「γ の世界」より
朝比奈みくるの場合
新しい学年が始まってしばらく経ち、各部活動の新入生勧誘も一段落ついたある日の放課後。
わたしはいつもどおり文芸部部室の扉を開けた。 「こんにちはぁ。遅くなりました。」 「こんにちは、朝比奈さん。」 「こんにちは。」 「・・・・・・。」 扉の向こうには既に涼宮さん以外の団員が揃っていて、こちらの挨拶には順にキョンくん、古泉くんと返事が返ってくる。長門さんは普段どおりに無言のまま、それでも視線だけはこちらに向けてくれた。けれどやっぱりちょっと苦手感が拭えなくて、ビクリとしてしまった。ごめんなさい、長門さん。あなたのことが嫌いなわけじゃないんです。凄く頼りになる素敵な方だとは思ってるんですけど・・・。 心の中で謝りつつ、わたしと入れ違いで部屋を出て行こうとする男の子二人に微笑を向ける。二人揃って出て行くのはこれからわたしがメイド衣装に着替えるため。いつものこととは言え、申し訳なく思う。ごめんね、そしてありがとう。 キョンくんと古泉くんは「ゆっくりしてくださいね。」なんて気遣いの言葉を掛けてくれながら、仲良く部屋を出て行った。そこでふと違和感を覚える。なんだか妙にキョンくんと古泉くんの仲が良いような気がしたから。今まで・・・そう、新しい学年が始まる前だったら、キョンくんはもっと古泉くんと物理的にも精神的にも距離を取っていたし、古泉くんだってつい一・二週間前までだったら、もう少しキョンくんへの接し方が硬かったような気がする。それが今やキョンくんは古泉くんをもっと深い所まで受け入れているような感じで、古泉くんはキョンくんが涼宮さんの"鍵"って理由以外にも何か他の部分で彼に頼っているような・・・そんな、感じ。 放課後、部活で顔を合わせる度に目にしていた二人の様子から、そして今の寄り添い方から、わたしはそう思った。もしかしなくてもわたしの知らないところで二人に何かあったのかな。もっと仲良くなれるような何かが。 学年が一つ上の先輩として前より仲良くなれた二人を嬉しく思いつつ、でもその一方でわたしの知らない何かがあることにちょっと悔しいなぁって思ってしまう。それとなんだか古泉くんにキョンくんを取られちゃった(と言ってもキョンくんがわたしのものだったってワケではないんだけど)って感じてしまって、悲しいやら、自分の考えに恥ずかしいやら。 頬を押さえて無言であわあわしていると、パラリという本のページを捲る音がして、わたしは現実に引き戻された。はっとして音のした方に視線を向けると、長門さんが無言で分厚い本に視線を落としていた。わたしの奇行には一切関知しないらしい。ホッとして、それから扉の向こう側にキョンくんたちが待っていることも思い出し、わたしは慌てて着替え始めた。 数分後、手早く着替えたわたしは髪とスカートの裾を撫でて直してから、廊下に出ている二人に声をかけた。 「お待たせしました、どうぞ。」 扉を開けた先で佇んでいた二人はどうやら直前までお話をしていたらしく、わたしの顔を見て少し驚いているようだった。いわゆる男の子同士の秘密の話とかそういうものなんでしょうか。いつも笑顔を保ってるはずの古泉くんが珍しく驚愕の表情を浮かべ、そして慌てて修正するのが見えた。けれどキョンくんはそんな古泉くんとは反対に、特に驚いた様子も慌てた様子もなく、わたしを見て「わざわざありがとうございます。」と顔を綻ばせた。 キョンくんの笑顔ってなんだか、ほわんって感じがする。見ているこっちが恥ずかしくなるくらい優しい表情で、ああこの人はわたしを受け入れてくれてるんだなぁって実感させてくれるから。それはきっと宇宙人である長門さんや超能力者である古泉くんにとっても同じなんじゃないかな。もちろん涼宮さんも。視線全部が全部同じ思いを込められてるわけじゃないけれど、それでも自分という他とは違う存在を受け入れてくれてるってのは実感できるもの。 でも何だか最近、その視線が少し違ってきたような気がする。具体的には言えないんだけど・・・そう、今までのキョンくんがわたしに向ける視線には、本当に"普通"の高校生が女の子に対して「守ってあげなくちゃ」っていう感情が見え隠れしていた。年相応の男の子が思うような、ときどき事態の大きさに余裕が失われてしまうような。でも今はその危うさみたいなのが無くなって、何があっても圧倒的な大きさで包み込み、全てから守ってくれるような・・・。ちょっと可笑しな例え方をすると、今までお姉さんを守ろうとする弟くんポジションだったのが、お父さんポジションになったって感じかな。もしくは大きくなってお姉さんとの年齢差なんか関係ないよって、そう言えるくらい立派な男性になった感じ? 部屋に入り直してボードゲームを始めたキョンくんと古泉くんを眺め、わたしは声に出さず笑った。自分の考えが可笑しいのと、前よりも近くなった二人がやっぱり錯覚なんかじゃないよねっていう確信のせいで。 「朝比奈さん?どうかしました?」 「ううん、なんでもないの。今すぐお茶、淹れますね。」 今日は将棋をするみたい。 キョンくんが肌色に塗られたプラスチック製の駒を持ったままこちらに顔を向けたから、わたしは微笑んでそう返す。「ありがとうございます。」と対戦スタート直前の二人から笑みと言葉が返ってきて、ついつい嬉しくなってしまった。 さあ、お茶の用意をしないと。今日は何がいいかな。 * * * SOS団の男子二人の、特にキョンくんの変化に気付いたその次の日。 当然授業があって、それも通常通りに行われるのだから、放課後はSOS団の活動もある。 涼宮さんは屋外行動を思いつくことがなかったらしく、五人部室に揃ってそれぞれ時間を過ごしていた。わたしはみんなのお茶を淹れたり、最近興味を持ち出した刺繍をやってみたり。涼宮さんはインターネットサーフィンで、長門さんは広辞苑みたいな部厚い本を膝の上に載せて読書。キョンくんと古泉くんは昨日に引き続き将棋だった。 長門さんが本を閉じるのと同時に今日の団活は終了で、わたしが着替えるのを待ってみんなで下校となった。 坂を下りる間、涼宮さんとわたしが先頭、そのすぐ後ろに長門さん、そして少し離れてキョンくんと古泉くんが続く。いつの間にこんな並び方になったのかわからないけれど、気付いた時にはこういう風になっていた。わたしはひたすら涼宮さんとお話・・・と言うか何と言うか、涼宮さんがわたし"で"遊んでいると言うか。うーん。・・・何はともあれ、涼宮さんはとっても楽しそうだし、わたしも楽しいから問題は無いんだけど。 長門さんは今日も本を読んでいる。涼宮さんがたまに振り返って話しかけると「うん」とか「そう」とか、短い言葉で答えるんだけど、本を読みながら人の話が聞けて、しかも躓いたりせずに歩けるっていうの、すごいなぁ。わたしだったら絶対すぐにコケてしまうと思う。 少しだけ後ろを振り返って見てみると、キョンくんと古泉くんは二人で何か話してるみたいだった。本当に仲が良いなぁ。でもやっぱりこんな時でも、前と比べると少しだけ違ってるって感じる。まずキョンくんが古泉くんの接近を嫌がってない。本心からだったのかそれとも本当にそう感じているわけではなかったのか判らないけれど、例えもし表面上であったとしても今までのキョンくんならすごく嫌そうな顔をしていたはずなのに。まあ、だからって嬉しがってるってわけでもないみたいなんだけど・・・。どちらかと言うと、許容してる、とか。そんな感じだと思う。 そして古泉くんも違う。本当にキョンくんたちと同じ年頃なのかなぁ大人っぽいなぁって感じていたのが、ほんの少し弱まったみたい。大人っぽさを少しだけキョンくんに移したような感じ、なのかな。あと、どことなく本当の意味で楽しそうな笑顔だよね。心身共に良好ってことなのかな。涼宮さんの閉鎖空間は相変わらず夜中に度々発生するみたいだけど、この前アルバイトが中止になって文芸部部室帰って来た時に古泉くんが言ってた"物凄い助っ人"に何か関係があるのかも知れない。『未来人』や『超能力者』もしくは『機関』っていう括りじゃなくて同じSOS団の団員として、そして同じ学校の上級生として、古泉くんが無理しなくてもいい状況っていうのは嬉しいことです。 一度"変化"に気付いてしまうと、どんどん他のことにも気付けるようになってくるみたい。その変化は今のところ、わたし個人としてはとても喜ばしいこと。でも涼宮さんを中心とするそれぞれの派閥から見たら異様なことなんだっていうのはわかる。それぞれの派閥の代表として涼宮さんに接触しているわたしたちは、それ故に涼宮さんを中心としているはず。けれど実際、今のこの状況はどうだろう。本当に涼宮さんが中心と言えるかな?SOS団の団長という意味では涼宮さんが中心だけど、涼宮さんが気付いていない"わたしたち"の中心というのが、ズレてきているような・・・。 そう。もともと一年前にみんなが集められたその瞬間、わたしたちは涼宮さんが中心だと信じて疑っていなかった。でもすぐにわたしも長門さんも古泉くんも、そして涼宮さんも一人を見るようになっていたのは、もう弁解も何もする気が起こらない事実。あの時から、わたしたちの中心は確かに涼宮さんから違う点へと移行し始めていた。けれどその速度はとてもゆっくりで、一年経ってもあまり目を瞠るような変化は無かったのに―――。 古泉くんの変化は異常。もはや彼の中心は涼宮さんだなんて、絶対に言えない。 そしてその変化に呼応するかのように、もしくはその変化の呼び水になったかのように、キョンくん自体が変わりだした。・・・移行しかけていた"中心"それ自体がついに動いたの。とても、大きく。 「朝比奈さん?どうかしましたか?」 「えっ!?う、ううん!なんでもないの!」 古泉くんと会話していたキョンくんがわたしの視線に気付いてそう訊いてきた。慌てて答えて前を向き直したけど、後ろから視線を感じる。 ほんとうに何でもないですから!と言うかわたし、どれだけキョンくんたちのこと見てたんだろう!?えっと、涼宮さんが気にした様子も無かったし、そんなにあからさまな態度じゃなかったよね・・・? 「みくるちゃん?」 と思っていたら、涼宮さんからも問いかけと視線が。今のって、キョンくんが訊いてきたから涼宮さんも反応したんですよね?うん。そうですよね。 「いえ、なんでもないんです。ちょっとぼけっとしちゃってたみたいで。」 「そう?バイトしてる古泉くんもそうだけど、みくるちゃんもあんまり無理しちゃだめだからね?SOS団の団員は健康ってことも重要事項なんだから!」 「はい。大丈夫ですよ。」 「ならいいわ。あ、もし何か悩み事があるんなら遠慮なくあたしに相談しなさいっ!団長の務めとしてしっかり解消してあげるわ!」 「ありがとうございます。もし何かあったらお願いしますね。」 「任せなさい!」 キラキラとした笑顔でそう言ったあと、涼宮さんは振り返って他の三人にも顔を向けて「あんたたちも何かあったらすぐあたしに相談するのよ!」と団長命令を下す。長門さんの表情には変化無し。古泉くんはわたしと同じように「ありがとうございます。」と告げ、キョンくんは苦笑しつつも「おう。」と答える。 涼宮さんはその反応で満足したらしく、また前を向いて上機嫌のまま別の話題をわたしと長門さんに振りながら坂道を歩いていった。 分かれ道にまで辿り着き、わたしたちはそれぞれの岐路につく。キョンくんたちとも今日はここでお別れ。けれどわたしは自分の家の方向へ少し歩いたあと、また道を戻ってキョンくんの背中を追いかけた。 「キョンくん!」 「朝比奈さん?」 呼び止めて、立ち止まったキョンくんのところまで小走り。キョンくんは驚いたみたいだったけれど、表情をすぐに驚愕から笑顔に変えて「どうしたんですか?」と穏やかに問いかけた。あ、わたしがこんな風にキョンくんを追いかけてきても「未来関係でまた何かあったんですか!?」って感じに慌てたりしないんだね。 ちょっとだけ乱れた呼吸を直し、わたしはキョンくんを見据える。 「いきなりこんなこと言うのもおかしな話なんだけど、その、」 「はい?」 深呼吸を一つ。 「キョンくん、何かあったの?」 「特に、これと言ったことはありませんよ。」 即答だった。 穏やかな笑顔のまま、本当に何もないんですよって表情。でも見ていて解ったの。何かあったのは確実だということが。 キョンくんはきっと、わたしがこの変化に気付いてることに気付いてない。だからこんな風に気を使ってくれてるんだろう。一時期わたしが何も出来てないって落ち込んでたことをキョンくんは知ってるし、その時のわたしを慰めてくれたのもキョンくんだったから。だからきっと何かあって、それでわたしに余計な心配をかけないようにしてくれてるんだと思う。嬉しいけど、・・・もどかしいなぁ。でももし、わたしは気付いてるんですよって言ったらキョンくんはどうするんだろう。誤魔化すのかな、本当のことを教えてくれるのかな。 古泉くんはその本当のことを知ってるんだよね。もしくは実際に関わってる。 「どうしたんですか、朝比奈さん。朝比奈さんの方こそ何かあったんですか?俺に出来ることなら何だってしますよ?」 「ううん。わたしの方には何もないの。いつもどおり。」 「それならどうして・・・」 「何かあったのはキョンくんの方じゃないのかなって、ちょっとそう思ったから。」 「・・・俺、ですか。」 「うん。あのね、古泉くんと何かあった?」 以前よりずっと仲良くなってるし、いろいろお話してるよね。詮索するわけじゃないけど、もしよかったら教えて欲しいなぁって。 そう言うと、キョンくんは「ああ。」と納得したように一度頷くと、人差し指を立てて口元へ持っていった。 「キョンくん?」 首を傾げて名前を呼ぶと、キョンくんはクスリと口端を緩く持ち上げる。 そして。 「禁則事項ですよ。男同士の秘密ってことで。」 もう。 そんな風に無邪気な笑顔を向けられちゃったら「はいそうですか」で諦めるしかないじゃないですか。絶対にキョンくんは言わないっていうのと、その"何か"は大丈夫なものだからっていうのが解ってしまうから。 「すみません。」 そう言ってキョン君は頭を下げる。 代わりと言っちゃあ何ですが送って行きますよ、と告げる言葉に、そうしてわたしは頷いた。 キョンが『特別』だったということに、みくるちゃんは最初から解っていた・・・とか。 特別な感知能力が無い分、そういうことに誰よりも早く(なんとなく)気付いていればいいなぁという夢。 あと、その気は無かったんですが、みくるちゃん視点の古キョンに見える罠。 |