"彼"が僕らの前に現れ、そして去った翌日。相変わらず世界は存続していて、つまるところコチラとアチラは上書き関係にあるのではなく平行世界だった、もしくはアチラへの再上書きが失敗したという、昨日の夕方と同じ結果が僕の頭の中で導き出された。
 ただし、そう考えつつも出来るならば前者であって欲しいと願っている自分に気付き、僕は苦笑と共にベッドから起き上がる。
 カーテンから差し込む光は昨日と変わり無い冬の朝の日差しで、"彼"が話して聞かせたような怪現象やその前兆的何かは全く感じられない。ほんの一瞬、"彼"のことは夢だったのではないか、という思いも胸を過ぎったが、テレビの中でアナウンサーが溌剌とした表情で今日の日付を口にしているのを耳にし、呆気なく棄却されるに至った。
 いきなり現れて涼宮さんの興味を掻っ攫っていった人間・・・あんな奴を気にする必要なんて全く無いと言うのに、僕は一体どうしたのやら。たとえ世界が上書きに失敗して"彼"が消えてしまったとしても僕には関係ない。むしろ清々すると言った方が正しいのでは?
 そんなことをつらつらと脳内に並べ立てながら朝食を摂る。
 ああ、きっと。もし"彼"が上書きに失敗して存在しないものになったとしたら関わった者として多少の罪悪感に駆られるからこそ、前者であるべきだと願っているのだ。だから別に、"彼"に特別な感情を芽生えさせたわけではない。生憎僕はあの短時間で、しかも頭が可笑しいような話をしてきた人間に友情やそれに似たものを感じられるほど能天気な奴じゃないし、むしろ自分が好意を持つ別の人間を途端笑顔にしてしまえる男なんて歓迎どころかその正反対だ。
「・・・って、何だこれ。本当に言い訳じゃないか。」
 呟き、胸にわだかまるモヤっとしたものに知らず眉根を寄せる。
 何なんだ、この感じ。"彼"に対する嫌悪感、ではないな。そこまでハッキリした感情は持てていないはず。あったとしても幾許かの苛立ち程度だろう。これでもし"彼"があのままずっと僕らと繋がりを持ち、涼宮さんの気持ちを手に入れてしまったならばまた話は別だっただろうが、昨日"彼"は僕らの目の前で消え、彼女は多分に残念そうな表情をしつつも帰路についた。
「もしかしたら今日学校に行ってすぐ涼宮さんに言われるかも知れませんね。SOS団の成立、とか。ああ、その前にまず"彼"――それがアチラの記憶を持つ者かどうかはさて置き――を探しに北高へ向かわれるでしょうか。」
 そう。彼女はきっと一晩中"彼"の消失を残念に思い、そして今日からは"彼"から聞いた話を参考にして実際に行動をしていくに違いない。僕だけではなく、同じく"彼"を知る者として朝比奈みくると長門有希を仲間に加えて。
 昨日初めて目にした彼女の煌めくような顔を思い出し、僕は少しだけ笑った。
 彼女の行動力についていくのは大変だろうし、それよりもキッカケが"彼"であることにかなりの抵抗を覚えもするが、まあそれなりに楽しくはなるだろう。たぶん。いや、きっと。


 登校した僕は朝から不機嫌そうな涼宮さんを目にし、やはり"彼"が消えてしまったことを良く思っていないのだろうと考えながらいつもどおりの挨拶をした。それにプラスして"彼"やSOS団設立の話も。
 だが彼女から返って来た言葉は―――
「不思議を探すための団?何それ面白そうじゃない!でも、」
「どうかしましたか涼宮さん。」
 この時点で僕は現状を理解すべきだった。しかしSOS団設立の話を聞いて目を輝かせる彼女に気を取られ、僕は予想していた彼女と現実の彼女の違いに気付けなかったのだ。
「あのね、古泉くん。古泉くんの話は素敵だと思うんだけど、"彼"って何なの?」
 不思議そうな顔で問う彼女に僕は笑顔で答える。
「"彼"と言えば"彼"ですよ。昨日お会いしたじゃありませんか。『ジョン』と名乗った―――」
「ジョン?誰それ。古泉くんの知り合いなの?」
「え・・・ご存知ないのですか?」
「知らないわよそんなありきたりな名前の外人。」
「そんな・・・ですが涼宮さんが三年前の七夕の時に一度会ったことがあるという話も。」
「だから知らないって。三年前の七夕?あたしは一人で色々やってたわよ。ジョンなんて会ったことも見たこともない。」
 ハッキリとそう言って、涼宮さんは更に続けた。
「それに昨日は古泉くん、風邪で学校休んでたでしょう?もしかして夢の中とごっちゃになってんのかしら。」
 僕が、風邪で休んだ?
 そんなまさか。僕は昨日もちゃんと登校して、涼宮さんに挨拶もして、授業も受けて。そして放課後、彼女と一緒に校門の前で"彼"と出会った。
「あのっ、それでは朝比奈みくると長門有希という二人の北高生は。」
「何?もしかしてその二人も古泉くんの夢に出てきたの?なんだか面白そうだから最初から全部詳しく話してちょうだいよ!」
 涼宮さんは完全に僕が夢の話をしていると思い込んでいる。
 そんな彼女に僕はこの状況が信じられないまま、それでも輝く表情を損ねまいとして昨日のことをまるで眠っている間に見た夢であるかのように話して聞かせた。


 放課後。僕は涼宮さんとの帰宅を取り止め、その足で坂の上の北高へと向かった。もし"彼"がいるならば会って話がしたかったのだ。それで何か解決するのかと問われても僕はハッキリとした答えを持っていない。しかしこの現状に僕はもう藁にも縋る思いだったのである。
 一日学校にいて判ったことは、僕は自分以外の記憶の中で本当に昨日、風邪という名目で欠席だったこと。そして涼宮さんに"彼"との記憶が存在しないこと。この二点だ。しかし当の僕には風邪を引いた記憶など無く、放課後の奇妙な出来事が明確な形として存在している。あれが夢だったなんて到底思えない。
「すみません。」
「ん?光陽学園の奴が何か用か?」
「あの、少しお尋ねしたいことがありまして。」
 すれ違う北高生を観察したり時折"彼"を知らないか尋ねてみたり、そうやって"彼"を探す。
 そうして何度目かに、前髪を上げて額を晒している、"彼"くらいの身長の男子生徒に声をかけた。
「この学校の一年生で『ジョン』もしくは『キョン』と呼ばれている人物をご存知ありませんか?」
「ジョン?キョン?変な名前だなーってかあだ名か?まあどうでもいいけどよ、俺は知らねーな。」
「そうで「おい国木田ー。」
 そうですか、すみませんでした、と言おうとした僕を遮ってその人物は後方からやって来た少々小柄な男子生徒を呼んだ。
「谷口?誰だいその人は。」
「知らね。でさ、お前『ジョン』やら『キョン』やら呼ばれてる奴知ってるか?」
「それあだ名?変な名前だねぇ・・・と、それはさて置き。申し訳ないけどそういう名前で呼ばれてる人は知らないかな。それとよく似た名前も聞いたことないしね。」
「だとよ。悪ぃな。」
 そう言って僕が尋ねた男子生徒――谷口と言うらしい――がこちらに視線を戻し、ようやく僕に喋る順番が戻って来た。
「いえ、お手数をお掛けして申し訳ありませんでした。」
「いいってことよ。じゃ、俺らはこれで。」
「探してる人、早く見つかるといいね。」
「はい、ありがとうございました。」
 谷口くんと国木田くん、二人の背を見送って再び"彼"捜しに戻る。
 また"彼"を知らなかった。一介の生徒が(同じ学校内だとしても)不特定多数の人間に知られている場合なんて殆どないことは頭で理解出来ているが、それでもこう何回も空振りが続くと不安になってくる。もしかして、やはり、"彼"はこの世界に存在していないのではないか。涼宮さんの言っていたことが本当で、僕が"彼"と出会った昨日の記憶の方が偽物なのではないか、と。
 いや、僕が「"彼"は存在しない」と結論付けるまでにはまだ時間がある。自分の中にある気持ち悪さを丸々内に溜め込んでしまう前に"彼"を見つけ出そう。そして話をしよう。
 それだけを思って僕は校門を出て行く生徒達に目を配る。"彼"と同じ一年生と思しき生徒には直接声を掛けながら。
 しかしその日、僕は"彼"を見つけられないまま日が沈むのを見た。


 『"彼"探し』は次の日も、またその次の日も行った。ただし三度目の正直だと臨んだそれも見事ノーヒット。けれど僕は不在の証明の難しさを言い訳に北高の校門前で彼が通るのを待ち続けた。想いを寄せていたはずの涼宮さんを蔑ろにし、"彼"のことだけを考え、"彼"だけのことを想って。
 二日目の時点で朝比奈みくるにも出会ったが、彼女は"彼"のことも僕や涼宮さんのことも全く覚えていなかった。一方、長門有希にはまだ一度も会っていない。このことが酷く引っかかり、三日目からは"彼"と共に長門有希のことも尋ねるようになったが、こちらも"彼"と同じ結果に終わっている。
 今日は四日目。忌々しいことにホームルームが長引き、終わってからすぐに教室を飛び出してきたのだが、周りは光陽学園の生徒で真っ黒に染まっていた。早く、早く北高へ行って"彼"を探さなくては。"彼"に会って話を。
「どうした古泉ぃ。北高に彼女でも待ってんのか?」
 急ぐ僕を見て面白半分に他クラスの生徒から声がかかる。
 全く何を言ってくるのやら。僕が好きな人はこの学園に転校して来た時からずっと涼宮さんだと―――って、あれ?
 僕は今も本当に彼女が好きなんだろうか。
 確かに彼女は見目がいい。頭も運動神経も抜群で、あの性格じゃなければ引く手数多、と言うかあの性格でも引く手は沢山ある。僕もその手を引く一人であるはずだ。なのに、意識してみると僕にはもう彼女と出会った当初の想いが存在していない。頭の中にあるのは"彼"のことばかりだった。
「いやいや、おかしい。そんなはずは・・・」
「古泉?何かあったのか?」
「いえ、別に何でもありませんよ。」
 微笑んで答える。その直後、僕の視界は黒の群れの中から知っているようで知らない部屋の中へと切り替わった。



* * *



 そして僕は戻って来た。
 周りからは奇異なものを見る視線。「手品?」と首を傾げる生徒もいる。けれど今の僕にはそんな周りなんかどうでもよくて、ただひたすらに自覚した感情とその報われなさに唇を噛んだ。
「・・・ちくしょう。」







けれど世界が一瞬だけ交わったその後は、







 手に入れたいと望んだのはすでに他人のもので、しかもその他人は自分とそっくりの人間で。
 どうして僕じゃないんだと、叫び出したくて堪らなかった。








自分の想いに気付くのと"それ"が手に入らないと知ったのは、皮肉なことに全く同時だった。
もし神がいたのなら、そいつは酷く残酷で無慈悲な奴に違いない。