夕刻。逢魔ヶ刻。
 学校を早退して閉鎖空間の処理に当たっていた僕は数時間前よりもどことなく草臥れた感じのする学生服姿のまま、ある公園の前を通りかかった。
 ・・・何だあれ。
 よくニュースでも耳にするように最近は子供達の遊び場でさえ物騒になった所為か、夕陽によって赤く染まったその公園には人っ子一人いない―――と思った矢先に僕は奇妙な人影を見つけた。
 齢は僕と同じくらい。学ランだからきっと性別は男。年齢を考えるなら『少年』とでも表現しようか。
 ともあれ、その少年は彼以外誰もいない公園の、しかもジャングルジムのてっぺんに腰掛けて、東の方から徐々に暗くなり始めている空を見上げている。そうそう、少年が腰掛けているジャングルジムだが、僕の記憶が正しければ今回発生した閉鎖空間内において神人がまるで紙屑のようにいとも容易く呆気なく踏み潰していたものだ。ちょうど彼が視線を向けている方向から神人の足が伸ばされて、ぐしゃり。
 心底、あそこと此処とは隔絶された世界なんだと思った。もし閉鎖空間での出来事がこちらの世界に反映されたならば、彼はあの鉄の遊具ごとぐしゃぐしゃのばらばらになっていたことだろう。想像して、口元が綻んだ。・・・どうやら僕は相当疲れているらしい。暗い妄想に笑みを浮かべてしまうほど。まあ、確かにこんな能力を得てからこちら、ストレス以外に量産されたものなんてないと言い切れるけれど。
 自覚した笑みを消し去って、いつの間にか止まっていた歩みを再開させようとする。だが僕が相手の夕陽に染まった横顔から視線を逸らそうとした直前、彼がこちらを見た。
「あ・・・・・・」
 どくん、と心臓が脈打つ。原因は不明。ただし正面を向いた所為で露になった彼の片方の頬にガーゼが貼り付いていたためだけではないだろう。唇の端を切っていたからだろうか、それとも一足早く訪れた闇のような色をした双眸の所為だろうか。すたんっ、と猫のような身軽さで地面に着地した彼を視線で追いながら、僕は一度だけ不可解な動きをした心臓の理由をぼんやりと考察していた。
 この小さな公園の唯一の出口であるこちらに向かって来るその少年。距離が近付くに従って、圧倒的な存在感を放つ怪我を除けばどうとでもない顔をしていることが判る。平凡も平凡。『普通』を絵に描いたような少年だ。
「なんか用か?」
「いや・・・」
 ガラの悪い中高生のようにガンをつけるわけでもなく、彼はやや眠たげな眼差しで公園の入口に突っ立ったままの僕に語りかけた。咄嗟に口を突いて出たのは当たり障りの無い否定語であり、僕の足もまた半分無意識のうちに彼の進路を阻まないよう一歩後ろへ下がっている。だが彼がこちらと擦れ違って公園正面の道を横切ろうとした時、僕は半分夢の中にいるような心地でその背へと問い掛けた。
「ここで、一体何を?」
 少年が振り返る。その双眸はやはりまだ眠たげだが、深い闇色のそれが僕を捕らえて一度だけ瞬いた。
 やがて彼の口が開き、

「この世界が滅びるのを待ってた。」

「え・・・」
「だが、どうやら世界は今日も終わらんらしい。」
 知っているのか、と背中に冷たい物を感じながら詰め寄りそうになった僕を残して彼はまた歩きだす。そして色を失っていないこちらの世界に在りながら己を押し潰そうとする巨大な神人の足が迫ってきていた方向をじっと見つめていた少年は、次に取るべき行動を決めかねて足の動かない僕を置き去りにしたまま、夕闇迫る街の奥へと消えて行った。



* * *



 次の日、時刻は夜の七時を回った頃。本日も発生した閉鎖空間の処理を終えて帰宅途中だった僕が彼の姿を見つけたのは偶然だったと言えるのだろうか。
「こんばんは。」
「・・・ああ、昨日の。」
 相手も僕のことを憶えていたらしい。あの夕方の少年は駅の近くにある一時預かり専用の駐輪場の一角、己の物らしき自転車の傍でフェンスにもたれて目を瞬かせた。
 閉鎖空間内で神人に踏み荒らされアスファルトが捲れ上がっていたこの場所も、現実世界においては普段と変わらない様相を呈し続けている。何台もの自転車(一部はスクーター)が整然と並べられ、フェンスも所々錆びてはいるが酷い歪みなどはない。よく管理されたきれいな場所だ。まあ、神人によってぐしゃぐしゃになったことを知らなければ、だからどうしたと思うような場所でもあるが。
 僕は彼に一歩近付き、声が聞こえる程度の周囲に人が居ないことを確認して口を開いた。
「今日も、世界が滅びるのを待ってたとか?」
 機関で関わる森さんや新川さんならともかく、おそらく同年代だろう人間にわざわざ敬語も必要ないだろう。だが機関とはまた別に閉鎖空間や『神』のことを知っている可能性を考えて、警戒心だけは解かずに問い掛ける。問われた方は狼狽や不必要な挙動をとることもなく、何も変わらぬ様子で「ああ」と頷いた。・・・いや、変わらないという表現は少し正しくないか。彼の声には幾許かの落胆が含まれていた。
「その様子だと世界はまだ滅びないみたいだな。」
「そうだな。今日も滅び損なった。」
「その言い方だと・・・滅びるかどうかのチャンスってやつは結構頻繁にあったりするのか?」
「ここ一年・・・いや、一年半ほどはな。」
「へぇ・・・」
 一年半、か。
 相手に変化を悟られないようにしながら僕は相槌を一つ。一年半という期間は、ちょうど僕ら機関の要員がある能力を身に付け、この生活が始まってから今日までの期間に相当する。偶然か?いや、それはない。すぐに否定して僕は自分の中にある確信を更に強めた。きっとこの少年は閉鎖空間の存在を知っている。どこまで知っているのかは不明だが、それが拡大しきった時に何が起こるのか、機関の上層部と同じような見解を抱いているのだろう。加えて今日も昨日も閉鎖空間で神人に壊された場所にいること―――たぶん、僕と同じように閉鎖空間の発生位置が判っている。"超能力者"のように閉鎖空間に侵入して何かの力を行使するといった事態にはならずとも、ひょっとしたら神人の姿くらいは見えている可能性だって。
 そこまで推測し、警戒する相手より数歩先に進めた気分になっていると、彼は僕でなはく僅かに首を動かしてフェンスの向こうへ視線をやりながらぽつりと言った。
「冗談だと笑ってくれても構わん。・・・いや、笑って否定されるのが当然だな。だが本当に、俺には時々、世界がダブって見える。」
 大人しく僕が話を聞いていたことで気を許したらしい彼が放った台詞は、僕の確信をまた強めてくれる。そのまま静聴の態度を示すと、彼はこちらを一瞥してまたフェンスの向こうを眺めた。
「今見てる世界と、色が無くて変な巨人が暴れている世界だ。でも俺の身体はこっちの世界の物には触れられるのに、白黒の世界の方で物が壊れようが巨人がこの場所を踏み潰そうが俺には何も起こらない。捲れ上がったアスファルトも砕けた破片も捻じ曲がった鉄骨も俺をすり抜けてゴミになる。」
「幻覚という可能性は?」
「多いにある。が、俺はまだソッチ系の薬に手を出した覚えは無いぞ。」
 と言い切ったかと思うと、彼は僅かに逡巡を見せて「いや・・・」と呟いた。まだ頬に貼られたままのガーゼを指で掻きながら、一言。
「殴られすぎてとうとう頭がイカれたか。」
「・・・・・・。その見た目で夜中に学生と喧嘩するタイプだったんだ?」
「他人にそう言われると腹は立つが平凡な見た目であることは認めよう。そして俺はこの見た目を裏切るような行動をしない人間だぞ。」
「じゃあ誰に。」
「親父に。ちなみに義理の。」
「・・・ふ、複雑な家庭事情だな。」
「別に聞かれてまずいことでもないからそんな顔すんなって。」
 フェンスの向こうからこちらに視線を戻し、彼は肩を竦める。確かにそう言った彼の表情は何も気にしていないようだった。
「親父はアレだが、妹は可愛いんだ。あいつの血を引いてるとは思えんほどに。」
「いやこんな所でシスコン暴露されても。」
「あはは。本当にシスコンで妹第一な人間だったら、冗談でも世界が滅ぶのを待ってるなんて言わんと思うけどな。」
 僅かに目を細め、乾いた声で彼が笑う。
「幻覚かぁ。だよなー。本当にあんな変な巨人が動き回る世界なんてあるわけねーし。ここまで変なモン見るようになってるってことは、世界じゃなくて俺が滅んじまうってことかな。」
「えらく惨いことを楽しそうに語るんだな、君は。」
「そりゃあ本気で世界が滅ぶのを待ってるような人間だからな、俺は。」
「そういえばそうか。」
「そういえばそうさ。」
 僕の言葉をまねるように返して、彼がくすりと吐息を漏らす。その顔に複雑でありながら実に解りやすい家庭環境から発生するであろう悲壮感は欠片もない。僕に語ったことが全て冗談であるかのように、もしくは本当に世界か自分が滅べばいいと思っているかのように。
 だからだろうか。僕は無意識のうちに彼に一つの問いを発した。
「もし僕が『本当に世界が滅ぶ』と言ったら?」
「大歓迎だ。」
 彼は間髪置かずにそう言って再び笑う。
「そっか。」
 いつの間にかこちらの頬も緩んでいた。
 閉鎖空間帰りで疲労が溜まり、また頭の片隅で今夜か明日の朝辺りに発生するであろう閉鎖空間を思って憂鬱になっていた僕は、何故かその一言で随分と気分が楽になっていた。
「滅んでも、いいんだ?」
「滅んでくれた方が嬉しいのさ。」
「他の人は困るだろう?」
「困るだろうな。が、知ったこっちゃ無い。」
「酷い人間だなぁ。」
「生き物は基本的に自己中だって知ってるか?」
「さあ?」
 笑いながらわざとらしく首を傾げ、僕は歩き始める。足が異様に軽かった。
「じゃ、僕はこれで。世界も君も滅んでなくて、また会えた時はどうぞよろしく。」
「ああ。」
 短い答えを背中で聞く。そしてそれ以降、僕が彼に会うことは無かった。―――世界が存続して僕は高校一年生になり、季節外れの転校生としてある学校に転入するまでは。












終わる世界とまた来る明日


では約束通り、これからもどうぞよろしく。
















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