先に向こうがこちらを捨てたのだ。なのにこの状況だなんて、あんまりだと思わないか?
 竜ヶ峰帝人は背中に冷たいコンクリートを感じながら胸中でそう独りごちた。
 場所は路地裏と言うよりビルとビルの隙間とでも表現した方が相応しいであろう空間。背後には薄汚れた壁、両脇は白いシャツに包まれた長い腕で動きを封じられ、そして正面にはこの街の有名人の顔がある。サングラス越しに強い視線でこちらを射る人物に帝人は熱のない目を向けて小さく息を吐き出した。
 その吐息が呆れや面倒といった感情を内包しているのに気付いたのだろう。正面の人物、池袋の自動喧嘩人形とも称される平和島静雄が大きく舌打ちをする。
「なんでこんな事しやがった」
「こんな事? それは僕の台詞でしょう。どうして普通に歩いていた僕をこんな薄暗い所に連れてきたんですか」
 そう。帝人は普通に歩いていただけだった。時間帯もまだ陽の残る夕方で、補導されるようなものではない。またガラの悪そうな少年達とつるんでいた訳でも、絡まれていた訳でもない。普通の、それはもう嫌になるくらい普通の高校生として街の人混みに溶け込んでいただけだった。にも拘わらず、静雄は帝人を見つけるや否や、その手を折れるくらい強く握り締めてここまで引っ張ってきたのである。
 帝人の着ている私服が長袖であったため外からは判らないが、袖を捲り上げればきっと腕を一周する人の手の形の痣が見られるだろう。
 だが握り潰されそうだった腕の痛みを顔には欠片も出さず、帝人は淡々と静雄に問う。
「何か平和島さんの気に障るような事でもしましたか。最近は街中ですれ違う事すらしなかったと思うんですけど、ひょっとして僕、貴方を無視して通り過ぎでもしました?」
「違う」
「では何が気に障ったんですか」
 獣の唸り声のような低い声にも臆する事なく、帝人は肩を竦めて困ったように眉を八の字に下げた。
「面倒かもしれませんけど具体的に言ってくださいよ、平和島さん」
「平和島だなんて呼ぶな」
「おかしな事を言いますね。貴方は平和島さんじゃないですか。それともどなたかとご結婚でもされて姓が変わったんですか? それはそれはおめでとうございます」
「だから違うって言ってんだろ! わざと知らねぇフリしてんじゃねえよ!!」
 ダンッと打ちつけられた拳がコンクリートの壁に罅を入れる。飛んできた破片は目を瞑る事でやり過ごし、帝人は口の端を持ち上げてうっすらと笑みを浮かべた。
「冗談です。貴方が結婚していないのは解ってますよ。この街でとんでもなく有名な貴方の事だ、結婚どころか恋人がいるってだけでその噂は池袋中に広がりますから」
「テメッ……!」
 “違う”の意味が違う。静雄がそう言いたいのはよく解っていた。何せ帝人はここに連れて来られた理由に見当をつけていたし――ただしその理由を悪い事だとは思っていない――、それとは別に静雄が怒鳴った方の理由に関してもきちんと理解した上で見当違いな事を喋っているのだから。
 沸点が低いくせに未だ帝人を殴り飛ばさずにいる静雄には本心から賞賛を送りつつ、青が潜む黒い瞳を眇めて口を開く。

静雄さん・・・・

「呼び方を変えたのがそんなにお気に召しませんでしたか? どうせ僕の名前すらまともに覚えてもらえなかった程度の間柄ですし、下の名前で呼ぶよりはきちんと姓でお呼びした方がいいと思ったんですけどね」
 今年のゴールデンウィーク、ダラーズとTo羅丸の抗争が起こった際に静雄が誤った名前を呼んだ事を指して帝人はそう告げる。
「姓でお呼びする方が失礼に当たるならこれからも静雄さんとお呼びしますよ。意外と他人行儀な呼び方はお好きでないんですね。僕と貴方は他人なのに。…………痛いですよ」
 二の腕を掴まれ、帝人は眉をしかめる。だが静雄を見上げる目には恐れなど宿っていなかった。
「他人って言うな」
「他人でしょう? 家族でも何でもない赤の他人じゃないですか。しかも最近はめっきりすれ違う事すらしなくなった・・・・・・
「手前ッ、やっぱりわざと……ッ!」
 もし静雄とすれ違ったなら帝人が気付かないはずがないのだ。だから“帝人が静雄の存在に気付かず失礼な真似をした”と言うのは有り得ない。その上で帝人は微妙な含みを持たせて繰り返すように言った。最近はすれ違う事すらしなかったと。
 腕を掴む手の力が更に強まったが帝人は逆ににこにこと笑って見せた。
「そうですよ、やっぱりお気付きになられましたか。僕、最近ずっと貴方に会わないようにしてきました」
「なんで!」
「なんで? そんな事も解らないんですか」
 馬鹿にした様子はなく、ただただ不思議そうに帝人は小首を傾げて言う。
「僕は貴方が嫌ったダラーズのメンバーですよ?」
「お前はあいつらと違「同じダラーズのメンバーです」
 静雄の言葉を遮り、帝人は続けた。
「同じダラーズに残っている人でも門田さんのように高校が一緒だったとか、そういうダラーズ以外での繋がりがあるならお話する事だってあるでしょう。でも僕と貴方はどうです? 関わりと言えばセルティさん達のマンションで鍋パーティーをしたのがたった一回だけ。しかも次にお会いした時には、貴方は僕の名前をまともに覚えておらず、しかも短い会話の内容は自分がダラーズを抜ける事だけ。―――こんな人間が貴方を避けたところでどうして貴方がそうも不機嫌になるんですか。貴方が他人に避けられるのはままある事でしょう? しかも僕は貴方が嫌ったダラーズの人間です。普通に考えれば無駄に寄ってこられた方が迷惑なんじゃないですか」
「それ、本気で言ってんのか」
「貴方が迷惑を被るだろうから近寄らなかったという事ですか? それなら答えはイエスです。でも僕も人間だ。だから他人である貴方の事ばかり考えて行動するなんて無理なんです」
「何が言いたい」
 低い声だった。
 そもそも静雄は他人の言葉を聞き続けるのが嫌いだ。帝人もそれを知っているから静雄が我慢強く話に耳を傾けていた事は凄いとも珍しいとも思うし、また低い声になるのは当然だと納得している。苛立ちは限界ぎりぎりだろうとも。
 しかし帝人は言葉を止めようとはしなかった。このまま続ければ掴まれた腕が本当に使いものにならなくなるかもしれないと思いながら、自尊心に従って優しげな童顔が毒を吐く。

「つまり僕が貴方を避けていた理由の二割くらいは、僕自身が貴方の顔なんか見たくなかったからですよ」

 ダラーズを、竜ヶ峰帝人を捨てた人間の顔なんて見たくもない。
 静雄は何も知らないが、こちらからすれば青年の行動は帝人に背を向けたのと同じ事だった。そんな人間にどうしてわざわざ会わなければならないのか。
 丁寧な口調と無邪気な笑顔から生成された毒は、しかしながら静雄を更に怒らせるのではなく別の効果をもたらした。苛立ちを渦巻かせていた双眸に僅かな逡巡が生まれ、声に戸惑いが混じる。
「俺……お前になんかしたか」
「したと言えば現在進行形でしていますけどね」
 路地裏に連れ込まれた事と腕を掴まれている事を指して帝人は笑う。
「でもどうだっていいじゃないですか。こんなちっぽけな人間の事なんて」
「どうでもよくなんかねえ!」
 反論は声の大きさも言葉の意味も帝人の目を見開かせる程度の効果を持っていた。
「なんでそういう事言うんだよ、なんで、なんでっ! 俺がブクロで誰を探していたのか知ってんだろっ!?」
「知らないと言うほど馬鹿なつもりはありませんが、知っていると答えるほど自惚れているつもりもありません」
「じゃあ俺が今ここで教えてやる」
 改めて両肩を掴み直された。指が食い込む感触にひょっとしてこのまま砕かれるのかとも思いながら帝人はサングラスの向こうの双眸を見つめ返す。
 真っ直ぐな視線を受け、静雄が僅かに口元を吊り上げた。
「手前だよ、竜ヶ峰帝人」
 それは愉悦に歪んだ声だった。
「お前が俺の前に姿を見せなくなってから、俺はお前をずっと探していたんだ」
「それはそれはお疲れさまです。で、久しぶりに見つけた僕に会ってどうでした? 避けられていた理由も判ったでしょうし、もう解放してもらえませんか」
「どうしてンな事しなくちゃなんねえんだ?」
 帝人の冷静な切り返しにも静雄はこのまま笑い出しそうな雰囲気を失わない。それどころか「さっき気付いたんだが」と言いながら帝人に顔を近付けてくる。鼻先が触れ合うほどの至近距離で金色の髪をした獣が獰猛に笑った。
「俺はさ、手前が俺の事をどう思っていようと結局のところ関係ねえ。ああ、関係ねえんだ。俺がお前を捜して、こうして捕まえたんだからな。もう俺の好きにしたっていいだろ?」
「とんだ俺様主義ですね。臨也さんより性質が悪いんじゃないですか」
 静雄の仇敵の名を出してわざと挑発する帝人。だがそれは思うようにいかず、静雄の手も視線も帝人から離れない。
 精神的な距離はこんなにも開いているのに物理的距離がたったの1センチだなんて笑えないよ、と帝人は胸中で失笑する。うっすらと表情にも現れたそれに静雄が気付き、
「余裕だな」
「ただ呆れているだけです。それで、貴方に“捕まった”僕はこれからどうなるんですか?」
 帝人は問いかける。それは決して獣に捕らえられた者の顔ではなく、青みがかった双眸は見上げながらも見下げていた。
 しかし静雄も傲慢な王のように犬歯を剥き出しにして笑う。
「いつでも俺の手の届く所にいろ。俺を避けるな、俺を見ろ」
「まるで貴方の所有物ですね」
「ああ、そうだ。手前はこれから俺のものだ」
 距離を置いた事でこうなったのか。それとも距離を置く前から静雄はこういう生き物だったのか。そもそもいつの間に静雄は帝人を『その他大勢』ではない存在に分類していたのか。疑問に思う事は多々あるが、それらにどんな答えが当て嵌まろうとも帝人にとって大した差はなかった。どんな答えであったとしてもこの現実は帝人にとって笑えるものではないからだ。
 腕を引かれ、背中が冷たいコンクリートではなく力強い他人の腕を感じ、そして首筋に吐息の気配。湿った舌がベロリと喉仏を舐めて「りゅうがみね」と楽しそうな声がする。
「嗚呼……本当に、笑えない」
 呟く帝人の喉に静雄がガブリと歯を立てた。






その喉笛をみ切るように

(急所への傷痕が所有の証だとでも言うの?)







「ヤンデレ静雄→覚醒帝人で、帝人に距離を置かれてキレる静雄」をリクエストしてくださった匿名様に捧げます。
ありがとうございました!