ワンダーランド・エリミネーター 第一部(前篇)
[chapter:1] 「え、伏黒?」 「……あ?」 「あ、ごめん。人違いだった」 声をかけられ振り返った甚爾の顔を見て、その人物は片手を顔の前で立てた軽い謝罪を返す。 おそらく年は二十代前半。甚爾と同じくらいだろう。ただし黒髪かつ着物の色も暗色系で揃えた甚爾とは正反対で、相手の青年は金に近い髪と琥珀色の瞳、真っ赤なパーカーが目にも鮮やかな姿だった。 僅かな間だけ驚いていたものの、すぐに四白眼の双眸を細めて人の好さそうな笑みを浮かべた青年は謝罪のために上げていた手を下ろし、未だ全身の緊張と警戒を一切解いていない甚爾≠ノ無防備に近づいてくる。ただしその足取りは一般人と言うにはあまりにも洗練されており、彼が十二分に戦える存在であることを示していた。 場所が場所なだけに甚爾の緊張感はますます高まっていく。 そもそも甚爾は生まれながらの特性もあり、この世界――呪術師達の世界においては、透明人間のごとく存在を感知されにくい。にもかかわらずこの数分間で甚爾の存在に気づいたのは目の前の青年で二人目だ。 一人目は御三家の一角『五条家』に生まれた六眼の持ち主たる子供。気配を悟られにくいはずの甚爾が背後から様子を伺っていると途端に気づかれたのには最初ひどく驚いたが、特別な眼のこともあるので有り得ないことではなかった。しかしこちらはどうか。動きは戦い慣れた者のそれだが、このような人物を甚爾は一切知らなかった。 「いきなり話しかけてごめんな。俺の知り合いに似ててちょっと驚いちまってさ」 相手を警戒させない、むしろ笑顔にしてしまいそうな朗らかな空気を醸し出しながら青年は一歩二歩と甚爾に近づく。しかし甚爾の間合いに入る直前で足を止め、青年は「でも」と綺麗な弧を描いていた唇をすっと平坦に戻した。 一瞬にしてその顔から表情らしい表情が消え去る。 あれほどまでに温かみのあった雰囲気から一転。研ぎ澄まされた刃のように静謐さをまとった青年が甚爾を真っ直ぐに見据えた。 「ここは五条家の敷地内だ。今日予定されてる訪問客の中にアンタに該当しそうな人物はいなかったはずなんだが、どう言う用件でここにいるのか教えてくんねーかな」 「――ッ」 六眼の子供――五条悟は知らぬフリをして去っていったが、この青年まで五条本家の敷地内に不法侵入した人間を見過ごしてくれるわけではないらしい。しかも一切の揺るぎを見せぬ琥珀色の双眸は侵入者に逃げる隙を与えず、久しく感じなかった強者と真正面から相対する感覚に甚爾は冷や汗を流した。 緊張のせいか、指先がぴりぴりと痺れている。ごくりと唾を飲み込む音が必要以上に大きく聞こえたのは気圧されている証拠だ。 まるで、森で野生の虎に遭遇したかのよう。そこには悪意などなく、しかし気を抜けば命を繋ぐための獲物としてこの身を目掛けて爪と牙が襲いかかってくるだろう。 五条悟に見て見ぬフリをされた時とはまた別種の圧倒的な感覚に甚爾の身体は動かない。そんな甚爾に青年は再度問いかける。 「アンタは何をしにここに来たんだ。場合によっちゃ――」 「……はっ。場合も何も、気配のない人間が不法侵入している時点でタダでは帰せねぇんじゃねーか」 固まってしまった身体が、それでも生家でさんざんねじ曲げられ形作られた皮肉屋の性質によって口を開く。 甚爾の返答に青年は台詞の途中で口を噤んだ。その一瞬の隙に調子を幾分取り戻して、甚爾はさらに言葉を続ける。 「ンな怖い顔すんなって。俺はただ六眼のガキを見に来ただけだ」 「先生を見に来た……?」 不審そうに告げる青年。しかし使われている単語がおかしい。 「は? せんせい?」 「なんでもない」片方の眉を持ち上げた甚爾に青年はきっぱりと告げ、その件に関して教えるつもりはないと態度で示す。「本当に、ご……悟様を見に来ただけで、害そうとしたわけじゃないんだな」 「ああ」 ひとまずそう答えれば、意外にも青年がほっと肩から力を抜いた。相手が攻撃意志を無くしたことで甚爾も身体の自由を取り戻し、なめらかに動くようになった舌で「オマエこそ何なんだよ」と問いかける。ついでに、ふんと鼻を鳴らしてやった。 すると青年はようやく表情らしい表情――苦笑を浮かべ、 「だったらもういーよ。さっき悟様の姿はちゃんと見れたんだろ? 用事が終わったなら帰ってくれ。あ、メンドーだから他の奴らには見つからないようにな」 「はあ?」 バイバイ、とでも言いたげに手まで振ってみせる青年。そのあまりの変わりようと適当さにひどい肩すかしを食らった気分だ。同時に正体不明の苛立ちも少し。思わず声が裏返ったのも仕方のないことだろう。 おまけに青年は甚爾が去るのを見届けることもなく自分から背を向けてしまう。 「ちょ、お、おい! 待てよテメェ!」 「……あんまし大きな声出したら他の奴らに気づかれるぞ?」 「なぁに平然と自分が正しいみたいな顔して言ってやがんだテメェはよぉ」 足を止めて振り返った青年に甚爾は思わず吐き捨てる。 「わけわかんねぇ。オマエ、一体何なんだ? 五条家に雇われてる護衛か何かか? だがその割には見逃そうとするし」 「何って……」難解な問題を投げかけられたかのように青年が眉根を寄せた。「何だろう。客……みたいな、そうじゃないような。悟様には『俺が拾った俺の物』とか何とか言われた気がするけど。ともあれお世話になってるからその分自主的に働いてるような感じだよ。あ、俺がアンタに帰ってくれって言ったのは最初に悟様がアンタを見逃したからだな。悟様やここの家の人に悪さをする気がないなら俺はそれでいいよ。勿論、何かするってんなら、悟様が許していても全力で止めるけど。……ほら、質問の答えはこれでいいか? 答えたんだからアンタはさっさと帰っちまいな」 「変な奴だな、オマエ。ガキに物扱いされて平然としてるのもキショい」 「そっかなぁ」 青年は甚爾の言葉が心底意外だとでも言いたげに首を傾げる。 本当に変わった人間に出会ってしまった。甚爾はそう呆れながら、けれども青年が「帰ってくれ」と言った時に感じた苛立ちのようなものがすでに己の中からさっぱり消え去っていることを自覚する。ひょっとしたらそれは己が目の前の相手に軽んじられたわけではなかったのだと理解したからかもしれない。 青年の行動は一見奇妙だが、そもそも判断基準が甚爾のものとは違うのだから仕方ないのである。 だからこの青年は、 「なぁオマエ、名前は」 「虎杖悠仁」 不審者でしかないはずの甚爾に名前を問われてもあっさり答えてしまう。 おまけに青年もとい虎杖は甚爾にニコリと微笑みかけて「じゃあアンタは何てーの?」と訊ねてきた。 「禪院、甚爾……だ」 この不可思議な相手の空気にあてられたのか、忌々しい名字とセットで甚爾もまた答えていたのだから救いようがない。 虎杖は「禪院かぁ」と、五条家と並ぶ御三家の一角の姓を容易く舌の上で転がして、そして何でもないように「そっか。じゃあ甚爾な」と呼んでみせた。 「馴れ馴れしいなオイ」 「世話になった先輩が名字で呼ぶなって言ってたんだよ。あ、甚爾は禪院って呼ばれる方がいいか?」 「……いや」 我が身を汚物か何かのように扱う家の姓でなど呼ばれて嬉しいものか。 暗緑色の瞳に暗い影を落とす甚爾。しかし虎杖は笑顔のままで「じゃあ元気でなー、甚爾」とまるで友達を見送るかのように振る舞った。甚爾が目を眇めたのはちょうど太陽の光が眩しかったから……ではあるまい。しかし似たような心地で口の端を持ち上げ、甚爾は虎杖に背を向ける。 「馬鹿が。二度と会わねぇよ」 捨て台詞の割にはやわらかすぎる己の声に気づかないフリをして、甚爾は五条家から、虎杖の前から、静かに去った。 ◇ 「悠仁は馬鹿なの? 俺から離れて野良犬と遊んでるなんて最悪じゃん」 「ごめんって」 十歳以上年下の子供に正座を要求され、さらには理不尽な内容で説教までされる。そんな状況にもかかわらず虎杖悠仁は怒るどころかへらりと表情を崩し、目の前にいる少年に謝罪した。 障子越しに和室へと差し込む光はやわらかく、正座をする悠仁の他に小さな足で仁王立ちする着物姿の子供にも降り注いでいる。 年相応に、ただし己の造形の良さを充分に理解した上でふて腐れた顔をしてみせるのは、呪術界の御三家の一角――五条家に生まれた無下限呪術の使い手、五条悟。 虎杖と同程度に短く整えられている髪はそこまで短くしてしまったのが周囲から悔やまれるほど最上級の絹糸のように白く艶やかで、瑠璃色に輝く瞳は数百年に一人という奇跡を無しにしたとしても息を呑むほど美しい。そしてその瞳を囲む睫は瞬きのたびに音がしそうなほど濃く長かった。 幼さも相まって、そこには性別を超越した美しさがある。 「軽いなぁ。本当に分かってんの?」 しかし超然たる美をあっさりとぶち壊すように五条はぷっくりと頬を膨らませた。美しいものは美しいままだが、そこにはやや俗世的な愛嬌のようなものが生まれている。 五条家の誉れとして五条悟を崇めて世話をする大人達に少年がこのような表情を見せることはない。何故ならば少年にとってそのような大人達に気に入られる必要など全くないからだ。 しかし今こうして五条に頭を下げている大人は違う。 虎杖は半年前、突然五条の前に現れた。しかも己のいる場所がどこかさえ分かっていない様子。だから五条は別の誰かがこの大人を見つけて持って行ってしまう前に、自分が拾って自分の物にすることにした。望むより前に全て与えられてきた五条がおそらく初めて自ら欲し自ら手に入れたものだったのだ。 ただし五条が手に入れたものには物事を考える頭があり、好きなところへ行くための足があった。今はこうして五条の元に身を寄せているが、いつ何時どこかへ去ってしまうか分からない。 だからほんの少しだけ手間のかかる可愛い子供でいる必要があった。馬鹿な子ほど可愛い……とまではいかないが、ほんのちょっとくらいの我儘を言うような子供の方が大人には気に入られやすいのだと知っていたので。 その『ほんのちょっとくらいの我儘』をいくらでも虎杖が許してしまうため最近は五条の要求もややエスカレートし始めているのだが、それはさておき。 「悠仁は俺のものなんだからね。俺と一緒にいなきゃ駄目なんだよ」 「はーい。了解しました」 駄目なんだよ、と言いつつ相手の膝に乗り上げて腰に抱きつく五条。その頭を虎杖の手が少し乱暴にかき混ぜる。五条は虎杖の腹に顔を押しつけたまま、虎杖以外の大人からは一切与えられない感覚にうっとりと両目を細めた。 「絶対だからな」 「うん。絶対、な」 誰もが畏れて恐れ、触れようとしない子供の頭を撫でながら虎杖は頷く。 そのぬくもりも言葉も一切逃がさないとばかりに、五条はさらに強く虎杖の腰に抱きついた。 ◇ 気づいたら『ここ』にいた、というのが虎杖悠仁の見解である。 理由も原理もさっぱり分からない。 何とか両面宿儺の指二十本を全て集め終え、最大の難関だった死刑も回避して高専を卒業。その後、呪術師として活動していたはずなのに、気づけば知らない場所にいたのである。しかも「卒業」とは述べたものの実は記憶がかなり曖昧で、上手く思い出すことができない。呪術師として働いていた記憶が薄らぼんやりとある程度だ。 そうして戸惑っているうちに良く見知った人物を幼くしたような子供と遭遇し、あれよあれよという間にその少年の庇護下に入ってしまった。 しかし一回り以上も年下の少年の庇護下に入り愕然としたのは最初だけ。少年の正体を知った虎杖はすぐにそんな状況に得心がいった。「五条先生ならこんなこともあり得るかな」と。 虎杖がいつのどこに現れてしまったのかをその存在によって推測させ、さらに身分の証明すら困難だった彼に居場所を与えた少年の正体は、虎杖の恩師・五条悟だったのである。 まだ五条本家の本邸に住まい、神童どころか一部の人間には神の如く扱われていた幼い五条。彼は虎杖のどこを気に入ったのか知らないが、不審人物でしかない虎杖を自分が拾った自分のものだと周囲に宣言し――虎杖がいた場所は五条本家の敷地内だったのだ――、不審者を傍に置くなんてとんでもないと眉を顰(ひそ)める周囲を一瞬で黙らせた。 そして実質的な『悟様付き』となった虎杖は、本邸の一角に部屋を与えられ、こうして半年ほど経った今も日々をつつがなく過ごしている。 なお、五条家の未来の当主として大切にされている五条悟の専属従者のような立場になった虎杖だが、自由時間は意外なほど多かった。五条は虎杖といることを好んでくれていたが、彼の立場がそれを許さない。何かと忙しい少年は全ての行動に虎杖を伴っていけるわけもなく、結果、少年の忙しさに比例して虎杖の自由時間は増えるという結果になっていた。 と言うわけで、比較的外出も自由にできる虎杖は――……。 「この台、俺がいた頃にはもう無かったよなぁ。いつ頃廃番になったんだろ」 そこかしこから鳴り響く電子音の大洪水。ジャラジャラと機械から排出され、それ以上に機械の中に吸い込まれていく銀色の玉。煙草のにおいが充満する屋内で、慣れた手つきで目の前の機械――パチンコ台を操作しつつ虎杖悠仁は独りごちた。 ギャンブルなど胴元が儲かる仕組みになっているに決まっているのだが、虎杖の傍らにはドル箱がいくつも積み上げられている。先程から隣に座っている男性が羨ましそうに虎杖をチラ見していた。 台の下皿からドル箱に玉を落として一杯にし、あらかじめ脇に置いていた空のドル箱の個数を確認。すぐ足りなくなると判断して、パチンコ台の上部にある店員の呼び出しボタンを押す。斜め後ろからは「うわ……」という驚きとも羨望とも取れる声が聞こえた。 やがて現れた店員にドル箱の追加を頼み、同時進行でまだまだ当たり続ける台に銀色の玉を流し込んでいく。隣の男性はすでに手を止めて虎杖の手腕に見入っていた。 ただしこの当たりもそろそろ終わってしまうだろう。そうしたら今日は別の台に移るのではなく、玉を景品と交換してそのまま換金所に向かおうと虎杖は思っていた。 の、だが。 「メシ奢ってくれ」 「誰かと思えば甚爾じゃん」 ぽん、と背後から肩を叩かれて、振り返った虎杖はその人物を見上げ目を見開いた。 立っていたのは、先日、五条本家の敷地内で見かけた不審者もとい禪院甚爾。着物ではなくラフなシャツとパンツスタイルで、口元の傷跡を歪ませながらその男は虎杖を見下ろしていた。 「二度と会わなねぇとか言ったのはそっちのくせに」 「そうだったか?」甚爾は小指を耳の穴に突っ込みながらしらばっくれる。「まぁどうでもいいだろ。勝ってんだから奢ってくれ」 座っていた台の当たりが終了する。山のように積み上げられたドル箱を全て虎杖が一人で持ち上げれば、周囲にちょっとしたどよめきが起こった。ただし暗緑色の双眸は周りの人間達と違って、虎杖の膂力を当然のように受け止める。 「もしかしてそっちは負けたとか?」 「ケッ。ほっとけよ」 「昼飯奢ってほしいんだろ」 「負けだよ負け。ボロ負けだ」 「素直でよろしい。何食べる?」 「肉」 「遠慮無しか」 だが、こういうやり取りも嫌いではない。 虎杖はニカッと笑って、甚爾と共にまずは玉のカウント機へ向かう。ドル箱に入った玉の数をカウントし、レシートとして出してくれるのだ。あとは店内の景品カウンターで特殊景品と呼ばれる金などの景品に交換し、それをパチンコ店の外にある換金所へ持って行けば現金化できる。 「慣れてんなぁ」 「そっちもじゃん」 「でもオマエは五条悟のお付きか何かだろ。お上品にしねぇといけねぇんじゃねーの?」 「半年前からな。あと自由時間結構あるし」 「さてはオマエ相当ヤンチャだったな?」 「法律がうるさいので黙秘しまーす」 「オイこらそんなこと言ってる時点でヤベェだろうが」 「黙秘黙秘。……で、肉だっけ?」 「おうよ」 換金も済んで手元にある現金を二人で見下ろし、店の選別に入る。 幼い五条悟は本日夕方まで予定がみっちり詰まっているので、虎杖の自由時間もそれなりにあった。と言うより、本邸にいても昼食はまともに出てこないと見て良いだろう。よって五条が傍にいない日中は食事を外で取るしかない。 「甚爾は良い店知ってる?」 「昼から酒「は、駄目」ったく、わかったよ。それじゃあ……」 まるで気の置けない友人のように二人は会話をしながら甚爾が勧める店へと足を向けた。 この後、向かった店が『大当たり』であったことに虎杖が喜び、すかさず甚爾が連絡先の交換を申し出てくることとなる。無論それは今後も甚爾が虎杖にたかる≠スめのもの。古い付き合いの者からは『プロのヒモ』とも呼ばれる甚爾の手腕であったのだが、こうして何だかんだで二人の縁は繋がり、遠いような近いような関係は今後も続いていくのだった。 [chapter:2] 頭上には巨大な肋骨が屋根の如く存在し、足元には踝(くるぶし)まで浸る水が満ちている。闇の中にあってそれらがはっきりと認識できる奇怪な空間は、呪いの王・両面宿儺の生得領域だった。 静謐の中、領域の主たる呪いの王は、堆(うずたか)く積み上げられた獣の頭蓋骨の山の裾に腰掛け、両足を水に浸していた。 退屈そうに己の腿に片肘をつき頬を支えながら、王は四つの瞳で足元の存在を見下ろす。 「おい、小僧」 宿儺の足元で身体の半分を水に浸しながら仰向けに横たわっていたのは、特級呪物『両面宿儺』の指を二十本全て取り込みながらも自我を保つことができた千年に一人の器・虎杖悠仁だった。 目を閉じたままの虎杖からは、現在、意識のようなものは一切確認できず、深い眠りに落ちている。生来の明るく人好きのする性格から、成人しても笑えばどこか無邪気な子供っぽさを感じさせる青年であったが、良くできた人形のように眠り続ける今の姿は、年相応どころかもっと老いているようにも見えた。 だがそれも仕方の無いことかもしれない。 六年間、宿儺は虎杖悠仁の中からこの宿主を眺め続けてきた。宿儺の指を喰ったことで呪術界から死を望まれ、しかし全ての指を取り込んで宿儺と心中するまでは死刑執行を延期された虎杖。彼は宿儺の指を集めながら数々の困難に遭遇してきた。その中で彼が大切に思っていたものを取りこぼしながら。 はっ、と笑いにもならない吐息を零して、宿儺は頬杖をついたままもう片方の手で虎杖の額に触れる。 「折角俺を配下に置いたというのに、師を失い、友を失い、挙げ句の果てには阿呆共の飼い犬となるなど……本当に愚かよなぁ。この俺ですら嘲笑を通り越して哀れみを覚えてしまうぞ」 祖父の遺言を守るためにも、大勢の人を助けて大勢の人に囲まれながら死ぬことを望んでいたというのに、今の虎杖の周りにはもう誰もいない。おまけに皆から置いて逝かれたこの命は、今や呪術界に巣くう老人達によって無惨にも使い潰されようとしている。 五条悟をはじめとする優秀な呪術師を相次いで失った呪術界はどうにもならないレベルの人手不足に陥っていた。そこで老人達はこれまで散々死刑を望んだにもかかわらず、くるりと手のひらを返して、虎杖を宿儺として殺すのではなく道具のように使役することに決めたのだ。 大切なものをことごとく取りこぼした虎杖に首輪をはめるのは彼らにとってさぞ容易いことだっただろう。しかも彼らが命じるのは、一応形としては人助けである。大勢を救うことを己に課した虎杖が必死に抗うようなものではなかった。……否、むしろ大切な者達の命を食い潰した′ネだからこそ、せめて彼・彼女らが救うはずだった命を助けなければいけないと思っていたのかもしれない。 そう遠くない未来に己が壊れ、打ち捨てられると分かっていたとしても。 虎杖を大切に思いながら命を散らした者達からすればひんしゅくものの考えだろう。しかしそれが虎杖本人に届くことはない。「オマエに生きてほしいとは思っていたが、オマエを生かすために自分を犠牲にしたわけじゃない。ただ己が弱かったから先に逝っただけだ」と叫ぶはずの彼らは、すでにそれを声に出すための肉も魂もこの世に存在しないのだから。 今の虎杖は看取ってくれる人もおらず、ただ老人達に命じられるまま傀儡のように呪いを祓うばかり。そしてたった一人で走り続けた結果、ついには疲れ果て、宿儺の生得領域に引っ張り込まれても昏々と眠り続けている。肉体はまだ動いてもすでに魂がすり切れてしまっていた。 虎杖の短い前髪を梳きながら宿儺は二対の目を細める。 六年。短いようで長い年月だ。宿儺にとっては瞬きのような時間であっても、虎杖からすれば人生の四分の一以上にもなる。その時間を一人の人間と共に過ごしてきた呪いの王は、やがて頬杖をつくのを止め、真上から虎杖の顔を覗き込んだ。 「……このままオマエと共に朽ちてやっても構わんのだが」 己もヤキが回ったものだと思いながら、宿儺はさらに愚かと自嘲せざるを得ない台詞を吐き出す。 「なあ……オマエに機会を与えてやろうか。オマエが失ったはずのものを失わずに済むための機会だ」 虎杖からの反応はない。しかし宿儺は構わず、まるで己の言葉が一言一句欠けることなく相手に届いている体で言葉を続けた。 「無論、対価は必要だ。さて何が良いか」思考のため一旦逸らされる二対の視線。それが再び虎杖の顔へと戻る。「そうさな。では、俺の指をもうあと二十本集めろ。ただしこのやり取りを忘れた上でだ。それくらいの難度がなければ割に合わん。当然、指を集めなければ契約不履行となりオマエにどんな災いが降りかかるか分からんがな」 くっと小さく口の端を持ち上げる呪いの王。笑みと呼ぶには小さな変化だが、この空間において初めて宿儺が見せた正の感情だった。 「不可能を可能にしてやるのだから、オマエも本来であれば起こり得ないことを起こす必要がある。さあ、どうする。俺と契約を結ぶのであれば――」 呪いの王は両手を伸ばす。血が酸化したかのような黒い爪を持つ十本の指が青年の頬に触れた。 「今すぐ目を開けろ、虎杖悠仁」 ◇ 気づいたら『ここ』にいた、というのが虎杖悠仁の見解である。 理由も原理もさっぱり分からない。 何とか両面宿儺の指二十本を全て集め終え、最大の難関だった死刑も(虎杖が両面宿儺を完全に調伏して己の力として扱うことができるようになっていたことと、何よりも五条悟、伏黒恵、釘崎野薔薇を含む強力な術師を相次いで失い呪術界が深刻な人手不足になっていたことから)回避して高専を卒業。その後、呪術師(と言うよりは厳重に首輪をつけた猟犬、もっと酷い見方をすれば単なる道具)として活動していたはずなのに、気づけば知らない場所にいたのである。しかも「卒業」とは述べたものの実は記憶がかなり曖昧で、上手く思い出すことができない。(その精神を守るために惨い記憶はことごとく封じられ)呪術師として働いていた記憶が薄らぼんやりとある程度だ。 ――哀れな現実を覚えているのは、たった一人の人間に絆されてしまった呪いの王だけだった。 過去の世界にやって来て、虎杖悠仁は伏黒恵に良く似た容姿の人物と友人になった。 否、あれを友人と言って良いものか。ただ単に知り合いと称するには連絡頻度が高く、しかし相手から連絡があった時は大概が食事を奢れという無礼・無遠慮極まりないもの。つまるところ虎杖が新たに獲得した人間関係は、たかる・たかられるという目を覆うようなものだった。 しかしこの関係が意外と心地良い。相手――禪院甚爾は、世間を斜めに見て皮肉屋な性格の持ち主であったが、良く頭が回り、会話も大層上手かった。また賭博で負ければ無言になり、勝った虎杖を無言でジト目で睨み付ける様などは愛嬌すら感じるほどだ。 数回会ううちに知ったことだが、どうやら彼は禪院を名乗っているものの、あまりそちらの家には寄りつかず、複数の女性の間を転々として過ごしているらしい。いわゆるヒモである。 ただし養ってくれる女性に全て頼り切りというわけではなく、天与呪縛のフィジカルギフテッド――呪力を一切持たない代わりに希有な身体能力を手に入れている――を活かして呪詛師を排除する仕事を担っているため、収入がある時はかなり大きな額の金銭が懐に入ってきているらしい。パッと儲けてパッと使い切る、なんとも刹那的な生き方をしているのだ。 しかしそれも仕方の無いことなのだろう。禪院家は呪力第一主義とも言える家柄で、どれほど優れた身体能力を持っていようとも呪力が無く呪霊が祓えない者は人ですらないという方針だ。そんな中で甚爾がどのような扱いを受けてきたかは想像に容易い。否、虎杖が想像するよりきっとさらに残酷なものだったのだろう。 ただしそこで虎杖が甚爾に同情の念を抱いたとしたら、今のこの関係は続いていなかったに違いない。背景は色々と複雑であるものの、虎杖は禪院甚爾という人間をただそのままに認識し、受け止めていた。それ故に甚爾の方も虎杖と共にいることを今も選んでいるのだと思われる。 そんな甚爾は虎杖にとって知人には似ているがその本人ではなく、この時代で全く新しく出会った人間である。未来で大変世話になった五条悟とはまた別の親しみやすさを感じ、自由時間の多さも相まって、共にいる時間は五条に次ぐものとなっていた。 が、そのため現在虎杖は少しばかりのピンチに陥ってしまうこととなる。 「ねぇ、悠仁。そのケータイを悠仁に与えたのは誰?」 絶世の美少年が虎杖を睨みつけた。その瑠璃色の双眸は完全に瞳孔が開いている。 しかも少年――五条悟は虎杖に馬乗りになっていた。虎杖が油断していたこともあるが、五条は虎杖の部屋を訪れてすぐ足払いをかけ、容易く畳の上に押し倒してしまったのだ。うわ将来有望……と思えたのはほんの一瞬だけで、完全に激怒している少年の雰囲気に圧倒されて虎杖は思わず目が泳ぐ。 「悠仁?」 「さ、悟様です……」 普段つけない敬称と敬語が勝手に口から出てしまう。大人の五条にも苛立ちや怒りをぶつけられたことは無かったため、彼の負の感情を真正面から受けるのは虎杖にとってこれが初めてのことだった。 「どうして与えられたんだっけ?」 「悟様の傍にいる者として必要だと思われたから、です……」 「うん、そうだね。それで悠仁は俺からもらったケータイで一体誰と会話してたんだっけ?」 押し倒された弾みで手から離れてしまった携帯電話は、今の体勢では届かない位置に転がっている。すでに通話は切れているが、五条が襖を開けて入ってくる直前まで甚爾と話していたものだ。 「と、友達……みたいな奴、と」 「確か禪院甚爾だったよね」 「え。なんで知って」 出かけていることは隠していないが、その相手まで五条に話したことはなかった。 ただ純粋に驚いてそう告げれば、まだ十歳の子供はどこか色気すらある――しかしそれ以上に背筋を凍らせる――笑みを浮かべて回答する。 「悠仁が『とうじ』って呼んでたのと、ケータイから漏れ聞こえた相手の声と、それから履歴」 「んんん! 最後の! 俺のプライバシーは!?」 「無いよ」 「マジかー!」 頭を抱えたくなったが、両手は子供の細腕に押さえ込まれている。見た目は細いけれども膂力が凄い。おそらくすでに呪力を使いこなして、筋肉量に依らない腕力を発揮しているのだろう。 「だって悠仁は俺のものじゃん」 「ソウデシタネ!」 正直なところ、この時代において虎杖悠仁の生活……それどころか人権そのものさえ、五条がいないと簡単には保証されない可能性がある。ひとたび五条が虎杖から興味を失えば、途端にここを追い出されてしまうだろう。もしくは追い出されなかったとしても禪院家における甚爾と似たり寄ったりな状況に陥るに違いない。 あれ? 今も昔も俺って五条先生がいないとかなりヤバいじゃん……? と思い至った虎杖が目隠しをした師の姿を脳裏によぎらせていると、相手の意識が己から外れたと気づいた幼い方の五条が「ゆーじ」と愛らしいのにドスのきいた声で名を呼んだ。 「悠仁は俺が見つけて、俺が拾った」 「う、うん」 「ケータイのことだけじゃない。俺がいなきゃ悠仁はまともに生活もできない」 「うん」 「『うん』って、あのねぇ」うんざりしたような、同時に苛立ちを抱えているような、そんな表情で幼子は告げる。「本当に分かって言ってる? 悠仁が混ざってる≠アとは、見る奴が見れば分かるんだよ。それがそのままウチの外に出て、ちょっと目や鼻の利く奴に見つかったとしたら、一体どうなると思う?」 「ってか俺の中にいる奴のこと、悟は気づいて……?」 虎杖は自分の中に両面宿儺がいること――それも二十本の特級呪物を全て取り込み済み――を一切教えていなかった。話す機会が無かったからでもあるが、それはさておき。大人の五条のように指摘してこなかったので、こちらの五条はまだ知らないのだとばかり思っていた。しかしこの幼い五条はすでに大層そちらの感覚にも優れていたらしい。 虎杖の反応に少年はハッと笑う。 「当たり前じゃん。俺を誰だと思ってんの。相当強力な……しかも癖の強い呪物を取り込んでるだろ。それで自我を保ててるんだから大したもんだよ。……だからこそ、馬鹿で臆病な大人達はきっと悠仁を怖がる」 取り込んだ呪物が『両面宿儺』だというところまでは気づかないまでも、その力の強さと、虎杖の状況を知った時に周囲が取る行動に関しては完全に正解していた。容姿、呪力、術式、そして頭まで優れている五条が神童と呼ばれ、一部には神の如く扱われているのも納得しかない。 「そう……だな。分かってるつもりでも、俺、分かってなかった」 事前知識の無い状態の術師が虎杖を見ただけで宿儺の存在を感じ取れるなど、五条以外にはいないと虎杖は無意識のうちに思っていた。そこを指摘され、自身の行動が軽率だったと素直に反省する。 「あ、でも甚爾は――……」 彼には呪力が一切無い。だから五条が心配しているような事態にはならないと口にするが、それに被せるように少年が「分かってるって」と告げた。 「悠仁が悪く思っていなさそうな奴だからちゃんと調べた。天与呪縛で呪力が一切無い代わりに身体能力がズバ抜けてるタイプだろ? だからアイツが悠仁の中身に気づくことはない。でも外は外だ。そしてアイツは禪院だ。禪院甚爾が問題なくても、周りがそうだとは限らない。万が一を考えて何が悪いのさ」 「さと、る」 「だからね」 瑠璃色の双眸が真っ直ぐに虎杖を射る。 「外に出て誰かと交流することを全面的に禁止するつもりはない。あの禪院甚爾が相手でも、一応。だってそんなことしたら、悠仁、俺のこと嫌いになるだろ。だけど充分に気をつけて。絶対に他の奴に虎杖悠仁を奪われないで。悠仁は俺が見つけて俺が拾って、俺がいないとまともに生きることさえ難しい、俺のものなんだよ。悠仁は俺と一緒じゃなきゃ駄目なんだ。絶対に、駄目なんだ」 善意に子供じみた独占欲を織り交ぜて、五条は虎杖の安全を、それにより己から離れないことを願う。 頷く以外の選択肢などあるだろうか? 虎杖は一度目を閉じ、それから再び開いて、真っ直ぐに五条を見上げた。 「分かった。俺は悟から離れないよ。悟を悲しませない。誓う」 「本当に?」 「ああ、本当だ」 「絶対だからね。でも、もし守れなかったら……一度でも俺の手が届かないところに行ったりしたら」 大きな力を持つ瑠璃色の双眸が淡く輝いたように見え、虎杖は息を呑む。そんな虎杖に五条は微笑み、爪の先まで美しいまだ小さな両手で大人の頬を包み込んだ。 吐息さえ触れそうな距離まで顔を近づけ、幼い天才は薄い唇を開く。 「必ず見つけて捕まえてあげる。その時は魂すら俺のものになってもらうから、覚悟して」 今こうして表に出している独占欲ですらまだ甘いのだと言うように、五条悟は二人の間に結ばれた契約をそう締めくくった。 [chapter:3] 最近、知人の様子がどうにもおかしい。具体的に言うと、実家に寄りつかず複数の女性の間を転々としていたはずの男が特定の女性の所に居着くようになった。またパッと稼いでパッと使い切る生活だったのが、どうにもこうにも貯金を始めた気配がする。ギャンブルに大金をつぎ込むこともなくなったし、その一方で誰かへの贈り物に頭を悩ませる姿を幾度も見かけるようになった。 「これ、俺でも分かるって。ついに甚爾に本命ができちゃった!」 「うっせぇよ。どうでもいいからさっさと何が良さそうか意見を言え」 そこそこ体格の良い男二人が並んで女性向けの雑貨を陳列している棚の前に立つというのは、どうにもこうにも目立って仕方ない。しかし虎杖は一切気にすることなく、己をここまで引っ張ってきた禪院甚爾ににこにこと満面の笑みを向ける。 「どうでも良くねぇって。オマエに大切な人ができて、その人との将来をきっちり考えてるってことだろ。めちゃくちゃ凄いことじゃん。あと、前々から訊こうと思ってたんだけどさ、こういう時ってアクセサリーとかじゃねぇの?」 「初期に貴金属のプレゼントは重すぎるんだよ、金をやっときゃ喜ぶ軽い女じゃねぇんだし……。笑うな。ニヤニヤするな。さっさと俺とは別視点でものを言え。意見を述べろ」 「あらヤダ、コイツ本命童貞ってやつじゃありません?」 「殺すぞ」 「たぶん甚爾じゃ無理」 「……」 無言になる甚爾に苦笑を浮かべてから虎杖は陳列棚に視線を戻す。 真剣勝負になった場合の勝敗はさておき、このちょっと捻くれた友人に大切な人ができたのは大変良いことだ。破滅的だった生活が改善され、未来のことを考えるようになってきている。 自分が胸を張って言えるようなものではないかもしれないが、と胸中で前置きして、虎杖は「今の甚爾、すっげぇ良いと思う」と呟いた。 「……は?」 「前の甚爾が悪かったわけじゃないけどさ、今の甚爾はもっと良い。やわらかくて、あったかくて、でも、とても強い。すっごい好き」 「……はあ!?」 棚に陳列されている品物を見ていたはずの視線がギュルンッと勢い良く虎杖に向けられる。 驚愕に目を見開き、さらには少し顔が赤くなっている甚爾。そんな友人の顔を一瞥して、虎杖は「あ、なぁなぁ、あれとかどう?」と離れたところに飾られているテディベアを指差した。小さな子供くらいのサイズがある人形は蜂蜜色の毛で、瞳は珍しい透き通った緑だった。 「オマエの目の色じゃん」 「いや、テメェ今何を……」 「甚爾」 他人からの好意に慣れていない男の名を虎杖は少しゆっくり呼ぶ。 期待に添えず悪いが、好きは好きでも恋愛感情などではない。ただ、好ましいと思う。前の彼も、今も彼も、その変化も、変化を起こすきっかけになった女性のことも。 そして虎杖はこう思うのだ。 「オマエをそんな風に変えてくれた人なんだから、絶対離すなよ。そんでさ、幸せになれ。俺、前のオマエも今のオマエも好きだけど、これからさらに幸せになるオマエのことの方がもっと好きになれる気がするから。……あ。俺、友達の幸せに嫉妬するタイプじゃなくて喜ぶタイプなの」 「っっっ、ややっこしいんだよテメェはよぉ! あと最後のは知ってた!」 「甚爾、店内ではお静かに」 「誰の所為だと!」 「そうそう、結婚式に呼べそうだったら呼んで」 「うっせぇ! 呼べたら呼んでやるよ!」 「よろしくー」 ひらりと虎杖が手を振れば、甚爾は眉間に深い皺を刻んで背を向ける。大股で向かう先は先程こちらが指差したテディベアだ。それをむんずと鷲掴みレジへと向かう男の姿に笑いを噛み殺しながら、虎杖はこの時代で初めてできた友人の幸せを、そしてそれが長く続くことを、心から願った。 ◇ 本当に、本当に、心から、虎杖悠仁は禪院甚爾の幸せを願っていたのだ。 ◇ 虎杖が甚爾と出会ってからおよそ二年後、友人はある一人の女性と結婚した。 数ヶ月後には彼の妻の妊娠が判明し、子供が生まれたのは十二月二十二日。性別が分かる前から考えられていた子供の名は、男でも女でも使えるようにと、そして何より愛しい我が子がより良い人生を送れるようにと願いを込めて、『恵』とされた。 周囲全てが甚爾の結婚やその後の子供の誕生を尊び、喜んだわけではなかったが――やはり禪院の本家はいくらか嫌味を言ってきたようだ――、少なくとも虎杖は『恵』と言う名の十二月二十二生まれで黒髪碧眼の男の子≠ノちょっぴり「あれ?」と思いつつも新たな命の誕生に大変感動して禪院夫妻に笑われるほどだったし、あとで奥さんからははっきりと、旦那からはひっそりと感謝の気持ちを告げられた。 虎杖の友人は幸せを掴み、これからもっと幸せになるはずだった。虎杖も当人達もそう信じて疑わなかった。 けれど。 「――――――ッ、アァ……っ!」 禪院甚爾の妻が亡くなった。 最愛の女性を喪い慟哭する友人に縋られた肩が痛い。だが何よりも虎杖に痛みを与えたのは、嘆き悲しむ甚爾の姿そのものだった。 虎杖が酷く抑揚を欠いた声の甚爾から連絡を受けて病院に駆けつけた時には、すでに病室のベッドの上に横たわる女性の顔には白い布がかけられており、ベッド脇の丸椅子には背中を丸めた男が腰掛けていた。 声をかけても男が反応することはなく、室内に足を踏み入れた虎杖に最初に反応したのは、看護師が用意してくれたであろうベビーベッドの中で緑色の目を開く赤ん坊。生まれた時から知っている他人の登場に赤ん坊――恵はキャッキャと笑い声を上げて喜んだ。当然のことながら生まれて間も無い子供に母の喪失など理解できるはずもない。 しかし室内に響くその声は父親の意識をこちらに戻すことに成功する。 椅子に座っていた男――甚爾は来訪者に気づき、 「……ゆ、じ?」 「甚爾、オマエ」 「ッ、ぁ」 決壊した。 ふらりと幽鬼のように立ち上がった彼は想像以上の力で虎杖に縋りつき、涙さえ流せず乾ききっていた双眸からボロボロと雫を零し始める。 年が変わって一番寒い時期も過ぎ、ほんの少しだけ春の気配が感じられるようになっていた。虎杖ももう少ししたら誕生日だから夫婦揃ってお祝いがしたいと言われていた。その矢先、まだ少し寒いし赤ん坊を外に連れ出すのは可哀想だと、妻は夫に子供を任せて近所に買い物へと出掛け――……。そこで交通事故に遭ってしまったのだ。 呪いも何も関係なく唐突に襲いかかってきた妻の死という悲劇。それに押し潰されそうになっている男の手を虎杖が振り払えるわけもなく、こちらの胸に頭を押しつけて嘆く甚爾の黒髪をじっと見つめる。 言葉など出るはずもなかった。 そのうち甚爾はずるずると膝を折り、立っていられなくなった彼に合わせて虎杖も床に座り込む。 慟哭は止まない。禪院甚爾の幸せの象徴は一瞬にして奪われ、もう二度とその手に帰って来ないのだから。 虎杖は甚爾の背に腕を回して抱き締める。しかしこの腕が襲いかかる悲しみから今の甚爾を守ってやることなどできはしないのだろう。 生まれた時から周囲に蔑まれ、人ではないと言い続けられ、尊厳を踏みにじられてきた甚爾がやっと手に入れそして感じ取ることができていた自分と他人を尊ぶ気持ち。それを与えてくれた女性と共に甚爾は幸せになるはずだった。幸せだと言えるようになっていたはずだった。 それなのに。 「なん、で……ッ!」 天を呪うように吐き出したのは甚爾だったのか、それとも虎杖だったのか。 ――そして数日後、禪院甚爾はまだ赤ん坊の息子と共に虎杖の前から姿を消した。 [chapter:4] 『おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないためかかりません』 無機質な女性の声が携帯電話越しに耳へと届く。電話帳機能に登録された番号と名前を再確認して、虎杖悠仁は「え」と小さく声を発した。 「え、ちょ……甚爾? おい、まさか」 電話をかけようとしていた相手は禪院甚爾。出会って三年ほど経つが、これまでは甚爾の方から連絡を取ってくるのがほとんどだった。いつも「メシ奢れ」と端的な要求に虎杖は苦笑して快く応じたものだ。 甚爾からそれなりの頻度で連絡があったため、虎杖の方から電話をかける機会は滅多になかった。しかし先日甚爾の妻が亡くなったことで、虎杖は日中できるだけ彼の傍にいるようにし、さらに夜には電話をかけて様子を窺うことを己に課していた。大の男を気にかけすぎだと他人からは言われるかもしれないが、そうしなければいけないと感じるほどに甚爾の憔悴は酷いものだったのである。 また訃報を知って以降、おそらく虎杖もあまり顔色が良くなかったのだろう。主と称すべき立場である五条も言葉少なに「悠仁のしたいようにしなよ。俺のことは気にしなくていいからさ。って言うか俺もしばらく忙しいし」と言ってその背を送り出してくれていた。 そして本日、告別式も葬式もなく、禪院甚爾の妻は火葬された。葬儀をしても禪院家の者が出席などするはずなく、また故人側の親族はすでにいないとのこと。甚爾が愛した女性の身体は小さな骨壺に収められ、それを抱きかかえる夫の身体は一回り小さくなってしまったかのように見えた。 病院で声を上げて泣いたのを最後に、甚爾は涙を見せず、淡々と必要な手続きを済ませていたように思う。いっそ機械的と称すべき動きは彼の大切な部分が欠落してしまったことをありありと示しており、虎杖は心配でたまらなかった。 そして、夜。五条家の本邸に戻っていた虎杖は自室で携帯電話を手にしたまま背中に嫌な汗が伝うのを感じていた。 時間は夜の十時を回っていたが、中学一年生である五条悟は帰ってきていない。本人も言っていたとおり、ここ最近どうやらいつも以上に忙しくしているようである。今夜も術師として出掛けており、帰宅時間は不明。何をしているのかまでは聞かされていない。五条当人からは「俺のことより今はそっちの方が大変なんだろう?」と言われているだけだ。 主人が帰っていないのだから、今の虎杖はまだ自由時間だと捉えることができる。と言うより、虎杖が外に出たとしても五条以外の誰かがそれを咎める――もとい、心配して声をかけるなどということが起こるはずもないのだ。 虎杖は携帯電話を尻ポケットにねじ込んで上着を羽織った。 三月になっても夜はまだ冷える。最低限の防寒だけをして、虎杖は屋敷を飛び出した。 焦燥感がひどい。思い出されるのは骨壺を抱いて小さくなった男の背中。「後追い」の三文字が脳裏をよぎる。彼にはまだ息子がいるが、あの子がどれほど彼を繋ぎ止める*割を担ってくれるかは未知数だった。 「頼むから早まるなよ、甚爾……っ!」 絞り出すように呟いて、虎杖はまず禪院夫妻の住まいへと向かった。 禪院甚爾とその家族が住んでいたアパートはもぬけの殻。生活感は残っているのに、甚爾と彼の息子の姿がない。それを確認した虎杖は即座に踵を返し、甚爾が立ち寄りそうな場所を徹底的に当たり始めた。 だが、結果は思わしくない。 閉店時刻ギリギリのパチンコ店、二十四時間営業をしているインターネットカフェ、コンビニ、ファミレス、それに心情的には候補に入れたくないが橋の上や水辺、高いビル等、手当たり次第に訪ねてみたが、求める姿を見つけることはできなかった。すでに時間も時間なので、最悪の事態でない場合、虎杖の知らない知人のところに身を寄せたのか、はたまたビジネスホテルにでも引っ込んでしまった可能性がある。そうなると虎杖に甚爾を見つけられる手立てはない。 念のため相手から連絡が入っていないかと二つ折りの携帯電話を開いてみるものの、スマートフォンとは比べものにならないその小さな画面には午後十一時五十二分という時刻のみが表示され、メール受信の知らせも着信の知らせも一切なかった。 先程「宿泊しているお客様に関する情報をお答えすることはできません」と追い返されたばかりのホテルの入り口を背にして、虎杖はかすかに眉根を寄せる。念のためもう一度こちらから電話をかけてみようと履歴を呼び出しながら「どこにいんだよ、甚爾」と呟いた。 しかし発信ボタンを押す直前、手に持っていた携帯電話が震える。 「……っ」 はっと息を呑んだ。けれども期待に満ちた眼差しは画面に表示された名前を見て落胆に変わってしまう。 電話の発信者は虎杖が探している人物ではなく、電話帳に登録されている数少ない人間の一人――五条悟。甚爾ではなかったことで気落ちしてしまった己を恥ながら、虎杖は通話ボタンを押して携帯電話を耳に当てた。 「悟? どうしたん?」 考えてみれば、五条がこんな時間に電話をかけてくるというのも不思議だ。何か緊急事態でも起こったのかと全身に緊張をみなぎらせながら問いかける。 すると電話口の向こうで『悠仁』と、声変わりが緩やかに始まった少し掠れ気味の声が虎杖の名を呼んだ。 『今どこにいる?』 もしやすでに五条は帰宅しているのだろうか。そして屋敷内に虎杖の姿がないことに気づいて連絡してきたのかもしれない。 彼の少年からの連絡を帰宅の催促だと推測した虎杖は「ごめん、今ちょっと人を探してて……」と返すが、その台詞に被せるように五条が『悠仁、どこにいるの』と少し強めの口調で再度問いかけてきた。 「さとる……?」 いつもの彼らしくない。どこか焦りを含んだ物言いに虎杖は首を傾げる。そうしながら問われたとおり現在地を告げれば、電話の向こうでチッと舌打ちが聞こえた。 『戻ってこい、悠仁』 「だから、それは」 『いいから戻れ』 まだ甚爾を見つけられていないのに。 しかし五条の口調はますます強くなり、『お願いだから俺の言うこと聞いて』と常にない必死さが滲んでいる。 「どうしたんだよ。何かあったのか?」 『…………』 何かが起こっていることは確かなのだろう。しかし五条は答えてくれない。 こうしている間にも虎杖の中では行方が分からなくなった甚爾に対する不安が大きくなっていく。五条の方も心配だが、今、緊急性が高いのはやはり最愛の女性を喪ったばかりのあの男の方だろう。また「戻れ」と言うばかりでその理由を告げない五条に対する不満のようなものも同時に虎杖の中に生じていた。 結果、 「ごめん」 『……っ、悠仁!』 虎杖は通話終了のボタンを押した。 五条には後でいくらでも怒られる覚悟がある。だから今は甚爾の方を優先したい。もし五条がすでに帰宅しているなら彼が命の危険に晒されることはないだろうが、甚爾の方は今まさに自ら命を絶とうとしているかも知れないのだから。 「ホントごめんな、悟」 呟きつつ、携帯電話を操作して発信履歴からもう一度甚爾に連絡を取る。しかし、やはり聞こえてくるのは無機質な女性の声によるアナウンスだった。 虎杖は唇を噛み締め、電話を持つ手を下げようとし――……。 「ッ、これって」 通話終了ボタンを押すことも忘れたまま虎杖は自分が出てきたばかりのホテルのさらに向こうから感じた気配に息を呑む。目を大きく見開き、震える声で「まさか」と続けて、携帯電話を持つのとは反対側の手で上着の腹の辺りをぎゅっと掴んだ。 そして、からからに渇いた口を開いてその名を告げる。 「……すくな?」 有り得ない。それは全部この腹の中にある。否、『ここ』は『あそこ』よりも前の時間もしくは別の世界なのだから、特級呪物・両面宿儺が『ここ』にまるっと二十本存在している可能性は大いにあった。ならばこの腹の中にある指と共振して、本来であればまだ活性化しないはずだった両面宿儺の切り分けた魂達が動き出したとしてもおかしくはない。むしろ今までそのことに気づけなかった自分を殴り飛ばしたい気分だ。 禪院甚爾の行方。五条悟の懇願。自分の中にいるものの存在を他の呪術師に知られた場合の危険性。そして両面宿儺による被害。それら全てを天秤に乗せて、虎杖は選択する。 「やっぱ色々とごめん、悟! あと甚爾は絶対早まんなよ!」 全力で向かうのは宿儺の気配がする方角。 ホテルの反対側に回れば、その陰で見えていなかった帳――真っ黒なドームが視界に入る。夜であることも手伝って気づくのが遅れてしまった。宿儺の指の気配もそちらから漂ってきており、おそらく指を取り込んだ呪霊が本気で戦っているのだと推測される。 そんな呪霊の相手ができるのだから、術師の方も相当な手練れだろう。だが宿儺の指を取り込んだ呪霊を祓えるほどの実力者は実のところあまり多くなかった。早くしなければ、虎杖は術師の死体と対面する羽目になる。 (間に合ってくれ……っ!) 必死に願いながら足を動かす。道路を走るだけでなく、壁を蹴り、障害物を飛び越え、全身を使って最短距離で突き進みながら、虎杖は厄災の気配がする場所を目指した。 ◇ 虎杖悠仁はお人好しだ。 その善性は疑う余地もなく、また幸か不幸か他人を助けられるだけの力があるため、彼の善人っぷりはきっと誰が見ても理解できるものだろう。 困っている人間がいれば気にかけ、手を差し伸べ、そして助けてしまう。「自分じゃどうにもできないから……」と見て見ぬフリをすることがない。 ゆえに。 「……ンの、アホ悠仁っ!」 切られてしまった携帯電話を睨みつけて、五条悟は吐き捨てた。 来月から中学二年生となる五条はすでに呪術師として依頼を受けることがあり、今夜も一仕事終えたばかりである。 今回の仕事は何故かここ数年異様に活性化している呪霊達を各所に配置された他の呪術師らと合同で一斉に祓うというものだった。なお、呪霊の活性化そのものはちょうど五条が虎杖を見つけた後くらいから始まっていたのだが、関係性はよく分かっていない。 この仕事のために最近は打ち合わせや準備で特に忙しく、虎杖と共に過ごす時間を充分に取れなかった五条は不機嫌甚だしかった。しかしようやくそれも終わり、いつもの生活に戻れると五条は帰りの車中で心躍らせていた。 しかしいざ自分に割り当てられた分を終えて帰宅してみれば、五条を出迎える者達の中に虎杖の姿はなく、彼に与えている部屋に駆け込んでも求めた人物は見つけられなかった。 すでに日付も変わろうとしている。外で厄介事に巻き込まれてはいやしないかと、五条は虎杖の特殊性から不安と焦りを覚えた。特に今夜は各所に呪術師が散らばっている。 そうして誰もいない部屋の前に突っ立ったまま当人の携帯電話にかけてみれば、最悪も最悪。五条が関わっていた仕事の別部隊のすぐ近くにいると言うではないか。 即座にマズいと思った。 先述どおり、虎杖はお人好しだ。誰かが困っている場面に遭遇すれば、首を突っ込まずにはいられないだろう。たとえそれが、呪術関係の事態であったとしても。 件の部隊は五条ほどの実力者がいなかったのか、それとも手強い呪いに当たってしまったのか、まだ祓い終えていないらしい。そんな所に虎杖が出くわしたとしたら……。彼は己がどういう存在であるかも考えず、もしくは考えたとしても優先順位を下げて、きっと目の前の誰かに手を伸ばす。 五条が「戻れ」と命じた理由を知ってもそれは同じだ。言えば、虎杖は五条の懇願よりも、自分の足で助けに行ける距離にいる顔も知らない誰かを選んでしまう。だから言えなかった。 「ホントに馬鹿だ! 規格外の呪いの器だなんて気づかれたら、頭の固いヘボ術師と腐れジジイ共に何されるか分かんねぇんだぞっ!」 そのことが五条は何よりも恐ろしい。 虎杖が傷つけられる。もしくは五条の手が届かない所へ連れ去られる。……考えただけで、怒りで目の前が真っ赤になった。 最初、五条が虎杖を手元に置いたのは、あの青年が五条にとって『望まなければ傍に置くことができないもの』だからだった。六眼を持って生まれた特別な子供として、己が望まなくとも全てを与えられてきた五条悟。そんな人間が、強く望み、しっかりと手を握っていなければ、虎杖悠仁はどこかへ行ってしまう。だから五条は虎杖を望んだ。 けれど今はそれだけの感情で虎杖を気にかけているわけではない。 虎杖悠仁は強力な呪物を取り込んでいながらも自我を失わない、希有な器である。そんな呪術界的にとんでもない人材であるはずなのに、本人は全く呪術師っぽくない。根っから性格が明るく、イメージとして真っ先に太陽やヒマワリが挙げられるタイプだ。彼の周りはいつも空気が澄んでいた。 そして、誠心。琥珀色の双眸はいつでも真っ直ぐに五条を見て、偽りのない言葉を向けてくれた。陰惨で腐臭漂う呪術界、その御三家の一角に生まれた五条にとって、虎杖という存在そのものがどんなに心地良かったことか。 虎杖と共に在る心地良さに慣らされてしまった今、五条には彼を手放すことなど全く考えられない。ずっと、ずっと、傍にいてほしいと思う。 だと言うのに、虎杖の手は他人なんか≠助けるために五条から離されようとしている。 「クソがッ!」 口汚く罵って五条は踵を返した。 どこかの誰かに奪われてしまう前に虎杖を確保しなければならない。場所はすでに分かっている。ならば一刻も早く向かうだけだと、五条は大声で屋敷の者に命じた。 「車を用意しろ!」 瞬時に移動する術を開発できていればどんなに良かっただろうか、と思いながら。 [chapter:5] 展開された帳は術師が自由に出入りできるタイプのもので、虎杖も難なく通り抜けることができた。 黒い膜の先にあったのは、一言で言えば、惨状。取り壊しが決定している病院の正面玄関付近にその光景は広がっていた。 おそらく複数の呪術師がこの場にはいたのだろう。しかし元の人数が一目では理解できないほどにバラバラにされた肉体が周囲に散らばっていた。 生き残っていたのはただ一人。おそらく呪霊が本気を出す理由になった特に強い呪術師。しかしその術師もすでに呪霊の攻撃により頭から血を流して気を失っており、とどめを刺される寸前だった。 これを間に合ったと言って良いものかどうか不明だが、一人だけでも生き残っていたのは『マシ』な方なのだろう。そして、突然乱入してきた虎杖に呪霊の意識が向いたことで、その気絶していた術師は絶命の危機を逃れる。 少なくともこの生き残りの呪術師だけは無事に帰してやらねばなるまい。虎杖の方は宿儺の指の気配を感じる呪霊と相対し、油断なく構えを取った。 シィシィと歯の隙間から笑い声のように呼気を漏らす呪霊。甚爾と初めて会った時のように相手がこちらとの実力差を正確に判断して退いてくれることはなく、宿儺の指を取り込んで力を増した呪霊は虎杖を正面に捉えても一切恐れをなした様子がない。 いつか見た呪霊と同様、目の前の呪霊も人間に良く似た形状をしていた。体表は白く、所々黒い。ニタニタと嗤う口は人間と同じ位置だがサイズは三倍近くあった。嗤っているということは、おそらく新たな獲物≠ナある虎杖の登場に喜んでいるのだ。あくまでも自身の方が強者であると考えている。 さて……と、虎杖は内心で呟き、再度惨状を一瞥した。 今から自分は宿儺の指を取り込んだ呪霊を祓う。沢山の術師が対応しても祓えなかった呪霊を、だ。もしそんな状況を呪術師に目撃されでもしたら、これまでの虎杖の平穏はたちまち失われてしまうだろう。以前五条に言われたとおり、虎杖が特級呪物を取り込んでいることを知られればとんでもないことになる。良くて監視、悪くて処刑だ。覚悟してこの場に突っ込んできた虎杖ではあるものの、避けられるならばそれに越したことはない。 そんな虎杖にとって今の状況はある意味で幸いであった。目撃者となり得る者はすでに死亡または気絶している。ならばこの状態が継続されているうちに全てを終わらせてしまうのみ。 「オマエは遊びたいんだろうけど……」 そう告げる虎杖の声音は優しいものだったが、ニタニタと嗤う呪霊を見据える表情は限りなく無に近い。 「俺はさっさと終わらせてーの」 言い切るのと同時、虎杖は力強く地面を蹴った。 アスファルトが抉れて僅かな破片が宙を舞う。それが地面に着地する前に虎杖は呪霊に肉薄した。瞬時に研ぎ澄まされた感覚は拳の動きに寸分の狂いもなく呪力を流す。 ――黒閃。 黒い稲妻が空中を舞い、たった一撃で呪霊の腹の半分を奪っていく。 それでも捕まえようと伸びてきた腕を虎杖は即座に身体を屈めてやり過ごし、ついでに足払いまでかけて呪霊を転倒させた。横倒しになった呪霊は起き上がろうとするものの、 「……ッ!」 立ち上がるための足がなかった。 何も拳だけに黒い稲妻が宿るわけではない。打撃と呪力が寸分の狂いなく噛み合えば黒閃は発生する。ならば蹴りに呪力を乗せればこのとおり。抉れた腹部も消失した足も人間とは違い呪霊はあっという間に修復してみせたが、僅か数秒の攻防で虎杖に向けていた余裕の表情は完全に失われていた。 呪霊の全力が来る。 すでに立ち上がっていた虎杖は半歩身を引くという最小限の動きだけで、高速で突撃してきた呪霊を躱す。虎杖の横を通り過ぎた呪霊はかすりもしなかった己の爪を悔しげに見つめて「シャアッ!」と怒りの声を上げた。 二者の距離はおよそ十メートル。 こちらとの距離を詰めるタイミングを見計らっている呪霊に虎杖は内心ぽつりと呟いた。この程度では領域展開する必要もないな、と。 代わりに軽く握っていた右の拳を解いて、パキ、と指の関節を鳴らす。 自らの腹に収められたのは両面宿儺の指二十本全て。呪力は十二分、術式もしっかりとこの身に刻まれており、加えて虎杖は両面宿儺の戦い方をよく知っていた。 そのほんの一端を、目の前の呪霊に。 届かないはずの右腕を虎杖は軽く振り上げた。その五指が向いていたのは当然、十メートル先に佇む呪霊。 きっと呪霊自身は何が起こったのか分からなかっただろう。呪霊の身体は不可視の刃により縦六枚に分割される。断末魔すら挙げることは許されなかった。そして六枚おろしとなった呪霊の身体の中央付近から無傷のまま飛び出してきたのはおぞましい姿をした指の屍蝋。 虎杖は宿儺の指を拾い上げ、違えてくれなかった予想に眉根を寄せる。 やはり虎杖という存在によってこの時代もしくは世界における両面宿儺の魂が活性化を始めてしまっているのだろう。つまりこの惨状は虎杖が原因と言っても過言ではない。「くそっ」と小さく毒づき、虎杖は宿儺の指を睨みつけ――……。 (……ああ、早く食べてしまわないと) ごくごく当たり前のことであるかのように、そんな思考が湧き起こった。 そうだ、己は宿儺の指を食べなければいけない。この地で二十本集めなければいけない。そうしなければ、いけないのだ。 理由など知らない。分からない。しかしそうしなければいけないのだと、かつて交わされた誓約≠覚えていない虎杖は急かされるように指を口に運んだ。 ゴクン。 二十一本目の指が虎杖悠仁の胎(はら)に収まる。 瞬きの間だけ虎杖の肌に黒い紋様が浮かび上がり、静かに消えた。知らず目を閉じていた虎杖が再び両の瞼を押し上げれば、赤ではなく琥珀色の瞳がその中央に収まっている。 「あ、れ? 俺、なんで」 パチパチと瞬きを繰り返し、虎杖ははたと両目を見開いた。 何も自分が指を取り込まなくても良かったはずだ。五条にでも渡して再封印してもらうという手もあったはず。しかし指を見つめた瞬間、虎杖の思考は「この指を食べなければ」という一択に支配された。気づいた時にはすでに遅く、宿儺の指は虎杖の胎の中。 (まあ別に俺が喰っても大丈夫なんだろうけど……) ひとまず呪霊は祓い終えた。ならばさっさとこの場を辞した方が賢明かもしれない。 気絶したままの呪術師が多少心配ではあったが、これ以上ここに留まっていては虎杖の身に良くないことが起こってしまう。そうして虎杖は未だ下ろされたままの帳を抜け出そうとし、 「……誰が帳を下ろしてるんだ」 ようやく目撃者≠フ存在に気がついたのだった。 ◇ 今夜の作戦に参加していた呪術師達に応援要請がかかったのは、五条悟が家の者に命じて車を用意させたすぐ後のことだった。内容は、強力な呪霊が確認されたので手が空いている者は至急向かってほしいというものだ。 指定された場所はちょうど虎杖がいる辺り。間が悪いにも程がある。 どうか虎杖は巻き込まれないでいてほしいと思いながら車に乗り込み運転手に発進するよう五条は告げた。しかしその願いは叶わない。間も無く現場に到着しようかという頃、車中の五条に再び連絡が入り、事態の急変が告げられたのだ。曰く、当該呪霊は祓われた。しかしその呪霊を祓った所属不明の人物が特級呪物・両面宿儺と思しき指の形をした何かを口にした、と。 血の気が下がるのを自覚しながら、五条は溺れる者が酸素を求めてあえぐようにその名を呼んだ。 「悠仁……ッ!」 ◇ 帳は未だ上がらない。しかしその内側には今や幾人もの呪術師が姿を現わしていた。 肉片と化した同業者の末路に顔をしかめたり動揺したりする者は多くいたが、それでも皆一様に意識を虎杖へと向ける。視線に含まれるのは警戒心とはち切れんばかりに膨らんだ恐怖。実際目にした者は少ないだろうが、おそらく彼ら全員が虎杖の胎に一体何が収められたのかを知っている。 特級呪物の受肉を警戒する彼らはすでに虎杖を人間ではなく呪霊と同一視していた。過去にも向けられたことがある目だ。マズったな、と胸中で呟く虎杖にはこの後の展開も簡単に予想がついている。 「あのさ、」 「っ、動くなッ!」 一斉に武器を構える呪術師達。ちょっと喋っただけでこのザマだ。 刀、槍、弓、棍棒、式神、それに呪霊と思しき姿まである。最後のは呪霊操術というやつだろうか。そこそこ珍しい能力の持ち主まで揃えられていた。 ここに無下限呪術の使い手であり六眼を持って生まれた五条が加われば、まさしく呪術師の見本市になっていただろう。どうしてここまで即座に術師が取り揃えられているのか不明だが、ひとまず五条だけはこの場にいなくて良かったと思うことにしたい。 五条の不在を喜ぶのは無論、あの少年が敵に回ることを危惧してのことではない。むしろその逆。もしこの場に五条がいれば、彼は虎杖に向けられた無数の敵意に不快感を露わにしただろう。そして虎杖を背に庇い、呪術師達と敵対してしまう。同じ状況でも大人になった五条であればまだ上手くこの場をしのいでみせるだろうが、いくら力があっても精神が幼い現時点での五条ではそうもいかない。そしてそもそも、『子供』にそんなことはさせたくなかった。 (でもこのまま殺され……いや、祓われ≠スとしても、悟はきっと怒るだろうな) そして犯人を見つけ出して報復しかねない。 ゆえに虎杖は単独でこの場を上手くしのがねばならなかったのだが――。 (……あ) しまった、と思ってももう遅い。 呪術師達の様子を窺っていた虎杖は自分を睨みつけている彼らのうちの一人と偶然にも目が合ってしまった。その人物は黒髪の若い男で、雰囲気からまだまだ場慣れしていないことが窺えた。 男性術師は虎杖と目が合うと「ヒッ」と喉を引きつらせる。そしてまるで悪鬼に狙われた弱者のごとく顔を青ざめさせて、次の瞬間。 「わ、あ、あああああああ!」 下策も下策。構えていた刀を振り回して虎杖に向かってきた。 せめて尻をまくって逃げてくれればマシだったものを、何故恐怖しながら攻撃してくるのだろう。 この後の展開に内心で舌打ちをしながら虎杖は振り下ろされた刀を避ける。恐慌状態の男性術師が下手に刃物を振り回して自身を傷つけてしまわぬよう、避けるついでに手首を打ち据えて武器を落とさせるが、まるで虎杖の手刀で己の両手が切り落とされてしまったかのように男性術師はさらに耳障りな悲鳴を上げた。 完全にパニック状態に陥っている。そして一人目が飛び出してしまった所為で――しかも悲鳴まで上げる始末となり――、他の術師達も一斉に動き出す。やっぱりな、と思いながら、虎杖は恐怖と敵意を抱え込んで向かってくる術師達を傷つけないよう気をつけながらその攻撃を捌いていった。 呪霊操術の使い手が放った大きな蛇のような、小型の龍のような、そんな呪霊を腕の一振りで薙ぎ払う。余程の決め球だったのか、術師は絶望にまみれた声で「そんなっ!」と嘆いた。周囲の者達も彼と同じように顔を青くしている。「わ、悪い! でも俺、アンタらを傷つけるつもりは――」まずは話し合いを。そう望むが、虎杖の言葉が術師達に届くことはない。 「怯むなぁッ!」 リーダー格なのか、それとも単に周囲を鼓舞したいだけのヒラ呪術師なのか、ともあれ一人の術師が「耐えろ! あと少しだ!」と声を張り上げた。何事かと虎杖がそちらへ視線をやれば、叫んだ術師は一瞬肩を跳ねさせたものの、さらに声を張り上げる。 「もうすぐ応援が来る!」 まだ術師が増えるのか。呪術師達を傷つけないままこの包囲網を抜け出したい虎杖は状況の悪化に今度こそはっきりと舌打ちをした。だが、本当の状況悪化を知らせるのはこの後。 リーダーもどきの術師は叫ぶ。 「五条悟が間も無くこの場に到着する!」 「――――は、」 その知らせを聞いた術師達は一気に顔に血の気が戻り、対する虎杖は呼吸が止まる。 「……ん、だよ、それ」 声は知らず知らずのうちに漏れていた。 「まだ中一の子供に……何を、そんな……」 確かに五条は強い。まだ中学二年生にもなっていないのに、彼は早くも『最強』の片鱗を見せていた。未だ領域展開には成功していないようであったが、それでも単独で彼に敵う術師はきっとどこにもいない。 でも子供なのだ。まだ、たったの十三歳なのだ。そんな彼を頼りにして、勝利を確信する者達のなんと多いことか。 五条悟がこの場に来てしまうという事実よりも、まずそんな術師達の態度に虎杖はぐっと拳を握る。そして「ふざけるな」と怒鳴り散らそうとして――。 「ふざけんなよ、クソが」 声変わりの最中にあるまだ幼さを残した声が、地を這うような低さでもって放たれた。 発したのは虎杖ではない。「来た!」と歓喜の声でもって道を空けた術師達の向こうから白い髪と瑠璃色の瞳の少年が姿を現わした。 少年はゆっくりと虎杖の方へ近づいてくる。まだ自分達よりも頭一つ分以上小さな少年の行く手を術師達は一切遮らない勝利を確信した彼らは、少年の眉間に寄った皺が、不機嫌そうな声が、全て『両面宿儺を受肉した器』に向けられていると信じて疑っていなかった。 ゆえに彼らの歓喜の顔は、少年――五条悟が、虎杖を背に庇うようにして自分達に厳しい視線を向けてきたことで困惑へと変わる。敵意や怒り、絶望ではない。どうして五条悟が特級呪物の器に背中を見せているのか分からないといった顔だ。 小さな背中越しにそんな術師達の困惑の表情を眺めてから虎杖はそっと目を伏せた。耐えるように小さな声を絞り出す。 「ダメだ、悟。それは、ダメだって」 五条本人を除き、虎杖はこの場で少年の意図を唯一正確に理解していた。五条の敵意は完全に周囲の呪術師達へと向いている。殺気はない。そんなものは彼らと五条の間にある実力差ゆえに必要とされていない。 「俺が言ったこと無視して電話を切ったどこかのバカが何を言っても全然聞こえませーん」 五条とて虎杖の言葉の意味は分かっているだろうに、はんっと鼻で笑ってそんなことを呟く。 そこでようやく虎杖は気づいた。五条が虎杖に戻るよう強く命じたのは、近くに呪術師達がいることを、そして強力な呪霊と相対している可能性があることを、事前に知っていたからだ。虎杖の身を守るために五条は必死だった。なのに虎杖は彼の心配を無碍にして今こうして厄介事に巻き込まれ、危機に立たされている。 虎杖の登場により救われた命は確かにあったが、それでも五条のことを思えば「ごめん」で済まされる話ではなかった。ただ、起こってしまった事態が今更なくなるわけではなく、ゆえにせめてここから先は最良の選択をしなければならない。 「言っとくけど」 虎杖が五条悟を下の名前で呼び、五条がそれに軽い口調で答えた。そんな二人のやり取りに困惑を強める術師達へ五条は苛立ちも露わに刺々しい声で告げる。 「俺、オマエらの味方じゃねーから」 僅かな間を置いてザワリと空気が波打った。状況を理解し始めた術師達が折角戻っていた顔色をまたもや蒼白に染め上げる。 「ってかさ、俺が来る前に悠仁に攻撃した奴、誰? この場にいる全員?」 繰り返すが、五条に殺気はない。それは当然のことだろう。人間はアリを踏み潰す際に殺気など抱くはずがないのだから。 しかし怒りはその身に抱え込んでいる。言うことを聞かず厄介事に巻き込まれた虎杖に向ける分もあっただろうが、煮え立つ感情の大部分は状況を理解して絶望に顔を染め上げながらも武器を構え始めた大勢の呪術師達に向けられていた。 「へぇ……俺と殺り合う気なんだ?」 子供に頼る気満々だった大人達をぐるりと見回して瑠璃色の双眸が細められる。まだ成長途中の手が顔の横まで上がり、掌印を結ぼうとし―― 「悟ッ!!」 「……悠仁、なんで止めんの。まさか俺が負けるとでも思ってる? まぁ悠仁の前で俺がどれだけ強いか見せたことはなかったけど――」 「知ってる。オマエがとんでもなく強いことはよく知ってるよ」 意識は呪術師達に向けたままこちらを一瞥する少年に、虎杖はそう答えた。 何せこちらは『最強』となった五条悟を知っているのだから。幼くともその実力は疑うべくもない。 (でも) 虎杖を守ろうとしている存在はまだ『子供』だった。 目の前の呪術師達を全て相手にして戦ったとしてもきっと五条が勝つだろう。だが虎杖が最初に出会った『最強』であれば、戦うことすら始めさせない。比べるのも愚かしいほどの圧倒的な実力差で対戦相手の戦意を喪失させるか、はたまた根回しして表立った対立そのものを発生させないかは時と場合によって異なるだろうが、とにもかくにも双方共に傷つかずに済む展開をもたらしてくれるはずだ。そして自身も、自身の守りたいものも、絶対に損なわせない。 けれどまだ幼い五条にはそれができなかった。我儘を通すだけの力はあれど、その我儘を通しきった先で多かれ少なかれ不利益を被ってしまうだろう。今回の場合、下手をすれば五条が『呪詛師』認定すらされかねない。 (そんなの絶対にダメだ) 虎杖はこちらを呪霊と同一視している呪術師達を改めて眺めた。 これ以上、五条に何かをさせてはいけない。呪術界はきっと多少のことであれば彼の実力を惜しんで見逃してくれるはずだが、実際に呪霊を祓おうとした呪術師達を傷つけでもすれば、上層部の甘い判断など望めないだろう。 五条に攻撃させてはいけない。五条に呪術師を傷つけさせてはいけない。呪術界にとって五条悟は術師の味方であり、決して術師を害する敵ではないのだから。 (つまりこれは自業自得。俺が決着をつけなきゃな) 虎杖の双眸に灯る決意を感じ取って五条が怪訝そうに「何する気だよ」と問いかけた。しかしそれには答えず、虎杖は術師達に向けて良く通る声を発する。 「俺は大人しくするから、五条悟を刺激するようなことはしないでくれ」 「はあ!? 何言ってんだよ悠仁! 今から俺がオマエを助けてやろうとしてんのに」 今度は一瞥だけでは収まらず、五条は身体ごと振り返って声を荒らげた。それでも虎杖の視線は瑠璃色の美しい双眸ではなく幾人もの術師の方へ向けられている。 「呪術師同士で争うな。人間同士で、争ってくれるなよ」 「はっ、呪い風情が偉そうに!」 揶揄する声は術師達の中から聞こえた。しかし五条が何かを言う前に虎杖が発言者を見据えれば、それだけで相手は「ひっ」と情けない声を出して腰を抜かす。自分達が全力で当たっても虎杖には傷さえつけられなかったのだから当然だろう。 彼らにとって虎杖は呪い。しかも自分達では敵わない最悪の部類だ。恐怖と嫌悪が入り交じる視線を受けながら虎杖は五条の前に出る。五条はそれに抗おうとしたが、現時点において『最強』の片鱗は見せるものの『最強』ではない五条が二十一本目の宿儺の指を口にした虎杖を従わせることはできなかった。 厳然たる事実として、この場で最も強い支配権を持っているのは虎杖悠仁である。それを言葉にするまでもなく示しながら虎杖は告げる。 「誓約する。全員この場で争わないでいてくれるなら、俺は大人しくアンタらに連行されてやるよ」 五条悟が敵わないのだから、どの術師であっても虎杖悠仁を殺すことはできない。しかし条件を提示して、虎杖は呪術師側に従う意思があることを宣言する。 従うとはつまり「封印されることも厭わない」という意味だ。殺すことはできずともこの化け物≠無力化することはできるのだという希望に術師達が色めき立った。 「ただし」 そんな呪術師らに釘を刺すように虎杖はこう付け加える。 「もし今この場で争うってんなら……俺や五条悟に攻撃しようとしたなら、」 鋭さをまとった琥珀の双眸が密かに五条を狙っていた呪霊操術の使い手を睨みつける。 「ソイツ、俺が殺すから」 虎杖に殺気を向けられた術師がその場で失禁する。そんな相手から視線を外して五条を振り返れば、聡明な頭でこちらの意図を読み取った少年が怒りと悲しみで瑠璃色を揺らした。 「ふざけんな、馬鹿」 殺すどころか誰も傷つける気なんてないくせに。 音にすること無くそう告げて、まだ虎杖よりも弱い将来の『最強』は血が滲むほど強く唇を噛み締める。 ――この十八時間後、『特級呪物・両面宿儺の器』たる虎杖悠仁は五条悟の身の安全の保障および今回の件で少年が一切責任を負わないことを条件に、東京都立呪術高等専門学校の深部へと封印された。 いつか虎杖を殺せる者が現れるその時まで。 2020.01.19〜2020.03.07 pixivにて初出 |