(わ、あ……!)
前々からそうすると聞いてはいたけれど、やはり実物を見ると違う。胸中で感嘆しながら竜ヶ峰帝人は時間通りに家まで迎えにきてくれた恋人の姿を見上げた。 「しずおさん」 「おう。待たせたな」 「いえ」 はにかみながら帝人は答える。 その視線の先にはこの池袋で知らぬ者はいないと言えるほど有名な人物が立っていた。しかし彼―――平和島静雄が今の姿のまま街を歩いても、それがイコール『池袋の自動喧嘩人形』と気付く者は少ないだろう。何故ならば、 「その格好、とっても素敵です」 「そ、そうか?」 慣れない服に照れたような静雄。 今の彼は普段仕事着としているバーテン服ではなく、ダークグレーのスーツにきっちりとネクタイを締めていた。視線もサングラスで遮られる事なく、優しく緩められて帝人を見つめている。そして髪も。見事な金は自然な色の黒へと染め直され、静雄を物腰柔らかで誠実そうな青年へと仕立て上げていた。 元より静雄は(キレなければ)平穏を好む名前通りの人物だ。それが髪と服を変える事で誰が見ても好印象を抱く雰囲気を作っているのだろう。これは中身だけでも外見だけでも成り立たない。 「行くか」 「はい」 (嗚呼、格好良いなぁ) 解っていても思わず見とれる程に。 帝人はほぅと感嘆の吐息を零し、静雄に手を引かれて家を出る。ただしこれから二人が出掛けるのはデートのためではなかった。ただのデートなら静雄はスーツなど着やしないし、髪だって金色を黒に戻したりはしない。 緊張しているのか、握った静雄の手は汗で僅かに湿っていた。でも笑わないし笑えない。帝人も同じだからだ。今から既に若干テンポを速めている心臓を自覚しながら、帝人は確認するように胸中で繰り返した。 (電話では事前に会話もしてるし、感触も全然悪くなかった。静雄さんが池袋でどう呼ばれてるかも説明した。幽さんの事は教えたら忌避するどころか、お母さんなんて狂喜乱舞だったし……。うん、大丈夫。問題ない) これからやる事は最早様式美の一種で、失敗するなんて万に一つもありはしない。もう一度「大丈夫」と口の中だけで呟いて帝人は静雄を見上げた。静雄も帝人を見ていて、緊張を帯びるその視線が絡み合う。 「今日はよろしくお願いします」 「ああ。絶対失敗できない事だからな」 淡く微笑み合って向かう先は池袋駅。 今日二人は、竜ヶ峰帝人の実家へと赴く。 * * * 竜ヶ峰帝人はその童顔ゆえ大抵の人には年齢を幼く見られがちだが、既に進学すべき大学にも合格して後は卒業を待つだけの女子高生である。春からは高校と同じ池袋にある来良大学に通う予定で、家も現在借りているアパートで問題ない―――と言い切ると恋人が険しい顔をしてくるのだが。 そう家だ。帝人が現在住んでいる部屋は安さだけが取り柄で、セキュリティなど無いに等しい。しかも実は彼女が高校一年生の時、あの部屋は不審者に侵入されている。 侵入者達――矢霧製薬の末端に属する人間――は何も知らずに帰宅した帝人を捕まえて誘拐でもしそうな雰囲気だったのだが、その時校門前で待ち伏せて一緒に家まで来てしまった某情報屋や運び屋によって事無きを得た。 帝人の恋人はこの某情報屋と非常に仲が悪く、そのため己が高校一年の春に体験した事件について彼女は何も教えていない。だがその事を知らないままでも、恋人が顔をしかめるほど帝人の住まいは女性の一人暮らしに適さない代物だった。 もっと安全な部屋に住んでくれ、と恋人は言う。 でもどこもかしこも家賃が高い、と帝人は答える。 すると恋人はしばらく逡巡した後、こう言った。 「俺の部屋に住めばいい」 「結婚するまでセックスしないって言ったのは静雄さんですよね? その辺のところ、男性の生理として一緒に住んでも大丈夫なんですか?」 そうあっさりと言ってのけたのは、実は静雄の部屋での事である。 しかし見た目に反して誠実すぎる程に誠実な静雄はこれまで本当にキスと抱擁以上の接触を帝人に強いらなかった。 帝人のあっけらかんとした物言いに静雄は耳まで赤くして「せ、せ……っ!?」と声をひっくり返す。だがそれも長くは続かず、急に立ち上がったかと思うと静雄は一度己の寝室に消えて、それから手のひらサイズの何かを持って帝人のいるリビングに戻ってきた。 「静雄さん?」 「ちょっと早いかとも思ったんだが……帝人、一緒に暮らそう」 そう言いながら差し出された小箱の意味が解らないほど帝人も鈍感ではない。 今度は帝人の方が顔を真っ赤に染めて恋人からのプレゼントとそれに込められた意味を受け入れた。 そして今、帝人の左手の薬指には細いプラチナのリングが輝いている。静雄も同じ指に同じデザインの物を着け、正座した腿の上、握りしめた左手の薬指でその存在をしっかりと主張していた。 畳敷きの和室は竜ヶ峰家の応接室であり、艶のある黒いテーブルの上には緑茶が白い湯気を立てている。隣り合って座る帝人と静雄の正面、テーブルを挟んだ向こう側には竜ヶ峰竜也とひとみ―――つまり帝人の両親が腰を下ろし、じっと静雄を見据えていた。 「それで、平和島静雄さん? 今日はどんなご用件でうちにいらしたのでしょう」 口火を切ったのは帝人の母親である女性、ひとみだ。 四人全員がこの集まりの意味を理解した上で彼女はわざと問いかける。冷たささえ含まれる問いかけに見事答えてみせろと、そういう意味が込められているのかもしれない。 たとえ静雄の弟があの羽島幽平であると知っていても、ひとみがその大ファンであろうとも、それとこれとは別の問題だ。彼女は娘の帝人でさえ見た事がないような厳しい顔つきで静雄を見定めようとしている。彼女にとって大切なのは自分が有名人の身内になる事ではない。自分の娘が幸せになれるかどうか、ただそれだけなのだから。 静雄の喉が緊張にゴクリと鳴った。 そして正座した態勢のまま後ろに少し下がる。一度きちんと帝人の両親に視線を合わせ、静雄は畳に額が付くほど深く頭を下げて言った。 「娘さんを俺にください」 告げる言葉はシンプルに。込める想いは最大に。 ありきたりな一言ではあるが、下手につらつらと言葉を並べ立てても自分の意志が伝わるとは思わない。それに静雄は元々美しく飾りたてるような言葉など知らなかった。だからたった一言に全てを込める。竜ヶ峰帝人と結婚させてください、と。 しばしの沈黙がその場を支配した。 帝人の両親は娘の恋人の仕事も街で何と呼ばれているのかも既に知っている。だから今この場でそれを理由に結婚を認めないとは言われないだろう。もし駄目だと言うならば、娘の恋人が誰か判った時点で散々そうしていたはずだ。 つまりこれは静雄の気持ちを確かめるためのテスト。 静雄自身がそう感じた直後、まるでタイミングを読んだかのようにひとみが再び口を開いた。 「平和島さん、貴方にはとんでもなく厄介な知り合いがいるそうですね? その方が池袋に現れると貴方はまさに鬼のように怒り暴れ回ると。しかもその方も帝人と知り合いだとか……。貴方と帝人が結ばれる事でその方が帝人に害を及ぼす可能性は決して否定できませんよね?」 「……ッ!」 (こんな時にも手前は俺の邪魔をするってのかよノミ蟲が!!) 静雄自身の事は既にこちらから明かしていたが、まさか帝人の親が折原臨也との確執まで知っているとは静雄も思わなかった。そしてあんな最低野郎の所為で静雄の最大の望みに待ったが掛けられている。怒りが腹の底からグツグツと沸き上がってきた。だがここで暴れるのは最大の禁忌だと己を戒め、静雄は奥歯を強く噛みしめる。 そんな静雄の様子に――静雄本人は気付かなかったが――ひとみがかすかに口の端を持ち上げた。母親の小さな変化に帝人は目を見開き、けれども何かに気付いても黙っているようにと母親本人から視線で制される。 ひとみは僅かな笑みを一瞬で消して冷たい表情を作り上げると、声もまた淡々とした調子を保って告げた。 「そんな方を始めとして……もし帝人が何らかの危機に見舞われた時、貴方は死んでも娘を守ってくださいますか?」 普通ならばここで是と頷くだろう。愛する者は自分を犠牲にしてでも守り抜く。―――現代ではそんな危機的状況が訪れる事など殆ど無いが、それでも義母となる女性からそう問われれば、男というのは基本的に首を縦に振る。 けれども問われた静雄は顔を上げ、 「それはできません」 即答だった。 帝人を含めた全員が目を見開き、特にひとみは驚きだけでなくどこか探るような視線で静雄を射る。静雄はそれに怯む事なく真っ直ぐな目で三人を順に見ると、最後にもう一度帝人を見つめてふっと淡い笑みを浮かべた。 「俺が死んだら帝人が悲しむ。だから俺はたとえ相手が厄介なあの野郎であっても死にません。生きて、できるならば無傷で帝人を守り抜きます」 その台詞を聞いた瞬間、驚きに見開かれていた帝人の双眸が喜びに滲んだ。静雄はそっと手を伸ばし、恋人の小さなそれを握る。畳の上で重ねるように握られた手は言葉と同じくそのまま静雄の感情を伝えてくれるだろう。 ひとみの問いに対する回答は飾りを含まない静雄の本心だ。 誰かを傷つける事にしか使えなかった力も帝人を守るために使うと誓う。けれど守る対象には帝人の身体だけでなく心も含まれなくてはならない。だから静雄は何があっても自分を見捨てない。犠牲にしない。己を過小評価してそれによる結果で帝人の心が傷つく事などないように。 一般人ならばきっとやらないような覚悟。けれど静雄にはその力や環境の所為でどうしても必要な覚悟だった。 そして、その覚悟は、 「最高の答えをいただきました。貴方になら帝人を任せられる」 ひとみが求めていたものだったらしい。 テストには合格だ。それを示すようにひとみが微笑を浮かべ、部屋の空気が一気に軽くなる。彼女の隣に座っていた夫、竜也も表情を緩めて優しく帝人達を眺めていた。 「おかあ、さん。おとうさん」 「平和島さんと……いえ、静雄さんと幸せになりなさい」 「ただし実際に結婚するのは高校を卒業してからだぞ」 「あら貴方、それじゃもうすぐじゃない」 夫の言葉にひとみがコロコロと笑う。 なにせ帝人が通う来良学園の卒業式まであと一ヶ月もないのだから。 しかしそれは両親とも解っている事だ。だからこれは親達が帝人達に向けたメッセージ。信じているから好きなようにしなさい、という。 「必ず帝人を幸せにします」 「もしできなければ、それこそ死んでもらわないといけませんよ」 笑いながらとんでもない脅しを口にし、ひとみは嬉しそうに「大きな息子ができるわねぇ」と独り言ちた。 そして卒業式が済んだ後―――来たるべき3月21日、竜ヶ峰帝人の18歳の誕生日に彼女は平和島帝人になる。
白銀の鐘を鳴らそう
リクエストしてくださった紗鳳寺のえる様に捧げます。 紗鳳寺様、ありがとうございました! |