飼犬は主に頭を垂れた
「・・・なあ古泉、頼みがあるんだが。」 青臭い匂いが充満する部屋の中、俺はこちらに覆い被さり自分と似たり寄ったりの格好をした――つまり半裸で薄らと汗をかいている状態の――古泉の首に腕を回した。やることをやったあとの倦怠感は言い様もないものだったが、俺の仕事は先程の不純同性交遊を含めてまだ続いている。むしろこれからが本番と言ってもいいくらいだろう。それくらい俺がこれから古泉に告げる『頼み』は俺が属する組織にとって重要なことだった。 はい、何でしょう。あなたの頼みなら是非とも叶えて差し上げたいですね。と古泉は幸せそうな顔で笑う。台詞の合間に落ちてくる口付けは後戯にしては少々深すぎる気もするが今更それに何かを思うわけでもない。これくらい古泉とこういう関係になる前から散々慣らされてきた行為だからだ。誰に、かって?勿論『中央』の一員である俺の直属の上司からさ。 この行為に慣れていることをそうとは悟らせないようにするのは言うまでもない。古泉は俺の初めての相手(男・女どちらに関しても)が自分だと思っているからな。まったく、出会った当時はこんなことになるなんてちっとも考えちゃいなかったんだが・・・。当然、古泉自身もそうだろう。予想していたのは俺の上司のみってわけだ。 「ねえ、あなたの頼みって何ですか。」 今度は髪にキスを落としながら古泉が微笑む。俺を『神』の『鍵』であると定義しながらもその神の目を盗んで『鍵』を手にした超能力者は、少なくとも現時点において己の行為に後悔などないようだ。『中央』の思惑通り、見事に『ユダ』の完成である。 そして俺は目の前のユダに更なる裏切りを強請った。 「俺のために、世界を壊す手伝いをしてくれないか。」 * * * 我らは『ノア』―――神が世界を滅ぼした後に新しい世界を築く者達。 それはこの世界を破壊する役目を負った神・涼宮ハルヒが力に目覚めるよりもずっと昔から決められていたことだった。 『ノア』の中心部であり頭脳が結集した『中央』の見解では、涼宮ハルヒとは『神』と称するよりも『破壊神』と呼んだ方が適切な存在であるとされる。何故なら彼女はこの世界を一度真っ白に戻すためだけに生まれてきた存在だからだ。彼女の力が世界を壊し、唯一生き残ることが出来る『ノア』の人間がその更地の上にもう一度世界を創造するのである。 そして、その破壊の引き金を引くのが俺。少女の形をした破壊神の心に触れ、それをズタズタに引き裂くことが自分の役目であり生きる理由の全てであると、俺は物心つく前から教えられてきたし、そうされる以前にはっきりと自覚していた。何故だと問われても上手く説明出来ない。古泉風に言うなら「わかってしまうのだから仕方ない」って感じか。 ただし『破壊神』の周りに『宇宙人』『未来人』『超能力者』が集まってしまった現在、『鍵』一人だけの意思でハルヒの心を壊すことは出来ない。その三者が破壊ではなく安定を望んでいるからだ。 彼らがハルヒに注目する理由は様々だが、今のところの望みはそういうことになっている。おかげで俺一人が何かをしようとしてもそれが安定を揺るがすものならば彼らが妨害してくるのは必至。よってSOS団が結成され始動した頃から俺には追加任務が課せられた。将来『ノア』の邪魔になるであろうそれら三つのエージェント達を懐柔し、こちらの意志に従わせろ、と。 で、それが達成されてしまったわけだ。 最初は情報統合思念体の対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース―――『宇宙人』の長門有希が自分を生み出した親玉を裏切って俺につくようになった。今や彼女は俺の言葉一つで無垢な瞳のまま何だって実行してしまう。 それから長門に続いてこちら側になったのは『未来人』の朝比奈みくる。正確に言えば「大」の方だが。高校生の彼女が今の時代に存在し、また所謂「朝比奈さん(大)」が時折俺達の前に現れる以上、この世界が辿る未来は決定されているようにも思える。しかし朝比奈さん(大)曰く、ここが世界の分岐点になっているらしい。つまり、未来Aから来た朝比奈さん(大)がこの時代の俺に協力し、もう一つの未来Bが誕生するというわけだ。二股のフォークのように。 そして最後に、こちら側についたのが『超能力者』の古泉一樹。前者二人を手中に収めた後、俺と同じくこの世界の人間で閉鎖空間外では普通の人間でしかない彼に関しては、実のところ『ノア』もそれほど(と言うか、全く)重要視していなかった。所詮人間の集まりである『機関』の妨害工作など恐れるに足らないからだ。しかし古泉は俺が何か仕掛ける前にこちらへ歩み寄る態度を見せた。俺の上司が言うにはそれこそが俺の(「涼宮ハルヒによって与えられた」的ではない)能力なんだとか。知ったこっちゃないがな。まあとにかく、手に入るなら手に入れてみようかってことで、俺は古泉が差し出してきた手を取り、こちらへ引き寄せることとなった。結果、あいつは俺の『頼み』を聞いて驚いた顔をしても、その後すぐ「わかりました。それがあなたの望みなんですね。」と言って微笑んだのだ。長門や朝比奈さん(大)と同様に、澄んで綺麗な、けれど狂った瞳で。 これで準備は整った、と『中央』の人間達が告げる。破壊神の少女は『鍵』がその心の奥深くに触れることを許し、本来彼女の安定を維持すべき者達はその役目を放棄した。あとは実行者たる俺が動くだけ。俺がハルヒの心を壊して全て終わりだ。 では、どうやって壊すのか。暴言を吐く?それとも物理的に傷つける?いや、そんなことはしなくていい。言葉も暴力も彼女を壊す道具にはなり得ない。そりゃあ勿論、信頼していた人間から精神的・身体的に傷つけられれば心が壊れることもあるだろう。しかしそれは確実な方法とは言えない。だから俺には確実に彼女の心を壊す手段があった。 重要なのは俺が彼女の心に「触れている」ということ。そう、この表現は決して比喩などではなく、言葉通りの意味を持っているのだ。 俺はただ望むだけでいい。壊れろ、と。涼宮ハルヒという少女の心をズタズタに引き裂くイメージを、彼女が絶望するその様を。 それが『ノア』の実行者たる俺に与えられた能力だ。己を受け入れた存在に絶望を与える力。壊すためだけの、力。 「これで終わり・・・いや、始まりなのか?」 心を壊された少女の力が世界を壊していく。全ては色を失い、やがてその形すら失っていくのだ。 徐々に世界が消滅する様を眺めながら俺は呟き、それから足元に転がる者達へと視線を移した。 「長門、朝比奈さん、古泉・・・」 名前を呼んだ三人は世界と同じくモノクロで、もう既に所々砂が風に浚われるように消滅を始めている。『ノア』以外の存在は世界の消滅が始まると同時に皆こうして動きを止め、色を失い、存在すら消されるのだ。 理不尽だなんて今の俺に言う資格は無い。そしてまた、これはこいつらが望んだことでもあった。それがあなたの存在した理由なら、と。 「なあ、新しい世界ってやつはどんなものになると思う?」 物言わぬ彼らに語りかけるが、当然答えは返って来ない。それでも口を噤む気にはなれなかった。だから俺は感情の向かうまま思考を言葉にする。 「俺は新しい世界の創造に関わる予定じゃないんだけどさ。それは『中央』の仕事だから。・・・でも、」 この手でもう一度みんなを生み出したいってのは、俺の我が侭なんだろうか。 「俺は会いたい。動いて、色があって、狂ってない目の長門や朝比奈さんや古泉に。ただの女の子でしかないハルヒに。・・・会いたい、よ。」 そして俺は何の能力も持たない凡人で、みんなで楽しく騒ぎたい。 なあ、この願いは叶えられるのかな。新しく生まれる世界で。望んでもいいのかな。世界を壊したこの俺が。 問いかけに答える者はいない。ただ色を失くして砂粒のようになった「誰か」の一部が雫の伝う俺の頬をくすぐった。 |