違いないらしい。予想はしていたが、宿儺と明示せずによくもまぁこの部屋に連れて来たものだな、と家入は五条を睨んだ。
「――悠仁の身体の主導権を譲り受けてさ、そっから一瞬で自分を縦割り半分。同時に指の呪力も均等に二つに分けて、分割された身体の両方を同時に反転術式で治療……というか、もうあれは蘇生のレベルだわ。ボコボコ泡立ちながら血も内臓も筋肉も皮膚も一瞬で再生していくのは、ぶっちゃけ気持ち悪い以外の何ものでもなかったね」
 虎杖悠仁大好き人間だと自他共に認める五条があえて使った「気持ち悪い」という言葉。それほどまでに、宿儺による二人の肉体の再生は圧倒的なものだったのだろう。指を全て揃えた状態の両面宿儺がいかに規格外の存在なのか思い知らされる。
 しかし――。
「指の呪力も分けたということは、今の虎杖さんには指十本分の呪力しかないということか?」
 宿儺の指は全部で二十本。先程の任務でその全てが揃ったということだったので、単純に考えれば虎杖と宿儺双方の肉体に宿っているのはそれぞれその半分だ。
 半ば確信しながら訊ねた家入に、しかし五条は即答せず虎杖と顔を見合わせる。「硝子になら言ってもいいよね?」「うん。信頼できるし」と何やら意味深長な会話を小声で交わす二人。信頼されていることは素直に嬉しいが、厄介事に巻き込まれる気配がぷんぷんしている。
 それでも聞かないという選択肢は最初から存在しない。どうせなら二度手間にならないよう夏油もこの場に呼んでおくべきだったな、と自分同様に彼らから信頼されているであろう昔馴染みの顔を思い出しつつ、家入はゆったりと二人を待った。どんな真実が明かされようとも彼らにならとことん付き合ってやる心づもりだ。
 そんな家入の態度が伝わったのか、二対の瞳が再度こちらを向く。
「実はさぁ」
 口火を切ったのは虎杖。
 今は大人しくしている宿儺が実は非常に厄介な存在であると言われるのか、それとももっと悪い状況になっているのか。ほんの少し身構えた家入に、虎杖は眉尻を下げて申し訳なさそうに告げた。
「俺の身体にも宿儺の方にも、指二十本分の呪力があんだよね。その理由ってのが――」


 語られたのは単純な厄介事よりも遙かに重い虎杖の過去。幾分ぼかされた部分もあったが、だからこそ虎杖の抱えた傷の深さが覗える。
 予想外すぎる真実に度肝を抜かれた家入は、けれども決して短くはないその話を最後まで聞き終えると、口の端を緩く持ち上げて虎杖に返した。
「――その話、やっぱり夏油もこの場に呼んでからしておくべきだったな。長い話を二回もするなんて、結果が分かりきっているからこそ余計に面倒だろう?」
 言外に自分も夏油も貴方から離れていくつもりはないと家入が告げてみせれば、正面に座る虎杖がほっとして、肩から余分な力を抜いていく。家入のことを信頼していると言っても、やはり世界の境界すら越えてきたという荒唐無稽な虎杖の話がすんなりと受け入れられるとは思っていなかったのかもしれない。
 確かに信じがたい話だったが、家入は虎杖悠仁という人間の為人をよく知っている。あとで同じ話を聞かされるであろう夏油と二人で「要らぬ心配だったのにね」と笑ってやる予定まで立てて、家入は目尻を下げた。

「…………さて、話は終わったか?」

 虎杖の身体に異常がないかを調べるための診察も、虎杖の身に起きた話についても終わり、一息ついたその時。それまで沈黙を保っていた存在が悠然とした態度でソファから腰を上げた。
 呪力は充分抑えられているというのに、その程度の動作だけでビリビリと肌を刺すようなプレッシャーが襲い来る。「……ッ!」と、家入は思わず息を呑んだ。
 たとえ虎杖が互角の実力を持っていても、またそれより強い五条が傍に控えていても、完全に力を取り戻した両面宿儺という存在はあまりにも常軌を逸していた。これが高専のアラートにも引っかからず自分の目の前に立っているのかと、恐怖と理不尽への苛立ちが一緒になって家入の膝を震わせる。
 だが紅い四つの瞳は家入を一瞥しただけで、すぐにその意識を虎杖ただ一人へ向けた。
 虎杖は宿儺を警戒し、椅子から僅かに尻を浮かせる。背後の五条もまた黒い目隠しを首元まで下ろした。
「はっ。そう警戒するな」
 しかし警戒する二人とは対照的に宿儺は軽く笑う。穏やかであるとさえ表現できるその口調に家入を含めた全員が戸惑ったのも致し方ないことだろう。
 宿儺は静かに虎杖の傍らまで歩いてくると、視線を自分そっくりの存在から離すことなく「おい、女」と家入に話しかけた。
「コイツの身体には何の問題もないのだな?」
「……え、あ、ああ。そうだ。何の異常もない。健康体だ」
「そうか」
 家入の返答を聞き、そして自らも上から虎杖を検分しつつ、宿儺は独り言のように呟く。
 まさか災厄とも言われるあの両面宿儺が、元宿主とはいえたかが一人の人間を心配しているのだろうか。受け入れがたい推測に全員が次の行動を決めかねる中、宿儺はさらに予想外の行動へと移った。
「…………………………は?」
 大分遅れて声を発したのは当の本人たる虎杖。
 その身に上から覆い被さるようにして宿儺が虎杖を抱き締めていた。
「は? え? す、すくな……?」
「確か以前の俺は『光は生で感じるに限る』と言ったはずだが……」
 宿儺は盛大に困惑する虎杖を放置して、今この場では自分を含めた二人しか分からない話題を小さく声に出す。自分だけの独り言と他者への囁きの中間のような声と口調のまま、呪いの王はそっと吐息に混ぜて続けた。

「オマエの熱を生で感じるのもそう悪くはないな」

「っ!? お、わ……っ!?」
 耳元に落とされた囁きに虎杖が顔の側面を押さえてガタガタと立ち上がる。その所為で抱擁は解けてしまったが、宿儺は満足そうに笑っていた。
「てめぇ宿儺!!」
 顔を真っ赤にして言葉を失う虎杖の代わりに五条が吼える。しかし宿儺の方はどこ吹く風で、実に涼しげな表情。否、虎杖と五条、ついでに壁から背を離した甚爾の様子を順に見やり、楽しげに「ケヒッ」と声を出して笑ってみせた。
 鮮血色の赤い目が四つとも細められる。
「嗚呼、悪くはないな」

     ◇

「なーんか、楽しそうだね、虎杖さん」
「へ? そう見える?」
「うん」
 暢気に会話する虎杖と家入が眺める先では現代呪術師最強と呪いの王による戦いが繰り広げられていた。
 と言っても、互いに本気ではあるものの全力で殺り合っているわけではない。そんなことをすれば高専など一瞬で吹き飛んでしまうだろう。
 これは虎杖にちょっかい≠かけた宿儺に対し、五条が「オモテ出ろ」と相手を屋外演習場に連れ出し苛立ちをぶつけているだけ。ついでに宿儺の方も生身の肉体の試運転をしているといった程度である。
 しかし曲がりなりにもぶつかり合うのは術師最強と呪いの王。かなりの範囲が悲惨な事態になっている。
 未だ死亡したことになっている甚爾が「付き合ってらんねぇ」と一足先に帰った後、医務室を離れ学生達もよく使うその演習場の隅に腰掛けていた虎杖は地面にまた一つ大きな穴ができあがったのを見て、「あーあ。補修にいくらかかんだろうな」と呆れ声で呟いた。
「請求されても五条が稼いでるから問題ないでしょ」
「流石は最強」
「あとは虎杖さんも稼いでるし……これからは宿儺も術師として働いたりして?」
「どっちの連帯責任になってんだ、俺」頬を掻きつつそう言って、虎杖は「でもまぁ」と続ける。「こんだけ派手に暴れれば、宿儺の存在を隠しておけるわけもねーし、ついでにあれはもう呪いじゃなくて人間の身体を持った術師になっちまってるし、だったら俺と同じような立場で呪術師やるのもアリっちゃアリなのかもな」
「上層部は荒れに荒れるだろうけどねぇ。ま、それでどうにかなるレベルじゃないさ」
「宿儺だもんなぁ」
「それに虎杖さんも五条もいる。実質的にこの国で虎杖さん達に逆らえる人間はいないよ」
「武力の集中ヤバすぎん?」
「いいんじゃない? 大丈夫でしょ」
「本当に大丈夫だと思ってる?」
「大丈夫だと思ってるよ」
 家入はあっさりと返答してみせた。
 虎杖が演習場から隣へと視線を向ければ、こちらもまた演習場から自身の隣へと顔を向けた家入が口元に淡い笑みをのせている。この様子では虎杖が彼女を見るよりずっと前から彼女は虎杖のことを眺めていたのだろう。
 黒瞳が笑みの形に細められる。
「だって虎杖さん、五条と宿儺のこと本当に楽しそうに眺めてるからさ。その顔見てたら、宿儺との縛りがどうのこうのより、よっぽど『ああ、大丈夫なんだ』って確信が持てた」
 類い稀なる能力と高度な技術を持っている家入硝子。しかし彼女に直接的な戦闘能力はない。それはつまり、危機に晒されれば容易く命を奪われる側であるということ。そんな立場である彼女が厄災とも言える宿儺の存在を認めている。虎杖と五条への信頼によって。
 ありがとうと言えば良いのか、それとももっと良い言葉があるのか。虎杖が迷っているうちに家入が「あ」と声を上げた。
 彼女の双眸が捉えたのは虎杖のずっと後方から駆けてくる夏油の姿。演習場は大惨事なのに、その隅で虎杖と家入がのんびりしているので、本気でわけが分からないといった顔をしている。
 家入の視線を追って夏油に気づいた虎杖はそんな特級術師兼高専教師の姿に苦笑し、大声で呼ぶ代わりに軽く手を振った。そして再び視線を演習場へ向ける。
 何だかやけに身が軽く、心も軽い。
(やんなきゃいけねーことは沢山あるはずなのに)
 虎杖は胸中で独りごちた。
 ここには五条がいる。家入がいる。夏油もいる。七海も、灰原も、伊地知も、頼りになる教師も、まだまだ幼い呪術師の卵達も、そして宿儺もいる。
 そのことが驚くくらいに胸を沸き立たせる。何が起きてもきっと大丈夫なのだ、と。
(俺の存在は完全な異物(イレギュラー)だろうけど、この先、俺が知ってる事態にならないと決まったわけじゃない。……羂索のこと、とか)
 両面宿儺が存在していたのだから、裏梅も、そして羂索も、きっとこの世界に存在しているだろう。
 その羂索が羂索として♀動していた事実はまだ確認されていないものの、呪胎九相図は高専に保管されていた。これは加茂家の当主の身体を使って羂索が動いていた過去があるという証拠になり得る。また調べれば、原因不明のまま眠り続けている一般人――未来の伏黒津美紀のようになってしまった人間――が多数確認されているかどうかも判明するはず。
 もしそれらが事実であり、すなわち虎杖悠仁の記憶とこの世界での出来事が合致するならば、羂索の存在と暗躍は確実となり、近い将来にとんでもない未来が待ち受けていることになるだろう。
 この世界でも天元は星漿体と同化しなかった。肉体がリセットされなかったため、おそらくすでに彼の存在は人ではなく呪いの側へと傾いている。夏油傑が離反していないため彼の肉体を乗っ取り術式を手に入れた羂索が呪霊寄りになった天元を取り込むという可能性は前よりもぐっと低くなっているが、決してゼロになったわけではない。また夏油に目を付けずとも、彼と同種の術式を羂索が手に入れたならば、その先に訪れる未来は最適化を謳った絶望的な世界だ。
 虎杖悠仁は多くのものを失った。だからと言って膝を折り地面に両手をついてうつむき続けるわけにはいかない。この手にある大切なものを守るため、奪われないため、まだまだやらなくてはいけないことがいくらでもある。
(でも一人じゃない。みんながいる)
 沸き立つ胸を押さえて虎杖はその事実を噛み締める。
「虎杖さん、どうかした?」
「ん。そろそろあの二人を止めて来ようかと思って。夏油も含めて皆に話したいこともあるし。甚爾はもう帰っちゃったけど……まぁあとで言っとくか」
 最後の方は独り言になりつつも、家入にそう答えて立ち上がる。
「あの二人も巻き込んでちょっとやりたいことがあるんだよね。家入も協力してくれる?」
「何する気かは知らないけど、虎杖さんに誘われて断れるヤツなんていないよ。夏油も、後輩達も、あとは虎杖さんが目をかけてる子供も、きっとね」
「そうかな。……うん、ありがと」
 家入の言葉に背中を押されながら虎杖は演習場へと足を踏み出す。ちょうど駆け寄ってきた夏油が残った家入に「あれ大丈夫なのか?」と訊ね、「問題なし」と返されていた。
 彼女の言葉を証明するかのように、虎杖の接近に気づいた二人が呆気なく殺し合いの手を止める。その様を見て虎杖は駆けるスピードを上げた。

「ヘイ! そこのお二人さん! 俺と一緒に世界を救ってみねえ?」

 虎杖が上げた声に背後で「おや」「は?」と、家入、夏油がそれぞれ目を丸くする。
 そして――
「なぁに、どうしたの。よく分かんないけど悠仁がやりたいなら喜んで手伝うよ。悠仁のためなら全面協力するって言ったじゃん」
「……ああ、あれか。別に手を貸してやっても構わんぞ」
 この先を知らなくとも虎杖を信じている五条、この先を知っており虎杖の言葉の意味を即座に理解した宿儺、そのどちらもが虎杖を快く迎え入れる。
 二人の反応に虎杖はニカッと輝くような笑みを浮かべた。


 絶望的な結末を変えるための物語は、これからも続く。


 そう。あなたこそ、『悲しい世界を壊す人(ワンダーランド・エリミネーター)』。

































 むやみに他人を傷つけたり殺したりしないこと。無辜の民の鏖殺など以ての外。ただし自分や近しい者に害を為すものに関しては宿儺の裁量で手を下す。――すなわち、宿儺やそれに近しい者に手を出した愚か者には、宿儺の自由意志(殺意)が適用される。
 自身の復活に関する縛りを正しく守り、両面宿儺はその場≠ノ立っていた。


「隠し持っていた指もあとで差し出すつもりだったと言えば、縛りには触れん。ああ、そうだな。その通りだ。しかも現に、形はどうあれ貴様らは小僧に指を差し出した。縛りは破られていない」
 高専の敷地内に存在する薄暗い空間。小さな行灯の明かりに照らされて格子に障子紙を貼った衝立が一つ二つ……と並び、その向こうに姿を隠した者達が恐怖に身を縮こまらせている。
 彼らは両面宿儺復活などという大問題を引き起こした五条悟の責任を追及するため、今日この場に集まっていた者達だった。
 しかし部屋を訪れたのは五条一人だけではなく、その後ろに付き従う人間が一人。最初、待ち構えていた上層部の老人達は五条に続いて入ってきた人影を虎杖悠仁だと判断した。だが予想は外れ、大人しく五条の後ろにいたはずの人間が、ざわめく空間のただ中で「ケヒッ」と嘲りの声を上げ、その台詞を発したのだった。
「小賢しいが、弱い者が知恵を働かせた結果だろう? 許す、許す」
 宿儺の声が朗々と響く中、まんまと呪いの王をこの部屋に引き入れた五条は、役目は終わったとばかりに一歩引いて静かに佇んでいる。その口元は僅かに笑みの形を作り、いつもの飄々とした雰囲気を抑えつつも、おかしくてたまらないと言った様子。だがそれに気づいても老人達は指摘することなどできない。ただただ宿儺の一言一句、一挙手一投足に、枯れ木のような醜い身体を震わせるだけだ。
「『呪術界は虎杖悠仁が両面宿儺の指二十本全て喰らうのに協力する、または邪魔をしない。そう約束するなら、虎杖悠仁は人間が現代の倫理観から外れない限り危害を加えない。指を二十本全て喰らった後もこの誓約は継続される』――これが、オマエ達と小僧が交わした縛りだ」
 上層部と虎杖悠仁が交わした縛りを、当時の台詞のまま、一文字も違えず口にする宿儺。
 自分達に有利な縛りを結ぼうとした上層部の思惑が透けて見える文言に対し、宿儺は苛立ちと僅かな揶揄をその声に滲ませていた。
「貴様らは小僧が指を集めるのに協力した。ゆえに現状、小僧が貴様らを害することはない。たとえ貴様らの中の一人が最後の指をあの山奥に封じ、さらにその在処を外部に漏らし、巡り巡って今回の騒動が起こったのだとしても。貴様らが直接小僧に害を為したわけではないのだからな。ただの偶然≠ェ積み重なっただけと言えば、それまでの話」
 最後の指を巡る今回の件について、呪術界上層部が黒幕だという証拠はなく、彼らの罪を立証することはできない。よって虎杖達は彼らに手を出せない。上層部はそのことをよく理解していた。そして宿儺もまた、そんな老人達の醜い考えを見通していた。
 呪いの王に自分達の欺瞞と保身に満ちた思惑を見抜かれた老人達は皺だらけの喉をごくりと震わせる。
「さて、縛り……言葉の間隙を縫って事を為す貴様らに一つ面白いことを教えておいてやろう」
 そんな老人達の姿が衝立越しであっても分かるとばかりに、宿儺は声にますます揶揄と、そして愉悦を滲ませ、告げた。

「この縛りに俺≠ヘ含まれていないぞ」

 加えて呪術界上層部は決して無辜の民≠ネどではなく、宿儺から見て虎杖悠仁を害したことがない者≠ナもない。
 すなわち、両面宿儺の行動を制限する縛りは存在しない。
「もう一言二言付け足しておけば違ったやもしれんがな。貴様らが縛りを結んだ対象は虎杖悠仁ただ一人。そして俺は小僧の中にあった時も、こうして身体を得た後も、貴様らとの縛りには一切関係がない」
 宿儺が静かにそう付け足す中、衝立の陰に隠れていた老人達がついに耐えきれず逃げ出した。ガタガタバタバタ、「あの化け物を殺せ!」などという怒声も交じり、呪術界のトップであるべき者達が蜘蛛の子を散らすように背中を見せる。
 しかしその程度で逃げられるのであれば、両面宿儺という名がここまで恐れられることもなかっただろう。
 逃げ出す老人達に焦ることもなく、呪いの王は笑みさえ浮かべて死刑よりも恐ろしい宣告を口にした。
「案ずるな。五体満足で居続けられることは確約してやる。だがまぁ、俺は貴様らにも反転術式が使えるのでな。最終的に′ワ体満足であれば、それで構わんだろう?」
 そうして薄暗い空間に、肉を裂き骨を断ち、血飛沫と断末魔さえ執拗に切り刻む音がいくつもいくつも響き渡った。







2021.01.13〜2021.07.17 pixivにて初出