飼犬は主の手を噛んだ
「本当のあなたは何を望んでいらっしゃるのですか。」 色素の薄い真剣な目に射抜かれて俺は心臓が止まるかと思った。 ここは古泉の自室で、しかもベッドの上。俺はこの部屋の主に押し倒された状態でシーツに皺を寄せながらもう何度目かすら判らない行為に及ぼうとしている、そんな時のことだった。古泉がそれまでの熱に浮かされたような瞳を一瞬にして痛ましげなそれに切替えたのは。 そんな瞳のまま奴は俺を見つめ、もう一度同じ事を問う。本当のあなたは何を望んでいらっしゃるのですか、と。 「何のことだ。」 声が震えている。それは仕方の無いことだろう?だってこちら側の情報が、俺の役目が、目的が、目の前の人間にバレてしまったのかもしれないのだから。そうなれば今この場で殺されたって文句は言えない。存在意義を奪われたって。 「誤魔化さないでください。あなたが本心からこうしているわけではないと判らないほど僕は盲目じゃありません。あなたを愛しているからこそ、あなたのことはしっかり見ていたいと思っているんですよ。」 本心から、のところで泣くかと思ったほど顔を歪めて、古泉が不器用な笑みを浮かべた。泣き笑いに近いそれが酷く胸を締め付けてくれやがる。 「そんな顔をしないでください。あなたを責めているわけではないんです。僕があなたに惹かれたのも、こうしてあなたの身体に触れられて嬉しく思うのも本当のことですから。そして出来れば、あなたを苦しめている何かを取り除いて差し上げたいと考えているのも。」 「・・・お前・・・は、何を知ってるんだ?」 俺が隠し事をしていることに気付かれているのは確定。じゃあ古泉はどこまで知っているのか、こちらが隠し事をしていることを暗に認めつつそう問うた。 しかし古泉は、やっぱり何かあるんですね、と泣きそうな顔のまま呟いて首を横に振る。 「何も。僕は――そして少なくとも僕が知り得る限りでは『機関』自体も――あなたが何に縛られているのか知りません。でも言ったでしょう?僕はこの目でずっとあなたを見てきたんですよ。だからあなたに何かあることくらいは気付いています。」 「だからカマかけたってわけか。」 「ええ。そして、それはどうやら成功したようですね。」 「これだから利口な奴は嫌いなんだ。」 「それは残念です。ですが利口だったおかげで僕はあなたにまた一歩踏み込むことが出来る。」 シーツに押し付けたこちらの手を握って古泉が微笑む。 めいっぱい力込めやがって・・・痛いんだよ。くそ、震えるな。お前の方が優位に立ってるんだぞ。なのにどうして小さな子供が親に一生懸命縋るみたいにいっぱいいっぱいになってるんだ。 「それは勿論あなたに嫌われたくないからですよ。こうやって問い詰めている時点で僕はパニックになる寸前なんです。でも例え嫌われたって、あなたがこのまま『何か』に苦しめられているのは嫌ですから。」 「古泉、」 「ほら今だって、あなたに名前を呼ばれただけで死ぬほど嬉しい。このままあなたを抱き締めて眠れたらもう二度と目覚めなくなったって構わないとさえ思っているんです。」 本気だ。 向けられる双眸を見つめ返し、何故かそう思った。古泉は本気だと。『機関』の命令とかはきっと関係なくて(『機関』は俺のことに気付いていないらしいからな)、古泉は古泉一樹として俺のことを想ってくれているのだ。 それが凄く嬉しくて、そう自覚した瞬間、俺はそんな自分にひどく驚いた。嬉しい?古泉に、心から想われて。 瞬きをすると目尻から熱い液体が零れ落ちた。 「泣かないでください。あなたを苦しめたいわけじゃない。」 「泣いてない。」 「泣いているじゃありませんか。」 お前の方が泣いてるだろって言ってもいいくらいの顔で古泉は俺を見た。 しかしその歪んだ顔は瞬き一つでなんとか取り繕われ、近付いて来たかと思えば熱い雫が通り過ぎた道筋に新たな濡れた感触。涙を舐め取るなんて、お前それキザすぎだろ。 距離を詰めたまま古泉は耳元で囁く。 「あなたが望むなら僕は世界を滅ぼす手伝いだってしましょう。それであなたの苦しみが薄れるなら。けれど今あなたが本心から望んでいるのはそんなことじゃないはずだ。」 「―――っ、」 まったく。知らないくせに痛い所を突いてくれる。お前、実は何かと気付いているんじゃないか? 再び離れて視界に納まった見目のいい顔はゆっくりと微笑を浮かべ、甘さと芯のある意志を内包する声で告げた。 「だから、ねえ。言ってください。あなたの望みは?あなたのためなら僕は何だってしますから。」 * * * 長門と朝比奈さん(大)が首を縦に振る。それがあなた(キョンくん)の望みなら、と。 俺の隣では古泉が微笑み、だって僕達はあなたが好きなんですからね、と他の二人に同意を求めた。 「・・・その表現方法で合っている。」 「はい、大好きですよ。」 「自分で言っておいて難ですが嫉妬心が湧いてきますね。」 「古泉、話を脱線させるな。」 「あはは、すみません。」 今日、俺は古泉を含めたこの三人で長門の部屋に集まり、彼らに自分のことを全て話した。自分が属する組織のことも、その目的も、俺がこれからやろうとしていたことも。そしてその上で俺自身の――『役目』ではない――願いを告げた。 その結果が"これ"だ。俺に与えられたのは三人を操るための糸ではなく、彼ら自身の意志で差し伸べられた手。 「でも大好きな人を助けてあげたいと思うのは本当のことよ、キョンくん。だからわたしはキョンくんの願いをわたしが持ち得る力の全てでもって叶えます。長門さんもそうですよね?」 「そう。あなたはただ一言、わたしたちに告げるだけでいい。あなたの本当の願いを。」 「僕も微力ながら出来ることは何だってするつもりです。」 朝比奈さん(大)は優しく包み込むような笑顔で、長門は清流のような澄んだ瞳で、そして古泉は愛しいものを見る目で。自分に向けられるそれらに、俺はとてつもなく泣きたくなる。勿論悲しみや悔しさからじゃない。嬉しいんだ。俺のそれまでの『運命』を打ち砕いてくれる彼らに出会えたことがさ。 なあ、俺はその手を取ってもいいんだよな? 「そうですよ。僕らの手を取ってください。あなたはまだ何もしていない・・・いえ、何だって出来る状態なんですから。さあ、あなたの本当の『願い』は?」 問いかけ、古泉は少々大袈裟に両手を広げてみせる。 お前それ、俺の気を軽くしようとしてくれてるわけ?それともただの癖か?・・・ま、どちらにしろ俺はその手を取ってもいいってことだよな?もう引っ込めたって放しゃしねーぜ。 お前らがいてくれる世界を無に帰すつもりなんて、今の俺にはもう無いんだからさ。 だから、告げる。自分の『願い』を。 「俺は世界を壊したくない。生まれ持った役目なんてくそくらえだ。頼む・・・力を、貸してくれ。」 □■□ 電話越しに伝えられる組織の混乱状態。そして執務室にやって来た複数の足音。 現れた人影――この騒動を起こした者達――に視線をやり、思ったよりも情けない響きの声が口を突いて出た。 「どうして、キヨくん。」 「俺はあんた達の飼犬だったけど、生憎、忠犬にまで成り下がった覚えはない。」 この子は・・・随分はっきりと言ってくれる。裏切られたというのにいっそ清々しさすら覚えるね。自分以外の『中央』の連中は怒り狂ってるだろうけどさ。あ、それともただ慌ててるだけか。まさかこんな事態が本当に起こるなんて予想していなかっただろうから。 「まさか君が裏切るなんて思ってなかったな。」 「それがあんたの素か。今の方が何倍もマシだぜ?」 「そうかい?だったら最初からこっちでいくべきだったか・・・」 本当はそんなこと思ってなんかいないけども。だって『中央』の他の連中のような偉そうな喋り方じゃ君は多少なりとも気を許してはくれなかっだろう? 「ははっ、しかし君からの好感度はどうであれ、見事なまでに飼犬に手を噛まれたってわけだ。・・・実は"これ"こそ『中央』の最も恐れていた事態なんだけどね。でも君には様々な縛りがあったから、まさか本当に起こるとは思っていもいなかった。誰だい?君の心に植え付けられた縛りを解いてしまったのは。」 「あんたにそれを教える必要なんて無いだろ。」 そうは言うけど、君の隣で此方を睨み付けてくる青年―――古泉一樹の視線が全てを物語ってくれているよ。なるほど、彼が君の心を解放してしまったわけだ。君の存在意義を根こそぎ奪って、壊して、そして君の意志を目覚めさせてしまった、と。 ああ、なんて。妬ましく、苛立たしく、恨めしく・・・・・・羨ましいのだろう。 君の意志を最優先にして進んでいけるその強さ。この身には無いそれが古泉一樹にはあったというわけだ。 「・・・飼犬に手を噛まれましたね。」 「まったくだ。古泉一樹、君のおかげで僕の・・・いや、"私"の大切な子供が反逆することを覚えてしまった。責任を取ってもらいたいね。」 口を挟んできた古泉一樹にもきちんと対応する。ほら、そんな強張った顔をしないでくれ。隣にいる大切な子が不安がるだろう?だから言ってるじゃないか、責任を取れって。その子の心を解放してしまったのなら、今後、解放されて傷つきやすくなった分、古泉一樹という人間が守っていってくれなくては。それが責任を取るということだ。私にはもう、それが出来そうに無いからね。 「さあ、そろそろ引導を渡してくれないか。出来れば、」 笑って、愛しい子供を見つめる。 「君自身の手で。」 その手に握られた鉄の塊がただの玩具というわけでもないだろう。 「・・・っ!?」 「な、」 年若い子達の戸惑いが手に取るように判る。こんな状況で微笑んでいられることが信じられないかい?でもこう考えてみてはどうだろう。 「負けた種族は消えるのが定めだよ。」 私達はこの世界を壊し、その上に新しい世界を作る者として誕生した。けれどそれは失敗に終わろうとしている。この生存競争に勝利したのは既存の世界であり我々ではないのだ。そして競争に負けた者にあるのは滅びだと、過去の歴史はどれもこれもそう語っているではないか。 しかし私がそう告げたものの、愛しい子供は右手に握り締めていた銃をズボンのポケットに捩じ込み、 「種族って言うほど大したもんじゃないだろ、『俺達』は。だったら消える必要も無い。」 「君は・・・本当に甘ちゃんだね、"キヨくん"。」 「甘ちゃんで結構。そのおかげで世界もあんたも存続出来るんだぜ。」 なんて魅力的に笑うんだろう、この子は。 こんな笑顔を作れるようになった理由が隣にいる青年を始めとするこの子の仲間達だと言うのなら、私は彼らに嫉妬せずにはいられない。けれど同時に、そんな感情とは正反対に感謝したいとも思える。この笑顔を見た今なら、ね。 あーあ、まいったな。これぞハッピーエンドってわけかい? しかしまあ、悪い気分ではないかな。 |