ワンダーランド・エリミネーター 番外編




<幕間:ある女の話>

「へぇ……甚爾が失踪、ねぇ。どうせヤバい仕事に失敗したとかなんでしょ。アイツらしいわ」
 夫が行方不明になったと聞かされた女は、気丈と称するにはいささかふてぶてしすぎる態度でそう答えた。
 今年で四歳と五歳になる子供達は二階の部屋で昼寝中。下着に近い薄着で五条を出迎えた彼女は、一瞬、五条の恵まれた容姿に目を瞠ったが、美形はそれなりに見慣れているとばかりに古びたアパートの玄関扉をくぐらせた。
 小さな三和土の先はごちゃごちゃと物の多い居間――なのだろう。たぶん。曲がりなりにも旧家で生まれ育った五条には酷く狭苦しい場所だった――で、「どうぞ」と椅子を手で示す彼女に従い五条が腰掛けると、当の本人はガスコンロの下まで移動して換気扇を回し、煙草に火をつけた。
 ふぅ、と紫煙を吐き出してそれが換気口に吸い込まれていくのを眺める彼女に五条がさっそく用件を告げる。最後まで静かに聞き終えた彼女は小さな苦笑を滲ませながらそう答えたのだった。
 一般人に分類される彼女に呪術師や呪いについて詳しく説明することはない。それなりに濁して語った。だが必要なことを彼女はきちんと理解してくれたらしい。
 それどころか――……
「んーそうね……確か配偶者が失踪して三年経ったら離婚が成立するんだっけ? その頃には恵も小学生になってるし、私が手を放しても構わないわよね。って言うか放さないとマズいんじゃない? アイツの血筋的に」
 津美紀は私と別の男の子だから大丈夫だろうけど、と付け足す女。
 再度フィルターを唇に挟み煙を吐き出すその姿を眺めながら、五条は少々察しが良すぎる相手に釘を刺そうと口を開く。これ以上踏み込めば、もしくは女が知っていることを周囲に知られてしまえば、彼女も一般人の枠には収められなくなってしまう。
 だがあの男が選んだ女はやはりただ者ではなかったらしい。五条が口を開く前に大きな目が悪戯好きの猫のように細められた。
「ああ、詳しい話を聞く気はないの。『私』はなぁーんにも知りません。完全完璧無関係。たまたま結婚した相手が私に秘密で何かしてたってだけの話よ。だから夫が失踪した後は離婚成立までちゃんと母親を続ける。うちの子達が二人とも小学校に上がるまでは面倒見るわ。それでカンベンしてちょうだい。あとはそちらの世界の人達にお任せするから」
 人差し指と中指の間に短くなった煙草を挟み、女はこてんと首を傾げて微笑んだ。
「三年後に子供を捨てる女が言えた義理じゃないけどさ。幸せにしてやって……ってのは難しいかもしれないけど、生まれてきたことを後悔しない程度の人生は歩ませてやってね」


<番外:七海&灰原編1>

「怨霊の類を神として祀って厄災を遠ざけようとするのはこの国で昔からやっている手法でしょう。今回の件もそれと同じことですよ」
 自分達の一年上の先輩が二人も特級術師に認定され、同時に特級呪物『両面宿儺』の器までもが術師扱いされるどころか特級に位置づけられたという情報を聞き、灰原雄の同級生は淡々と語った。
「でもあの両面宿儺だよ!! 両面宿儺!! 呪いの王とまで言われた存在が術師として僕達に協力してくれるなんてやっぱり考えにくいんじゃないかな。むしろ――」
「敵対するのでは、と? こちらから攻撃しなければあちらも我々を害することはない、そう縛りを結んだのでしょう? だったら無闇矢鱈と恐れるのは愚かな行為だ」
 灰原の友人は相変わらず冷静沈着だった。呪具の手入れを続けつつ一切こちらに視線を向けない。「アナタも騒いでばかりいないで、この後の任務の確認でもしていたらどうですか」とまで言われてしまい、灰原は「七海は大人だなぁ!!」と、ヘコむのではなく逆に友人への尊敬の気持ちを新たにして自席に腰を下ろした。
 現在、東京都立呪術高専の一年生は七海と灰原の二人のみ。決して狭くはない教室はいつも寒々しく、陽気な性格の灰原がどれだけ話題を持ち込んでもそれは変わらない。おまけに話し相手はこのクールな同級生。明るく振る舞う灰原のような人間の方が呪術師の中では稀少らしいのだが、中学まで普通の学校に通っていた灰原からすればこの環境はまだ少し慣れない部分も無きにしも非ずだった。ただし慣れないのは環境だけで、呪術師としての実力はそれなりについてきているし、またこの一人しかいない同級生への友愛と尊敬の念は日々大きくなるばかりである。
 灰原の唯一の同級生、七海建人。熟練の術師の如き立ち居振る舞いは大変落ち着いているが、灰原と同じ非術師の家系出身。母方の祖父がデンマーク人とのことで、クォーターである彼には異国の血が混じった者特有の美しさがある。髪も真っ黒な灰原とは異なり、銀と金の中間――プラチナブロンドだった。瞳の色も同色だ。
 大人びた彼は一つ上の破天荒な先輩達とは異なり、規律に厳しい側面を持つ。灰原が席について事前に渡されていた本日の任務の資料をめくり始めると、七海はそれを一瞥して吐息を零すように言った。
「それに上が宿儺の器と敵対しないと決めたのだから私達に反対する余地はありません」
「……やっぱり七海もちょっとは思うところがあるんだね」
「――――、」
 返答は沈黙。
 七海の答えに灰原は笑った。
 反対する余地はない。つまり反対したいが、できない。してはいけない。七海の本心はそれだ。己を律し、呪術師として正しい行動を取ろうとしているのだろう。
「七海はすごいな。大人でもそこまで理性的に考えて行動するのは難しいよ。きっと」
「普通ですよ」
「いやいや、七海を普通って言っちゃったら五条さんはどうなんのさ!!」
「あの人は規格外と言うんです。比較することからして間違っているような存在ですよ」
 強さに比例して人間性もデタラメだ。そう呟く七海に灰原は苦笑する。眉間に皺を寄せ、呪具を扱う手が止まっていることから、先日の沖縄空港での任務のことも思い出しつつ本気でそう思っているのだろう。普段冷静沈着な七海が苛立ちを露わにする原因はあの先輩関連であることも少なくない。無論、苛立ちつつも必要なことはきっちりこなすのが七海であるのだが。
 そんな友人に対する称賛をひとまず脇に置いて、灰原は先輩である五条悟の件も交えつつ話を続けた。
「五条さんは呪術界最強の術師だけどさ、両面宿儺の器って五条さんより強いんだっけ」
「そもそも器と敵対する意志があの人にはないという空恐ろしい話も聞きますけどね」
「え、そうなの? でもまぁもし二人が戦ったとして、五条さんに夏油さんも加勢したらどうなるかな」
「全員が特級で二対一ですか……」
 想像を巡らせるように七海の視線がしばらく中空を彷徨う。
「……先輩達ならまだしも、宿儺の器の方はどのような実力を持っているのか見当もつきませんからね。私としては何とも言えません」
 視線が中空から灰原の方へと動く。
「ただし相手は呪いの王です。しかも実力は『最強』たる五条悟より上ときている。生半可な策では二対一だとしても勝てないでしょう。隙を突くか……もしくは、情に訴えるか」
「呪いの王に情なんてあるのかな」
 気づけば、灰原はそう口を挟んでいた。
 しかしこれは呪術師なら誰もが思うことだっただろう。この度、特級に認定された器は本当に自分達の仲間として捉えて良い存在なのだろうか、と。
 灰原と同じ疑問と不安を抱えているはずの友人は、それでも静謐さを保ったまま口を開く。ただし以前から考えを重ねてまとめていたものとは違い、考えながら話しているような、少しゆっくりとした口調で言葉が紡がれた。
「両面宿儺本人が表に出ているのではなく、それを受肉した器の方が主導権を握っているとのことですから、悪逆非道な存在ではない可能性が高い。噂を信じるなら五条さんは器と戦う気がないとのことですから、その可能性はさらに高くなります。しかも器の人物は決して自分に利があるわけではない――……言ってしまえば、我々人間にしか利のない縛りを上層部と結んでいます。それができる考えの持ち主ですから……」
「多少なりとも情に訴えることはできる?」
「可能性の話ですよ。それに私は両面宿儺の器『虎杖悠仁』がどんな人物であるのか、性格どころか姿すら知りません。ええ、そうです。呪いの王を宿しているということ以外、何も知らない」
 ゆえに。
「――恐れることはできても、信用し、信頼することはできません」
 それが七海の現時点での結論。
 ぼそりと付け足し、けれども先程の灰原からの質問に対する適切な回答ではなかったと気づいて「ああ、すみません」と七海は頭を振った。
「とにかく特級同士が争ってどのような結果になるのかは分からないということです」
「そっか」
「そうですよ。無駄話が過ぎましたね。資料の確認は終わりましたか」
 七海にそう言われ、灰原はハッと手元の資料に意識を向ける。すっかり忘れてしまっていた。
「これから確認するよ!!」
「出発は二時間後です。それまでに最後まで読んでおいてください」
「わかった!!」
 両面宿儺の器について自分達は何も知らない。だから怖いし、信用も信頼もしていない。ただし上層部の意向にはそれなりに従うつもりで、だから何も起こさない。まずは目の前の任務に全力で取り組むのみ。
 それが自分達の今の結論であると灰原は納得し、まだ最初の方しか読んでいなかった資料に改めて目を通す。
 一年生に任されるだけあって、決して難易度の高いものではない。しかしここは呪術師の世界。いつ何時(なんどき)、何が起こるか分からない。気を引き締めて取り組まなければ。
「よっし!! 今日も頑張るぞ!!」
「殊勝な心がけですが、あえて口にしなくても大丈夫ですよ」
 ぽつりと七海が呟く。厳格で冷静、しかし意外と周りをよく見て世話焼きでもある友人に、灰原はにっこり笑って「うん!!」と答えた。


 ――二時間後。
「あれ? オマエらこれから任務? いってらっしゃーい! 気をつけてな!」
「あ、はーい!! ありがとうございます!! いってきます!!」
 高専の敷地内を出ようとしたところで灰原と七海は声をかけられた。幾本も立ち並ぶ鳥居の手前ですれ違いざまに話しかけてきたのは三十歳前後と思しき青年。明るい髪色が目を引いた。
 両目の下に薄い傷のようなものが走っているその青年は、ほぼ反射的にいってきますと答えた灰原へ満面の笑みを向ける。そのままひらりと手を振って職員寮の方へと去って行った。
 青年の背を見送り、灰原はぽつりと零す。
「誰だろう」
「さあ。高専の関係者だとは思いますが」
「呪術師でもあんな明るい人いるんだね!!」
「アナタもそうでしょう」
「へへ、ありがとう!! あの人、感じ良かったね」
「……ええ、そうですね」
 七海が同意するくらいに、あの青年はとても明るく、人が好さそうに見えた。この業界では稀有な人材だ。
 どこの誰かは知らないがまた話せたらいいなぁと思いつつ、灰原は己の仕事道具をひと撫でする。
「よっし!! じゃあ気をつけつつ、いってこよう!!」

     ◇

「ただいまー」
「おかえり、悠仁」
 一仕事終えて高専の職員寮に戻ってきた悠仁を部屋にいた五条が出迎える。
 五条の部屋はきちんと学生寮の方に用意されているが、ここ最近は虎杖のために用意されたこの部屋に入り浸ってばかりだった。虎杖も五条の来訪を拒絶しない。むしろ三日目には合鍵が用意されていたほどである。
 特級術師に認定されてしばらく経ってから虎杖の住まいは五条家の本邸からこの職員寮に移された。とは言っても上層部が強制したわけではない。虎杖に近くにいてほしいという五条の思いと、両面宿儺の器である虎杖をなるべく目の届くところに置きたいという上層部の思惑が一致してこの状態に落ち着いたのだった。
 なお、職員寮には住んでいるが、虎杖が教師として学生達を指導しているわけではなかった。虎杖は教える側としての教育を受けていないし、また学生達もいきなり『両面宿儺の器』が教師だと言われても混乱する。形だけ高専の職員という立場となり、寝起きする拠点を得て、普通の術師では少々手に負えない案件を担当しているのだ。
 混乱を避けるため虎杖悠仁が高専の敷地内に住んでいる事実は一部の関係者を除き知らされておらず、高専の敷地内ですれ違ったとしても虎杖が両面宿儺の器であると気づく者は皆無である。虎杖が呪いの王というレッテルとは正反対の明るい人格の持ち主であることもそれを助長していた。
 一方、虎杖の正体を知る者は限られているが、その全員が虎杖に対して負の感情を抱いていないわけでもない。虎杖の移転に伴って職員寮を出た術師もゼロではなかった。寮に残っているのは肝っ玉の据わった者か、何も考えていない者か、もしくは虎杖と話したことがある者という三パターンに分けられる。元々職員寮を使う術師が少ない――教師や事務方の人間そのものが少ないという意味で――ことに加え、両面宿儺の器と同じ建物で寝起きするなんてとんでもないと言って寮を出て行った者もおり、現在の職員寮は非常に過疎状態にあった。おかげで虎杖の部屋は角部屋かつ周囲には誰も住んでいないという状況である。おそらく五条がこっそり隣の部屋を占拠したとしても気づく者はいないだろう。流石に虎杖が止めるので実行してはいないが。
「あ、そうそう」
 帰った後は手洗いとうがい。洗面台の前に立って水を流し始めた虎杖が正面の鏡に映った五条と目を合わせる。
「さっき任務に向かおうとしてる学生達とすれ違ったんだけど、一年かな」
「黒髪の元気そうな奴とうっすい金髪の奴だった? それなら灰原と七海だね。悠仁が言うとおり一年だよ」
 七海はともかく灰原の方は悠仁と気が合いそうだね、と後輩達の性格を鑑みて五条は続けようとするが、それより先に虎杖が「え」と目を丸くした。
「ななみ……? 七つの海って書く?」
「うん、そーだけど。何、悠仁の知り合いに『七海』って奴でもいんの?」
 七海建人本人とは今日初めて顔を合わせたようであるが、親戚もしくは同じ名字の人間と知り合いなのかもしれない。自分の知らない虎杖の交友関係に五条の胸の奥でチリチリと燃えるような痛みが走る。
 それが目つきに現れてしまったのだろう。サングラスと鏡を隔てて視線が合うと、虎杖はこちらを安心させるように口元を緩ませた。
「いたよ。ナナミンってあだ名で呼んだら嫌そうにすんの。まぁそのうち慣れてくれたらしいけど」
「過去形だね」
「もう会えないと思うから」
「会えたらソイツの所に行っちゃう?」
「行かないよ。だって昔、悟が俺に言ったじゃん。

『悠仁は俺のものなんだからね。俺と一緒にいなきゃ駄目なんだよ』

 ……って。俺は了解って答えた」
「覚えてたんだ」
 子供の戯れ言とあしらわれても仕方のない頃の発言だ。しかし虎杖はそれを覚えていてくれた。歓喜で胸の奥が熱くなる。
 濡れた両手をタオルで拭った虎杖が五条の元へ歩いてくる。
「もう、どこにも行ったりしねぇよ」
 大きな大人の手が五条の頭を少し荒っぽく撫でる。身長はすでに五条の方が高かったが、手の大きさは虎杖の方が大きかった。こんなところで自分はまだ子供なのだと思い知らされて悔しくなる。けれど同時に甘やかされ、愛されているのだと実感できてむずがゆいし、心地良い。
「行かせないよ」
 五条は頭を撫でていた手を取って、手首の辺りを強く握り締める。
「その約束を覚えてるならもう一つの方も覚えてるだろ? 一度でも俺の手が届かないところに行ったりしたら必ず見つけて捕まえるし、その時は魂すら俺のものになってもらうから、覚悟して……って。もう、逃がさない」
 虎杖は一度五条の傍から離れてしまった。だからもう二度と放してあげない。逃がしてあげない。
「俺達呪術師にとって言葉は大きな意味を持つ。悠仁は一生……ううん、死んで魂だけの存在になっても俺のものだからね」
 虎杖の手がこちらの頬を包み込む形になるよう掴んだままの手首を引き寄せ、五条はハンドソープの匂いが残る手のひらへ祈るように唇を押し当てた。


<番外:七海&灰原編2>

 夏の盛りは過ぎたもののまだまだ暑さが続く中、屋外演習場と言えば聞こえは良いがただの広い空き地であるその場所で、七海と灰原の一学年上の先輩達が体術の訓練をしていた。
 三人いる二年生のうち一人は反転術式の使い手であり直接的な戦闘は行わないタイプである。よって残りの二人――先日『特級』となった五条悟と夏油傑が対峙していた。
 たまたま近くを通りがかっただけではあるものの、コンクリートの階段に腰掛けて同級生達の訓練を観覧中だった家入と目が合ったので、七海達は「お邪魔します」「こんにちは!!」と挨拶しつつ同じ階段の少し下の段に腰を下ろす。
 組み手中の先輩達の一方は、最近、年単位で被っていた猫を引っぺがし上層部を混乱の渦に叩き込んだ人物である。ちなみに同級生や七海達は以前より彼の猫がない状態を見知っていたので今更驚くこともない。これでようやく自他共に認めるクズだと言えるようになったな、という程度の感慨があるのみであった。
 さて、性格に非常に難ありの人物ではあるものの、彼――五条悟の実力は本物だ。生まれ持った素質のみならず呪力の扱いも体術も一級品。否、特級。その相手をする夏油も大変優れた能力の持ち主であり、彼らの訓練は見ているだけでも価値のある物だった。
「やっぱりすごい……っ!!」
 目まぐるしく繰り出される技の応酬に、七海の隣で灰原が知らず知らず握り込んでいた拳に力をこめる。
 体捌きをメインにしているのか、五条も夏油も手足にほとんど呪力の気配がない。しかし掌底打ちや蹴りのたびにバシンッ!ズバンッ!と重く大きな音が鼓膜を震わせ、その威力を物語っていた。
「……お二人とも近接戦闘タイプではなかったと思うのですが」
 大興奮の同級生とは異なり静かに眺めていた七海がぽつりと呟く。それを聞いた家入がふっと吐息を零して笑った。
「君に比べればね。ただ、この前少し不覚を取ったらしいから。五条曰く『天才でも努力しないに超したことはないんだよ』だそうだ」
 少し前に五条と夏油は『術師殺し』と戦った。結果は五条の勝利だったが、家入の口調から察するに無傷とはいかなかったようだ。そのことに対する反省を踏まえての訓練なのだろうか。それにしては……と、真面目に取り組む五条を眺めつつ七海は零す。
「あの人の口から『努力』なんて言葉が出るのは少し意外です」
「うーん。まぁ、頑張ってるところを見てもらいたい人がいるからじゃないかな」
「はい?」
 七海は家入を振り仰ぐ。数段ほど上に腰掛けている彼女は七海を一瞥した後、五条へと視線を戻してニヤニヤと人の悪そうな表情を浮かべた。
「図体に似合わず健気だよねぇ」
「あの人が健気……?」
 ますます五条悟のイメージからかけ離れた単語が飛び出てきて、七海は自分が一体誰の話をしているのか分からなくなる。だが家入が冗談を言っている様子もない。
「ただまぁ、プライドの高いアイツが誰の目から見ても努力してるってのが分かるよう振る舞っている辺り、健気と言うよりあざといと表現すべきなのかもしれないけど」
「あざ、と……?」
 最早未知の言語を聞いている心地だった。
 そんな七海の様子に大した興味もないらしく、家入は「あ、来た」と呟いて、七海達が来たのとは逆方向に小さく手を振る。何かと思って彼女と同じ方向に目を向ければ、見たことのある人物がこちらに近づいてきていた。
「やっほー、家入。悟達、頑張ってんね」
「だねぇ。恐れ入るわ」
 金色に近い明るい髪と琥珀色の瞳、両目の下に薄い傷のような線が走っているその青年は親しげに家入と言葉を交わす。高専関係者だとは思っていたが、まさか先輩達とも知り合いだったなんてと七海が驚いていると、家入からこちらに意識を向けたその青年が何故か嬉しそうに破顔してみせた。
「無事に帰ってきてたみたいだな。おかえり!」
「え、ええ。まぁ」
「あっ、この間の!! ただいまです!!」
 灰原も先輩達の訓練から一旦視線を外して、新たに現れた青年へと威勢良く帰還を告げた。と同時に、相手の目線に会わせるように二人揃って立ち上がる。
「怪我は?」
「ちょっとしましたけど、家入先輩にお世話になるほどではなかったです!!」
「そっか。良かった良かった!」
 青年の言葉は社交辞令ではなく、本心から学生達の無事を喜んでいてくれているようだ。それが分かったのか、灰原が「はい!!」と満面の笑みを浮かべる。
 そんな後輩達と目の前の青年とのやり取りを見て家入が青年へ「知り合い?」と問いかけた。青年が「うん」と首肯する。
「この前、任務から帰ってきた時にちょうど出発しようとしてた二人とすれ違ったんだ」
「本当に顔見知りレベルでしかないじゃん……なのになんでそんな親しげなの」
「俺、コミュ力はある方らしいよ?」
「灰原もそうですね」
 青年に続いて七海も付け足す。
 七海だけではこうも騒がしくならなかっただろうが、灰原がいるおかげでポンポンと会話が弾んでいるのは疑いようもない。まだ互いの名前も知らない状態でよくこうも親しげに話せるものだな、とある種尊敬の念すら覚えた。
 名前も知らないというのは灰原の方も思ったのだろう。「あ、そうそう」とちょうど会話が途切れたところで灰原が切り出す。
「俺、灰原雄って言います!! そんでこっちは、」
「……七海建人です」
 水を向けられ、渋々……という程ではないが、七海も名乗る。
 青年は人の好さそうな表情を浮かべたまま「灰原に七海な。よろしく〜!」と、ひらり、手を振った。続いてその手で自分を指差し、
「俺は――」

「ゆーうーじー!」

「――悟? もう訓練は良いのか?」
「え、むしろ悠仁以外の何を優先しろと?」
「真顔で答えんなよ」
 青年もとい「ユウジさん」の言葉をぶった切るようにして駆け寄ってきたのは、夏油と訓練中のはずだった五条悟。彼のずっと後方に苦笑している夏油の姿が見えた。訓練の相手がいなくなった夏油はそのまま着替えに向かうらしい。挨拶代わりにこちらへ手を振り、背を向けて去って行く。
 一方、気遣いのできる夏油とは正反対に五条は七海達に目もくれず、まさに『べったり』と表現せずにはいられないほど青年に密着していた。真正面から抱きつき、己の視線より僅かに下にある明るい髪に顔を半ば埋めながら「でも悠仁が来るまでしっかりバッチリ訓練してたよ」と猫なで声を出す。
「褒めてくれてもいいからね!」
「はいはい。悟は努力家な良い子だよ」
 自分より大きな男に抱きつかれても驚くどころか慣れた様子で青年が真っ白な頭を撫でる。五条は顔をにやけさせ、大変満足げだ。
 すぐ傍で家入が半眼になりつつ「そろそろ見慣れてきたが、いつ見ても気持ち悪いな」と呟いている。しかし七海達はその程度で済むはずもない。天上天下唯我独尊俺様何様五条悟様な一つ上の先輩が見るも無惨な姿を晒しているのだから。
「視覚の暴力……」
「ご、五条さんと仲が良いんですねっ!?」
 コミュニケーション能力高めの灰原も流石に度肝を抜かれたのか、声を裏返らせながら咄嗟に放ったのはそんな問いかけだった。
「うん?」
 青年にしか向けられていなかった五条の意識が七海達を捉える。抱擁を解いた白髪の先輩は、それでも青年から半歩分も離れることなく「まぁね」とサングラスの奥の両目を細めた。
「悠仁は俺がガキの頃の護衛係みたいなもんだったからな」
 その声にほんの少しの優越感が乗っているように聞こえたのは七海の勘違いだろうか。
「悟様≠ヘ昔から護衛なんて要らないくらい強かったけどなー」
「それはそれ」
 青年の言葉に五条は声を弾ませたまま答える。
「で、流石に俺も成長して護衛は要らなくなっちまったから、悠仁には上層部から依頼されたちょっと難しい案件なんかを担当してもらってる」
「その関係で昔は五条家に住まわせてもらってたんだけど、今は高専の職員寮に住んでるよ」
 青年の補足説明に灰原が「なるほど!!」と頷いた。「それで先日僕達とすれ違ったんですね」
「そうそう。そーゆーこと! 今後も顔を合わせることがあるだろうからよろしくな」
「はい!! ……えっと、ユウジ、さん?」
 元気に返事をしつつ灰原は五条が青年をどう呼んでいたか思い出して付け足す。
 五条よりも年上で、彼が子供の頃に護衛係を務めていた青年、ユウジ。どんな漢字を書くのか知らないが、その音の並びに七海はぽつりと独りごちていた。
「……両面宿儺の器と同じ名前ですか」
「へ?」
 七海の呟きを聞き取って目を丸くしたのは青年本人。その顔を見て七海は自分の失態を悟る。
「っ、失礼しました。気分を害されましたよね」
 いくら彼と初めて出会った日にちょうど灰原と『虎杖悠仁』について話していたとしても、このような場面で口にすべきことではなかった。特級呪物『両面宿儺』を受肉した人間、虎杖悠仁。その存在は多くの呪術師にとって呪いの王の復活と同義である。いくら上層部が彼も呪術師であると認めているとしても恐怖心や警戒心は容易く抑えられるものではない。だからこそ、宿儺の器と並べるような発言はあまりにも失礼なことだったと七海は後悔した。灰原も横で「あちゃー」とでも言いたげな表情になってしまっている。
 青年本人にも青年を慕っているのが明らかな五条にも不快な思いをさせてしまった。おまけに青年の性格はまだ分からないものの、五条が厄介な人物であることは承知している。どんな報復がなされるのかと、そちらの意味でも嫌な汗が背中を伝う。
 しかし――
「あー……いや、何て言うか、その」
 七海に向けられたのは罵声でも叱責でもなく、何故か戸惑いだった。
 青年の琥珀色の双眸は五条に向けられ、次いで家入にも向けられ、もう一度五条を経由してから七海へと戻ってくる。ちなみに家入は肩をすくめ、五条は「名前が一人歩きするのはよくあることじゃねぇ?」と大きくはないが小さくもない声で告げていた。
 人差し指で頬を掻きながら青年は口を開く。
「気づいて、ない?」
「何をですか」
「いや、それならいいや。七海達にとって『両面宿儺の器』がどういうモンなのか大体分かったから」
「は、はあ」
 青年の言い方には引っかかるものを感じるが、失態をしたのはこちらということもあり、七海にとってこれ以上の追求は躊躇われた。
 微妙な空気となってしまったところで、七海と同じく先輩達と青年の意図が読めなかった灰原がそれでも何とかしようと視線を彷徨わせる。しかし何も言葉が出てこない。
 そんな彼に助け船を出したのは青年本人だった。
「ま、気にすんな」
 ニカッと晴天のような笑みを浮かべてそう言うと、青年はこちらに近づいて親しげに七海と灰原の肩を順に叩く。
「さっき言ったとおり、俺も呪術師として働いてるからいつかオマエらと組むこともあるかもしれない。そん時はよろしくな!」
「え、あ、はい」
「こちらこそよろしくお願いします!!」
「うん」
 にこやかに頷き、青年は七海達に背を向ける。「悟、そろそろ戻ろうぜ」と声をかければ、五条も上機嫌で「そうだね」と彼に続いた。
「家入も、またなー!」
「はいはーい」
 いつの間にか立ち上がっていた家入が気の抜けた様子で返す。「そろそろ私も行くわ」と告げる先輩に七海達は「はい」と告げるほかなかった。
 そうして二人、取り残される。しばらくどちらも言葉を発せずにいたが、やがて灰原が口を開いた。
「ユウジさん、やっぱり良い人だよね」
「ええ」
 七海も素直に同意する。
 失言に不快な顔をするどころかこちらを気遣って笑顔まで見せてくれたあの人を「良い人」と言わずして何と言うのか。
「また話せるかな」
「職員寮に住んでいるとのことですから会うのは容易いでしょう」
「そっか!!」
「五条さんが少々厄介そうですが」
「あはは。見たことがないくらいベッタリだったもんなぁ」
 呆れ半分、面白がるのが半分。そんな風に苦笑して、「でも」と灰原は続ける。
「仲良くなりたいって思っちゃったんだから仕方ないよね!!」
「そうですね。術師としての実力も確かなようですし、そちらの話も伺ってみたいです」
 七海は僅かに頬を緩ませた。
 軽く触れられただけの肩がまだ温かい。
 あの青年とはもっと他愛ない世間話をしてみたいし、術師の先輩としての話も聞いてみたい。そして彼が言ったようにいつか同じ任務につくことができたなら、自分はきっととても嬉しく思うのだろう。教師としてここにいるわけではないようなので、同じ任務につくとなれば指導役としてではなく同僚としてということになるのだろうが。
(となると、まだまだこちらの実力が足りない……か)
 胸中で独りごち、七海は灰原へと視線を向ける。
「少し手合わせでもしていきますか」
 ちょうど場所も空いている。この程度の訓練で青年にすぐさま追いつけるとは思っていないが、何もしないままというのは酷く心地が悪かった。
 七海の気持ちの変化を知ってか知らずか、灰原が「そうだねぇ」と呟きつつ少し荒れた広場を眺める。黒い瞳に映っているのは誰もいないただの広場か、それとも先程の先輩達の訓練の姿か。もしくは――……。
「ちょっとでも早く並べたら嬉しいし」
 誰の隣にとは言わず、灰原は一歩階段を下りる。
 その背に少し遅れる形で七海もまた上着を脱ぎつつ同級生の後に続いた。


<番外:七海&灰原編3>

「あ」
 ふわり、と二月も終わりの空気に白い息が舞う。
 時刻は正午を少し過ぎた頃。いつかの時とは逆の立ち位置で、石段を上り鳥居をくぐり抜けてきた二人の学生達が虎杖の視界に入ってきた。
「ユウジさん」
「こんにちは!!」
 鼻先をほんの少し赤くしながらそう呼んで近づいてくる学生達をとても可愛いと思うし、好意を持たれていることを嬉しいと感じる。しかし未来はどうであれ、今の彼らが『虎杖悠仁』を何と認識し、また何を恐れているのか知ってしまった身としては、喜びと同時に多大な申し訳なさも湧き出てくるというもの。内心を隠し、笑顔がぎこちないものにならないよう注意を払いながら虎杖は「おう。お帰り、二人とも」と片手を挙げて七海と灰原に応えた。
 二人にとって『両面宿儺の器』は恐怖と忌避と嫌悪の対象だ。それが目の前の男だと知ったなら、彼らはきっと虎杖を恐れるだろう。顔を引きつらせ、言葉を失い、一歩後ろに下がるか、はたまた反射的に攻撃の構えを見せるか。たとえすぐ後に「それでも目の前の男はユウジさん≠ネのだ」と思い出してくれたとしても、きっと負の感情が完全に消え去ることはない。加えて人の好い彼らは自分が誰を忌避したのか思い出して虎杖に後ろめたさを感じる可能性もある。怖くておぞましい相手にそれでも後ろめたさを感じる状況など虎杖は望んでいない。
 と言うのは建前で、本音はたとえずっとだろうと一瞬だろうと彼らに怖がられることを虎杖が厭っているのだ。こことは違う場所、違う時間で大変世話になった彼に。彼の大切な同級生であり、本人も虎杖に好意を持ってくれているもう一人に。恐ろしいと、おぞましいと、近寄りたくないと、そう思われるのが虎杖は嫌で嫌で仕方ない。だからあの時、すぐに勘違いを正すことができなかった。彼らの勘違いを助長させるような振る舞いをし、季節が変わった今もこうして訂正できないまま過ごしている。
「ただいま戻りました。それと、お久しぶりです」
「ユウジさんはこれから任務ですか?」
「そ」
「お一人で?」
「いんや、もう一人と現地集合」
 七海の質問に簡潔に答える。灰原が「いいなぁ」と呟いた。
「僕も早くユウジさんと任務に出られるような強い術師になりたいです!!」
 教師と生徒という関係でもない限り、同じ敷地内にいようが偶然出会う確率はさほど高くない。おまけに虎杖は任務で外に出ていることも多く、あれから半年経っても顔を合わせる回数は――すれ違いざまに挨拶を交わしたのを含めて――両手があれば充分に足りるほどだった。しかしそれでも彼らは虎杖を慕ってくれているらしい。今度はわざわざ浮かべた笑みではなく自然と頬が緩むのを自覚しながら虎杖は「俺も一緒の任務に出られる日を待ってるよ」と答えた。
 学生時代に七海と共に戦ったことを思い出す。子供扱いされて、けれどもきちんと術師として見てもらえるようになって。その時の高揚感を思い返しながら、さらに灰原が加わればきっともっと喜ばしいだろうと思った。
「術師の仕事なんて憂鬱そのものだけど、オマエらと一緒にできたら気分も全然違うだろうなぁ」
「えへへ、頑張りますね!!」
「すぐに……とは言えませんが、必ず追いつきます」
「おう」
 虎杖は眩しげに両目を細める。
 まだ若く、ともすれば幼く、新芽のような彼らを可愛いと思う。かつて世話になった記憶があるからというだけではなく、この時、この場所で、交流を重ねていくうちに芽生えた感情だ。そして好ましいと思うからこそ嫌われたくないとも思う。だから真実を話せない。しかし同時に、好ましいと思うからこそ誠実でありたいとも思った。
(今はまだ言い出せるだけの勇気が俺にはないんだけど)
 でもいつか、と虎杖は胸中で続けた。いつか、必ず、ちゃんと話そう。
「……俺も頑張るよ」
「えっ、ユウジさんが頑張っちゃったらますます僕達との差が開いちゃいますよ!!」
「ははっ、ダイジョーブダイジョーブ」
 頑張るのはそちらの意味ではないけれど、今は訂正せずに。
 虎杖は両手を伸ばして七海と灰原の頭を荒っぽく撫でた。七海は「ちょっと、あの」と戸惑い、灰原は「あははっ」と無邪気に声を上げて笑う。そうして二人の頭を散々撫で回してから虎杖は改めて学生達を交互に見やった。
「じゃ、いってきます」
 行って、無事に帰ってくる。その意味を改めて意識しつつ告げた言葉ではなかったが、虎杖に割り当てられるのは難しい案件であることを二人は覚えていたのだろう。少し気を引き締めながらも無事の帰還を約束するそれに七海は眉尻を下げ、灰原は口角を上げた。
「お気をつけて」
「いってらっしゃい!!」
 二つの声に見送られて虎杖は鳥居をくぐる。
 そうして石段を下り、振り返っても七海達の姿が見えなくなった頃。両面宿儺の指を二十本以上取り込んでいる胎(はら)の奥底がザワついた気がして、その双眸はにわかに、そして密やかに険しくなった。


「あ、甚爾が先に来てる」
 思わず虎杖が独りごちると、バイクに寄り掛かっていた男がチッと大きく舌打ちをした。
 混じりけのない闇のような黒髪に暗緑色の瞳、口元に傷がある三十路頃の男――伏黒甚爾は、整っているものの鋭さの方が先に目につく顔を歪めて「悪ィかよ」と返す。
 場所は東京都に隣接する某県の某村。待ち合わせに指定したのは山の中腹にあるすでに廃止されて久しいバス停である。バス停の看板は書かれていた文字が読めないほどに薄れ、錆びており、またバスを待つ客が座っていたであろうベンチも簡易な屋根も少し力を入れて触れれば容易く壊れてしまいそうなほど朽ちていた。
「……オマエまさか歩いて来たのか?」
 徒歩で坂を上ってきた虎杖に甚爾が信じられないものを見るような目を向ける。虎杖は苦笑し「まさか」と首を横に振った。
「途中まで補助監督の人に車で送ってもらった」
 ただしその補助監督は伏黒甚爾の生存を知る側ではないため、目的地よりも大分手前で降ろしてもらい、あとは自分の足で来たというわけだ。
 一方、甚爾の方は見て分かるとおり、彼が寄り掛かっている黒い大型バイクで走って来たのだろう。すでに死亡したことになっているため無免許運転もしくは偽造運転免許証だろうが、そこは目を瞑る。寒さのためか露出を最低限にして黒で揃えたレザーの上下が驚くほど似合っていた。ただし言えば図に乗るのは間違いないので虎杖は口を噤んだ。
 高専内に住んでいる虎杖と同じく甚爾も都内――五条が用意した隠れ家という名の普通のマンション――に住んでいるが、共に移動することはできない。ゆえにこうした手間がかかる。しかしそれを含めた諸々の手間が一切惜しいと思えない程に伏黒甚爾の能力は高く、今回は別件で手が離せない五条から直々に甚爾へ『虎杖悠仁への同行』が依頼されていたのだった。
「で、また¥@教団体関連かよ」
「まぁまぁそう顔をしかめんなって。盤星教よりは小規模だから」
 そう告げつつ虎杖はバスさえ通らなくなった道にしては驚くほど綺麗に整備されているアスファルトとその先にあるであろう目的地を見据える。この道をさらに奥へと進んだ先に問題の場所、新興宗教『光風霽月会(ふうこうせいげつかい)』の本部があるのだ。
 光風霽月会はここ数年で急速に信者を増やし、活動が活発になってきている宗教団体である。主に病気による苦境を抱えた人間が救いを求めてここを訪れ、奇跡の力≠目の当たりにして入信する。ただしその病気は呪いによるものであり、宗教施設本部に御神体として奉られている『あるモノ』の影響で、本部を訪れた人間から呪霊が離れて異常が解消されるというのが真実だった。
 またこの宗教団体の信者だったと思しき人間が複数行方不明にもなっている。呪術高専が光風霽月会を怪しんだのもこの行方不明者の多さから異常性を感じ取ったためだった。
 そして今回、虎杖に課された仕事はその光風霽月会の御神体の奪取である。
 事前に高専側の人間が入信者を装って施設に潜入し、教祖を名乗る人物が呪詛師であることと、御神体とされるモノが強い呪物の気配をまとっていることが確認されていた。高専が場所を把握していない特級呪物『両面宿儺』が御神体とされている可能性もあるため、虎杖が直接向かうこととなったのだ。
 ちなみに今回は両面宿儺の指である可能性から虎杖が出向くこととなったが、「指があるかもしれないから」という理由だけで毎回虎杖が出ているわけでもない。虎杖ではない他の術師が呪物を回収する場合もある。術師達の混乱を避けるため虎杖悠仁が両面宿儺の指を集めることを呪術界は邪魔しないという条件に関しては限定された人員しか知らされていないのだが、事情を知らない術師が指を確保した場合でも――すぐ虎杖に渡ることはないが――高専を経由して最終的には虎杖の手元に指が届けられるため『呪術師が虎杖悠仁の指の収集を邪魔する』ということにはならなかった。
「虎杖」
 甚爾が自身の乗ってきたバイクに跨り、指で後ろを示す。どうやら乗せていってくれるらしい。放り投げられたヘルメットを受け取って虎杖は「さんきゅー」と告げつつバイクの後部に手をかける。準備が良いことにあえて突っ込むのは止めておいた。
 甚爾の方もここまで来る際に使っていたヘルメットを装着する。フルフェイスのそれは顔を隠すのにもちょうど良く、都内での移動に重宝しているのだろう。
「小規模っつっても俺とオマエが組まされてる時点で相当なモンだろ。ンな面倒なことはちゃっちゃと行って終わらせるぞ。つーかアイツが来りゃ一番良かったんじゃねぇか?」
「……悟も来たがってたんだけどねぇ」
「別の仕事か」
「そういうこと。あと上が『特級二人で赴くような任務ではない』だってさ」
「つまりオマエ一人で済む仕事ってことかよ」
「そうかもしれないし、悟のサポートがない状況にしてあわよくば俺が呪詛師と相打ちしてくれたらって上は思ってんのかも」
 敵が呪霊や呪詛師であり任務中における不慮の事故で虎杖が負傷または死亡した場合、虎杖と呪術界上層部の間に交わされた縛りに抵触することはない。上層部の老人達が考えそうな手だ。だからこそ五条は甚爾に虎杖への同行を依頼したのだろう。おまけに呪力が全くない甚爾であれば虎杖のサポートとして共に戦っても残穢からその存在が他者に気づかれることはなく、老害達の目を誤魔化すにはうってつけだった。
「ふぅん」
 興味なさげに呟いて甚爾はエンジンをスタートさせる。
 ギアをローに。アクセルを回して、クラッチは半クラッチに。バイクは滑らかに走り出し、大きなエンジン音にかき消されながら甚爾が呟く。
「(その老害共、さっさと殺しておいた方が良いんじゃねぇの)」
「甚爾ーっ! 何か言った?」
「何でもねーよ!」
 エンジン音に消されないよう叫ぶ虎杖に甚爾も叫び返す。スピードが上がって虎杖が甚爾の腰に回した腕に力を入れれば、二人を乗せたバイクはさらに加速して坂を上り始めた。

     ◇

「…………………………まっず」
 指の形をした屍蝋を呑み込み、心の底から不味さを表現するかのような渋い表情でぼそりと零す男。その姿を眺めつつ、伏黒甚爾はハッと鼻で笑った。
「ゲテモノ食いもここに極まれりだな」
「ゲテモノなのは認める」
 舌を出して呻く虎杖の肌には黒い紋様が浮かび上がっていたものの、それはすぐに消えて元通りになる。
 この男が特級呪物を呑み込んでなお正気を保っている稀代の『器』であることは甚爾も再会後すぐ聞いていたが、実際に呪物を取り込む姿を見るのはこれが初めてだった。
 呪いの王と名高い『両面宿儺』の指を喰らい、今も力を増し続ける虎杖。呪術界の上層部は呪いの王の復活を恐れ、虎杖の存在を大層厭っているらしい。甚爾からすればそんな老人達の考えは「馬鹿馬鹿しい」の一言に尽きた。むしろ世にとっての害悪は利己的で保身に走ってばかりのジジイ共の方だろう、と。
 役に立たないどころか他人の足を引っ張り不幸のどん底に突き落とすのが生き甲斐のような老人達など片手間に一掃できるにもかかわらず、首を刎ねないばかりか安全を約束する縛りまで結んでやったお人好しは、未だ口の中が不快なようでくっきりと眉間に皺を寄せている。口直しが必要そうな顔だが、二人はすでに件の宗教施設を離れて人気のない山の中腹にまで戻ってきており、周囲には自販機の一つも見当たらなかった。
 今回の任務そのものは大した被害もなく、また時間もそうかからずに完了している。太陽は大分傾いているがまだ完全には沈み切っていない。実施された作戦も単純で、虎杖が呪力の気配も隠さずに陽動として真正面から施設に突入し、呪力の気配が一切無い甚爾は裏から侵入して教祖を名乗る呪詛師の身柄および指と推測される呪物を確保するというものだった。
 両面宿儺の指を複数本喰らっている虎杖は意図的に強大な呪力の気配を周囲にまき散らすことが可能である。その状態のまま施設に近づいてきた虎杖を敵が警戒しないわけもなく、呪詛師は施設内にいた信者を煽動して対虎杖用の肉壁とし、時間稼ぎをしている間に自分は呪物と共に裏から逃走しようとしていた。しかし逃走しようとした先に待っていたのは五条悟の権限で強力な呪具をいくつも持ち込んでいた伏黒甚爾。呪詛師は抵抗を試みるも、程なくして物言わぬ骸と成り果てた。
 無論、このように少人数かつ単純な作戦で事をなすことができたのは虎杖と甚爾が他者を遙かに凌ぐ実力者であったからに他ならない。
 それはさておき。
 両面宿儺の指を御神体として信者についた呪いを祓い金を集めていた呪詛師は直接的な戦闘よりも封印術に長けた者であったらしい。呪詛師は何の因果か指を見つけ、劣化していた封印の上からさらに自分で封印を施し、余計な呪霊が寄りつかない程度にまで漏れる呪力を抑えながらあくどい商売に使っていたというわけだ。
 あの宿儺の指を多少なりとも封じることができるのだから術師としての能力は相当高く、ならばいっそ高専側に寝返らせ相応の報酬で働いてもらえばいいのでは……となるもしれない。しかし呪詛師が使う封印術は生き物の命を大量に消費するタイプのものだった。それ故に強力だったと言ってもいい。
 生贄となったのは金が用意できなかった信者達。彼らは金を納める代わりに厳しい修行によって信仰心を示すという名目で施設の奥に隔離され、そのまま命も尊厳もすり潰された。窮地に陥ってペラペラと内情を喋りだした呪詛師の汚物のような言葉の数々と指を確保した後に地下で見つけた惨状の痕跡は流石の甚爾でもあえて口に出したい類のものではない。
 ともあれ黒幕は報いを受け、事後処理は別の者が行うことになっている。本物だった指もこうして無事に虎杖の胎の中に収まり、甚爾達の本日の仕事は終了した。
 宿儺に主導権を握られるという万が一の可能性に備えて虎杖が指を口にするのは人気の無い場所にしたものの、結局は杞憂であったし、加えて自販機の一つも無いとあっては逆に失敗だったかと思う。舌を出して呻く虎杖を眺めて甚爾は黒い革手袋をはめたまま、ふむ、と顎を撫でた。
 この後、虎杖は来た時と同じように甚爾の姿が見えない場所まで山を下りて高専の者の車に乗せてもらう予定となっている。両面宿儺の器たる虎杖を好意的に見る者は未だ少なく、十中八九、車中の雰囲気も良いものではないだろう。虎杖のためにコンビニかどこかに寄ったり、飲み物を差し入れたり、その程度の心遣いもあるとは思えない。それどころか虎杖がまた新たに指を呑み込んだと知ってこれまで以上に恐れ、厭う雰囲気を醸し出すかもしれない。
「……」
 二月下旬の冷たい、しかしかすかに春の訪れを予感させる風が甚爾の黒髪を揺らした。
 もうすぐ甚爾の最も慈しんだ女がいなくなってしまった季節が来る。そしてその季節は目の前の男が生まれた季節でもあった。四年前、自分は彼女と、そして生まれたばかりの息子と共に、この男の誕生日を祝うつもりでいたことを甚爾はふと思い出していた。
 だから、だろうか。大して複雑でもない事情が噛み合って甚爾は自分でもらしくないと思う言葉を吐く。
「虎杖」
「ん? なに?」
「口直しだ。メシ食いに行くぞ」
「俺の奢り? まぁいいけど……」
 過去の経験からか、虎杖は苦笑を浮かべそう返す。取り出した二つ折りの携帯電話は補助監督に送迎不要の連絡をするためだろう。
 携帯電話を操作しながら虎杖は「何食いたい?」と甚爾に訊ねる。彼の指が電話の発信ボタンを押す前に甚爾は「いや」と首を横に振った。
「今日は俺が奢ってやるよ」
「……へ?」
 思わず携帯電話を操作する指を止めてこちらを見る虎杖。琥珀色をした四白眼がぱちりと瞬いた。
「なんで?」
 心底不思議そうに問われる。
「なんででも、だ。嫌なら構わねぇが」
「いやいやいや、行くし! 嬉しいし!!」
 甚爾の気まぐれに虎杖は「アリガトウゴザイマスッ! ヨロシクオナシャスッ!」と大袈裟に謝意を告げて直角に腰を折った。虎杖の視界の外で甚爾はふっと口元を緩ませる。
 伏黒甚爾は生まれてこの方ただの一度も男に奢ったことなどない。しかし今回だけは特別だ。何せ親子三人の四年分である。胸くそ悪い仕事が終わってそれ以外は何でもない日にこうして珍しいことが起こっても別に構わないだろう。
 顔を上げた虎杖が「じゃあさ、どこ行く?」とにこやかに近寄ってくる。補助監督に迎えの車を頼むはずだった携帯電話の画面には飲食店の検索結果が表示されていた。
「とりあえず後ろに乗れ。俺が行く店にハズレがないのはオマエもよく知ってるだろ」
「そうだな! 楽しみ」
 携帯電話をポケットに仕舞った虎杖を視界に入れつつ甚爾はバイクのシート下に収めてあったヘルメットを放り投げる。受け取った虎杖はいそいそと被り、甚爾に続いてバイクを跨いだ。
 大きなエンジン音と共に黒いバイクが走り出す。
 芯を震わせるような振動は心地良く、また背後の気配は実に楽しげで、甚爾はヘルメットの下でゆるりと口の端を持ち上げた。

     ◇

「悠仁まだ帰って来てねぇの?」
「お帰り、悟。虎杖さんなら今日は外で食べてくるって連絡があったよ。あ、任務は怪我もなく無事終了だって」
 日もすっかり沈んだ頃。夏油は高専の寮に戻ってきた五条を共有スペースのソファに座ったまま出迎えつつ、己の携帯電話を軽く掲げた。
「いつの間に悠仁とアドレス交換なんてしてんだよ」
「オマエが今日みたいに任務中で邪魔しちゃ悪い時に、間接的に連絡が取れるように……だろ」
 お気に入りを横から掻っ攫われたかのように急に不機嫌になった五条へ夏油はさらりと返す。
 口を噤んだ五条は夏油の言葉に理解を示しつつもやはり気分は良くない模様。幼い子供のような態度に夏油は可笑しくなって小さく微笑んだ。
「……ンだよ」
「特に何も」頭を振って夏油は続けた。「ところで虎杖さんがわざわざ一人で外食するなんて、悟の任務が長引くと思っていたのかな」
 でなければ何だかんだで五条を最優先にして物事を考えている虎杖が寄り道をするはずもない。
「はあ? そんなわけ……」
 あんな任務楽勝に決まってんじゃねーの。
 そう続けるつもりだったであろう五条がふと何かに気づいて言葉を止める。そして。
「……ッ! まさかあのヒモ野郎!」
 叫ぶや否や帰って来たばかりの五条が学生寮を飛び出していった。よく分からないが、おそらく虎杖を迎えに行ったものと思われる。
「……悟も大変だなぁ」
 主に頭が。
 親友のよしみでそう付け加えるのはやめておいた。
「五条さんがどうかしたんですか」
「おや、七海と灰原じゃないか。午前中は任務だったのに、午後もみっちり訓練してきましたって感じだな」
「はい!! 少しでも早く強くなりたいので!!」
 五条と入れ替わりに現れたのは一年後輩の七海建人と灰原雄。二人ともジャージ姿で、所々土で汚れている。この寒い中、屋外で体術の訓練でもしていたのだろう。
 玄関で五条とすれ違った彼らは血相を変えて飛び出していった件の『最強』に少々不安を覚えつつ、しかし夏油がこうしてのんびりとしていることから大した事件ではないのかもしれないと思い直しているところだろう。ただ五条の様子はやはり気にかかるようで、「何か問題でもありましたか」と七海が代表して問いかける。
「いや、大したことじゃないんだが……」
 夏油が浮かべるのは苦笑。さて、どこまで親友の面目を保っておいてやるべきか。
 ひとまず内情は全て省いて単純な事実だけ述べておくのが良いだろうか。
「今日一人で任務に出ている虎杖さんが帰りに寄り道してまだ戻ってきてないから悟が迎えに行っただけだよ」
「イタドリ……虎杖悠仁、ですか?」
「ん? ああ、そう。その虎杖さん」
 夏油は何でもないことのように軽く答えるが、対する七海は眉間に皺を寄せ、灰原も微かだが不安そうに視線を彷徨わせていた。
「……二人とも?」
「いえ、何でもありません。では、私達はこれで。行きますよ、灰原」
「そうだね。夏油さん失礼します!!」
「あ、ああ」
 頭上に疑問符を浮かべて夏油は二人を見送る。
「……何か変なことでも言ってしまっただろうか」
 独りごちてみるものの答えが返ってくることはなく、夏油は首を傾げる。
 なお、夏油傑は後輩達が『自分達は虎杖悠仁に会ったことがなく顔も知らない』と思っていることを知らない。ゆえに去った二人がいくら上層部が呪術師として認めていようとも定められた時刻に帰還しないと五条悟が血相を変えてその身柄の確保に向かうくらい『両面宿儺の器』は危険な存在である≠ニ再認識し、忌避感を覚えていたことなど考えつきもしなかった。


<番外:七海&灰原編4>

 学年が一つ上がって四ヶ月と少し、例年であればそろそろ呪術師としての繁忙期も終わりが見え始める頃となった。しかし昨年頻発した災害に加え、今年に入っても二月に隣国で起こった株価暴落の余波や国内で三度も発生した大きな地震、七月の大型台風上陸などで呪いの活性化が収まらず、一般の術師どころか教師や学生達でさえ忙しくしている。特級を冠した三年生は単独での任務が増え、まだ二年生である七海建人と灰原雄もたった二人で難易度の高い任務に赴くようになっていた。
 二人が慕うユウジさん≠ニ顔を合わせる機会も激減し、高専の敷地内で偶然出会った五条に話を聞けば、彼の青年も任務で忙しくしていると不機嫌顔で教えられた。どうやらあの五条ですら満足に青年と顔を合わせていないらしい。「ジジイ共め、悠仁に遠出ばかりさせやがって」と、目の前に上層部の老人達がいればそのまま射殺しそうな鋭い眼光で空中を睨みつける始末である。一つの任務が終わると高専に帰還せずそのまま別の任務に就くこともあるようで、「俺が帰ってきてても悠仁がいないんじゃ意味ねぇじゃん! つか俺が悠仁と会えてないのにあのヒモは……っ」と、呪術師最強たる一つ上の先輩は悔しそうに唇を噛み締めていた。なお、七海も灰原も後半の台詞の意味は理解できなかったが、訊ねられる雰囲気でもなかったため疑問は疑問のままである。
 ともあれ忙しい日々が続く中、二年生の灰原は次の任務に出発する前に尊敬する先輩へ挨拶しに行こうと、高専の裏口に近い建物内を歩いていた。
 探しているのは三年生の夏油傑。つい先程彼が任務を終えて帰って来たことを夏油の送迎を担当していた補助監督に偶然出会って教えてもらったのだ。
 夏油も連日の任務で疲れているだろうから長話はできないが、きっと少し顔を見るだけでも任務前のこの身に気合いが入るはず。
 そう考える灰原が明日七海と共に赴くのは遠出となる二級呪霊の祓除である。等級としては対処できると定められているが――『二級術師は二級呪霊に勝てる』というやつだ――、それは見方を変えれば、気を抜いたり条件が悪かったりすれば負ける可能性もあるということ。無論そのような弱音をあからさまに夏油に吐くつもりもないが、世間話や土産は何がいいか訊きに来たという体で尊敬する先輩と言葉を交わし、臆する自分に気合いを入れて最高のコンディションで任務に挑みたかった。
「ユウジさんとも会えれば良かったんだけど……」
 リノリウムの廊下を歩みながら灰原は独りごちる。
 彼に会えれば自分だけでなく七海も気合いが入っただろう。しかしユウジさん≠ェいつ高専に戻ってきているのか補助監督達に訊ねてもはぐらかされるばかりで、灰原が正確な情報を仕入れることはできなかった。
 灰原と七海にとってユウジという名の青年は『信頼できる大人』と言えるだろう。共有した時間は然程多くもないが、それでも二人から見た彼の青年は天に絶えず存在する太陽のような、日向に咲く大きな花のような、明るく朗らかなイメージを抱かせる人間だった。
 術師として優れた者はそれなりにいるが、共にいるだけで心が温かくなるような存在はこの呪術界において稀である。人々の負の感情から生まれる呪いを相手取る以上、どう足掻いてもこの業界は陰惨で、暗く、じめじめした空気が漂ってしまう。それに触れる術師達も同様の気配をまとう者が多いのだが、あの青年は呪術界の澱みを取り払ってくれるかのような明るさを持っていた。悲惨な現場に立ち会った後でも彼に会えれば心が軽くなる。ほっと一息つき、肩から力を抜いて、ああ帰ってこられたのだと小さな幸せを噛み締めることができた。
 また青年が戦っているところを灰原達は直接見たことがないものの、幼少期の五条悟の護衛を担っていたという事実から相当な実力者であることに違いはなく、ゆえに同じ術師として憧れる気持ちも強い。今でも単独で難度の高い任務を任されていることから、少なくとも灰原達の一つ上にいる特級の二人に近い実力であるのは確実だった。特級ではないにしろ、一級または特別一級である可能性が高い。
(今度会ったら聞いてみようかな。ってか僕達まだユウジさんのフルネームすら知らないじゃん。よし、こっちも教えてもらおう!!)
 必要がなかったために今まで気にしていなかったが、そう言えばそうだったと思い至って灰原はぐっと拳を握り締めた。わざわざ遭遇頻度の低い当人に会えるのを待たずとも先輩達に訊ねればすぐ教えてもらえただろうが、やはりその辺は本人から聞いてこそ、という思いがある。
 次に会えた時の楽しみがまた一つ増えたと胸中で呟く灰原。その足が目的地の手前まで止まった。
 目の前の角を曲がればシャワー室の手前に設けられた休憩スペースだ。しかし自販機が稼働する音に加え、誰かの話し声も聞こえる。
「もう少…………ずに、…………に、頑張って………………ます。………………も、生き様………………ように」
(……夏油さん?)
 声の主は灰原が探していた人物であるようだった。相手は誰だろうと思った直後、「おう!」と元気に肯定するもう一人の声が耳に届く。灰原は目を見開き、自身の幸運にその瞳を輝かせた。
(ユウジさんもいる!!)
 まさか会いたかった人物が二人とも揃っているなんて、と灰原は喜び勇んでその空間に足を踏み入れ、

「ありがとうございます、虎杖さん」

 夏油の台詞に、ガタンッと壁に肩をぶつけながら後退った。

     ◇

 目が回るような忙しさとはこういうことを言うのだろうと思いながら虎杖はまた一つ任務を片づけて高専に帰還した。高専に寝に帰ることもできず次の任務に就くこともあるのだが、今回は幸いにも一日休みを取れる予定となっている。
 非友好的ではあるものの仕事はきっちりこなすタイプであるらしい補助監督が車を止めたのは高専の正門側ではなく裏口の方。高専がある山の中にトンネルが通っており、そこを半ばまで進むと高専の施設の一つに通じる扉が設けられているのだ。
 階段を上らねばならない正門側と違ってこちらは出入り口の近くに車を止めることができる。また任務での汚れをすぐに落とせるよう、扉をくぐって少し行ったところにシャワールームまで用意されていた。なお、この出入り口は自分の足で高専に帰還できなかった者≠熬ハることがあるため、死体安置所や病理解剖を行う剖検室も近くに併設されている。
 車から降りた虎杖はさっさと走り去るエンジン音を背中で聞きながら自らの足でその扉をくぐった。四角い硝子がはまった木製の引き戸は和風だが、一歩中に踏み込むとリノリウムの廊下が延びている。虎杖が慣れた足取りで廊下を進むと、やがて人工の明かりではなく窓から差す太陽光によって周囲が明るくなり始めた。
 虎杖が足を止めたのはシャワールームの手前にある休憩室。壁に沿って設けられたL字型のベンチと自販機があるだけの空間は風呂上がりの身体を冷ますためのもので、これからシャワーを使おうとしている虎杖が止まる場所ではない。しかしその部屋には先客がいた。まだ少し髪が湿っている先客を視界に入れて虎杖は「よっ」と親しげに片手を挙げる。
「夏油も任務から帰って来たところ?」
「虎杖さん……。ええ、そうです。虎杖さんもお帰りなさい」
「ただいま」
 先客こと夏油傑はどこか疲れた様子でベンチに腰掛けていた。ただし彼が抱えている疲労は大部分が肉体的ではなく精神的なものであるようにも見える。
 特級術師となった夏油にとって困難な任務は然程多くない。ただし虎杖が一年弱見てきたところ夏油は根が非常に真面目だ。加えて中学までは一般人として生きていた。そんな彼にとって人間の醜いところを直視せねばならない術師の仕事そのものが多大なストレスを伴うであろうことは想像に難くなかった。
 同じ年齢、同じ特級でも五条悟は生まれた時から呪術界に身を置いており、切り捨てることも切り替えることも知っている。また一般人出身の虎杖の方も年齢を重ねた分だけ割り切るということを覚えたし、幾度も迷いながら出した自分なりの結論というものがあった。しかし夏油にはまだそれが無い。若さと境遇に見合わぬ重荷を背負わされ、今の夏油はどこか思い詰めたような雰囲気さえ醸し出していた。
 忙しくなければ五条や家入が気づけたかもしれない。担任の夜蛾も気づいたかもしれない。しかし昨年から頻発する災害等の所為で呪霊の発生が例年より多い今年は彼らが顔を合わせる充分な時間すら確保させてくれなかった。
(俺が気づけたのは偶々か)
 挨拶の後、視線を下げてしまった夏油の頭部を見やって虎杖は胸中で呟く。
 偶々任務が終わった直後の何とか汚れを落としたばかりで外面を取り繕っていなかった姿を見かけたからこそ気づけた夏油傑の変化。彼が一人で乗り越えられることを信じて何も知らない顔のまま通り過ぎることも可能だったが、虎杖は一人分のスペースを空けて夏油の隣に座った。その気配とベンチのきしみで再び夏油が顔を上げる。
「……私に、何かご用でしたか」
「んー。まぁ用事って程でもないんだけどさ」
 何から話そうか。どこから切り出そうか。
 デリケートな話題に触れるからこそ虎杖は少し考えて口を開いた。
「少し、顔色が悪いな。疲れた?」
「ええ……まあ。このところずっと忙しいですから」
「悟もオマエも出突っ張りだもんなぁ。俺もそこそこ」
「そう言えばこの前、悟がアナタに会えないと盛大に駄々を捏ねてましたよ。私はその後すぐ任務だったので構ってやれませんでしたけど」
「一応電話はしてるし、時間が取れた時は一緒にいるようにしてんだけど」
「足りないってことでしょう」
「そっか。でも状況が落ち着くまでもうしばらくかかりそうだよな」
「ですね。七海と灰原も忙しくしています。流石に一年生までは動員していないようで……いえ、引率に教師を一人つけるくらいならその教師一人で難度の高い任務をやってもらった方が効率が良いというだけの話ですか」
「うわ。そこまで手が回らんとか」
「これで忙しさにかまけて呪霊の等級を見誤ったら最悪ですよ。一級以上なら何とかするでしょうが、学生は……」
「特に七海と灰原だよな。あ、でも夏油自身も気をつけろよ? いつ何が起こるか分からんし」
「ええ、肝に銘じておきます」
「肝に銘じるだけじゃなくてさ。さっきもちょっと言ったけど、ちゃんと鏡見て自分の顔色の悪さ自覚してほしいんだよね」
「……そんなに体調悪そうな顔してますか?」
 自覚がなかったのか、それとも自覚した上で誤魔化すつもりなのか、夏油が困ったように眉尻を下げた。虎杖は「かなり」と首肯する。
「確かオマエが使う呪霊操術って呪いを呑み込んで使役するんだっけ」
「ええ」
「俺も呪霊じゃなくて呪物……ってか、宿儺の指だけど、呪いを口に入れてるじゃん。あれ、クソ不味くていつも嫌なんだよ。だけど俺は生きてる間に多くて二十本。夏油はさ、下手したら任務のたびに食べなきゃいけないんだろ? ぶっちゃけ想像するだけで尊敬の念しかない」
「私としては特級呪物を一つ口にするだけでも充分凄いと思いますけど……」ぱちりと目を瞬かせて夏油が告げた。「ですが、そうですね。アナタも呪いを口にしているんでした」
「えっ、その辺って術師としては結構気にしてるところじゃねーの? 自分で言うのもなんだけど、俺、両面宿儺の器だよ?」
「悟に感化されたのかもしれません」
 いつの間にか呪いの王の受肉体としてではなく、すっかり虎杖悠仁として見ていたようだ。そう告げる夏油の顔には淡い笑みが浮かんでいる。
「ついでに言えば同じ呪いの不味さを知っている仲間として親近感も湧いてきました」
「ははっ、確かに! 流石に悟も呪いのクソ不味さまでは分かってくれねぇしな」
「思い出すだけでも吐きそうになりますよ。吐瀉物を処理した雑巾を丸飲みしているようなあの味……」
「分かる! まぁ実際に雑巾を丸飲みどころか口に入れたこともないんだけどさ、まさしくそんな味するわ」
 虎杖が同意すると夏油が浮かべた笑みはますます柔らかくなった。彼のこの苦痛を理解できる者は今まで一人もいなかったのだろう。虎杖の方も夏油傑という存在を除いて呪いの味を知る他人になど出会ったことがなかった。
 同種の苦しみを知る者には多かれ少なかれ親近感というものが湧く。それは夏油が先程言ったとおりだ。だからこそなのか、共通項を見出したことで虎杖への親近感を増した夏油はその顔から笑みを消して、代わりに言うのを躊躇うかの如く唇を小さく震わせた。
「……夏油?」
「虎杖、さんは……」
 一拍置いて、彼は告げる。

「どうしてこんな辛い思いをしてまで術師として人を助けているんだろうって思うことはありますか」

 夏油の言う『辛いこと』とは何も呪いの味だけを示しているのではあるまい。そしてこれこそ夏油が抱える疲労の最大要因なのだろう。否、彼が抱える苦悩そのものと言った方が適切か。
 呪術師の仕事はあまりにも過酷だ。時には仲間に死を強いることさえある。それほどまでに己や己の大切なものを捧げて守るのは呪いへの耐性がない一般人。非術師と呼ばれる彼らはその身から湧き出る負の感情によって呪いを生み出し続けている。
 術師という強者だからこそ非術師という弱者を守らねばならないという高潔な意志で己を奮い立たせる者もいるだろう。莫大な報酬のためにその身を賭す者もいるだろう。虎杖の過去の知り合いには全てを助けるのではなく、自分自身が助けたいと――助ける価値があると――思った相手を守るために力を揮う男もいた。
 そのどれもが虎杖は間違っていると思わない。それぞれ正しい考えなのだ。その上で虎杖自身はこう考えている。
「辛いし、怖いし、なんで俺がって思うことなんていっぱいあったよ。でもそこで逃げたら後悔すんのが分かりきってたから」
 特級呪物の器としての特性を持つ自分。そんなことは関係ないと呪術界から遠ざかるという選択肢もあった。しかしもしそうやって何気ない日常に戻ったとして、自分が誰かの命を救えることを知ってしまったまま本当の意味で『これまでどおり』に戻れるはずがない。ふとした瞬間に、自分が呪術師として生きなくなった所為で今もどこかで誰かが呪いにより不幸な目に遭っているかもしれないと思う。その度に「俺には関係ない」「俺の所為じゃない」と言い聞かせるなんてまっぴらゴメンだった。
 かつて学長だった夜蛾に語り、そしてそこから年齢を重ねて経験を積んだ分だけ深みを増した考えを虎杖は淡々と口にする。
「俺はね、夏油。高尚な意志も持ってないし、金が欲しくてたまらないわけでもない。大切な奴だけ助けようって思い切れるわけでもない。でも、」
 夏油の黒い瞳が真っ直ぐに虎杖へと向かっていた。
 それを正面から見返して、告げる。

「生き様で後悔はしたくない。だから今までもこれからも俺は人を助けるよ」

 虎杖の言葉に夏油がひゅっと小さく息を呑む。自身の声音が無意識に固くなっていたことに気づいた虎杖はそれを崩して「参考になった?」と微笑みかけた。
「別に、夏油に俺と同じ考えになってほしいわけじゃない。夏油には夏油の考えがあるはずだ。今は迷っていても、考え続ければいつか答えは出せるって。その結果が術師を続けることになるのか、辞めることになるのかは分からんけど。あ、もしかしたら一度術師を辞めてまた出戻ってくるかも」
「……まるでそういう人を知っているかのような口ぶりですね」
 夏油の質問に虎杖はフッと口の端を持ち上げるだけ。きっとその答えは夏油にとって然程重要ではないだろうから。
「ですが、まぁ」
 虎杖が答えないでいると、やがて夏油は諦めたように肩をすくめた。その姿からは少し無駄な力が抜けたようにも感じられる。
「もう少し絶望せずに、見限らずに、頑張ってみたいと思います。……少なくとも、生き様で後悔しないように」
 黒瞳が優しげに細められた。
 虎杖が「おう!」と答えれば、夏油の笑みはさらに優しくなって、
「ありがとうございます、虎杖さん」
 そう告げた直後、ガタンッと第三者が驚き後退る音が聞こえた。

     ◇

 虎杖悠仁。
 それは昨今の呪術界において非常に重要な意味を持つ名前だ。その名前の持ち主は特級呪物『両面宿儺』を取り込んだ器であると共に、本来なら規定により死刑になるはずであるにもかかわらず呪術師として活動している異例中の異例。術師の中には彼の存在を人間とさえ認めていない者も多くいる。
 だが多くの術師が恐れ厭っていようとも、実際に表立って虎杖悠仁に危害を加えようと行動を起こす者は今のところ出ていない。上層部と虎杖悠仁との間で互いに相手を害さないという縛りを結んだからというのが主な理由だが、そもそも呪術師最強たる五条悟ですら敵わない相手に死ぬと分かっていて容易く武器を向けられるほど呪術師達は生きることへの執着を捨て去っていなかった。
 勝機があるなら立ち向かう者もいただろう。しかし犬死にするのが確実な状況で飛び込んでいくなら、それはただの自殺志願者だ。
 つまるところ多くの術師が虎杖悠仁を強大な化け物として見ていた。自ら関わりたいとは思わないし、自分の大切な人にも関わってほしくないと思っている。灰原と七海もその例に漏れず、自分達の先輩の一人がどうやら化け物と知り合いであるらしいと知っていても当人に関係性を詳しく訊ねたりどのような容姿をしているのか調べたりはしなかった。
 ――知らない。知りたくもない。関与したくない。だって、恐ろしいから。
 敵を倒すには敵を知らねばならないが、倒せない、倒す気すら起こらない敵を知っても恐怖で気が狂いそうになるだけ。ゆえに灰原達は自ら動こうと思わなかったし、結果として他の術師よりもずっと『虎杖悠仁』の近くにいたはずなのにそれを知ることがなかった。
 けれど。
「……ッ」
「灰原?」
 後退って背中を壁にぶつけた灰原。それを見つめるのは二対の瞳。
 一方は驚愕に見開かれ、もう一方は普段どおりの穏やかさをまとっている。対照的な二人の態度の理由を今の灰原が冷静に考察することはできない。ただただ目の前に差し出された『事実』の存在に全身が強ばる。
 その意識のほとんどが驚愕した方――明るい色の髪と琥珀色の瞳を持つ青年へと向かっていた。ほんの少し前までは好意しか抱いていなかった相手だ。しかし今の灰原が青年に向けるのは一挙手一投足に対する警戒と、
「アナタが……虎杖、悠仁?」
 最大級の恐怖心。
 震える唇で呟けば、青年もとい特級呪物『両面宿儺』の器が「……うん」と僅かな躊躇の後に首肯した。
 そんな虎杖を前にした灰原の胸中には「どうして教えてくれなかったのか」だとか「騙されてオマエに懐く自分達を見るのはそんなに愉快だったのか」などという疑問は生憎ながら湧いてこない。怒りが混じった疑問よりも目の前にいる絶対的な強者への恐怖心の方が遙かに勝っていたためだ。
「あの、黙ってたのは――」
「っ」
 虎杖がベンチから腰を上げて灰原へ近づこうとする。だが灰原は小さく喉を引きつらせてさらに一歩後ろへ下がった。
「二人とも一体何をやって……」夏油が困惑した表情で続ける。「それに灰原、今更虎杖さんの名前を確認して一体どうしたんだ?」
 夏油が放った問いかけは『灰原雄はすでに虎杖悠仁のフルネームを知っている』という前提の上に成り立っていた。しかし過去に一度、灰原と七海は虎杖の名を知る機会を得たものの、七海が漏らしたある一言をきっかけにはぐらかされている。そして当時同じ場所にいて『虎杖が言えなかった理由』を目撃していた五条と家入はそれ以降二人の下級生の前でわざわざ虎杖の名字を明かそうとはしなかった。あの時あの場に居合わせていなかった夏油だけが虎杖、灰原、七海の事情を知らなかったのである。
 夏油の問いかけに灰原はそちらを一瞥し「夏油さんも知っていたんですか。……まぁ当然ですよね」と唇を歪ませた。すぐ傍にいる存在への恐怖は一切薄れないまま、尊敬する先輩が化け物の隣で平然としている奇怪さに思わず笑いが漏れてしまった形だった。
 灰原の反応に夏油はさらに困惑を深める。
「夏油」
 そんな夏油の名を硬い声で呼んだのはベンチから立ち上がったままだった虎杖。すぐ傍にある青年の背を見上げて夏油が「虎杖さん……?」と不思議そうに呟く。
 虎杖の顔は灰原の方を向いていた。しかし灰原は一度夏油に向けた視線を虎杖へ戻すことができないでいる。単純に、ただひたすらに、虎杖悠仁という呪術界の化け物が恐ろしかったからだ。正直なところ、今すぐここから逃げ出したい。しかし逃げるために背を向けた途端自分がどうなってしまうのかを考えると、恐ろしくて踵を返すことさえできなかった。
「……」
 身体を強ばらせたまま頑なに目を合わそうとしない灰原の態度に虎杖はようやく琥珀色の双眸をその瞼の下に隠した。目を閉じた彼は「あのな、夏油。灰原は何もおかしくないんだ」と言葉を続ける。
「コイツがこんな反応するのは当然なんだよ。俺は灰原と七海に自分が両面宿儺の器『虎杖悠仁』だって教えてなかったんだから」
「…………ぇ」
 夏油の両目が大きく見開かれる。頭の良い彼はきっとすぐさま自分の発言がこの状況の引き金を引いたのだと気づいてしまったことだろう。
「私が――」
「違うよ、夏油。オマエの所為じゃない」
 振り返った虎杖が夏油にどのような表情を見せたのか灰原には分からない。ただそれを目にした夏油は眉間に皺を寄せ、顔をうつむかせた。
 夏油の後頭部を一瞥した虎杖は次いで視線を灰原へと戻す。当然、目が合うことはなく、灰原は虎杖からの視線を感じつつもうつむいた夏油の顔から視線を外すことができないでいた。そんな灰原の耳に「灰原」と虎杖の声が届く。
「怖がらせてごめんな。信じてもらえねーかもしんないけど、俺、灰原達とはもっと仲良くなりたいと思ってたんだ」
「……」
 その言葉は事実かもしれない。だが事実であると証明されることもない。灰原にとって目の前に提示されている事実はただ一つ、青年が両面宿儺の器であるということのみ。
 何も答えず目も合わせない灰原に虎杖はもう一度「ごめんな」と告げて一歩前に踏み出した。相手からの接近に灰原の肩が跳ねる。が、その傍らを虎杖は無言で通り過ぎた。
「虎杖さん!」気づいた夏油が顔を上げ、虎杖の背を追う。「……っ、灰原、この件はまた後で話し合おう! 待ってください、虎杖さん!」
 二人分の足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。残った灰原は細く長い息を吐き、頭を抱えてその場にうずくまる。
「…………おかしいよ」
 誰が。何が。どこが。どのように。
 自分自身ですら明確に分からないままそう呟いて灰原はくしゃりと黒髪を掻き乱した。


<番外:七海&灰原編5>

 建物の外に出て足を止めると、数歩後ろをついてきていた足音も止まる。
 振り返った先には眉根を寄せて苦しげな表情を浮かべる夏油。何も悪くない彼にこんな顔をさせてしまったことを悔いながら虎杖は苦く笑った。
「オマエの所為じゃないんだ。全部俺の自業自得」
 臆病風に吹かれて本当のことを告げるのを先延ばしにした結果がこれだ。しかも灰原に必要以上の恐怖を与えるだけでなく、夏油にも傷をつけてしまった。
「夏油、オマエにも謝らせてくれ。本当にゴメン」
 そう言って虎杖は頭を下げる。「……っ」と夏油からは狼狽える気配。
「頭を上げてください。私の発言の所為でこのタイミングに灰原が知ってしまったのは事実です」
 本当に夏油は真面目だし、それに優しい。顔を上げて彼の申し訳なさそうな表情を見つめながら虎杖は思った。
 ただそれでも夏油を責めることはできない。原因は全て己にある。どうすればそれを分かってもらえるだろうかと考えるが、きっとこちらが何を言っても夏油の曇った表情を晴らすことはできないのだろうということも分かっていた。
 どうにかするには時間をかけて風化するのを待つか、それとも――。
(灰原達ともう一度話せるようになるか)
 しかし虎杖の脳裏に先刻の恐怖による拒絶の表情がよみがえる。
 どうして教えなかったのかとなじる気力さえなく、ただひたすらに身体を強ばらせていた灰原。あれが一般的な術師の反応だと頭では分かっているのに、心臓の辺りが痛くて苦しくてたまらなかった。もう一度あれと向き合う覚悟が今の己にはあるのだろうか。
「……夏油」
「はい」
「悪いけど一人にしてくんねぇかな」
「…………はい」
 灰原と、それに灰原から話を聞かされるであろう七海と。二人の恐怖に強ばった表情に正面から向き合う気力はまだ用意できない。情けないにも程があるが、それが事実だ。よく懐いてくれていた灰原、一度受け入れてくれた姿≠知っている七海、どちらも虎杖にとっては大切な人であったが故に。
 夏油は何か言いたげだったが、やはり自分に責があると思っているためだろう。虎杖の物言いが突き放すようなものになってしまったにもかかわらず、短い返答と共に頷いた。
 その声と視線を背で受けながら虎杖は歩みを再開させる。夏油はついてこなかった。

     ◇

「浮かない顔ですね。夏油さんには会えなかったんですか?」
 衝撃的な事実を知った翌日の早朝。灰原が重い足取りで待ち合わせ場所に向かうと、補助監督が駐車した車の傍らに立つ七海がかすかに眉を顰(ひそ)めてそう訊ねた。
「……それにしては酷すぎる顔色ですが」
「そう……かな」
 灰原は頬を掻く。自覚はこれ以上ないくらいにあった。
 ほとんど眠れずに朝を迎え、洗面台の前に立った己の顔色はとんでもなく悪かった。目の下にはくっきりと隈が浮かび、全体的に覇気がない。自他共に認めるほど普段の振る舞いが明るいので、ギャップがとんでもないことになっている。
 七海が運転席で待つ補助監督を一瞥した後、灰原の元へ歩み寄ってきた。声を潜めれば二人以外に聞き取られない距離だ。そこまで近寄って七海は「何かありましたか」と灰原に問う。
 プライベートなことであれば補助監督に聞かれるのもあまり良くないと判断してのことだろう。友人のそんな気遣いにほんの少し心が軽くなるのを感じながら、しかし灰原はまだまだ重く苦い感情を抱えてどう告げるべきか逡巡する。
「私が聞いてはいけないことでしたら無理に聞きません。しかしその状態のまま任務に赴くこともまた私は許容できません」
 迷う灰原に七海はきっぱりと告げた。
 彼の言うとおり、このまま任務に赴いたとしても灰原は充分な力を発揮できないだろう。それはイコールで命の危機となる。
(でも)
 灰原は視線を地面に落とした。
 任務に赴くのであればこの不調は何としてでも解消しなくてはならない。しかし、もしあの事実≠告げたとして、自分の不調は僅かでも回復するだろうか。むしろ七海まで自分と同じ所まで落ちてしまわないだろうか。――否、七海の方が精神的なダメージは大きくなるかもしれない。
 他人から一歩引いた冷静で理性的な七海は大人どころか同年代から見てもとっつきにくいと思われることが多い。灰原のように尊敬の念を持つ者の方が少数派だ。にもかかわらずユウジさん≠ヘ七海を良く構い、七海もまたそれに応えていた。きっと七海にとってユウジさん≠ヘかなり特別な位置にいる人間となっていたことだろう。信頼し、信用し、尊敬できる相手だったに違いない。
(そんな七海に教えるのか? ……ユウジさんが両面宿儺の器だったって)
「灰原、黙っていては分かりませんよ」
 沈黙を続ける灰原に七海の口調が少し強いものになる。その声に含まれるのが苛立ちではなく心配だと知っているからこそ灰原は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「灰ば――」
「七海」
「……何ですか」
 呼びかけを遮った灰原に七海は怒るでもなく先を促す。
 灰原は視線を未だ上げられないまま深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
「もし親しくしていた人に思いもよらない秘密があったとしたらどうする」
「……秘密の内容にもよりますね」
 脈絡のない問いかけだと感じたに違いないが、七海は一瞬の戸惑いの後にそう返す。
「その秘密はとても恐ろしいもので、僕達の命を脅かすかもしれないもの……と、仮定したら?」
「ふむ……。命を脅かすというのは避けて通れないものですか」
「わからないよ」灰原はふるふると頭を振った。「でも、大多数の人が恐ろしいと感じる。死ぬかもしれないって恐怖に囚われる。……誰も彼もが五条さんや夏油さんのように強くはないから」
 上層部との間に結んだ縛りによって虎杖悠仁は術師を含む人間に危害を加えることは原則として不可能となっているらしい。だが我が身に何らかの反動があることと呪術界から攻撃されることを許容すればその縛りは破ることができるものだ。そうなった時、灰原のような学生に打つ手はない。特級を冠する五条や夏油でなければおそらく手も足も出ないだろう。その特級の二人でさえ、協力して戦っても両面宿儺の器に勝てるかどうか確証はない。
 おまけに五条も夏油も――特に前者が――虎杖悠仁とは非常に親密な関係を築いている。灰原からすれば最強の二人でさえアチラ側≠セった。
 どうして先輩達は両面宿儺の器である青年と親しくできるのだろう。欠片も恐ろしくはないのだろうか。強いから、抵抗できると思っているから、灰原のようにはならないのだろうか。
「灰原」
 生き物としての純粋な恐怖。加えて、慕っていた人が自分とは違う立場にいるという孤独感。それらで今にも頭を抱えてうずくまりそうになる灰原の名を七海が呼んだ。
「アナタを苦しめているのは命を脅かされるかもしれないという恐怖ですか」
「うん」
「おまけに普段であれば頼りになる人が、その件に関しては頼りにできない?」
「……そう、だよ」
 肯定しながら灰原はのろのろと顔を上げる。いつもの気難しげな美貌が灰原を見つめていた。
「七海は……七海はきっと、僕と同じ側」
「つまりアナタは、アナタを苦しめている事実を私が知れば、私もまた同じように苦しむだろうと思っているんですね」
 頷く代わりに力なく眉尻を下げれば、七海は「はあ」と大きく溜息を吐いた。
「見くびらないでください」
 淡い色彩の髪と同じ色の瞳が真っ直ぐに灰原を射貫く。
「たとえアナタの心配が現実のものになったとしても、アナタ一人に苦しみを抱え込ませて今日の任務に赴けるほど私は冷たい人間ではないつもりですよ」
「なな、み」
 つんと鼻の奥が痛み、視界が滲む。
 相手のためだと理由をつけて彼に隠し事をするなんてできない。したくない。そんな相手を見くびったかのような真似は、七海建人に対して失礼だ。
 本当にこの友人は凄い人だと思いながら灰原は拳を握る。
 そして。
「――あのさ、実は」
 自分が知ってしまった真実を打ち明けた。

     ◇

 時間は少し遡る。
 灰原が意図せず知ってしまった真実を七海に打ち明ける前、虎杖が物言いたげな夏油と別れて一人自室に戻った日の夜のこと。
 任務で遠地へと出張していた五条悟は今夜も会えぬ人にせめてその声だけでも聞きたいと、慣れた手つきで携帯電話を操作していた。
 待つことコール数回。ビジネスホテルのベッドの上ではやる気持ちを抑え切れずに口元を緩ませていた五条は『……悟?』と相手からの第一声が耳に届いた瞬間、大切な人の異常に気づいて眉根を寄せた。
「どうしたの、悠仁。何か嫌なことでもあった?」
『こっちが名前呼んだだけで気づいちゃう?』
「俺が気づかないわけないじゃん。むしろなんで気づかれないと思った?」
 てか悠仁今どこ? 高専に戻ってる? だったら俺、今すぐそっち行こうか? ――と、五条は矢継ぎ早に問いかける。すでに半分ほどベッドから腰が浮いていた。しかし電話の向こうの相手は『わざわざトんで来なくていいから。真面目に仕事しなさい』と一刀両断。詳細も知らぬまま無理に高専へ戻れば虎杖の顰蹙(ひんしゅく)を買ってしまうのが確実となり、五条はベッドの上に座り直した。
「言われたとおり真面目に仕事するからさ、何があったか話してくれる?」
『……』
「ゆーじ?」
 沈黙を責めるように、しかしはっきりと甘さを残して、五条は電話の向こうにいる相手の名を呼ぶ。
「話してくれなきゃ何があったか気になって任務中にミスるかもしんないんだけど」
『その言い方ズルくないか?』
「五条悟ならミスっても任務完了させてへらへらしながら無傷で帰ってくるだろ≠チて言わない辺り、悠仁って優しいよね」
『オマエなぁ』
 言うわけないじゃん、と虎杖は小さく付け足して、電話越しに溜息を吐いた。
『悟が自他共に認める術師最強なのは事実だけど、だからって心配しないわけないでしょーが』
「ふふっ。悠仁のそういうとこ好きだよ」
『ありがとさん』
「だからさ、話してくれる?」
『何がだからさ≠ネのか理解できねぇんだけど……』僅かな間を置いて虎杖が続ける。『俺もちょっと混乱してるってか、しんどい、かも。聞いてくれる?』
「うん、聞くよ」
 声のトーンが落ちた虎杖に五条はゆっくりと、穏やかに、努めて優しくそう返した。やっぱり今すぐ高専に戻って彼の身体を抱き締めてやりたいと思いながら。


「なるほどね。傑やっちまった案件だけど、まぁいつかはこうなってたって感じでもある」
 本日虎杖の周囲で起こった出来事を本人の口から一通り聞き終えて五条はそう零した。
『言っとくけど夏油は何も悪くないからな』
「分かってるって。傑を悪者にするなら、七海達が悠仁イコール器って知らないのを知ってたのに一切訂正しなかった俺と硝子も悪者じゃん。悠仁そういうの嫌だろ」
『それ分かってるって言っていいやつ?』
「言っていいやつ。ってか、単純に物事の重なり方が悪くて嫌な結果が出ちゃっただけじゃん。……だから悠仁も自業自得だって締めくくるなよ」
『――っ』
 痛いところを突かれた、とそう思っているのが呼吸だけで伝わってくる。やはりそうかと五条はひっそり溜息を吐いた。
 今回の件は誰の悪意も絡んでいない偶然による産物だ。虎杖がさっさと七海達に明かしておかなかったからと理由をつけられなくもないが、もしそうであったとしても今と大した違いはなかっただろう。
 虎杖は最初から七海達に対して好意的であったから傷の深さはあまり変わらない。そして七海と灰原は虎杖と仲良くなる前に事実を知っていた方が傷も浅くて済んだかもしれないが、五条にとってそれは重要なことではないので、結果として大した違いはない≠ニいうことになる。
 後輩達が可愛いのは事実だが、五条にとって最も優先すべきは虎杖悠仁のこと。昔からそれは変わらない。
 ゆえに五条は沈黙した虎杖へ語りかける。
「大事なのはこっからだろ」
『……こっから?』
「そう」
 七海や灰原が虎杖を恐れたとしてもそれは仕方のないことだ。『普通』の術師はそうする。五条も実体験として良く理解していた。虎杖悠仁を恐れる者達しかり、五条悟を恐れる呪術師や呪詛師しかり。自分や、己とセットで最強≠ナある夏油、それに高専で共に過ごしてきたもう一人の級友である家入、担任の夜蛾が異例なのだ。
 しかしそれでは虎杖の心が晴れない。限られた人達にのみ受け入れられ、その他大勢――自分が慈しんだ人間を含む――から厭われ恐れられる状況の中では虎杖悠仁が心から笑えることなどないだろう。
「ここから、この状況から、悠仁は一体どうしたい?」
 虎杖にとって好ましい状況にするために五条は本人へ発破をかける。
「灰原達に宿儺の器だって知られて、それで距離を置かれて、仕方がないって諦めんの? 違うだろ。悠仁はそんな所で止まる奴じゃないはずだ。もっと自由に、やりたいようにやりなよ。俺は全力で悠仁を支持するから」
 悠仁が黙って聞いているのを良いことに「それに」と五条は続ける。
「どっちも一般家庭の出なのは知ってる? 昔から呪術に関わってきた家と違って、呪いに対する恐怖は持っていてもそれは多くが実体験によって形成されたものだ。古くからの言い伝えや偏見なんかにはまだまだ染まりきっていないはず。特に七海はあの年齢で結構なリアリストだからさ、同年代より『現実』や『事実』に目を向けやすい。あと、七海とは大分性質が違うけど、灰原は灰原で懐が深いって言うか人当たりが良い? おおらか? とりあえず性格が良い。呪術師とは思えないくらいにな。そんな二人だから、難しいことは考えず正面からぶつかっていくだけで案外解決できるかもよ」
『……本当に今の状況を何とかできると思う?』
「俺はできないことをやれって言うつもりはない」
 虎杖に告げた言葉は単なる慰めでも希望的観測でもない。現実を見据えて熟考した上での予測だ。虎杖悠仁≠全く知らない術師であれば、虎杖からの働きかけですぐに何かが変わる可能性は低い。しかし七海と灰原はすでに虎杖と関わっている。彼と言葉を交わし、彼の為人を知った。勝率は高い、と五条は胸中で呟く。
 それでも可能性が百パーセントではないからか、もしくはたとえ虎杖悠仁が望む展開にならなかったとしても、彼が自分の傍にいることは変わらない≠ニ本心では思っているからか。五条は「でもね」と殊更優しく、そしてどこか甘ったるく、電話越しに囁いた。

「もしダメだったら、任務中だろうが何だろうがすぐにそっちへ行ってやる。今の俺なら悠仁に抱きつくんじゃなくて抱き締めてあげられるんだから」

『…………』
「ね、だから悠仁は全力でアイツらにぶつかってやりな」
 そう締めくくる。
 三十秒か、一分か、もう少し長いだろうか。互いに一言も発さずただ電話越しの気配だけを感じながら五条は虎杖の反応を待つ。
 やがて息を吸う音が耳に届き、デジタルに変換された声が五条の鼓膜を揺らした。
『悟』
「うん」
『万が一当たって砕けたら、みっともなく泣き喚いてやるから胸貸せよ』
 それは虎杖の決意表明。きっと今、あの琥珀色の双眸は力を取り戻して美しく輝いているのだろう。それが見られない事実を非常に惜しく感じながら五条は「まかせて」と頷く。
「これでもかってくらいに甘やかすよ」
 思わず弾んでしまいそうになる声を極力抑えながら五条はそう付け足した。


<番外:七海&灰原編6>

 やはりこのままにはしておけない。
 自らの失言から一夜明け、夏油傑は後輩と話をすべく学生寮の灰原の部屋の前まで足を運んでいた。
 まだ高専の授業が始まるまで随分と時間があり、おそらく校舎ではなく寮にいると踏んでのことである。この時間帯に他人の部屋を訪ねるのは少しばかり常識外れの行動かもしれなかったが、悪いことを遠ざけるだけでは何も解決しない。善は急げ、というやつだった。
 しかし、
「……あれ」
 ドアをノックしても反応がない。早朝の訪問という無作法ついでに部屋の中の呪力を探ってみたが、中に人がいる様子はなかった。もしかしてすでに登校してしまったのだろうか。
 夏油は少し考えて二年生の教室ではなく事務室を目指して歩き始めた。灰原達に任務が割り当てられていた場合、教室に行っても無駄足となる。一方、事務室であれば彼らが任務で外出しているかどうか、任務であるならばどこへ何日間の予定で出掛けているのか調べることができるはずだ。
 何となく嫌な予感がして夏油は足早に進みつつ眉根を寄せる。
 この後、灰原と七海の二年生組が任務で遠地へと今朝出発したことが判明した。偶然にも同じルートを辿った虎杖が事務室の前で夏油と鉢合わせるのはその少し後のこととなる。


「七海と灰原は朝から任務か。……じゃあ俺、追いかける」
「え」
 一晩経った虎杖の顔色は随分と回復していた。灰原達を訪ねようとしたことからも分かるように、青年の中で前へ踏み出す決心がついたのだろう。その理由を夏油は知らないが、力強さを取り戻した虎杖の目を見てほっと胸を撫で下ろす。
 しかしだからと言って任務に向かった二年生達を追いかけるという行動に出るとは思ってもみなかった。任務には数日かかる予定だが、彼らが帰ってきてから高専で改めてゆっくり時間を取っても良いはずである。
 驚いた夏油がそう提案すると、虎杖は頭を振って「待ってる間に決意が鈍っちまったらマズいし。それに善は急げって言うだろ」と笑う。
「だから行くよ。詳しい場所は――」
「それなら私がさっき事務の人から聞きました。お伝えします」
 虎杖がそんな笑顔で行くと言えるならば、もう夏油に彼を止めるつもりはない。むしろ最大限の助力をしようと自らもまた口元に笑みを刷いた。

     ◇

 東京の高専を出て車で六時間。七海と灰原は東北地方のとある山村を訪れていた。
 調査期間を含め数日逗留する予定となっており、同行の補助監督は宿泊先となる役場の出張所――小さな村であるため宿泊施設がないのだ――に諸々の手続きをしに行っている。その間、学生二人は村の様子を見て回っていた。
 とは言っても民家は少なく、人も歩いていない。道の両脇に広がるのは手入れされずに荒れ果てた田畑ばかりで、そこからさらに視線を上げると緑豊かな山々が広がっていた。
 今回、七海達に課せられた任務はこの地に出るという二級呪霊の祓除である。呪霊の等級において一級と二級は術式の有無によって分けられており、つまり今回の祓除対象は術式を持たない呪霊ということだ。おまけにここは都会と違って人が少ない。呪いのずる賢さ≠熨蛯オたものではないと予想された。
(私一人でも問題無くこなせただろうが……)
 胸中で独りごちつつ七海は隣に佇む灰原を一瞥する。
 七海はすでに単独任務が可能な二級術師であり、灰原は三級。しかし灰原の実力はすでに二級としても良いほどであり、間も無く正式に昇級が認められるであろう段階まで来ていた。
 つまるところ実力だけで見れば、今回の任務は灰原でも七海でも問題なくこなせるものだ。しかし今の灰原の状況を鑑みれば、彼を一人にすることは非常に危険だと思われた。任務ではなく学校に一人残ることも含めて。
 今朝、七海は自分達の慕う青年が呪術界にとって非常に厭うべき存在であったことを聞かされた。当然のことながら動揺はしている。しかし精神状態が非常に不安定な目の前の友人と比べればずっとマシと言えた。
 今、灰原の胸中を満たしているのは両面宿儺の器に対する恐怖と、その正体が知り合いであったことへの困惑、そして頼れる存在であるはずの先輩達がユウジさん≠フ正体を知りつつも忌避することなくむしろ懐いていることからくる疎外感や孤独感だろう。特に最後のそれは、自分の味方になってくれるはずの人々が自分とは異なる立ち位置にいるという恐怖を抱かせる。
(……もしこの状況で私の考えを知ったなら、灰原はさらに追い詰められてしまうだろうな)
 ゆえに七海はその呟きを決して声に出さなかった。
 今回の件に関して前述の通り七海も動揺している。しかしながらその考え方は灰原と大分違っていた。
 そもそも七海が『両面宿儺の器』を恐れていたのは、それがどのような存在であるのか一切知らなかったからだ。けれども今は違う。
 確かに両面宿儺は忌むべき存在だろう。しかしそれは虎杖が指の屍蝋を口にした瞬間からこれまでずっと彼の中で大人しくしている。また虎杖悠仁は五条悟が信じ慕う相手であり、七海は――本人に伝えるつもりはないものの――五条を信頼し信用していた。だからこそ五条があのような態度を見せる相手が悪いものだとは思えない。そして何より七海はその正体を知らずともユウジさん≠ニ関わった。彼の声を知り、笑顔を知り、手のひらの温かさを知り、為人(ひととなり)を知った。
(ユウジさんが虎杖悠仁だったことには驚いている。だが、もう……)
 恐怖は、ない。
 むしろこれまでの己の発言を振り返って後悔の念が押し寄せてきていた。目の前の青年と『両面宿儺の器』が同一人物であると知らなかったがゆえの失言はすでに取り返しのつかないものだ。虎杖ならば謝れば許してくれるだろうが、傷ついた彼の心を直接癒やすことは叶わない。
 思わず七海は唇を噛み締める。たとえ見た目の上での傷が無かったとしても、謝っても済まないこと≠ヘ確かに存在するのだ。
 ならばせめて謝罪以外で自分にできることはないか。そう考えた七海の視界に灰原の姿が映り込む。精一杯任務に集中している風を装っているが、一年以上共に過ごしてきた七海からすれば集中できていないことは明らかだった。
「……ん? 七海、どうかした?」
 何も喋らずじっと見つめてきた七海に灰原が心配そうな表情を浮かべる。自身の胸中が荒れ狂っているにもかかわらず仲間への気遣いを忘れない辺り、本当にお人好しだ。七海は強張っていた頬から意識して力を抜き、「いいえ、何でもありません」と返した。
「そう?」
 灰原も、そして虎杖も、このままにはしておけない。何をすれば良いのか七海にはまだ分からなかったが、そのことだけははっきりしている。
 何かきっかけがあれば良いのだが……と思いながら、七海は小首を傾げる灰原に「さあ、調査を続けましょう」と促した。


 急激な過疎化と高齢化が進んでいるためか、村の田畑は多くが荒れ果てている。草が生え使い物にならなくなった休耕田の間を歩いていると、やがて朽ちかけた鳥居が見えてきた。
 おそらく信仰が途絶えて久しいその場所。鳥居の奥にある祠も当然のことながら手入れなどされておらず、周囲に生い茂る木々と同化しかかっている。かすかに甘い匂いが漂ってくるのは、近くに香りの強い花が咲いているのか、それとも夏に熟すタイプの果実でもあるのか。
 山に半分埋もれるようなその場所は土地神を祀るためのものだと思われた。土地神や田の神、産土神と称されるものは、春に民家へ降り、夏の間は田に移り、秋になるとまた家に戻って、冬の間は山へと帰ると考えられている。住民達は神が移動する日に合わせて供え物をし、丁寧に祀っていたことだろう。しかしその風習も今は廃れてこの有様だ。祠の管理は誰にもなされず、辺りの空気は神性で澄むどころか淀んでしまっていた。
「……あまり良い状況ではありませんね」
 鳥居の手前から覗ける程度の範囲を眺めて七海は呟く。隣で灰原が「うん」と神妙に頷いた。
 本来であれば信仰という正の感情が向けられるこういった場所に呪霊が発生することはない。しかし逆に信仰が薄れ、朽ち果てるのを待つばかりとなった神社仏閣は忌避感や恐怖といった感情を集めやすく、さらに『自分達は神への信仰を忘れ、祀られている存在を蔑ろにしている。だから怒った神がおぞましいものと成り果てて人間に災いをもたらすのではないか』という神性な場所に対する独特の考え方が、生まれ落ちた呪いに畏れという形で強い力を与える場合もあった。
 もし産土神信仰に由来する呪霊が発生したとすれば、確実に一級案件となるだろう。今の自分達では手に負えない。
 七海が無意識のうちに唾を飲み込んだ時、制服のポケットに入れていた携帯電話が震えた。
「っ、はい。七海です」
 驚いたものの、何と言うことはない。電話を掛けてきたのは宿泊の手続きをしてくれている補助監督だった。用件は宿泊の手続きが終わったので問題なければ一度戻ってきてはどうかという提案である。
 七海は灰原へと「どうします?」と問いかける。すでに漏れ聞こえる音で内容を察していた灰原が「うん、一旦戻ろっか」と頷いた。七海は再び電話の相手に「手続きの方、ありがとうございました。ではこれから二人でそちらに戻ります」と帰還の旨を告げて通話を終了する。
 そうして携帯電話をポケットに仕舞った直後。木の上から祠の前にどさりと重い何かが落下した。
「「――ッ!」」

「捧ゲヨ……我ニ供物ヲ捧ゲヨ……」

「灰原!」
「帳は任せて!!」
 朽ちかけた鳥居の向こうでぬっと身を起こす薄紫の異形。人の手の形をした白と黒のまだら模様のものが何本も伸びて朱色が剥げた木材に絡みつく。
 七海と灰原は同時に距離を取りつつ、七海は呪符を巻き付けた大鉈を構え、彼より後ろへと下がった灰原が顔の前で指を立てる仕草を取った。
「闇より出でて闇より黒く、その穢れを禊ぎ祓え」
 灰原がそう唱えれば、瞬く間に黒い帳が周囲を覆っていく。人通りはないものの念のための非術師対策と、離れた場所にいる補助監督に帳の出現を通して緊急事態を知らせるためだ。
 呪霊は人間と似たような位置に二本の腕と二本の脚を備えていたが、その姿勢は猫背を通り越し不自然なほど前屈みになっており、背中が半ばまで見えていた。姿勢の所為で顔は見えないものの、白い仮面のようなものが貼り付いていることは見て取れる。鳥居を掴むいくつもの手はぱっくりと割れた背中から生えており、裂け目からは腐敗が進んだ果実の如き甘い匂いが漂ってきていた。
「一体誰だ等級判断をしたのは!」
 この村に出る呪霊は二級とのことだったが、感じるプレッシャーといい、言葉を話していることといい、そして場所といい、この呪霊は一級相当と言わざるを得ない。
 七海は罵りながら、自身の方へ伸ばされた白黒まだら模様の腕を切り落とす。右手に持った大鉈は前腕部を線分の対象とし、七対三の位置で正確に振り下ろされていた。
 切断された腕は宙に弧を描いてから地面にどしゃりと落下する。だがそれを見届ける前に次の腕が伸ばされ、七海は横に飛びすさりながら再び鉈を振るった。
「ア、ア、逃ゲルナ……拒ムナ……捧ゲヨ……我ニ、供物ヲ、捧ゲヨォ!」
 今度は三本同時に腕が伸びる。二本までは対処できたがもう一本が間に合わない。しかし残りの一本は後方から高速で飛来した何かによって弾け飛ぶ。
「灰原、助かりました!」
「どういたしまして!!」
 七海の後方に立つ灰原が懐から和紙でできたヒトガタを何枚も取り出し、それらへ息を吹きかける。途端、ただの紙だったものは空中に浮かび上がり、先程と同様にこちらを攻撃するまだら模様の腕に突撃。着弾して小さな爆発を伴いながら弾き飛ばす。式神使いの一種だが、消耗品を扱うような攻撃方法は銃火器のそれに似ていた。
 なお、灰原の術式は息を吹きかけるという行為で無機物に擬似的な生命を与え、攻撃や防御のためにその命を消耗品として使用するものだ。再利用しないという縛りによって威力はかなり上乗せされている。また効力を発揮するのは和紙でできたヒトガタだけではなく、より複雑な構造を持つ物であるほど制御が難しくなる代わりに強力な手札となった。
 速度重視で放たれたヒトガタは次々と呪霊の腕や鳥居の向こうの本体に着弾していく。しかし致命傷を与えられた気配は無い。呪霊に突撃したヒトガタはその足元で四散した姿を晒し、それらが折角与えたはずの傷は見る間に修復されていった。
「嗚呼、口惜シヤ……口惜シヤ……ナニユエ我ニ供物ヲ捧ゲヌノカ……ナニユエ我ヲ排斥シヨウトスルノカ……」
 ゆらり、と呪霊が顔を上げる。
 白い仮面には目や口に相当する穴も無く、こちらのことが見えているかさえ分からない。だが七海達は『見られている』と思った。全身にこれまで以上の緊張が走り、本能に命じられるまま横へ飛ぶ。
「我ニ供物ヲ捧ゲヨ……サスレバ実リヲモタラソウ」
 呪霊がそう告げた直後。
 七海が切り落とし、灰原が吹き飛ばしたはずの腕だったものが地雷のように爆散した。七海は間一髪で回避。灰原も離れた位置にいたため被害はない。しかし攻撃用に配備されていた複数のヒトガタは避けることもできずまともに呪霊の肉片を浴びてしまう。呪力を帯びているヒトガタはそれでも灰原の命令に応じて呪霊へ突撃しようとするが――。
「なっ……!?」
「呪力が食われてる!?」
 七海が言葉を失い、灰原が口元を引き攣らせる。
 ヒトガタに付着した呪霊の肉片は一瞬で根のように細く長く形を変えてヒトガタ全体へと広がった。そしてドクリドクリと鼓動を刻んだかと思えば、呪力を奪われたヒトガタは灰原の制御を受け付けずに落下。すぐに白と黒の肉片がヒトガタを隙間なく覆い尽くし、同様の状況に陥っていたヒトガタが――否、呪霊の肉片が、接合して急成長。鳥居の向こうにいる呪霊と同じ形、一回り小さなサイズの分身が発生した。
「『供物』は呪力、もたらされる『実り』は呪霊の分身……といったところですか」
「冷静に分析ありがとう! でもこれ真面目にマズいよ!?」
「冷静に見えているなら結構。ですが私もかなり焦っています!」
 呪霊の本体と分身、両方が背中の腕を伸ばしてくる。切り落とし、弾き飛ばし、その腕を回避することは可能だ。しかし本体から離れた白黒まだら模様の肉片はいつ爆発四散してこちらに雨のように降りかかってくるか分からない。そしてその呪いの雨を生身で浴びてしまえばどうなるのか。想像するだけで寒気が走った。
 七海も灰原も防戦一方となる。本体へ攻撃できれば良いのだが、そこへ至るまでに分身と何本もの腕が邪魔をするのだ。
 後ろに下がった七海は灰原が防御用に操る式神の影でチッと舌を打つ。幸いにも本体と繋がったままの腕がそのまま爆発して呪力を奪いに来ることはないようであるものの、この状況、あまりにも自分にとって分が悪い。
「……七海」
 そんな七海に灰原が話しかける。
「何ですか」
「このままだとジリ貧だよね」
「分かっています。ですが、有効な手が……」
 帳は張った。しかしそれで異常事態に気づいた補助監督が救援を呼んだとしても、到着までまだまだ時間がかかるだろう。むしろ十中八九間に合わないと思っておいた方が良い。そして自分達の手札はこの呪霊との相性が非常に悪い。ただでさえ等級的に厳しいと言うのに、マシなところが一つも見当たらなかった。
 使い捨ての式神を次々と生み出して防御に使っている灰原はそれだけでも呪力の消費が酷いはずであり、時間稼ぎなど到底無理。撤退か、それとも一か八かの突撃か。いずれにせよ生還できる可能性は笑えるくらいに低かった。
「さっき僕の式神が食われた時に感じたんだけど」
 それでも灰原は続ける。式神の隙間から呪霊を見据え、硬くなった声で。
「取り付かれた瞬間から侵食が始まって呪力が食われていくみたい。でも一瞬で制御が奪われたわけじゃなかった。たぶん対象物が大きければ大きいほど侵食しきるまで時間がかかる。その間に呪霊の肉片が侵食している部分を切り離せば全部食われなくても済むはずだ」
「……」
 嫌な予感がした。これ以上、灰原に言葉を続けさせてはいけない。
 しかしその予感に従って七海が口を開くよりも早く、灰原は告げる。
「これから僕が呪霊本体を叩けるくらい強い式神を用意する。防御できなくなるから七海は最初みたいに襲いかかってくる腕を切り落として攻撃を避けていて。あと、僕に向かってくるやつも防いでほしい。そしたら十中八九またあの寄生攻撃が始まると思う。そうなったら七海は退避。僕はたぶん式神の用意が間に合わなくてそのまま侵食され始めるだろうけど、完全にやられるまえに呪霊を叩くよ。あとは僕の侵食された部分を七海が鉈で切り落としてくれ。大丈夫、生きてさえいれば家入さんが治してくれるはずだから」
「……私がその案を受け入れるとでも?」
「分かってるだろ、七海。そうでもしなきゃ二人とも殺される」
 灰原の言う通りだった。
 己の頭が冷静にそう判断するのを他人事のように感じながら七海は胸中で灰原の言葉に頷く。あまりにも受け入れがたい案に気が狂いそうだった。
「七海」
 硬く、そして震えの混じる声で灰原が七海の名を呼ぶ。覚悟を決めろ、と。
「配役を逆にすることは……」
「それ本気で言ってる? 侵食部分の切除は七海の方が上手くいくはずだし、遠距離から攻撃するなら僕の方が得意なんだけど」
「……」
「さあ、やろう」
 灰原が制服の内ポケットから特別な式神を取り出す。それは紙ではなく金属の細かなパーツが合わさって、槍のような形状をしていた。
 それを見た七海は唇を噛み締め、
「ええ」
 絞り出すような声で頷いた。


 敵の攻撃は背中から伸びる腕を使っての遠距離攻撃と、本体から切り離された腕だったものが呪力を持った物に取り付いて侵食し、その呪力を奪って分身を作成する――この二つだと推測された。
 前者の攻撃を防げれば、一瞬で致命傷を負わされることはない。そう判断しての灰原の捨て身の作戦だった。
 しかし。
「一ツ目、我ノ術式ハ肉体ノ一部ヲ用イテノ侵食ト成長、ソレニヨル分身体ノ作成。我ガ肉片ヲ種<gスルタメ、我ノ身体カラ完全ニ離レ、カツ、アル一定ノ量ヲ必要トスル」
 ひび割れ、ひどく耳障りな呪霊の声。本体の方から聞こえてきたそれは紛れもなく術式の開示だった。途端に背中から伸びる腕の本数が増え、防ぎ切れなかった七海の頬を白黒まだらの腕がかすっていく。
「二ツ目、術式ノ効果範囲ハ我カラ発スルコノ匂イガスル場所ノミトスル。広クハナイガ、ソノ分、術式ノ効果ハ高イゾ」
 これは七海達にとってマイナスでありプラスでもある情報だった。つまりこの甘い匂いがしている範囲から脱すれば、もしくは甘い匂いを発する呪霊そのものを倒してしまえば、たとえ寄生されていてもその効果は消え去る。自分が灰原の肉体を切断せずとも良いという可能性に七海の顔色が明るくなった。
 けれども一瞬の歓喜ののち、状況は最悪へと転換する。
「ソシテ三ツ目。『供物』ノ摂取方法ハ種<jヨル侵食ノミニアラズ。――ソウ、直接喰ウテシマエバ良イダケノ話ヨ!!」
 ぐっぱぁ、と分身だった方の呪霊が縦に裂けた。
 裂け目には細かな歯がびっしりと並んでいる。巨大な口と化したその分身が狙いを定めたのは、本体に致命傷を与えるであろう相手――灰原だ。
 まずい、と七海が思った時にはもう遅い。本数が増えた腕に苦戦して七海が身動きを取れない隙を突いて、分身が灰原に飛びかかる。灰原も回避しようとするが間に合わず、腰から下が巨大な口に飲み込まれた。
「あ、がっ」
「……っ、灰原!!」
 ばきばきめきょごきごりゅ。
 耳を塞ぎたくなるようなおぞましい水音と破砕音が一帯を満たし、分身が大きく身体を振った。その動きで灰原の千切れかけていた身体が完全に別れ、上半身のみが地面に落下する。
 即死、ではない。七海がそちらに駆け寄れば、最悪なことにまだ灰原には意識があった。おまけに彼は七海をその目に映し、「早く、逃げ……」と馬鹿なことを言う。
「嗚呼……良イ……良イ供物ダ……満チル……満タサレル……ヤハリ人ハ良イ……」
 呪術師の身体半分を喰らった呪霊は分身と一体化し、満足そうにそう呟いていた。呪力と肉を味わうことに意識を割いているのか、七海と灰原への興味が極端に薄れているようでもある。
 今ならこの場から逃げ出せるだろう。上半身だけになってしまった灰原を抱えても。
(それで治療が間に合わず死んだ灰原と共に帰還するのか。我々より強い術師に後を任せて?)
 怒りなのか、後悔なのか、仲間を失うことへの恐怖なのか。自身の中に渦巻く感情を七海は上手く理解することができない。急速に消えようとしている仲間の命を前に七海は唇を震わせる。

「七海! 灰原!」

 そんな七海の耳に届く力強い声。見上げた先、帳を抜けて外から『光』が入ってくる。
 圧倒的な呪力をその身に宿し、明るい髪色をした大人が呪霊と七海達の間に降り立った。


<番外:七海&灰原編7>

 その圧倒的なまでの逆転劇を七海はヒーローに憧れる幼い子供のように見つめていた。
 どうして。なぜ。そんな言葉の前に、ただ「すごい」と唇が動く。
 帳を通り抜けて現れた大人――虎杖悠仁は、瀕死の状態にある灰原を見つけると即座に駆け寄り、瞬く間に反転術式で人間の下半身まるごとを再生してしまった。ただでさえ他人に反転術式を使える者は稀少だというのに、その効果範囲と速度は最早人外レベルである。両面宿儺という伝説のような存在の桁違いの能力、その一端を見た気がした。
 七海の驚きはそこで終わらない。
 灰原を治療した虎杖は次いで琥珀色の双眸で呪霊を見据える。「あれが灰原を殺そうとしたんだな」感情が削がれた冷たい声。その冷たさが無関心によるものではなく、大切な者を傷つけられたことへの怒りによるものだと七海はすぐに気がついた。七海が「はい。おそらくは一級呪霊です」と答えれば、虎杖は「そうか」と呟き、
「『■』『開(フーガ)』」
 ゴゥ、とその手に炎が宿った。
 生み出した炎を虎杖は矢のようにつがえ、放つ。
 容赦も遊びも慈悲もない。圧倒的な熱量は真っ直ぐに呪霊へと突き刺さり、悲鳴さえ上げさせることなく一瞬で燃やし尽くした。この威力、一級どころか特級でも持て余してしまうかもしれない。
 七海と灰原があんなにも苦戦した相手を塵でも相手にしているかのように祓い終え、虎杖は小さく息を吐く。炎の熱で生まれた気流が七海達の髪や服を激しく乱した。
 振り返った琥珀色がそんな七海に向けられる。圧倒的な強者であることを示してみせた彼は、驚きと興奮に目を見開いたままだった七海を見て、
「あ……えっと、」
 今までの気迫はどこへやら。顔には戸惑いを滲ませ、視線を彷徨わせた。
「ユウジ、さん……?」
「俺のこと、灰原から聞いた?」
「ええ」
「……っ」
 七海のそのたった一言だけで虎杖の肩が跳ねる。
 嗚呼、と七海は胸中で独りごちた。明るくて、優しくて、けれどもそんな振る舞いとは正反対の恐ろしさを内包した虎杖悠仁。その彼の本質はもしかしたらとても弱くて寂しがり屋で愛らしいものなのかもしれない。
 やっぱりこんな人を恐れるなんてどうかしている。七海の顔には自然と笑みが浮かび、それを見た虎杖が殊更大きく両目を瞠った。
「七海は俺のこと怖くねーの?」
「怖がっているように見えますか」
 眩しいものでも見るように七海は目を細め、そっと虎杖に近づくと、硬く拳が握られていた彼の手を掬い取る。
「な、なみ……」
「アナタが来てくれて本当に良かった。助けてくださってありがとうございます」

     ◇

 目が覚めると見慣れた天井が視界いっぱいに広がっていた。
 背中にはスプリングが硬いベッドの感触。薄い掛け布団は胸の辺りまで掛けられており、腕は外に出されている。高専の医務室だと思いながら腕をそっと持ち上げ、起きたばかりの人物――灰原雄は目の前で手のひらを幾度が握っては開く。
「いきてる……」
 その呟きと共に実感がじわじわと湧き始め、次いで彼はハッと息を呑んだ。持ち上げていた腕を慌てて己の腹部に当てる。
「っ、治ってる!?」
 がばりと身を起こし、ついでに掛け布団を跳ね飛ばす。そうして見下ろした先にあったのは傷一つなく存在する自分の下半身だった。なお、上半身共に一糸まとわぬ姿である。
「えっ、なんで……僕、呪霊に喰われたはずじゃ」
 怪我の大きさおよび高専までの距離ともに、決して助からない状況だった。しかし現にこうして灰原は五体満足のまま高専に戻ってきている。一体どんな奇跡が起きたのか、もしやそもそも呪霊との戦い自体が夢だったのか。混乱する灰原の耳に引き戸の開く音が届いた。
「目が覚めましたか」
「七海!」
 部屋に入ってきたのは共に任務に赴いた同期兼友人だった。こちらも怪我の痕跡は見当たらない。無事であったことには安堵したものの、本格的に自分の記憶に自信が持てなくなって、灰原は「一体何がどうなって……」と呟いた。
「覚えていないんですか?」
 ベッドの横に立った七海が首を傾げる。
「○○村に任務で向かったことは?」
「あ、夢じゃなかった。じゃあ呪霊も……」
「ええ。二級呪霊と言われていましたが、あれは土地神案件……一級呪霊です」
「まさか七海が倒したの?」
「いいえ。私では力不足でした。君も、その……」
 七海の視線が一瞬だけ灰原の脚に向けられる。嗚呼やはり夢ではなかったのだと改めて思いながら、灰原は己の脚を撫でた。
「やっぱり呪霊に喰われたんだ」
「はい。間違いなく致命傷でした」
「でも僕は生きてる」
 どうして、と七海を見上げて問いかける。あの状況では高専にいる家入が反転術式で治療を施せたはずもなかった。当然のことながら現代医療で救えるはずもない。まさか偶然あの近くに反転術式を使える呪術師がいて手を貸してくれたとでも言うのだろうか。
「……」
「七海?」
「ちょうどその場に居合わせた術師がいまして」
「は?」
 僅かな逡巡を挟んで七海が放ったその台詞に灰原は唖然とした。まさかのまさかだ。七海が冗談を言うはずもなく、つまり彼の言ったことは事実。信じられない心地で灰原は「まさかあの呪霊を祓ったのも」と声に出せば、クォーターの友人は首を縦に動かした。
「その術師です」
「…………」
 言葉も出ない。
 一級呪霊を祓い、加えて灰原の命を救ってみせた呪術師。そんな実力者がそう都合良く自分達の前に現れてくれるものだろうか。加えて該当者が思い浮かばないのも問題だった。高い戦闘能力と圧倒的な治癒能力を持つ術師が無名であるはずがない。きっと名の知られた人物である。しかし攻撃と治癒どちらも兼ね備えた呪術師≠ネど灰原は全く知らなかった。
「ねぇ七海、誰が僕達を助けてくれたんだい」
「……」
「五条さん? 夏油さん? 家入さん? それとも高専に寄りつかないあの特級術師?」
 名前を挙げつつもその誰もが該当しないことくらい灰原にも分かっていた。最後に一応挙げた人物――九十九由基も、可能性としてはゼロだろう。
 そして一番の理由が沈黙し続ける七海の態度だった。
 彼は灰原に告げるべきかどうか迷っている。十中八九、七海は自分達を助けてくれた術師のことをよく知っているのだ。――そこまで考えが至った灰原は、心臓が一度ドクリと大きく脈打ったのを自覚した。五体満足な身体が不整脈を起こすはずもなく、精神的な理由で単にそう感じただけだというのは理解している。
 ふと、『彼』に懐いている先輩達の姿が脳裏によみがえった。そして灰原が自らの問いに対する答えをはっきりと自覚するより早く、七海が口を開く。
「私達を助けてくれたのはあの人……特級術師の虎杖悠仁さんです」
「……ぁ」
 友人の表情を見て灰原は胸を思い切り圧迫される感覚を味わった。
 七海は可能な限り自分の感情を削いで話したつもりだったのだろう。しかしその名前を呼ぶ声にも表情にも隠しきれない親しみが滲んでいる。
 特級呪物『両面宿儺』の器、虎杖悠仁。学生達の危機に駆けつけた彼は圧倒的な力で灰原を死の淵から引き摺り戻し、一級呪霊を容易く祓ってみせたのだ。それこそ、まるでヒーローのように。
 どうして宿儺の器が、と灰原は震える声で友人に問いかけた。身体の強張りは宿儺の器に大き過ぎる借りを作ってしまったからであると共に、尊敬する友があちら側≠ナあると知ったが故の絶望に起因する。
 灰原の様子に七海も己が下手を打ったことに気づいたのだろう。眉間に皺を寄せてぐっと唇を噛み締めると、顔を伏せて小さく「すみません」と謝罪した。
「ですが……いえ、だからこそ、アナタに伝えなければならない」
「七海……?」
 再び顔を上げた七海の表情からは強い決意が読み取れた。
「悠仁さんが私達の危機に間に合ったのはどうしても私達に伝えたいことがあったからだそうですよ」
「何、を」
「己が宿儺の器であるのを隠していたことへの謝罪と、それから」
 固い決意の表情がふっと緩む。喜びと愛しさに満ちた優しい顔だった。
 友人の雰囲気の変化に灰原が息を呑んでいると、七海はまるで宝物を自慢するかのように告げる。
「『オマエ達と仲良くすることを諦めたくない』とのことです」


 一時間後、灰原はとある人物の部屋の前に立っていた。
 心臓が今にも肋骨を突き破って出てきそうなくらい激しく鼓動を刻んでいる。握り締めた手には汗が滲み、それを上着の裾で乱雑に拭った。
 全裸でベッドに寝かされていた灰原――ズボンは下半身と共に喪失していたし上着もボロボロだったので脱がされたらしい――のために七海が寮から持ってきてくれたのは予備の制服。受け取ってそれを身につけると、怪我の痕跡が全くないことも相まって本当に一級呪霊との戦いがあったのか疑わしくなるほどだった。
 しかし灰原が死にかけたことも、虎杖に助けられたことも、決して夢ではない。したがって七海が伝えた虎杖の言葉も。
 ここで何も聞かなかったフリをしたならば、きっと己は後悔する。尊敬する友人にも、憧れる先輩にも、絶対に顔向けできなくなってしまう。そう己を奮い立たせて灰原はここまで来たのだ。――高専の職員寮、虎杖悠仁の部屋の前に。
 両面宿儺の器への恐怖はまだ確固として灰原の中に存在する。しかし前のような関係に戻れるかどうかはさておき、少なくとも命の恩人に感謝を告げるくらいはしなければならないだろう。あんな言葉を残してくれるような人にお礼の一つも言えないならば、それこそただのクズだ。
 意を決して扉をノックする。
 するとすぐに中から応(いら)えがあり、中で人が動く気配の後に扉が開いた。
「はーい、どちらさ……ま」
「ど、ども」
 目を見開く虎杖に灰原はどもりながら挨拶をする。
「あの、その……い、今、大丈夫、ですか」
「え、あっ、うん」
 ダイジョウブ……と蚊の鳴くような声で虎杖が答えた。
 虎杖はまさか灰原が訪ねてくるなど予想していなかったのだろう。当然だ、と灰原も思う。それくらい二人の別れ際は悲惨なものだった。翌日には何とか持ち直したらしい虎杖が灰原達を追いかけて来てくれたが、やはり灰原の方から自分に近づいてくるとまで楽観視はできていなかったはずである。
 目の前にいる大人の表情からその考えが手に取るように読み取れて灰原は次第に肩から余分な力が抜けていくのを感じた。おかげで此度の訪問の目的もするりと口を突いて出る。
「助けてくださってありがとうございました。……アナタがいてくれて、本当に、良かった、です」
 でなければ僕も七海も死んでいました。灰原がそう続けようとした、その時。
「うん。二人とも助けられて良かった」
「……!」
 目尻が下がって、口元に穏やかな弧が描かれて。虹彩が小さめな琥珀色の双眸が僅かに水気を増し、キラキラと輝きながら灰原の姿を映し出す。
(嗚呼)
 本当に良かった、と繰り返す虎杖。その姿に灰原は胸が苦しくなって思わず制服の胸元を握り締めた。
(自分は一体何を怖がっていたんだろう)
 今、目の前にいるのは灰原達の無事を心から喜んでくれる人だ。
 呪いの王と称される両面宿儺の器、虎杖悠仁。しかし彼はたとえその身に強大な呪いを宿していようとも決して呪いそのものではない。それどころか灰原はもうずっと前から虎杖の懐の深さも、思いやりも、善性も、たくさん知っている。『両面宿儺の器』ではない『虎杖悠仁』を知っていたのだ。
 すっと重い枷が外れたような心地がした。
 身体が軽くなって、心が沸き立って、灰原は虎杖に一歩近づく。
「悠仁さん」
 その呼び方に虎杖は戸惑いながらも歓喜で頬を紅潮させた。なんて愛らしい人なのだろうかと、灰原は笑みを浮かべずにいられない。
「ねぇ、悠仁さん。全然釣り合わないかもしれないけど、助けてもらった分のお礼をさせてください。それと、お詫びも。何が良いですか? 僕にできることがあれば何でも言ってください」
「何でも≠ヘ術師が言っちゃ駄目だろ。でも……そうだな、何でもいいんだったら」
 嬉しそうな顔を隠すこともできず虎杖は告げる。

「また前みたいに話そう。たくさん、たくさん。今度は変な隠し事なんかしねぇから」

「はい!! 悠仁さんと、僕と、七海と、先輩達と、みんなで楽しくお話ししましょう!!」
 灰原が力一杯そう叫べば、虎杖の表情がくしゃりと崩れた。
 それがあまりにも可愛らしくて、魅力的で。思わず抱き締めそうになる腕を抑えるのに灰原は随分と努力を強いられる羽目になってしまったのだった。

     ◇

 虎杖と二年生達の関係が修復されてから二日後。
 すでに五条も出張先から帰還し、高専内では比較的穏やかな日常が戻りつつあった。
(……いや、穏やかとは言い難いな。ある意味では)
 午前中に非術師の学生と同じような座学の授業を終え、今は昼休み。二人の同級生と共に昼食のため食堂へと来ていた夏油は目の前で繰り広げられる光景にひっそりと苦笑を漏らした。
「コォラァ! 灰原っ! 七海っ! 気安く悠仁の隣に座ってんじゃねぇよ!」
「どうしてですか!! 悠仁さんは隣に座るなって言いませんでしたよ!!」
「悠仁が許しても俺が許さん! 悠仁は魂まで俺のもんなの!! だから悠仁の隣も俺のもの!」
「横暴!!」
「だまらっしゃい!!」
 四人掛けのテーブルの一つに腰掛けているのは虎杖悠仁。その隣に灰原が陣取り、虎杖の正面には七海が座っている。だが二年生達よりも後にやって来た五条が彼らを見つけるや否や物凄い勢いで突撃していった。そしてこの有様である。
「悟、独占欲丸出しなのはみっともないぞ」
「そうそう。余裕なさ過ぎじゃん」
 夏油に続いて家入も五条を揶揄する。その声に青い目がぐるりとこちらを向いた。
「うるせぇ! ゆーじのことでなりふり構っていられるか!!」
 本当になりふり構わない台詞を叫んで五条は再び灰原へと向き直る。舌戦はますますヒートアップし、二人の様子を見守っていた虎杖もとうとう困り顔を浮かべ、次いで溜息を吐き、生姜焼き定食が乗ったトレーを持ち上げてこっそりと夏油達のテーブルに移ってきた。オマケに七海もカツカレーの皿を持って一緒に移ってくる。
 お邪魔しますと言いながら正面に座った虎杖に向け、夏油は五条達を一瞥した後にしみじみと呟いた。
「愛されてますねぇ」
「愛っつーか執着かもしんないけどな。一度、目の前からいなくなっちまってるし」
「なるほど。まぁいずれにせよ、そこに新しくアナタの正体を知った上でとても慕う人間が現れたので悟はさらに焦り始めている、と」
「半分くらいはフリ≠カゃね? 悟、後輩とワイワイやんのも結構楽しんでるだろ」
「はは、確かに」
 しかももう半分は間違いなく嫉妬や独占欲の現れだろう。そして虎杖もそれを理解している。理解した上で、困ったフリ≠しているのだ。
(だから悟もこの人への好意を隠さないのだろうな)
 夏油は内心でそう呟いた。
 騒がしい五条と灰原の様子に虎杖は困った顔をしているが、その表情からはどことなく喜びの気配も感じられる。おそらく虎杖悠仁という人は他人よりもほんの少し、人に好かれることや人が自分の近くにいてくれることが好きなのだ。言い換えれば、寂しがり屋。そんな人間が大切にしている相手から好かれて嬉しくないわけがない。
 そして五条はそんな虎杖の性質に気づいている。気づいているから好意を隠さないし、押しつけるのだ。
 五条達の方へと視線を移せば、未だに激しい舌戦が続いている。皆がそれを眺め、呆れつつも楽しげな表情を浮かべていた。
 夏油はふっと吐息だけで笑う。
 呪術師としての日々は苦しみも悲しみも怒りも迷いも後悔も多い。けれど、こんな光景を眺めていれば自然と口角が上がり、そして思うのだ。自分がこの光景の一員で居続けられるなら今の生き方もきっと悪くはないのだろう、と。
「オイ傑! オマエも何か言ってやれ!」
「いやいや、私は関係ないだろ?」
「オマエは俺の親友だろうが! つまり俺側!」
 突然こちらを巻き込んでくる親友に夏油は虎杖と似たような表情を浮かべた。灰原が「ちょっと五条さん!!」と声を荒らげる。
「ズルいですよ!! 夏油さんを味方に付けるなんて!! 親友特権は禁止です!!」
「あははっ、何だいその特権。ああ、それなら灰原は七海を味方に引き込まないとな」
「えっ」
 粛々とカツカレーを口に運んでいた七海が嫌そうに顔をしかめる。「その顔はないだろ七海!?」と叫ぶ灰原。「って言うか虎杖さんの隣に座ってる!! 今日は僕が隣って決めてたじゃん!!」「バレましたか」「バレますよ!?」五条と自分も良いコンビだとは思うが、この二年生コンビもなかなかだよな、と夏油は思った。
 七海を巻き込んで虎杖悠仁の隣席争奪戦はますます過熱していく。そろそろ自分も加わるかと夏油が椅子から立ち上がる隣では、いつの間にかエビピラフと鶏の唐揚げセットを用意していた家入が、
「虎杖さん虎杖さん、生姜焼き一枚もらっていい?」
「いいよ。家入はピラフ? ちょっともらっていい?」
「もち」
 完璧な『漁夫の利』を体現していた。


<挿話>

 季節は秋。高専の敷地にも赤や黄色に色づいた葉が降り積もって鮮やかに地面を彩っている。
 乾いた葉を踏みしめながら虎杖が歩いていると、見知った顔と行き合った。
「あ。虎杖さん、こんにちは」
「ちわ〜、伊地知。任務帰り?」
「任務と言うか、補助監督さんの職場見学って感じですね」
「あ、そか。伊地知は呪術師じゃなくて補助監督を目指してんだもんな」
「はい。流石に今の二年と三年の皆さんを見ていて自分に術師が務まるとは思えませんし」
「いやいや、今の二・三年は特別じゃん。……でも伊地知なら戦闘より事務仕事の方が能力発揮できそうだもんなぁ」
「え、そうですか?」
「うん。その辺で活躍してる術師なんか目じゃないくらいバリバリ仕事できるようになると思う。超有能補助監督」
「……なんだか未来予知みたいな言い方ですね」
「そっかな。でも伊地知なら絶対に優秀な補助監督になると思うよ」
「ありがとうございます。本当にそうなれるように頑張ります」
 ちょっと冴えない風体をした眼鏡の男子生徒はそう言って微笑み、「ではこれで」と会釈して校舎の方へ去って行った。
 高専一年である少年の背中を見送って、虎杖もまた止めていた足を動かし始める。少しすると、少年が去って行った方向から別の生徒が小走りで近づいてきた。
「虎杖さん」
 そう呼び止められ、虎杖は背後を振り返る。
「家入?」
「こんにちは。今の生徒は……」
「一年生だよ。家入達の後輩」
「ふぅん。仲良さそうでしたね」
「そう?」
「少なくとも虎杖さんを怖がってる様子はなかったですし」
 三年生の紅一点が顎に指を添えて「高専の人間なのに珍しい……いや、学生に限定するなら珍しくはない?」と自問自答している。ちなみに彼女はそのあとで「五条達が知ったら面白いかも」と呟いていた。
「虎杖さんとさっきの彼は一体どこでどんな風に知り合ったんですか?」
「普通に高専内でだけど」
 少年が落とし物をしたところに遭遇し、虎杖が拾って呼び止めて渡した。本当に何でもない出会いである。ただしそれは配役が虎杖と呪術関係者でなければ、という注釈がつくだろう。もしくは少年が虎杖の正体を知らなかった場合に限る、と。少し前の虎杖と二年生の灰原のように。
 しかし家族に持たされたというお守りを返され、虎杖に礼を言った少年はこう訊ねた。『アナタのお名前は』と。これで答えないわけにはいかない。穏やかな眼差しが恐怖に引き攣る様を想像しながら虎杖はフルネームを名乗った。すると――。
『虎杖さん、ですか。本当にありがとうございました』
『え、あ、うん。……あのさ、俺、イタドリユウジなんだけど』
『ああ、はい、そうですね』
『特級呪物の器』
『ええ』
『……怖いとか思わない?』
『はあ、思わないわけではないですけど……。先輩方がアナタを慕っている様子は色々な所で見かけますし、こうして話しているアナタも悪い人には……ましてや呪いなんかには見えませんから』
 そう言って、高専に来てまだ半年しか経っていない眼鏡の男子生徒は恐れるどころか控えめに笑ったのだ。
「……って感じ」
 先程の少年との出会いについて虎杖がそう説明を終えると、家入が「ほほう」と悪党のように口の端を持ち上げた。
「これはますます面白くなりそうな気配」
「……家入?」
「んーん、なんでも! そんな生徒もいるんですねぇ」
「オマエがそれ言う?」
「はい?」
「いや、自覚がないなら良いんだけど」虎杖は晴れ渡った空を見上げる。「俺って人間関係に恵まれてるよなぁ」
「五条に最初に目ぇ付けられててそう言えるって凄いわ」
「え」
「自覚がないなら別に良いですよ」
 視線を戻した虎杖に変わって今度は家入が空を見上げた。
「良い天気ですねー」
「あ、うん」
「焼き芋したいなぁ」
「いきなりだな。確かに落ち葉はいっぱいあるけど」
「それにこんな天気ならきっとヤニも美味い」
「それは駄目だろ未成年!」
「あはっ、ジョーダンです」
「ホントに?」
「ホントホント〜」
 家入はへらりと笑って携帯電話を取り出した。
「じゃあ焼き芋メンバー集めますね」
「集まるかなぁ」
「集まりますよ、虎杖さんがいれば」
 そう言って少女はカコカコとボタンを連打し素早くメールを作成し始めた。まだSNSがそれほど普及していない時代なのでこれが今を生きる学生達の連絡方法だ。
「芋は誰が買ってくんの?」
「五条にさせましょう。アイツ、もう完璧に瞬間移動できるから」
「じゅ、呪術の無駄遣い〜」
 くだらない会話を続けている間に早くも返信メールが届く。それを虎杖に見せて家入は自慢げに告げた。
「ね、言ったとおりっしょ」
 返信の数は四件。どれも同じ内容の答えで、虎杖はそれを見ながら「流石は閑散期」と呟く。
「悟に夏油に七海に灰原……どうせなら伊地知も誘おうかな」
「お、いいですね。誘っちゃいましょ。連絡先、分かります?」
「おう。メアド交換してる」
「わあ……」
「家入?」
「何でもないですよ、ホント。それじゃあ連絡してあげてください」
「ん」
 虎杖は二つ折り携帯電話をポケットから取り出し、慣れた手つきでパカッと開いた。







2020.05.05〜2021.01.13 pixivにて初出