γ の世界」より

古泉一樹の場合






 携帯が甲高い電子音を奏でる。うるさい。眠い。でも眠っていられないことは自分身が一番よく解っている。
 だから僕は閉鎖空間が発生する度に己が取るべき行動を連絡してくるそれを、未だ三割ほど夢に浸かったままの頭で確認した。
「・・・・・・・・・またですか。」
 出勤決定。ついでに寝不足も決定、と言っておこうか。
 神人退治の参加要請を伝えるメール内容にうんざりとそう呟いてベッドから抜け出る。カーテンの向こう側はまだ暗く、ちらりと見た時計は本日をあと21時間ほど残すような時刻だった。
 出かける準備をしながら思う。最近、閉鎖空間の発生件数が多くなってきている、と。実のところ、涼宮ハルヒが中学生だった頃と比較すればそれほど変化したわけではない。しかし高校に入学してから、もっと正確に言うと「彼」と親しくするようになってから、その件数は格段に抑えられるようになっていたのだ。
 これが複雑な乙女ゴコロというものなのだろうか。はてさて。可愛らしいと言うべきか、面倒だと言うべきか。
 早々に着替えを済ませ、テーブルの上に放り出してあった馴染みの固形栄養補助食品(フルーツ味)を引っ掴んで部屋を出る。鍵を閉めてエレベータの昇降口へ。一階の玄関ホールに辿り着けば、すでにマンションの前に黒塗りのタクシーが横付けされていた。(それにしても一介の高校生が住むにはここは少しばかり立派過ぎる建物だと思う。まあそれも涼宮ハルヒから見た『古泉一樹』のイメージ作りのためではあるのだが。)
「ご苦労様です。」
 僕と同じく超早朝出勤の運転手に一声かけて乗り込む。返されるのは目礼。
 そして車は目的地へ向けて静かに走り出した。


 車内で随分早めの朝食を摂っていた最中、再びポケットの中の携帯がメールの受信を伝えてきた。
 一体何だろうか。もしかして伝え忘れたことでもあったのか。それとも不測の事態が・・・。そう思い小さな液晶画面に目をやると、少々信じ難いメッセージが表示されていた。
「・・・中止?閉鎖空間が自然消滅した・・・?」
 そんなことがあるのだろうか。確かに現時点で閉鎖空間の存在を確認することは出来ないが、一度発生したそれが神人狩りをせずとも消滅するなんて今まで体験したこともない。涼宮ハルヒの降下した機嫌を再度上昇させることによって空間の拡大を防ぐことは可能である。しかしそれだけだ。完全に消し去るのは僕達の仕事。そうであったはずなのに―――。
「お仕事は中止ですか?」
「あ、はい。すみません、せっかく来ていただいたのに。」
 言うが早いか、車がもと来た道を戻り始める。
 納得出来ずとも機関が中止と言えば中止なのである。むしろ睡眠時間が少しでも多く取れることを喜ぶべきなのかも知れない。
 無駄足を踏んだ感は否めないが、明日・・・否、今日も学校があるのだし、とりあえずそう思うことにして残っていた最後の一欠片を口の中に放り込んだ。
 陽はまだ昇らない。しかし「今日」はもう始まっている。
 そして僕のあずかり知らぬところで「世界」も始まっていたのだ。その片鱗を片鱗だと理解しないままに。



* * *



 月曜日。
 春休みのある時点から寝不足気味な頭を持て余しつつ、しかし昨日よりは少しだけ回復させることが出来て、新しい一週間の始まりを迎えた。
 桜の花弁が舞うこの時期はどこのクラブでも新入生の勧誘に忙しく、放課後にグラウンドへと視線を向けるだけで仮入部の一年生達に必死にアピールする運動部所属の上級生や同級生の姿が見受けられる。
 なにもそんなに頑張らずとも・・・。と言うのは胸に秘めておくべき台詞だろう。そんな感情は口にも顔にも出さないが、視線だけはしっかりと外す。
 最近立て続けに出動要請が出ていたためか、重くなった頭では必要以上にそんな彼らが煩わしく感じられた。そして僕も一般的な人間として、煩わしさを感じるものをわざわざ視界に捉えたいとは思わないのである。
 授業は午前午後と滞り無く進み、放課後がやってくる。ここからが僕の本番とでも言うのであろうか、窓から視線を外して殊更己の表情を意識する。古泉一樹というキャラクターに相応しい微笑を湛え、服装を正し、そうして僕は部室のドアをノックした。


 部室にいたのはいつもどおりの面々で、涼宮ハルヒだけが不在だった。また何かをしでかすつもりなのだろうか。もしくはその「何か」の種になる面白そうな出来事でも探しているのか。
 見渡すまでもなく、狭い部室の中には部屋の備品かとも思えるほど気配の薄いヒューマノイド・インターフェースが壁際の椅子に座って本を読み、可愛らしいと称されるであろうメイド姿の未来人がこちらの存在を認めてお茶の用意に取り掛かり、そして彼も例によって例の如く普段と変わらぬ様子でいつもと同じ席に腰掛けていた。
「こんにちは。涼宮さんはまだ来ていらっしゃらないみたいですね。」
「ああ。ホームルームが終わってすぐに素っ飛んで行ったからな・・・。どうせ今頃、新入生漁りでもしてるんじゃないか。もうしばらくは戻って来んだろう。」
「なるほど。実に涼宮さんらしい行動力ですね。でもまぁとにかく、彼女が楽しんでいるなら僕はそれで構いませんから。」
「本当に何でもかんでも肯定的だな、イエスマンめ。」
 一年近くが経ち、すでに指定席と化している彼の正面の席に着きながら他愛ない言葉の応酬を交わす。
 いかにもやる気のなさそうな声で告げられる皮肉の言葉に苦笑してから、タイミングよく運ばれてきたお茶に手を伸ばした。
「いつもありがとうございます。」
「いえ、そんな。美味しければ良いんですけど・・・。」
「美味しいですよ。僕なんてただの色水になってしまいますし。っと、これは失礼。僕と朝比奈さんでは比べるのも申し訳ないくらいですね。」
「えええ!?そんな、えっと、その・・・ありがとうございます。」
 最後は消え入るような声音で告げる上級生に笑顔を向けてまた一口お茶を啜る。きっと今正面に向き直れば「気に食わない。」という文字を顔にありありと浮かばせている人物を見ることが出来るだろう。
 目の前の童顔の上級生を非常に敬っている彼の心情を予想し、笑みが深まるのが分かった。
 だから本当に正面へと向き直って彼の顔を見た時、僕は少しばかり驚いたのだ。
「どうしました?僕の顔に何かついてますか。」
「いや。相変わらず憎らしいくらいに整った顔だとは思うが、特に言いたいこともないな。」
「ふふ、ありがとうございます。どういう意図からそんな台詞を告げてくださるのか解りませんが、とりあえずお礼だけは言っておきましょう。」
「ああそうかい。」
 そう言って締め括る彼の表情は普段と同じ面倒臭そうな、そして気だるげなもの。僕と朝比奈みくるの会話によって不快感を得たとは到底考えられないその様子に肩透かしを食らったような気がした。
 ずっと僕の顔を見ていたらしい彼は付け加えるように「今日は少しばかり元気そうだな。」とポツリと零す。表情が表情なだけに喜んでくれているのか皮肉っているのか判り辛いところだが、やはりここは前者を取りたいと思う。わざわざ後者にして気分を害す必要もない。
 どうやら先程の顔がどうとか言うやつは、僕の調子を心配してくれていたことを誤魔化すためのものだったようだ。先日の文化系クラブ仮入部受付兼部活説明会の時に僕が漏らした弱音を覚えていてくれたのだろう。あの時のことを思い返してみても、僕は様々な意味で閉鎖空間のストッパーであり時に間接的発生源でもある彼に少しばかり余計に頼りすぎているのかも知れない。
 ここで正面切って「心配してくださっていたのですね。ありがとうございます。」などと言ってしまうと、また彼の機嫌を損ねる結果になることは目に見えているので、態度としてはスルー。何でもない風にボードゲームが詰め込まれたロッカーへと移動してその中から一つを選び出す。
「今日はオセロでもいかがですか。」
「そうだな。付き合ってやるよ。」
 了承が得られたそれを持って僕は座席へと戻った。
 さっそく緑色の盤を広げ表裏を白と黒に塗り分けられたマグネットを持つ。色は彼が白、僕が黒だ。
 パチリパチリとプラスチックのぶつかる音を立てながら盤上をモノクロに塗り替えて行く。
 そんな最中、朝比奈みくるの携帯が着信を告げた。メールではなく電話だったそれの発信源はなんと涼宮ハルヒらしい。ほんの僅かな会話と言うよりもほぼ団長の一方的な連絡で終わり、沈黙した携帯を鞄の中へと仕舞った未来人はおずおずとした様子で長門有希に声をかけた。
「あの、長門さん・・・」
「なに。」
「えっと、涼宮さんがこっちに来てって・・・大至急。」
「そう。」
 パタンと本を閉じ、宇宙人が席を立つ。彼は部室を出て行こうとする彼女達に視線をやり、小首をかしげた。
「朝比奈さん?長門?どうしたんすか。」
「なんだかわからないんだけど、涼宮さんが今すぐ来てって。あたしと長門さんに。新入生がどうとか言ってたんだけど・・・」
「俺も行きますか?」
「ううん、大丈夫だと思う。キョンくんたちはここで待ってて。」
「・・・わかりました。」
 会話が終わると長門有希が無言で先に廊下へと出て、続いて「いってきます。」と微笑みながら手を振り朝比奈みくるが出て行った。もちろん彼もそれに手を振り返して見送る。
 扉が閉まるまで手を振っていた彼は次いでこちらに向き直り、僕の顔を見て盛大に顔を顰めた。
「なんだ古泉。何も無いなら不必要に笑顔を向けるな。」
「いえ、ただ微笑ましいなぁと思いまして。」
 常の彼がしそうなその仕草に、先程の僕と朝比奈みくるの会話の後に感じた違和感は簡単に払拭される。やはり彼はいつもどおりあの上級生を些か過剰に愛らしく思っているようだ。
「朝比奈さんがか?当たり前だろう。あの方の一挙手一投足を微笑ましいと思わずして何をそう思うんだ。」
「・・・はは、そうですね。」
 いやいや、ちょっと待ってくださいよ。思わずそう口を滑らせそうになった。これはわざとボケているのだろうか、それとも天然なのか。
 確かに朝比奈みくるの動作はいちいち微笑ましく愛らしい。だがしかし、こちらがはっきりと隠しようもなく彼を見ているというのにそう来るか?普通は彼の嫌がる顔が返って来るものだと思うのだが・・・。「何が"微笑ましいなぁ"だ。気色悪い。」とか。
「古泉?」
 こちらの困惑を感知したのか、眉間に皺を寄せて彼が疑問系で名を呼んだ。笑みを張り付かせた顔を胡散臭そうに眺めて、最終的には溜息を一つ落とす。
「何か言いたげだな。」
「そんなことありませんよ。」
「・・・そう言うんなら別に構わんけどね。」
「そうですそうです。さあ、ゲームの続きをしましょう。」
 訝しむ彼を誤魔化すように次の手を促す。女性二人を見送っていたために彼の番で止まっていたからだ。
 白い駒が新たに一ヶ所緑のマス目を埋め、そこからパチパチと軽快な音を立てて黒を白く反転させていく。白優勢で止まっていた勝負だが、再び開始されたことにより白勝利の未来が更に確かなものになってきていた。
 そして勝敗は決する。盤面はほぼ白で埋め尽くされていた。
 大抵のボードゲームにおいて僕は彼に負けてしまうが、ここまで圧倒的な差をつけられるのも珍しい。
「参りました。本日はいつも以上に冴えてますね。」
「そうか?寝不足でお前の頭の回転数が落ちてるからじゃないのか。」
「昨晩はある程度きちんと眠れましたよ。一度は神人狩りに行かされそうになりましたが。」
「・・・まるで実際には行かなかったような口ぶりだな。」
 一瞬の間を開けて返された台詞に僕は苦笑を漏らす。
 本日未明のことを思い出し、ついでにあの奇妙な出来事に対する疑問が再び湧き上がってきた。
「事実、行きませんでしたからね。不思議なこともあるものですよ。閉鎖空間が自然消滅してしまったんですから。」
「お前らが神人を倒さないと消えないアレか。」
「ええ。僕個人としては睡眠時間が増えて非常に有り難かったのですが、上はてんやわんやですよ。こんなこと今まで一度もありませんでしたから。・・・また何か涼宮さんが始めるのではないかとね。冷や汗タラタラでしょう。」
「その割には、機関所属のお前は落ち着いているように見えるがな。」
「実際落ち着いてますしね。・・・何と言いましょうか。上は結構騒いでますけど、そんな必要は無いと思うんです。以前世界が一度改変されそうになった時のような嫌な感じはしませんし、どちらかと言うと我々に好意的なもののような気がするんですよ。全くもって奇妙なことです。何なんでしょうか。」
 最後に肩をすくめてそう言ってみせると、彼からは「知らん。」と実に素っ気無く返された。まぁそれもそうだが。機関にも解らないことをそう簡単に彼が知っているはずもない。
 しかし、と彼は続ける。
「よく解らん理由で閉鎖空間が消えたために、お前は少しばかり寝不足が解消されたわけだ?」
「そうですね。涼宮さんか、それとも何処かの誰かのおかげかも知れませんが、とにかくマシにはなりました。出来るならばもう少し早く消滅していただけると、夜中にベッドから出る必要も無くなってとても助かるんですけどね。」
「そんなこと言って良いのか、エスパー少年。」
「いいじゃないですか。僕個人の意見ですし。」
「ふーん、なるほどね・・・。」
 呆れるでもなく面白がるでもなく、ただ事実だけを記憶するかのように彼はそう呟いた。


 彼に閉鎖空間消滅の件を話したその日の夜。またもや涼宮ハルヒは機嫌を悪化させたらしく、閉鎖空間の発生を感知した直後に携帯がメールの着信を告げた。
 反射的に枕元のそれを手にとってディスプレイを睨み付ける。ついでに時刻も確認して、また昨日のように中止になってくれはしないだろうかと考えてしまった。
 と、その時。
「・・・マジですか。」
 安っぽい電子音を奏でて携帯が新しいメールの着信を知らせた。そして届いた内容に絶句する。
 メールボックスの一番上に存在するメッセージには確かにこう記してあった。「閉鎖空間消滅。任務中止。」と。
 発生から一分足らずで消えてしまった灰色の世界。メールの内容を裏付けるかのように自分自身の感覚も閉鎖空間の消滅を告げている。
 昨日は発生から消滅まで十分弱かかったのに、今回はその十分の一だ。他の仲間も今の僕と同じように呆けているに違いない。二度目の、そして更にパワーアップした感じのするこの事態に。
 だがそれを解決すべき疑問と感じる前に、未だベッドの上に横たわったままの身体は素直に睡眠を欲し始めていた。今まで寝不足気味だったこともあって実に抗いがたい感覚だ。
 あくびを一つして携帯を元の位置に戻す。中止と書かれているのだから中止なのだろう。だから僕達の仕事は無くなったのである。ならば欲求に従って寝るのみ。
 目を閉じれば眠りはすぐに訪れた。


 そしてこの日以降、閉鎖空間が発生しても秒単位で消滅するということが更に何度か続いた。



* * *



 閉鎖空間の自然消滅という前代未聞のことが何度も起こり、機関の上層部も一段と騒がしくなっていた。なにせ一度発生した世界が原因不明のまま消えるのである。いつその「世界」が自分達の住むものになるのか分かったものではない。・・・僕からすれば、それは杞憂に過ぎないと考えていたのだが。ただその明確な理由を告げることは出来ない。精神の奥底の本能のような部分で不確かな感覚としてそれを感じていたからだ。
 そのことを彼に話すと、彼は一瞬難しい顔をしてから「そうか。」とだけ、まるで独白のように呟いた。
 そんなこんなで近頃は閉鎖空間の発生率が高いままであっても実際の出動回数が激減し(むしろゼロになり)、僕は先日と比べてすこぶる良い体調を維持することが出来ている。彼に閉鎖空間がもう何度も勝手に消えていることを話したのも、僕のそんな様子に彼が気付いたことがキッカケだった。
 しかしその状態も長くは続かず、僕は再び閉鎖空間へと赴くことになった。
 そうなる少し前のことから説明しておこうと思う。


 その日の授業も全て終了し、部活動の時間となった。
 僕はすでに習性と化してしまったかのように文芸部部室へと向かい、扉をノックする。しかし無言。少なくとも涼宮ハルヒと朝比奈みくるは不在であることが判明したのち部屋に入ると、定位置に座った長門有希が一人で本を読んでいた。
 他人が入って来ても彼女は視線一つ動かさない。しかし一応は声をかけてから席に座る。
 しばらくはぼんやりと窓の外の景色を眺めていた。そのうちあまりにも手持ち無沙汰になり、暇潰しに詰め将棋でもしようと思い立って室内に備え付けられたロッカーへと向かう。
 扉を開いて目的の物を取り出そうとした時―――。
「こんにちはぁ。」
 ガチャリと部室のドアが開いてSOS団唯一の上級生が顔を出した。これで僕が次にとるべき行動は決まった。彼女に挨拶を返したのち、可及的速やかに部屋の外へと出ることである。
「こんにちは、朝比奈さん。それじゃあ僕は外に出ておきますので、どうぞゆっくり着替えてください。」
「すみません。ありがとうございます。」
 童顔の上級生はその幼い顔を更に幼く見せるような微笑を浮かべて、ぺこりと一礼した。こちらもそれに対して微笑を返した後、彼女と入れ替わりに廊下へ出る。
 手持ち無沙汰、再来。
 彼女の着替えは五分とかからないが、その僅かな時間をどう過ごすか僕には考え付かない。彼がいればまだ話も出来て良かったのだが、生憎、彼は今ここにいなかった。
 しかし、暇だという感情は大きな足音を立てて近づいて来たある人物によって瞬く間に払拭された。
「涼宮さん、どうされたのですか。」
 どすどすと大股で歩いて来たのはSOS団の団長、涼宮ハルヒ。状態は怒り心頭というやつである。
 彼女は「ああ古泉くんね。」とこちらを認識した後、僕の台詞で何かを思い出したかのように怒りで真っ赤にした顔を更に赤く染めて、こちらが身構える暇もなく大声を出した。
「あ゛っ〜!腹立つ!!なんなのよキョンってば!一年に話し掛けられたくらいでデレデレしちゃって!!ふざけんなって言うのよ!あのジャリ共もジャリのくせに一人前にキョンに道案内を頼むなんて!キョンもそれに応じちゃうし!あんたは我がSOS団の雑用でしょうが!!ねえ、そう思わない!?古泉くん!!」
「へ?あ、そうですね!まったくもって涼宮さんの仰るとおりです。」
 だいたい事情は察した。彼がまた彼特有の鈍感さで涼宮ハルヒの嫉妬心に火をつけてしまったらしい。アルバイト決定である。久々の日中出勤かも知れない。
 反射的に彼女に対する返答が口から出て行くのを他人事のように思いつつ、ポケットの中で震える携帯を感じて溜息をつきたくなった。
「涼宮さん?どうしたんですか。」
 着替えが終了したのか、朝比奈みくるがひょっこりと顔を出す。この薄いドア一枚では涼宮ハルヒの大声など筒抜けだろう。「どうしたんですか。」と問いかけておきながら、彼女の顔は粗方の事情を察したように不安げな表情を浮かべていた。
「ああ、みくるちゃん。今日も可愛いわね。・・・でね、キョンよ!あのバカが・・・」
「バカとは何だバカとは。」
 びくり、と肩を揺らしたのは僕だけではあるまい。
 涼宮ハルヒが朝比奈みくるに愚痴を零そうとし始めたその時、何の気配も感じられなかったのに彼が口を挟んできていた。
 本当にいつの間に現れたのだ彼は。長門有希のように瞬間移動が出来るわけでもないし、それだけ僕達の意識が涼宮ハルヒ(の愚痴)の方に向いていたと言うことなのか。
 急に登場した彼本人によって一瞬だけ時が止まる。ああ、もでもうすぐ涼宮ハルヒ製の特大雷が落とされるのだろう。その前に是非ともこの場から退散させて頂きたい。
 僕は彼の肩にぽんと手を置いて微笑を浮かべた。
「あとは頼みます。僕はバイトがありますので。」
「逃げる気か。」
「まさか。直接対決ですよ。」
 他者には聞こえないように静かな会話を交して僕は気持ち早足でその場から去った。廊下の角を曲がった直後、涼宮ハルヒの大声がこの古い校舎を震わせたのは言うまでもない。
 そんな校舎からそそくさと出て、僕は裏門へと向かい、待っていた黒塗りのタクシーへと乗り込んだ。
 携帯は未だ中止の連絡を受信しない。ならばせめて、彼が彼女の機嫌を少しでも早く回復させてくれることを心から願おうと思う。


 閉鎖空間に侵入すると、そこにはすでに数人の仲間が到着していた。
「神人を見るのも久しぶりですねえ。」
 赤い玉が青白い巨人の周りをぐるぐる飛び交っているのを眺めながら口端を緩く吊り上げる。
 灰色の世界で闊歩する巨人の数は一つだけ。神はやや不機嫌、と言ったところだろうか。春休み以降見かけていた者達とは違い、久々に積極的な破壊を繰り返すところからすると、どうやら彼女は現在明確な怒りを感じているようだ。それもそうかと怒りで顔を真っ赤にした少女の様子を思い出す。
 ・・・おや?そう言っているうちに何だか神人の動きが大人しくなってきたような。これも彼のお陰か。
 まぁそれは置いといて。
 さて、今回はどうなる。三年間、否、四年間続けてきたように僕達が神人を倒して終了となるか、最近立て続けに起こったように閉鎖空間が勝手に消滅するのか。・・・それとも、涼宮ハルヒでも僕達でもない第三者が介入してくるのか。
 後者二つならば機関の上層部が可笑しいくらいに慌てふためくことだろう。それもまた一興かも知れない。本人達には絶対に言えないけれど。
 顔も知らぬ者達の混乱する様子を想像し、喉の奥で微かに嗤う。いつも僕達現場の人間ばかりが痛い目に合っているのだ。これくらいは許させるだろう。ただし、この場に存在しておきながら笑ってばかりいては現在進行形で戦っている仲間達にも悪いし、嗤いの免罪符も免罪符ではなくなってしまう。
 僕は一呼吸置き、青く光る巨人を視界の中央に据えて自分も神人狩りに参戦するため意識を集中させた。
 行きますか。

「ばーん。」

 それは、唐突だった。
 ふざけているとしか思えない軽い音。
 聞こえてきた声を声だと認識する前に、視界に捉えていた青白い巨人の上半身が消し飛んだ。腰から上を一瞬で消滅させた神人が音も無く崩れ去る。
「悪いね。ちょっとばかり遅れちまった。」
 背後から声がする。聞き慣れたものだとは思うのに、それを発する人物を確認することが出来ない。
 身体が拒否しているのだ。このまま振り返ってそこにいる人物を視界に入れるという動作を。
「嗚呼、此処ももうじき崩れるな。・・・仕事が終わったらさっさと帰って来いよ。あいつらも待ってる。」
 こちらが硬直していることなど気にも留めずに、背後の人物は苦笑を織り交ぜてそう告げた。次いで聞こえたのはここから離れようとする足音。もう用件は終えたとばかりに何の躊躇いも無く足音は遠ざかり、そしてある所まで進むと忽然と消えた。
「・・・・・・は、」
 ようやく身体が動いた。ガチガチに固まっていた指先を解しつつ後ろを振り返る。しかし、当然誰もいない。
 今のは何だ。今のは、誰だ。
 身体の動作拒否が終わったと思ったら次は思考が解答の提出を渋り始める。
 先程の声の主と僕が知っているある人物をなんとしても重ね合わせまいと無駄な努力をしてみせ、しかし結果として頭の中にはたった一人の人物だけが思い浮かんだ。
 視界の上部に映るのは亀裂が入り始めた灰色の空。
 もう間も無く崩れ去る世界を眺めながら手で口を覆う。
「うそだ。」
 その響きは、閉鎖空間の崩壊と重なった。



* * *



 事後処理を終え、予想以上に早く神人退治が終わった所為で時間を持て余した僕は、あの声に従うかのようにSOS団の部室へと戻って来ていた。
 涼宮ハルヒの機嫌は回復。
 アルバイトだと告げて先に帰った僕が再び顔を出しても、それが当然と言わんばかりに笑顔で迎えてくれた。他の団員達にも「諸事情でアルバイトが急に中止になったんです。」と、ある意味本当のことを告げつつ定位置につく。
 ガタリと椅子を鳴らして腰掛ければ、正面でやたらと分厚い本を読んでいた彼がふいと顔を上げた。
「早かったな。」
「ええ、物凄い助っ人が来ましてね。僕は本日用済みなんです。」
「ほう。」
 何も自分には関係ないような声音と表情で相槌を打つ。
 パタンと小さな音を立てて本を閉じるとそれを机の端に置き、彼はこちらを見据えて薄く笑んだ。
「よかったじゃないか。お前もそっちの方がいいんだろ?」
 ゲームでもするか、と彼は続ける。
 机の端に放置された分厚い本は、よく見るまでもなく有名な物語の原書。


 ―――ひどく、喉が渇いた。(そのような本に、あなたが今まで一度として興味を示したことがあっただろうか。)


 珍しくも彼の方からゲームの誘いを受け、僕はそれを承諾した。
 内容は僕が勝手に選んでいいらしい。これはいつもどおりと言えるだろう。ロッカーから目に付いたものを取り出してきて机の中央に置く。
「オセロか。」
「一番取り易い場所にあったものですから。・・・他のものにしますか?」
「いや、いい。色はどっちにする?」
「では僕が黒で。」
「了解。」
 黒二枚と白二枚を盤の中央に据えて早速ゲームスタート。
 僕がまず黒を表にしたマグネットで緑のマスを一ヶ所埋め、次いで白を一枚反転させた。彼も同様にして白い面を上にして一枚置く。白二枚で斜めに挟まれた黒の駒が再度反転して白に戻った。
 カラカラになった喉にごくりと唾を送り込んで掠れた声が出ないように整える。その間にも黒をまた一枚盤上に置いて白を引っ繰り返した。
 パチリ、パチリ。置く時と裏返す時の音を順に奏でてから手を退き、然程の間も無く置かれた白がまた黒を反転させようとするのを見つめる。
 僕は笑えているだろうか。
「もしこのゲームに勝ったらお訊きしたいことがあります。」
 努めて冷静に、ただし硬くならずに相手にだけ聞こえる音量で言葉を発する。
 話しかけられた彼は盤上から顔を上げ、特に驚いた様子も無く僕を見定めるように視線を合わせた。
「・・・お前が勝ったら、な。」
 僕がボードゲームで彼に勝つなど滅多にあることではない。それを承知の上でしばらく何かを考えていた彼が呟くように吐き出す。
 これは彼に対する意思確認だ。
 おそらくこのまま普通に行けば僕は盤上で完膚なきまでに彼に叩きのめされるだろう。しかしもし彼がわざと手を抜いてくれれば・・・。彼に僕の質問に答える意思があるならば、今はまだ多くの緑を残すこの盤も最終的に黒で過半数を占められることになるだろう。
「ええ。僕が勝ったら、あなたのお時間を少し下さい。」
「いいぜ。」
 彼が口元に小さく笑みを乗せる。


 その日、僕はゲームで彼に圧勝した。


「では、また後でご連絡します。」
「わかった。」
 長門有希の本を閉じる音と共に部活ならぬ団活を終えた僕達は揃って坂を降り、それぞれバラけてしまう前に僕は彼を引き止めてそう囁く。即答で了承され、嫌がる素振りも見せない。それがまた彼の彼らしくなさを強調するようで、胸の奥に何か重たいものが溜まるような感覚を覚えた。
 そうして彼とは別れ、続いて僕は一人になった長門有希の後を追った。
 小柄な背中を呼び止め、無感情に双眸を向けてくる彼女へと微笑む余裕も無く疑問を口に出す。
「長門さん。今日僕が閉鎖空間に赴いている間、一体何があったんですか。・・・いえ、"彼"は何をしたんですか。」
 その問いかけに彼女は一瞬瞳を揺らめかせ(目の錯覚かも知れない。微細な彼女の感情を読み取れるのは彼くらいなものだから)、無機的な声で静かに答えた。
「まずは涼宮ハルヒの機嫌が悪化した理由から話す。」
「はい。」
「あなたも彼女の言動から予想出来ているように、涼宮ハルヒは彼と部室に来る際、一つ下の女子生徒達に声をかけられた。正確には、彼女達ではなく彼が。女子生徒達の用件は、自分達が新入生であるために道が判らず、よければ職員室まで案内して欲しいというもの。それが職員全員ではなく教科別の部屋、しかも複数であったために、彼は言葉のみの説明ではなく実際について来て欲しいと頼まれた。彼は彼女達の頼みを承諾したが、涼宮ハルヒが認めなかった。ゆえに二人の間で意見が対立し、結局は彼女のみが先に部室へと来ることになった。その時の彼女の怒りは、」
「自分の言うことを彼が聞き入れなかったことに対するものと、そして彼に好意を持っているであろう女子生徒達に対する嫉妬ですね。」
「そう。しかし後者は彼女の勘違いだった。彼が部室に戻り、あなたが閉鎖空間へと向かった後、彼は彼女に真実を告げた。曰く、その女子生徒達はあなたが目的だったらしい。」
「・・・は?」
「その女子生徒達は以前見かけたあなたの情報を欲していたのだと彼は言った。案内はただの口実。あなたを見かけた時に傍にいた彼を偶然見つけ、彼女達はあなたの友人であると考えられる彼にあなたの情報を開示するように求めた。涼宮ハルヒに求めなかったのは、彼女があなたの知り合いであると彼女達が認識していなかったせい。」
「これは間接的に僕が原因の一つを担っていたと考えるべきなんでしょうか。」
「それについては解答の必要性を感じない。」
 つまり私にとってはどうでもいい、ということですか。
「言い変えれば、そう。話を続ける。」
「あ、はい。」
「結局、彼女達の感心が彼に向いていなかったことを知った涼宮ハルヒは、急速に感情を安定させた。涼宮ハルヒの誤解を解き機嫌を元に戻したあと、彼はトイレに行くといって暫らく部屋から離れた。そして・・・その時の数分間、わたしにはこちらの世界で彼の存在を感知することが出来なかった。」
「それはもしかして、」
「あなたと同時期に彼も閉鎖空間にいたということ。・・・おそらく、自分の意志で。」
 くしゃりと長い前髪を掴む。舌打ちをしたい気分だ。
 念のためを思って彼女に話しかけ、嫌な保障までもらってしまった。予想はしていたが、否定したい予想を肯定されても全然嬉しくない。
 これで、あとで彼に連絡を入れる時に「やっぱり学校でのことは冗談です。おやすみなさい。」と言って切ることは叶わなくなった。この胸を詰まらせるものの正体を明らかにするためにも時間と場所を指定して彼と直接言葉を交わす必要がある。
「長門さん・・・彼は何者だと思いますか。」
 去り際。特に答えを欲するつもりも無く、すでに背中を向けた彼女に聞こえるか聞こえないかくらいの音量で問いかけた。
 ゆっくりと歩く歩調は変わらない。振り返りもしない。それを見届けて僕も踵を返した。

「彼は彼。わたしはそう認識している。」
 風に溶けるような彼女の声は幻だったのかも知れない。



* * *



 あの後、僕は当初の予定通り彼に電話をかけ、夜の公園に呼び出した。これまで彼が様々な事柄の際に立ち寄った場所だ。
 春になったとは言え、この時期の夜はまだ冷える。冬よりも夏を好む彼には少々申し訳ない気もしたが、ある意味ここは今の状況においてそれなりに相応しい場所ではないだろうか。
「すみません。こんな時間にお呼び出しして。」
「いいや。別に気にしてない。」
 文句を言うでもなく彼は肩を竦めた。
 こちらとは正反対に余裕を滲ませるその態度に益々焦燥感が募る。あれは僕が知っている彼がとるような態度ではない。僕が知っている彼はまず最初に文句の一つでも零してみせるだろう。
「早速だが、俺に訊きたいことがあるんだよな?」
「ええ、そうです。まず今日のことを。」
 躊躇う必要は無い。そう念じて言葉を発する。
 もし彼に何か不思議な力があったとしても、それは僕達と同じく涼宮さんによるものだと納得することが出来る。機関がそれに気付けなかったのは失態かも知れないが、それだけ彼の隠蔽が上手かったということだ。取り立てて問題にすべきことでは無い。
 また彼がいつからそうであったのかは知る由も無いが、不思議な力を持ちつつもこれまでその力を使って何か悪意ある行動をすることも無かった――少なくとも僕達が知る限りでは――という事実から、彼が涼宮ハルヒや僕達に害をなすとも考えにくい。それどころか僕の考えが正しければ、彼は僕達の手助けをするために力を使っているのだから。
 どう転ぼうと悪いようにはならないはず。(でも少し、彼が彼ではなくなるような気がして良い気はしなかった。)
「今日、僕が閉鎖空間に行っていたことはご存知ですね?」
「ああ。お前が俺達にハルヒのことを押し付けて行ったやつだろ。」
「涼宮さんが激怒した原因はあなたじゃないですか・・・。いえ、まあそうですね。お訊きしたいのはその時のことです。あなたは何をしていましたか?」
「ハルヒの誤解を解いてひたすら宥めてたさ。」
「ずっと?閉鎖空間が消えるまでですか?」
「・・・古泉、」
 はぁ、と溜息をついて彼は頭を掻く。面倒臭そうな、呆れているような、それでいて少しばかり楽しんでいるような表情だ。「さっさと本題に入ってくれて構わない。」そう言って先を促す。
「わかりました。では Yes か No でお答えください。・・・あなたは今日、閉鎖空間にいましたね?」
「...yes.」
「どうやって、」
「それが俺の能力・・・いや。力の一つだから、かな。」
 口角を上げ、目を細め、彼は微かに笑った。
 楽しそうなその表情は、けれど今まで見たことのないもので、言い知れぬ何かが背筋をスッと撫でるような気がした。彼は彼女の鍵としてある程度特別視されていたが、それでもこれ程の何かを感じさせるような存在ではなかったはずだ。しかし今僕の目の前にいる彼はもっと別の何かのように感じられる。そしてそれは少し、初めて涼宮ハルヒの存在を知った時の感覚に似ていた。
「あなたは何者なんですか。」
「・・・ふむ。橘京子には教えたからお前んトコにもそろそろバレてるんじゃないかなぁとは思ってたんだけど・・・。案外あいつらも口が堅かったんだな。感心感心。」
 独り言の如く彼の口から出た固有名詞に驚くと同時、何か痛いものが胸を突く。これは裏切られたと感じているのだろうか。僕らの知らない間に向こう側と接触し、尚且つこれから詳しく聞くことになるだろう彼の秘密を先に知らされていたのだから。
 しかしふと疑問を感じた。橘京子は機関と対立する組織の末端だ。ならばなぜ、彼女が知った情報が上に伝えられていないのか。(もし伝わっていたなら機関も何かに勘付いたはずだ。でもその様子は無かった。)
 これはもしかして、目の前にいる彼が口止めをした、もっとハッキリ言うなら脅したということなのだろうか。
 もし、不可抗力なのかわざとなのかは知らないが、彼は彼の秘密を彼女(達)にバラし、それが他の者達の耳に入らないよう脅したとすると・・・。それはつまり、彼にはそれだけの力があるということだ。
 僕らと対立し、日々血みどろの争いを繰り返すような者達を(その末端とは言え)押さえ込んでしまう程のものを。
「古泉。顔が強張ってっけど、なんか失礼な想像してないか?別にお前を取って喰うつもりは無いんだが。」
「・・・そう、ですよね。」
「いや、そこでそういう返事を返されると俺としても、もしかして本当に取って喰うと思われてたのかって考えちまうんだけど。もっと別の答え方をして欲しかったね、正直。」
「あはは。別にそんなつもりで答えたんじゃありませんよ。」
「そうか?」
 バレてます。
 僕自身も彼に抱く感情としては非常に不適切だと思いますが、そう考えてしまったのは事実です。それが何だか相手にばれているようです。
 って、こんな時にまで丁寧語?相当混乱しているのか、僕は。
「ええと、とにかくですね。するとあなたのことは橘京子に既に知られている、と。」
「ああ。橘京子とアイツが崇めてる佐々木、天蓋領域――長門と対立してる奴な――から送り込まれてきた九曜、それから未来人の自称藤原・・・簡単に言っちまうと佐々木派?その四人には知られてる。つーかそいつらと会った所為で俺が今の状態になっちまったってのが正確な言い方なんだろうけどな。知られたのはその場の勢いみたいな感じで・・・。」
「それはどういう・・・?」
「んー。つまりな、俺が変な力を持ってるってのはお前も解ってるだろうけど、俺自身がそれを自覚して使えるようになったのがそいつらと会った時なんだよ。それまでは俺も一応一般人だった。これは本当だ。」
「四年前からつい先日まで、あなたは一般人だったと?」
「そういうこと。」
 彼の双眸を見つめた。嘘を言っているようには思えない。
「わかりました。信じましょう。・・・それで話が逸れてしまいましたが、あなたは一体何者なんですか?まさか異世界人とか、僕ら機関とは違う超能力者とか・・・。」
 そう言うと彼は「残念ながらどちらもハズレだ。」と可笑しそうに笑った。そうやってはぐらかすのは止めて教えてもらえないだろうか。彼の笑顔を正面から見られるなんて貴重な体験だけれども、今はそれよりも解答を貰うことの方が僕の中で高い優先順位を持っているのだ。
「そうだな。でも言っても信じてもらい難いだろうし・・・・・・連れて行くか。」
「え?今何と・・・」
 最後にぼそりと呟かれた台詞を聞き取れず、もう一度言ってもらおうとしたその時、僕は突如として全身を包み込んだ違和感に言葉を失った。
 辺りを見渡す。
 正面には彼の姿。それは変わらない。
 空には相変わらず数えられるくらいの星しかなく、弱々しく瞬いている。公園の街頭も寂しげな色を放っているし、それに照らされた遊具もくすんだ赤や黄色を晒している。街の空気に汚された樹木の緑もそのままだ。
 けれど肌に沁み込んで来る感覚だけが今の周囲と先刻の周囲が異なっていることを告げていた。
「ここは・・・」
「わかるか?似てるだろ、お前の仕事場と。」
「閉鎖空間、ですか?」
「アタリ。」
 短く告げて、彼は有名な猫のように双眸を狭める。
「まあ安心してくれ。別にハルヒみたいに神人が出たりさっさと消さないと世界が入れ替わっちまうなんてことは無いから。性質としては佐々木の空間の方が近いかな・・・。あいつのはハルヒの突発型とは違って常時展開型だし。」
「閉鎖空間に種類があるなんて知りませんでした。・・・上は知っているかもしれませんが、我々末端は涼宮さんの閉鎖空間しか察知出来ませんからね。・・・で、その話しぶりからすると、これはあなたの閉鎖空間なんですか?」
「理解が早くて助かるよ。お察しの通り此処は俺の閉鎖空間。そして俺は此処に任意の人物を連れ込むことが出来るし、またハルヒや佐々木の空間にも自由に出入できる。おまけで神人退治も可能だ。」
「やはりあなたでしたか。今日・・・いえ、この所ずっと僕達の代わりに神人退治をしてくださっていたのは。」
「疲れ気味なお前はあまり見ていて気分のいいもんじゃなかったからな。原因も俺自身にあるみたいだし?」
 否定など一片の欠片も無く、更にその行動理由がおまけとして付いてきた。
 と言うか、閉鎖空間の消滅と、加えて発生から消滅までの時間が極端に短くなったのは僕のためだったのか。嬉しいやら恥ずかしいやら、何とも複雑かつ奇妙な気分だ。
「今日はハルヒを宥めんのに時間食っちまったからな、ちょっと遅れた。」
「でも何故、僕に存在を知らせるような真似まで・・・」
「さあ?何となくそんな気分だったから、かな。お前になら教えてもいいと思ったのかも知れない。実は俺もよく解らん。・・・でも、」
「でも?」
 途切れた言葉の続きを促すように訊き返すと、彼はニヤリと口元を歪ませて冷たさが目立つ笑みを形作った。
「その気になればどんな記憶だって消せるからな、俺は。」
「・・・ッ!?」
 全身を緊張が包んだ。
 咄嗟に一歩引いて身構える。
「あー、落ち着け。別にホントにやったりしねえから。うん。調子に乗っただけ。だからそう警戒せんでくれ。」
 冷笑を崩して気まずそうにそんなことを言ってくるが、本当だろうか。
 消せると告げた時の彼は言葉や表情だけでなく纏う空気までも変えてしまったように感じた。圧倒的だった。敵わないと思った。神と例える涼宮ハルヒの存在を初めて感知した時よりも、神人と戦う時よりも、もっとずっと、比べようもないくらい大きなものを相手にしているのだと眼前に突きつけられるような。
 彼は全神経をピンと張り詰めさせた僕へと「悪かったから。ふざけ過ぎた。」と困ったように謝罪の言葉をかける。この態度ですら、自分は弱者の立場に立つ個人なのだと思い知らされるだけのものでしかない。
 どおりで橘京子達も彼に逆らおうとしないわけだ。先刻のことでさえおそらく彼が本気を出したとは言えないだろうが、もしその彼の本気の一端にでも触れたなら―――。
 でも僕は違ったのだろう。彼が僕を本気でどうにかしたいならば、神人退治のことだって手を出すなんて面倒なことをするはずがないし、それどころか僕の馬鹿げた希望を叶えて本当に神人退治に掛かる時間を秒単位にするとは到底考えられない。また僕自身、閉鎖空間の自然消滅に関して好意的な何かを感じるという風な考えも思い浮かぶはずがないのだ。
 でも実際に彼によって神人は倒され、僕はそのことに関して何の心配も感じなかったし、何より彼は先刻自分の口から僕を心配してくれていた・・・とハッキリ言ったわけではないけれど、心配してくれていたのだと思う。
 ・・・・・・ん?
 あれ?・・・あれれ?
 ああ、そうか。
 なんだかぐだぐだ考えてしまったが、やはり彼は彼なのかも知れない。長門有希の言葉を借りるならば。
 確かに何やらとてつもない力を持っているようだし、他者を脅かした可能性も多大にあるし、僕自身も今さっきヒヤリとしたし、ついでに見たことも無い冷笑だって浮かべたけれど、彼は僕に敵意を持っているわけではなく、それどころか心配してくれているのだ。今までだって彼はぶっきらぼうながらも、何だかんだ言いつつも、SOS団の皆を大切にしていた。仲間思いの彼。だから。
「・・・本当に。あなたらしくないくらい、おふざけが過ぎますよ。冗談なら冗談で済ませられるような範囲に留めてください。お陰で無駄に緊張してしまいました。」
 そう告げて身体の力を抜くと、あからさまにほっとしたような気配が漂ってきた。「すまん。」と言う短い謝罪も。
「いえ。もういいですから。でも頼みますから、今後こんなことしないでくださいね。心臓が持ちません。」
「わかった。」
 空気が和む。
 これは僕の心情がそう感じさせているのか、それとも彼の精神世界であるこの空間自体がそうなっているのか。ふと考えると自然に笑みを浮かべることが出来た。
「では気を取り直して。あなたのことをもう少し詳しく教えてください。SOS団の副団長としても団員のことは把握しておきたいのでね。」
「ぷ、何だよそれ。機関の人間ってわけじゃなく?」
「そうです。僕個人としての希望ですよ。」
「・・・オーケー。んじゃァぶっちゃけてやるよ。」
 信じられねえとは思うが、と前置きをして彼は告げた。
「ハルヒにあの力を与えたのは俺だ。」


 せっかく空気が和んだのに。
 時が、止まったような気がした。
「四年前、俺がハルヒと佐々木を"ヒト"っていうカテゴリから選択して力を与えたんだ。理由は申し訳なさ過ぎてお前にはちょっと言い難い。でもって俺は自分にそんな力があったなんてことを完璧に忘れてついこの間まで過ごしてたってわけ。」
「・・・冗談なら冗談で済ませられるような範囲に留めてくださいと、先ほど言ったはずですが。」
 それだけ喉の奥から搾り出せば、視線の先の見知った顔がくしゃりと苦しそうに歪められた。
「冗談でこんなこと言えるかよ。俺は被害者であるお前に到底言えないようなくだらない理由で今のこの状況を、その基礎を作り上げちまったんだ。それに、」
 俯いて、彼は拳を握る。
 急に小さく見えたその姿に、一瞬、泣いているのかと思った。
 彼が泣く?想像もつかない。でも泣いているように感じたのは事実だ。今この時、俯いた彼の瞳から透明な液体が零れ落ちたって驚きはしないだろう。

 彼が顔を上げる。泣いてはいなかった。
 代わりに、その顔には嘲笑と呼ばれるものが貼り付いていた。

「今の状態が崩れるのが恐くて、元に戻そうとすらしなかった。」
 見ているこちらが辛くなるような自嘲の笑みを浮かべて彼は言葉を繋ぐ。
 やめてください。
 そう言いたくても言えないくらいの何かがここにはあった。
「ハルヒの力を取り上げちまったらSOS団なんて簡単に空中分解だ。朝比奈さんは未来に帰っちまうだろうし、長門も情報統合思念体に回収されるだろうな。それにお前だってまたどっかに転校するかも知んねえ。もしそれが嫌で力を使ったとしても、基の設定が違うんだ、同じにはならない。・・・・・・俺にはそれが恐かった。こんなの、四年前の俺には考えつかなかったよ。こんなになるなんて、想像もしなかった。」
「・・・・・・っ、」
 声をかけられない。喉が詰まる。
 この空間の大気そのものが悲痛に叫んでいるようだった。
「この際だから言うけどな。好きなんだよ、お前らが。失くしたくないんだ。壊したくないんだ。きっとハルヒよりひでぇ執着だぞ。」
「・・・もういいです。」
「古泉?」
「もういいですから、そんな顔しないでください。あなたはいつもどおりに怒ったり呆れたりしてくれればいいんです。誰も、SOS団のメンバーはそんな表情を望んでいません。知っているはずでしょう?」
 僕は微笑むことが出来ていますか。あなたを安心させられるような顔をしてますか。
 あなたのような脆くて優しい人にもうこれ以上そんな顔をさせたくありません。責めようとも思いません。むしろ今のあなたを責めようとする人がいるならば、それを全力で阻止してみせましょう。あなたは僕達SOS団の中で笑っていればいい。今は代表で僕がそう思っているだけですけど、きっと他の団員達だってそうに違いない。
「こい、ずみ・・・。俺は、」
「あなたはあなたです。周りからキョンだなんて呼ばれて、その度にちょっと嫌そうな顔をする。達観してそうで面倒臭がり屋で、でも熱くて仲間思いの、ね。僕から訊いておいて何ですけど、なんだかそれで良いような気がしてきました。」
 ―――それにまぁ、考えてみれば神と神の創造主がいるなんて最強じゃないですか。
 オーバーリアクションも付けておどけて言ってみせると、やっと目の前の顔が破顔した。
「あーもー、なんつーんだろうね。こんな時は。・・・とにかく。ありがとよ、古泉。」
「どういたしまして。」
 照れくさいですね、あなたに言われると。


 でもその後、彼はもっと照れくさいことを言ってくれたのだ。


「サンキュ、古泉。・・・大好きだ。」
「・・・!」
 光栄ですよ?いえいえ、こんな時は。
「僕もです。」









ラスト、反転で告白劇です(違)
後悔しない方のみどうぞ。
(あくまで「仲間」としての感情ですけど・・・!)