「やっほー静雄君! 遊びに来ちゃった」
「ッ! 帝人さん!?」
 放課後、来神高校の校門前で手を振る人物を見つけ、平和島静雄は瞠目して駆け寄った。
「何しに来てんすか! ここ高校ですよ」
「だって僕、来良学園――今は来神だけど――の卒業生だし。久々に静雄君の元気な姿も見たかったからね」
 そう言って笑うのは高校二年生になった静雄よりほんの少し年上に見える青年。だがそれは“ほんの少し年上に見える”だけで、実際の彼はとっくの昔に成人しているはずである。
 童顔の彼の名を竜ヶ峰帝人と言う。
 ゴツい名前に似合わず温和な空気を纏った小柄な青年は、静雄の目線よりも随分下の位置から年上らしい視線を向けて来た。それがどうにも気恥ずかしく、静雄は横を向いて「そうですか」としか返せない。だがそんな静雄の反応に帝人がクスクスと笑いを漏らした時、ふわりと香ったコロンに気付いて静雄は首を傾げた。
(めずらしい)
 こう言うと何やら変態臭いかもしれないが、帝人は普段からあまり匂いがしないのだ。無臭ではないが、男であるため女のような化粧品の匂いもしないし、また香水の類もつけない。仕事で厚化粧のご婦人やコロンをつけまくった男などに会う場合は不可抗力でしばらく匂いが移ってしまうという話も聞いた事はあるのだが、そういう仕事の後に帝人が静雄の前に現れるのは全くと言っていいほど無かった。
 ちなみに帰宅部の高校生が校門を通るのを待ち構えていられる帝人の仕事は、当然の事ながら自由業である。
 本人曰く、
『表向きはコンサルティング。でも実際は情報屋さんってところだね』
 だそうだ。
 なんとも怪しい職業ではあるが、帝人の笑みを見ているとそれもアリかなと思ってしまう。……と言うのを小学校からの知り合いである岸谷新羅に告げたところ、「完全に流されてるよ、静雄」と哀れむような視線をもらったのは帝人と出会って少し経った頃だと記憶している。どういう意味だ。
「あれ? やっぱり校門で話してると注目されちゃうねぇ。そろそろここから移動しようか?」
「え、ああ……はい」
 珍しいコロンの匂いに気を取られていた静雄は帝人の声でハッとし、先に歩き始めた小さな背中を追いかけた。
 確かにあまり長くこの場に留まるのも得策ではないだろう。今日は何故か一日中見かけなかった某ノミ蟲が現れるかもしれないので。
 静雄の高校生活を滅茶苦茶にするあの男はどうやら帝人に構ってもらいたくて仕方が無いようなのだ。よって帝人が現れると、どこからともなくそれを嗅ぎ付けてあの黒いノミ蟲も現れる。すると静雄と喧嘩になって、結局、ノミ蟲もそうだが静雄もまた同じく、帝人と会える時間が少なくなってしまうのである。
「そう言えばこの前、サンシャイン60通りの手前で移動式のクレープ屋さんを見つけてね。それがもうすっごく美味しくてさ」
「そこ行きますか?」
「あ、いいの? じゃあそのクレープ屋さん見つけたら静雄君におごってあげる」
 静雄がその容姿に似合わず甘い物好きだと知っている帝人はニコニコと笑いながら進行方向を変更する。遠慮しても無駄だというのは解っているので、静雄も素直に頷いて「ありがとうございます」とだけ付け加えた。
 甘い物は好きだ。その好きな物を帝人と一緒に食べられるというのはもっと嬉しい。
 この大人は静雄の周りにいる人間達と違って静雄を怒らせない。つまり静雄が嫌う暴力を振るわせないので、静雄は帝人の傍にいるとひどく安心した。ただし最近、その安心感が少々揺らぐ時がある。それは例えば、
「あははっ。静雄君は素直でホントいい子だなー」
 こうやって帝人が笑ってくれた時。ウズウズと身体の奥で何かが蠢くのだ。
 それに気付いた当初、静雄は自分が子ども扱いされて腹を立てたのだと思った。けれどもいつもなら突発的に顕現する暴力が帝人に対してはナリを潜めている。今もまた、拳を握り締めて相手にぶつけようという衝動は無く、むしろその手を取って引き寄せて―――
(って何考えてんだ)
 よろしくない妄想が頭の中で映像化されそうだったため、静雄は慌ててかぶりを振った。
「静雄君?」
「いえ、なんでも」
 大丈夫です、と答えた静雄の視線の先には心配そうにこちらを見上げる帝人の姿。
 確かに彼は日本成人男子の平均と比べてもかなり小柄で、黒目がちな目は大きく、声だって高めだ。けれども男。竜ヶ峰帝人は男なのである。
(だから“そういう”のはナシだ)
 自分が帝人に懐いているのは彼が優しく穏やかな人であり、静雄を怒らせないから。他意はないと自身に言い聞かせ、静雄は彼から香ってくるかすかな甘いコロンの香りを頭の中から遮断した。



* * *



(あ、うま)
「おいひいねー」
 来神高校からやって来てみると帝人の言っていたクレープ屋はサンシャイン60通りから少し移動しており、東池袋公園の前に止まっているのを見つけて二人は無事に購入する事ができた。
 噴水の正面にあるベンチに腰掛け、静雄は予想以上に己の好みに合った味にコクコクと頭を動かす。線が細く温和な雰囲気の帝人と一緒に居れば甘い物を買っても他人から不審な目を向けられる事が少ないので更に機嫌がいい。
「久々に取れた休みだからさあ、こうしてのんびり過ごせて良かったよ」
 口の中にあったクリームやらフルーツやらを飲み込んで帝人は呟く。
「……そういや最近、帝人さんの姿を池袋で見かけませんでした」
「厄介な仕事が立て込んでてね。他の県にも行ってたりしてたんだよ」
「お疲れ様っす。でも疲れてんなら尚更、俺といるより家で休んでた方が良かったんじゃないっすか」
 静雄は返答しながら、本当はそう思っていないくせによく言う、と心の中で自嘲する。校門前で帝人を見かけて駆け寄って行ったのは何も驚いたからだけではない。しばらく見かけなかった帝人がようやく現れたのを嬉しく思ったからだ。
 そんな静雄の心情を知ってか知らずか、帝人は最後の一欠片を胃の中に収めて包み紙をぐしゃぐしゃと丸めた。
「いやいや。体力的な面ではそうでも精神的にはまた違うからね。若い子とお話して元気を貰おうってワケ」
「若い子って……確かに俺は高校生っすけど、帝人さんも言うほど年取ってないでしょう?」
「でも誕生日が来たら四捨五入して三十路だからね、僕」
 下手をすれば十代に見える青年はそう言ってニコリと笑った。
(その四捨五入して三十路で性別男のこの人を、俺はなんで可愛いとか思うんだよ)
 自分一人ならば今すぐここで頭を抱えそうな葛藤の中、静雄は努めて外面の平静を保つ。
 帝人は丸めた包み紙をしばらく掌の上で弄んでいたが、おもむろに立ち上がると公園の隅のゴミ箱に足を向けた。静雄も遅れて最後の一切片を口の中に放り込んで追いかける。だが―――
「帝人さん、俺も―――……ッ!? 帝人さん!!」
 静雄の目の前で帝人の身体がふらりと揺れた。
 そのまま力を失い倒れるのを、地面に触れる直前で静雄が受け止める。コート越しに触れた身体は折れるかと思うほど細く、静雄は場違いにも顔が赤くなるのを感じた。しかし帝人の額に脂汗が浮かんでいるのを見つけて全身が一気に冷える。
「びょ、びょういん。救急車っ」
「……っいいから」
「みかどさん!」
 静雄が騒いだ事で周囲も異変を察知し、ざわざわと気配が揺らぐ。そんな中、救急車を呼ぶなと告げる帝人に静雄は困惑した。
「病院は、やめて。はずかしい」
「は? 何言って……」
 抱き締めているとコロンが更に強く香る。だがその香りは高校の校門前で嗅いだ時とは少し違うような―――。そうは思いつつも、今はそれどころじゃないだろうと考え直して静雄は帝人に問いかけた。
「じゃあどうすれば」
「僕の家、知ってるでしょ。コートのポケットに鍵が、」
「運べばいいんですね?」
「ん。お願いします」


 それから十五分後。
 帝人の家まで全速力で走った静雄は今だけ自分の馬鹿力に感謝しつつ、細い身体をそっとベッドに寝かせた。帝人は顔色が悪いままで小さく呻っている。
「みかどさん……」
「ごめん、静雄君。そこに救急箱があるから取ってくれる? あと水もお願い」
「あ、はい」
 言われたまま行動し、コップに水を汲んでくると、帝人は救急箱を開けて半分は優しさで出来ていると有名な錠剤を取り出していた。
 帝人は頭痛に襲われているのだろうか? それにしては様子がおかしい。
 静雄は内心で首を捻るも、だからと言って自分にできるのは救急車を呼ぶくらいでありそれを帝人本人に拒否されているため、結局のところ何をしていいのか分からない。
 白い錠剤を飲んだ帝人はしばらくベッドの上で安静にしていると、薬が効いてきたらしくその顔色も良くなってきた。傍でじっと見守っていた静雄はほっと一息吐く。
「もう大丈夫なんすか?」
「うん。ごめんね静雄君。吃驚させちゃって」
「いえ、帝人さんが大丈夫ならそれで―――」
 ヒクリと犬のように鼻を動かし、静雄は言葉を止めた。
 その様を帝人はベッドの上で小首を傾げて眺めている。
「静雄君……?」
 帝人に名前を呼ばれるも静雄はそれに答えず、鼻先を掠めた匂いに眉間の皺を寄せた。
 この匂いは……。
「帝人さん、怪我してるんですか」
「え?」
 コロンに紛れて静雄の鼻に届いたのは明らかに血液の匂いだった。自分もノミ蟲こと折原臨也が仕掛けた喧嘩の所為でよく嗅いでいるそれに気付かないはずが無い。おそらくいつも香水の類などつけない帝人はこの血の匂いを隠すために普段とは違う匂いで自分を覆っていたのだろう。
 静雄は今まで気付けなかった自分を恥じ、それから帝人にどこを怪我したのか見せてくれと迫った。
 しかし、
「え? う、あ……」
 帝人の顔がボッと火が着いたように赤くなる。
 小柄なその人はシーツを自分に引き寄せると、静雄の顔を凝視したまま意味不明な単語を発し始めた。
 大きな目は涙で潤んで静雄の本能に訴えるものがあったがそれは無視する。意味のある言葉を発しない帝人に対し静雄が取る行動は問答無用で彼を病院に連れて行く事。あとは専門の人間に任せるのが負傷しているらしい帝人にとって一番いい方法なのだ。―――そう思って静雄が帝人を抱えようと手を伸ばす。
「うわあああああ!! だめ! 静雄君だめ!!」
「え、帝人さん!?」
 ぱしんと手を弾き、ベッドの隅に逃げる帝人。
 負傷している割には元気かつ素早い行動に静雄は目を白黒させた。
「でも怪我が」
「してないしてない! 怪我なんてしてないから!!」
「や、そうは言いますけど血の匂いが」
「言わないでぇぇぇええ!」
 ベッドの隅から顔半分をシーツで隠した帝人はキッと静雄を睨みつける。
 そして顔を真っ赤にしたまま彼は言い切った。
「生理なんだから仕方ないだろ!」
「………………は?」
 時が止まった。
(え? せーり? それって整理整頓の……。いやでも今この状況で片付けしてどうすんだよじゃあやっぱあれかせーりってあれなのかあれなのか!?)
 静雄の頭も大変混乱している。
 目の前の青年は小さくて細くて声も高めで笑った顔がとても可愛くてでも男で。けれど生理? 女性が子供を作れる体になるためのアレなのか。という事は、竜ヶ峰帝人は男じゃなくて―――。
「おんな……?」
 ぽつりと零れた静雄の呟きに、帝人の顔がこれでもかと言わんばかりに赤味を増した。
「マジで?」
「……そうです。僕、竜ヶ峰帝人はれっきとした人間のメスなんです」
 視線を斜め下にやり、帝人はぼそぼそと告げる。
「なんで、」
「男の格好してるかって? そりゃその方が仕事しやすいからだよ。男女平等の世の中って言っても、女じゃナメられる事が多いのは事実だからね」
 帝人は「はあ」と溜息を吐いて短い黒髪を片手でぐしゃぐしゃとかき回した。
「うわーもう。折角折原君が学校にいなくて僕も仕事が休みでこんなチャンス滅多に無いっていうのに……。なんで生理二日目と重なっちゃうかなぁ。それで静雄君にバレたし、迷惑も掛けてるし。良い事ない」
「なっ……」
 帝人の顔は赤いが、彼―――いや彼女の呟きを聞いて静雄の顔も赤く染まる。
 まず女っ気のない静雄に生理という単語はハードルが高すぎる。そして何より帝人の前半の台詞だ。それはつまり、帝人は臨也が邪魔しに来ないタイミングを狙って静雄とゆっくり話すために学校まで来たと解釈していいのだろうか。
「あの、帝人さん」
 思い切って声をかけると帝人の視線がこちらを向いた。黒く大きな瞳は静雄の赤く染まった顔を見て自分の言動を振り返ると、
「や、あのね、今のは言葉の綾と言うか!」
「こっ言葉の綾だとしても、ノミ蟲に邪魔されないようにして俺に会いに来てくれたんですよね?」
「あう……」
 ベッドの端で小さな身体を更に小さくし、帝人は言葉を詰まらせる。だがその頭がコクリと縦に振られたのを見て、静雄は心臓が大きく跳ねるのを自覚した。
「すっげぇ嬉しいです」
 感情のまま頬を緩ませて微笑を浮かべる。
「本当に?」
「はい。本当です」
「じゃあさ、これからも僕と会ってくれる……?」
「勿論」
 静雄がきっぱり答えると帝人は顔を隠すシーツを手放して再びこちらに近付いて来た。潤んだ瞳と赤く染まった目元、ふっくらとした唇に細い首、白い肌。それらを改めて認識した静雄は自分の喉がゴクリと鳴るのをどこか他人事のように聞く。
「みか、ど……さん」
「なあに?」
(うわぁ可愛い可愛い。なんだよ俺、帝人さんが女って意識した途端これか? いや、女だって判る前からこうだったっけ? あれ?)
 外に聞こえるのではないかと思うくらい心臓に鼓動を刻ませて静雄は帝人を見つめた。喉は渇き、コロンとかすかな血が混ざった匂いに頭がくらくらする。
(俺は……)
「静雄君?」
(おれ、は……)
 名を呼ばれ、まるで何かに誘われるように静雄は告げた。






   





「貴女が好きだ」







リクエストしてくださったるいしか様に捧げます。
るいしか様、ありがとうございました!