「あんたなんか消えちゃえばいいのよっ!!」
ああマズったな、と。 急速に手足の感覚が薄れていくのを感じながら、俺はゆっくりと目を閉じた。 * * * 発端は忘れた。とりあえずその日、俺は珍しく文芸部室に一番乗りだった。ハルヒと一緒に。 それから何かがあって……あー思い出せん。この不自然な忘れ具合はハルヒの力が影響しているのだろうか。 「でしょうね。涼宮さんがあなたごとその原因となった"事実"を消してしまったのでしょう」 と、この部屋の主にして元転校生のSOS団副団長殿が如才ない笑みを浮かべる。 ……。いやホント、俺はハルヒの望みによって消えちまったはずなんだけどな? どうして俺は今ここで、こうして思考し、更には古泉と会話なんてものが出来ているのだろう。 「あなたは存在が消滅したと言うより、元々自分がいた次元から"こちら側"に移ったようですね。涼宮さんもあなたが本当に無くなってしまうことを望んだ訳でもないでしょうから。とにかく彼女自身が知覚出来ない所に移動させた、と」 なるほどね。ま、完全な消滅を望まれなかっただけありがたいと思うべきなのか……。原因を忘れてしまっている以上、あまり何か言える立場でもなさそうなので、黙っておく。 「彼女の力の影響で今のあなたは彼女を含む"あなたが本来いるべき次元"の人々には知覚されません。ですが我々『超能力者』は別のようです。我々は涼宮さんが作り出す別の次元―――閉鎖空間の発生を感知し、そこに入る能力を有していますから。同じ『神』が創り出した新たな次元とそこにいるあなたを知覚することが出来ているのでしょう」 超能力者・古泉一樹の見解は、そういうことらしい。 まぁ何はともあれ、誰にも気づかれず透明人間のように世界を彷徨っていなければならない状態は脱せたので、今はこの口数の多い副団長に感謝しておこう。 古泉の言う通り、今の俺は元いた"次元"からズレた所にいるらしい。声が届かない、視認してもらえない、物が持てない、ついでに人ともぶつからない。唯一の例外が彼ら超能力者と言う訳だ。 古泉には俺の声が届く、俺の姿が見える、ついでに触れることも出来る。後々判ったことだが、古泉が俺に手渡した物なら元の次元の物でも触れることが可能らしい。あと、俺がトイレやら何やらに行っている時は、古泉にも俺の姿が見えなくなるのだとか。おそらく二つの次元の矛盾を解消するための現象だと思われる。"誰もいない"はずなのに、水とか流れたらホラーだろ? 何はともあれ、現状の把握は概ね終了だ。 さて、これからどうするか。 「ひとまず僕の所にいませんか? 長門さんも だな。お前が良ければ、そうさせてもらえると助かる。 何せ『消えろ』と望まれてしまった所為で、俺と言う存在は関わりがあった殆どの人間の記憶の中から居なくなっちまっているのだ。我が妹も一人娘という設定に変更されているらしく、家に帰ってみても俺の部屋だった所は物置になっていた。これでは帰るに帰れん。 ……あ。言い忘れていたが古泉の部屋を訪れたのは、一度自分の家のそんな状態を確かめ、続いてまぁ色々な所を回った後だ。突然押しかけてすまなかったな、古泉。 「いえいえ。あなたに頼っていただけるなら本望ですから」 ええい、嘘か本当か判らん顔で言いやがる。これが笑顔のポーカーフェイスと言うやつか。 だがまあ、今は俺の心の安寧のためにも、それが奴の本音であると思っておこう。 □■□ ああ、これでほんの一時とはいえ、彼は僕のものだな。と。 この時ほど自分が超能力者で良かったと思ったことはない。 ただの癇癪で彼の消失を願ったあの女の態度は腹立たしいが、中途半端に実行したおかげで僕だけは――正確には超能力者全員だが、彼と深く関わりがあるのは僕だけなので気にするほどでもない――彼をしっかりと知覚することが出来る。TFEI端末である長門有希も得意の情報操作によってある程度は認識出来るようになるだろうが、それでもこれはこちらの領分。僕の方に分がある。また未来人など最初からお話にならないし、神は神で自分が願ったことなのだから気付けるはずもない。 自身を知覚してくれる人間と話せて、少し安心したのだろう。この部屋を訪れた彼は壁に背を預けて眠ってしまった。照明の下に晒される意外と幼い寝顔に、僕は小さく笑みを零す。 彼本人は冷静なつもりでいたようだけれど、自分が誰にも認識されないというのは相当なストレスだったらしい。この部屋を訪れた時の彼の表情は、まさに"藁にも縋るような"と表現すべきものだった。どうやら彼はこの状態で一度長門有希の所にも行ったのだが、改変直後で情報操作が完了しておらず、宇宙人は折角訪れてくれた彼に気付けなかったようなのだ。 ああ、なんて愉快な。愉快なことなんだろう。 くすくすと笑いが止まらなくなる。彼が目を覚ましてしまわぬよう音量を抑えるのが精一杯。 手を伸ばして短めの髪に触れる。少し汗で湿ったそれも、感じられるのは僕だけ。彼の声を聞けるのは僕だけ。彼に触れられるのは僕だけ。そして、 「あなたにこうして口づけられるのも、僕だけ」 音も無く、軽く触れ合わせるだけの口づけを彼に送る。 時計の針の音と自分達二人分の微かな呼吸音以外、この部屋の空気を振るわせる物はない。 とても穏やかで、幸せだった。 彼は困るだろうけど、こんな時間がいつまでも続きますようにと願わずにはいられない。 「永遠に心も身体も僕だけのものになってくれればいいのに」 思わず口を突いて出た言葉が眠っている彼に届くはずもなく。神でもない僕の願望はこの胸に降り積もるのみ。 と、そこで。 「……ん?」 小さく言葉を発しつつ、僕は気付いた。ああそうか、と胸中で続ける。 どうして彼が消失することになったのか。 それはきっと、神が傲慢にもこう望んだからだ。 彼の心も身体も欲しい。 だが、手に入らないならば、誰のものにもなることなく消えてしまえ。 「あはっ……あはは。本当に馬鹿な神様だ」 独りごちて、彼の寝顔を眺める。 僕にしか見えない、僕にしか頼れない人。可愛くて、可哀相で、なんて愛しい人なんだろう。幸福すぎて眩暈がしそうだ。 「だからそんな馬鹿な神様にも、今だけは感謝の言葉を」 捧げてやらなくもない、かな。
ゆるやかに、狂う。
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