竜ヶ峰帝人には二人の姉がいる。
 一人は竜ヶ峰波江。高校生の帝人とは十ほど年が離れており、伸ばした黒髪が艶やかな“デキる女”であった。何でもそつなくこなす彼女は現在、新宿にあるコンサルティング会社の経営者の秘書という肩書きを持っている。両親とは離れて暮らす帝人達姉弟にとって大黒柱の役も担っており、実に頼りになる姉だ。
 もう一人は竜ヶ峰杏里。帝人と同じ来良学園に通う双子の姉で、控え目な性格と――帝人の親友の言葉を借りるなら――挑発的なボディという、なんともアンバランスかつ絶妙な魅力に溢れる少女である。頭は通知簿で五教科オール10の偉業を成し遂げるほどで、にも拘わらず体育も得意であり、運動が苦手な帝人には羨ましく誇らしい存在だった。
「……でも杏里ちゃんって剣道やってたっけ?」
「部活には入ってませんけど、多少はできるんですよ。危ないですから帝人君は後ろに下がっていてくださいね」
「うん」
 素直に頷き、双子の姉の後ろに下がる帝人。
 笑顔なのにピシピシと空気が痛くなるこの瞬間は普段から控えめな姉に絶対口答えしてはいけないと、弟である帝人はよく知っている。たとえさっきまで通学用鞄しか持っていなかったはずの姉の手にどう見ても真剣としか思えない物が握られていたとしても、それに突っ込んではいけないのだ。
 そして何より自分と姉の正面、帰宅途中の通学路に現れた黒い影の行動に意識を集中させる事の方が優先事項であった。なにせあの影は―――
「みっかどくーん! 七十二時間ぶりだね! 君に会えなかった間、寂しくて寂しくて死んじゃいそうだったよ俺!」
「えっと……」
「じゃあそのまま死んでください折原さん」
「……杏里ちゃんは今日も辛辣だねえ」
 現れた影こと黒髪の青年、折原臨也が黒いコートに包まれた肩をひょいと竦める。
 双子の目の前に臨也が登場した瞬間、否、登場するよりも早く……気配を察知した瞬間に抜刀した杏里については彼も何かを言う訳ではない。ひょっとしたらその職業を活かして、杏里の刀の事を彼女よりよく知っている可能性もある。
 じっと見つめてはたと視線が合うと、臨也がにこりと微笑んできた。直後、「そんなに見つめられるとちょっと反応しちゃうかも。あ、勿論帝人君限定でね!」と付け足され、帝人は思わず視線を逸らしそうになったが。美形なのに言う事がいちいち痛い。
「うるせぇ黙れ。帝人君に話しかけないでください。どたまカチ割んぞこのノミ蟲野郎」
「えっ!? 今なんか台詞の前後にシズちゃん入ってなかった杏里ちゃん!!」
「気のせいです。ね、帝人君」
「うん。気のせいだよね」
 にっこりと微笑み合う双子に臨也が頬を引き攣らせた。だがここで終わる折原臨也なら、そもそも杏里も抜刀などしないし、帝人だって姉の後ろに隠れたりしない。
「ま、姉がどうであれ弟が可愛いのは変わらないしね」
 その台詞が聞こえた瞬間、臨也はなんと帝人達のすぐ傍まで近寄ってきていた。慌てて杏里が反応し刀を振るうも――流石『池袋の自動喧嘩人形』と殺り合って生き延びた人間と言うべきか――、容易く躱して余裕の表情だ。
「情報屋のくせにちょこまかと」
「情報屋だから動ける身体を作ってるんだよ」
 臨也は杏里の毒吐きに飄々とした態度で答える。しかも刀を躱しながらも目的の場所に移動して、
「ねー。帝人君」
「僕に言われても困ります」
 なんと杏里の後ろにいたはずの帝人の、その更に背後に立って、細い肩にポンと両手を置く臨也。思わずといった風に杏里の舌打ちが聞こえたが、なんとなくそれが格好よくてときめいてしまった帝人である。
「折角可愛いのにそんな事言うなんてかわいくなーい」
「可愛くなくて結構です。僕、男なんで」
「でも二人のお姉さん達より可愛いよ?」
「それは私も認めますが、貴方が言うと変態100%なんで黙ってください。そして新宿へ帰れ」
 杏里が会話に割り込んで刀を構える。事実上、帝人が盾にされている形なので容易に攻め込む事ができず、怒りと苛立ちに目が赤く―――
(染まってる?)
 杏里の瞳は元々赤みを帯びているが、今のこれは光の加減で赤みが強く見えているのだろうか。それに帝人の背後にいる人物も普段の杏里よりずっと赤っぽい目をしていたはずなので、この程度の色味は普通なのかもしれない。
 おや? と思った帝人を置き去りにして臨也は「やれやれ」と息を吐き出した。
「ますますシズちゃんっぽくて嫌になるね。帝人君と血の繋がった双子の姉だからまだ俺の人間愛の中に入れてたって言うのに、これじゃあ君が対象外になってしまうのも時間の問題かな」
「そもそも貴方に愛されたいとはこれっぽっちも思っていないので歓迎しますよ。でもこうして帝人君にちょっかいを出し続けるなら、私の方が貴方を『子』にしてしまうべきでしょうか」
「ははっ。人外の愛なんてくそくらえだ。でもまあ、君は帝人君を傷つけたくないからまともな攻撃ができない。勿論俺だって君を傷つけると帝人君に嫌われるからね、そう易々とはできない。さあどうしようか?」
 含み笑いと共に、パチン、と帝人のすぐ後ろで折り畳み式のナイフが銀色の刃を露わにする。臨也の台詞の後半は杏里にとってまさにその通りであったため、彼女も刀を構えているが下手に動く事ができない。
 しかし、

「臨也。今度私の弟に手出ししたら承知しないって、前に言ったわよね?」

 苛立ちを含みながらも尚美しい声が三人の耳朶を打った。途端、帝人はその顔に喜びを、杏里は安堵を浮かばせ、逆に臨也がうんざりと眉間に皺を寄せる。
 三者三様の顔で視線を向けた先、そこに立っていたのは、
「波江姉さん!」
「波江お姉さん」
「……波江」
 新宿で“コンサルティング会社を装っている情報屋”の秘書、竜ヶ峰波江だった。
「杏里、この馬鹿が下手な事しないよう止めていてくれてありがとう。それから帝人、大丈夫よね? とりあえず貴方の肩を掴んだ手は使い物にならない寸前まで痛めつけておくから安心なさい。仕事はさせなきゃいけないから完全に潰せなくてごめんなさいね。そして臨也」
 一旦言葉を止め、波江はすっとその顔から表情を消す。
「仕事サボって何やってるの?」
 冷たい、それはもう冷たい声だった。
「仕事をサボるのはままある事だし、貴方がその気になれば大抵の事ならこなしてしまえる人間だってのも短くない付き合いだから解ってるわ。でもね、一体貴方、“なに”をやろうとしていたの?」
 もしドライアイスが喋ったとしたらこのような声になるだろう。氷の女王の如く、触れれば火傷する冷たさを瞳の奥に渦巻かせて、波江は臨也を睨み付けた。
 情報屋を営む臨也は諸事情により波江を秘書として雇っている。労働組合も何もない関係での雇用主側である彼は、いわば立場が“強い”方だ。しかしその仕事の内容上、第三者に広められると臨也が不利益を被る類の情報が数多くあり、そして優秀な秘書として働く波江はその情報の多くを頭に叩き込んでいた。
「……わかったよ」
 ふぅと一つ溜息を吐き、臨也が帝人から離れる。
「波江を敵に回すと対処が面倒だし」
「そう? まあ、あと三秒離れるのが遅かったらそのご自慢の顔に硫酸でもぶっかけてやったんだけど」
「君、確か死なない程度に皮膚を溶かす薬とか持ってなかった? 硫酸だと下手すれば……」
「顔が崩れるのと一緒に痛みの中で悶え苦しめできればそのまま死ねって言ってんのよ」
 嘲笑を浮かべ、波江は「で、」と臨也が煙に巻こうとしている話題を無理矢理引き戻す。
「私のみかど「私のものでもありますから」……私達の帝人に何をするつもりだったのかしら。回答によっては貴方を今後事務所の椅子に鎖で縛り付けなくちゃいけないわよね。勿論一生」
 途中で杏里からのコメントが入ったものの、波江はすっぱりと言い切った。
「俺としては直接この目で見たい物もあるし、そういうのは勘弁願いたいねえ」
「そう。でも私としては本当に貴方を椅子に縛り付けなきゃいけないと思ってるの」
 そう告げた波江が取り出したのは透明な液体が入った小型の注射器だ。杏里と帝人が一体何だろうと首を傾げる中、実は元々生物・化学系だった波江の双眸が本日の最低温度を記録した。
「これと同じものを持っているわね」
 疑問ではない、ただの確認のための台詞。
「私だって口に出すのを憚るような効能の薬を貴方は一体何に使うつもりだったのかしら?」
「波江も堅いねぇ」
 軽い声が答えた。
「どうせ俺の予想じゃ帝人君の『前の初めて』は君ら姉妹のどちらかがもらうんだろう? なら俺が『後ろの初めて』をもらってもいいじゃないか」
「……杏里、帝人の耳は塞いでたわね?」
「ばっちりです」
 帝人の背後に立って双子の弟の耳を両手で塞いでいる杏里が波江にこくりと頷く。帝人は彼女達が何を話しているのか、またさっき臨也が何を言ったのか全く聞こえておらず、きょとんとあどけない表情を晒していた。
 そんな弟の様子にほっと一息ついた後、波江は臨也に向き直り、
「貴方、本当に救えないわ」
「何とでも言えばいいさ。俺は人間を愛してる。でも帝人君はその中でも特別なんだ」
「ちがうわよ」
「?」
 臨也はてっきり非合法の薬まで持ち出すほど帝人に特別な感情を抱いている事に対するものだと思っていたのだが、どうやら違っていたらしい。
 頭上に疑問符を浮かべる臨也に、波江は正解を告げてやる。
「勘違いも程々になさい。前だろうが後ろだろうが帝人のそれは私達のもの。貴方になんて欠片もくれてやるつもりはないのよ」
「……強欲すぎやしないかい?」
「愛する人のものは何だって欲しい。それが普通じゃなくて?」
 ふん、と鼻で笑い、波江は視線で杏里に「もういい」と示す。
「じゃあ帝人は連れて帰るから。明日から覚悟なさい」
「未遂だったのに」
「未遂だったから縛り付ける程度で済ませてあげるって言ってんのよ。とりあえず期間は一週間ね。来なかったら……解ってるでしょう?」
「……ほんっと、うちの秘書様は有能で困る」
「給料上げてくれてもいいけど?」
「冗談」
 笑いながら吐き捨て、臨也は帝人達に背を向ける。
「まあ一週間ね。了解りょーかい。それくらいなら大人しくしといてやるよ」
 じゃあね、と言って姿を消す臨也。
 あっさりと退いたのは波江が持つ情報の事も大きいだろうが……。

『勿論俺だって君を傷つけると帝人君に嫌われるからね、そう易々とはできない』

 臨也が杏里に言った台詞。それはそのまま、帝人のもう一人の姉である波江にも当てはまる訳で。
「杏里ちゃん、波江姉さん、ありがとう」
「いいのよ。守られてるのは私達も一緒だから」
「そうですよ。だから、私からもありがとうございます」
「?」
 そう言って、姉妹はそれはそれは美しい微笑みを最愛の弟に向けた。






黒い薔薇にはがある







リクエストしてくださった満様に捧げます。
満様、ありがとうございました!