ヴァローナと呼ばれる女性はカラフルなイラストが表紙を飾る本を開きながらカッと目を見開いた。
「理解しました。私の今の状態、それ即ち『恋』と呼ばれるものであると」 この本、もとい少女漫画はヴァローナの現在の職場にて事務方の女性達が貸し借りしていた物である。これまでヴァローナが読んできた文字ばかりの本とは違い、目の大きな少年少女達が紙面いっぱいに描かれているそれの存在を彼女は知識としてなら知っていた。が、実際に読んだ事はない。 ヴァローナが先輩である平和島静雄に恋慕していると勘違いしているその女性達は、彼女の興味を含んだ視線に気付くと快く少女漫画を貸してくれた。「そうね、ヴァローナちゃんはこれで勉強するのもアリかもね」「うんうん、ヴァローナちゃんって漫画のキャラみたいに可愛いし」とか何とか言って。 ともあれ、そういう経緯でヴァローナは少女漫画を手に入れた。 内容は平凡な世界でヒロインが少年と出会い、自分の想いを自覚し、その少年と徐々に距離を縮めていくというもの。事務方の女性達は二人の登場人物が距離を詰めていく課程がヴァローナの参考になればいいと思っていたのだが、当のヴァローナ本人はその前段階、ヒロインが自分の気持ちを理解する場面で天啓を受けたような気分だった。 ただしプラチナブロンドの頭の中を満たしていたのは人工金髪の先輩……ではなく、短い黒髪と白い額が眩しい高校生であった事をここに記しておく。 □■□ 「あっ、トムさんこんにちは。お仕事中ですか?」 てってって、と駆け寄ってくる青いブレザーの少年を視界に入れ、田中トムは目元をゆるめて笑みを浮かべた。 「よう、まぁな。そういやもう授業が終わる時間だったか」 「はい」 トムの正面までやって来たのは真面目が服を着て歩いているような、けれども同時に小動物的な可愛らしさも備えた男子高校生。名を竜ヶ峰帝人という。 なんとも大仰な名前だが、本人はこうして実に大人しそうな容姿の子供である。しかしトムが帝人と知り合うキッカケになったのが部下で後輩の平和島静雄である事を考えれば、この少年もただ大人しいだけの人間ではないのかもしれない。 (けどまぁホント、今時珍しいくらい良い子だよな) たとえば知り合いを見つけたら必ず挨拶する。雑踏で人にぶつかってしまったら無視でも舌打ちでもなく謝罪する。そして何より容姿、動作、言葉の全てがトムの後輩を1ミリも怒らせない。 「お前が静雄と知り合いで本当に良かったよ」 「え? え、わっ……ちょ、トムさん!?」 思わず手が伸びて傍らの頭を撫でてしまう。帝人も驚いたようだが嫌がる素振りは見せなかったので、トムはしばらく高校生の形をしたマイナスイオン発生機の頭をぐりぐりと撫で続けた。 「……取立ての仕事してる皆さんって頭撫でるのが好きなんですか?」 しばらく撫でた後、ぽろりと落とされた帝人の疑問にトムは目を丸くする。どういう事だと視線で促せば、帝人は恥ずかしがるように一瞬だけ口ごもってから教えてくれた。 「えっと、静雄さんと……あとヴァローナさんも、なんか僕が傍に行くとぐりぐりされます」 「そりゃあ……なんつーか」 ご愁傷様、とは言わないけれども。 この街で『自動喧嘩人形』として恐れられる怪力の持ち主に頭部という急所を晒すのはちょっとばかりスリリングな体験かもしれない。またどこか一般人と違う感じはあるものの掛け値無しの美人であるヴァローナから先刻のトムと同じ扱いを受ければ、静雄の場合とはまた別の意味でドキドキした事だろう。なにせ竜ヶ峰帝人は小さくて大人しそうでも男子高校生なのだから。一応。 ただ『一応』とつけてしまうくらい帝人は人を和ませる容姿と空気を持っているので、トムにも二人の後輩の気持ちが解らない訳ではなかった。いや、むしろよく解る。帝人に「ご愁傷様」と言えなかったのはその所為でもあった。 「まぁあいつらも悪い人間じゃないから、お前が嫌じゃなけりゃ撫でられてやってくれ」 「はあ、別に構いませんけど」 自分が撫でられる理由を解っていないらしい少年は不思議そうな顔のままで頷く。トムはまさか後輩二人が小動物的な癒しを求めてるんじゃないかという推測を教える訳にもいかず、曖昧に笑って「ありがとな」と短く礼を告げた。 ふと腕時計に視線を止めると休憩時間の終わりが近付いている事に気付く。そろそろ別行動中だった後輩達もここにやって来るだろう。そうしたら帝人の頭は静雄とヴァローナによって心ゆくまで堪能されるのかもしれない。 「……」 金髪の二人に挟まれて撫で回される帝人の絵を想像し、トムはうっかり可愛いなどと思ってしまった。 「トムさん?」 「ん? ああ、悪ぃ。もうちっとしたら静雄達がここに来るはずでな」 二人に挟まれた帝人が見たいから待っていてくれるか、とは訊けず、トムはそこで言葉を切る。すると帝人がパアっと顔を輝かせて「お邪魔でなければ僕もここで待っていていいですか?」と逆に問いかけてきた。 「おう。問題ねーべ」 キラキラした笑顔に癒されたトムの手が再び帝人の頭に伸びる。だが今度は指先が黒髪に触れるよりも早く第三者の声が聞こえてきた。 「田中トム先輩、私は貴方を敵と認めます。承認してください」 「いやそりゃ無理だろ」 手を引っ込めつつ思わずツッコミ。声のした方に振り向くと、不機嫌そうな顔をしたヴァローナが立っていた。 だがその苛立ちを露わにした顔は、話題にしていた人物の登場に帝人が微笑んだ事ですぐに解消される。 「ヴァローナさん、こんにちは」 「帝人、三日ぶりです。私は貴方に会えて嬉しい。肯定します」 「僕もヴァローナさんにお会いできて嬉しいです」 「そ、そうですか! それは非常に喜ばしい事態です!」 ヴァローナの白い頬がほんのりと赤く染まる。そんな後輩の様子を眺めてトムは「おや?」と思った。 てっきりこのロシア人の後輩は静雄の事が好きなのだと思っていたが、彼女が静雄を前にしてこんな反応を見せた事はない。静雄を指して自分の獲物だと表現した事はあったが。 (随分物騒な好意の表現だと思ったが……こりゃマジでそっち方向の『獲物』だったって訳か? んで、ヴァローナの本命は―――) ちらりと童顔の高校生に視線を向ければ、それに気付いた帝人が「トムさん? どうかしましたか?」と小首を傾げる。そしてヴァローナは帝人の意識が自分からトムへと移った事に対して不機嫌さも露わに睨みつけてきた。 (あはは。確定だな) 見た目はともかく実年齢での差を考えれば有り得なくもない。確か二人は三年程度しか違わなかったはずだ。 「ん? いやな、これからもヴァローナと仲良くしてやって欲しいなと」 「そんなの当たり前ですよ! って言うか僕の方が仲良くして“もらって”いるんですけど」 そう言って照れたように笑う帝人は大層可愛らしかった。トムがそう感じたのだからヴァローナは最早ハートに直撃だったようで、彼女の周りにピンクのオーラと沢山の花が舞っている幻覚が見える。 これは先輩として可愛い後輩の恋を応援してやるべきだろうか。トムがなんとなくそう思った時――― 「竜ヶ峰」 トムさん、でもなく、ヴァローナ、でもなく。トムの中学時代の後輩にして現在の仕事の部下、そして池袋で最強の名を冠する男が帝人の名を真っ先に呼びながら現れた。 「静雄さんっ、こんにちは!」 振り返った帝人の頭を静雄は当然のように撫でる。わしゃわしゃと短い黒髪をかき混ぜる静雄の表情はサングラスをかけていても優しく微笑んでいるのが分かった。 ふと顔を動かせば――トムの時がそうだったように――ヴァローナの強い視線が今度は静雄へと向けられている。意外とそういうものに鋭い静雄はやはり今回も気付いたようで、右手は未だ帝人の頭をかき混ぜつつ後輩の女性を一瞥した。だがそれだけでは終わらずにほんの一瞬、トムには静雄がニヤリと口元を歪めたように見えた。 (な、ん―――) すぐさま視線を戻した静雄は黒髪に潜らせていた手の動きを止め、前髪をすくい上げるようにして帝人の白い額を露出させる。そうして、 「先輩ッ!」 ヴァローナの非難に満ちた声。 彼女の視線の先では静雄が帝人の額に唇を押しつけていた。しかも帝人は先程のヴァローナよりも真っ赤に頬を染めている。 「し、しずおさん! こんな所でっ」 と言う帝人は、こんな所でなければ静雄が何をしても構わないのだろうか。 トムの疑問を肯定するかのように、黒く大きな瞳は周りを気にするような素振りを見せつつも結局は静雄しか映していない。 まさかたった十数分の間に衝撃的な事実を二つも知ってしまうとは思いもせず、トムはただ呆然と池袋最強の想い人を眺めた。視界の端では静雄に帝人を盗られた――だろう。彼女の心情的には――ヴァローナがギリギリとハンカチでも噛みしめそうな表情を浮かべている。 そんな彼女にトムは僅かな哀れみを感じかけたのだが、 「平和島静雄。やはり彼を殺すのは私です。今、しっかりと再確認しました。……ちくしょう帝人とラブラブすんなよマジぶっころす」 その小さくともしっかり宣言した下の後輩の声を聞いて、とりあえず心の中で「頑張れ」と呟くに留めたのだった。
恋と自覚と殺意と乙女
「取り立てサンド静雄落ち」をリクエストしてくださった匿名様に捧げます。 ありがとうございました! |