その人は輝いて見えた。
 美しく太陽の光を弾く金の髪もそうだが、何よりも強大な力を揮う時の躍動感や、倒れ伏した者達の中心で凛と立つ姿―――彼こそがこの街の『王』であると見る者に知らしめるその姿が、池袋にやってきてまだ日も浅い竜ヶ峰帝人にとって特別美しいものに感じられていた。
 今でもその思いは変わらず、一度首無しの妖精を仲介して大人数で食事をとった後も帝人にとっての彼、平和島静雄は帝人の心を捕らえて離さなかった。
(けれど)
 帝人は思う。
(僕にとってあの人は特別だけど、あの人にとって僕は路傍の石でしかない)
 下手をすればそれ以下だ。
 静雄が嫌ったカラーギャング『ダラーズ』、その創始者が帝人である。この事実を知る者は少ないが、そして今後とも下手に吹聴するつもりもないが、もし自分がダラーズの何であるか知られてしまったら……と考えて身震いしたのは一度や二度ではない。もしそんな事があれば、静雄は帝人に向ける視線を「路傍の石」から「袋が破けて中身が散乱した生ゴミ」レベルに急速落下させるだろう。要は嫌悪の対象である。それでもきっと静雄が日頃から蛇蝎の如く嫌悪しているあの情報屋程には嫌ってもらえず、帝人は嫌悪寄りの宙ぶらりんな位置に留まる事になってしまうのだ。
 情けなくて、情けなさすぎて、もう涙も出なかった。
 自分には静雄のように輝く物など一つも無く、彼に好いてもらえる可能性はゼロ。だからと言って彼の意識が帝人に固定されて激しく嫌悪され続けるほど静雄に酷い事をしたいとも思わないし思えない。
 心は静雄の事でいっぱいになっているのに、彼に目を留めてもらえる程の物を持ち得ない帝人は「はぁ」と小さく溜息を吐いて日直日誌を閉じた。
「不毛だ」
 日誌を書き終えた体勢のままチラリと窓の外を見やれば、赤い夕日がビルの向こうに沈んでいくところだった。こんな朱色の光に照らされた金髪もまた普段と違う色で美しいのだろうと思ってしまう自分の頭に帝人は苦笑し、手早く帰る支度をして席を立つ。あとはこの日誌を職員室まで持っていけばいい。そう思って廊下側の扉に視線を向けると―――
「園原さん?」
 クラスメイトであり大事な人の一人でもある園原杏里が申し訳なさそうに立っていた。
 帝人が小首を傾げて「どうしたの?」と問うと、杏里は「少し忘れ物を」と言って自分の机まで歩み寄る。中から一冊のノートを取り出してそれを鞄に入れた後、彼女は教室を出ていく……のではなく、窓際にある帝人の机の近くにまでやってきた。
「その、すみません。聞くつもりはなかったんですけど」
「……?」
 一瞬、杏里が何を言っているのか解らず、帝人は両目を瞬かせたが、すぐに彼女の謝罪の理由に気付いて恥ずかしそうに頬を掻いた。
「不毛だってやつね」
 こくりと艶やかな黒髪が揺れる。
「一体何が不毛なのかお聞きしても大丈夫ですか?」
 自分とそれ以外を“額縁の内と外”で分ける杏里には珍しく、相手に突っ込んだ疑問だった。それほど杏里にとって竜ヶ峰帝人という少年は特別であり大事な存在であるという事なのだが、当の帝人はそれを然して意識せず、杏里が続けて言った「帝人君は大事なお友達ですし」という台詞に嬉しさ半分恥ずかしさ半分の照れ笑いを浮かべていた。
 本当なら一人で抱え込んで誰にも見せないつもりの気持ちだ。しかし杏里になら告げてもいいような気がした。彼女なら解ってくれるだとか適切なアドバイスをくれるだとかそういう訳ではなく、杏里が帝人の大事な友人であり、彼女もまた静雄とは違う意味で特別な存在だったからだ。
 帝人は一度だけ控えめに深呼吸し、そして口を開いた。
「特別な人がいるんだ―――」


 固有名詞を避けた上で事情を話し終えた後、杏里はぽつりと言った。
「帝人君はその人の事が好きなんですか?」
「……そうだね、好きなのかもしれない。そんな権利どこにも無いっていうのにね」
「そんな事はありません。私は……その、まだ人を好きになるとかよく解らないんですけど、でも人を好きになる事に権利も何も無いと思うんです」
 杏里の台詞に帝人はしばらく沈黙し、夕日で赤く染まった大切な少女を見つめた。
 彼女が言う通り帝人のこの気持ちが(おそらくは憧れから派生した)恋愛感情だったとして、それが実を結ぶ可能性はゼロである。まさしく先ほど口から零れた言葉と同じく不毛であり、今後抱え続ければ帝人本人をぐずぐずと内から蝕むだろう。悪ければ帝人の周りにいる人や静雄本人を嫌な気分にさせてしまうかもしれない。たとえば帝人が抱える気持ちが堪えきれず外に溢れ出してしまった場合など。
「好きなのに相手は絶対こちらを見てくれない。それでも好きでいていいのかな? それで誰かに迷惑がかかっても? 嫌な気分にさせてしまっても?」
「好きなら好きでいいじゃないですか。それは帝人君の大事な気持ちです。否定する事は……そうですね、誰であろうと私が許しません」
 それに私なら帝人君に迷惑をかけられても嫌だとは思いませんよ、と身の内に狂った愛を叫ぶ化物を飼う少女は付け足す。杏里が知らない『恋』や『愛』を現在進行形で持つ帝人を彼女は心から応援したいと思ったのだ。
 杏里の言葉に帝人は大きく目を見開き、
「いいの?」
「私は帝人君が大事で、だから帝人君の気持ちも大事にしたいんです」
 夕暮れの中で少女は美しく微笑んだ。



□■□



 いつの頃からか、頭から離れない人物がいる。
 街を歩けば両目が勝手にその姿を探し、特に学生の登下校時間はそれが顕著になった。運良く後ろ姿だけでも見られれば気分は上昇して、逆に一日中会えなかった時は不機嫌極まりなく、取立て業務で殴りつけた人間の飛距離もぐんと伸びるのだ。
 なんだかなー、と独り言ちて池袋の自動喧嘩人形こと平和島静雄は煙草の煙を吐き出した。
 仕事の合間に立ち寄ったファストフード店の中からガラス越しに外を眺めやる。今はまだ太陽の位置も高く、真面目な学生は校舎の中で机にかじりついている頃だろう。だから短く切られた黒髪と来良学園の青いブレザーというセットが静雄の視界に映る事はない。
(りゅうがみね、みかど)
 今年の四月、首無しライダーのセルティと彼女の恋人である岸谷新羅によって催された鍋パーティーで初めて知った名前を胸中で呟く。
 ゴールデンウィークが終わる頃までは姓の方を曖昧なまま覚えていたのだが、それは静雄が一度しか聞かなかったフルネームのうち相手の下の名前ばかり心の中で繰り返していたからだ。帝国の『帝』に『人』で帝人。凄い名前であると思うと同時に、本人が「まさしく名前負けです」と他人に向かって苦笑したのを見て静雄はちょっとした親近感も抱いた。
 帝人が本当に名前の通り人の上に立てるかどうかはさて置き、穏やかに笑うあの子供の隣にいれば自分もまた穏やかに暮らせるのではないか。静雄はそう思った次の瞬間に、叶うはずのない事だとかぶりと振る。
 少し距離を置いて横目に眺めていた帝人の微笑みは今の静雄の周りには無いもので、けれどもしそれが近くにあったなら静雄の心ももう少し安らぎを得られるはずだ。元々セルティ――つまり人間ではないもの――とそれなりに親交もあるらしく、ならば帝人が静雄を恐れる可能性も低い。事実、子供からは静雄と同じ室内にいても一般的な池袋の住民のようにこちらを避けてやり過ごそうという空気は微塵も感じられなかった。
(あいつの隣にいられたら……)
 “もしも”を考えるのはそれが叶わないと知っているからだ。だからありもしない未来を夢想して、希望とかけ離れた現実の自分を慰めている。
「虚しい独り遊びだよな」
 煙草の煙をくゆらせて静雄はぽつりと呟いた。
 すると―――
「何が独り遊びなんだべ?」
「独り遊び、この場合は先輩が一人待機している事を示すのですか? 回答を所望します」
 追加で何かを頼んできたらしい先輩の田中トムと後輩のヴァローナが戻ってきた。二人はそれぞれ自分が座っていた場所に再び座り直し、揃って静雄に視線を向けてくる。
 静雄は一瞬言葉に詰まり、「答えたくないならそれでもいい」といった感じの先輩と「知りたい知りたい知りたい!」とおかしな知識欲を全開にしている後輩を順に眺めた。
 彼らに心の内を吐露してしまってもいいのだろうか。静雄の扱いを熟知しているトムならば滅多な事は言わないだろうが、それでも本当のところどう思われるのか気にならない訳ではない。またヴァローナならきっと歯に絹どころか水に溶けるティッシュさえ着せ忘れた物言いでズバズバと痛いところを突いてくるはずだ。
「…………」
 ぐるぐると頭を悩ませる静雄にトムがふっと笑いかけた。
「ま、言いたくなったら言えばいい。ただしあんま無理して溜め込みすぎるなよ? 爆発しちまったら大変だべ。……ほれほれ、ヴァローナもそんな目ばっかしてねえで、先輩への気遣いってもんでも実践してみりゃどうだ」
「……了解しました」
 若干身を乗り出し気味であったヴァローナが正しい姿勢で椅子に座る。
 こうやって遠慮されると少し寂しく思ってしまうのは何故だろう。あと自分が何か悪い事をやったような気もしてくる。追加で頼んだアップルパイを齧るヴァローナの目が時々こちらに向けられるからだろうか。
 静雄は唇に挟んでいた煙草を備え付けの灰皿に押しつけ、頬をカリカリと掻いた。早くもその動作だけで何かを察したらしい上司が「ん?」と反応を示す。
「いや……その、なんて言うか」
 腹をくくれと静雄は自分に言い聞かせた。
「いつも頭から離れない奴がいるんです」


「恋か」
「恋ですね。肯定です」
 流石に相手が高校生である事は伏せたが、話し終えた静雄に先輩と後輩は異口同音でそう言った。
「こういった状況、日本の書籍にて閲覧した記憶、あります。成人男子の無自覚片思いテラワロスwwwです。なお万が一両想いになった場合はリア充爆発しろと発言するのが一般的。先日インターネットにて学習しました」
「……なんか最近変な語彙が増えてきたと思ったらそっち方面にまで手ぇ出してたのかよ」
 真面目な顔で某掲示板の用語を使用するヴァローナにトムが溜息を吐く。
 ともあれ、今は下の後輩のネット汚染よりも上の後輩の恋愛事情である。
 自分の強すぎる力の所為で恋愛どころか人付き合いからして苦手とする静雄がまさかもう既に特定の想い人を作ってしまっていたとは。驚くと共に、中学の先輩であり仕事の上司でもあるトムとしては嬉しく思う。当然、応援してやりたい。だが当の静雄本人は最初から望みがないと諦めてしまっていた。
 成就するかどうかはさて置き――もちろん成就すれば良いに越した事は無いのだが――、それはいただけない。確かに当たって砕けるのは辛い事だが、だからと言って結果を予測して行動を起こさずに過ごしてしまうのをトムは良い事だと思わなかった。
 トムは新しく購入した薄いコーヒーに口を付けた後、一拍置いて言った。
「静雄、男だったら勝負してこい」
「トムさん……」
 サングラスの向こうで見開かれた双眸にトムは苦笑を浮かべる。
「そんな簡単に諦めてんなよ。ひょっとしたら相手だってお前の事が……って展開も無い訳じゃないんだろ? だったら一人でうじうじやってねえで、玉砕覚悟で突っ込んで行けって。それでもし失敗したら俺とヴァローナで慰めてやるよ。とりあえずマックとロッテのシェーキは腹壊すまでおごってやる」
「田中先輩、その料金は私と先輩でワリカンですか? ハーフ&ハーフですか?」
「……嫌なら7:3ぐらいで」
「9:1を要求します。私が1です」
 サラリと先輩相手に言ってのけたヴァローナはそのまま表情も声音も変えずに続けた。
「ただし先輩の恋が成就したあかつきには全額負担で私が先輩とその恋人のためにシェーキを購入します。了承してください」
 彼女の言葉は静雄の恋が成就しない事を願っている訳ではない。むしろその逆だ。もし叶ったら自分が全力で祝うつもりである事をトムの言葉に掛けて宣言したのである。
 どうせ同じ物を買うなら嬉しい事のために購入したいではないか。ヴァローナの言葉にはそんな気持ちが見え隠れしていた。
「ヴァローナ……お前ってやつは本当に男前だな」
「男前は男性に対して使用される表現の一つです。女である私を指して使う理由が不在です。訂正を要求します」
 トムにそう淡々と答えたヴァローナの顔は、しかし少し照れくさそうにも見える。トムは笑いを噛み殺しながら静雄に再度視線を向けた。
「な、静雄。ヴァローナもこう言ってくれてるんだ。やるだけやって来いよ」



* * *



 そして青年は諦めない事を決める。
 偶然にもその日、夕暮れの中で己の気持ちを捨てない事に決めた少年を見つけ、青年はその背中に声をかけた。
 二人がどうなったのか、そして少年が抱える秘密をどうしていくのかは―――また、別の話。






キューピッドを名乗るつもりはございませんが、






「先輩、私はシェーキで破産する可能性、大きいです。残念無念。ですがそれが少し嬉しい。事実です」
「そだな。静雄がどんだけ冷たいモンを飲んだら腹壊すのか俺だって知らねえや。……ま、やっぱ俺も半分持つし、それでも足りなかったら社長に相談してみるか」






君の幸せくらい願わせておくれよ。






「おはようございます、帝人君。今日はなんだか嬉しそうですね」







「静帝で両片思いの話」をリクエストしてくださった匿名様に捧げます。
ありがとうございました!