白曼珠沙華




[chapter:1]

 伏黒恵と釘崎野薔薇が彼らの担任をしていた時の五条悟と同じ年齢になっても、呪術界の上層部は相変わらず腐ったミカンのバーゲンセールだった。
 保守派とされる老人達は二人から大切なものを取り上げて消えない傷を残した後も飽きることなく保身に走り、世襲に拘り、高慢ちきで愚かしく、全くもって変化がない。少しずつ強く聡い若き呪術師も増えてはきているが、まだまだ五条が望んだ変革には程遠かった。
 ――十二月。
 未明から雪がちらつく生憎の天気の下、元担任とは異なり時間通りに現れた元同級生兼本日の仕事のパートナーの姿を視界に入れて釘崎はマフラーに口元まで埋めたまま無愛想に告げる。
「ハッピーバースデー、伏黒。折角の誕生日に一級と特級でコンビを組まされる摩訶不思議な仕事を振られるなんて、とんだ災難ね。アンタ前世で何やらかしたの?」
 呪術高専を卒業してから十年。釘崎は一級呪術師となり、目の前の相手――伏黒は特級呪術師になっていた。
 かつて呪いの王・両面宿儺に目を付けられていただけあって、今や押すに押されぬトップクラスの呪術師だ。おまけに十二月は未だ最強であり続けている五条悟が一日からきっちり三十一日まで全く使い物にならないため、彼が引き受けるはずの仕事も伏黒へと回ってきている。繁忙期ではないにせよ、文字通り目も回るような忙しさだ。
 もし五条が十年前までのようにふざけつつもまともに働いてくれたならこうにはならなかっただろう。本日の仕事も釘崎と伏黒のペアではなく五条一人で簡単に片付けていたに違いない。
 だがそのような事実があっても二人は元担任であるあの男を責めはしなかった。
 一年のうち十二月だけ五条が使い物にならない……正確に言えば、非常に荒れているため使えば被害が増してしまう≠フは、二人どころか彼と親しくしてきた者であれば容易く納得できてしまう理由があったからである。責めるどころか、むしろ年中荒れていてもおかしくないのに残りの十一ヶ月は己を戒め十年前までと同じように振る舞える五条の理性に全員が感謝と敬意すら抱いていた。
 ふと脳裏に浮かんだ面影を消すこともなく、目の前の男に四ヶ月先んじて二十九歳になっていた釘崎は、マフラーを引き下げて口元を晒すとニンマリ笑ってみせた。
「これでアンタも二十九ね。三十になって互いに相手がいなかったら結婚しない? 特級と一級のカップルよ、なかなかの見物でしょう?」
「構わないが、男が生まれたら名前は『悠仁』だ」
 頭のてっぺんから足の先まで黒ずくめのくせにマフラーだけが赤い男は一切表情を変えることなく淡々と言い切る。
「……相変わらず重いわね、アンタ。重油にまみれた鳥みたい。ま、いいわ」釘崎は肩をすくめ、軽く目尻を下げた。「女の子だったら『悠』って名前にするつもりだったし」
「お前も他人のこと言えないだろ」
 無表情だった伏黒の顔に僅かだが呆れの気配が浮かぶ。その後、入れ替わるようにして浮かべられたかすかな笑みは面白おかしいものに対する笑いではなく、きっと傷の舐め合いができる相手への憐憫と共感の表れだった。
 それは釘崎の方も言えた義理ではないので指摘しない。「さて」と話題を切り替え、雪がちらつく曇天の下で寂れた校舎を見上げる。
 かつては洗練されたデザインで都内のみならず他県からも中学生達の憧れの的になっていたこの元私立高校の校舎は少子化の波を受けて数年前に閉鎖。都心の一等地であるにもかかわらず、もしくはその高すぎる地価のために、買い手は未だついていなかった。いっそ分割して売り払えば良いものを……と思わなくもなかったが、色々と複雑な事情があるらしい。その辺りは釘崎の知ったことではない。
 問題はこの廃校舎にとんでもない呪霊が湧いてしまったということだ。
 名称未定の特級仮想怨霊。今から二十四時間前、その呪胎を複数の非術師が目視した。
 呪胎の確認から数時間後に一級呪術師が派遣されるも、残念ながら術師は戻ってこなかった。連絡が途絶え生死不明となり、次に派遣されたのが釘崎達と言うわけだ。
 特級仮想怨霊の呪胎――……。嫌な響きね、と釘崎は顔をしかめる。まるで高専一年の時に体験した事件のようではないか。
 後から聞いたところ、本来ならば有り得ない編成で送り込まれたあの一件は両面宿儺の器を早急に処理したかった上層部が五条の受け持ちの高専一年達を使うようわざわざ仕向けたらしい。未だ立証されていないものの、ほぼ確定情報だ。おまけに、たとえ『器』を壊すことができず、その代わりに同行していた二人――釘崎と伏黒が死亡したとしても、上層部に楯突く五条への嫌がらせになるので件の老害どもにとっては喜ばしい結果になっていたとのこと。幸いにもそのどちらにもならなかったが、何度思い出しても胸くそ悪い連中である。
 そんな嫌な思い出をよみがえらせてくれる今回の現場であるが、いつまでも校門の前で突っ立っているわけにもいかない。補助監督の黒スーツの男――釘崎と伏黒のやりとりを顔色一つ変えず聞き流していた強者(つわもの)だ――にこの場での待機を指示し、二人は敷地内へ足を踏み入れた。


 時計は午後二時を示していたが、厚い雲に遮られ陽光は地上までまともに届かない。おまけに曇った窓ガラスの所為で校舎の中はさらに薄暗いものとなっていた。
 採光用の大きな窓を横目に釘崎と伏黒の二人は中央階段の踊り場を通り過ぎ二階へと上がる。索敵用に伏黒が出した玉犬は未だ沈黙を保っており、肝心の呪霊の所在は掴めていない。それらしき残穢は至る所に見られるものの校舎中に万遍なく広がっているらしく、本体の場所が特定できないのが現状だった。
「やーね。ちょくちょく血痕が飛び散ってるけど、あれってもしかしなくても私達の前に送り込まれた呪術師のものかしら」
「だとしたら対象の呪霊は相当性格が悪いな」
「同感。どうせ死なない程度に攻撃しながら術師を追い回して遊んでたんでしょうね」
 面倒だわ、と呟く釘崎。相手はそのような娯楽≠ノ興じられる程度には知能があると見ていい。
 低級の呪霊でも悪知恵をつけるものはいるが、獲物に決して狭くはない校舎を長時間走り回らせて遊ぶというのはまた少し意味合いが異なる。それは己を圧倒的強者と理解している者に特有の性質だ。単なる思い込みや思い上がりであればまだマシだが、一級呪術師が行方不明になったという事実がある以上、楽観視はすべきではないだろう。
 おまけに今回は釘崎と伏黒のどちらか一方ではなく二人揃っての任務である。自分達が学生の頃から変わらず呪術界は万年人手不足であり、一級以上の呪術師が二名以上で同じ任務に当たることはほとんど無い。にもかかわらず上層部は二人に任務を割り振った。この意味を考えないわけにはいかない。
(まあ、昔と違って私達……特に伏黒を損なうわけにはいかないってのもあるんでしょうけど)
 釘崎は傍らをチラリと一瞥し、胸中で独りごちた。
 禪院の血を引く特級呪術師でしかも男。腐ったミカンの代表格である御三家の一角・禪院家にとって喉から手が出るほど欲しい人材である。一度は五条の取り成しで禪院家に売られずに済んだものの、特級呪術師となりさらに価値が増した伏黒を禪院家が諦められるはずもなかった。
 無論、伏黒本人に禪院の血筋を繋ぐためそちらの家に入り宛がわれた女と子を成すつもりなど一切無いのは明らかである。でなければ釘崎の一割冗談で九割本気だった先程の言葉に肯定を返すはずもない。今この男が欲しいのは金でも地位でも名誉でもなく、同じ喪失を味わった他人との傷の舐め合いだ。
 何事もないまま二階の半分ほどを見回った時、玉犬がふいと鼻先を上へ向けた。異変を感じたらしく両耳もピンと立てられ周囲の音を聞き分けようとしている。
 主人である伏黒が名を呼べば、玉犬はそちらを向いて一拍置き、元来た道を走って戻り始めた。見つけたか、と二人もその後を追う。ただし玉犬が向かうのは階下ではない。中央階段を駆け上がり、二人と一匹は三階へ。二段飛ばしで上りきったその先に待っていたのは――。
「伏黒!」
「っ、領域展開『嵌合暗翳庭』」
 三階へ上がって数歩も駆けぬうちに何者かの領域が展開された。しかし天井も床も壁も赤黒く塗り潰される中、即座に伏黒が自身の領域を展開。赤黒い肉の壁を闇よりもなお濃く深い黒へと染め上げていく。
 同時に領域が展開された時、より洗練された方の術がその場を制する。伏黒が呪力で構築した暗い影は瞬く間に周囲を見たし、待ち伏せを成功させて余裕の笑みのようなものさえ浮かべていた呪霊の顔を驚愕へと変化させた。
 赤から黒へと塗り潰された空間の最奥で戸惑いのまま周囲を見渡し、やがて対面に立つ伏黒達へと歯を剥き出しにして怒る真っ白な呪霊。基本は人型に近いが、シィシィと歯を剥き出しにしている口は頭部を上下に分割するサイズのものが一つと、腹部を縦割りにする形のものが一つ、計二つも備えている。歯肉の色は黒。また目や耳はなく、本来それらがあるはずの場所からは赤黒くねじれた肉棒のようなものが突き出ていた。
「やっぱり変態済みだったか」
 最初に報告されていた胎児のような姿とは異なるその異形に伏黒が呟く。
 呪胎はすでに変態を遂げ、特級呪霊と成っていた。あの時≠ニ一緒だ。二人の表情がますます嫌悪に歪む。
 ただしあの時とは違って今回の相手の方がさらに成長を遂げ完全な領域展開を会得していた。学生の頃の自分達なら一瞬で命を絶たれていただろう。しかし最早あの時とは違う。赤黒い領域は一瞬で伏黒の影に呑み込まれ、優位は完全にこちらのものとなった。
 相手の強さに応じて振る舞いを変える程度の知能はあるようだが、力はまだまだ。これなら伏黒一人でも十分対処できただろう。やはり己は臆病な上層部が万が一に備えて同行させられたに過ぎなかったのだと釘崎は腹を立てる。私がこなすべき他の仕事を蹴らせてまで――助けるべき人を助けぬままで――自分達の血を残したいのか年寄りどもめ、と。
 そういう連中だとは理解していたが、やはりムカつくものはムカついた。
 伏黒の領域に囚われた白い特級呪霊が決死の反撃に出ようと向かってくるのを眺めながら釘崎はそれでも一応油断せずに全身の緊張状態をほどよく保つ。ただし迎え撃つのは釘崎ではない。領域を展開中の伏黒本人――……でもなく、彼の足下で波打つ影が式神の形を成し、白い呪霊へとまとわりついた。
 くるぶしから下を影に絡め取られただけで呪霊の動きが止まってしまう。必死に振りほどこうとするものの拘束は一切緩まない。おそらく自身の足を切り離すしか逃れる術はないだろう。そしてその判断を下せないうちに呪霊の背後の影が盛り上がる。大蛇の形を成したそれは大口を開けて呪霊を頭から呑み込んだ。
 呪霊は為す術もなく大蛇の口の中で断末魔の叫びを上げる。しかし無情にも大蛇は獲物を丸呑みし、全てをその腹の中へと収めてしまった。
「…………」
 領域展開が行われる時点で相当なレベルの戦いであるはずだが、それでもあまりにも呆気ない。思わず釘崎は半眼になる。「うわ、ショボ」と口に出さなかっただけ褒めてほしいくらいだ。
 戦闘が終わり、伏黒が領域を閉じる。
 校舎は元の姿を取り戻し、相変わらず窓から入ってくる光が弱すぎて廊下は暗く陰気な表情のまま。そして呪霊が立っていたはずの場所にころりと落ちていたのは……。
「ねぇ、待ってよ。なんで『アレ』がここにあるの?」
 そう問いかける釘崎の声は震えていた。「知るか」と返す伏黒の声もまた同じく。
 二人の視線が向けられた先にあったのは屍蝋となった人間の指。皮膚は枯れ木のように茶色く染まり、尖った爪はこびりついた血が酸化したかのような黒だった。
「だって……だって、『アレ』は全部アイツが食べたはずじゃない」
 ゆえに釘崎と伏黒は大切なものを奪われた。
 最初からその予定だったではないかと上層部は嘯いたが、二十あるそれらを全て腹に収めきってなお正気を保っていた彼を、それでも恐れた馬鹿な臆病者達が消し去ったのだ。もしかしたら老害どもは単に伝説級の呪いの復活を恐れただけではなく、それを身の内に宿したまま若い呪術師達に慕われる彼という存在そのものを恐れていたのかもしれない。だがいずれにせよ、二人が奪われた側であることに違いはなく、そして老害達にその愚行を許す理由となったのが目の前に転がっている本来ならばすでに存在しないはずの物≠ナあった。
「両面宿儺の指……」
 どちらともなくその名を呟く。
 有り得ない、と釘崎は心の中で何度も繰り返した。伏黒も同じだろう。しかしこの場に突っ立ったままで終われるはずもなく、先に伏黒が動いた。
 ふらりと覚束ない足取りながらも一歩踏み出した伏黒はそのまま指へと近づき小さいながらも存在感がありすぎる屍蝋を拾い上げる。どこからどう見ても特級呪物・両面宿儺だ。感じられる呪力も本物のそれである。
 とりあえずこれを持って帰るしかないのかと、本来であれば相談を持ちかけたい白髪の男を選択肢から外して二人は戸惑いのまま顔を見合わせる。
 担任ではなくなってもいざという時は思い出してしまう『最強』――五条悟。しかし彼は今、使い物にならない。最も酷く荒れている十二月七日はすでに過ぎたが、彼が自分自身に理性の箍を緩めて荒れることを許した十二月はまだ終わっていないのだから。
 それでも、と釘崎は思う。
「……アイツに関係があることなら、むしろ黙って上に持って行った方が悪い結果になるかもしれない」
 上層部の動きも、五条悟の方も。
 釘崎の言葉を受けて伏黒が手元の呪物に視線を落とす。彼もまた、理性と感情の両方がこれを腐った老害どもに渡すことを拒んでいた。
「先輩達に連絡を取って……それから家入先生にも連絡しとくか。今の五条先生なら俺ら相手でもキレかねない」
 簡易ではあるが呪符を作り、それで両面宿儺の指と思しき呪物を包む。これだけの呪力を持つものを誤魔化せるのはごく短時間だろうが、それでも無いよりマシだ。
 伏黒がその作業を行っている間に釘崎は素早く呪術高専の先輩達や家入硝子に連絡を取る。事態の異常さに電話の向こうで各人が動揺を露わにするも、それぞれすぐに平静を取り戻して、動ける者はすぐにそちらへ向かうと返答があった。家入の方も大丈夫のようだ。
 二人が各々作業を終え、校舎を出ようと中央階段の方へ足を向ける。

『持って行っちゃウの?』

「「……ッ!?」」
 振り返った二人の視線の先、廊下の真ん中に一人の少女が立っていた。
 白のサマーセーターに白のシャツ。胸元のリボンは落ち着いた赤で、深緑を基調としたチェック柄のプリーツスカートからは健康的な足が伸びている。それだけならまだ良かった。否、このような場所に普通の女子高生がいるはずも無いので全く良くはないのだが、まだ精神的にはマシだっただろう。単純に警戒するだけで済んだのだから。
 しかし現実はそう優しくもなかった。
「……一体どこから声出してんのよ」
 釘崎が苦虫を噛み潰したような表情で告げる。
 二人の視線の先にいた女子高生のような身体を持つソレは、首から上がマトモではなかった。
 白い制服から覗く白い首筋。その上に本来あるべき目や鼻や口は存在せず、熟れてはじけた柘榴の如く真っ赤なつぶつぶが花のように広がっていた。しかもその赤い粒は一つ一つが蠢き、キィキィと小さな声で鳴いている。目を凝らすと赤い粒は共食いをしており、小さな声は敗者の断末魔であり勝者の歓喜であった。喰った側のものは同類を取り込んだ分だけ体積を増し、やがて分裂して複数の赤い粒になる。そして新たに増えた赤い粒がそのまま共食いを始め、不気味な連鎖を紡いでいた。
『ねぇ、もシ良かったら、それ、譲ってくレなイ?』
 声は穏やかで優しげ。
 しかし先程の特級呪霊など比較にならないほどの嫌悪感が魂の底から湧き上がってくる。「それ」と言いながら指差された宿儺の指を伏黒が隠すように抱え込んだ。
 その表情は苦しく、こめかみから冷や汗が滴っている。釘崎とて伏黒とほとんど変わらない。むしろ嫌悪感に加えて相手の方が圧倒的に『強者』であるという感覚が全身を侵し、おそらく襲われてもまともに身動きできないであろう未来が見えて歯噛みするしかなかった。
 あれは、強い。自分では絶対に勝てない。
 ならば伏黒はどうかと問われれば、答えは「分からない」としか言えなかった。
 その伏黒が呪符でぐるぐる巻きにした宿儺の指をズボンのポケットに荒々しく突っ込む。そしてすぐさま両手で印を結び領域を再展開した。
「領域展開『嵌合暗翳庭』」
 一瞬で広がる『黒』。
 しかし呪霊は怯んだ様子もなく『あらあラ、これは駄目っテことヨね』と、やはりどこから発しているかも分からない声で告げるのみ。
 伏黒の呪力の量が心配だったが、ここで領域展開をしないわけにはいかないだろう。必中の空間で確実に呪霊を祓う。でなければ、きっと。
(私達が殺される)
 おぞましく、むごたらしく。
 呪霊に向かって黒い式神達が殺到した。先程の特級呪霊を相手にした時の比ではない。その式神達に紛れ込ませるようにして釘崎もまた己の釘を素早く放つ。
 だが。
『残念。とってモ残念』
 呪霊に殺到した全てが食い潰された=B
 頭部の代わりに呪霊の首から上で共食いを続ける赤い粒。それらが呪霊の周囲に拡散して範囲内に入った全てのものを瞬きの間に文字通り喰らって無効化してしまったのだ。
 例外はあるが、確かに必中の領域内でも呪力で防げば領域の主の攻撃から身を守ることができる。だが釘崎達が見せられたその方法はあまりにもおぞましかった。
 生理的嫌悪で全身を掻き毟りたくなるような、言葉にできない嫌な感覚。釘崎が咄嗟に新たな釘を放ったのは、最早作戦ではなく単純に厭わしいものを自分から遠ざけたいと思う生物の本能のようなものだった。
 しかしその釘もまた呪霊の周りを漂ったままの赤い粒達に阻まれ、喰われ、本体に辿り着くことはない。おまけに呪霊の興味を指ではなく釘崎本人に向ける羽目になってしまい、赤い粒へ命じるかのように異形の少女の繊手がこちらを示した。
「釘崎!」
 伏黒が叫ぶ。と同時に足下にあった影が大きく広がり釘崎の眼前に展開される。それが釘崎の代わりに赤い粒に喰われているのだとすぐに分かった。分かったからこそ足を動かす。恐怖と嫌悪にすくんでいた両足を無理やり動かして少女が繊手で示す方向から逃れる。どうやら赤い粒はそうやって命令されないとまともに本体から離れられないらしく、釘崎の身代わりとなった影を粗方食い尽くした後は呪霊の周囲へ戻っていった。
「ごめん」
「いや、いい」
 喰われた分だけ伏黒の呪力も減っている。おまけに呪霊の足下を漂っていたはずの伏黒の影が赤い粒によって喰われ、廊下のリノリウムらしきものが視認できるようになっていた。どうやら目の前の呪霊は相手の呪力を喰らうタイプのものらしい。このままでは呪力切れで伏黒の領域も維持できなくなってしまう。
(その前に生きたまま私達があの赤いのに喰われる可能性だってあるわけだけど)
 寒気がするような想像に釘崎は身を震わせた。
「……って言うか、赤いの増えてない?」
「他人の呪力を喰って増殖するタイプか」
「最悪。共食いだけしてろっての」
「同感だ」
 領域を展開し続ける以上、伏黒はあの赤い粒に呪力を喰われ続けることになる。しかし領域を解いてしまえば、赤い粒が釘崎か伏黒を狙った時に防御しきれない。このままではジリ貧だ。
 殴る蹴る斬る突き刺すと物理的な力で圧倒されるのも苦痛だが、こうして精神的な部分をザリザリとヤスリをかけるようにすり減らされるのもたまったものではない。しかし解決策は思いつけず、いっそ離脱が妥当か――それが可能であるならば――と、万分の一の可能性に縋って釘崎が提案しようとした、その時。

「――領域展開『伏魔御廚子』」

 声変わりもまだであろう幼い少年のアルトボイスがおぞましい言の葉を紡ぐ。
 周囲を満たしていた影が暗い色の水面へと変わり、呪霊の背後に厨子と呼ぶには大きく禍々しすぎる建造物が数多の獣の骨と共に顕現した。
 その瓦屋根の上に立つのは、両手で印を結んでいる幼い少年。まだ十歳にも満たないであろう彼がこのおぞましくも強力な領域を展開したと言うのか。
 しかしその事実よりも少年の容姿そのものに釘崎と伏黒は言葉を失っていた。
 少年の三白眼気味の双眸が二人を一瞥する。しかし間も無く呪霊が『あなタ、誰?』と言葉を発し、琥珀色の瞳はそちらへと逸らされた。
「誰でもいいじゃん」
 釘崎と伏黒の知らない声変わり前の声。その声の主が呪霊に向かって静かに告げる。
「でもまぁそんなに他人の呪力を喰いたいなら俺が喰わせてやるよ。お前の腹が裂けるくらいの量はあるぜ」
 あとは何が起こったのか、その時の二人はどちらも全く理解することができなかった。
 ただ現実として赤い粒ごと呪霊本体が押し潰された。全方向から押し潰されたそれは叫び声を上げることすら許されず一瞬にしてビー玉ほどの大きさになり、やがてそれすら消え去る。あとから推測することになるのだが、それは術式に流されていない単純な呪力がぶつけられた結果らしかった。あまりに力が大きすぎ、それだけで特級に区分されるはずの呪霊を圧殺してしまったのである。
 呪術を使う必要すら無いと言わんばかりの所業を終えて少年が再び釘崎達を見た。トン、と軽い足音を立てて屋根の瓦を蹴った少年はそのまま地面に着地する。同時に展開していた領域も役割を終え、暗い廊下が戻ってきた。
 赤も白も影も水も無い。
 寂れたリノリウムの廊下で少年は明るい色の髪を軽く掻く。両目の下にある薄い傷のような線を歪ませて、気恥ずかしそうに少年が笑った。
「あー……えっと、その……は、はい、おっぱっぴー?」



[chapter:2]

 虎杖悠仁の秘匿処刑が執行されたのは、彼が両面宿儺の指二十本全てをその腹に収めた年の師走のことだった。
 享年十八歳。呪術高専の最終学年だった虎杖悠仁は十九の誕生日を迎えることも高専を卒業することもできずに、彼の師とも言える『最強』の呪術師・五条悟の手によってその命を散らしたのだ。

* * *

「アンタ今すぐそこへ直りなさい。笑えない冗談を二度もしでかした罪は重いわよ」
 死んで生き返ったのに生きていることを二ヶ月間も隠していたという前科がある相手に対し、釘崎野薔薇はわりと本気で冷たい廊下での正座を要求した。
 その相手がどこからどう見ても幼い子供であることはこの際あまり問題にならない。何せこの子は――否、この男は、たった一言でその小さな身体に肉体年齢以上の記憶が詰め込まれていることを証明してみせたのだから。
 しかも――。
(確かに、コイツに私達と過ごした記憶があることを証明するにはある意味有効っちゃ有効な台詞よ。でもブラックジョークが過ぎるっての!)
 こめかみに青筋を立てながら、戸惑う子供に「はよ座れ」と廊下を指差す釘崎。
 自分達に連絡の一つも寄越さなかったことも、記憶の証明のためとは言えあまりにもあんまり≠ネ台詞を選択したことも、何もかもが非常に気に食わなかった。
 が、やはりちょっと厚めの生地で作られただけのパーカーとハーフパンツにスニーカーという組み合わせは動きやすくても寒すぎるだろお前は風の子元気な子か!? と思ってしまったので、釘崎は自分が身につけていたマフラーを少年の首にグルグルと巻き付ける。
 そんな釘崎に少し遅れて自失状態から復活した伏黒が自分の黒いコートで小さな身体を包み込んだ。丈がありすぎて完全に引き摺る恰好になってしまったが、渡した本人はコートが汚れることなど一切気にせず大変満足げである。
 大人達の防寒着に埋もれる形となった少年は「二人ともアリガト」とモコモコのマフラーの内側で頬を緩ませた。そのまま長いコートの裾を気にしつつ正座しようと膝を折りかけたので、釘崎は思わず「伏黒、コイツ抱きかかえて」と言ってしまう。前言撤回、いくら記憶があろうとも小さな子供に冷たい廊下での正座は却下だ。微笑みに絆されたとかそう言うのではない。断じて。
 釘崎の指示を受けた伏黒はヨシ来たとばかりにさっさと子供を抱き上げる。
 一方、正座しろと言われたかと思えばそれを中断させられ、子供は伏黒の腕の中で「えっ、えっ?」と困惑気味だ。「いいの?」と小首を傾げて確認する様がなんともあどけなく、愛らしい。小さいものを可愛いと思うのは生き物としての本能なので、釘崎は素直に自身のその感覚を肯定した。
「正座と謝罪は保留にしてあげるから先にいくつか質問に答えろ。あとアンタお腹は空いてないわよね?」
 伏黒に抱きかかえられ視線の高さがほぼ一緒になった子供に釘崎はそう確認を取る。
「腹はへってない、けど……?」
 それがどうかしたのかと首を傾げる子供に釘崎は「よし」とだけ呟いた。幼い子供が腹を空かせている状況で質問を優先させるような女ではないつもりなので。
「じゃあ遠慮なく質問始めるからな。まず一つ目。アンタ今どこに住んでんの? ここの近く?」
「え? まずそこから?」
「……? 大事なことでしょうが」
「う? う、うん」
 押され気味に頷く子供。一方釘崎はどうしてそんなにも納得いかなさそうな顔をしているのか理解できない。この子供の現在の所在を確かめるのは何よりも大事なことだろうに。ここにいる理由も含めて他の質問は二の次だ。
 ともあれ訊ねた釘崎に対し、「今、俺が住んでるのは――」と子供は都内にある児童養護施設の名前を告げる。両親どころか今度は祖父の顔も知らないとのこと。どうやら生まれてすぐの頃に施設の前に捨てられていたらしい。
 伏黒の顔が僅かにしかめられた。子供から見えないと思って油断しすぎだ。釘崎の方はもやもやとした気分を表に出すこともなく「意外と近いな」と呟き、児童養護施設から子供を引き取る際の手続きについて一瞬思考を巡らせる。煩雑そうだが、大変ならば伊地知の力を頼れば良い。彼の事務処理能力の高さはちょっと怖いくらいのレベルなので。
「じゃあ次。なんでこんな所にいた? 強さ的には申し分ないからまぁ良いとして、今日は平日でしょ。学校は?」
 領域展開までできる相手に「危ないのにどうしてこんな所に来た?」と訊ねるのは無意味だろう。ゆえに問わない。しかし目の前の子供はどこからどう見ても就学児童である。小学校はどうした、小学校は。
「ず、ずる休み……デス」
「理由は?」
 ただの気まぐれで学校を休むタイプでもないだろうと思い、釘崎が続けてそう問えば、子供の大きな両目がすっと細められ幼子らしからぬ冷たい表情を形作った。
「宿儺の指かもしれない呪物の気配がしたから」
「これを回収しに来たのか?」
「そう」
 伏黒が訊ねつつポケットから出した呪物を見やり、子供はしかと頷く。だからこそ釘崎も伏黒も先程と同様に困惑した。
 何故ならば――。
「指は二十本全てアンタが取り込んだはずでしょうが。……それで、全部、食べちゃったから、アンタは」
 これ以上は言葉が続かない。
 唇を引き結んだ釘崎に子供は苦く笑う。「うん」と小さく頷く顔に悔恨のようなものが浮かぶのは、自分の死をどうにか遠ざけようと奮闘した人達を、そして力及ばずに涙を流しながら膝を折った彼らの姿を、今もまだ覚えているからなのだろうか。
 その中の一人でもある釘崎は声が震えないよう己を戒めながら「だったら、なんで?」と問いかけた。
「……違ったんだ」
 ぼそり、と子供が答える。
「なに、が」
 嫌な予感がした。
 釘崎と伏黒の同級生は全ての特級呪物・両面宿儺をその身に取り込み、今後宿儺の所為で引き起こされるであろう悲劇を彼の命を代償にして葬り去った。彼の命にはそれくらいの対価があってしかるべきだった。そのはずだ。
 しかし現実はあまりにも無情で非情。
 幼い子供のアルトボイスが残酷な真実を突きつける。
「確かに俺は指の形をした呪物を二十本喰ったよ。でもそのうち何本かは偽物だったんだ。どれも強い呪力は持ってたけど、宿儺の指じゃなかった」
「……………………は」
 釘崎は唖然とし、伏黒は小さく身を震わせた。
 そんなことがあって良いのか。ならば一体何のために自分達は大切なものを奪われたのか。釘崎は奥歯を噛み締める。指の先から凍り付き、心臓が止まってしまう心地がした。
「俺が死ぬ直前にさ、宿儺の奴が嗤いながら言ったんだ。『残念だったな、小僧』って。……本物の指はまだ残ってる。次の器がいつ現れるか分からないけど、アイツはもう一千年くらい平気で待つつもりみたいだった」
 そして今度こそ器を乗っ取って自由に振る舞う気でいるのだと子供は唸るように告げる。
 特級呪物・両面宿儺が本物であるかどうかは、正直なところ宿儺本人にしか判断できない。こちらが本物だと思っていても、呪力が特別高い他の呪物である可能性も否定できないのだ。そして真偽を判断できる唯一の存在は、今の器を乗っ取るのが非常に困難であると判断し、その身体に全ての指を食べさせて力を得るという方法を諦めた。代わりに器が処刑された後、残った指を別の器が口にすることで再びこの地に復活する方法を選んだのだ。
「だから、俺は……」
 ちりちりと空気が震える。
 子供はその小さな身体に途方もない怒りを宿していた。
「っ、あんた」
 しかし釘崎が恐怖を覚えたのは子供が抱えた怒りの総量に対してではない。恐ろしかったのは『三度目の喪失』だ。
 子供は宿儺の指を回収するためにここへ来たと言った。つまり彼はこの姿になってもなお件の特級呪物を探している。それは何故か。……言うまでもなく、器たる己が今度こそ全ての宿儺を取り込むためだろう。そして全て取り込んだあかつきには――。
(指を全部食べて今度こそ心中してやるなんて馬鹿なことを言い出すつもりじゃないでしょうね)
 そんなのは嫌だ。絶対に嫌だ。嘘でも聞きたくない。
 釘崎は嫌だ嫌だと心の中で叫ぶように繰り返す。
 ふと視線を上げれば、子供を抱きかかえたままの伏黒が顔を蒼白にしていた。最初に虎杖悠仁の処刑撤回を望んだのは彼だったらしい。ならばこの後に子供が続けるであろう台詞を予想して血の気が引くのも無理はなかった。
 大人二人が揃ってこの後の台詞を聞きたくないと強く思っているのに、それでも子供を止める言葉が出てこない。三度目の喪失を想像しただけで恐怖に身がすくみ、口の中がカラカラに乾いて舌が口内に貼り付いてしまう。
「残りの宿儺の指をちゃんと全部喰って、」
 虚空を睨み付ける琥珀色の瞳はギラギラと輝き、異様な熱意を宿していた。
 やめろ、それ以上言うな。そんな単純な言葉さえ釘崎も伏黒も発することができない。ただひたすらに恐ろしくて、意味もなく肺を収縮させた。
「それでさ」
 ニイ、と子供の唇が吊り上がる。獰猛なその笑みは凍り付く大人二人にとって死刑宣告にも等しいものだった。
 耳も塞げない大人達を前にして子供は小さな唇を開き――。

「もう絶対アイツを外に出してなんかやらねぇ。俺が天寿を全うするまでずっと俺の中に閉じ込めてやるんだ」

 おや? と釘崎は小首を傾げて、数回、目を瞬かせた。凍り付くようだった指先に再び熱が灯り始め、緊張に強ばっていた頬が緩んでいくのを感じる。
 獰猛だと思っていた笑みは、実際には強い意志と希望によってまぶしく輝いていただけだった。
 全身から力が抜けて膝を折りそうになりながら、それでもそんな格好悪い姿など見せられないとばかりに釘崎は胸を張る。「ははっ……そっか。そうくるか」と口の端を持ち上げた。
「てんじゅを、まっとう」
 一方、初めて聞く言葉のように伏黒が呟く。こちらもまだ二本の足でしっかり立っているものの、気が抜けると同時に魂までふわふわと抜けて行ってしまいそうだった。しかし彼の普通ではない様子に気づいていないのか、子供は「そ!」と元気よく答える。
「もう俺、死んでなんかやらねぇよ。よぼよぼでしわくちゃのじーさんになるまで生きてやる。アイツは俺が死ぬまで何十年も閉じ込められて、ちっとも好きなようにできなくて、俺の中で不平不満を抱えながら最期を迎えるんだ。今度は俺から宿儺に『残念だったな』って言って腹抱えて笑ってやる」
 ニシシと真っ白な歯を見せて子供が笑う。
 その横顔を穏やかな光が照らし出した。いつの間にか雪も止み、厚い雲の合間から太陽の光が地上へ降り注ぐようになっていたのだ。
 天使の梯子や天国への階段とも呼ばれる美しい光景の下、きらきらと輝く子供の笑顔に釘崎の胸は温かく――否、自分でも驚くくらい熱くなった。そして同時に誓う。今度こそ絶対にこの命を理不尽に奪わせたりしない、と。
 黙ったまま目尻にうっすらと涙を浮かばせる伏黒と視線を合わせて彼女もまた笑う。十年ぶりに浮かべた心からの笑みだった。

* * *

 生得領域に侵入者の気配が一つ。
 それを感知し、両面宿儺は閉じていた両目をゆっくりと開いた。
 うずたかく積まれた獣の頭蓋骨の山は宿儺の宿主が死んで再び生まれた後も何一つ変わらず存在し続けている。無限にも思える広大な空間を見上げれば巨大な背骨と肋骨が白く浮かび上がっており、視線を下に向ければ暗い色の水が一面を覆っているのも同じく。しかしかつて宿儺が受肉した当初と大きく異なっている点が一つだけあった。
 ぱしゃん……と小さな水音を立てて水面に波紋を浮かばせながら近づいてきたのは、この肉体の主たる幼い子供。琥珀色の双眸を頭蓋骨の山の頂上に向け、外見の幼さに見合わぬ鋭い視線を宿儺にぶつけてくる。
 初めての邂逅の折、宿儺はこちらを見上げる少年に向かって「許可なく見上げるな。不愉快だ、小僧」と嘲笑と共に告げてみせた。しかし今はもうそのように喋ることすらままならない。姿こそ宿主が生まれ変わる前のものと寸分変わらぬものだったが、子供の視線の先にある両面宿儺は顎から鼻の下まで何重にも札に覆われ、一切の言葉を封じられていた。
 それだけではない。今の宿儺は両手と両足も同様に札で封じられ、骨の玉座にただ背を預けるのみとなっている。己の生得領域内であっても自由に振る舞うことが許されていないのだ。また肉体が別物になったためか、かつて交わした誓約も無効化され、たとえ「契闊」と唱えたとしても一分どころか一秒とて肉体の主導権を得ることはできなくなっていた。
 随分と気味の悪い成長を遂げたものだな、と宿儺は己を見上げる幼い子供を見下ろし、淡々と胸中で独りごちる。
 いつ宿儺が封印の札を破って暴れ出すのかと厳しい表情でこちらを見据える幼子は、今の自分がどれくらいの力を手にしてしまったのか正確に自覚できていない。手も足も口さえも出せない宿儺が気まぐれで囚われの身になっているとでも思っているのだろう。
(つまらん奴だ)
 しかしここまで気味の悪い成長を遂げた事実そのものには宿儺も多少の面白みを感じていた。
 呪術高専に通っていた当時は「これは特級呪物・両面宿儺である」と判断された呪物だけを口にしていた虎杖悠仁。しかし処刑され再びこの世に生を受けた後、そのような判断を下せる者は幼子の周りに存在していなかった。結果、幼子はある程度高い呪力を持った呪物があれば、それが宿儺の指であってもそうでなくても口にするようになってしまったのだ。文字通り片っ端からというやつである。
 あまりに悪食過ぎて見かねた宿儺が「そんなものが俺の指だと思うのか」と一度だけ告げたことがあるのだが、幼子は「お前の言葉なんか信用できるか」と一刀両断。当然と言えば当然だが、その頑なさは宿儺が思わず呆れるほど。
 小さな子供であるが故にそう易々と強い力を持つ呪霊や呪物と遭遇できるわけでもなかったが、処刑される前にも宿儺の指と称して本物と見紛うばかりの強力な呪力を持つ偽物を幾本か口にしていた子供はその分と生まれ変わった後に取り込んだ呪物の分だけ確実に力を増していた。受肉した宿儺の力が食べた指の本数分だとするならば、単純に計算して子供が身の内に抱える呪力の総量は偽物の分だけ宿儺を超えてしまっている。加えてすでに器たる肉体には宿儺の術式が刻まれており――……あとは言うまでもない。
 このような場合でも知識と経験の差を発揮できていれば状況は全く違っていただろうが、今の幼子は両面宿儺に対して一切の油断も妥協もしない。拘束は厳重に。監視は常時。甘言を弄する口は塞いで、宿儺の優位性をことごとく削いでいた。
(嗚呼、本当につまらん)
 宿儺が怒りも悲嘆も焦燥も見せない一方で、こちらを見上げる幼子はいつでも厳しい表情をしている。そこには強者としての威厳も余裕も何もない。
 複数の強力な呪物を取り込みそれらと混じり合って折角面白いものになったのだから、もっとらしく$Uる舞えばいいのに――。宿儺は幼子がここへ来るたびそう思わずにはいられなかった。自由を奪われてなお烈火の如く怒らずに済んでいる程度には今の宿主の状態を興味深く感じているので、どうせならもっと楽しませてもらいたいものだ。
 せめて口がきけたなら……と、封印の札の下でもごもごと口を動かしてみる。眼下で子供が警戒を強めるが、生憎封印は強固で、今回も解けてくれそうにない。諦めて軽く肩をすくめれば、訝しげな視線が飛んできた。
 しかしもう少しすれば、幼子もここを去るだろう。現在、宿主の身体は大人になった伏黒恵に抱きかかえられてあの男≠フ元へ移動中だ。その間、少し目を閉じて意識をこちら側へと向けているに過ぎない。両面宿儺という身の内のバケモノが悪さをしないように。
(今やオマエの方がバケモノだろうに、なぁ?)
 口を塞がれていても喉の奥で嗤うことはできる。
 また少し子供の警戒心が高まったようであったが、宿儺にとっては最早どうでも良いことだった。



[chapter:3]

 今にも雪か雨でも降ってきそうな分厚い灰色の雲が空を覆い尽くしていた。
「悠仁、ゆうじ……。もっと……もっと、僕が、上手くやっていれば」
 地面には何重にも描かれた陣。内側のものを外に出さないようにするために用意されたそれの真ん中で黒ずくめの男が膝を折り背中を丸めている。
 ひたすら謝罪と懺悔を繰り返す男の腕の中では彼が将来を有望視していた教え子の一人――虎杖悠仁が静かに目を閉じていた。
 男は自他共に認める『最強』だった。しかし彼はどうしようもなく呪術師であった。
 ゆえに自ら提示した約束を違えることもまたできなかったのだ。

 ――どうせ殺すなら全ての宿儺を取り込ませてから殺せばいい。

 男は少年の死刑を先延ばしにするためそう提案し、上層部は了承。実質無期限の執行猶予がついたのは三年と半年前。それから一本目の『指』の受肉に引き寄せられるようにして次々に指が少年の元に集まり――……気づけば、男の教え子は二十本目の指を口にしていた。
 全ての特級呪物・両面宿儺を取り込んでなお、人間として、呪術師として、人格を侵されることなく在り続ける少年。その周りには少年を慈しみ少年を慕う者達がたくさん存在するようになっており、彼らの誰一人として少年の死刑を望んでなどいなかった。
 しかし老人達がこの好機を逃すはずもない。
 臆病で、保守的。しかしひどく残忍で、狡猾。そんな老人達は過去に結ばれた誓約を忘れることなく掘り起こし、これ見よがしに男へと突きつけた。処刑の執行日として男の生まれた日を指定するなどという悪意の上乗せさえおこなった上で。
「ゆ……じ、ゆーじ」
 ほたり、ほたり、と目隠しを外していた男の頬から幾筋も雫が流れ落ちる。
 もう動くことのない心臓と、腕の中で急速に失われていく体温。あの日のような奇跡は起こらない。
「悠仁……ごめん、ね」
 その日、五条悟は自分の心が折れる音を聞いた。

* * *

 十二月は嫌いだ。曇天の日は特に。
 先程まで雪がちらついていた窓の外を睨み付けて五条悟は舌打ちをする。最も忌み嫌う日は天候に関係なくやってくるが、それに次いで十二月の曇天は五条にとって非常に厭わしい日だった。
 外は防寒着無しに立っていられないほど寒いのだろう。しかし部屋の中は薄着でも充分なくらいに暖かい。今の五条も黒い薄手の部屋着であり、カーテンを閉めようと窓の前までフローリングの床を進んできた足も裸足だった。おまけに窓は断熱と結露防止を謳う二重ガラス。いっそ外気との温度差で曇ってしまえば良いものを、金のかかった窓ガラスはこういう時に限って部屋の主が厭うものをはっきり見せつけてくる。
 もう一度舌打ちをして五条はカーテンに手を伸ばした。だが指先が布地に触れた直後、テーブルの上に放置していたスマートフォンが着信を告げる。
 忌々しげに音の発生源を睨むが、その程度で止んでくれるはずもなく。五条はカーテンから手を放して渋々テーブルへと足を向けた。
「……恵?」
 伊地知だったらマジビンタと半ば癖のように心の中で唱えていたのだが、画面に表示されていたのは有能で気弱な補助監督ではなく、かつての教え子の名前。珍しいこともあるもんだと五条はサングラスの下で目を丸くしながらスマホを手に取った。
「――珍しいね、恵。どうかした?」
『突然すみません、先生。今、ご自宅ですか』
「そうだけど」
『近くに他の人……特に高専関係者はいませんよね』
「……いないよ。僕一人。で、どうかした?」
 心なしか声のトーンが下がってしまったのは仕方のないことだと理解してほしい。
 この時期に呪術関係――特に高専関係に関わることは、五条の中で禁忌にも等しいことになっている。可愛い教え子の一人であり同じ痛みを味わった同志でもある伏黒だからこそこの程度で済んでいるのだ。
 電話の向こうの相手もそれは充分承知してくれているだろう。こちらの状況を鑑みて平常通りには行かないことを理解しているからこそ、通話も謝罪の言葉から始まったのだ。
 気を遣わせて悪いと思う一方、やはり自身の中にあるドス黒い感情を抑えきることができない。十二月とは五条悟にとってそういう季節だった。
『こんな時期に……本当に申し訳ありません』
「いいよ。ほら、さっさと用件言っちゃいな」
 せめて伏黒にぶつけるべきではない感情をこれ以上表に出さないように注意しつつ、五条は先を促す。
 この時期は本来五条に回されるべき仕事も伏黒をはじめとする元教え子達や後輩が担当してくれていた。その一つで五条の手が必要になる事態でも発生してしまったのだろうか。それにしては電話の向こうにいる伏黒に焦った様子もないのだが……。ただし焦りは感じられずとも、代わりにその声音には迷いや困惑の気配がかすかに滲んでいる。
『その……』
 言い淀む伏黒。
 一体どんな案件を抱えているのかと五条は眉根を寄せた。精神面のコンディションは最悪だが、必要ならば彼の所へ駆けつけねばならないだろう。今の自分にまともな対処ができるとは言い難かったが、あの子≠ノ続いて他の教え子まで失うわけにはいかない。
 まだカーテンを閉めていない窓を一瞥し、五条はひとまず伏黒がいる場所を訊ねようと口を開く。
「めぐ――」
『アイツ≠見つけました』
 一瞬、何を言われているのか理解できなかった。
 助力を求められているわけではないということは分かる。しかしそれならアイツ≠ニは何なのか。五条と伏黒の両名にとって、たったそれだけの単語で通じてしまうもの。それほどまでに圧倒的なもの。
 いなくなってしまった子の明るい髪色が脳裏をよぎり、五条はカラカラになった喉で無理やり唾を飲み込む。
 言葉を返せない元担任の反応などどうでもいいのか、それとも予想通りだったからなのか、伏黒はこちらの言葉を待つことなく続けた。
『今から先生の所に連れて行きますんで、どこにも行かず待っていてください』
「………………え?」
 待ってくれとも詳しく説明してくれとも言う暇がない。
 伏黒の方も平静のままではいられなかったのだと後から気づくのだが、今の自分にそんなことが判断できるはずもなく、通話の切れたスマートフォンを唖然と見つめる。
 そのまま来客の連絡があるまで五条はその場に立ち尽くしていた。


 コンシェルジュが常駐しているマンションのエントランスを抜け、目的の階までエレベーターで上がる。アラサーの男女とどちらにも全く似ていない十歳くらいの子供が一人という組み合わせにも有能なコンシェルジュは訝しげな表情一つ浮かべず、実にスムーズに通してくれた。
 伏黒は未だ抱きかかえたままの幼子を一瞥する。「おお、すげぇ」とエレベーターから見える外の景色に感嘆する子供は実に無邪気なものだ。こちらの十年間の苦しみも知らないで……と怒るよりも前に、変わらぬ無邪気さと幼い姿が相まってその様子はあまりにも愛らしく、気を抜けばすぐに頬が緩みそうになる。
 釘崎の方は連絡の一つも寄越さなかったことに若干腹を立てていたようだったが――と言ってもほとんどフリのようなものである――、伏黒としては今腕の中にいる存在が昔と変わらずにいてくれたことが何よりも喜ばしかった。しかも中身だけではなく外見さえ記憶の中にある姿に違和感なく結びつけることができる。きっとこのまま成長すれば、かつて共に学んだ同級生と全く同じ容姿になるだろう。
(これなら五条先生も一目で分かるな)
 二度目の奇跡だ。もう二度と起こってはくれないだろうと思っていた奇跡がもう一度目の前に現れてくれた。
 この興奮を、望外の喜びを、あの男にも味わわせてやりたい。
 十年前、『両面宿儺の器』の死刑執行は最低限の人数のみで行われ、伏黒達はその場に居合わせるどころか近寄ることさえ許されなかった。それでも五条がどれほど苦しんだのかは理解しているつもりだ。
 だからこそ――。
(早く着け)
 五条の部屋はこの高層マンションの上層階にある。階数を示す数字はかなりの速さで進んでいくが、それでも酷くもどかしい。
 伏黒は腕の中の存在を改めて抱きしめる。少し強くなった拘束に、窓の外を見ていた子供が伏黒を仰ぎ見て「どうした?」と小首を傾げた。
「何でもない。……いや、ああ、そうだ。先に五条先生に会わせるが、あとで先輩達や家入先生にも挨拶しに行くからそのつもりでな」
「あ、そうなの? 了解!」
 子供はにこにこと、みんなに会えるのも楽しみだと言わんばかりの表情を浮かべる。
 宿儺の指と思しき呪物が目の前に現れた時点で釘崎が素早く信頼できる人達に連絡を入れてくれたが、この子供の登場によりすでに予定は変わってしまっている。五条の元に宿儺の指だけ持って行った場合はどんな反応が返ってくるかこちらとしても予想しづらく、万が一に備えて反転術式が使える家入にも連絡を入れたものの、今こうして伏黒に大人しく抱きかかえられている幼子を五条の所に連れて行ったならきっと最初に想定していたものとは全く違う展開が待っているはずだ。
 見ているこちらが苛立つくらい満面の笑みを浮かべて大喜びする元担任の姿を想像し、伏黒はふっと吐息を漏らす。めざとく気づいた釘崎が「何ニヤニヤ笑ってんのよ」とからかってくるが、彼女もまた隠しきれない笑みを浮かべていたので、考えていることは大体一緒なのだろう。
 ついでとばかりに、伏黒は腕の中の存在と再会してからずっと継続しているふわふわした心地のまま口を開く。
「こいつを箱にでも入れて『土産だ』っつって登場させた方が良かったのかもと思ってな」
「いやそれオマエらに全然ウケなかったやつじゃん」
 子供が半眼になってうめく。
「でもアレを考えたのはどうせ五条先生だろ?」
「そうだけどさぁ」
 ウケなかった時のつらさと言ったらホント有り得ないレベルなんだぞ、と当時を思い出しながら子供はがっくりと項垂れた。
 あの時の自分達がどのような顔をしていたのか、伏黒も鏡を見ていたわけではないので正確には分からないが、相当酷いものだったようだ。どうせこんな話題を出しても今から子供一人が入れる大きさの箱を用意できるはずもないので最初から全て冗談のつもりではあったが、伏黒は「すまんすまん。じゃあ普通に会いに行こうな」と言って項垂れたままの子供の頭を撫でた。
 そうこうしているうちにエレベーターは目的の階に到着し、ドアが開く。
 エレベーターホールから確認できる扉はたった三つ。一つは自分達が使っていなかった二基目のエレベーターの扉、そしてもう一つは非常階段へと通じるものなので、すなわちこのフロアには五条しか住んでいないということになる。最強の名に相応しい仕事量と報酬の結果がこれなのだろう。しかも五条本人がここに住むことを決めたのは、誇るためではなく単純に『買えたから買った』程度の理由でしかない。
 正直なところ、伏黒自身も似たような状態になりつつあるのでよく分かる。金は貯まるが使い道がない。アイツ≠フいない世界で楽しめることなど何もないのだから、それは伏黒にとって当然の帰結だった。なお、五条とは違い伏黒には姉という大切な家族がいるが、彼女が理由もなく大金を受け取ってくれるはずもないので金の使い道がないことに変わりはなかった。
「先生いるかな」
 しんと静まりかえったエレベーターホールを通過しながら子供が呟く。伏黒は「そのはずだが……」と答えて玄関扉前の呼び鈴を鳴らした。

* * *

 ずっと昔から関わりがあったこの男の、こんなにも苦しそうで、けれどもこんなにも幸せそうな姿は今まで見たことがなかった。
 靴を履く余裕さえ無いまま玄関に降りて両膝をつき、幼い子供を抱きしめる長身の男。その白髪を見下ろして、伏黒は己の予想が大きく外れた展開に息を止める。
 子供の柔らかな身体のことなど一切考慮できていない痛いくらいの抱擁に、しかし子供本人は苦情一つ零さない。それどころか己の小さな肩に額を押しつけて静かに嗚咽を漏らす大人の背中を、子供は紅葉のような手でぽんぽんと優しく撫でていた。
 きっと全身で喜びを表すのだろうと思っていた男が感情の波に耐えきれずひっそりと肩を震わせる姿は、見ているこちらも胸が詰まって仕方ない。声を掛けることさえはばかられ、黙って二人を見守る。
 伏黒が玄関扉をくぐった時、五条はどこか夢遊病患者のような風体で出迎えた。しかし子供が伏黒の腕から離れかつての担任の前に立った瞬間、サングラスの奥に隠れていた青い目からは冗談のようにボロボロと水が溢れ出し、この状況へと至ったのである。
「せんせー」
 やがて大の大人の肩の震えが徐々に治まってきたのを見計らって子供がそっと声を掛けた。
 声変わり前の甘ささえ感じる呼びかけに五条がゆるゆると顔を上げた。伏黒や釘崎に見られていると分かっていても止めようがないのか、相変わらず青い双眸からは涙が止めどなく溢れていて、サングラスの内側にまで雫がついてしまっている。そんな大人の様子に子供はくすくすと笑みを零し、濡れたサングラスを両手で丁寧に外した。
「ひっでぇ顔してる」
「ゆーじ」
「うん」
「ちゃんと、ここに……いるよね?」
「ここに、先生の目の前に、いるよ」
 その存在を確かめるように五条は子供の頬を両手で包み込む。こつりと額を合わせれば、至近距離で瞳を覗き込まれた子供が臆することなく五条の特別な両目を見詰め返してもう一度吐息を零すように笑った。
「せっかくのイケメンなのに泣かせてごめん」
「ん。全然いーよ。これは嬉し涙だからね」
 五条の双眸が本当に嬉しそうにきゅっと細められる。
 この子が愛しくてたまらない、もう一度会えたことが嬉しくてたまらない。そんな感情が言葉にせずともこの場にいる全員に伝わっていた。
「ねぇ、悠仁。あの時≠ニ同じ台詞で、戻ってきた君を迎えても構わないかな」
「もちろん」
 子供が即答する。
 その返答に五条はとろけるような甘い笑みを浮かべて、
「悠仁! おかえり!!」
「オッス、ただいま!!」
 子供が差し出した手にパチンと軽快な音を立ててハイタッチした。



[chapter:4]

「よし、悠仁。施設を出て『五条悠仁』になろうか」
「待ってください。虎杖は『伏黒悠仁』になるべきです。だよな、釘崎」
「別に『釘崎悠仁』でも構わないけど、どちらにしろ私と伏黒が夫婦になって虎杖を養子にするのが手続き的にも一番スムーズなことに違いないわね。四十を越えた独身男よりアラサー夫婦の方が勝率は高いでしょ。というわけで虎杖は先生の養子じゃなくて私達の養子な」
 いつまでも玄関にいるわけにはいかないと、五条がある程度落ち着いたところで四人はリビングに場所を移していた。
 一人掛けのソファが二つ、それらと向かい合う形でローテーブルを挟んだ所に三人掛けのソファが一つ。前者に五条と子供が座って、後者に伏黒と釘崎が腰を下ろす恰好である。
 五条が二つ目の一人掛けソファではなく自分の膝の上に子供を座らせた時点で一騒動あったのだが、それはさておき。三つのうち二つしかソファが埋まっていない状態で始まった会話は各人の提案によって早々に紛糾状態へと陥った。「え、ちょ、待って。ってか伏黒と釘崎結婚すんの!?」と、五条の膝の上で渦中の子供が非常に困惑した顔をするが、問われた側の二人は「「オマエを養子にするならコイツと法的にくっついた方が有利なんだし当然だろ?」」と声を揃えて返されてしまう。
「俺がいない間にめちゃくちゃ仲良くなってんじゃん……」
 疎外感を感じる子供にすかさず五条が声をかけた。
「新婚の邪魔しちゃ悪いし、やっぱり悠仁は僕のところにおいで」
「だから虎杖と一緒に住むための結婚だって言ってんだろうが。今日は目隠しじゃないと思ったら代わりに耳でも塞いでんの?」
 チッと大きな舌打ちをして釘崎が五条を睨む。伏黒も彼女と全く同じ意見であるためじっと五条を見据えた。
 なお、結婚するしないの話は十年前に奪われた同級生がこうして手元に還ってくるとは思っていなかった時点で出た話題だが、釘崎の横に座る伏黒も彼女同様わざわざそれを明かすつもりはない。意図としては似たようなものであるし、改めてそのことを目の前の子供に聞かせても当人が気に病むだけなのは分かりきったことだ。
「『五条悠仁』ってカッコイイじゃん」
「それなら『伏黒悠仁』だって負けてません」
「おいこら男共、『釘崎悠仁』が一番だろ」
 虎杖姓にはかすりもせず、三者三様に主張を繰り返す。理由も理屈もすっ飛ばしてただ自分と同じ姓を名乗らせたいから、手元に置きたいから、という一心で一歩も譲らぬ三人に、幼子は困った様子で頬を掻いた。それはこんな言い争いをするほど自分の死が彼らにとって大きな一件だったのだと改めて理解したからでもあり、そして――。
「あのさ、」
 喧々囂々の最中、ぽつりと割り込んだ声で三人が一斉に口を閉じる。
 三対六つの瞳を向けられた子供はやや気圧されたように唇をもごもごと動かしたが、すぐに気を取り直して発言を続けた。

「実は俺の今の名前、そもそも『イタドリユウジ』じゃないんだよね」

 えへへと困った様子で笑う幼子。
 大人達は虚を突かれたように目を丸くして、かなりの沈黙の後、「……え?」と誰かが呟いた。
 そう、三人の前に現れたのは、生後まもなく親に名付けられることもないまま施設の前に置き去りにされていた子供。当然、本人が記憶していた名前で出生届が出され戸籍に登録されるという事象が奇跡的な確率で発生するはずもなく、その身には全く別の名前が付けられていたのである。

* * *

 ついに五条悟が狂ったと、呪術界で密やかに、しかしまことしやかに囁かれ始めたのは、二月も半ばを過ぎた頃だった。
 身寄りのない幼い子供を囲い込み、かつて己が処刑した教え子であり特級呪物の器であった少年の名前で呼んでいる――……などという噂が出回れば、そう判断されるのも致し方ないことだろう。
 おまけに本人も強いて否定をしない。それどころか急に任務が入った時などは上層部相手であっても「え〜? 明日は悠仁と遊ぶ予定だったのに」と不平不満を漏らす姿が幾度も目撃されている。大抵は補助監督である伊地知から五条の我が儘に手を焼いている旨の連絡を受けた『その子』が五条に直接連絡を入れて事なきを得るのだが、その事実がさらに人の噂を煽る結果となっていた。
「ぶっちゃけ俺もドン引きましたけど。全くの別人に昔の生徒の面影を見るようになった狂人という意味ではなくて、孤児を引き取って自分の養子にするどころか、さらに家庭裁判所に書類まで出して改名させている辺りが」
「だって仕方ないじゃん。悠仁は見た目も中身もちゃんと悠仁だったけど、戸籍上は『虎杖悠仁』じゃなかったんだから」
 二ヶ月前と全く同じ位置関係で、自宅のリビングのソファに腰を下ろしたまま五条は伏黒に言ってのけた。
 四十を過ぎているようには一切見えない長身の男の膝の上には養子縁組によって姓が変わったどころか、その後で名まで変えられてしまった子供――虎杖悠仁あらため五条悠仁が座らされている。
「恵だって野薔薇だって、悠仁のことをちゃんと気兼ねなく悠仁って呼びたいだろう? だったらこうするのが一番でしょ。それに下手に隠せば疑われるけど、逆にこうしておけば誰も僕が本物の悠仁を匿っているなんて思わないよ。僕は本当のことしか喋ってないのに周りが勝手に勘違いしてくれる。ね、一石二鳥だ」
 五条の言い分も間違いではない。
 折角再会した元同級生が実は別の名前で生まれ変わっていて、その子供を手元に置きたい一心で養子縁組に本気だった伏黒と釘崎。しかしたとえそのまま我が子として迎えることができていたとしても、子供の名前は全く耳慣れない響きのもので――……。きっとそのまま養子にした場合、妙な気持ち悪さを抱える羽目になってしまっていただろう。
 また悠仁の存在が呪術界の上層部にバレれば、再び「処刑しろ」と迫ってくるに違いない。『記憶』と『器としての性質』の両方を備えたままとなれば、どんな強硬手段をとられることか。万が一そんな事態になれば無論こちらは全力で反抗するが、面倒事が起きないに超したことはない。
 ゆえに改名に関しては理解できていた。
 しかし。
「だからって『五条』悠仁は無い!! それなら俺が狂っていると噂される役でも構わなかった! むしろ大歓迎だ!!」
「どさくさに紛れてちゃっかり自分の養子にするとか本当にフザケんじゃねぇぞ、オイ! あと私なら秘密裏に虎杖に似た男を見つけて孕んで生まれた子供に『悠仁』って名付けていたとか、もっと箔のつく噂を流せたかもしれないでしょうが!!」
 事務処理ならば安心と信頼かつスピーディな伊地知潔高へ。その点に関しては五条、伏黒、釘崎の三者も一致していた。ゆえに子供の改名に関してのみ伊地知に一任していたのだが、蓋を開けてみればハイスペック補助監督を五条が抱き込み――正確には脅した≠ゥもしれない――まんまと悠仁を五条姓に変更していたのである。
 この抗議も幾度繰り返したか分からない。だが悠仁に会いに五条宅を訪ねるたび、やはり一度は言っておかねば気が済まなかった。伏黒が一人で訪ねた時も、もしくは釘崎が一人で訪ねた時も、それは変わらない。
 ちなみに悠仁が生まれ変わったことを聞かされた先輩方やその他関係者の皆様もほぼ全員が五条の強行に何かしらコメントしたらしいが、ここまでしつこく文句を言い続けているのは伏黒と釘崎だけのようだ。おかげで彼らと顔を合わせるたびに伏黒と釘崎は「やっぱりオマエら三人ホント仲良いよな」としみじみ呟かれてしまっている。そんな時は「そうだろうか?」と二人が首を傾げるまでがワンセットだった。
「でも悠仁本人がオッケーしたんだし『五条悠仁』以外の選択肢は実質無いよね?」
「どうして『伏黒』じゃ駄目だったんだ虎杖……」
「あんたが『釘崎』を名乗ってくれたら最高に甘やかしてあげたのに、なんで、虎杖……」
 伏黒も釘崎もがっくりと肩を落とす。
「えっと、ごめんなー二人とも」
「コラそこ、わざわざ悠仁を旧姓で呼ぶんじゃありません。悠仁も虎杖って呼ばれて答えない! 君は五条悠仁なんだからね」
「はぁい、先生」
 五条の膝の上で悠仁が苦笑しながら答えた。
 その返答に五条は満足げな笑みを浮かべ、大きな手で薄い色をした幼子の髪を大きくかき回す。「悠仁は本当に素直で良い子だねぇ」と告げる声はわたあめのように軽くて甘ったるく、十年前に戻ったどころか、むしろ以前よりさらに気が抜けているようにも聞こえた。ただしいくら言動が腑抜けていようとも呪術師としての実力は一切損なわれておらず、むしろ一秒でも早く自宅に帰るため今の方が仕事の効率も異常に上がったとか何とか。
 ともあれ、オーバーリアクションを取ってもやはりこちら側になびいてくれない悠仁の態度に伏黒は渋々顔を上げる。隣に座る釘崎が向かい側に聞こえないほど小さな声で「泣き落としも駄目か」とこっそり顔をしかめていた。本日も自分達は五条には勝てないらしい。
 次の作戦を練らなければとアイコンタクトを交わした後、二人は本日の悠仁奪還作戦を終了して、代わりにモデルルームをそのまま持ち込んだかのようなすっきりしたリビングには相応しくないゲーム機で溢れたテレビ周辺を指差す。
「よし。それじゃあ虎杖、この前の続きでもするか」
「私達が来なかった間にちゃんと腕は磨いたでしょうね?」
「やるやるー! この一週間の俺の成果、とくとご覧あれ!」
 ぴょんと五条の膝の上から飛び降りた悠仁が慣れた様子で二人や五条から買い与えられたゲーム機の一つをセットし始める。数週間前に釘崎が勧めてきた対戦ゲームがここ最近の悠仁のお気に入りだ。
「悠仁!?」
 膝の上から無くなってしまったぬくもりに五条が非難の声を上げる。しかし当の本人は元同級生達とのゲームにすっかり心を奪われてしまっていた。
「先生も一緒にする?」
「……僕が参加したら三人で手を組んで一斉に攻撃してくるから嫌です」
「だって先生ゲームでも強過ぎるし。一対一じゃ勝てないんだから三対一は基本っしょ?」
 ゲーム機本体の電源を入れた悠仁がコントローラーを伏黒と釘崎に手渡しながら告げる。現役最強呪術師は「そうだけどー」と答えるものの、納得はしていない様子。そんな元担任の姿に、ソファを降りて床に敷かれたラグの上に直接腰を下ろした伏黒と釘崎が揃ってニヤリと勝ち誇った笑みを浮かべた。
「始めるわよ、虎杖。全力でかかってきなさい」
「おう!」
「虎杖、オマエは俺と釘崎の間に座れ。そっちの方が画面も見やすいだろ」
「さんきゅー伏黒!」
 上機嫌で悠仁は二人の間にすとんと収まる。
 そんな大小中の順で並ぶ元教え子の背中を眺め、五条は先程のアラサー二人を彷彿とさせる肩の落とし具合を披露して諦め気味に呟いた。
「だから悠仁は『五条』悠仁なんだってば……」

* * *

「悠仁」
 じゃあね、またな、と伏黒達を玄関口で見送った後、頭上から己の名を呼ぶ小さな声が降ってきた。
 今にも消え入りそうなそれを聞き取った悠仁は頭(こうべ)を巡らせ背後を仰ぎ見るが、その直後、大人の長い腕が小さな身体を捕らえる。
「せ、んっ……」
 ふわりと浮き上がる身体。両足はフローリングから離れ、悠仁は五条に抱き上げられてしまった。反射的に「降ろして」と口を開きかけるが、耳の上辺りに唇を押し当てられ、同時に腕の拘束が強まると、悠仁はその言葉を呑み込んで身体から力を抜き、相手に身を預けた。ついでに両手は五条の首の後ろへ回す。
「どうしたの、せんせ」
「ゆーじ、ゆうじ」
 ぎゅうぎゅうと痛いくらいにこの身を抱きしめる大人は、悠仁が戻ってきて以来、扱う呪術にもさらに磨きがかかって絶好調であるらしい。五条宅を訪れる客達は誰も彼も手放しで彼を褒めることはなく、むしろ批判的な意見ばかり零すが、それでも言葉の端々に悠仁の現在の保護者の有能ぶりと好調ぶりを歓迎する気配が感じられた。十年前と同じ、否、あの頃よりももっと五条の調子は良くなっている、と。
 しかしそれは違うと悠仁は思う。
 むしろ五条は弱くなった。
 この十年間の五条がどのような様子だったのかは本人や周囲の人々から話を聞くしかないため悠仁も充分には分かっていない。だが自分が知っている過去の五条と今の彼を比べれば確実に今の方が弱いと感じている。
 呪霊を祓う能力や成果だけを見れば、過去と遜色ないどころか、皆が思っている通り素晴らしいものであるだろう。しかしかつて最強の呪術師としてその座にたった一人、孤高のまま、強く、美しく、そして何ものにも縛られず自由に立っていた五条は、今や最強である事実は変わらずとも、悠仁という存在に縛られ、一人で立つことを拒むようになってしまっていた。……――まるで真っ直ぐに立つための芯が折れてしまったかのように。
 己の手元に悠仁がいることを確かめられなければ途端にその精神は不安定になり、制御し損ねた呪力が周囲に被害を及ぼす。術式に流し込まれぬまま放たれたそれは決して強くないものの、それでもあの五条悟から漏れ出したものであるため軽視できるレベルではない。例えば初めて悠仁が不安定になった五条を目の当たりにした時などは、彼の寝室――最も訪問頻度が高い伏黒と釘崎にも見せたことがない部屋だ――の家具一式を買い直す羽目になった……のみならず、部屋そのものの改修が必要になってしまった。
 あの時は同じベッドで眠っていた悠仁が夜中に目を覚まし、用を足しに僅かな時間だけ部屋の外へ出ていた。おそらく悠仁の気配が動いたことで五条はその後すぐに目を覚ましたのだろう。そして隣にあったはずの子供がいなくなったことに気づいた。
 冷静に考えればトイレに行ったか、もしくは水でも飲みに行ったか、と予想くらい立てられたはずだ。しかし五条は悠仁がいないという事実だけで恐慌状態に陥ってしまった。悠仁が激しい異音に困惑しつつトイレから戻ってきた時にはすでに部屋の中は滅茶苦茶な有様で、目隠し布も色つきのレンズも通さず晒された青い両目を大きく見開いたまま五条はその場にうずくまり、今にも泣き出しそうな声で悠仁の名前を繰り返していたのだった。
 そんな彼は実のところ悠仁が玄関に近づくことさえあまり好ましく思っていないらしい。明確な言葉にされたことはないが、五条本人が一緒だからこそ悠仁が外へと通じるドアの前に立つことを許容している節がある。
 そしてこれは伏黒達を含めまだ誰にも気づかれていないが、悠仁は五条に引き取られてから小学校にすら登校していない。
 共に暮らすようになってから……否、十二月のあの日、存在を認識された瞬間から可能な限り五条の視界の中にいることを求められ続けている。おまけに彼が家を空ける時は絶対に外へ出ないことも約束させられた。誓わなければ五条もまた一歩も外へ出ないと言われてしまえば、彼の力がどれほど多くの人間を救えるのか知っている悠仁としては頷かざるを得なかったのである。
 それにこんな状態の五条を見放すこともまたできるはずがなく――。結果として、悠仁は五条姓となることを受け入れた。縋る手を握り返して、見えない拘束具で雁字搦めにされて、地獄の果てまで共に行こうと告げる言葉に頷いたのだ。
 地下室で悠仁を匿っていた時のような、あれほどまでに若人が青春を謳歌することを重要視していた五条悟はすでにいない。
「大丈夫だよ、先生。今度こそ死ぬまで一緒にいるからさ」
「死んでも一緒がいいな」
「わかった。じゃあ死んでも一緒な。地獄で俺とランデヴーしよ」
「いいね。すっごく楽しそう」
 ほんの少し腕の力が弱まって、耳の近くでくすくすと楽しげな笑い声が零れる。
 悠仁が「顔見せてよ」と囁けば、眼前にどんな美人も恥じ入るような美貌が惜しげもなく晒された。とろりと今にもとろけてしまいそうな笑みは、もし食べることができたなら胸焼けするほど甘いのだろう。
 瞬きをすれば音でもしそうなくらいに長く密度の濃いまつげを震わせて五条は誓いの言葉を告げる。
「誰にも君を奪わせない。もう一度悠仁が僕のところに戻ってきてくれたんだから、今度こそ上手くやるよ」
 もっと僕が上手くやっていれば、という言葉は悠仁がいなくなった後の五条の口癖にもなっていたらしい。それを払拭するかのように青い双眸を細めて彼は「絶対に」と付け足した。
「うん」
 目の前の白い頬を両手で挟んで悠仁も頷く。
 身体の底の方から湧き上がり胸を圧迫するこの感情の名前を悠仁は知らない。愛しいのか、恐ろしいのか、悲しいのか、嬉しいのか。ただ、こんなにも小さな身体に縋る手を決して振り払ってはいけないのだということだけがはっきりと分かっていた。
 ――今生こそ宿儺の指を全て腹に収め、その上で天寿を全うし、共に果てるまで……否、地獄の先まで五条と共に在ろう。
 絶対に、と目の前の大人を真似るかのように心の中で呟いて、悠仁は再び五条の首の後ろに両腕を回す。しっかりとその身体に抱きつけば、これ以上の幸せはないとばかりに五条の周りの空気が華やいだ。







2019.10.06〜2019.11.10 pixivにて初出