「γ の世界」より
橘京子の場合
こちらがあちらに気付くのと、あちらの彼がこちらに気付くのはほぼ同時だったと思う。彼の同行者はもっと前に気付いていながら、黙って何もしなかったみたいだけど。それはつまり、あたしの接近を許してくれたということ?・・・ううん、それは違うでしょうね。きっとあたしのことなんて何とも思っていなかったから無視していただけなのです。
あちらの彼―――あたしたちとは違う存在を『神』と見る組織の構成員・古泉一樹さんがまるでその同行者を守るように前に出てあたしを睨み付けてくる。以前までなら顔に貼り付けた能面のような笑顔で対処してきたと言うのに、この変化は何なのでしょう。まあ変化の理由はともかく、そうやって守ることに意味なんてないのに。無駄なことですよ、それは。 ねえ、古泉さんはご存知ですか?あなたがその背に庇っている人物、キョンさんはあなたが守れるようなか弱い存在ではないのですよ。あたしの接近にずっと前から気付いておきながらそれを無視できるほど、あたしなんて取るに足らない存在なんだとその態度で示せるほど、とんでもない力の持ち主なのです。 ほら、今だってあたしの手は存在を軽んじられたことに対する怒りと、それ以前に嘗て体感した根源的な恐怖によって今にも震え出してしまいそう。この二人に見られてなるものか、という虚勢だけが震えを押し留めている状態なのです。 今すぐ走ってこの場を去りたいと思いながらも、あたしはその虚勢ゆえに、胸を張って顎を引き、自分でも良い点数を付けられる笑顔を浮かべた。 「こんにちは、お二人とも。奇遇ですね。」 「ああ、そうだな。」 答えたのは古泉さんではなくキョンさんの方でした。予想外に落ち着いた――言い換えれば、敵意のない――声に、あたしも、そして古泉さんでさえ驚いてしまいます。結果としては、キョンさんが気だるさを含んだ微笑を浮かべ、あたしは目を見開き、古泉さんは後ろに庇っていた(と思っていた)キョンさんの方を振り向いてしまったのです。 「・・・あの時とは随分雰囲気が違うのね。」 「あれは特別怒ってたからな。言っとくが、俺は一時の感情をずるずると引き摺るタイプじゃないぞ。」 それに九曜本人とはきちんと和解したし、と付け足してキョンさんは―――全ての『始まり』は薄らと笑う。 「ところで今日は何の用だ?まさかまだ佐々木にハルヒの力を、って言うわけでもあるまいに。」 「あなたのことを知らない"上"はまだそのつもりみたいですけどね。でもあたし個人としてはそんな馬鹿げたこと、とてもじゃないけどもう言う気にはなれません。」 「まあ当然だな。」 「ええ、要らぬちょっかいを出してまた怒りを買ってしまうのは是非とも避けたいわ。今日ここでお会いしたのはただの偶然なのです。」 そう言ってなんとか微笑を取り繕う。 目の前にいる人物は、こうして見ている限りでは本当にただの一般人でしかない。でもその力の一端を見せつけられた者としては、返ってその普通さが恐ろしく思える。この存在の手の上で自分達は踊らされているのだと想像して、あたしは背筋に冷たいものを感じた。 キョンさんから視線を少し移動させると古泉さんの姿が視界の中央に納まる。彼はあたしとキョンさんの会話の意味をいまいち把握出来ていないようで、その顔には不安・・・でしょうか、何やらあまり良いとは言えない表情が浮かんでいるのです。でも背後に庇っているキョンさんに対して負の感情が向くことはなく、嫌なそれらは全てこちらを対象としている、と。 あたしと違い、古泉さんはキョンさんに全幅の信頼を置いているように見えます。それだけキョンさんの態度が異なるということなのでしょう。ならばその違いは何なんでしょうね?ゲームスタート時の立ち位置に寄るもの?そうだとしたらなんて理不尽な。 腹立たしく思いつつも、今この時点で「あたしが知っていて古泉さんは知らない事(キョンさんの一面)」があることに、あたしは多少優越感を感じている。それもまた事実です。ねえ古泉さん、あなたが背中に庇ったつもりでいるその人は気に入らないものに容赦なく恐怖心を植え付けることが出来る存在なのですよ。知らないでしょう?・・・ああ、もしかしなくてもキョンさんのことを未だに一般人と思っているとか。 古泉さんの「背後に庇う」という態度から推測すると後者の可能性の方がずっと高い。けれどあたしの女の勘は、古泉さんはキョンさんが『人間』ではないことを知っていると主張していたりする。それにもし古泉さんがキョンさんの正体を知っていると仮定すれば、この古泉さんの表情の豊かさにも納得がいきます。古泉さんのこの表情の読み取りやすさは言わば『甘え』に違いないのです。自身に絶対的守護がいるからこそ己の内面を外に出しても平気、決して傷つくことは無い、と無意識に感じているというわけ。で、キョンさんの前に出てあたしから守ろうとするのは、強者が弱者を守ろうとするのではなく、そうね・・・小さな男の子がお母さんを守ろうと頑張ってる、という表現が適切かもしれません。 想像すると、以前なら『敵』(しかも『強敵』)だった古泉さんが今や可愛らしい子供に見えてくる。なんだか微笑ましくて、そしておかしい。(勿論この場合の「微笑ましい」は決して好意的な意味ではありませんよ。) 思わず頬が緩んでしまい、正面の二人から訝しげな顔をされました。キョンさんまでそんな顔をするということは、もしかして今、人の心を読んだりしていなのですか。読んでいたならば自分の大切な仲間が貶められたと言って怒りそうですよね。プライバシーを考慮してくださっているのでしょうか。 「何か面白いことでもありましたか?」 「いいえ、特にこれと言うものはありません。どうぞお気になさらず。」 古泉さんの言葉の端々に感じられる敵対心は相変わらずなのに、キョンさんにべったりな子供というイメージが浮かんでしまって微妙な心地。守られていることを感じられる人間なのね、あなたは。羨ましい。 ・・・ん?『羨ましい』?あたしは古泉さんが羨ましいの? そんなまさか、とは思ったけど・・・うん、そう。たぶんあたしは古泉さんのことを羨ましいと思っている。だってこの人は守られているから。あたしだって、嫌われるより、その他大勢と一緒にされるより、やさしく包み込むような腕に守ってもらいたい。当然じゃないですか。だってあたしは神でも何でもない、超能力者モドキだけど、とにかくそれ以外は普通の人間の女の子なのです。 自覚した途端、自分を覆っていた虚勢が剥がれ落ちていく感覚に襲われた。『神様』に捨てられたあたしはどうすればいいの?どうすれば、そのやさしい腕の中に迎え入れてくれますか。謝れば許してもらえるのですか。 虚勢を張れなくなった心は脆い。 表情を見られたくなくて俯けば、二人から戸惑っているらしい気配が伝わってくる。でもあたしはこれからどうすればいいのか解らない。と、その時。 「もういいから。」 「・・・え?」 ぽん、と頭の上に何かが乗った。手、ですか?これは。一体誰の。 それほど力が加えられていないはずなのに顔を上げることは叶わず、あたしは相手が見えない状態のまま彼の―――キョンさんの声を聞いた。 「反省してるならそれでいいって言ってんだよ。あとで朝比奈さんに謝るならもっといいけどな。まあ、気が向いたら俺に言ってくれ。その時は同伴させてもらうからな。」 髪型を崩さない程度の弱さでぽんぽんと二回ほど叩き、手がゆっくりと離れていく。顔を上げれば微笑んでいるキョンさんと、その後ろに不機嫌そうな古泉さん。ああ、それは大好きな人が他人を構ってばかりで面白くないって顔よ、古泉さん。でもあなたの気持ち、今なら解ります。だってそんな顔を見られるあたしはすっごく優越感を感じているから。気持ちを自覚する前とは比べ物にならないくらいにね。 キョンさんを見つめてあたしは微笑む。 「ありがとう、許してくれて。」 「どういたしまして。」 おどけた調子でわざわざ返してくれるのには何か理由があるのでしょう。九曜さんあたりが関係しているのかしら。 先刻までとは打って変わってほんわかした気分になりながらキョンさんと向かい合っていると、ふとキョンさんが何かに気付いたように古泉さんを振り返った。同時に、古泉さんが一瞬で表情を取り繕う。と言うか・・・蕩けてますよ、古泉さん。 「古泉、時間だ。早く行かんとハルヒが怒る。」 「そうですか、残念ですね。折角、珍しくもあなたと一緒に散策が出来ていたというのに。」 古泉さんのオーバーリアクションにキョンさんは苦笑で返す。それ気持ち悪いぞ、と付け足しながら。 音だけを聞くと随分直接的な嫌味なんだけど、二人の表情からこんなやり取りが日常的かつコミュニケーションの一つであることがはっきりと伺える。何だか妬けますね。いえ、キョンさんに気持ち悪いって言われたいわけではなくて!あたしはマゾじゃありませんからっ!! と、あたしが内心で誰かに慌てて言い訳をする傍ら、キョンさんが再度こちらを見て目を眇めた。 「俺達は現在進行形で団活中でな。集合時間に遅れると死刑なんだ。」 「そう言うわけで、これで失礼させていただきます。」 微笑を浮かべた古泉さんがキョンさんを促して背を向ける。そしてちらりとこちらを一瞥。 「っ!」 それを見せられてあたしは思わず唇を噛む。 ああ憎たらしい、その嬉しそうな表情!あたしよりキョンさんに近い位置にいられてそんなに嬉しいですか!ええ嬉しいでしょうね!今はっきりと解りました。『機関』なんて関係なくてもやっぱりあなたは敵です!古泉一樹さんっ! 気分的に「お母さん(キョンさん)は渡しません!!独り占め禁止!!」な橘さん。 |