白曼珠沙華 番外編
[十二月 七海] 虎杖悠仁の処刑がどう足掻いても覆せない状況になった時、七海建人は改めて心の底から呪術師はクソだと吐き捨てた。 しかしそれから十年経った今も七海は呪術師としてこの世界に身を置いている。 呪術師の家系でも何でもなく一般家庭の中で突如呪術の才能を持って生まれた七海には、当然のことながら加茂家や禪院家といった古い家の呪術師のような背負うべきものなど存在しない。しかし七海は呪術師としての自分が誰かを救えることをすでに知ってしまっている。 七海は呪術に関わる汚いところも残酷なところもどうしようもないところも飽きるほど見てきたが、同時にたくさんの「ありがとう」も受け取ってきた。そしてそんな自分以上に多くの人々の感謝を受け取るはずだった少年が道半ばでその命を散らされた後、七海は彼が救うはずだった人々の全て……は無理だとしても、その一部には彼の代わりとして手を差し伸べたいと思ってしまったのだ。 彼を救えなかった者の一人として行うそれが、呪いで苦しむ人を救うためではなく、七海本人のための単なる代償行為だったとしても。 人を助けるというやり甲斐とはまた別の、呪術師として生きる意味。己が立ち続けるための方便。十年前から七海の中に植え付けられたそれは体中に根を張ってきっと死ぬまで取れることはないのだろう。そう思っていた。 けれど。 「……また君に出会えて私は今とても嬉しい」 「俺も! 久しぶりだね、ナナミン」 「ええ。お久しぶりです」 年末の忙しい時期に突然五条悟の家に呼ばれたかと思えば、そこで待っていたのは失われたはずの命だった。 七海が知らない頃の姿をした、七海がよく知っている少年。事情を聞いて混乱しないわけがなかったが、それでも無理やり呑み込んで、今はただ奇跡のような再会を心から喜ぶ。 十年前に根を張った『呪術師を続けている理由』もいつの間にか消え去っていた。残ったのは他人を助けて感謝されるという純粋なやり甲斐のみ。 心なしか軽くなった身体で、七海は三人掛けのソファに座る己の前でにこにこと笑っている幼い少年の頭をそっと撫でる。一瞬驚いて琥珀色の目が見開かれたが、すぐに猫のように細められ気持ちよさそうな表情を形作った。 隣には七海をここまで連れてきた伊地知潔高が座っている。七海と少年のやり取りを微笑ましそうに眺める彼はこちらよりも先に少年の復活を知らされていたらしい。というより、少年を最初に発見した伏黒恵と釘崎野薔薇に付いていた補助監督は伊地知が育てた人員であり、そこから情報が伝わっていたそうだ。 かつて呪術高専の生徒になったばかりだった虎杖悠仁達を上層部の意図に気づかず危険な任務へ赴かせた伊地知。その後悔から元々優秀だった彼はさらに力をつけようと奮闘してきた。虎杖悠仁が処刑されてからは特に。 結果として最初の後悔から十三年の歳月が流れた今、伊地知の手元には彼が育てた優秀かつ信頼できる人員が集まっている。『両面宿儺の器』の復活を上層部に悟られずに済んでいるのは彼と彼の後輩達の手腕によるところも大きかった。 よって感謝こそすれど、先に知っていたことに関して嫉妬などするはずはない。ないと言ったらないのだ。 「ナナミン?」 横を一瞥して沈黙した七海を心配し、琥珀色の双眸がこちらを見上げてくる。それに「何でもありませんよ」と答えつつ、七海は止まっていた手の動きを再開させ、思う存分少年の明るい髪を撫で回した。 ローテーブルを挟んだ向かい側では家主たる五条がやや不機嫌そうに七海達のやり取りを眺めている。口を挟んでこないのは、親しい者との再会と交流が少年にとって大切な時間であると理解しているからだろう。 今はまだ十二月。本来であれば五条悟が手に負えない状態となる時期だ。しかし少年が戻ってきたことでその状態も改善されたらしい。とても良いことだと七海は口に出さずに思った。 わしゃわしゃと動かす手のひらの下では幼い少年が楽しげに笑っている。それを眺める伊地知は微笑み、五条は不機嫌さを滲ませつつも楽しそうで、ついでに言えば七海自身も己の頬が類を見ないくらいに緩んでいることを自覚していた。 (今度こそこんな日々がずっと続きますように) 七海は強くそう願いながら、五条がとうとう耐えきれなくなって少年を回収するまで幼子の柔らかな髪の感触を堪能し続けた。 [一月 家入] 反転術式を扱える家入硝子は上層部から随分と重要視されており、他の術師と比べて彼らの目が向けられることも多い。金と権力を手に入れた人間が次に望むのは不老や不死といった身体にまつわることだからだ。 よって家入は己の行動に対し人並み以上に注意する必要があった。それは学生時代から変わらぬことであり、四十を過ぎた今となっては慣れるを通り越して呼吸と同レベルだと言っても過言ではない。 そんな家入であるが、今回の件はさすがに常よりも気を張っていた。何せ特級呪物・両面宿儺の器が記憶と力の両方を保持したまま再びこの世に生まれていたのだから。 少年の存在を五条達から伝え聞いた後、当時高専一年生だった虎杖悠仁の蘇生を隠蔽した時と同じかそれよりさらに慎重に事を進めた家入。幼子の姿で戻ってきた件の少年との再会は何とか昨年の十二月中に済ませていたが、その身体に異常が無いかどうかの確認は上層部の目が絶対に向けられないよう慎重に時機を窺った所為で一月も終わろうかという頃になってしまったのだった。 (まぁ、気を張る日々も今日で終わりなんだが) 丸椅子に座り、正面でやや緊張した面持ちのまま背筋を伸ばす子供を眺めて家入は胸中で呟く。 呪術高専の敷地内にある家入の診察室には、現在、家入本人を含めて三人の人間が存在していた。 採光用の窓の向こうには寒そうな景色が広がっているものの、暖房が効いた部屋はコートが邪魔になるほど暖かい。子供用のダッフルコートを腕に掛けたまま壁に背を預けこちらを眺めている三人目へと視線を向けた家入は「悟」と相手の名を呼んだ。 「オマエも随分と思い切った方法を取ったな。誰の目にも触れないよう大事に仕舞い込むどころか、虎杖を堂々と人の目にさらすなんて」 「まさかおじいちゃん達も悠仁本人が戻ってきたなんて思わないだろ? だったらそれを利用するまでさ」 「自分が狂人扱いされてもか?」 「むしろ望むところだね」 黒い目隠しをしたまま五条がニヤリと口の端を持ち上げた。 虎杖悠仁との再会からおよそ一ヶ月。その間、五条と周囲の者達は家入と同様に少年の存在が上層部に漏れないようひっそりと動いていた。しかし本日、五条は悠仁を隠すのではなく、堂々と彼の手を引いて呪術高専の敷地内に足を踏み入れたのだった。 名目は昔馴染みでもある家入硝子との世間話。そのついでに己が最近養子に迎えた子供との顔合わせという、「最強」でなければ許されないようなくだらないものである。 あの五条悟が小さな子供の手を引いて、しかもその子供をかつて己が処刑した元教え子であり特級呪物の器でもあった少年と同じ名前で呼んでいるとなれば、見かけた者は己の目と耳を疑ったことだろう。すぐさま噂は広がって、話を聞いた者達はこう思うはずだ。――五条悟がついに狂った、と。 おまけに『特級呪物両面宿儺の器・虎杖悠仁』を実際に目にしたことがある人間であれば、五条が連れている幼子の容姿を知ってさらに驚愕し、絶句したはず。五条悟は身代わりの養子をかつての教え子の名前で呼ぶどころか、その子に整形までさせる徹底っぷり……否、狂いっぷりであると思わざるを得ないのだから。 「それとさ、硝子」 「なんだ」 視線を正面に戻したところ、今度は五条の方から呼びかけられた。そろそろ目の前の子供の検査を始めたい家入は若干おざなりに返事をする。 五条が悠仁をここへ連れてきたのは大切な子供の身体に何らかの異常が無いかを信頼できる者に確認してもらいたいからだったが、その信頼を大きく裏切らない程度であればもう少し別のこともついでに調べてしまうくらいは許されるだろうか。……などと家入が考えているのを知ってか知らずか、五条はわざとらしく憤慨するような声音で言った。 「悠仁はもう『虎杖』じゃなくて『五条』だから。その辺、間違えないでくれる?」 「あー……はいはい」 思わず漏れた声は脱力感満載だった。 検査としては何らおかしくない服をめくる等の動作さえこの男が診察室にいたままでは文句を言われかねないと家入は半眼になる。呆れた、の一言しか出ない。 手放したはずの教え子が再び手元に戻ってきて嬉しいのは分かるが、いささか執着しすぎではないだろうか。そう思いつつ、けれども五条が悠仁を特別視していたのは昔からだったか、とも考える。上層部の策にはめられて一度悠仁を死なせた時も彼は随分と感情的になっていた。無論、出会ってまだ間もなかった頃の彼らの関係と今の関係が全く同じというわけではないだろうが。 ともあれこのままでは検査に支障が出かねない。 家入は一旦五条を部屋から追い出すため、彼が納得しそうな言葉を選んで口に出した。 「悟、そんな所にずっと突っ立っているつもりなら、私が『五条』悠仁の検査をしている間、オマエはこの子に服でも食べ物でも良いから何か買ってきてやったらどうだ。それとも私と一緒にいる程度じゃ安全面に不安があるか?」 「んー、硝子がいるなら問題ないかな」少し考えた後、五条はにっこりと笑って告げる。「よし、オッケー。悠仁、美味しいもの買って来るから、それまで硝子のところでイイ子にしててね」 「はーい。いってらっしゃい、先生」 「いってきまーす!」 同居中の元教え子にひらひらと手を振って五条は部屋を出て行く。 悠仁をダシにすることですんなり彼を追い出せた家入は、己がやったことであるものの、少々驚いて扉の方を見つめてしまった。数秒、閉じた扉に視線を固定し続けた後、家入は再び悠仁へ顔を向ける。 「……悟は随分と君を可愛がっているんだな?」 「えへ……まぁ過保護っちゃ過保護かも」 苦笑交じりに返される。 控えめな表現ではあったが、悠仁本人も五条の言動をいささか過剰だと感じているらしい。 「だけど全然嫌じゃねーし、先生は俺と一緒にいて楽しそうにしてくれるし、だったら良いかなって思ってるよ」 「それなら結構」 学生時代から五条悟を知る身としてはやはり多少の違和感を覚えるものの、虎杖悠仁を自らの手で処刑して異常をきたしていた十年間の姿も見ていたので、そういうものなのかと家入は先程の驚愕をさっさと己の中で消化することにした。 そうして気持ちを切り替え、検査を始めようとしたのだが。 「やっぱさ」何の気なしに悠仁が呟く。「家入先生は五条先生に信頼されてるんだね」 「信頼?」 「うん、そう」 僅かに首を傾げる家入に対し、悠仁は頭を大きく動かして頷いた。 「だって五条先生、普段は自分の目の届かない所に俺がいるのをすっごく嫌がるから。でも家入先生と一緒にいる場合は大丈夫みたい。これって五条先生が家入先生のことめちゃくちゃ信頼してるからじゃねーのかな」 「………………は?」 (目の届かない所に虎杖がいるのを嫌う? あの悟が?) 後半の台詞などほとんど頭に入らず、束縛系彼氏のような行動と自分の中にある五条のイメージとの乖離が激し過ぎて家入は数秒間固まってしまった。 確かに五条は天上天下唯我独尊我儘放題なところはあるが、他人の行動を制限して束縛するようなネチネチしたタイプではなかったはずだ。どちらかと言えば執着が薄く、あっさりしているタイプだろう。また激高などの感情を露わにする場合も、大抵は対象への感情に由来すると言うより己が軽んじられたと感じたか否かで決まっているように思う。 「えっと……」家入は頭痛さえ感じ始めながら何とか止まっていた呼吸を再開させた。「……その……だとしたら、悟が任務や他の用事で家を空けている時、虎杖はどうしているんだ?」 「ん? ずっと家にいるよ」 「一人で?」 「一人で」 「長期の任務もあるだろう? そういう時は何日も一人なのか?」 「うん。先生が家にいない間、俺、ずっと外出しないよ」 「悟がそう望むから?」 「うん」 いやいや待ってくれ本当に今自分達が話題にしているのは五条悟の件なのだろうか、と家入はさらに激しくなる頭痛に顔をしかめた。 もしこれが事実であるのなら、家入が思っていた以上に五条悟にとって虎杖悠仁――今は『五条悠仁』とのことだが――は掌中の珠であり、また同時に迂闊に触れてはならない『ナニカ』なのだろう。 下手なことをすれば己であっても彼の怒りを買いかねないと思い至った家入は、依頼された通りの検査だけをしようと頭の中で本日の予定を修正する。 「五条先生って本当に心配性になっちゃったよねー」 「そうだな……」 悠仁はけろっとした顔で告げるが、中々に事態は深刻なのではないだろうか。それに気づいていない悠仁は随分と脳天気であると家入が胸中で感想を呟いていると、 「だからね」 僅かにトーンの変わった声で悠仁が告げる。 ほのぼのとしていた空気が冷たくなった気がして家入ははっと息を呑んだ。 「いたどり」 「先生にお願いがあるんだ」 「……お願い?」 「そう」 正面に座る子供は五条がまだ部屋にいた時の緊張した面持ちから一転、穏やかに微笑みを浮かべている。幼い容姿に似合わぬ大人びたそれが妙に背筋をざわつかせた。 琥珀色の瞳はこれから己の身体の状態を詳しく調べようとしている相手にひたと向けられ、逸らされることもない。決して攻撃的な眼差しではないはずなのに、家入は自分の身体が緊張していくのを克明に感じることができた。 「一体、私に何を願うんだ……?」 「簡単なことだよ」大人びた表情のまま子供は告げる。「家入先生なら俺が色々混ざっちゃってる≠フもすぐ分かると思うんだ。でもそのことを五条先生には言わないでほしい。今の五条先生、まだちょっと不安定なところがあるから余計な心配かけたくないんだよね。教えるなら、少なくとも五条先生が俺の状態に気が回るようになるくらいには落ち着いてからが良いかな。もしくは先生が自然と気づくまで待つ」 昔の五条なら相手を前にして少し意識を集中させればどのような呪いがどの程度混じっているのか気づいたはず。しかし悠仁と再会を果たして以降、五条が元教え子の状態に異変を感じた気配はない。理由は、悠仁をもう一度失ってしまうことがないよう気を張っていっぱいいっぱいになってしまっているからが半分。あとは悠仁の中には相変わらず両面宿儺がおり、その気配が最も大きいのと、加えて『悠仁の中にいるのは両面宿儺(だけ)である』という思い込みが目隠しとなっているのだろう。――と、悠仁は現状と己の推測を語った。 大人びた表情と、瞳の奥に見え隠れする思慮深さ。そして家入の知る高専生時代の悠仁からは少し想像が難しいほどすらすらと流れ出る言葉達。 言葉の内容は理解できた。納得もした。ついでに長年呪術師として働いてきた部分が悠仁の言葉を受けて半分無意識のまま目の前の相手の状態を探り、確かに宿儺以外の呪いが複数混じっていることも把握した。五条が気づいていないという状況から、十年間病んでいた彼の精神がすぐに全快するわけではなかったのだと理解もできている。 しかし、否、だからこそ。まだ十歳にもなっていない幼い子供の言葉と表情に家入の頭は容易く混乱する。 「五条先生には内緒にしてくれるよね、先生」 「……あ、ああ」 念押しする悠仁に頷くのが精一杯だった。 そんな家入に悠仁は「あ」と何かに気づいた素振りを見せ、次いで苦く笑う。 「家入先生、俺、こんな見た目でも記憶だけなら伏黒達とほぼ同じ年数生きてるんだよ」 見た目に似合わないことを言っている自覚はある、と子供は頭を掻いた。 その言葉に、ああ確かにそうだった、と家入は両目を瞬かせる。目が覚めた気分、とでも言うのだろうか。見た目が幼く、さらに五条がホイホイ構うものだから、いつの間にか目の前にいる子供の精神が実はアラサーであることを忘れてしまっていた。 三十も近くなればこのくらい他人を気遣えるようにもなるだろう。特に悠仁は昔から他人を思い遣れる子であったし。 「すまなかった。なら、子供扱いもしない方がいいな。悟に君のことを内緒にする件も了解した」 「よろしくおなしゃす!」 ビシッと敬礼する悠仁は先刻までと違い大分子供っぽかったが、おかげで背筋のざわつきが収まっていく。ほっと肩から力を抜く家入に悠仁もにこにこと笑い、「じゃあ検査始めちゃってください」と促した。 この後、本格的に悠仁の状態を診断した結果、家入があまりの混ざりよう≠ノ若干引いてしまい、改めて五条には内緒にしておこうと決意したのは蛇足である。 ――ほぅら、やはりオマエはバケモノだっただろう? 身の内に棲まうバケモノがそう言って嗤う声が聞こえたような気がしたが、微妙に顔を引きつらせている家入の前で少年が表情を変えることは一切ない。 己がぐちゃぐちゃに混ざっていることなど少年はとうに自覚している。しかしそれがどうした。大切なのは、知ってはいけない状態の人間にそれを悟らせないこと。ただそれだけの話だった。 [可も無く不可も無いとある新入生の話] 東京都立呪術高等専門学校。 日本に二校しかない呪術教育機関の一校であり、多くの呪術師が卒業後もここを拠点として活動している。呪術師の教育機関としてだけではなく任務の斡旋やサポート等も行うここは、まさに呪術界の要であった。 そんな場所に足を踏み入れる少年が一人。まだ若く未熟な呪術師たるその人物は緊張した面持ちで門をくぐると、事前に学校側から郵送されてきた簡易な地図を片手にひとまず学生寮を目指して歩を進める。 大きな荷物は先んじて送っているため少年本人は軽装であるものの、緊張も相まってその歩みは決してスムーズではない。おまけに片手に持った地図はあまりにも簡易すぎて非常に分かりにくい仕様となっていた。 そしてとうとう少年の足が止まる。 周囲の景色と紙を交互に眺めて迷わないよう気をつけていたのだが、どうにも誤ったルートを選んでしまっていたらしい。少年はがっくりと項垂れて溜息を吐いた。 ひとまず元来た道を戻った方が良いのだろう。少年はもう一度溜息を吐いて踵を返す。 明後日の入学式までにはある程度道を覚えておきたいのだが、初日からこれでは不安になってしまう。しかし、と少年は丸くなり始めていた背筋をピンと伸ばした。 高専の敷地内の把握すらできなくてどうする。いつまで経ってもろくに道さえ覚えられないとあっては格好悪いにも程があるだろう。そして自分はそんな格好悪い姿を高専の教師やその他の関係者に見られてしまっても良いのか? 否! 断じて否である! ――と。 少年の実家はこの東京都ともう一つの呪術高専がある京都府から同程度の距離にあった。また家柄は中の下、派閥にも特に属しておらず中立派……と言うよりむしろ他の呪術師の家系と関わりが薄く、半分一般人のようなものであるため、どちらの高専に入学しても問題ない立場である。しかし少年は京都ではなく東京に行くことを強く希望した。 何故なら今年度は最強と名高いあの五条悟特級呪術師が何年かぶりに再び東京の呪術高専で教鞭を執ることになったからだ。 しかも非常勤講師としてではあるものの伏黒恵特級呪術師と釘崎野薔薇一級呪術師の授業も行われるらしい。これで東京に行かない方がモグリである。若干のミーハー精神を発揮しつつ、少なくとも少年はそう思ってここに来た。 そしてそんな憧れの人々に格好悪いところを見られるなど死にたくなるほど恥ずかしいことなのである。 ゆえにこんな所でしょんぼり肩を落としているわけにはいかないのだ。 「…………」 しかし気を取り直して元来た道を辿る少年の歩みはしばらくして再び止まる。ぐるりと辺りを見回して彼は頬を引きつらせた。 「ここ、どこ……」 きちんと自分が進んだ道を戻ったはずなのに、さらに分からない場所に来てしまっている。「落ち着け……落ち着け……」と心の中で何度か呟いてみるが、受け入れがたい状況に頭はほぼ真っ白な状態だった。 広大な敷地を有する呪術高専で迷子。しかもたとえ今から恥を忍んで他人に助けを求めようとしても、周囲には人の姿も気配も一切ない。 困惑や焦りを通り越し、いよいよ泣きそうになりながら少年は「あの……」とか細く声を出した。 「だ、誰か……いませんか……」 つい先程まで「高専にいるであろう憧れの人々に格好悪いところを見られるなど死にたくなるほど恥ずかしいこと」とか何とか考えていたものの、完全に道に迷って、しかも周囲に道を尋ねられそうな人が誰もいないという状況に陥ってしまえば、いつまでも見栄を張っていられるはずがない。生憎こちらは数日前まで中学生だったのだ、とついでに言い訳も追加して少年は「誰かー」と再び声を上げた。 瓦屋根の社寺建築が立ち並ぶ敷地はシンと静まり返って、少年の声がただただむなしく響く。ひくり、と喉が引きつった。 もしかして正しいルートを外れた結果、未熟な呪術師が立ち入ってはいけない区域――そんなものがあるかどうかすら分からないが――に立ち入ってしまったのだろうか。少年の背を気持ちの悪い汗が流れる。封印用の術式が敷かれ迷い込んだ者が抜け出せないようになっているといった場合ならまだマシで、万が一、侵入した呪霊が罠を張っていた……なんてことだったとしたら、それこそ目も当てられない。 嫌な想像は急速に広がり、比例して少年の顔色はどんどん悪くなっていく。 しかし―― 「あれ? こんな所で何やってんの?」 突如、聞き覚えのない声に話しかけられた。 少年は勢い良く背後を振り返る。 「あ……」 そこにいたのは少年と同じく黒い学生服に身を包んだ人物。ただし何も弄っていない少年の制服とは異なり、新たに現れたその人物の学ランには真っ赤なフードが取り付けられていた。ズボンの丈も七分程度に短くされ、動きやすさを重視している模様。高専の制服は申請すれば様々な改造が可能とのことなので、その制度を利用しているのだろう。随分着慣れているようでもあるし、高専の上級生かもしれない。 上級生と思しき人物は琥珀色をした三白眼で少年の頭からつま先まで一通り眺めると「新入生?」と言って小首を傾げる。 「あ、はい! そうです!」 目の前にいるのが上級生であるならばまさに天の助け≠セ。少年は肯定に続き、「あの、実は……」と自分が迷ったことを説明して学生寮までの道を尋ねる。 すると意外なことに、上級生がたった今来た方向が学生寮までの近道であったことが判明した。それだけではなく彼は「まずは近道じゃなくて正しい道を覚えた方がいいよ。一緒に行こうぜ」と言って、案内まで買って出てくれる始末。 まさに至れり尽くせりで、こちらとしては感謝の言葉しかない。少年が「ありがとうございます!」と言いながら米つきバッタのように頭を何度も下げれば、上級生は僅かに苦笑しながら数歩先行し、「ほら、こっち」と手招いた。 少年は小走りで上級生に駆け寄り、もう一度感謝の言葉を告げると、次いで「僕の名前は――って言います」と名乗る。とても人の好さそうな先輩であるようだし、是非これからの学生生活で仲良くしていただきたいものだ。 こちらの名乗りを受けて上級生も「俺は」と口を開いた。しかし彼が名前を明かすより早く第三者の声が二人の進行方向から投げかけられる。 「虎杖」 「あ、伏黒」 視線を少年から前方へと向けた上級生が新たに現れた成人男性を目にしてそう言った。 男性は黒髪黒目――ただし目は光の加減で青緑色に見えることもある――で、年の頃は三十半ばくらい。目つきは鋭いものの、容貌は大変整っている。 よく言えば落ち着いた雰囲気、悪く言えばどこか淀んで暗い空気をまとうその人は、一見して近寄りがたいと思わせる。けれども少年の隣に佇む上級生――虎杖先輩と呼べば良いのだろうか――に向ける双眸はとても優しく、やわらかなものだった。 「やっぱりこっちの道から来たか。荷物の片付けはもう終わっちまったみたいだな」 「伏黒、今日は任務だったんだろ? 無理して手伝いに来てくれなくても大丈夫だって言ったじゃん。そもそも荷物自体すくねーし。でも来てくれてサンキュ」 「おう」 年は随分離れているが、二人はとても気安い仲なのだろう。伏黒と呼ばれた男性が浮かべた微笑みには相手への愛情がしっかりと込められている。 きっとこの人も虎杖と同じく良い人なのだろう。少年はそう判断しつつ、しかし同時に男性の名前と容姿、それからおおよその年齢から導き出される彼の正体に後から思い至って、ゴクリと息を呑んだ。 「もしかして伏黒恵さんですか!? 特級呪術師の! そ、それに、先輩! もしかして先輩は伏黒さんとお知り合いなんですか!?」 「伏黒とは友達「親友だろ」え? あ、うん、親友だけど……って、『先輩』?」 途中で伏黒に訂正されつつ、ぱちくりと琥珀色の双眸が少年を視界に映したまま瞬いた。つられて両目の下にある小さな傷のような線も動く。 「俺、オマエと同じ新入生だよ?」 「え?」 「色々あって高専の中は一応知ってるけど、五条悠仁、この春からピカピカの高専一年生でーす! ヨロシク!」 太陽にみたいに明るい笑顔は呪術界に身を置く者として珍しい部類に入るだろう。きっと友人も多いに違いないと思わせる。しかしある部分に引っかかりを覚えて少年は首を傾げた。 「イタドリ、ではないんですか?」 「同い年なんだから敬語はいらないって。……うん? うん、そう。コイツが――」と言って、虎杖もしくは五条悠仁という名の人物はすぐ傍まで来ていた伏黒を指で示した。「呼んでる『虎杖』はあだ名みたいなもんだと思っといて。ちなみに他にも俺のこと虎杖って呼ぶ奴って結構いるから」 「へ、へぇ……」 わけが分からない。が、そういうことらしい。 少年が「わかった」と返せば、悠仁は改めて「よろしく」と手を差し出す。握り返せばさらに眩しい笑顔が返ってきて、少年は思わず目を細めた。 「伏黒、俺ちょっとコイツを学生寮まで案内してくるんだけど、オマエはどうする?」 握手を終えて悠仁が再び傍らに視線を向ける。二十も年が離れた二人がどんな経緯でここまで親しくなったのか全く知らないため、少年にとって彼らのまるで同い年のようなやり取りは何だかとても不思議な感がする。 少年が呆けていると伏黒はちらりとこちらを見やり、それから再び悠仁に顔を向けると「一緒に行く」と返した。 驚いたのは少年の方である。 悠仁とこの特級呪術師は気心が知れた仲なのかもしれないが、こちらは突然現れた雲の上の存在に戸惑っているというのが正直な心境だ。しかも格好悪いところを見られたくなかった相手の代表格にしっかり高専の敷地内で迷子だったことが暴露されてしまった。そんな状況でまだ伏黒特級呪術師と同じ空間にいなければいけないのか。 少年は助けを求めるように悠仁へと視線を送るが、彼は「オッケー。まぁオマエにとっちゃ懐かしい所だしな」と朗らかに笑うばかり。こちらの状況になど気づいてくれる気配もない。 「……」 結局、少年は諦めることにした。伏黒が悠仁に向かって「オマエもだろ」と言ったような気がしたが、新入生であるはずの悠仁が高専の施設に関して懐かしいなどと思うことは有り得ないので、きっと聞き間違えただけだろう。 「じゃあさくっと行こうぜ」 「ああ」 「う、うん」 いつの間にか伏黒と少年で悠仁を挟むような立ち位置になり、そのまま三人で歩き出す。 最初から色々と大失敗しているような気もするし、やはり隣の二人の関係も気になるものの、少年はひとまずそれら全てを脇に置いて道順を覚えることに集中しようと気持ちを切り替えた。 それに出だしから順調とはいかずとも、この感じならクラスメイトには恵まれたと言っても良いだろう。少年は横をチラリと一瞥し、普通の学生のように「この春からの学生生活に楽しみが一つ増えた」と口元を緩めた。 [両面宿儺の器を見たことがある男の話] 七年ほど前の話だ。 特級呪術師・五条悟がついに狂ったと呪術界でまことしやかに囁かれるようになった。今の若い呪術師達には全く実感がない、それどころか知らない者の方が多いだろう話題だが、当時を知る者達にとっては身の毛もよだつ事態だったことは確かである。 最強の術師と名高い五条が『特級呪物・両面宿儺』の器であり自身の教え子でもあった少年を処刑したのは、そのさらに十年前の話。以降、五条は件の少年を殺めた季節になると不調を訴えることが多くなったと言う。その辺りの詳細は彼に近しい者にしか分からないため、こちらとしては噂に聞く程度である。 ともあれ『前兆』はあった。 そして死刑執行から十年後、五条悟は五条家の了承など一切取らず自己判断で一人の幼い少年を己の養子に迎えた。当時まだ八歳だったという少年は五条悟の子となることで五条姓を名乗るようになり、そしてすぐ五条悟の要望により改名までされることとなる。 少年の新たな名は『悠仁』――。それはかつて五条が処刑した特級呪物の器の名前であった。 五条が少年の存在を明らかにしたのは養子縁組も改名も全て終えた後であり、一切合切が終わっていたことと五条の実力の所為で外部は手出しできない状態となっていた。 と同時に、五条が意気揚々と東京の呪術高専の敷地内に件の少年を連れてきた時、偶然にも二人の様子を目撃した者は驚愕を通り越して恐怖すら抱く羽目になった。何故なら、五条が連れている幼子の容姿があまりにもかつての『虎杖悠仁』に似通っていたからである。 特級呪物の器・虎杖悠仁が呪術高専の生徒として迎え入れられるにあたり、彼とその周辺に関してはかなり詳細な調査がなされた。また下世話な話だが、千年に一人の逸材が無闇矢鱈とその胤(たね)を残しては大変だということで、彼のプライバシーなど一切無視して交友関係にもかなりの監視体制が敷かれていた。 そんなわけで、虎杖悠仁が実子を遺していた可能性はほとんど無い。ならばあの子供の容姿にはどう説明を付けるのか――。様々な憶測が飛び交ったものの、最終的には『五条悟が赤の他人である孤児を改名させたどころか、その顔までかつての教え子とそっくりになるよう弄った』――。つまりまだ十歳にも満たない子供に整形させたという結論に至ったのである。 どれほど調べても件の子供が五条の元に来るまでどこでどのように生活していたのか判明しないこと、また五条悟がその噂に対して一切の否定をしないことも拍車をかけた。七年経った今では噂を知る者の間でそれはほぼ事実扱いになっている。 呪術師はその生業ゆえに一般の人々が目を背けるような事態にも多く遭遇する。だが、だからと言って倫理観が失われてしまうわけではない。虎杖悠仁の件に関しては『人間』よりも『呪霊』や『呪物』として見る者が多かったため如何ともしがたいが……。ともあれ、まだ何も分からぬであろう小さな子供の容姿を勝手に弄り、自ら処刑した元教え子の名で呼ぶなど、おぞましいと言う他なかった。まともな人間のすることではない。 しかし『五条悠仁』が現れたことで五条悟の精神や振る舞いが一見して安定したのも事実。『最強』の名にますます磨きがかかり、特級に区分される術師の中でも五条悟はさらに特別な存在として呪術界に名を馳せるようになったのだった。 「これ、落としましたよ」 「え? あ、すみません。ありがとうございま……」 高専の学舎内を歩いていた男は背後から声をかけられ足を止めた。 目の前に差し出されていたのは一枚の書類。どうやら己が持っていたファイルから落ちてしまっていたらしい。 拾ってくれたことへの感謝の言葉と共に相手へと視線を向ければ、そこに立っていたのは学生服姿の少年だった。 黄色系の明るい髪は短く、三白眼気味の瞳はきらきらと輝く琥珀色。人懐っこそうな雰囲気は他人にとても受け入れられやすいものだろう。呪術高専内で学生服を着ている以上、呪術師として学んでいる学生であることは確かだが、呪術界独特の暗い雰囲気とは正反対とも言える陽の気配を少年は放っていた。 話しかけられればこちらも思わず笑顔を浮かべてしまいそうな相手だ。しかし目の下に走る傷跡のような線まできっちりと再現≠ウれているその顔を見て、男は表情を強ばらせた。 「いたどり、ゆうじ……」 両面宿儺の器。処刑されたはずの少年。 二十年前に特級呪物を口にし、一般人から突如呪術師としてこの学校に転校してきた彼は、その三年半後に全ての両面宿儺を喰い終えて呪いの王と共に五条悟の手で殺された。 高専に務めながら事務方として上層部との連絡役も担っていたことがある男は、記憶にあるままの少年が目の前に現れて手足が急激に冷たくなっていくのを自覚する。 しかし突然言葉を途切れさせ、あまつさえ死んだはずの人間の名を口にした男に対し、少年はただほんの少し困ったように苦笑を浮かべるだけだった。 「俺は五条悠仁っすよ」 「…………あ、」 そうだ。虎杖悠仁であるはずがない。 考えれば分かる――否、考えなくても分かるはずの事実に、男は強ばっていた指先をピクリと跳ねさせた。 しかし死人が復活したわけではないのだと理解しても安堵が訪れることはない。何故なら目の前にいる少年は五条悠仁。つまり狂った′ワ条悟のために存在する哀れな贄(にえ)であるのだから。 今まで遠目にしか見たことがなかったが、本当に良く似ている。良く、似せられてしまっている。虎杖悠仁を知る者であればきっと皆が今の男のように一瞬勘違いしてしまうことだろう。 改造された制服だけではない。髪の色や髪型だけではない。 瞳の色、骨格、ついでに目の下の傷まで。男は決して虎杖悠仁と親しくしていたわけではなかったが、職務上知っていた虎杖悠仁の姿と目の前の少年の姿は本当にそっくりだった。 おぞましい。哀れだ。何故この子供は平然としていられる? 気味が悪い。 僅かな同情と共に胸の内で膨れ上がる感情は圧倒的に負のものが多く、それは五条悟への畏怖であると共に、この状況を平然と受け入れているように見える少年に対するものでもあった。 「ほら、これ。落としたやつ。どうぞ」 「ひっ」 折角書類を差し出されたのに男の手は震えてそれを弾いてしまう。「あーあ」と残念そうに呟き、落ちた書類をもう一度拾い上げる少年。 男は思わず後ずさった。彼は、五条悠仁は、ただの呪術師の卵であり、決して両面宿儺を身の内に取り込んだバケモノではないはず。 (でも、バケモノだ) 五条悟という、人間よりも化け物に近い呪術師。彼の執着をその身に受ける生け贄。 少年も、五条悟も、男は気持ちが悪くて悪くてしょうがなかった。 この五条悠仁と名付けられた少年のあまりにも虎杖悠仁そのままな容姿を間近に見て、今、強くそう感じる。 書類を拾い上げた少年が再び琥珀色の三白眼で男を見やる。差し出した物を一度弾かれても、謂われのない嫌悪を露わにされても、少年が怒りの感情を見せることはない。ただただ困ったように微笑むのみ。 「ダイジョウブ……って俺が言っても何にもならないとは思うんすけど」固まってしまった男の手元に肌が触れないようそっと書類を差し込んで少年は両目を細めた。「アンタが何を怖がってるのかこっちは理解してるつもりだし、怖がるのは当然のことだと思ってる。だからアンタが今みたいなことをしちまうのは当然。気にしないでよ。って言うか五条先生共々迷惑かけてスンマセン」 へらり、と少年の表情が崩れた。 きっとこの五条悠仁と名付けられた少年はとても心根の優しい子なのだろう。五条悟の暴挙を全て受け入れているのも彼の優しさなのかもしれない。 頭でそう理解しつつ、けれども男の口から飛び出したのは「こちらこそすまない」でも「気遣ってくれてありがとう」でもなかった。 「君は……五条悟を『五条先生』と呼んでいるのかい」 ――虎杖悠仁と同じように。 震える唇で尋ねた男を前にして少年の笑みの種類が変わる。 まだ十六にもなっていない子供がするようなものとは思えぬ思慮深さと底知れぬ闇が見え隠れする微笑みは、男の背筋を震わせるには充分すぎるものだった。 「もちろん。だって今年から五条悟特級呪術師は高専一年の担任だし」 言葉におかしな所はない。 五条悟は今年から高専で再び教鞭を執っている。そして五条悠仁はこの春入学した一年生。よって担任である五条悟を彼が「先生」と呼ぶのは不思議でもなんでもなかった。 それなのに異常だと感じる。異様だと感じる。 微笑みと台詞がチグハグすぎて言葉を失う男の傍を、少年は用は済んだとばかりに通り過ぎる。僅かな会釈は高専に務める大人に対する態度としてごくごく普通の振る舞いだ。おかしいのは、そんな彼が去って行く足音を聞きながら廊下で固まってしまっている男の方。 けれど。 (きもちわるい) 五条悠仁も、五条悟も。 男はやはり彼らが恐ろしくて、おぞましくて、仕方なかった。 [自分達の娘を友人の妻にして友人を義理の息子にしたいし、さらに友人と自分達の血が混じった子供(孫)が欲しい夫婦の話] 五条悠仁には許嫁がいる。 ただし現在高専一年生で十五歳である悠仁に対し、許嫁となった少女はまだたったの五歳だった。 三月生まれのその少女と悠仁の年の差はぴったり十年。そんな幼い子供に将来の相手を決めてしまうなど一体どこの古い家の暴挙かと思われてしまうかもしれないが、この関係に呪術界の御三家とされる五条家は一切関わっていなかった。と言うより、そもそも悠仁は『最強』の呪術師・五条悟を戸籍上の父としているが、彼の血を引いているわけではないので、五条家が悠仁にそういったアプローチをするはずがないし、したとしても五条悟自身が許さないだろう。 悠仁が受け入れ、五条悟も容認している許嫁という関係。 それは少女の両親に最大の理由があった。 少女の名は雛菊。春の野に咲く可憐な花を名に持つ少女の姓は釘崎と言い、彼女こそ悠仁の元同級生であり五条悟の元教え子である伏黒恵と釘崎野薔薇の血を引く正真正銘二人の娘だったのである。 それは、今生の肉体が九歳になったばかりのある穏やかな春の日。 虎杖悠仁あらため五条悠仁は五条宅を揃って訪れた伏黒と釘崎の様子に「おや?」と小首を傾げた。 いつもなら悠仁を自分の子供にしたいと嘘か本当か分からない言い争いを五条とする二人だが、今日はやけに静かで、おまけに何か自信のようなものがみなぎっている。定位置となった三人掛けのソファに二人で腰掛けた彼らは、ローテーブルを挟んで正面に座った五条と悠仁に向かって口火を切った。 「五条先生、虎杖、俺達結婚することにした」 伏黒に続き、彼を指差しながら間髪置かずに釘崎が告げる。 「コイツに婿養子になってもらうから、姓は釘崎ね。でも仕事は今のままの名前で続けるつもりだから、これまで通りに呼んでくれて構わないわ」 まさに青天の霹靂。 悠仁の隣では五条が「恵、父親と一緒じゃん……」と小さく呟いている。確か伏黒の父親は禪院の出とのことなので、なるほど確かにそうなのだろう。五条の呟きが聞こえたらしい伏黒は嫌そうに彼を睨み付けていたが。 「二人ともマジで?」 「マジよ。大マジ」 悠仁を養子に迎えやすくするための手段として二人が結婚を話題にしたことはあったが、まさか本当にするとは思っていなかった。もしかしてあの時の話は好意を伴った半ば本気のもので、自分のいなかった間に元同級生達はそういう仲になっていのただろか……と悠仁はさみしさを覚えてしまう。ついでに二人の門出を心から祝えない自分自身に嫌気がさす。 すると、しゅんと眉尻の下がった悠仁を見て伏黒と釘崎が揃って「あのな」「あのね」と口を開いた。釘崎が視線で伏黒を説明役に指定する。 「勘違いしないでほしいんだが、俺達の間に恋愛感情はない」 「え?」 そうなの? と悠仁が釘崎を見れば、彼女はしっかりと頷いて見せた。 「じゃあなんで結婚すんの? 誰かに何か言われたとか?」 他人に言われた程度でこの二人がどうこうなるとも思えないが、念のため余計な口出しをしてきた者がいないか確認くらいはしておきたい。五条も大事な元教え子のことであるので、興味深げに、かつ黙って話を聞いている。 「誰かに何かを言われたわけでもない。これは俺達二人が話し合って決めたことだ」 「好きってわけでもなくて、誰かに強制されたわけでもないなら、二人はなんで結婚するなんて言い出したんだ?」 まさかまだ悠仁を自分達の養子にしたいと思っているからなのだろうか。あの話は半分本気どころか百パーセント本気だったのだろか。 首を捻る悠仁に伏黒がふっと淡く微笑んだ。 「勿論、オマエを俺達の子供にするためだ」 「でも俺は――」 もう『五条』なんだよ、と悠仁が告げるより早く、伏黒が決して大きくはなく、けれどもはっきりと聞こえる声で宣言した。 「俺達夫婦の間に娘が生まれたら、オマエにはその子と結婚してほしい。そうすれば三人で親子になれるだろう?」 「――――ぇ」 さも当たり前のように。そして素晴らしい考えであるかのように。 伏黒も釘崎も何らおかしなことを言ったつもりはないという雰囲気だ。悠仁が慌てて隣の五条を見上げると、彼はサングラス越しに二人を眺めて静かに「本気?」と問いかけた。 「本気よ。先に言っておくけど、私達は自分の子供を単なる道具だと考えてるわけでもないから。って言うか虎杖なら絶対その子を不幸にはしないでしょ? 虎杖は私達の知ってる通りのお人好しだし、親もまぁ五条先生ならいいかなって。ちゃらんぽらんだけど。我が子の幸せは確定して、おまけに虎杖は私達の義理の息子になる。悪いことなんて一つも無い。それにね、先生」 すらすらと言葉を続けながら釘崎はニッコリと美しく笑った。 「五条先生が育てた私達三人全員の血が混じった子が先生の孫(かぞく)になるのよ? それってすごく素敵じゃない?」 釘崎の言葉に五条がぱちりと瞬く。 目からウロコだとでも言いたげに数秒唖然とした表情をしていた彼は、やがて口の端を持ち上げて「なるほどね」と言った。 「先生……?」 五条を見上げたままの悠仁の視線の先で、白い睫に縁取られた瞳が楽しげに細められる。 「うん、それは素敵な考えだ」 「でしょう?」 楽しそうな五条、自信満々な釘崎、静かに微笑む伏黒。 三人の様子に悠仁はひゅっと息を呑む。 おかしい。明らかに異常だ。自分がいなかった十年の間に五条だけではなく、伏黒も釘崎も変わってしまっていたと言うのか。自惚れるわけではないが、それほどまでに彼らの中で虎杖悠仁という存在は大きかったのだろうか。 「じゃあ先生の許可は取ったということで」 釘崎が悠仁へと視線を向ける。 「虎杖、アンタ私達の娘と結婚してくれるわよね? ――みんなで家族になりましょ」 これは普通じゃない。 そんなことはよく分かっていた。 しかし悠仁は好意的な三対の視線を受けながら、胸に灯ったかすかな温かさと高揚感を自覚する。 (俺、本当に愛されてるんだ) それがたまらなく嬉しかった。 大切で大好きな人達に、オマエが大切で大好きだと告白されているようなものなのだから。 普通じゃない、狂っている、と頭では充分理解していても嬉しくて仕方が無い。 「悠仁、それでいい?」 五条にも優しく訊ねられ、悠仁は三人を順番に眺めた。 そして、胸に満ちる感情の赴くまま口角を上げる。 「うん、よろしく」 こうして悠仁は五条だけでなく大切な元級友達とも家族になる未来が確定したのだった。 [一般人寄りの彼は友人の家族や交友関係についてまだよく知らない] 少年の名は平順(たいら じゅん)。 数代前に突然呪術師が生まれるようになった家系の一人息子で、しかしながら特別強力な呪力を持つわけでもなく、また術師も非術師も生まれる血筋であったため、家柄は中の下。他の呪術師の家系と関わりも薄く、半分一般人のように育ってきたごくごく普通の少年である。 そんな彼は東京都立呪術高専の入学を二日後に控えたある日、一人の人物と出会った。 パーカーのフードが付いた改造制服をごく自然に着こなす明るい髪色のその人は順と同じ今年度の高専一年生で、高専の敷地内で迷っていた順と偶然出会い、親切にも学生寮まで案内してくれたお人好しだ。それがきっかけで入学後もすぐに打ち解けることができ、一月経った今では胸を張って友人と言えるレベルである。 彼の名は五条悠仁。時折、教師をはじめとする大人達から『虎杖』というあだ名で呼ばれる不思議な人物であったが、空に輝く太陽や真夏に咲き誇るひまわりのような明るさを持ち、たった四人しかいない高専一年生の有能なムードメーカーでもあった。 入学初日、教室で改めて順のフルネームを音だけではなく漢字で知った時の悠仁が持ち前の明るさに似合わず一瞬だけ息を呑んだこともあったが、今ではその名残もない。ここ最近の順は、あの時のことを自分の見間違いか何かだとさえ思うようになっていた。 閑話休題。 順の友人兼同級生の名は悠仁、そして姓は五条である。 呪術界で五条と言えば知らぬ者などいない有名人、『最強』の名を冠する五条悟だ。しかし順は五条悟と自身の友人を結びつけて考えることをしなかった。呪術師でかつ五条姓なのだから悠仁も御三家と称される五条家の血筋なのかもしれない。しかし旧家によくある驕った態度など一切見せない五条悠仁と接していると、彼は直系ではなく分家――しかもかなり遠いところ――なのだろうな、と自然に思うようになっていたのだ。 また自分達の担任となった五条悟が悠仁に対して他の生徒と同じように接していたことも大きい。五条は初対面の時から生徒を下の名前で呼ぶ。悠仁のことは「悠仁」と呼ぶし、順のことは「順」と呼ぶのだ。そしてまた悠仁も五条のことを「五条先生」と呼んだ。元々の性格上、他の三人よりスキンシップは多めに見えなくもなかったが、特筆するようなものではなかったのも事実である。 そんなわけで、順は悠仁が五条姓であっても、どちらかと言えば自分と同じような立場であると勝手に思っていた。何より自分達は仲が良い。悠仁は誰とでも仲良くなれる性格だったが、入学前から顔見知りになったというアドバンテージがある。それに初対面の時から己の格好悪いところを知られてしまっているので、順は自然体で悠仁に接することができていた。 「なんか今日の悠仁オシャレだね……?」 日曜日の昼過ぎ、学生寮の自室から彼が出てきたところに丁度廊下で出くわして、順は目を丸くした。 いつも大体パーカーを着ている五条悠仁。本日の朝も彼はちょっとラクめのパーカー姿だった。しかし現在の彼は小洒落たジャケットを羽織って、髪もワックスで弄っている模様。急に大人びた姿となった友人に順はぱちぱちと瞬きを繰り返して「どっか行くの?」と訊ねた。 「もしかしてデート?」 「知り合いと飯食いに行くけどデートとは言わねぇかも」 「その服も似合ってんね」 「サンキュー! 今日飯に誘ってくれた人が『これを着てくると良いですよ』って用意してくれたんだ」 「はー」 嬉しそうにニコニコと笑う悠仁には言わないが、おそらく彼の着ている服はそれなりのお値段のものだ。見事に年上の男性または女性に貢がれているらしい。確かに彼は人に好かれるタイプなので、有り得ないことではないのかもしれない。たぶん。 「服まで揃えてくれるってことはお祝いか何かなの? 僕も悠仁のこと祝っておく?」 もしかして誕生日かな? と思ったのだが、そうではないらしい。悠仁が首を横に振って「要らない要らない」と繰り返した。 「だって高専の入学祝いだし」 「ちょっと遅めの?」 「うん。ナナミン……えっと、今日一緒に飯食う人が結構忙しくてさ、都合付けられたのが今日だったから」 「そっかー。じゃあ楽しんできて! 引き留めてごめんね」 「ヘーキヘーキ。五条先生と違って遅刻しない時間にちゃんと出るよ」 「なら良かった」 怒られない程度の遅刻の常習犯である自分達の担任を話題に出して二人はくすくすと笑い声を零した。 それから順は学生寮を出る悠仁を見送って自室に戻る。 悠仁が今夜一緒に食事をする相手は『ナナミンさん』と言うらしい。あだ名で呼ぶくらいなのだからきっと年が離れていても仲が良いのだろう。そしておそらくは呪術関係者。忙しいと言っていたから高位の呪術師かもしれない。 「ナナミン……ナナミン……か」 自室のベッドに腰掛けて順はぼんやりと天井を眺める。 特級にそれらしきあだ名が付きそうな人物はいない。だとすれば一級だろうか。 「まさか七海建人一級呪術師?」 若干ミーハーなので順は特級だけでなく一級の術師もある程度知っている。しかしナナミンというあだ名になりそうな人物を脳内で検索した結果、ヒットしたのは一人だけ。おまけに件の人物はお堅い雰囲気を持っており、一見して悠仁とは合いそうもない。と言うより、知り合いである可能性が薄すぎる。 「やっぱ全然別の人かなぁ」 伏黒恵特級呪術師と知り合いだった悠仁であるので可能性はゼロではなかったが、やはり七海建人とまで仲が良いとは考えにくく、順はぽつりと呟いた。 そのままベッドに背中から倒れ込む。 きっと悠仁のことなので、訊ねれば気前よく教えてくれるだろう。気が向いたらそのうち質問してみれば良い。またもし答えにくいことだったとしたら、それはそれで答えてもらえなくても別に構わなかった。ちょっと気になるものの、根掘り葉掘り聞き出すようなものでもないのだから。 順は目を閉じ、深く息を吐く。窓から入る日差しは心地良く、このまま午睡に興じるのも贅沢かつ有意義な時間の使い方だと思えた。そうこうしているうちに心地良い眠気が全身を包み込み、やがて順は本当に小さな寝息を立て始める。 遠からぬ未来、まさか悠仁の交友関係のみならず家族関係にさえ驚かされることになるとは、この時の順は知る由も無かった。 [春の夜に] 「悠仁おかえりー」 「えっ、五条先生? どったの」 七海との食事を終えて寮に戻ると、施錠したはずの部屋で五条がベッドに腰掛けて待っていた。 予想もしなかった出迎えに悠仁が驚いていると、自分の担任であり保護者でもある大人は目隠しをしたままにこにこ笑って「おいで」と手招きする。 それに素直に従い五条のすぐ隣に腰を下ろした悠仁は、目隠し越しでも分かる美貌を眺めつつ「ただいま、先生」と、まずは先程の出迎えに応えた。「はい、おかえり」と繰り返した五条も満足そうだ。 「七海との晩ご飯、楽しかった?」 「楽しかったし美味かったよ!」 「それは良かった。今度僕とも美味しいもの食べに行こうね」 「めちゃくちゃ楽しみにしてる!」 昼間のスイーツ巡りでも夜のディナーでも、五条が行く店なら絶対に外れないだろう。 どんな所に行くのだろうかと今から期待に胸を膨らませて悠仁が満面の笑みを浮かべれば、一切偽りのないそれを前にして五条もまた唇に綺麗な弧を描いた。 すでに五十も目前と言うのに、相変わらず美しい顔だと思う。 (……でも) 何も言わず目隠しに手を伸ばせば抵抗もなく頭から抜き取ることができて、黒い布地の下から真っ白で密度の濃い睫に縁取られた青い瞳が現れた。彼を彼たらしめる特別な双眸は悠仁の前に晒されるとさらに輝きを増し、年齢と釣り合わない若々しさを保ったままの美貌を言葉さえ失うものへと昇華させる。 「どうしたの、ゆーじ」 何も言われず目隠しを外された五条が微笑みながら小首を傾げた。 どこか甘い呼び方は基本的に他の生徒がいる場所では聞くことがない。ごく稀にうっかり漏れ出ていることもあるが、同級生達にとっては教師と生徒のじゃれ合いの範囲で収まっているだろう。 そんな声で呼ばれながら悠仁は黒い目隠しをそっとベッドの隅に置き、 「先生の方こそどーしたん? 任務で嫌なことでもあった?」 どうかしたのは悠仁ではなく五条の方。言葉にされずとも、顔つき、仕草、まとう空気……そういったごくごく小さな違和感を悠仁は拾い上げていた。 質問に質問で返せば、五条は困ったように眉尻を下げて「悠仁は僕のことよく見てるねぇ」と呟く。 「ずっと先生と一緒にいたからね」 今でこそ高専に入って寮生活をしているが、三月まではずっと五条の自宅で暮らしていた悠仁である。しかも八歳の冬に再会してからこちら――六年と少し――、悠仁は小学校・中学校に通っていない。公立学校に籍だけを置いた形で、ずっと五条との自宅学習にいそしんでいた。ゆえに五条が任務で忙しい身であることを差し引いても、普通の子供よりずっと自分の父親≠ニ一緒にいた時間は長い。 さらに付け加えて言うならば、『虎杖悠仁』を処刑した影響で心を壊してしまった五条を、時間をかけてゆっくり癒やしてきたのも悠仁本人だった。悠仁が玄関に近寄ることさえ厭っていた五条をここまで回復させた手腕を侮られては困る。……とは言っても、特別な何かをしたわけではなく、五条に望まれるままずっと傍に居続けただけなのだが。おまけに明確な交換条件だったわけではないものの、悠仁の高専入学は五条の教職復帰と同時だった。 「うん、そうだね」 悠仁の言葉に五条も頷く。 死ぬまで一緒ではなく、死んでも一緒。地獄の果てまで共に行こう。そう約束した人のことなのだから、悠仁は五条の小さな異変も見逃したくない。 悠仁が改めて「嫌な任務内容だった?」と訊ねれば、五条は「悠仁と一緒にいられないから任務はいつだって嫌なものだけど」と言いつつ躊躇うように頬を掻いた。 「僕が働いてる時に悠仁は七海とご飯だしさぁ。羨ましいったらありゃしない」 「そっちかぁ」 事前に五条から了承は取っていたものの、やはり納得いかない部分があったらしい。 「その服もアイツの趣味でしょ」 「うん」 「ああもう七海の奴、僕の悠仁を自分色に染めようとするの止めてくれないかなぁ。ほら、悠仁も帰ってきたんだから脱いで」 「はーい」 悠仁は言われるままにジャケットを脱ぐ。 「髪も弄ってるね」 「ちょっとだけ。風呂入ってきた方がいい?」 「そうだねぇ。折角だし僕も一緒に入ろうかな」 どうやら五条は任務終了後この部屋に直行したようだ。 「いや無理でしょ」 「僕と悠仁ならいけるって」 「俺らの家の風呂みたいに大きくないからねここ!?」 「えー」 「えー、じゃありません。俺と先生の体格考えようよ」 何せ身長が170センチオーバーと190センチオーバーである。おまけにどちらも着痩せして見えるタイプではあるが、服の下の身体は呪霊との直接戦闘に耐え得るものだった。寮のユニットバスを使おうものなら残念なことになるのは目に見えている。 ただし五条との生活によってこの年齢になっても彼と風呂に入ることそのものに対する抵抗感は悠仁にはない。再会したばかりの頃の五条は視界から悠仁がいなくなっただけで不安定になっていたので、風呂もベッドも常に一緒。その習慣が付いてしまった所為で今年の三月まで――五条が任務で外出している時以外は――大柄な二人は何の疑問も違和感も抱くことなく、食事のみならず風呂もベッドも共にしていた。 ただし気持ちの面では問題なくとも、物理面では大ありだ。五条とてそれは理解しているだろう。「やっぱりだめかー」と残念そうに告げる彼に悠仁は「だめだねー」と返した。 「ってことで。先生、先に使う?」 「いいよ。悠仁が先に使いな」 「じゃ、お言葉に甘えまっす!」 「はーい。いってらっしゃーい……の、前に」 ベッドから立ち上がろうとしたところで五条に手を引かれ、悠仁は「ん?」と首を傾げる。 腕を引く力は意外と強く、そのまま悠仁の身体は五条の腕の中へ。両腕でぎゅっと抱きしめられると共に、顔のすぐ傍から「ゆーじを補給〜」と間延びした声がこぼれ落ちた。 「あー……悠仁だぁ」 「はいはい、俺はここにいるよ」 悠仁も大きな背中に腕を回して五条の抱擁に応じる。 「ん。風呂、早く済ませてね」 「オッケー」 「今夜はずっと一緒にいるからね」 「ベッド狭いけど大丈夫?」 「風呂とは違うし、くっついて寝ればいけるでしょ」 五条の言葉に「そうだね」と頷いて、悠仁はそっと彼の腕から抜け出す。長い指が名残惜しげに悠仁の背中を優しく引っ掻いていったが、七海の厚意に甘えた姿より風呂でさっぱりした姿の方が五条にとっては良いだろう。七海には大変申し訳ないけれど。 今更こんな五条を大人げないなどとは言うまい。元々の性格やパフォーマンス的な部分もあるかもしれないが、五条がこちらに異常執着するのは悠仁に原因がある。そしてまた、そんな五条を受け入れると決めたのは悠仁本人だ。 どうせ呪術界という地獄だけではなく本当に死んで地獄に落ちても共に在ると誓った仲。五条の態度に単なる『許容』ではなく歓喜さえしながら、悠仁は鼻歌交じりにバスルームへと足を向けた。 [釘崎野薔薇信者な高専一年生の話] 雑賀葉月(さいか はづき)は釘崎野薔薇のファンである。否、最早信者と言っても過言ではない。 元より呪術界の家系に生まれた人間ではあるものの、古くさい慣習など反吐が出るほど嫌いな葉月だ。それゆえに、強く美しく自立した女性である釘崎の存在を幼少期に知った葉月は、その時から彼女に憧れ、彼女のファンとなった。 知れば知るほどただひたすらに釘崎野薔薇は恰好良い。目指すならばああいう呪術師だ。 東京都立呪術高専に入学したのも彼女が非常勤講師として授業を受け持ってくれるという話を聞いたからだった。そんな入学の理由を三人しかいないクラスメイト達に話せば、 「わかる! 憧れの人に教えてもらえるのって凄いことだもんね!」 「釘崎かぁ……「『さん』を付けろよ。もしくは『様』だ」うぃっす。えっと、うん、恰好良いよな。めちゃくちゃ強いし」 「確か一級呪術師の方でしたっけ? 女性比率が低いこの業界で大変活躍なさっていると聞いたことがあります」 という反応が返ってきた。 なお、発言者は順番に平順、五条悠仁、一ノ瀬一久(いちのせ かずひさ)である。 一久は元一般人で、数年前に別の呪術師に才能を見込まれこちらの業界に入ってきたらしい。勤勉な性格なので、経験が浅い割には物事をよく知っていた。 主に順と一久の反応に気を良くしつつ、葉月は何故か苦笑い気味の悠仁も合わせて男三人に釘崎がいかに素晴らしいかを熱弁し――……その所為で男三人の結束が強まってしまったのは誠に遺憾な出来事だった。 そんな風に入学早々同級生達から釘崎野薔薇信者として認識された葉月。あの日から任務に授業にと目まぐるしく日々が過ぎ、早くも高専一年目の夏を迎えようとしていた。 始まりはアレだが一年生四人の仲は良好である。担任の五条悟が生徒達を名で呼ぶのと、五条悠仁の姓が彼と被っていることもあり、四人は互いに下の名前で呼び合い、それが全く嫌だと思わない程度には。 「あっつー……」 高専の校舎脇にある花壇の世話をするため休日の朝から制服姿でやって来た葉月は、早くも強くなりつつある日差しに顔をしかめた。 「帰ったら悠仁にアイス奢らそう」 何故なら本日の花壇の当番は五条悠仁であるはずなので。 しかし悠仁は来客予定があった。そのため制服には着替えたものの花壇には寄らず、朝っぱらから校舎の方に籠もりっぱなしとなっているのだ。 代打であるなら何も葉月ではなくても良かったのだが、この花壇には薔薇が植わっている。そう、薔薇と言えば葉月にとっては憧れの人、釘崎野薔薇である。彼女の名前にも入っている植物を蔑ろにするわけにはいかない。 そもそも交代で花壇の世話をしようと言い出したのが葉月であった。昔は植物好きの生徒が花壇の世話をしていたらしいが、葉月が入学した時には全く人の手が入っておらず、あちらこちらに伸び放題。薔薇があると気づけたのは本当に偶然だった。幸いにも植えられていた薔薇は強い品種だったらしく、小ぶりながらもぽつぽつと花を咲かせてくれている。 「まぁ花もそろそろ終わりかな。確か剪定は九月が良いんだっけ?」 花壇の脇の蛇口に接続したホースを使って水やりをしながら葉月は独りごちる。 これからきっちり世話をして、来年はより多くの美しい花を咲かせてやりたい。それこそ釘崎野薔薇のイメージに似合うような。 「新しく植えるのもありよねー。やっぱり野薔薇様のイメージなら真っ赤な大輪の薔薇かしら。でも野薔薇(ノイバラ)も捨てがたい。何たって野薔薇様のお名前そのままの花だし!」 興奮していた所為かいつの間にか声は大きくなり、上機嫌で葉月は水やりを続ける。同級生の前で初めて使った時にドン引きされた「野薔薇様」呼びにも一切躊躇いがない。 そうして大して広くはない花壇の水やりを終えようとした時――。 「まま?」 「……えっ」 建物の影からひょっこりと何かが現れた。 否、『何か』ではない。子供だ。水色のワンピースを着た五歳くらいの少女が葉月の様子を窺うようにこちらを見ていた。 スカートは短めだが下に鮮やかな黄色のスパッツをはいている。見知らぬ大人――十五歳の葉月は幼女から見れば大人と同じようなものだろう――に一瞬臆したようだったが、活動的な装いそのままに少女は葉月の方へと駆け寄ってきた。 「こんにちは!」 「あ、ええ……こんにちは」 「おねーちゃん、ヒナのおにーちゃんしりませんか?」 「ヒナちゃんのお兄ちゃん?」 少女はヒナという名前らしい。だがそれだけでは全く情報が足りない。この時点で葉月に分かるのは、少女が十中八九迷子であるということだけ。おそらく高専の関係者の娘だろう。敷地内に入れる一般人は設備系の業者などごく限られた者だけで、ほとんどは呪術に関わっている人間であるので。 (誰かの娘さんかしら。休日だから自分の娘と一緒にやって来た……?) そして親とはぐれてしまった。 お兄ちゃんとも言っているので、親ではなく年の離れた兄という可能性も捨てがたい。もしくはその両方か。 葉月は少女と目線が合うよう膝を折って、ひとまず「お名前は?」と問いかけた。 「ヒナは『ひなぎく』です!」 「雛菊ちゃん?」 「はい! おねーちゃんのおなまえもおしえてください!」 視線を合わせた葉月にヒナ改め雛菊はにこにこと笑いながらそう言った。無邪気な笑みがどこか同級生の一人を思い起こさせて葉月は頭を振る。いやいやあれは十五歳170センチオーバーの男だぞ、と。 「おねーちゃん?」 「っ、お姉ちゃんは雑賀葉月って言うのよ」 「はづきおねーちゃん!」 「うん」 おばちゃん、と言われなくてほっとする。先程は幼い子にとって葉月のような年齢はすでに大人に見えるだろうとは考えたものの、だからといってうら若き乙女がおばさん扱いされるのは非常に受け入れがたい。 良い子ねー、と言いながら小さな頭を撫でれば、雛菊はさらに嬉しそうに頬を緩ませた。 「雛菊ちゃんはお兄ちゃんを探してるの? それともママ?」 「おにーちゃんです! ママはがっこうのひととおはなしがあるっていってました!」 「ママがお仕事でお話している間に、雛菊ちゃんは『お兄ちゃん』に会いたいのね?」 「はい!」 なるほど事情は分かった。 幼いながらもこの子供は随分と聡明なようだし、そのお兄ちゃんとやらと母親の名前を聞き出して、どちらかの元へ連れて行くのが無難だろう。 「じゃあアタシが連れて行ってあげるから、お兄ちゃんとママのお名前を教えてくれる?」 「ありがとうおねーちゃん! えっとね、おにーちゃんは『ごじょーゆーじ』で、ママが『くぎさきのば……」 「ヒナっ、見つけた!」 「ゆーじおにーちゃん!」 「え、えっ、おい、え……?」 突然の第三者もとい、葉月の学友である五条悠仁が現れた。しかも彼は雛菊の姿を見るや否や彼女の愛称を呼んで駆け寄ってくる。類い稀なる身体能力は相変わらずで、葉月達の前で彼が立ち止まるとかなりの風圧が襲いかかってきた。 戸惑う葉月を置き去りにして悠仁が雛菊の前――葉月の横――に膝をつく。 「急にヒナがいなくなったからママ心配してたぞ」 「だっておにーちゃんにあいたかったんだもん」 「それは嬉しいけど、おうちの外ではママかパパと一緒にいような。って言うか、今回はママとお話する相手が俺だったし」 「えー! ヒナしらない! ママずるい!」 「いやたぶん大人しくしていればママと一緒に俺と会ってたと思う……」 「ぶー」 「と言ってもヒナは納得しないか」 アハハと乾いた笑い声を零しながら悠仁が雛菊を抱き上げる。たったそれだけで不機嫌そうに頬を膨らませていた少女が花開くように笑顔になった。 「あの、ちょっと待って……雛菊ちゃんの探していたお兄ちゃんが悠仁なの?」 「この子がお兄ちゃんって呼ぶのは俺くらいだと思うよ。そっか、迷子のヒナの世話をしてくれてたんだな。あんがと、葉月」 「まぁ小さい子が迷ってたらそりゃ何とかしようとするけど……。あと、あとね! この子の母親のことなんだけど!」 途中までだったがちょっと聞き捨てならない名前だった気がする。そして葉月の聞き間違いでないのなら、とんてもない事実が目の前に転がっていることになってしまうのだ。 「もしかして雛菊ちゃんの母親……お母様って」 「私ね」 「ぴゃ!」 四人目の登場だった。 悠仁がやって来た方向から現れたその人は葉月にとって憧れであり、いっそ信奉すらしかねないほどの存在。名を、釘崎野薔薇。 落ち着いた色合いのスーツに身を包んだ釘崎は以前課外授業で会った時よりもヒールの高い靴を履いており、戦闘を前提とした場合とはまた違う魅力に満ちていた。 スリットが深めに入ったタイトスカートから覗く白い脚が同性でもドキドキしてしまうほど美しい。また唇と同じ赤い色を靴底に配したルブタンのヒールは彼女の力強い美しさを遺憾なく表現している。短めの髪の合間から覗く大きめのピアスは光に透けると飴色に輝いていた。おそらく琥珀を使ったものだろう。 圧倒的なオーラを放つ美しさ。しかも呪術師のとしての実力は一級品。 葉月の憧れの対象。その彼女が――…… 「一児の母……?」 「見えないでしょ」 くすり、と釘崎が口の端を持ち上げる。 「野薔薇様、結婚されてたんですか……?」 「言い触らしてはいないけど、一応ね。雑賀、既婚者な私はイヤ?」 「いえ最高です」 即答だった。すぐ傍で悠仁が「オマエ釘崎だったら何でも良いんじゃん」と呆れて半眼になっている。ぶっちゃけその通りだが、腹が立ったので後でアイスを二個奢らせることに決めた。否、『野薔薇様』を呼び捨てにしたので三個だ。一個の増量で済まされているのは他ならぬ釘崎が許しているからである。 葉月の返答に釘崎は満足げな表情を浮かべ、次いでその視線が雛菊へと向けられる。「おいで、ヒナ」と彼女が声をかければ、雛菊は悠仁に抱き上げられたまま差し出された手を見て、 「や」 ぷい、と顔を背ける。 「ヒナ……」 「やっぱりねー」 悠仁が眉尻を下げ、釘崎は予想通りの反応など言わんばかりにそう告げた。 「ヒナ、アンタのこと本当に好きだし」 「嬉しそうだな釘崎」 「そりゃそうよ。さすが私達の娘って感じね。自慢の子よ」 「もしかしてアイツ≠烽サう思ってんの?」 「とーぜん。だって私のダンナでこの子の父親なんだから」 既婚者で母親でやっぱり強く美しい釘崎野薔薇様は最高……と感慨に耽っている葉月の傍でそんな会話が交わされていた。 これで確定だ。五条悠仁は葉月が憧れる釘崎野薔薇とその夫、さらには彼女の娘とまで仲が良い。単純な非常勤講師と生徒の関係ではなかったのだ。 「なにそれうらやましい……」 「いっそ恨めしいとか言い出しそうな顔と声だな、葉月」 葉月が釘崎を野薔薇様と呼ぶのを初めて聞いた時と同じような顔で呟く悠仁。それから彼はしばらくの沈黙を挟み、申し訳なさそうな顔でこう付け足した。 「あとヒナは俺の許嫁。将来的には釘崎が俺の義理の母親になります……デス」 「今後ともウチの未来の息子と仲良くしてやってね、雑賀」 「ヒナ、ゆーじおにーちゃんのおよめさんになるの!」 後に続く大変嬉しげな様子の釘崎と雛菊。 三人を順番に見つめて葉月は気が遠くなっていくのを感じた。そして意識が途切れる前に、一言。 「ウソやろ」 ちなみに葉月は普段から意識して標準語で話しているが、元はバリバリの関西弁を話す近畿南部の山間部出身である。憧れの人の授業を受けたいというその一点で、京都ではなくはるばる東京の呪術高専を選び言葉も直した筋金入りの釘崎野薔薇信者だった。 [釘崎野薔薇信者な高専一年生の話 幕間] 「虎杖が私達のこと『ママ』と『パパ』って……!」 「何だそれ生で聞きたかった……ッ!」 娘を連れて帰宅した妻の第一声に黒髪ツンツン頭の夫が羨望と嫉妬と歓喜を入り交じらせて声を絞り出す。 玄関で靴を脱いでいた一人娘がそんな父親を見上げて言った。 「パパ、ほんとうにゆーじおにーちゃんのことだいすきだね」 「当たり前だ」 「ヒナもおにーちゃんだいすき!」 「「さすが私(俺)達の娘」」 思わずハモる同い年夫婦。 大変息の合った両親の姿に雛菊はにこにこと笑いながら、母親の分も一緒に「ただいま!」と大きな声を出した。 [言い触らすようなことでもないため言わなかっただけで訊かれれば素直に答える関係であったというだけの話(ただし一部の真実は伏せる)] 「悠仁が以前一緒にご飯行ったのはあの七海建人一級呪術師で!」 「しかも伏黒恵特級呪術師だけじゃなく野薔薇様ともお知り合いで! ってか野薔薇様の娘さんと許嫁でッ!」 「おまけに五条先生の戸籍上の息子だったなんて!」 「「「設定盛りすぎだろう(でしょう)がーーーー!!」」」 「いや、設定じゃねーし。事実だし。あと釘崎の旦那って伏黒だから。つまり釘崎と伏黒が後々俺の義理の両親になる予定」 仲良く声を揃えて叫んだ同級生三人に悠仁はしれっとそう答え、オレンジジュースに刺さったままのストローを口に咥えた。 二度目の高専入学祝いだと言って七海建人が洒落たレストランに連れて行ってくれたのが二月ほど前のこと。そして五条悠仁が釘崎野薔薇および彼女の娘と高専入学前から交流があったと雑賀葉月に知られたのがつい昨日のことだった。 一夜明け、日曜日である本日、悠仁は朝から今生の同級生である高専一年三人と共に街へと繰り出していた。ただし繰り出すと言うよりは『連れ出された』とした方が正しいかもしれない。昨日は衝撃の事実とやらで葉月が昏倒しそれでお開きとなってしまったが、目を覚ました彼女によって他の二人も招集および意見徴収、そして悠仁を外に連れ出しての事情聴取と相成ったのである。 伏黒、釘崎、七海、そして五条との関係は特定の真実を除いて他人に知られても然程問題にはならない。少なくとも当人達はそう考えている。よって三人の同級生に根掘り葉掘り訊ねられた悠仁は彼らの質問に逐一丁寧に返答したのだった。 無論、亀の甲より年の功とも言われる通り、肉体ではなく記憶的な意味での年齢の差もあって、しれっと躱した部分もあったが。代わりに五条との戸籍上の関係もついでに明かしておくというサービスは付けたので許してほしい。 そしてさらに付け加えた「釘崎野薔薇の夫は伏黒恵特級呪術師」という衝撃の真実に葉月が茫然自失となり、また順が「えっ、友達で将来の義理の父親? えっ、えっ、あ、でもそんな感じだったかも……?」と戸惑い後納得しているのを横目で見やり、悠仁は最後に一久へと視線を向けた。 悠仁と目が合い、一久が微笑む。 「でも全然気づきませんでした。授業中の先生方はどなたも私達を公平に扱ってくださっていましたし」 「その辺は教職を担う者の務めとか何とかってことらしいよ。それにオマエらだって五条先生達にとっては可愛い生徒なんだし。たまに暴走するけど、やっぱみんな大人なんだよなぁ」 「私から見れば悠仁も結構大人っぽいですよ?」 「マジ!? そんなこと言ってくれんの一久くらいしかいねーよ……?」 「そうですか?」 首を傾げる一久。その仕草だけならば年相応かもう少し幼いくらいにも見えたが、普段の落ち着いた物腰や丁寧な口調からは自分よりずっと年上に見えると悠仁は思っている。今も大混乱中の二人と比べてずっと大人っぽく感じられた。 「先生方もそうですが、悠仁君だって私達の前で五条先生達に甘えたりしないじゃないですか。私達の年齢なら隠そうとしてもうっかり漏れ出てしまうものでしょう? でもそれがない。少なくとも私達は気づかなかった。それって悠仁君がすごくしっかりしていることの証明だと思うんですよね」 「――っ!」 すらすらと水のように流れ出る言葉の数々に悠仁の顔面が火を噴いた。 「ほ、褒めても何も出ませんからー! ってかそんな明け透けに褒められたのって初めてかも!? 恥ずかしい!」 「ふふ。悠仁君は可愛いですねぇ」 「やめてー!」 思わず両手で顔を覆う。 小さい頃から一緒にいる五条が放った台詞ならまだしも、この十五歳の肉体で出会った友人に可愛いと言われるのはやっぱりどう考えても恥ずかしい。しかも善意百パーセントで。 うわーうわーと身もだえしていると、茫然自失および困惑後納得状態それぞれから脱したらしい残りの二人も「確かに」「そうだねぇ」と言ってきた。 「たぶん母性本能とかくすぐっちゃうタイプでしょ。あっ、だから野薔薇様に可愛がられてるってわけ!? キー! うらやましい!! あと母性本能開花させてる野薔薇様も最高オブ最高!!」 「悠仁は恰好良いけど可愛いよね」 「釘崎はそれじゃないと思うけど葉月ホントにブレないな!? 順は一度眼科受診しような!? あと恰好良いって言ってくれてありがとう!」 「私は?」 「一久も眼科受診!」 若干叫び気味に答えながら、それでも悠仁の口は笑みの形に広がる。顔面から火を噴きそうなのは相変わらずだが、同時に今この瞬間が最高に楽しい。 悠仁が少々特殊な状況にいると判明しても一切態度を変えずにいてくれる友人達。彼らのおかげで今生の高専生活も楽しいものになりそうだと、顔を押さえる両手の下で悠仁はくしゃりと表情を崩した。 2019.11.23〜2019.12.15 pixivにて初出 |