一度だけ、世界なんて滅茶苦茶に壊れてしまえばいい、と本気で思ったことがある。
 それはちょうど中学生になった日のことだ。


 その一年ほど前から俺の両親は酷く不仲で、家ではいつも喧嘩が絶えなかった。一緒にいるのが嫌ならさっさと別居なり離婚なりすればいいのにな。でも生憎それは二人にとってあまり気の進むことじゃなかったのだろう。世間体とか、金のこととか、まあ色々と。で、加えて親達は己とその喧嘩相手の両方の血を引く我が子に時折、キツい目を向けるようにもなってきていた。それは大抵、喧嘩相手がいない時で、どうしようもなく溜まった鬱憤を俺にぶつけて来たというわけだ。
 それでも最初の方はまだマシだった。学校から帰って来て家にいる母に「ただいま」を言ったら単に無視されるだけだったり、夕食が出来たと呼ばれてすぐダイニングに行かなければ多少過剰に怒鳴られたり、それくらいだったからな。
 でもその程度じゃ止まってくれず、しばらくしてから両親共々手まで出してくるようになった。流石に死にはしないが、成長途中の身体に躾を逸脱した殴る蹴るは辛かった。不幸中の幸いにして、顔等見える所に痣がつくことは無かったから、体育の授業で少しばかり着替えに注意するだけで済んだんだが・・・。
 まあそんな感じで、俺は両親の不仲と彼らからの暴力をやや非日常から日常的なものにシフトさせつつ小学校を卒業した。


 黒の学ランを着て、四月からは今より少し大人になれそうな気分を味わいながら鏡の前に立つ。少し大きめの制服は祖父母が買ってくれたものだ。男の子はすぐ大きくなるからこれくらいでちょうどいいんだよ、と穏やかに笑いながら。
 そうか。俺は大きくなるんだな。と、祖父母に言われて改めて思ったことも記憶に新しい。今より大きくなれば、自分がもっとしっかりすれば、何かが変わるかも知れない。
 呟いて、鏡の中の自分に頷く。その時だ。自分の背後に母の姿が映った。
 ビクリと身を竦ませそうになったが、寸でのところで抑える。そして「母さん?」と呼びかければ、なんと久しぶりに母が優しい笑みを浮かべてくれた。
「・・・どうしたんだよ、母さん。」
 声は震えなかったはずだ。そりゃあ驚いたけど、本来ならこっちが正常なはずなんだから。
 振り返り母を見ると、彼女は小さく笑い声を漏らした。
「あのね、キョンくん、今日はお母さん、キョンくんにいいことを教えてあげようと思って。」
 叔母さんがつけたあだ名で俺を呼びながら母は一歩一歩近寄ってくる。
 何だろう。嬉しい予感と嫌な予感がごちゃまぜになって俺を襲った。訳が解らない。
「あのね、キョンくん・・・」
 母はこちらの肩に左手を置くと、残る手で己の腹をするりと撫で上げる。そして、
「今ここに、お母さんの子供がいるの。」
 ガン、と頭を殴られたような衝撃だった。
 我が子の様子に気づかず、母は優しい目で己の腹を見下ろしている。
「今日、お医者さんの所に行ったのよ。そしたら女の子なんですって。・・・私と『あの人』の。」
 母が言う『あの人』が俺の父であり母の夫である男ではないことくらい、小学校を卒業したばかりの俺にも解った。
 まだ殆ど膨れていない――少なくとも服の上からでは判らない――腹の中に無力な命が宿っている。俺と半分だけ血の繋がった妹。
 嬉しくて、怖くて。ごちゃごちゃになった頭で俺はとりあえずこの家庭がもうすぐ完全に壊れるであろうことを悟った。けれどもう、半分くらいは如何でもいいことだとも思っていた。なるようになれ、だ。もとよりこの異常な環境に適応するためなのか、他の同学年より己が無気力っぽくなっていることも自覚済みだったしな。
 そんでもって俺は母の告白の直前に感じた嫌な予感は、両親の離婚に対するものだったのだと思い、そこで思考を終結させた。だが本当はもっと他のことに関してだったのだ。


 その光景を見た時、俺は息を止めた。
 中学の入学式と初日のガイダンスを終え、帰宅した俺の目に飛び込んできたのは、耳を塞ぎたくなるような罵声を浴びせつつ己の妻の腹を蹴り上げる父の姿だった。
 華奢な身体が僅かに浮いて母は床に激しく叩き付けられる。声を出すこともままならない様子で彼女は蹲り、腹を抱えていた。
 駄目だ、駄目だよ父さん。そこには赤ちゃんが―――
「ふざけんじゃねぇぞこのアマ!!」
 父の足が再度母の下腹部に吸い込まれた。身体を転がして家具に身体をぶつける母。その顔は涙と吐瀉物で見るも無残に汚れてしまっている。美人の部類に入る顔が台無しだ。
 でもその顔を一番酷くさせていたのは外的に彼女を汚すものではない。彼女の浮かべる表情こそが、彼女の全てを奪っていたのだ。絶望、という表情が。
 苦痛から絶望へと表情を変える彼女を見、俺はその場に力無く座り込む。同時に重い音を立てて真新しい鞄が床に落ちた。それでようやく両親は俺の帰宅に気づいたようで、揃って顔を向ける。そんな彼らの様子は――――・・・もう、どうだっていいや。
 まだ未完成だった無垢な命の火が消えるのを、何故だか俺ははっきりと感じていて、ただその命のことだけが酷く悲しく、辛かった。
 どうして、こんなことに。
 もっと優しい家族でいたかった。
 俺の横には生まれるはずだった妹がいて、小さなその子は幸せそうに笑っていて。
 普通でいい。普通でいいから。
 そう、普通でよかったのに!
 どうして世界はこんな風になっているのだろう。どうして罪の無い命が消されなくてはならない。"その子"はまだ生まれてもいなかったのに。
 こんな世界いらない。壊れてしまえ。壊れてしまえ!
 優しくない世界なんて必要ない。"その子"が生まれて笑うことすら許してくれない世界なんて。
「もう、必要ない。」

 ―――なあ、俺はただ妹に会いたかっただけなんだ。優しい家族の中に生まれて、屈託無く笑う妹に。



* * *



「キョンくんっ!ヒマだよー。あそんでー」
 明日から小学二年生になる我が妹は相変わらず実年齢以下の精神構造をしているようだ。
 屈託無く笑い、その様を両親に微笑ましく見守られながら俺の首に抱きついてくる。
「・・・俺だって明日の用意が、」
「そんなのおかあさんが全部やってくれたじゃん。」
 くっ、ご名答だ妹よ。
 明日から中学生となる俺の諸々の準備は昼間の内に母が全て済ませてくれていた。と言うわけで、今の俺は暇だ。やることなんてテレビを見ることくらいか?
「ねぇねぇ、あそんでーあそんでよー。キョンくーん!」
 叔母さんがつけた俺のあだ名を連呼しながら首に体重をかけてくる妹。
 こら止めなさい。首が絞まる。
「わかったよ。で、何がしたいんだ?」
 小さな身体を抱き上げながら問いかけた。どうせこいつは俺に構って欲しいだけで、特別何かをやりたいわけではないのさ。だからとりあえずこうしてやるだけでも充分意味はある。
 抱き上げられキャラキャラと声を上げて笑う妹を見ながら、俺は小さく微笑んだ。
 おそらく、俺達家族は幸せなんだろう。
 とことん普通、平凡、変わったところなんて何も無い家族だが、こうして程々に仲の良い両親がいて、年の割りに幼すぎるけど可愛らしい妹もいて。
 うん、幸せだ。(まるでそうなるよう設えられたように。)






家族の肖像

望んだのは、小さくて優しい世界。








家庭が滅茶苦茶で、しかも半分血の繋がった妹が生まれる前に死んでしまい、それを悲しんだ(そんな世界を認めたくなかった)キョンが世界を再構築、という話でした。
キョンは己の能力に関して無自覚です。
再構築された世界では、妹がすでに生まれていて、キョンと遊べる程度の年齢。
血も半分ではなくきちんと繋がっており、両親も不仲ではありませんよ。