きっかけは友人との些細な会話だった。
『他人に言っただけではダラーズをやめた事にならないぞ?』 首無しの妖精にしてこの街で運び屋を営む友人、セルティ・ストゥルルソンの発言に、平和島静雄は自身につけられた二つ名に似合わずきょとんと目を丸くした。 「でも俺のとこにはもうダラーズのメールも何も回って来ねえぞ」 『そうなのか?』 「ああ」 PDAに打ち出された文字を読んで静雄は頷く。 「ダラーズに入ってる奴に言っといたから、あいつが何とかしてくれたんだと思うんだけどよ」 『だが脱退手続きはIDだけじゃなくパスワードも必要なんだぞ。お前はそれを赤の他人に教えたのか? ……いや、それを悪い事だと非難するつもりはないんだ。だが見も知らぬ人間にパスワードまで教えて悪用されでもしたらと思うと少し心配で』 「は? 何言ってんだ」 静雄は小首を傾げ、セルティを見やった。 そう。彼は知らなかったのだ。言われるまま、誘われるままダラーズに入った静雄は元々パソコンやインターネットの知識に疎かったのである。 こういう脱退手続きには本人の意思確認を兼ねてID以外にも個人が設定したパスワードが必要になる。多くの者は己がよく使う端末――携帯電話やらパソコンやら――にパスワードを覚えさせたり、そうでなくともパスのヒントを保存しているため、とある青い布を纏った少年達が本人の意思を無視して脱退手続きを行う事もできるが……。そんな例は不本意ながら『最強』を冠する静雄に当てはまるはずもない。 『いやだから、静雄は他人にパスワードを教えてしまったんだろう?』 「教えてねえって。俺はただ抜けるって言っただけだし」 『……一応、きちんとアカウントが抹消されているか確認してみたらどうだ』 セルティにそう言われ、静雄は渋々携帯電話を取り出した。ネットに接続し、ダラーズのサイトに飛ぶ。だが共通パスワードによりトップページから中に入る事はできても、それ以上の――個人のIDとパスワードが必要な――操作はできなかった。 「ん。やっぱきちんとやめてるだろ。セルティは心配しすぎなんだよ」 『これはおかしいだろう。こんな事……管理者権限を持つ人間くらいしか』 そこまで打ち込み、セルティはハッとなった。「まさか」と顔があるなら青ざめさせるくらいの心情でカタカタと新しい文章をPDAに表示させる。 『なあ、静雄。お前がダラーズを抜けると告げた人間っていうのは何人いる?』 「前にも言ったかもしんねえけど、竜ヶ峰っていう兄ちゃん一人だけだよ」 セルティの打ち込んだ文章を全て読んでいた静雄はそこまで言って口を閉じた。 それからしばらく黙考した後、「あ」と小さく呟く。 『静雄?』 「そっか。そういう事かよ。だからあいつ―――」 『お、おい静雄?』 怒っているような、笑っているような、悲しんでいるような、楽しんでいるような。そんな色々な感情が混ざり会う声で喉を震わせながら、静雄は腰掛けていた鉄柵からふらりと立ち上がった。 思い出すのは先日見かけた光景。 平穏そのものを表すような容姿の少年・竜ヶ峰帝人が、何故かヤクザの幹部である赤林という男を連れて静雄の目の前から去っていったあの時。帝人の傍に立つという行為を、どうして赤林は許され、静雄は許されなかったのか。その理由が解った気がして静雄は笑いたくなるような怒りに脳の神経が焼き切れそうだった。 (もうダラーズじゃねえ俺には関係ないってのはそういう意味だったのか) 未だ帝人が何を考えどんな行動を取っているのか静雄は知らない。けれどもそれに関わるためには―――帝人の瞳にもう一度平和島静雄という人間が映るためには、竜ヶ峰帝人とダラーズの関係をきちんと知っておかなくてはならないのだ。 「……管理者権限って事は、それを持ってる奴がダラーズのリーダーって事だろ?」 背後を振り返り、無言の妖精に問う。 セルティは空っぽのヘルメットを小さく揺らしてPDAのキーを押す手を硬直させた。 だが静雄が視線を逸らさずじっと見据え続ければ、やがて根負けしたのか、それとも静雄ならば大丈夫だと思ったのか、カタカタとキーを叩いて画面をこちらに向けてきた。 『そうだ。私が知る中でメンバーのIDのみで脱退手続きができるのはダラーズのリーダーだけだ』 「じゃあやっぱり」 静雄の声に妖精はこくりと頷く。 『お前がダラーズ脱退を告げたのはダラーズのリーダー本人なんだよ』 「……はっ」 首無しの妖精から改めて突きつけられた真実に静雄は腹の底から笑いがこみ上げてくるようだった。 まさかその手を取りたいと思った人間の存在に気付いた時にはもう、その人間と関わる権利を失っていただなんて。常から自分はバカだバカだと思っていたが、これでは本当に大馬鹿者だ。 しかしそこまで考えて静雄はもう一つの事を思い出した。静雄が帝人と赤林をセットで見かけたあの時、帝人は静雄に何か言おうとしていなかっただろうか。途中で赤林に遮られはしたが、あれは確かに―――。 (俺がもう一度ダラーズに入る事を望んでいた?) ならばやりようはある。ようやく気付いた“大切なもの”の手を取るための手段が、それが許されるだけの力が、望まずとも静雄には最初から備わっているのだから。 (たぶんあいつはかなり危険な事をしている。ヤクザの男なんかを連れてるのがいい例だ。だったら俺だって同じくらい……いや、俺の方が役に立つ事もあるはずだ) 『静雄……?』 心配そうな様子でPDAを差し出す友人に、静雄は小さくかぶりを振って「大丈夫だ」と笑う。 「諦めてた事が諦めずに済みそうなんだ。ああ、あとできればちょっと教えてくれねえか?」 『何をだ?』 教えられるものならば何でも教えるぞ、と答えたセルティに静雄はどこか楽しげな表情で告げた。 「もう一度ダラーズに入るにはどうすればいい?」 □■□ 「竜ヶ峰」 名前を呼ばれ、帝人はビクリと肩を震わせた。 場所は歓楽街も近い裏通りの一つ。通りの向こうから届くネオンの明かりは、今が帝人のような子供のいるべき時間ではない事を示している。 さっきまで行動を共にしていたダラーズの粛正部隊ことブルースクウェアのメンバーは解散しており、帝人の傍に残っているのは右目に傷が走った壮年の男―――赤林一人だけ。だがこの呼び方もこの声も、決して赤林のものなどではない。 恐る恐る振り返ると、歓楽街の明かりをバックに長身の青年が立っていた。 綺麗に染められた金髪と双眸を隠すサングラス。すらりと伸びた四肢を包むのは白と黒のバーテン服。この池袋に住む者なら誰もが知っている男、平和島静雄がそこにいた。 「おやおや。どうして喧嘩人形がここにいるんだろうねぇ。女の子でも買いに来たのかい?」 帝人が驚きに声を出せずにいると、隣から揶揄を含んだ声が静雄に向けられる。 その大人は帝人の右肩に左手を乗せると、残った右手で凝った意趣の杖を弄びながらクツリと笑った。 「確か兄ちゃんの後輩に可愛い女の子がいただろう? あの子には相手にされなかったのかな?」 完全に敵視している。帝人は赤林の台詞を聞いてそう感じた。だが何故赤林が――四木ならまだしも――静雄にまでこうもあからさまな敵意を向けるのか、帝人にはそれが解らない。相手が喧嘩人形と言われる所以を知っているにも拘わらず、その彼をわざと怒らせるような真似をするなんて……。 「あかばやし、さん?」 安すぎる挑発に静雄が乗ってしまったらどうするのか。 静雄の怒りが顕現する事に対する恐れが半分、そして今もまだ帝人の憧れでもある青年をわざとらしく貶めるなという怒りが半分、ちょうど同じ量で帝人の中を満たす。 こちらを一瞥した赤林にはそんな帝人の考えが解っているはずなのに、けれども彼は肩に置いた手の力を強めただけで弁解の言葉などは欠片も口にしなかった。 「何を、そんなに」 警戒しているんですか、と帝人が告げるよりも早く、コツリと革靴の音が耳を打った。 「どうやらそっちのオッサンは察したみたいだな。俺にも“権利”が戻ってきたって」 「え?」 ゆっくりと歩み寄りながら放たれた静雄の台詞に帝人は首を傾げる。だが直後、ギリッと強まった赤林の握力に、静雄の言った事は赤林にとって事実なのだと悟った。 「……っ」 「おいおいオッサン、竜ヶ峰が痛がってんじゃねえか。そいつに危害を加えんなら今すぐ俺がアンタの場所をとってやってもかまわねえんだぜ?」 言外に無理矢理奪ってやろうかという意味を潜ませて静雄はサングラスの奥の瞳をスッと細める。 と、そこで帝人は気付いた。赤林が静雄を見るのと同じく、静雄が赤林に向ける視線にも明らかな敵意が混じっている事に。以前帝人が「関係ない」と言って係わる事を拒否した相手は、あの時の困惑や戸惑いなどは完全に捨て去って何か明確な意志をその胸に抱いているようだった。 「静雄さん……」 口から零れ落ちた名前はしっかりと静雄に届き、一瞬で剣呑さを消した双眸が帝人に向けられる。赤林との差に驚きながらも、帝人は青年に「どうして」と問いを発した。 「どうして貴方がここにいるんですか」 もしまだ帝人の事に―――ダラーズの事に係わろうとしているなら、もう一度きっぱりと断らなければならない。それがダラーズを抱える帝人がダラーズを離れた静雄に取るべき態度だ。そう強く自分に言い聞かせ、帝人は静雄の返答を待った。 そして、 「お前のモノになるために、来た」 「……なに、を」 「ダラーズにもう一回入ったんだ。これで俺はお前に係われるんだよな?」 静雄が一体何を言っているのか理解できず――否、理解したくなくて――帝人は息を止める。だが静雄はそんな帝人に追い討ちをかけるかのごとく、そして逃げ場など用意してやらないとばかりに優しい微笑を浮かべてみせた。 「普通、ダラーズを抜けるにはIDと個人が決めたパスワードが必要なんだってな。でも俺はお前に『抜ける』って言っただけで、パスワードは教えていなかった。なのになんで俺は脱退できたんだ? ―――ヒントはすぐ近くにあったって訳だ。お前が何なのか、お前にとってダラーズってのは一体どういうものなのかって。そしたら前にお前が俺に対して言った言葉の意味も解ったよ。だから俺はもう一度、“お前のダラーズ”に入ったんだ」 「静雄さんが、もう一度ダラーズに……?」 帝人が静雄のダラーズ脱退によって受けた傷は自覚しているものより深い。 彼が「抜ける」と告げたあの頃にはもう帝人には己とダラーズを同一視する――もしくは所有物扱いする――傾向が出始めており、名も知らぬ誰かとは違い帝人の中で特別な存在の一人である静雄がそこから抜けるというのは親友の正臣が姿を消したのと同じくらい衝撃的だったのだ。いや、下手をすると親友の失踪よりも酷いかもしれない。正臣とはバキュラと田中太郎としてチャットという繋がりを新しく得た一方で、静雄とはダラーズであるという繋がりしかなく、それがぷつりと切られてしまったのだから。 そうやって帝人の心を抉りながら去っていったものが、今度は再び戻ってきたのだと言う。しかも帝人がダラーズの創始者であると知った上で。 どくり、と。ひときわ強く帝人の心臓が鼓動を刻んだ。 大きく見開かれた子供の双眸を静雄は楽しげな表情で受け止め、「ああ。そうの通りだ」と帝人に染み込ませるように告げる。 「これで俺はお前の―――」 「聞かなくていいよ。竜ヶ峰君にはもうおいちゃんがいるだろう?」 静雄が言い切る前に赤林がそれを遮った。 「俺は今、竜ヶ峰と話してんだ。邪魔すんなオッサン」 「後から出てきてガキがナマ言ってんじゃねえよ」 二人は互いに敵意剥き出しの視線を向け、低く呻り合う。 赤林は己がようやく手に入れた位置を盗られぬように。静雄はその位置を欲するが故に。 「前も後も関係ないだろ。選ぶのは竜ヶ峰だ。……なあ、竜ヶ峰?」 「静雄、さん」 「俺はお前の所に“戻って”来た。これで俺はお前に係わってもいいんだよな?」 「そ、れは……」 自分達が行っている事が決して静雄のよしとする所ではないと頭の片隅で理解しているだけに、帝人は言葉を詰まらせる。即答できない帝人に、しかし静雄は逃げも隠れも許さなかった。 「お前が言ったんだぞ? ダラーズじゃない俺には関係ないって。でも俺はもうダラーズなんだから関係なくはないよな。それに……」 一度言葉を区切り、静雄はうっすらと笑う。 「お前が何をやってるのか、少しは知ってるんだ」 「え?」 一瞬、帝人は心臓が止まったと思った。 瞠目して相手を見上げれば、静雄は赤林など無い物のように扱って帝人だけを見つめる。 「情報を扱ってる奴がノミ蟲だけだなんて思ってないだろう? 調べようと思えばそれなりの事は調べられる。俺もまだ全部を知ってる訳じゃねえが、お前がこういう所にいるって事と何をやっていたかぐらいは判ってるんだよ」 「それでも貴方は僕と係わろうって思うんですか……?」 卑怯な事や暴力沙汰を嫌う静雄がそれを進んで行っている帝人に係わろうだなんて。信じられずに帝人は呆然と問いかけた。 ダラーズに然して興味も執着も無かった彼が今更ダラーズの浄化を望むとは考え辛い。嫌になったから係わらない―――静雄はそういう態度を取るはずの人間だ。 だと言うのに、静雄は帝人の考えを裏切って肯定を返した。 「だから言ってるだろ? お前と係わるためにダラーズに戻ったって」 「信じられません」 目の前には静雄が帝人から離れる要素しか転がっていないというのに、静雄本人はそれらの要素と全く逆の言葉を言う。この状況で一体どうすれば信じられるというのか。 心の奥では静雄の帰還を純粋に喜んでいる自分がいるのだが、そのやわらかな部分を守る外壁が容易に静雄を信じてはいけないと警戒する。これでもし静雄が再び帝人から離れてしまえば、帝人はきっと今よりも何よりも誰が与えたものよりも深い傷を抱える破目になる。とてもじゃないが耐えられない。 帝人が青葉と彼が率いるブルースクウェアを受け入れているのは、彼らとの間に相互利用の契約を結んだから。赤林が帝人の傍に立てるのは、裏切った時にどうなるのか約束をしたから。だから帝人の周りには彼らがいる。けれど静雄と帝人の間にそんなものは全く無い。もう無条件の信頼というのは帝人の中で容易には成り立たないのだ。 帝人をそうさせた人間の一人でもある静雄は、帝人の言葉を聞いて何を告げるべきか迷っているようだった。そして赤林はと言えば、若干の苛立ちを押さえ、代わりに余裕の態度を見せている。 そんな赤林の様子に気づいた静雄は小さく舌打ちし、「こいつはお前の隣に立ってるのに」と小さく呟いた。 「俺じゃあ駄目なのか」 「貴方だから駄目なんじゃありません。でも僕には貴方を信じるだけの理由が無い」 契約を交わした事もなければ、静雄が実際に帝人に信じさせるだけの行動を取った訳でもない。―――帝人がそう告げると、静雄は「確かにな」と頷いた。確かに自分は竜ヶ峰帝人を信じさせる行動など取った事がない、と。 「……」 本人が認めた事で帝人の中には小さな失望感が生まれた。帝人自身が彼にそう言わせたというのに、それでもやはり静雄自身が1ミリでも帝人から離れるような気配が感じられるだけで胸の奥がギュッと痛みを訴えてくる。なんて自分勝手なんだろうと帝人は自嘲した。だがこれも全て帝人の心が致命傷を負わないようにするための自衛なのだ。 沈黙がその場を支配する。 もうこの話は終わりだろうか。静雄が口を噤んだ事で赤林は己の“勝利”を感じ取ったらしく、帝人の肩を掴んでいた手も『掴む』というよりは『置く』と表現していい程度に拘束する力が弱まっている。 しかし静雄が既存の事実を認めるだけで終わる事はなかった。 「じゃあ竜ヶ峰、どうやったらお前は俺を信じてくれる? その男より役に立てば俺をお前の傍に置いてくれるのか?」 真っ直ぐに帝人を見つめ、己が帝人の横に立つための答えを求める静雄。何よりも雄弁にその意志を語る強い視線を受け、帝人は肩を揺らした。 信じたい気持ちと、信じて裏切られた時を恐れる理性と。それらがせめぎ合い、帝人は声を詰まらせる。危うい均衡はあと一つ何かが加われば容易く崩れてしまいそうな程だ。 「所詮オモテに住んでる兄ちゃんが、俺に―――粟楠会の赤鬼に勝てるってのかい?」 答えに迷い声を失くした帝人に代わって、赤林が挑発するようにそう告げた。 しかし男の挑発を嘲るように静雄は「はっ」と鼻で笑う。サングラス越しにギラギラした視線で相手を睨め付けると、静雄は口元を凶悪に吊り上げた。 「赤鬼がなんだ。鬼だなんて言ってもどうせアンタは『人』じゃねえか。そして俺は『化物』……人が化物に勝てる訳ないだろう?」 竜ヶ峰帝人のためならば己を化物と認め、化物として力を振るう事すら歓迎しよう、と。 そう言って静雄は帝人に向かって誘うように手を差し出す。 「だから俺を選べ。俺を信じろ、竜ヶ峰。お前のためなら全てを捧げてやる」
眼前に開くは魔犬の
均衡を崩す一石が投じられた。 そして、少年の足は動き出し―――。 リクエストしてくださった紗鳳寺のえる様に捧げます。 紗鳳寺様、ありがとうございました! |