愛犬以上忠犬未満










『あなたを抱きしめてもいいですか?』
 機械越しに、あの子に向けられた言葉が部屋に落ちた。
 この部屋にいるのは自分一人。デスクの上には音声データが一時停止状態のままノートPCの中に留められている。それは先日、あの子の周囲に起きた出来事のまとめとして上がってきた報告の中にあったものだ。
 この言葉を向けられたあの子には盗聴器が仕掛けられている。仕掛けられたばかりの頃は本人には秘密ということになっていたのだが、別段隠すことでもなかったので少し前に彼も知るところとなった。今では仕事の一つとして制服の見えない位置に自から盗聴器を付けてくれる始末。教えたのは自分だが、何とも言い難い気分だ。
 あの子に付けられた盗聴器が拾う音声は『中央』の者および情報管理に携わる者ならリアルタイムで聴くことが出来る。しかし『中央』の一人である自分は一日中送られてくる音声に耳を傾けるわけにもいかず、特別なことがない限りは定期的に上がってくる報告書の添付ファイルとして編集された音声を耳にするのみだった。
 PDFファイルで送られてきた報告書の中にこの声の主のことも書かれている。
 声の主は古泉一樹。『機関』の人間であり、あの"彼女"が作った団体に属する超能力者の一人だ。
「・・・ほら。やっぱり僕が言った通りになったでしょ、キヨくん。」
 あの子の書いた報告書が浮かび上がるディスプレイに焦点を合わせながら呟く。
 この台詞を発した本人は、声の具合から推測するに、まだあの子に本格的に取り込まれたわけではなさそうだ。しかし完全にそうなってしまうのは最早時間の問題だろう。古泉一樹は無自覚ながらにもあの子に惹かれ始めている。いずれはあの子の意思を抜きにして、あの子の言葉に従うようになるのだ、きっと。
 これで三人。全ての駒が揃うことになる。
 あの子本人はまだきちんと自覚していないようだったが、最初に宇宙人、続いて未来人を引き寄せ、そして先日、超能力者を手にする未来をも確定させてしまった。『中央』の計画通りに。
 この超能力者が完全に堕ちた時、自分達の計画は次の段階へと進む。それは喜ばしいこと―――の、はずだ。しかし超能力者の音声データを耳にした今の自分の中にはそれを喜ぶことが出来ない部分があった。
 PCのディスプレイでは「一時停止」が表示されているというのに、脳内で超能力者の声が何度も何度も繰り返される。あなたを抱きしめてもいいですか、と。
「ははっ・・・ふざけんなって感じだよねぇ。」
 己を落ち着かせる意味も兼ねて口から零れた音は普段自分が意識して使っている軽い口調だった。しかしその言葉は大した成果を上げることもなく、この身の内に生まれた苦いものは刻一刻と量を増しているように思える。
 抱きしめてもいいですか、だって?ふざけないで欲しい。何も知らないくせに。(知られては困るから隠しているのは此方だが。)何も解っちゃいないくせに。(まあ理解したとしてもあの子に惹かれるのは最早必然だと思うが。)
 知らず知らずのうちに爪を噛んでいたため、力が入って親指の爪がぶつり、と噛み千切られた。やったあとに気付いてももう遅い。ざらざらとした感触を覚えながら逆の手でデスクの上に設置されていた電話を取る。
 秘書を経由させずに直接相手の番号を押しながら呟いた言葉は、
「だれがてめーなんかにやるかよ。」
 普段の自分からは考えられないほど掠れて、
「このくそがき。」
 苛立ちと醜い独占欲に満ちていた。
 あの子は自分のものだ。渡すものか。



* * *



 お送りした報告書に不備がございましたか、それとも何か口頭で説明した方がよいものでも・・・、と、部屋を訪れたあの子が言う。突然呼び出されたというのに隙がない。流石この仕事を三年以上やってきただけのことはある。元々そういう才能があったのかもしれないが。
 無表情を保つあの子に対し、此方は普段見せている通りの軽い笑みを浮かべ、「ちょっとね。」と答えになっているようでいない言葉を返す。
「ちょっと、ですか。」
「うん。いやね、なんだか突然キヨくんに会いたくなっちゃって。」
「・・・・・・・・・・・・。」
 長い三点リーダが続き、それからようやく「なんですかそれは。」と呆れ混じりの表情が告げた。
 きっとまた此方の台詞をただの戯言だと思っているのだろう。此方の本心も知らず、ただ惰性と冗談半分で続けている無駄な言葉遊びだと。ひどい子供だ。このふざけた口調ですら、あの子が今目の前にいる『自分』と『中央』を分け、他の『中央』の人間に対するよりもずっと砕けた接し方をするため、つまり此方があの子にとってある程度あの子自身を曝け出してもいい人間であると認識させるために、使っていると言うのにだ。
 三年間続けた態度のおかげであの子の接し方は幾分嬉しいものになったが、同時に、この内に渦巻くものをオブラートに幾重にも包んで差し出しても、あの子はそれを本気として受け取らない。
 悲しいことだが、自分はそれでも良かった。出会った当初からあの子がそういうことに疎く、また興味がないことにも気付いていたからだ。しかしそれは過去形であり、現在進行形ではない。
「キヨくん。」
「・・・?はい。」
 椅子から立ち上がり、「こっち、こっち、」と子供を手招きする。
 此方の立場が上であるためか、子供は訝しげな顔をしながらも素直に従い、一歩二歩と近付いてくる。子供は決して小柄な方ではなかったが生憎この身は長身の部類に入るため、間の距離が縮まると必然的に子供の顔は上を向き、黒い双眸が此方を見上げる形になった。それはまるでキスをせがむ仕草にも似て―――。
 この子は自分のものだ。頭の中で自分が嗤う。誰かに取られるくらいなら、いっそ。
「・・・これも、『中央』の決定ですか。」
「僕からキミへの命令だよ。」
 此方が口づけても目を開けたままだった子供はその返答を聞いた後、ゆるゆると静かに瞼を下ろす。わかりました、と全身の力を抜きながら。
(どうせこの行為すらキミは此方側がキミを組織に縛りつけるためのものだと思うのだろう。)
(しかしもう、それで構わないさ。)






















逃げました。(18禁表記から)















BACK