ワンダーランド・エリミネーター 第一部(後篇)




[chapter:6]

 特級呪物・両面宿儺を喰らった器。その名を虎杖悠仁。
 しかし高専が総力を挙げて生まれたばかりの赤子から死にかけの老人まで全て調べても該当する戸籍はなく、加えて彼が親族だとして名前を挙げた人物もまたこの日本には存在していなかった。一方、偽名を名乗ったのかとなじられた当人は『虎杖悠仁』の戸籍がないことに大した反応を示さなかったが、祖父とされる人物さえ国内では確認されていないことに関して僅かに目を見開いていた。「じいちゃんも、いない? なんで?」という呟きに、問い詰めていた側は訝しげな顔をするばかり。ただしそんな彼らに「ギリギリ俺が生まれていないのは仕方がないとして」という胸中での呟きまで伝わることはなかった。
 そんな正体不明の人物は宿儺の指をたった一本しか取り込んでいないはずだったのだが、現時点で彼に敵う呪術師は存在していなかった。まさか本当は虎杖が宿儺の指を二十一本も取り込んでいるとは思わない呪術界上層部は非常に焦った。これでは両面宿儺の器を祓え(ころせ)ない。
 だが運は上層部に味方する。
 両面宿儺の器は五条悟にご執心のようで、今回の件で五条悟に一切の責を負わせないこと、また今後呪術界は決して五条悟を害さないことを条件に封印されることを了承したのだ。
 しかしながら呪術界の上層部は器を封印して終わらせるつもりなど一切なかった。それは全ての封印中の呪い・呪物に言える方針だが、祓えるならば、祓う。ゆえに封印にはさらに条件が追加された。――封印の期間は両面宿儺の器・虎杖悠仁を祓える力を持った者が現れるまで、と。
 この追加条件は封印可能期間を制限するものであったため、封印をさらに強化することができるという側面もある。こうして、いつか両面宿儺の器を祓えるほどの力を持つ呪術師が現れるまで虎杖悠仁は封印されることとなった。
 とは言っても、その未来は決して遠くの事象ではない。器を祓うことができると思しき人間はすでに生まれ、力を示している。
 おそらく将来的に両面宿儺の器を祓えるようになるであろう子供――五条悟は、虎杖悠仁を庇い、また彼に庇われる立場であったが、子供の思考をねじ曲げてしまうことなど容易いと上層部の老人達は考えていた。むしろ両面宿儺の器が己の封印と引き換えに守った子供が今度は自分に刃を突きつけた時、一体どんな顔をするのか見物だと嗤う輩さえいたほどである。器が高専に連行された際、黙ってそれについてきた五条の様子が大変大人しかったこともその楽観視を助長させた。
 ゆえに天は自分達に味方していると思った老人達は知らない。
 五条悟の執心を。彼が虎杖を想って唇を噛み締めていたことを。そして、
「俺が『最強』になったら悠仁は返してもらうからな」
 誰に聞かせることもなく告げた決意を。
 虎杖悠仁は呪術界が五条悟を害さないことを条件に封印された。呪術界の上層部は最終的に虎杖を封印ではなく祓うつもりでいる。そして五条悟が『最強』になる、つまり両面宿儺の器を祓えるだけの力をつけたなら、彼に器を祓わせるため、またそういう縛りであるため、上層部は封印を解く。
 だが上層部の思惑に反して、五条が虎杖を祓うことなど有り得ない。むしろ封印を解かれた虎杖を守る。そうすれば呪術界は五条を敵と見なして攻撃する――……と、そんな事態になろうものなら、五条以外誰も敵わない『両面宿儺の器』が真っ先に呪術界に牙を剥く。五条悟を害さないという約束が守られ続ければ両面宿儺の器も呪術界には牙を剥かないが、破れば確実にそうなるだろう。
 虎杖悠仁と五条悟の両方を相手にして呪術界が勝てるはずもなく、結果、呪術界上層部がとれる手段は一つしかなくなるのだ。
 この仕組みを虎杖が考えていたかどうか五条には分からない。だが結果として、捻くれた性格の運命の女神が本当に微笑むのは己だと五条は確信した。あとは自身が『最強』となるのみ。
 もし五条悟ではない人間が最強となったのなら話は全く別物になっていただろう。しかし現状、唯一その座につくことができると考えられているのは五条のみ。他の才ある者は五条には及ばず、上層部が五条を使える≠ニ判断しているうちは殊更見向きもされないため、わざわざ注力して成長を促すこともない。
 ゆえに大切なものを一時的とはいえ奪われた少年は噛み締めすぎて血を流していた唇を舐め、煮えたぎるような怒りを腹の底に隠して笑う。
「だから、それまでは『良い子』でいてやるよ。腐れジジイども」

     ◇

 ――『術師殺し』
 そう呼ばれるようになってどれくらい経っただろうか。
 馴染みとなってしまった仲介役とのやり取りを終えて電話を切った甚爾はホーム画面に戻った携帯電話を見つめて、ふ、と小さく息を吐き出した。
 先程の連絡はまた大きな仕事を寄越すので顔を見て話したいと言うもの。何やらきな臭い匂いがプンプンするが、最早それは甚爾にとって慣れ親しんでしまったものでもある。
「あー……そういや訂正すんの忘れてたな」
 電話口で己を『禪院』と呼んだ仲介役――孔時雨の声を思い出し、甚爾はぽつりと呟く。
 今の甚爾は『禪院』ではない。少し前に甚爾はとある家に婿入りし、今は『伏黒甚爾』と名乗っていた。
 何人もいる女達の中からその姓を持つ者を選んで婿入りまでしたのは相手の容姿性格立場諸々が甚爾にとって都合が良かったから……というのもあるが、きっと最後の決め手は姓が『伏黒』であったからだろう。
 甚爾は目を閉じ、瞼の裏にその姿を思い描く。
 初めて出会った時、甚爾を「伏黒?」と呼んだあの男の姿を。
 たとえ人違いで口にした名前であっても、それは甚爾の頭の中にはっきりと残っていた。そしてある程度条件を満たす女達の中で一人を選ぶ際にその名は甚爾の指が向かう先を決めた。そうして今、甚爾は伏黒姓を名乗っている。
 ちなみに結婚するにあたって甚爾はいわゆるコブつき≠ナあったが、相手の方もまた甚爾の息子より一つ年上の少女を連れていた。名を津美紀と言う。
 性別も、年齢も、黒い髪も、津美紀は一切似ていなかったが、それでも太陽のように明るく笑う姿は甚爾にあの男を思い起こさせた。しかもあれは、あの男と同じく根っからの善人だ。こんなろくでもない男に引っかかる女の子供とは思えない程に津美紀は朗らかで善き人間であった。
 だから少しばかり構い過ぎてしまったのだろう。妙に懐かれ、結果、現在の甚爾は最愛の者を思い出させる息子と彼女の両方から距離を取る羽目になっている。
 どうせ今の己は自分も他人も尊ばない。大切なものを亡くした時に尊ばないことを決めた。ゆえに近くにいても傷つけこそすれ、慈しむことはできないだろう。
「……さてと、飯でも食いに行くか」
 壁から背を離し、携帯電話を尻ポケットに仕舞ながら独りごちる。
 甚爾がいたのはパチンコ店の裏手。もう一度店内に戻る気も起こらず、昼食とも夕食ともつかない食事をとるために大した当てもなくふらりと歩き出した。
 気軽に「メシ奢れよ」と連絡することがなくなって何年経ったのか、その年数を頭の片隅でぼんやりと思い起こしながら。

     ◇

 夏油傑にとって五条悟という人間は『気の置けない親友』である。
 類い稀なる能力と、実力に相応のプライドを備え、悪ぶっているし実際クズのような言動も見せるが、一方でなかなか情に厚く、お人好し――……と言うと全国のお人好しさんに大変失礼になってしまうので言えないが、ともあれ、夏油とは対照的な性格であるため衝突することも多々あるが、何だかんだで気が合い、もう一人の同級生も合わせて自分達三人は良い関係を築けていると思えるような存在だった。
 ただし最初からこうも好意的に捉えていたわけではない。
 夏油から見た五条の第一印象はなんて無機質で面白味のない奴なんだろう≠セったからだ。
 無下限呪術の使い手にして数百年ぶりに生まれた六眼の持ち主。その肩書きに違うことなく五条は若干十五歳にしてすでに並ぶ者のいない強力な術師だった。
 しかし御三家の一角でありそれほどまでの実力を持っているにもかかわらず、彼は呪術界の上層部の無茶な指示にも逆らうことなく淡々と任務をこなす。整った容貌も合わさって、まるで人形のような存在だった。
 だが、流石(さすが)に同じクラス――しかも自分を合わせて三人しかいない――で何ヶ月も付き合っていれば、それが単なる『フリ』であることも分かってくる。
 そう、五条悟の本性は傲慢不遜、強大な力に相応のプライド≠持つ悪童で、かつ人情家でほんの少しお人好し。ただし強者でありすぎる所為か、弱者への配慮はほとんどなく、それ故に言動はまさにクズオブクズ。しかしながら頭が良く回り、自分を制御する術にも長けていたため、上層部からは一切本心が見えないように立派な猫を被っていたのである。
 どうしてわざわざやりたくもない任務をこなし、上層部のジジイ共にとって使い勝手の良い駒を演じてみせるのか。その理由も夏油は五条本人の口から知らされていた。
 曰く、取り戻したい人がいるのだそうだ。
 そのために今は猫を被って上層部を油断させている最中なのだと言う。
 五条が求める人物は上層部からは呪霊や呪物と同一視されており、現在は高専の深部で封印されている。封印が解除される方法は二つ。一つは、封印される代わりにその人物が提示した条件を呪術界側が破ること。もう一つは、単独でその人物を殺せるほどの力を持つ呪術師が現れることだった。
 後者の『呪術師』に最も近い位置にいるのが五条悟であり、つまるところ上層部は五条にその人物を祓わせる気でいるらしい。たとえ幼少期に交流があったとしても、数年すれば記憶も薄れ、呪術師としての思考もできあがり、自ら進んで呪いを祓うようになるだろうと上層部は考えているのだ。五条もそんな老人達の思惑に乗って上手く振る舞っている最中であり、やがて誰にも逆らわせない力を得た暁にはクソジジイ共が憤慨する様を鼻で笑いながら大切な人をこの手に取り戻してみせると、強い決意に瞳をギラつかせながら夏油に語ってみせた。
 高専に封印されるほど危険な人物を外に出すという点に関して夏油は気にならないではなかったが、この選り好みの激しい男が選んだほどの人物である。おそらく、否、きっと、悪い人間ではないのだろう。
 必要とあらば私も協力するよ、と夏油が秘密を明かしてくれた友にそう告げれば、瑠璃色の双眸がサングラスの奥でパチパチと瞬き、次いで視線を逸らして「おう」と呟いた。口調は素っ気ないものだったが、以降、五条が自分と夏油を指して「俺達最強だし」と時折口にするようになったので、つまりはそういうことなのだろう。分かりにくくて分かりやすい人間だ。
 なお、五条が目的を持って猫を被っていることはもう一人の同級生である家入硝子も知っている。ただし彼女は夏油と違い、詳細を聞こうとしなかった。家入は反転術式を得意としているため、上層部から非常に目をかけられている。つまり上層部に目を付けられている≠ニも言い換えることができ、下手に五条の真意を知ってしまうと自分から外部に漏れかねないと懸念してくれたのだ。
 そうして確かな絆で結ばれた三人は誰一人欠けることなく、無事二年生へと進級した。
 夏油と家入の前で五条が猫を被ることは一切なく、おまけに単独で『最強』の一歩手前まで到達したためか、はたまた心強い友を得たためか、五条は二人以外の前でもある程度本来の振る舞いを見せるようになっていた。
 その一番の被害者は、年上であるにもかかわらず彼に一切敬われることのない庵歌姫二級術師だろうか。ただし猫を被らないということは信頼しているという証拠でもあるので――断じて『軽んじている』わけではないと言いたい――、庵二級術師には五条の傲慢不遜な振る舞いを我慢してもらいたい。……などと、もし夏油が言ったなら、その途端、彼女は烈火の如く怒り狂うことだろう。それくらい五条のナメた態度≠ヘ酷かった。
 ともあれ、三人が二年生になって迎えたある夏の日、それは起こる。
「正直荷が重いと思うが、天元様のご指名だ」
 担任である夜蛾から五条と夏油の二人に任務が言い渡された。
「依頼は二つ。星漿体%V元様との適合者――その少女の護衛と、抹消だ」
 二人であれば容易いと思われた任務。
 しかし運命は思わぬ方向へと転がっていくことになる。



[chapter:7]

 東京都立呪術高等専門学校の最深部には天元と呼ばれる存在がいる。
 不死の術式を持つ呪術師であり、帳などに代表される結界術の強度を底上げしている呪術界の要だ。
 重要な役割を果たすその人物は不死ではあるものの不老ではなく、一定以上老化すると術式が肉体を創り変え、人ではなくなり意思のない高次の存在に進化してしまう。よって天元が『進化』により人間に害をなす存在にならないよう、五百年に一度の頻度で天元と適合する人間星漿体≠ニ同化して肉体の情報を書き換えるという行為が必要だった。
 その五百年に一度というタイミングが五条達の年に回ってきたのは一体何の因果だったのか。ともあれ、此度の星漿体を護衛し、天元の所まで無事に送り届ける――夜蛾は送り届けた後に行われる『同化』を星漿体の『抹消』と表現したが――という任務が五条悟と夏油傑の二人に任されることとなった。
 護衛期限は二日後の満月まで。つまりほぼ三日間。その間、五条達が気に留めるべき障害は二つ。
 一つは、天元の暴走による現呪術界の転覆を目論む呪詛師集団『Q』
 もう一つは、天元を信仰し崇拝する――それ故に不純物となる星漿体との同化を忌避する――宗教団体、盤星教『時の器の会』。
 盤星教は非術師の集団であるため警戒すべきは『Q』の方だと、星漿体たる少女の元へ向かう道すがら夏油は五条に語った。その直後、少女が滞在しているホテルが襲撃され、五条と夏油は即座に対応。高層ビルから放り投げられた黒髪三つ編みの少女――天内理子、および彼女の世話役である黒井美里は無事保護されるに至った。


「始まったな」
 呪詛師集団『Q』と五条達の戦闘を別のビルから眺めながら仲介役・孔時雨は呟いた。
 がらんとした展望施設で同じように窓の外の光景を眺めるのは、時雨が今回の依頼を持ち込んだ相手――術師殺し、禪院甚爾。
「盤星教には呪術師と戦う力がねぇ。でも金払いはいいぞ。それは保証する」
 黒いスウェットの上下を身にまとい気怠げに眼下の景色を眺める男へ時雨は視線を向ける。
「どうだ禪院。星漿体暗殺、一枚噛まないか?」
「もう禪院じゃねぇ。婿に入ったんでな。今は伏黒だ」
 時雨にそう返した男――禪院甚爾改め伏黒甚爾は口元の傷を歪めてかすかに笑う。そして「いいぜ。その話、受けてやる」とあっさり続けると、再び意識を眼下の景色に向けてしまった。
「……やはりオマエでも五条悟は気になるのか?」
 甚爾の見ている光景を同じように眺めて時雨は問う。
 すると横からは鼻で笑う気配がし、「まぁ六眼と無下限呪術の組み合わせとくりゃあな」と答えたのち、
「アイツ≠謔闍ュくなったかどうかは知らねぇけど」
 と、独りごちた。
「ぜん……伏黒?」
 時雨が名を呼び直しながら訝(いぶか)れば、甚爾は「オマエと仕事し始める前の話だよ」と僅かにその胸の内を明かした。
「五条悟がガキ……いや今でもガキだけどよ、もっと小せぇ頃にあのガキの護衛みたいなことをしてたヤツがいてな」
「赤ん坊くらいの頃じゃねぇと護衛なんてあってもなくても同じようなもんだったんじゃないか? あの五条悟だぞ?」
「その通りだ。護衛なんぞなくてもあのガキは充分だっただろうさ。……が、実際、五条家の坊はたった一人だけ護衛を侍らしてたし、アイツ≠ヘ当時の五条悟より――」
 最後まで言い切らずに口を噤んだ甚爾へ時雨は一瞥をやる。「まさかとは思うが」と、『Q』の戦闘員を遊び半分で相手取る五条の姿を視界に捉えながら時雨は続けた。
「小さな子供だったとは言え、総額で億の懸賞金が懸けられるような奴よりもソイツは強かったのか?」
「たぶんな」
「たぶん?」
「実際殺り合ったことがねぇんだよ。その前にこっちから手を引いた」
「へぇ、オマエが。そりゃよっぽどだな」
「ああ」
 拍子抜けするほど簡単に甚爾は認める。
 確かに時雨が知るこの男は己の手に負えないと分かると即座に手を引くタイプの、ある意味で大変利口な奴ではあるが、そもそも容易く手を引く必要がないほど非常に高い実力を持っていた。しかも呪力がないため呪いそのものを相手にすることはできずとも、代わりに術師相手であれば呪具がないままでも戦うことができる。そんな人間が戦う前から負けを認めたのだ。幼少期の五条悟の護衛≠ニはかなりの手練れであるのだろう。
「だがそんな奴ならこの界隈でかなりの有名人になってるはずじゃないのか」
「普通はそうなんだろうが……」窓の外を眺めたまま甚爾は別の何かを見るように両目を細める。「五条悟は有名になってもアイツの話題は一切聞こえてこねぇ。五条悟が隠してんのかもな」
「それこそ『隠し球』ってか?」
「さあ? 俺もあのガキと付き合いがあるわけじゃねぇし」
 ひょいと肩をすくめて甚爾がそう答えた。
 時雨は相手の態度に「おや?」と思いながら片方の眉を上げる。今の彼の物言いは「五条悟との付き合いはないが、五条悟の護衛だった男とはある程度の親交があった」と言っているようにも聞こえたのだ。
「もしオマエの言うソイツが出てきても、オマエは戦えるんだろうな?」
 かつて戦う前に引いた相手であり、さらには親交もあったとなれば、仲介役としてその辺りのことは確かめておきたい。時雨がそう訊ねれば、甚爾は鼻で笑って「でなきゃ最初から受けるなんて言わねぇよ」と返した。
「それなら安心だ。じゃあ盤星教との話は進めさせてもらうが……」
 時雨は甚爾の横顔を改めて一瞥する。
 黒い前髪の下で細められた両目は相変わらず五条悟を通して別の物を見ているようだ。何か思うところはあるのだろうが、何を見て、何を思っているのかは分からない。ただ本人が告げたとおり、依頼を受けると言った以上、甚爾が知り合いの有無にかかわらず課された仕事を完遂する気でいることに違いはなく、その方法もすでに頭に浮かんでいるのだろう。
 ゆえにそちらの心配は頭の片隅に追いやって、時雨は「一応聞かせてくれ」と別のことを訊ねる。
「ソイツの名前は?」
 暗緑色の双眸が目線を持ち上げ時雨の方を向いた。
 薄い唇がゆっくりと開き、嘲るように、懐かしむように、告げる。
「――虎杖。虎杖悠仁、だ」

     ◇

 呪詛師集団『Q』に狙われた天内とその世話役である黒井を助けた後、五条達は天内の要望を受け、中学校へ登校した彼女の護衛として同じく学校――廉直女学院中等部を訪れた。
 身の安全のためにはすぐに高専へ送り届けるべきなのだが、今回の任務の依頼主である天元本人から護衛中は天内の要望には全て応えるよう命令が下されていた。よって五条、夏油、そして黒井の三名は天内や彼女の同級生達からは見えない位置で護衛を続けることとなったのである。
 天元との同化までの僅かな時間を友人達と過ごしたい。そんな天内のささやかな願いは、しかし案の定と言うべきか不幸にもと言うべきか、無粋な輩達によって台無しとなる。闇サイトで天内の首に懸賞金が懸けられ、それを狙った呪詛師が学校を襲撃したのだ。
 結果として、天内にも学校の人間にも大した被害はなく呪詛師達を排除することはできた。だが五条が天内を守りながら呪詛師と戦い、そこへ先に別の呪詛師を倒していた夏油が向かった隙に、一人になっていた黒井が何者かに誘拐されてしまう。
 黒井誘拐の首謀者は『Q』でも他の呪詛師でもなく、盤星教。取引先には沖縄が指定された。
 護衛二日目に五条達三人は飛行機で沖縄入りし、無事に黒井を救出。ついでに犯人を捕縛して尋問まで終了し、三日目の午前中いっぱいまで沖縄観光と洒落込んだのだった。
 天内に懸けられていた懸賞金は護衛三日目の午前十一時に取り下げられ、同日十五時には四人揃って高専へ到着。石の階段を上り、いくつもの鳥居をくぐり抜けた先で先頭を歩いていた夏油が後ろに続いていた三人を振り返り「皆、お疲れ様。高専の結界内だ」と告げて微笑んだ。
「これで一安心じゃな!!」
「……ですね」
 夜になれば天元と同化する天内が脳天気に――そう装って――告げる。隣では黒井がほっとしつつも寂しさを隠しきれない様子で遅れて同意した。
 一方、沖縄では飄々と振る舞いながらも実のところ三日間ずっと睡眠を取らず無下限術式も解かずにいた五条はそろそろ肉体的にも精神的にも限界がきており、一言も発さず、目も据わっている。彼の陰の努力を知っていた夏油はあくまで天内達にそれを知られぬよう「悟、本当にお疲れ」とだけ告げるにとどめた。
「二度とごめんだ。ガキのお守りは」
 うんざりとした口調を隠さずに呟き、五条がやっと術式を解く。
 そんな彼の物言いに天内が「お?」と青筋を立てながら反論しようとし――

 トスッ、と。あまりにも軽い音を立てながら、五条の胸から刃が生えた=B

「っ、アンタ」
 己を背後から強襲し背から胸へと刃を突き立てた黒髪の男に五条がサングラスの奥で目を見開く。
 口元に傷があるその男は暗緑色の双眸で五条を見上げながら「へぇ。俺のこと覚えてたのか」と意外そうに呟いた。
「なぁ五条悟さんよ」
「禪院、甚爾……ッ!」
 五条の整った顔が嫌悪と怒り≠ノ染まった。
 憎々しげに名を告げれば、男は「名前まで知ってるとはな」と驚きつつもすぐに皮肉げに口の端を吊り上げて「でも、今は『伏黒』ってんだ」などとのたまう。
 だが、はっきり言って名前などどうでもいい。
 五条は『蒼』で甚爾を己から引き剥がす。その動作に合わせて夏油が芋虫型の巨大な呪霊を操って空中に浮いた男の身体を丸呑みにした。
「悟!!」
 夏油が五条の元へ駆け寄る。
 しかしそれを手で制し、五条は夏油に天内達を連れて天元の所へ向かうよう指示した。夏油の表情は硬かったが五条への信頼もあり、また状況を適切に判断できる論理的思考も持ち合わせていたため、即座に天内と黒井を連れてその場から離れる。それでも「悟っ!」と一度五条の方を振り返る夏油。
「大丈夫なのか」
「誰に言ってんだよ」
「オマエの知り合いじゃ……」
「あー……」
 夏油が眉間に皺を寄せている理由は五条が相手の名前を呼んだからだろう。しかし知り合いであるが故に戦いに支障が出るのではという心配は全く無用な物だった。
 五条はサングラスを外して呪霊の腹の中にいるであろう男を見据える。同時に「へーきへーき」と手を振って夏油を先に行かせつつ、その背に届かぬ音量で続ける。
「アイツは俺から悠仁を奪った元凶の片割れみたいなモンだからなぁ」
 恨み、憎みこそすれ、手加減するはずなど一切ない。
 敵意に満ちた声は地を這うように低く、そして呪霊の腹を切り裂いて出てきた男を見据える双眸は氷のように冷たかった。

「嗚呼、本当に。……オマエさえ、いなければ」

 虎杖悠仁はずっと五条悟の隣にいたはずなのに。



[chapter:8]

「嗚呼、本当に。……オマエさえ、いなければ」
 呪霊の腹を切り裂いて出てきた甚爾。それを出迎える第一声は、怨嗟に満ちた五条悟の言葉だった。
 どうにも様子のおかしい五条を眺めながら甚爾は眉間に皺を寄せる。この厄介なガキが何を言っているのか分からない。自分が――伏黒甚爾がいなければ、一体何だと言うのだろう。
 呪詛師御用達の闇サイトで天内理子に懸賞金を懸けた依頼主がこちらだとは知られていないはずなので、少なくとも現在進行形の事態とはまた別のことを示しているのだと察せられたが、星漿体暗殺以外で五条の不興を買うことなど何もなかったはずだ。
(……ま、どうでもいいか)
 甚爾は胸中でそう結論づけた。
 五条が甚爾を恨んでいようが何だろうが、結局のところはどうでもいい。さっさと片づけて、こちらが呪霊の腹の中にいた僅かな間に姿を消した星漿体の少女を追いかけ、殺す。それだけだ。
 その過程で五条悟を殺害することに何も引っかかりを覚えないと言えば嘘になる。この三日間で姿を確認することはできていないが、それでも五条の近くには今も虎杖悠仁がいるはず。虎杖は甚爾と出会った当初から五条を特別大事にしているようだった。甚爾もその後随分と親交を持ったが、もし甚爾と五条が戦ったなら虎杖は一体どうするのだろう。そして、甚爾が五条を殺してしまったら――……。
(いや。こっちも、どうでもいい)
 虎杖が何を思おうが、今の甚爾には関係のないことである。
 そして物理的な障害としての虎杖は今のところ一切姿を見せていないため、こちらも最早どうでもいい。出てきたのなら敵として対処するし、出てこないのならそれまでだ。
 甚爾は身体にまとわりつかせていた武器庫代わりの呪霊に持っていた太刀を喰わせ、同時に別の呪具を取り出す。一方、五条は凍りつくような視線を甚爾に向けているものの、未だ動きらしい動きを見せていなかった。
 こちらの思惑通り三日間の護衛で不眠および術式を展開し続けた身体はひどく消耗し、おまけに先程の甚爾の一撃で腹に穴まであけている。咄嗟に傷の拡大を防ぎ止血までは済ませているようだが、十全には動けないだろう。
 本来であれば初撃で息の根を止めておきたかったのだが、できなかったのなら仕方ない。武器庫に喰わせていた『とっておき』を使う方法に切り替えながら、甚爾は右手にそれを構えた。
 ――特級呪具『天逆鉾』
 先程、芋虫型の呪霊を切り裂いた時に用いた太刀からは随分とサイズダウンし、さらに非対称な二股になった刀身は刃のついた十手のようにも見える。殺傷性は低そうな代物だ。
 しかし効果は「発動中の術式強制解除」であり、防御を無下限呪術に頼る五条には相性最悪の呪具である。無論、呪具の効果を知られれば対策を取られてしまうだろうが、禪院の蔵に死蔵された数多の呪具を全て五条の坊が把握しているはずもない。戦いの中で気づかれる前に殺せばそれで終わり。
 甚爾は天逆鉾を逆手に持ったまま、まずは本命ではない攻撃を加えようと右脚に力を入れ――。

「俺さ、ちゃんと調べたんだよ。どうしてあの夜、アイツが外に出ていたのか」

 暗く濁ったような瞳が甚爾を見ていた。
 凍えるほどに冷たくて、煮えたぎるマグマのように熱い。負の感情を煮詰めた双眸が甚爾の足を止めさせる。
「アイツが俺のお願いを無視して、誰を捜し回っていたのか。その誰かさんはどうしてアイツの前から姿を消したのか。ぜんぶ、ぜーんぶ、調べたんだ」
 綺麗な弧を描いて口元だけが笑っていた。
「オマエだけが悪いんじゃない。オマエが直接的な原因だったわけじゃない。そんなことは俺だって充分に理解してる。一番馬鹿なのは上のクソジジイと弱いくせに粋がってるヘボ術師共で、あとは俺の言うことを聞かなかったアイツと、誰の目にも触れさせないようにアイツを閉じ込めておかなかった俺も馬鹿だった。でもな?」
 年単位で溜め込まれた呪詛のような言葉が甚爾に向けて放たれる。
「オマエが『現実』から逃げなければ。あの夜、姿を消さなければ。アイツはオマエを探しに行かなかった。呪術師の戦いに遭遇することもなかった。器であることを誰にも知られずにいられた、のに。……オマエの所為で。オマエが『妻の死(げんじつ)』から逃げたから。あの夜、姿を消したから」
 ギリ、と五条が唇を噛み締める。流れ出た血は白い顎を伝い、負傷と疲労で流れ出た汗と混じって制服を汚した。
「秘密はバレて、アイツは俺の手から離れていった」
「……何言ってんだテメェ」
「ハハッ。まだわかんねぇの?」
 濁った六眼を大きく見開いて、狂ったように口角を上げ、五条悟は意図が察せず訝る甚爾に嘲笑を向ける。

「悠仁だよ! 虎杖悠仁! オマエが何も言わず姿をくらました所為で悠仁は呪術師共に見つかって封印された!」

「――――――――は、」
 後頭部を思い切り殴られたかのような衝撃が甚爾を襲う。
 しかしまともに何かを喋る前に五条の手が動いた。甚爾の背後で『蒼』が発動し、甚爾の肉体を強制的に引き寄せる。
 甚爾の身体能力があれば引きちぎれる速度だったが、足が地面を蹴るより早く別の場所にもう一つの『蒼』が発生して甚爾の身体は直角に移動方向を変える。壁に思い切り激突させられ、破壊しながら身体は室内へ。
 ただしそのまま床に転がるはずもない。戦い慣れた身体は床面への着地と同時に体勢を立て直し、駆ける。
 甚爾に呪力がないこと、それ故のフィジカルギフテッドであることには、五条も気づいているだろう。ゆえに辿るとすれば、甚爾が用いている武器庫の呪霊の気配。しかしそれを辿ったとしても高速で移動する甚爾を捉えることは難しい。
 五条が手を大きく横に振るった。
 直後、彼の周囲に破壊がまき散らされる。出力を最大まで高めた『蒼』によって周囲を根こそぎ破壊し遮蔽物を取り払ったのだ。しかしそんなことをしても無駄だった。五条の周囲が更地になった頃には甚爾は建物の奥に広がる森へと後退しており、同時に呪霊の中に仕舞っておいた大量の蠅頭を五条の周囲に飛ばす。
 チャフの呪霊版とでも言えば良いのか。
 呪力で甚爾を感知することができない五条は代わりに甚爾が用いる武器庫の呪霊の呪力を探っている。だが数多の蠅頭がその周囲を飛ぶことで五条は武器庫の呪霊を感知できなくなった。とくれば、次は甚爾を攻撃するのではなく甚爾からの攻撃を防ぐために呪力を使う。同時に、甚爾の目的が天内理子の殺害だと思い出して五条に隙ができ、
「ねぇのかよ!?」
 天内理子の危険に五条が焦った様子はなく、再び『蒼』が炸裂した。
 周囲への被害になど一切配慮しない。蠅頭も、その先に広がる森も、五条の視界に映るものが瞬く間に破壊されていく。甚爾は舌打ちしながらも驚異的な身体能力で五条の無差別攻撃を躱し、武器庫の呪霊から先程収納した太刀をもう一度吐き出させた。それを左手に構える。
「はっ……殺す気満々ってか」
「悠仁を奪った奴に与える慈悲なんて無いんでね」
「俺はアイツに何もしてねーだろ」
「うっせぇよ現実逃避野郎。嫁さんの死からもダチからも逃げたくせに」
「……」
 表情を変えたつもりはないが、天逆鉾を握る右手に力がこもった。
「クソガキが」
「クズ野郎」
「殺す」
「それは俺の台詞」
「俺を殺せばアイツはどう思うだろうな」
「悠仁は封印されてんだから知るわけねーだろ。勿論、封印が解けてもオマエはずっと『行方不明』だよ」
 暗に死体も残さないと宣言して五条が術式を発動させる。
 引き寄せる力、『蒼』だ。甚爾はボロボロに砕けた石畳の上を駆けながらその効果範囲外へと逃げる。
 おそらく今の五条悟の頭の中に天内理子の存在はない。虎杖悠仁を奪った者――伏黒甚爾が現れた瞬間から、その意識は全て甚爾への怒りと憎しみに塗り潰された。ゆえに五条は甚爾が天内を追いかけるということにすら頭が回らなかったのかもしれない。五条にとっては幸運、甚爾にとっては計算外。思ったよりも五条悟は理性的な人間ではなかった。
(もしくは、虎杖の存在がこのガキの中でそんなにも大きかったのか)
 脳天気で馬鹿丸出しの、もしくは真夏に天を向いて咲くヒマワリのような。そんな虎杖悠仁の笑みが脳裏をかすめる。
 甚爾は無意識に顔をしかめて地面を蹴った。まるで己に襲いかかる痛みを振り払うかのように。
 残り少ないチャフ代わりの蠅頭が飛び交う中で甚爾は五条との距離を詰める。相手の懐に入り、左手の太刀を五条の心臓に突き立て――……られない。
 近づくほどに速度が遅くなる無下限呪術。知っているだろうにどうして無意味な攻撃などしてきたのかと、五条の顔に一瞬訝るような表情が浮かぶ。
「そういやオマエさ」
 刀身が全く進まなくなったにもかかわらず突き立てるための力を緩めぬまま、甚爾は下から五条を見上げた。
「さっき俺とアイツのことをダチって言ったよな。だったら……」
 甚爾は口の端を持ち上げる。
 高専の結界内に入った直後、無下限術式を解いた瞬間を狙った攻撃は失敗。蠅頭をチャフとして使いながら星漿体が危ないと思わせて隙を作るのも失敗。予定ではこのどちらかで五条を仕留めるはずだった。しかしどちらの策も五条を仕留めることあたわず。ならば、と甚爾は露悪的な表情を作り上げてこの青臭い子供に問う。

「セックスする仲でもダチだって言って良いもんかね?」

「――――――ッ!!」
 虎杖悠仁とはセックスどころかまともに触れ合ったことさえない。唯一、妻を喪った時に泣き崩れて縋った程度だ。当然のことながら唇を合わせたこともない。だが、そんなことを五条が知る由も無かった。
 甚爾が欲したのはそんな過去ではなく、今、目の前にいる相手の変化。五条は甚爾の言葉の意味を解した瞬間、獣のように吼えた。単調な、ただ呪力が乗っただけの手が甚爾の首を絞めようと迫る。
「ホント、青くせーガキ」
 小さく呟きながら、右手に持っていた天逆鉾で甚爾は薄く五条の太腿を裂いた。
 五条悟を守っていた術式が切れる。

 ぐしゅ、り。

 生々しい水音と共に、無下限術式によって止められていた太刀の刃が動く。銀色に輝くそれが五条の心臓を貫き、背中へと突き抜けた。
「っ、ァ…………がっ」
 喉からせり上がってきた血が五条の口から零れる。それを頭から被る前に甚爾は一歩引き、同時に太刀を抜き取った。傷口から溢れ出る血は一瞬にして地面を濡らし、五条がその上に膝をつく。
 甚爾は自分の腰の位置まで下がった五条の頭髪を太刀の柄ごと掴み、血まみれの顔を上向かせた。
「テ、メ……」
「安心しろ。嘘だ」
「は」
 一瞬、五条からの強烈な殺意が消える。
 甚爾は苦笑して「誰があんなガタイのいい男を組み敷くかってんだ」と呟き、
「まあ、オマエは違うのかもしんねーけど。いずれにせよ、もう無理だな」
 右手の天逆鉾を五条の首筋に押し当て、引いた。
 真っ赤な血が宙を舞う。
「永遠におねんねしてろ、クソガキ」



[chapter:9]

 コイツを気絶させるのは二回目だな、と胸中で独りごちながら伏黒甚爾はメイド服姿の女を見下ろした。
 場所は東京都立呪術高等専門学校の最下層、薨星宮。その本殿へと続く参道である。
 地上と参道を繋ぐエレベーターは一基しかなく、自分達が使った筐体が勝手に上昇し、再び下りてきたことで、星漿体の世話役は五条悟が追いついてきたのだと思ったのだろう。だがエレベーターに乗っていたのは白髪の高専生ではなく黒髪の男。甚爾の姿を目にした瞬間、安堵の表情だったメイドは全身に緊張と敵意をみなぎらせ、徒手であるにもかかわらず攻撃の構えを取った。しかし彼女程度の人間が甚爾に敵うはずもなく、一瞬で女の身体は地面に寝転がる結果となった。
 甚爾は気絶した女を見下ろしながら僅かに逡巡し、とどめを刺さずに奥へと歩き始める。
 このメイドが生きていようが死んでいようが甚爾には何の影響もない。ならばさっさと仕事を終わらせた方が良い気がしたのだ。理由はただそれだけ。
 脳裏にちらつく琥珀色を振り払い、甚爾は残穢ではない痕跡を辿りながら音も気配もなく本殿へ向かった。


 薨星宮、本殿。
 空間の中央には恐ろしく巨大な一本の樹木が聳え立つ。またトンネル状の参道は本殿の上層に出るようになっており、足元では瓦屋根の古い建築物が大樹を何重にも取り巻く形でひしめき合っていた。
 建物は大樹の根元に向かって階段状に並び、合間にいくつもの下り階段が設置されている。どの階段を使おうとも最終的には大樹の根元へ辿り着く形だ。そんな階段の手前で二人の男女――護衛役である黒髪の高専生と星漿体の少女が向かい合っていた。
 天元と同化すると言うことは、これまで関わってきた人々や生活との永遠の別れを意味する。生まれた時から定められていたその役割に星漿体本人も納得はしていた。受け入れていた。けれど。
「でも……でもやっぱり、もっと皆と……一緒にいたい」
 まだ十四歳の少女はぼろぼろと大粒の涙を零しながら訴える。
 本来であれば天元のもとへ彼女を送り届けるのが使命であるはずの護衛役の高専生も眉尻を下げてふっと息を吐いた。そもそもが彼の方から同化を拒むならこのまま引き返してしまおうと提案していたのだ。少女と出会う前から、星漿体が望まないのであれば逃げる手助けをする予定だった、と。
 高専生が手を差し出す。「帰ろう、理子ちゃん」と語りかける声は優しく、それを見つめて腕を伸ばす少女の顔には笑みが浮かんだ。
 なんと美しい光景なのか。
 天元の安定を、正確に言えば自分達の生活の安寧を願う者達にとっては唾を飛ばしながら激怒する光景だったかもしれないが、一人の人間の命と意思を尊ぶ姿がそこにはあった。
 若く未熟な者達の、愚かで、しかしキラキラと輝く奇跡のような物語のワンシーン。彼らに遅れて参道の終端まで辿り着いた甚爾はちょうどその場面に出くわすこととなった。
 無論、天与呪縛により身体能力が大幅に底上げされている甚爾の耳には少し前から二人の会話内容も届いている。このままであれば星漿体の少女を殺害せずとも、盤星教が望んだとおり、天元に不純物が混ざることは避けられるだろう。
 だが甚爾は少女を射程範囲内に捉えた瞬間、一切表情を変えることなく拳銃の引き金を引いた。
 甲高い破裂音を響かせて自動拳銃が弾丸を吐き出す。
 その弾頭は少女の側頭部――……ではなく、薄っぺらい腹を貫いた。
「あ、ああああああああ!!」
 過酷な運命から掬い上げようとしていた手とは指先すらかすめることなく、突然の暴力に倒れる痩身。激痛によって少女の喉からは悲鳴が迸り、傷一つ無かった繊手は爪が剥がれるほどに強く地面を引っ掻いた。
「理子ちゃん!」
 血相を変えて高専生が星漿体に駆け寄る。次の攻撃を警戒して盾代わりの呪霊を瞬時に用意したのは及第点と言ったところだろう。おかげで甚爾が放った二射目はその呪霊に防がれ、星漿体にも高専生にも届かない。
 呪霊操術の使い手たる黒髪の高専生は戦う力を持っていても癒やす力までは持っていないらしい。銃弾を受けた患部を強く押さえて出血を止めようとすることくらいしかできない。
「……、」
 高専生の意識が反撃ではなく少女の安否に向いているためやや手持ち無沙汰になりながら甚爾は己が生み出した光景を見、そして手元の拳銃に視線を落とした。
 おかしい。自分は一切の容赦も配慮も慈悲もなく、星漿体を殺すつもりでいたはずだ。なのに狙いは頭部から逸れ、即死できない腹部に着弾した。
「外した?」
 この伏黒甚爾が。この距離で。
 有り得ない、と甚爾はかぶりを振る。
 ただ、分からないフリをしているだけで本当の理由になどとっくに気がついていた。おかしいのは別に今だけではない。地上から参道へと下り、メイド服の女と遭遇した時からすでにそう≠セったのだから。もしくは、もっと前――。五条悟と絡むことが決定した瞬間から。
(厄介なモンだな)
 自分のことであるにもかかわらず呆れたように胸中で呟いて、甚爾はようやく敵意の籠もった眼差しでこちらを睨む高専生へと顔を向けた。
「なんでオマエがここにいる!」
 改めて訊かずとも分かっているだろうに、少女の出血で焦っている高専生は声を荒らげながら問う。
 甚爾は苦笑し、丁寧に答えてやった。
「クソガキが俺に負けたからだろ」
「悟は、」
「俺が殺した」
「――死ね」
 頭部だけで人の身長ほどもある巨大な龍が甚爾に襲いかかる。
 攻撃は大きく、そして強かった。仲間を殺された怒りもあっただろうし、何より癒やす手段を持たない以上、迅速に敵を排除して少女を治療できる場所へ連れて行くしかないという考えもあってのことだろう。
 虹龍と呼ばれるその呪霊の突撃を躱しながら甚爾は口の端を持ち上げた。攻撃を避け、時には銃で高専生を狙い、その合間に語るのは呪力皆無であるが故に高専へと潜り込めたこと、武器庫としての役割を持つ呪霊を自らの体内に隠し持つことで呪力が籠もった武器さえ容易く持ち込めたこと、そして天与呪縛によって五感の能力も底上げされ星漿体を追いかけることが可能であったことだ。
 呪術に関わる人間は何かにつけて呪力で全てを解決しようとしたがる。敵の探知も残穢に頼るのがほとんどで、それ故に一般人が思いつくような足跡や匂い、その他の物理的なものにまで頭が回っていない。この高専生達も残穢を残さないことには細心の注意を払ったのだろうが、微量計測器並の感覚を持つ甚爾には彼らの痕跡を辿るなどあまりに容易いことだった。
 そうして情報の開示によりさらに能力が上がった甚爾は五条の心臓を貫いた太刀で今度は虹龍を切り裂く。こちらを喰い殺そうと開けた大口から刃を差し込み、飛びかかってきた勢いそのままで二枚おろしにしてみせれば、高専生の目が大きく見開かれた。……が、そこで驚愕のまま動きを止めるような輩であれば星漿体の護衛など任されまい。
 虹龍が祓われてすぐに次の手が甚爾に襲いかかる。
「ねぇ。わた……わタ、わたし、きれい?」
 色調が反転し、空間の空気が変わった。現れたのは長く重たい黒髪にコートを着込んだ女。
 都市伝説の一つである口裂け女を思わせる呪霊はいわゆる『仮想怨霊』に分類されるものだろう。そしてこの仮想怨霊の能力は自身の質問に答えるまでお互いに不可侵を強制する簡易領域の作成。ただし単なる時間稼ぎのために登場したわけでもあるまい。さて、どのような攻撃をしてくるのか……と考えながら、甚爾は一応『女』であるその呪霊の問いに答える。
「そうだな、ここはあえて――。趣味じゃねぇ=v
 回答した直後、変化は訪れた。
 左耳の付け根に小さな痛み、そして出血。甚爾は「そういう感じね」と呟く。どうやら口裂け女の能力は回答した者の身体を巨大な糸切りばさみで切り裂くものであったらしい。美しさを求めて己の口を耳まで裂いたその容姿に由来するものだろうか。
 ともあれ並大抵の者であれば気づく前に、もしくは気づいたとしても、大怪我を負う羽目になっただろう。しかし相手が悪かった。甚爾は武器庫から五条の無下限術式でさえ解いてみせた天逆鉾を再び取り出し、自身の周りに出現していた巨大なはさみを一瞬のうちに全て撫で斬る。
 これでおしまい。術式は強制的に解除され、口裂け女は攻撃手段を失った。
 同時に簡易領域も解かれ、色調と空気が元に戻る。甚爾が簡易領域に囚われていた間、視界に黒髪の高専生の姿はなかったのだが、領域解除の直後、その気配が甚爾の背後に現れた。
 背後を取るというのは往々にして優位に立つものだが、背後だろうが何だろうが『伏黒甚爾』の間合いに入るなど愚かにも程がある。あまりの愚策に欠伸が出そうだ。が、相手の狙いは背後からの攻撃ではなかったらしい。甚爾は己の身体に巻きつかせていた呪霊が高専生の手へと吸い込まれそうになったことに気づき、その本当の目的を悟った。
(でもな)
 バチンッと音を立てて高専生の手が弾かれる。
 呪霊操術を扱う術師は呪霊を自らの体内に取り込む能力を持っており、階級換算で二級以上の差があれば降伏を省きほぼ無条件で取り込むことができるという。甚爾が扱う武器庫の呪霊の階級は低く、通常であれば容易く取り込まれてしまっていただろう。しかし取り込める云々は当該の呪霊がただの野良であった場合に限る。つまり、主従関係が成立している呪霊には取り込み条件が適用されないというわけだ。
 弾かれた手に驚愕の表情を浮かべる高専生。それは僅かな間であったが、甚爾にとっては大き過ぎる隙だった。
 甚爾は天逆鉾を空中に放り投げ、その間にしっかりと主人に引っ付いたままの呪霊から居合抜きの要領で太刀を取り出し高専生と口裂け女をまとめて袈裟懸けにする。返す刃でもう一度。肩から脇腹にかけて十字に斬りつけ、最後に術師の腹を思い切り蹴りつけた。ボグッと鈍い音を立てて黒い制服に包まれた身体が吹っ飛ぶ。
 ちょうど手元に落ちてきた天逆鉾もしっかりと掴み取り、甚爾は意識を失った護衛役の高専生を見下ろした。
 殺しはしない。それはメイドの女と同じ理由ではなく、ただ単純に殺すと厄介だからだ。呪霊操術を扱う術師を殺害した場合、体内に溜め込んだ呪霊がどうなるのか見当もつかず、制御を失って暴れ出す危険性もあった。そんな事態は流石に遠慮しておきたい。
「式神使いなら殺したんだけどな」
 五条悟と同じように、生きていては厄介な人間などさっさと殺しておくに限る。ただしそれをすることができない相手もいるというわけだ。
 甚爾は術師であればギリギリ死なない程度に痛めつけた高専生の頭部を軽く踏みつけて「親に恵まれたな」と呟いた。
「だがその恵まれたオマエらが呪術も使えねぇ俺みたいな猿に負けたってこと、長生きしたきゃ忘れんな」
 ――猿。
 かつて生家で散々言われた蔑称だ。甚爾の人としての尊厳を踏みにじり、唾棄し、弄んだ禪院の者達が甚爾を指して言った言葉。あそこは地獄だった。肥溜めのような場所だった。
 けれど甚爾は光と出会った。
 琥珀色の目を細め、太陽のように甚爾を呼ぶ男。
 春風のように優しく甚爾を包み込んでくれた女。
 そして女は甚爾の手のひらから零れ落ち、男は甚爾が自らの意思で捨て去った。女の死に絶望し、自分も他人も尊ばないとそう決めた時に。
 唯一手元に残したのは自分の血を、つまり禪院の血を引く幼い我が子。名前どころか存在さえ時折忘れるほどだったが、売り物≠ニして連れ歩いていたのだからその程度でも構わないだろう。
 たとえかつては将来の幸せを願って名付けた子であったとしても。

『子供の名前は恵≠ノしようかと思うんだが。コイツの将来が恵まれた幸せなものになりますように、って』
 まだ膨らみも分からない女の腹を優しく撫でながら男が告げる。
『うん、いいわね! ねぇ、虎杖君もそう思うでしょ?』
 その手を心地良さそうに受けながら、女は客であり夫の友人でもあるもう一人の男に微笑みかけた。
『めぐみ、かぁ。俺も良い名前だと思う! 男の子でも女の子でもいける名前だし、何より込められた意味がめちゃくちゃ最高だもんな!』
 それは幸せの記憶。
 禪院甚爾が何もかもを捨てた時、最初に手放したものだった。

「……はっ、要らねぇことまで思い出しちまったか」
 自らの発言を切欠にしてよみがえった記憶に顔をしかめる。甚爾は気分を変えるために星漿体へと視線を向けた。
 血だまりの中、痛みと失血で少女は気絶していた。このまま放置しておけば、臓器の損傷と出血多量でほどなく死亡するだろう。もう一度銃把を握ってその苦しみをさっさと終わらせてやることも甚爾にはできたが、生憎それをしてやる義理もない。
 甚爾は己に巻きついたままの呪霊に瀕死の少女を頭から呑み込ませて踵を返す。
 これを盤星教に届ければ、今回の仕事は終了だ。そして煩わしい記憶との対面も同時に終わる。五条悟とは二度と顔を合わせることもないし、虎杖悠仁は表の世界に出てくることさえ叶わない。
 虎杖悠仁の封印。どうしてそんなことになっているのか甚爾には分からないが、調べる気力も起きなかった。調べてもどうせ現実は変わらない。変わったとしても、そもそも変わってほしいなどとは思っていない。
「それに何も知らねぇまま眠ってる方が良いかもしれねぇしな」
 慈悲や友愛ではなく単純に事実としてそう告げて、甚爾は薨星宮を後にした。



[chapter:10]

 首を真一文字に切り裂いていた傷が塞がる。太刀で真っ二つにされていた心臓が再び鼓動を刻み始める。失われていた血液は充分な量に戻り、循環を再開させた。
「…………ふはっ」
 思わず、といった風に漏れる笑い声。
 生気が消えていたはずの双眸を再び見開きながら五条悟は割れた石畳に手をついてゆっくりと身体を起こした。
 死に瀕したことでついに掴んだ呪力の核心。負を掛け合わせて正にするという理論は分かっていても実際に行えたことなどなかった反転術式にとうとう成功し、五条の傷は見事に全て塞がっていた。
 それだけではない。
「『蒼』と『赫』、アレ≠燻gえる」
 これまで五条がまともに扱えていた五条家の術式は無下限呪術と順転の『蒼』のみ。しかし呪力の核心を掴んだことで今の己が反転の『赫』を、そして蒼と赫を合わせることで生まれるもう一つの術式を扱えるようになったことを五条は確信していた。それも単に扱える≠ニいうレベルではない。十全に、だ。
 大事なものを上層部に奪われて以降、五条は一応大人しく老害共に従ってきた。それは上の油断を誘うためであり、また同時に、試行錯誤する場を堂々と得るためでもあった。その成果が今、ここで一気に日の目を見ることとなったのである。
 二本の足で立ち上がった五条は荒れに荒れた高専の敷地を眺めながら頭を傾かせる。ポキッと首から小気味よい音を鳴らして「さて、と」と呟いた。
 ひどく気分が良い。落ち着いているし、一方で高揚もしている。
 そして見事にはめられたことにも、守るべき少女が今頃無惨に殺されているであろうことにも、一切怒りや憎しみを感じていなかった。ただただ、この世界が心地良い。今の五条にとって世界の全ては理解可能なもので、自分は世界、世界は自分だった。
 ゆえに。
「それじゃあ後始末をつけに行くとしますか」
 怒りでも憎しみでもなく、成すべきことを成すために凪いだ心で目的地を定める。
「まずは伏黒甚爾の件を片付けて、そんで」
 鳥居が連なる下り階段に足をかけながら五条は最後に一度だけ高専側を振り返った。
 これまで感じたことのない心地良さに酔い痴れていた双眸がその僅かな間だけ焦点を合わせて別の悦≠滲ませる。
「終わったら、今度はアンタを取り戻しに行くから。あと少しだけ待ってろよ」

     ◇

 盤星教本部『星の子の家』まで運んだ星漿体・天内理子は、その時点で瀕死ではあるもののまだ息があった。銃弾による腹の傷以外に大きな外傷はなく、仲介役・孔時雨の立ち会いの下、盤星教代表役員の園田茂にその身柄は無事引き渡される。
 依頼は星漿体の暗殺≠ナあったものの、生きていればそれはそれで使いようがあるらしい。だが「そのまま治療して生かすのか?」と甚爾が何気なく訊ねると、園田は首を横に振って天内を横抱きにする。
「この娘がゆっくりと死んでいくところを信者の皆さんにご覧になって頂くのだよ。これで絶対的唯一神と成り果てた天元様が星漿体という穢れ≠ニ混じることはない……とね。一種のデモンストレーションとも言えるだろう」
「そうかい」
 頭のおかしい人間達のために少女の苦しみは引き延ばされ、死すら見世物にされる。そんな現実に甚爾は肩をすくめた。
 だが、依頼主の頭が異常であろうと何の罪も犯していない少女が犠牲になろうと甚爾にとってはどうでもいいことである。きっちり報酬がもらえればそれで充分。さらに上乗せもあるらしく、それを思えば口元には笑みさえ浮かんだ。
 園田が奥へと姿を消したのを確認し、甚爾もまた時雨と共に踵を返す。星漿体の世話役を誘拐した件をネタに軽く雑談を交わしながら建物の外へ。そこで時雨とは別れた。
 だが盤星教本部の広大な敷地内から出る前に甚爾は予想外のモノと遭遇する。
「よぉ、久しぶり」
 人の言葉を話すソレはボロボロに切り裂かれ血塗れになった高専の制服を身にまとっていた。
 だが服の損壊具合とは対照的に、本人の肉体には一切傷が見当たらない。拭い忘れた血が固まって汚れているだけだ。
「……マジか」
「大マジ。元気ピンピンだよ」
 思わず独りごちる甚爾にソレははっきりと答える。
「オマエが反転術式の使い手だって情報は無かったんだが」
「生憎こっちは努力を怠らないタイプの天才なんでね」
 冗談か本気かも分からないその返答に甚爾は鼻を鳴らす。が、いずれにせよ目の前に殺したはずの人間が現れたことに変わりはない。また勘に近い推測だが、反転術式は甚爾に殺されかけたことで使えるようになったと見て良いだろう。
「天才、ね」
 甚爾の目の前に立つ白い髪をしたソレの名は、五条悟。死の淵から蘇ってきた男。呪術界に生まれ落ちた天才にして異才の『最強』。
 そんな相手を殺し切れていなかった自分自身に呆れつつ、甚爾は武器庫の呪霊から天逆鉾を取り出した。
「……なら、今度こそ殺すだけだ」
「気合い入れてるとこ悪いけど、俺にとっちゃアンタなんてただの通過点なんでね。『本命』のためにもサクッと終わらせてもらうよ」
 そして、殺し合いが始まった。


 死の淵に立ったことで呪力の核心とやらを掴んだ五条悟はまさしく『化物(バケモノ)』と言えるだろう。
 御三家の一角として有名な五条家の無下限術式は「止める力」「引き寄せる力」「弾く力」の三つに分類される。同じく御三家たる禪院家出身の甚爾もその情報は既知であり、五条が新たに「弾く力」――術式反転『赫』を使えるようになったことには、戦いが始まってすぐに気がついた。そして同時に、その三つ全てに己が対処可能であるという判断を下す。
 勝てる。殺せる。
 頭の片隅で響く警鐘を無視し、違和感に目を瞑り、甚爾は戦闘を続行した。
 無事に依頼を完遂した今、本来であれば五条と殺り合う必要など無い。あちらは色々と恨み辛みがあるようだが、そんなものは知らんと背を向けて立ち去ってしまえば良かった。これまで積極的に甚爾を探し出して殺そうとしていなかった五条のことだ。目の前から甚爾が消えれば、探し出す手間をかけるとは思えなかった。
 にもかかわらず、甚爾の足は五条に向かっていく。
 相手は覚醒した無下限呪術の使い手。おそらく現代最強となった術師。これを倒せば、これを殺せば、これを地に這いつくばらせてやれば、生まれた時から甚爾を否定し続けてきた禪院家や呪術界を逆に否定してやれることになる。ザマアミロと嗤って、その存在に唾を吐いて、そして。
(――自分を肯定することができる)
 最愛の女性を喪った時、太陽のような男との繋がりと共に捨てたはずの自尊心。
 そんなものが顔を出したのは『最強』を前にしたためか、それともその最強が最強になる前から隣にいた――そして今はいない――存在を思い出してしまったためか。
(馬鹿だな。そんなモンの所為で俺は死ぬのか)
 目の前に甚爾の知らない術が迫っていた。『蒼』でも『赫』でもない、五条悟が放ったもう一つの呪術。
 それを知覚する甚爾の目には全てがゆっくりと見えていた。しかし身体が思考に追いつくことはなく、ただ自身が間も無く終わることだけを理解する。
 これでおしまい。
 瞼を下ろす間すらなく、五条の放った攻撃が甚爾の身体に――……



「なあ、オマエら何やってんだよ。……悟、甚爾」



「お、まえ」
「うそ」
 甚爾と五条が同時に目を見開く。
 二人の間に現れ、あまつさえ五条が放った攻撃を片腕の一振りで弾き飛ばした人物が琥珀色の双眸に戸惑いを滲ませて甚爾と五条を交互に見据えた。
 白襦袢を身にまとったその人は、きっと死装束のようなそんな着物より明るい色のパーカーがよく似合うであろうその男は、ここにはいないはずの人物だった。
 何年も前から高専の深部に封印され、それを甚爾は知らず、また五条は取り戻すため躍起になっていた存在だった。
 しかしその人物は今、ここにいる。二人の間に現れて、五条の攻撃を弾き、死ぬ運命だった甚爾の命を拾ってみせた。
「……っ」
 くしゃり、と五条の表情が年相応かそれより幼く歪む。そして耐えきれなくなった『最強』――否、『子供』は、甚爾になど目もくれずその青年へと飛びついた。
「ゆうじ……ッ!!」
 百九十センチ近い長身の子供の突撃を受け留めたのは、明るい色の髪と琥珀色の目を持つ青年。逃がさないとばかりに力一杯なされる抱擁に「イテェよ」と苦笑しながら彼もまた相手の背中に腕を回す。
「もー。オマエら本当なにやってんの? なんで戦ってるわけ?」
 腕の中の白い頭を見下ろし、次いで甚爾にも視線を寄越し、戸惑いと困惑と、それから双方とも致命傷を負っていないことに多大な安堵と歓喜を込めて青年は訊ねる。
「ははっ」
 甚爾は気が抜けたように笑った。
「悠仁っ! 悠仁悠仁悠仁悠仁ゆうじ……っ」
 五条は幼子のように青年を抱き締め続ける。
 すっかり自分より大きくなってしまったそんな子供を抱き締め返して、ひとまず今すぐ答えを得ることはできなさそうだと判断した青年――虎杖悠仁は、ふっと息を吐き出した。
「えっと……とりあえず、ただいま。んで、久しぶり」



[chapter:11]

 時間は少し遡る。
 ちょうど五条悟が呪力の核心を掴み、無下限呪術の使い手として覚醒――……つまり『最強(バケモノ)』へと成った直後のこと。
「…………ぅ、あ」
 東京都立呪術高等専門学校、深部。
 天元がいる高専の最下層薨星宮≠ニはまた別のその場所で、小さな呻き声を漏らす影があった。
 外へと通じる扉は一つだけ。声の反響具合から部屋が随分と広いことは推測できたが、光源が点在する蝋燭の炎のみとなっているため全体的に薄暗く、空間がどこまで広がっているのか確認することは難しい。扉からは下りの階段が設けられ、およそ建物二階分を下った先では腰まで浸かる程度の水が床全体を覆っていた。
 そんな部屋の、おそらく中央。石の台座が設けられ水に浸からないようになっている場所で、まだ若い男が白襦袢姿で仰向けに倒れていた。声の主もその男だ。
 部屋が暗くて分かりにくいが、青年の髪の色は日本人らしからぬ明るい色。両目の下にはそれぞれうっすらと傷のような線が走っており、第三、第四の目の存在を仄めかす。ただ、小さな呻き声の後に開いたのは彼本来の二つの目だった。
 うっすらと開かれた琥珀色の両目は焦点が定まっておらず、青年の意識がはっきりしていないことを示している。しかし何か気にかかることがあったのか、青年は探るように視線を巡らせたのち、この部屋唯一の扉へと顔を向けた。
 そして茫洋とした表情のまま、どこか夢現な様子で呟く。
「……ゆびの、けはいが、する」

     ◇

「あ……え……?」
 ぱちり、と瞬く。
 虎杖悠仁は自分がたった今何かを呑み込んだ感覚≠突如として自覚し、思わず喉に手をやった。
「おれ、いま……」
 虎杖本人が目視することはできなかったが、その皮膚の上に入れ墨が浮かび上がり、僅かな間を置いて体内へと沈むように消えた。ただし一連の現象を目にせずとも、その時の感覚を虎杖はよく知っている。すぐに自分が何をしたのか理解し、虎杖は「まただ」と呟いた。
 つい先程己が無意識のうちに呑み込んだのは特級呪物『両面宿儺』で間違いない。すでに慣れ親しんでしまった宿儺の呪力が虎杖の全身へと行き渡っていく。
 しかもこの感覚は指を一本取り込んだどころの話ではなく、確実に複数本の指を取り込んでしまっていた。何故? どうして? どうやって? 一気に疑問が押し寄せ、それが目眩となって虎杖に襲いかかる。だが何とか踏ん張って、膝をつくこともなく、虎杖は最初に考えるべき疑問を口に出した。
「ここ、どこだ」
 ぐるりと周囲を見回せば、学校の教室くらいの広さであることが分かった。窓はなく、壁一面には札が貼られ、異様な圧迫感を醸し出している。
 この札は虎杖も見知っている物だ。まだ己が呪術の存在すらまともに知らなかった頃、両面宿儺の指を初めて取り込んで五条に死刑を宣告されたあの部屋に貼られていたのと同じ物だった。
 つまりここは外から中を守るためではなく、中にあるものが外に害を及ぼさないようにするための部屋。無論、保管している物が悪意ある者に奪われないよう守ったり隠したりする機能も備えているだろうが、主としているのはそちらだろう。
 そして、言うまでもなく保管されていたのは両面宿儺の指。
 けれども虎杖はいつの間にやらこの部屋を見つけ出し、侵入し、果てはここに封じられていた指を全て食べてしまった。
 己の裡にいる宿儺が身体を操った可能性も考えたが、それは違うと直感的に判じる。むしろきちんと記憶を掘り返してみると、虎杖は確かに自分の意思でこの部屋を探し当て、侵入し、指を見つけて口に運んでいた。ぼんやりとした意識のまま、けれどはっきりと『指を集めなくてはならない』という意図を持って。
「つーか、俺なんで夢遊病者みたいなことを……って、――ッッッ!?」
 ここにきて虎杖悠仁はようやく気づく。
 自分が白襦袢しか身にまとっていないことを。
 どうしてそんな格好だったのかを。
 そして、自分が両面宿儺の器として封印されていたことを。――否、自分を殺せる者が現れるか、もしくは呪術界が五条悟に危害を加えるような事態が起こってしまうまで、大人しく封じられるという誓約をしていたことを。
 つまり。
「もしかして悟が呪術師に攻撃された……!?」
 虎杖は顔を青くする。
 呪詛師との戦闘は誓約を破ることに含まれない。あの縛りは五条が仲間であるべきはずの者達に害されないようにするためのものだ。しかし今、虎杖は目覚め、外に出てしまっている。夢現のまま指の気配を辿ってここに来たのは封印が解かれた直後で意識が曖昧な状態だったからだろうが、それはさておき。
 肝心なのは封印が解けているということ。
「っ、ざけんな!」
 湧き上がってきた怒りにキッと眉を吊り上げ、虎杖は出口へと踵を返した。五条の元へ行かねばならない。
 意識を集中させ、残穢を探る。
「悟……っ!」
 幾重にも張り巡らされた結界を無理やり呪力で切り裂きながら虎杖は最短距離を走った。『五条が呪術師に危害を加えられる』とは別の封印解除条件を頭の中から追い出したまま。
 そして駆けつけた先で虎杖は懐かしい姿を目にすることとなる。
 一人は封印される直前まで探していた友人。そしてもう一人は随分と記憶の中にしかない人影に似てきた大事な子供だ。しかも二人は戦っており、後者が前者にとどめを刺そうとしているところだった。
 虎杖は躊躇いなく二人の間に躍り出る。だがそれは己の身体を犠牲にして一方を守るためではなく。
「なあ、オマエら何やってんだよ。……悟、甚爾」
 封印が解けて新たに喰らった指の分だけさらに増した呪力。それにより、現代最強となった術師の全力すら容易く弾き飛ばして虎杖悠仁は驚愕に目を瞠る二人を交互に見据えた。

     ◇

 ただいま。
 その言葉に己がどれほど泣きたくなってしまうのか、相手は理解しているのだろうか。
 会えない間にとうとう背まで追い越してしまった大事な青年。その人を腕の中にきつく閉じ込めながら、五条は嗚咽の代わりに幾度も幾度も彼の名を口にする。
「悠仁、悠仁、ゆうじぃ……!」
「そんな連呼しなくたって消えやしねーって」
「分かってる、けど。っ、あのさ、本物の悠仁だよな……?」
「悟の目にはどう見えてる? 俺は偽物?」
「……虎杖悠仁本人、だよ」
 六眼も、そうではない魂とでも言うべき部分でも、目の前にいる彼が本物の虎杖悠仁であると全力で五条に訴えかけている。そんな五条の返答に虎杖はにっこりと笑いかけ、「うん」と頷いた。たったそれだけで五条の肩から力が抜ける。
 この青年は間違いなく虎杖悠仁だ。ずっとずっと再会を望んでいた相手だ。
 しかし溺れそうなほどの歓喜の中で五条はどうしても無視できない疑問があり、口を開いた。
「どうやってここまで来たんだよ。封印は――」
「っ、そうだ! 封印!」五条の問いかけに虎杖がハッとして顔色を変えた。至近距離で琥珀色が瑠璃色を覗き込む。「悟っ! オマエもしかして呪術師に攻撃されたんじゃないだろうな!?」
「……へ?」
「へ、じゃねえって! だって封印が解けて俺が出てきたってことは、上層部が俺との誓約を破ってオマエを……っ」
「は? いやいやいや何言ってんの?」
「しかも甚爾と戦ってるし!?」
「アイツはこっち側じゃないんだから誓約の対象外じゃん」
 どうやら虎杖は五条が呪術師側に害されたことで封印が解けたのだと推測したらしい。オマケに五条が戦っていた相手は伏黒甚爾。つまり虎杖にとっては友人――こちら側の人間≠ナある。
 だが生憎、伏黒甚爾は五条にとっても呪術界上層部にとっても敵である。五条が述べたとおり誓約の対象には含まれない。
 と言うことは、残る封印解除の理由は一つ。
「あのね、悠仁。なんでそこで俺が強くなったからだって思ってくんないの?」
「悟、強くなったん?」
「なりましたけどっ!?」
 コテン、と小首を傾げる虎杖。それをちょっと可愛いと思いつつも、呪力の核心を掴んだことで術師として新たな次元に達したはずの五条は相手の態度に思わず声を荒らげた。
「いやまぁ確かに、悠仁に俺の本気の攻撃弾かれちゃったけど! でも確かに強くなったんだよ! だからさっさと甚爾(コイツ)を倒してちゃんとした格好で悠仁を迎えに行く予定だったの! つーか悠仁が出てきてるってことは俺が悠仁より強くなった時点で自動的に解除されんのかよ! 立ち会いとかいらねぇのかよ! あとやっぱなんで悠仁が俺の攻撃弾いちゃってんの!? 俺、悠仁より強くなったはずじゃなかったのかよ!?」
 わけわかんねぇ!! と大声で叫ぶ五条に虎杖は「ダイジョーブ?」と訊ねる。全く大丈夫ではない五条がゼーハーと荒い息を吐いていると、その背を撫でながら虎杖は「うん、まぁ、そっか」と納得したように呟いた。
「安心した。悟が何かされた所為じゃなくて、そっちの理由で封印が解けたんだな。俺も立ち会いとかいると思ってたけど、そういやそんなこと誰も言ってなかったな? あ、でも封印が解けた後、俺うっかり高専が保有してた指喰っちゃってさ。その分また俺の方が強くなっちゃったんだと思う」
「……マジ?」
「マジマジ。でもまぁ誓約は守られたから、封印解除の後にどうなろうと呪縛は発動しねーみたい。今んとこ問題なし」
 つまり現時点での実力は虎杖のうっかりで五条よりも虎杖の方が上になってしまったが、改めて虎杖が封印されることはない、ということだろう。
 五条はほっと息を吐く。
 甚爾と戦い、殺されかけ、死の淵から蘇った後、五条は己が『最強』となったことを自覚した。元々天才だった五条が虎杖を取り戻すことだけを考え、できることは全てやり、とうとう呪力の核心を掴んで足りなかったものを補えたのだから、当然と言えば当然の帰結だろう。そして最強になったのと同時に、虎杖の封印を解く資格を得たこともまた五条は理解していた。ゆえに甚爾と決着をつけて何の憂いもない状態で虎杖を取り戻す予定でいたのだが、出鼻を挫かれてしまったことになる。しかし格好はつかないものの、目的は達せられた。ならばそれで構わない。
 五条は緩む顔を隠すように虎杖の首筋に額を押しつける。その五条の頭を昔と変わらぬ手がゆったりと撫でていった。圧倒的な多幸感に五条はうっとりと両目を細める。
 しかし、
「おいコラ逃げんじゃねーぞ甚爾」
 この場にいたのは五条だけではない。
 五条との殺し合いを中断した相手――伏黒甚爾に、虎杖の意識とドスの利いた声が向けられる。幸福な時間を打ち切られた五条は舌打ちをしたが、同時に甚爾からも同じ音が漏れ聞こえた。
「どこ行く気だよ」
「どこだって良いだろうが」
 五条を相手にした時とはまた少し違う調子で虎杖と甚爾が言葉を交わす。それが非常に面白くなくて、五条は口をへの字に曲げたまま甚爾の方へ視線をやった。無論、両腕で虎杖の身体を抱き締めるのはやめずに。
 甚爾は五条の視線を一瞬だけ鬱陶しそうに睨み返したが、「甚爾」と虎杖に名を呼ばれて視線をそちらへ戻す。
「つーか、そもそもなんで甚爾と悟が戦ってんの」
「あ? 仕事だよ、仕事」
「仕事?」琥珀色の双眸が真面目に説明する気が無さそうな甚爾から五条の方へと移る。「悟、どういうこと?」
 五条は虎杖の意識が自分に向いたことでまた少し機嫌を直しながら「実は……」と説明を始めた。天元という存在のこと。星漿体の少女のこと。そしてその命を狙う者達の存在と、自分と仲間が少女の護衛を依頼されたこと。甚爾は少女の命を狙う者達から依頼を受けた側であり、五条とは敵対関係にある。二人が戦っていたのはそのためで、しかし――
「星漿体のガキンチョ……天内は、もう」
 最後まで言い切ることはせず、五条は最後に甚爾を一瞥するに留まった。少女が迎えた結末とそれをもたらした男が誰かを悟った虎杖が一瞬、息を止める。
 五条はまだ天内の遺体を確認していなかったが、甚爾が盤星教の本部から出てきたということはつまりそういうことだ。
 問い詰めるような虎杖の視線を受け、甚爾は舌打ちをもう一度こぼす。少し居心地が悪そうなのは、虎杖が見ず知らずの少女の死に対しても心を痛める人間だということを理解しているからだろう。――まさか甚爾が脳裏によぎった姿の所為で殺すはずの人間を殺せなかった己を恥じているなどとは知りもしない五条はそう思った。
 そして、視線をしばらく彷徨わせた甚爾が口を開く。
「いや、まだギリギリ生きてると思うぜ。そのガキ」
「……!?」
「は? どういうこと!?」
 甚爾の思わぬ返答に虎杖が息を呑み、五条が声を裏返した。
 暗緑色の双眸が面倒臭そうに五条達へ向けられる。
「だーかーらー、そのガキ、銃で撃ったもののちょいと狙いが外れて死ななかったんだよ。んで、そのまま連れてきたからまだ死んでねーの。盤星教(ここ)の奴らが死にかけのあのガキをどう扱うかはオマエらでも想像つくだろうが、まぁ、まだ死んじゃいねーだろうよ」
「悟!」
 甚爾の説明に最も早く行動を決めたのは虎杖だった。
「その天内って子、助けに行くぞ!」
「了解」
「甚爾! オマエも一緒に来い!」
「はあ? なんで」
「オマエこのまま放っておいたら逃げるだろ!」
「……チッ」
 これまでで一番大きな舌打ちをしながらも甚爾は走り出した虎杖の後に続く。
 五条はそんな甚爾を一瞥し、虎杖の隣に並んだ。虎杖が甚爾を気にかけていることも、甚爾が虎杖の言葉に強く逆らえないことも全くもって気に入らない。しかし最早甚爾を排除する気にもなれず、五条は天内理子の顔を知らない虎杖のために速度を上げて一歩先行した。



[chapter:12]

 眼が凄いのか、それとも眼のことを除いても個人の能力がズバ抜けているためか、五条悟は案内を必要としないまま、甚爾が星漿体を盤星教の人間に引き渡した現場へと辿り着いた。
 当然のことながらそこにはすでに誰もおらず、まともに止血もされていない少女の身体からこぼれ落ちた赤が床の上に残されているのみ。しかし迷う必要はない。五条、虎杖、そして甚爾の三人がその場に足を踏み入れて間も無く、入ってきたのとは異なる通路の先――天内を抱えた園田が姿を消した方角だった――からワッと人々の歓声が聞こえた。相談するまでもなく足はそちらへ向かう。
 最後尾を走る甚爾はひっそりと顔をしかめた。
 人並み外れた五感はすでにこの先で起こっていることを推測するのに充分な量の情報を甚爾に伝えている。興奮した人間の気配。自分本位で狂った思考の持ち主達が囁き合う声の一つ一つ。豚小屋の方がマシだと思える大勢の人間の体臭。そして、止まらない血のにおい。
 どれも甚爾が果たした仕事の結果であるが、己が善人であると信じて疑わない人間達が集団になることで容易く引き起こされる愚行はあまりにも醜く、おぞましい。
 ほどなくして三人は大勢の人間が集まっている部屋の前まで辿り着いた。扉は開かれており、警備員の類もない。大ホールとでも称すべきその場所の手前で甚爾が最初に足を止める。
「……流石に裏切ったの何だの言われんのもメンドーだから俺はここまでだ。あとはオマエらの好きにしろ」
 甚爾の小さな声に五条と虎杖のどちらかが応えることはなかった。五条は応える義理などないと思っていそうであるし、また虎杖は応えるだけの余裕がないのだ。
 沢山の信者が集まっている空間へ虎杖が無言で足を踏み入れる。その顔からは表情の一切が消え去っていた。
 天内理子という少女の容姿を知らずとも今の虎杖は助けるべき命がどれなのかはっきりと分かっている。と言うよりも、きっと誰が見ても虎杖と同じように気づけるだろう。
 人だかりの中央にぽっかりとできあがった空間。数多の視線が喜びや安堵を滲ませ向かう先には、床の上に直接寝かされた少女の姿があった。セーラー服姿の少女の腹部には真っ赤なシミが広がっている。意識はなく、呼吸をしているが弱々しいそれはすぐに途絶えてしまうだろう。むしろまだ心臓が止まっていないことが不思議で仕方ないくらいだ。
 少女が死に行く様を見つめるのは天元と星漿体の同化を忌避する盤星教『時の器の会』の信者達。甚爾が念のため姿を隠したものの、甚爾の依頼主である盤星教代表役員の園田はいないようだ。一般信者達は老若男女様々で、しかしその誰もが街ですれ違えばほとんど意識しない、そしてきっと言葉を交わせば善人なのだろうと思わせるような姿をしていた。
 想像はしていたが、やはり異様だ。醜く、気持ち悪く、おぞましい。ただ一方で、人間らしいと言えば人間らしいと甚爾は思う。何せ甚爾は人間の醜い部分など飽きるほど見てきたのだから。
 虎杖はどうだろうか。あれは性善説側の人間のように感じられる。可能な限り他者を守り、慈しみ、許すタイプだろう。でなければ甚爾のような人間に笑いかけるはずがない。
 しかしそんな虎杖が一歩また一歩とホールの中央へ進むたび、その存在に気づいた者達が順に息を呑み、目を瞠り、顔を青ざめさせて道を空けていく。虎杖の接近に気づかず少女が死に行く様を興奮して見守る人間に対してはその肩を掴み、「どいて」と言って強すぎない力で押しのけていた。された方は一瞬文句を口にしようとするが、こちらもまた虎杖の顔を見て唇を貝のようにぴったりと閉じてしまう。
「…………」
 あんな虎杖悠仁を見たのは甚爾も初めてだ。五条の方も若干気圧されていたようで数歩分離れてしまった距離を慌てて追いかけ、虎杖の斜め後ろについた。黒い学生服姿に白襦袢の背中が半分隠される。が、その身から立ち上る威圧感が薄れることはない。
 やがて虎杖は人だかりを抜け、間も無く永遠の眠りにつくだろう少女の傍らに膝をついた。多少度胸があるらしい信者の一人たる中年男性が「おい、アンタ! 一体何のつもりで……」と不機嫌そうな声を出す。同時に虎杖の方へ一歩踏み出そうとするその男に、五条が対峙しようとするが――。
「黙れ」
「――ッ!」
 男が息を呑み、腰を抜かしてその場に座り込んだ。
 虎杖の声は決して大きくない。しかしまるで次元の違う存在に天から命じられたかのように、聞く者の心を一瞬で、かつ完膚無きまでに押さえつけてしまった。すぐ傍にいた五条も、少し離れた所で身を隠す甚爾も、思わず呼吸を止めてしまうほど。
 甚爾達とてそうなのだから、当事者でなくとも一般人にはひとたまりもなかっただろう。全ての信者がこの一瞬で虎杖に逆らう気を失ってしまう。最早ただひたすら息を潜めて虎杖の意識に触れないよう己を殺すしかない。
 異様な熱気に満ちていたはずの空間が一瞬にして凍りつき、その中心で虎杖が死にかけている少女の身体に目を走らせる。
 あれでは今から病院に運んでも間に合わない。現代医療ではなく反転術式を用いても同じく。五条が手を出していないことから、彼が――少なくとも今の状態では――他人の傷を癒やすことは不可能であると推測される。高専には他者の傷も癒やせる術師がいるようだが、その者の所へ運ぶとしても星漿体の身体が保たないのは確実だった。
 虎杖が少女の背中に腕を回して上半身を起こす。せめて少女の死が他者の娯楽にならないよう、この場から連れ去ってやるつもりだろうか。
 そう考えた甚爾であったが、
「……おいおい、まさか」
 目にした光景に思わず声を上げてしまう。
 右腕で少女の上半身を起こした虎杖は空いた左手を彼女の傷がある場所に翳していた。傍らで五条が「悠仁?」と名を呼ぶ。すると虎杖は琥珀色を五条に向けず少女の傷口に向けたまま「死なせねぇよ。こんな所で死なせるもんか」と独りごち、その双眸を閉じる。
 直後、真っ赤に濡れた制服の下で少女の身体が、皮膚が、内臓が、局所的に蠢いた。穿たれていた穴が塞がり、破壊されていた体細胞が驚くべき速度で回復しているのだと甚爾が理解したのはただの勘である。
 見る間に少女は血色を取り戻し、弱々しかった呼吸がただ眠っている程度のものにまで回復する。こびりついた血を拭い服を着替えさせれば、本当に何事もなかったかのような状態へと戻るだろう。
 虎杖は自ら癒やした少女を横抱きにすると五条を見やって「帰ろう」と呟いた。サングラスの奥で見開かれていた双眸が一度の瞬きで落ち着きを取り戻し、「高専に?」と訊ねる。
「高専に連れて帰って天元様と同化させる?」
「それはこの子に選んでもらうよ」腕の中で眠る少女に視線を落とし、そして再び虎杖は五条を見上げた。「悟のことだから、最初からこの子が選びたい道を選ばせてあげるつもりだったんじゃねーの?」
「……悠仁には勝てねえなぁ」
 眉尻を下げて五条が苦笑してみせた。
 星漿体を天元の元にまで送り届けるという任務を負っておきながら、天内理子が望むのであれば正反対の結果への手助けをするつもりだったようだ。説明していなかった本心を虎杖に言い当てられた五条はどこか恥ずかしそうで、しかし嬉しそうでもある。
「付き合い長いからね」
 虎杖は少女を抱きかかえたまま器用に肩をすくめた。
「この子は一番安全だろう高専に連れて帰る。でも天元の所へはいかない。連れて行こうとする奴がいれば全力で邪魔する。全部、この子が目を覚ましてからだ」
「ん、分かった」
 五条が頷くと、二人揃って甚爾の方へ戻ってきた。彼らを止めようとする声は上がらない。むしろ先程以上に人々が彼らを避けて道が広がる。その真ん中を歩いて甚爾の所まで辿り着き、虎杖は「オマエも来いよ」と声をかけてきた。
「俺もかよ」
「当たり前でしょうが」
「じゃあ俺が高専の奴らに攻撃されたらそっちも防げよ」
「任せて」
 甚爾は冗談半分で言ってみたのだが、虎杖は十割本気らしい。覚醒した五条悟の本気の攻撃を弾いた存在なので、その言葉に偽りはないだろう。
 やや五条の方が嫌がる雰囲気を醸し出していたが、虎杖の意思に異を唱えるつもりはないようだ。甚爾はそんな五条の様子に少しばかり笑いを零し、二人の後に続いた。



[chapter:13]

 今回の任務は夏油傑にとって予想もしていなかった結末を迎えていた。
 結論から言うと、星漿体%V内理子は生きている。そして、天元との同化は行われなかった。ただし夏油と五条が最初から取り決めていたとおり天内が同化を拒んだため二人がその助力をした……からでは、ない。
 盤星教『時の器の会』が雇った術師殺しに銃で撃たれそのまま誘拐された天内は、しかし五条ともう一人の手によって救出され、完璧な治療を施された。同級生の反転術式で傷を癒やした夏油が高専を発ち、帰路についていた彼らと合流した時にはすでに傷など一切見当たらず、ただ眠っているだけとなっていた。
 なお、合流した際に術師殺しの姿も見つけて夏油は酷く殺気立ったのだが、五条が「俺が勝ったからちょっと傑は手出ししないでくれ」と言ってその殺気を収めさせた。術師殺し本人は「勝ったってオマエ、あれは」と色々言いたげであったが、五条に同行していた明るい髪色で何故か白襦袢の青年に頭を小突かれ不承不承沈黙した次第である。
 天内が保護され高専まで戻ってきた事実はすぐさま高専の教師にも上層部にも伝わったが、彼らが天内に手を出すことはできなかった。何故なら五条と共に彼女を助けたもう一人――虎杖悠仁という青年が、天内を確保しようと現れた者達にこう言い放ったためである。「俺はこの子が目を覚ますまでアンタらの好きにさせる気はない。それともアンタらだけで俺をどうにかできるつもりかよ?」と。
 虎杖の背中を眺める立ち位置でその台詞を聞いた夏油は一体この男は何の冗談を言っているのかと思った。もしかして恐ろしく強い五条悟を自身の側に引き込んでいるからこそこんな強気の発言ができるのだろうか、とも。五条が虎杖を下の名で呼びえらく慕っていることは夏油もすぐに気づいた。それゆえに生まれた考えだ。
 しかし言われた側の者達の反応は夏油の予想と異なり、虎杖本人を恐れていた。そして彼らのうちの一人が憎々しげに、しかし己が相手に敵わないのだと知る絶望の表情で呟いた。「両面宿儺め……ッ!」と。
 その時の夏油の驚きをどう表現すれば良いのか。
 咄嗟に手持ちの呪霊を呼び出そうとした夏油は、しかし五条に邪魔される。サングラス越しの視線は夏油の反応に理解を示しつつもこれ以上の行為は許さないと語っていた。そして五条は批難の代わりに夏油へと告げる。「悠仁は大丈夫」と。
 何が大丈夫なものか、と夏油は思った。何せ自分達の目の前にいるのはあの@シ面宿儺である。正確に言えば呪物となった両面宿儺の指を取り込み受肉させた器であるのだろうが、そんな些細な違いはあって無いに等しい。
 しかし夏油の焦燥を余所に、虎杖の言葉を受けて天内を確保しに来た者達は撤退。残された面々に遅れて、夏油と同じく家入硝子の治療を受けたメイドの黒井が合流した。
 虎杖について夏油が五条に問い詰めようとしていたのだが、黒井の合流とその後すぐに天内が目を覚ましたことで機を失し、女性二人の感動の再会が繰り広げられているうちに上層部からの使いがやって来た。そしてことの顛末を夏油、五条の両名から聞き出すと、難しい顔をして戻っていった。
 ちなみに使いの者が最も顔をしかめたのは虎杖が天内を治療したという箇所である。そしてその話を聞いた後、使いの者が天内を見る目は星漿体の無事を喜ぶものではなく、まるで汚物でも見るようなものになっていた。理由は夏油もすぐに知ることとなる。
 使いの者が去り、天内の治療を虎杖が行ったと聞いて天内と黒井が感謝の言葉を告げたり、白襦袢姿であることを不思議に思って事情を尋ねたり、その質問に虎杖がしどろもどろになっていたりしている最中――つまり先程の使いの者が去って十分も経たないうちに――、再び別の使いの者が現れた。
 現れた者はやはり天内に良くない視線を向けつつ、告げる。
 ――天内理子。貴女と天元様の同化は実施されないこととなりました。
 喜ばしいことだが、やはり何故だと疑問は出る。「天元様の安定に関してはこちらで充分対応可能ですのでご心配なきよう」と続ける使者に五条が「なんでだよ」と訊ねれば、侮蔑混じりの視線が返ってきた。そして使者は五条の疑問に答える。「両面宿儺の力によって癒やされた(けがされた)者が天元様と同化できると思っているのですか」と。
 言葉を失うこちらに対し、使者はさっさと背を向ける。しばらく呆然とした後、「なんだそれは」と、ふつふつと怒りが湧き上がってきた。しかし夏油が眉を吊り上げて叫び出す前に、それまで空気となっていた術師殺しが鼻で笑って告げた。「これで同化せずに済むんだろ。だったら良いじゃねーか」
 術師殺しの言葉に虎杖がまず「そうだな」と賛同し、続いて五条も「確かに。あの態度はムカつくけど」と頷く。天内が本心では同化を拒んでいることを聞いていた夏油もまた、発言者があの男であるため声に出して同意することはなかったものの安堵が怒りを凌駕した。
 天内と黒井もまた夏油と同じく最初の発言者が術師殺しであったため素直に首肯することはなかったが、ほっと肩の力を抜いていた。これで天内は消えずに済む。そうして天内と黒井の二人は少し涙ぐみながらこちらに感謝の言葉を告げ、ひとまず夏油達の担任である夜蛾が高専内に用意した部屋に消えていった。二人は一晩ここに泊まり、落ち着いてから元の家に帰る予定となったのだ。


 そして、同日夜。
 空に浮かぶのは丸い月。
 当初の予定であれば天内が天元と同化している頃だったが、そのような事態にはならず、夏油は担任の夜蛾、同級生の家入と共に、五条および虎杖と学生寮の共有スペースで安物のソファに座り向かい合っていた。虎杖は五条から借りたのか、微妙に大きな私服に着替えている。
「えっと、じゃあ。改めて、俺の名前は虎杖悠仁」
 五条の隣で虎杖がニカリと歯を見せて笑った。白目の部分が大きな琥珀色の双眸が夜蛾、夏油、家入を順に見やって何でもないことのように軽く付け加える。
「あと両面宿儺の器で、今日の昼まで高専に封印されてました」
 虎杖がかの有名な両面宿儺の器であることは夏油達も各々すでに聞き及んでいる。ゆえに改めて驚愕することはないが、それでも改めて言葉にされると、元より緊張していた身体がさらに強ばる気がした。
 一方、虎杖の隣に座る五条は普段通りの軽い空気をまとったまま。それどころか普段以上に緩んでいるようにすら見える。おまけに五条は唇を固く引き結んでいた夏油に気づくと、サングラス越しの双眸を有名な童話の猫のように細めて「そんな警戒しなくても。悠仁は宿儺じゃねえんだから」と薄く笑った。
「封印だって無理やり破ってきたわけじゃねーし。悠仁の封印は上層部が臆病風に吹かれて施したもので、解除の条件が満たされたから解けただけ」
「その程度の情報はすでに上からおりてきている。封印解除の条件についてもだ」
 夜蛾が硬い声で告げた。
「虎杖氏の――」
「夜蛾先生、俺のことは虎杖でいいっす」
「虎杖、の」虎杖が口を挟み、律儀に呼称を直しつつ夜蛾は続ける。「実力より、悟の方が強くなったから、だろう?」
「そのとーり。上層部は悠仁より強い術師が現れたら封印が解けるように設定していた。あわよくば悠仁をそのまま祓ってしまおうってね。で、上層部はその術師が俺になるだろうと思っていたし、実際そうなった。まあ、俺が悠仁を殺すなんて有り得ないんだけどさ。その辺、ジジイ共は考えが甘いよなぁ」
「……普通の術師なら両面宿儺を慕い続けるはずがない」
「俺が普通の術師の枠に大人しく収まるとでも?」
「その『フリ』はしていただろう」
「まぁね」
 気心が知れた者以外の前では上層部に従順な人間を演じていた五条である。その部分を指摘され、瑠璃色の双眸が可笑しそうにきらめいた。上手く騙された老害共が愉快で仕方ないのだろう。
「あとさぁ、一応言っておくけど両面宿儺と悠仁を同一視すんのは無しだから。悠仁はね、良いやつだよ。本当は逃げられるはずの身で大人しく封印されたのだって、まだ充分強くなかった俺を守るためだったし」
「……確か、封印に関する誓約のもう一つの条件か」
「そう。封印されてやるから五条悟には手を出すなってね。あの時俺が今くらい強ければその必要も無かったんだけどさ」
 過去の己の無力――とは言っても五条悟は幼少期から特別に強かったが――を悔いるように声のトーンが落ちる。しかし隣で虎杖が心配そうに「さとる」と名を呼べば、それだけで五条の表情からは陰りが消えた。「ダイジョーブ」と応える声はどこか甘えを含み、五条が虎杖を大変に慕っていることを周りにありありと示す。
 今更ながらに夏油は虎杖こそが五条の求め続けていた人物なのだと気づいた。ようやく取り戻せたその人に五条は幸せ一杯の心境なのだろう。しかし五条の言葉と様子だけで虎杖を信用することは、まだ夏油にはできない。何故なら目の前に普通の好青年の顔をして座っているのは『呪いの王』を宿した男。夏油も決して親友が騙されやすい人間などと言うつもりはないが、それでも言葉巧みに欺かれている可能性は否定できなかった。
 それに――
「悟、オマエの評価と心情は充分に分かった。だが」夜蛾の視線が五条から虎杖へと移る。「今の五条悟は今の虎杖悠仁に敵わない。それも事実だということを無視するわけにはいかん」
 夜蛾の言葉の通り、それが大きな問題の一つであった。
 封印されていた両面宿儺の器より強くなった五条悟。条件が満たされたことで、虎杖悠仁は外に出られるようになった。しかし封印が解かれた虎杖はその後すぐ高専内に保管されていた『両面宿儺の指』を奪取し、その場で喰らって五条以上の力を身につけてしまったのである。これではたとえ五条が上層部の当初の予定通り両面宿儺に敵対する立場になっていたとしても、両面宿儺を祓うことはできない。つまり現状、虎杖の意思一つで呪術界がひっくり返されるかもしれないということだ。おまけに現実として呪術師最強の五条は上層部側どころか完全なる虎杖側である。
「だったら何。まさかもう一度悠仁に封印されろって言うわけじゃないよな? 言っとくけど、昔と同じ条件はすでに成り立たないし、九相図みたいに『封印される代わりに一切外部からは手出しできない状態になる』程度の縛りで今の悠仁が封印できるわけないから」
 五条の言葉に若干の棘が混じる。
 だが対する夜蛾は落ち着きを保ったまま頷いた。
「上も充分承知している。直接オマエや虎杖を召喚せずわざわざ俺達を間に挟んでいるのもその所為だ」
「はっ。相変わらずの臆病っぷり」
「年寄りは保身に走りやすいからな」
 嘲りを隠そうともしない五条を諌めるどころか同意する夜蛾。ぽろりと漏れたそれが夜蛾の本心なのか。
 思わず夏油は腰を浮かせて「夜蛾先生」と注意するが、次期学長でもある担任は夏油を一瞥し口の端を持ち上げただけで発言を訂正することはなかった。五条が「わかってんじゃん」とでも言いたげに、苛立ちを消して唇に笑みを刻む。
 夏油の批難を受ける代わりに五条の警戒を解かせた夜蛾は、ここからが本題とばかりに言葉を続けた。
「悟、オマエの意思を変えられなかった時点で上層部の負けだ。これ以上両面宿儺の器の処遇に関してオマエと虎杖が何かを譲歩する必要は無い。虎杖を恐れて上層部が刺客を仕向けても、それどころか全面戦争を引き起こしても、オマエと虎杖の二人だけで勝てるだろう。……が、多少融通を利かせることで、今後の手間がかからなくするのに越したことはないと思わないか?」
「つまり?」
「上層部が多少なりとも静かになる案を出してやってくれってことだ」
 そこが双方の妥協点になり得ると夜蛾が考えついた地点なのだろう。五条はまだ不満げだが、「刺客」や「全面戦争」という単語に顔色を少し悪くしていた虎杖が隣でほっと息を吐いている。
「いっそのこと上層部の頭を全部すげ替えた方がいいんじゃねーの」
「悟」
「はいはい」
 嘘か本当か分からないことを言い出す五条。それを諌めるのは隣の虎杖だ。二人の様子に夜蛾が「虎杖より悟の方がよっぽど外道だな」と冗談交じりに苦笑し、「で、どうする」と虎杖に向けて問いかけた。その問いかけを受け、琥珀色の双眸が真っ直ぐに夜蛾を見る。
「だったら、また俺と呪術界上層部との間で誓約を結びたいと思います」
「ほう? 内容は」
 先を促す夜蛾。
 五条が何かを言おうとするが、それを制して虎杖が口を開いた。

「呪術界は虎杖悠仁が両面宿儺の指二十本全て喰らうのに協力する、または邪魔をしない。そう約束するなら、虎杖悠仁は人間が現代の倫理観から外れた行動をしない限り危害を加えない。指を二十本全て喰らった後もこの誓約は継続される」

「っ!」息を呑んだのは夏油だった。「両面宿儺の完全受肉は――!」
「傑、座れ」
「ですがッ」
 夏油は睨みつけるように夜蛾を見る。
 しかし夜蛾の落ち着き払った態度は変わらない。両面宿儺の完全受肉など呪術界にとっては悪夢以外の何物でもないというのに、何故この担任はこうも落ち着いていられるのだろう。
「いいから座れ。交渉人はオマエじゃなく俺だ」
「……」
 もしかしてこの場で虎杖を警戒しているのは自分だけなのだろうか。
 夏油は恐ろしい考えに顔を青ざめさせた。いつの間にか夜蛾までも両面宿儺に騙されてしまっているのでは、と。
 同席する家入は戦うタイプの術師ではない。この場で両面宿儺の器と敵対するとしたら、それは夏油だけになってしまう。それはあまりにも絶望的な状況だった。
 言葉を失う夏油を置き去りにして交渉は進む。
「すまん、話を元に戻す。オマエさんの出したその案だがな、まあ、協力は無理だが、相互不干渉って意味なら上を頷かせられるかもしれん」
「じゃあその方向で夜蛾先生の方から交渉してもらえますか」
「ちなみに呪霊の祓除を多少手伝ってもらうってのも付け足して構わんか?」
「その条件を付け足すことで上層部を大人しくさせられるなら……って言うべきなんだろうけど、ぶっちゃけ悟達の手伝いができるならそっちの方がいいっす」
「(おいおい、根明な上に善人かよ……)」
「夜蛾先生?」
「なんでもない。全て承知した」
「世話をかけます」
 虎杖が深々と頭を下げる。その隣で五条が「そんなことしなくてもいいのに」とぼやいているが、虎杖の頭が即座に上がることはなかった。
「ところで、虎杖」
「はい?」
 夜蛾に呼ばれて虎杖が頭を上げる。
「オマエさん、指を全部喰ってどうする気だ」
 両面宿儺を復活させて人間の鏖殺を企んでいるわけでもない。そんな虎杖はどういう意図を持って指を集めようとしているのか。確かに問わねばならないことだ。
 すると虎杖は困ったように眉尻を下げ、あろうことか「それが俺自身もあんまし分かってなくて」と答えた。
「なんとなく集めなきゃいけないってことだけ分かってるんすよ。あと、そのまま放置しておくより俺っていう入れ物の中に入れておいた方が安全じゃないですか。封印の方も年月が経ち過ぎてあんま意味なくなってきてるんでしょ」
「前半の答えが微妙なんだが……まぁ上には黙っておいてやる。善意で指の保管庫になるつもりでもあるってことで、上には話しておくから、口裏合わせておけ」
「うっす」
 最早夜蛾は完全に虎杖の肩を持っていた。
 どうして、と思う夏油。しかしそう感じていたのは何も夏油だけではなかったらしい。「あの……」と少々言い出しにくそうに当の虎杖自身が夜蛾に訊ねる。
「今更かもしんないですけど、夜蛾先生は俺のこと信用してくれてるんですか?」
「信用っつーか……」夜蛾は少し考える素振りを見せてから続ける。「今のオマエさんに勝てる奴はこの呪術界で一人もいない。何人束になったってオマエさんには敵わんだろう。だったら疑っても意味がない。オマエさんの言葉と人間性が信用できるって体で話さねぇと何も進まないんだよ」
 夜蛾の答えに虎杖はなるほどと頷き、また夏油の方も担任の言動をようやく理解することができた。
 その上で夜蛾は虎杖の敵対を避けつつ上層部も落ち着かせる方法を導き出したのだ。改めてその手腕に感服する。同じ話を聞いていた五条は担任への敬意など一切見せず欠伸すらしていたが。
「それに」
 夜蛾の話はまだ続いていた。が、その表情には若干面白がるような色が浮かび、そして。
「そこの白髪のロクデナシが自分の全部を懸けて取り戻そうとしたのがオマエさんだ。担任としてはそれだけで信用に……信頼に、値する。そうだろ?」
「夜蛾先生……ッ」
 生徒を思い、生徒を信頼し、ゆえに生徒が大切に思う者を信じる。教員の鑑のような姿勢に虎杖が感動し、尊敬の目で夜蛾を見つめた。
 それに慌てたのが五条だ。欠伸までして興味なさそうにしていたというのに、突如として虎杖を横から抱き込んで夜蛾を睨む。
「おいコラ! このナンパ担任! 急に俺の悠仁を誘惑すんなよ!? 悠仁もなびかないで! ときめかないで! つーかもしかして悠仁って年上趣味!?」
「年上趣味に限定すんなよ! そもそも俺は夜蛾先生の教師ととしての有り様に感動してんの! そういうこと言っちゃ夜蛾先生に失礼でしょーが!」
「うちの担任に失礼とかどうでもいいし!」
「いやよくねぇよ!? 夜蛾先生は敬おう!?」
「なんで?」
「めちゃくちゃ良い先生じゃん!」
 虎杖の断言に五条は不満げ、夜蛾は満足げ。夏油は対照的な親友と担任を交互に眺めて肩を落とす。少し、自分の心配や焦燥が馬鹿らしく思えてきた。
 はあ、と溜息を吐けば、それまでずっと沈黙を貫いていた家入が顔を上げる。
「話、終わった?」
 どうやら彼女は話の流れに一切頓着せず、自分の指先のささくれを気にしていたらしかった。
「硝子……」
 わいわいと騒がしい夜蛾、五条、虎杖を放って、夏油はそんな家入の様子にもう一度溜息を吐く。
「君はこの状況をどう思っているんだ」
「別に? 私に迷惑がかからなきゃどうでもいいし。そもそも私の実力じゃ首を突っ込んでも口を挟んでもどうにもならないし? アンタらの好きにしなよ」
 そもそもこの場に私がいる必要ってある? とまで訊ねる始末。
 同級生のその様子に夏油は全身から力が抜けるのを感じた。だが、そんな夏油に家入はふと虎杖を一瞥して告げる。
「でもま、五条がそんだけベッタリなんだから悪い奴ではないんでしょ」
 家入は本気でこれまでの話の流れを聞いていなかったようだが、それでも夜蛾と同じことを言った。
「確か術師殺し? だっけ? ソイツのことも踏まえると、かなり高性能なクズの吸引器ではありそうだけど」
 術師殺しによって負わされた夏油の大怪我を治療したのが家入である。ゆえに甚爾のことも多少は気に留めていたらしい。「クズに好かれてクズを振り回すタイプだね」と呟き、虎杖だけでなく今はこの寮内の一角で待機させられている黒髪の男のことも言外にクズだと揶揄する。
「クズの手綱を引く役目を負わされて大変だと言うべきか、それとも引っ張り回すつもりが実は引っ張り回されてるクズの方が大変だと言うべきか」
 ははっと笑う家入にとっては、虎杖のことも上層部の慌てっぷりも所詮他人事でしかないのかもしれない。そんな彼女に夏油は「そうか」としか返せる言葉がなかった。
 視線の先では虎杖の夜蛾賛美と五条の嫉妬がまだ続いてる。今日初めて会ったばかりの夜蛾のことを虎杖がこうも褒めちぎるのはいささか不思議ではあったが、言っていることは間違っていないので夏油も気にしないことにした。
 代わりに夏油はやや諦観の念を抱きつつ「それくらいにしてくれ」と三人に声をかける。虎杖が夏油に顔を向けて口を開く――……が、名前が出てこないようだった。そう言えば夏油はこの青年に対してまだ名乗っていない。警戒心が失われたわけではないが、ひとまず夏油は「夏油傑です」と告げる。
「げ、とう?」
 すぐる、という下の名前は五条が幾度も呼んでいたので既知だったのだろう。しかし名字までは知らなかった虎杖がそれを口にしながら徐々に両目を見開く。
 夏油は五条と違い、代々続く術師の家系ではない。両親は非術師であり、名字を聞くだけでこうも驚かれるのは奇妙なことだった。それとも虎杖の知り合いに同じ名字の人物でもいるのだろうか。
 不思議に思う夏油に、次の瞬間、虎杖から向けられたのは疑いようもない殺気だった。
「――ッ!」
「悠仁?」
 大切な青年が自分の親友に殺気を向けている。その異様な状況に流石の五条も戸惑いを見せた。が、虎杖はそちらを一瞥すらしない。
「夏油傑って、呪霊操術を使う……」
「そう、ですけど」
 だからと言って突然殺気を向けられる謂われはない。思わず呪霊を呼び出しそうなりながら夏油は冷や汗を流してそう答えた。
「私、アナタに何かしましたか」
「俺にじゃなくて、オマエは……ごじょ……ちがう、悟に……」
「私が悟に何を?」
 ますます訳が分からず、夏油は眉根を寄せる。それを救ったのは虎杖の隣に座る五条だった。
「悠仁落ち着いて。もしかして悠仁が器だってバレた時、俺達に敵対した術師の中に呪霊操術を使う奴がいたけど、傑と同一視してんの? 安心しなよ、あれは別人だし、ついでに言うと傑の方がずっと優秀」
「その台詞の後半、高専に入学して私と初対面の時の君に言ってやりたいな。はてさて、基本的に人形みたいな面白味のない奴だったくせに私が呪霊操術を使うと知って殺気をぶつけてきた馬鹿はどこの誰だったか。まぁその理由も今ので察したが」
 五条の発言で虎杖の豹変に理解を示しつつ、夏油はついでに親友をからかう。少しこの場の空気を変えたいのもあった。
 言葉にせずともその意図を察した五条がわざとらしく嫌そうな顔をする。「それはもういいだろ」と、過去の自分を恥じる五条。いつの間にか虎杖の殺気は抑えられ、気まずそうに視線を彷徨わせていた。
「あ、えっと、その、すんません」
「構いません。むしろその様子だと、アナタは悟に敵意を向けた術師のことを思い出して、咄嗟に悟を守ろうとしたってところでしょう」
「あー、うー、うん、まあ」
 虎杖の返答は煮え切らないが、かねがね夏油の予想は間違っていない様子。
 ならば、と夏油はようやく目の前の人物に対する焦燥が薄れていくのを感じた。
 虎杖悠仁は両面宿儺の器である。しかし彼は人間を害さないと約束し、そして何より隣にいる五条悟の身の安全を最優先とした。咄嗟の行動が、それが本心からのものであると示している。
 夏油の心情の変化を察したのか、家入が「おや」と呟いた。夏油は肩から力を抜き、「気になさらないでください」と虎杖に微笑みかける。
「改めまして、どうぞよろしく。虎杖さん」
「ん。よろしく、夏油」
 夏油が手を差し出せば、きちんと握り返される。
 大きくて、しっかりしていて、とても温かな手だった。


「夏油、傑……呪詛師で、五条先生と戦って……殺された、人」
 ――ともだち、だったんだなぁ。



[chapter:14]

 今後の身の振り方をどうするのか。
 虎杖に関しては上層部が虎杖の提案を受け入れた後もこのまま五条の傍にいるとして、問題は甚爾とその家族に関してだろう。彼には息子がいて、甚爾本人だけではなく子供の方についても考えなくてはならない。
 そんな話題が出た折のこと。
「あー……俺、結婚してんだよ。だから形式上とはいえ配偶者がいて、ついでに言えば向こうの連れ子と俺の息子がいるから子供は二人だな」
「え」
「ちなみに婿入りしてるから今は禪院じゃなくて伏黒だ」
「は」
 暗緑色の双眸を見返して虎杖悠仁はあんぐりと口を開ける。
(禪院じゃなくて伏黒……? ってことは、恵は『伏黒恵』になるわけで)
 およそ三年半ぶりに再会した友人が婿入りして名字を変えていたことにも驚いたが、何より虎杖を驚愕させたのはその友人の息子がまさかの元同級生だったという事実だった。
(誕生日と名前が一緒で親がこの顔で名字まで『伏黒』ってんならもう間違いないですよネー!)
 恵もとい伏黒が生まれた時に引っかかるものは感じていたが、そんな偶然があるものかと――おまけに名字が違っていたし――頭に思い浮かんだ可能性を否定していた虎杖。しかし最早それを勘違いで済ますことはできない。禪院改め伏黒甚爾の息子は、かつて虎杖と共に学び共に戦った伏黒恵その人だった。
 マジかー! と心の中で叫び、しかし現実としては無言で固まった虎杖。傍らにいた五条が心配そうに「悠仁?」と肩を揺らす。ハッと意識を外界に戻した虎杖は隣の五条を見、ついで正面の甚爾に視線を移し、こちらを窺う二人に「あ、ごめん」と謝罪した。
 現在虎杖達が集まっているのは五条本家の本邸、その一角。元々虎杖に与えられ、封印後は誰にも使われなくなっていた部屋である。部屋の主が不在でも五条の命令で手入れはきちんとされていたらしく、埃などが積もっている箇所はない。
 虎杖からの提案を受け、呪術界上層部では意見が割れている最中らしい。結論は見えているのだが、それを認めたくない老人共が多すぎるのだ。しかし時間は多少かかっても落ち着くところには落ち着くはずで、それまでの間、動くことが推奨されない虎杖は五条悟預かりとなってこの屋敷に戻ってきたのだった。
 甚爾が同行しているのはそのついでである。五条はあまり歓迎した風でなかったものの、禪院家から距離を置く甚爾がそちらに戻るわけもなく、だからといってまたどこかへフラフラされるのは虎杖が望まない。ゆえにこうして虎杖と甚爾がセットで動くこととなったのだ。専用の客間も無論用意されている。
 そして五条の本邸に戻り、虎杖はようやく友人の名字が変わっていたことを知り、おまけに彼が一体誰の父親であったのかを理解したのだった。
 が、この事実が明るみになったことで、気にすべき事柄は甚爾と恵の親子二人だけではないことが判明してしまった。
 妻を失った甚爾に残されたたった一人の家族――息子の恵――だけではなく、新たに伴侶となった女性と、その女性の連れ子の行く末についても考えなくてはならない。
 術師殺しとして盤星教の依頼を受けた甚爾。しかし天内理子の身柄を盤星教に引き渡した後、少女は死ぬことなく五条悟に奪還されている。つまりタイミング的に、甚爾が依頼を果たしたフリをして実は五条と協力しており、少女を盤星教から奪い返したと考えることもできるのだ。実際には天内と天元の同化は行われず、盤星教『時と器の会』としては経典に示された禁忌を犯されずに済んだものの、それとこれとは話が別。依頼主である盤星教代表役員の園田からすれば、甚爾はただの裏切り者でしかなかった。
 もし甚爾が五条との戦いで死亡するなり大怪我を負うなりしていれば、また違っていただろう。しかし甚爾は五体満足で生きている。事情を説明して素直に聞いてくれるような相手でもないため、大きな宗教団体が甚爾に恨みを持ちかねない状況となっているのである。
 もし甚爾が独り身であったなら別段大きな問題ではなかった。それをあしらえるくらいには甚爾も強かったし、またあまり考えたくはないが、最愛の妻を失ってからの彼は自分の命すらどこか軽視しているところがあった。しかし甚爾には子が二人もおり、そして新しい妻もいる。
 明言はしていないものの利害だけで繋がりを持った人間だと甚爾本人は説明し、彼らがどうなろうと大して気にしない雰囲気を醸し出している。しかし話を聞いた虎杖からすれば決してそのように軽々しく扱って良い命ではなかった。無論、妻や子供達だけでなく、甚爾本人の命と尊厳も同様である。
 では、盤星教から睨まれることになるであろう甚爾とその家族を守るにはどうすれば良いのか。恵が伏黒恵であったことはひとまず脇に置き、甚爾と彼の家族の平穏のために何をすべきか虎杖は頭を悩ませた。
 眉間に皺を刻む虎杖。その姿を見て、しばらくしてから五条が「はあ」と大変遺憾そうに溜息を吐いた。
「だったら伏黒甚爾が死んだことにすれば?」
「……へ?」
 突然の提案に悠仁は驚く。その真意が分からず首を捻れば、五条がやはり気の進まない様子で補足した。
「俺が殺したってことにすればいいよ。どうせ悠仁が止めなきゃ殺してたし。で、死んだことにすれば盤星教に睨まれる心配も無くなるだろ。伏黒甚爾として表舞台には立てなくなるけどそんなの気にする野郎じゃねぇだろうし、必要なら顔とか名前を変えれば良いだけだ。そんで子供の方は俺が支援……するとなると禪院家と五条家の関係が面倒だから、禪院の血を引いてる方のガキが将来呪術師になるって約束で高専側に金を出させる。それでいいだろ」
「五条悟にそこまで配慮されるとか最高最悪に気持ち悪いな」
「うっせぇよ」
 甚爾が口を挟み、五条は苦虫を噛み潰したかのような顔でそう返す。諸々の自分の苦しみの原因の一つである男のために自分が動かねばならないことが本当に嫌なのだろう。しかしそれでも五条は先の提案を否定せずに続けた。
「こんな奴のために俺が何かするってのは気に食わないけど、」五条の視線が虎杖の方を向く。「悠仁にそんな顔させたくないからな」
「悟……」
「任せて、悠仁」
 全部上手くやってあげる、と五条は微笑む。
 彼は未成年で、虎杖よりもずっと年下だ。けれどこんなにも頼り甲斐があり、ありがたいと思うと同時に虎杖は何もできない自分が情けなく思えてくる。自然と眉尻が下がってしまい、五条には「そういう顔もしてほしくないんだけど」と苦笑された。
「悠仁はね、俺を褒めてくれればいいんだよ」
「褒める?」
「そうしたら俺は頑張れるから」
 虎杖悠仁に会いたくて五条悟はずっと努力し続けてきた。そんな五条にとって虎杖の言葉が、存在が、どれほど重く、価値あるものとなるのか、わざわざ語らずとも分かってくれるだろう? そう、瑠璃色の双眸が虎杖に語りかける。
 ならばこちらもいつまでも情けない顔をさらしているわけにはいくまい。虎杖はくしゃりと破顔して五条の白い頭を撫で回した。
「あんがとな、悟」
「ん。どーいたしまして」
 僅かに頬を紅潮させながら五条が嬉しそうに微笑んだ。
 まだほんの少しあどけなさが残るその表情に虎杖はますます愛しさを覚え、両手を使って五条の髪をかき混ぜる。五条もそれを嫌がらない。「もー。俺、犬じゃねえんだけど」と抗議する声は楽しげに弾んでいた。
 しかしながら忘れてはならない。ここには虎杖と五条の他にもう一人存在している。そのもう一人は虎杖達のやり取りをしばらく無言で眺めた後、呆れを一切隠すことなく口を開いた。
「乳繰り合ってるとこ悪いが、高専の奴に俺が生きてるところ見られてんぞ。そっちはどうすんだ」
「ち、ちちっ……!?」
「ったく、邪魔すんなよおっさん」
 あんまりな物言いに目を白黒させる虎杖の隣で五条が舌打ちをする。
 虎杖は白い髪の間に潜らせていた両手を引き抜くが、その片方を五条の手が捕らえた。逃げないよう指はしっかりと絡められている。頭を撫でていた時もそうだが、五条が無限をまとうことはなく、肌の温かさが直接虎杖の指や手のひらに伝わってきた。
「アンタの死に関してだけど、うちの担任と傑と硝子は問題ない。他の奴らには俺が後で引導を渡したって言って押し通す」
「できんのか?」
「当たり前だろ。俺を誰だと思ってる」
「はっ、頭撫でられて喜んでるガキのくせに」
「悠仁は特別なんだよ」
 恥じるどころか自慢するように告げて五条が指を絡ませたままの虎杖の手の甲に口づける。これ見よがしなその態度に甚爾の顔が歪んだ。
 一方、虎杖はと言えば、手の甲への口づけなど五条がじゃれてきている程度にしか感じない。キザだなぁとは思うものの、そんな行為が似合ってしまうほど五条の容姿が整っているのも一因である。似合うからこそ違和感を覚えられないのだ。また何より、幼少期から交流があり、多少なりともこの子供が自分に執着するようになっていることも虎杖は理解していた。甚爾は「乳繰り合う」などと失礼な表現をしたが、五条が虎杖に向ける感情は男女の肉欲を伴うそれよりも、もっと純粋で、もっと幼い情動だろう。
 これ以上五条をからかうことはできないと察した甚爾が視線を逸らし「うぜぇ」と小さく呟く。負け惜しみのようなそれに五条がニンマリと口角を上げ、「あ、そーだ」と弾んだ声で言った。
「死んだことになったら仕事は来なくなるかもな。何なら俺がアンタを雇ってやろうか」
「あ?」
 甚爾の顔が歪む。「テメェの狗になれってのかよ」と続ける声は低く、狂犬のうなり声のようにも聞こえた。しかし相手は五条である。その程度で怯むはずもなく、
「特別サービスだ。首輪の色くらいなら選ばせてやる」
 不敵な笑みを浮かべてさらに甚爾を煽った。
「テメェ……ッ!」
 ダンッと畳を踏み抜かんばかりの勢いで甚爾が五条の胸倉を掴みにかかる。しかしその手は五条を覆う無限によって止められ、甚爾はギリギリと奥歯を噛み締めた。
 肌を突き刺すような本物の殺気に虎杖は五条の隣で思わず渋面を作る。そして溜息を一つ吐き、
「悟、今のはオマエが悪い」
「いたたたたた、ちょ、まって、抓らないで!」
 自身に五条の無限が作用していないのを良いことに、虎杖は指を絡めたままだった手の甲をもう一方の手で思い切り抓ってみせた。
「ゆーじ! 痛い! ごめんって!」
「謝るのは俺にじゃなくて甚爾にだ」
「それは嫌」
 痛がっていたくせに真顔で即答する五条。
 虎杖は再び溜息を吐いて、呆気にとられていた甚爾へと顔を向けた。
「悪い、甚爾。コイツにはちゃんと言い聞かせておくからアンタも座ってくれ」
「……お、おう」
 こちらのやり取りに流石の甚爾も毒気が抜けたらしい。彼が元の位置に戻ったのを確認して虎杖はようやく五条の手を抓るのを止めた。
 甚爾の処遇のことで五条は随分と格好良いところを見せてくれていたのだが、煽られるとすぐに煽り返してしまうところがまだ子供だと言うことなのだろう。ただその子供っぽさは虎杖にとって悪いものではなく、むしろ好ましいとさえ感じる。
 誰が伏黒甚爾なんかに謝るもんか、と口をひん曲げている五条の頭を虎杖は数回優しく叩いた。それだけで隣の子供の口元が少し緩んでしまうのもまた可愛らしい。そして虎杖が笑ったことに気づいて唇を尖らせる五条。「なんか封印される前より子供扱い酷くない?」と呟いているが、実際、五条はまだ十七歳の誕生日さえ迎えていない子供であるし、にもかかわらず呪術師達の間で『最強』として祭り上げられ、その双肩には重すぎる責務がのしかかっている。ならば虎杖くらいはこうして子供扱いでも何でもしてやりたくなるというものだろう。
 もう一度頭を思い切り撫で回したい気持ちを抑えつつ、しかし虎杖は先に言っておくべき言葉を告げるため甚爾に向き直った。
「甚爾」
「なんだ」
「悟の言い方はアレだったけど、でも何かあった時は手を貸してくれると助かる」
「何か、ねぇ。その最強サマに?」
「ああ」
 頷く虎杖の脳裏によみがえっていたのは自身が高専一年生だった時の十月三十一日、ハロウィンの日に遭遇した事件のこと。そこで五条は――最強であるはずの男は――ある者の手によって封印されてしまう。五条の親友だとして紹介された夏油傑との邂逅によって虎杖はクリスマスイブの百鬼夜行に関してだけでなくその重大事件についても思い出していた。むしろ自身が参戦していた分、ハロウィンの一件の方が印象深い。
 可能であれば虎杖はそれを防ぎたかった。布石とも言えない布石だが、伏黒甚爾という人間が強力な人材であることに変わりはなく、この一手を放っておくことは決して無駄ではないと思えた。無論、事件そのものが起きないに越したことはないのだが。
 煽られた直後ではあるものの一応落ち着いてくれたはずの甚爾を虎杖はじっと見据える。暗緑色の瞳がふて腐れたままの五条を一瞥し、また虎杖の方に戻され、
「……俺は安くねぇからな」
 溜息と共に甚爾はそう吐き出した。
「あんがと」
「安くねぇって言ってんだろ」
「うん、それでも」
 もしかしたら未来は少しだけ良い方に変わるかもしれない。
 再び虎杖が「ありがとう」と告げれば、甚爾はどこか呆れたように、また困ったように、微かに笑ってみせた。

     ◇

「虎杖悠仁特級術師、ねぇ……。術師として認めてもらえんのは良いけど、別に『特級』はいらなくね?」
「まぁまぁいいじゃん。俺と傑も一緒に特級になるんだし」
「ってことは、これで特級は四人ってことになるんだっけ」
「そ。俺らの前に特級になってたのは九十九由基って人。まぁ真面目ちゃんを装ってた俺と違って、高専には寄りつくことさえしない奴らしいけど」
 虎杖が五条家に滞在して数日後、ようやく彼の処遇が決定した。
 五条悟が虎杖悠仁と敵対する意志を一切持っていない――それどころか虎杖に敵意がある者は徹底的に叩き潰すと言わんばかりの姿勢を見せている――ことは上層部も充分承知しており、話合いは荒れに荒れた。ただし、しかしながらと言うか、やはりと言うか、蓋を開けてみればこの結果である。
 一つ、呪術界は虎杖悠仁に積極的な協力をすることはないが両面宿儺の指の収集を邪魔しない。二つ、虎杖悠仁が人間に牙を剥かぬ限りは呪術界として敵対行動を取らない。ただし人間の方が現代の倫理観に反した場合はその限りではない。三つ、呪術界は必要に応じて虎杖悠仁に呪霊の祓除を依頼すると共にその地位を呪術師の『特級』とする。
 最後の地位に関して虎杖本人は不要だと告げたが、これは虎杖のみならず一般の術師を守るにも有効だと五条は思っていた。特級呪物の器としてのみ見られた場合、やはり少なくない数の術師が虎杖を敵視することになるだろう。そして自身が正義だと信じ、『悪』である虎杖に屈して彼と縛り≠結んだ上層部に反感を抱きつつ、虎杖に危害を加えようとする。だがここに『虎杖悠仁は特級術師である』――……つまり呪術界にとって有用な人物であるというお墨付き≠ェ与えられれば、そういった考えを持つ者は多少なりとも減るのだ。もしくは感情を変えることは難しくとも、行動に移しにくくすることはできる。
 その辺の術師に狙われたとして虎杖が不覚を取ることはないだろうが、虎杖が反撃した際に面倒なことになるのは明らかであるので、やはり上層部の決定は虎杖と一般の術師の双方に必要なことだと言えるだろう。
(まあ、それがなくても俺と悠仁が同じ地位っていうのは中々良いもんだと思うしね)
 むしろそちらの方が大きいかもしれないとさえ五条は思っている。
 ともあれ、これにて夜蛾経由でもたらされた上の決定は全て虎杖に伝え終えた。虎杖の住む場所に関しては何の指定もなかったので、このまま五条家預かりとなるだろう。ただし高専生たる五条は現在高専の敷地内にある学生寮に住んでいる。かつての苦い経験もあって長距離の瞬間移動はすでに方法を確立し、学生寮とこの家を行き来することも大して苦ではなくなっているのだが、やはりなるべく近くにいたいと思うのも事実。虎杖を学生として高専に通わせることは無理でも、教師かその辺りの仕事を任せることで近くに住まわせることができれば……と、五条はひっそり企んでいた。
「悠仁」
「ん?」
 虎杖に与えた部屋には今日も穏やかな日の光が差し込んでいる。明るくて、暖かくて、とても心地良いそれは、まるで虎杖悠仁そのものだ。
 五条はようやく取り戻した大切な人の手を握り、名実共に隣に並び立つこととなった彼へと満面の笑みを浮かべる。
「これからもよろしくね、悠仁」
「ああ。こっちこそよろしくな、悟」
 強く握り返される大きくて優しい手。
 何の根拠もないはずなのに、未来はきっと予定されていたものより素晴らしくなると五条悟は思った。







2020.03.13〜2020.04.29 pixivにて初出