「お久しぶりです、静雄さん」
その声を聞いたのは実に二年ぶりだった。 取立て業の合間に公園で休憩していた静雄は現れた少年を見つめて驚きに目を見開く。 満開を迎えきり大量の花弁を散らし始めている桜をバックに立つその少年はこの二年で思うように背が伸びなかったらしく、まるで記憶の中から抜け出してきたかのよう。しかし青みを帯びた双眸にかつて池袋の街中で喧嘩を繰り返してきた仇敵と似た気配を感じ取り、静雄は愕然とした。 「りゅ……が、みね」 「はい。静雄さんは相変わらずのようで安心しました。情報はこちらにも伝わってきているんですけど、やはり本人とお会いしてこそという物もありますからね」 情報。その単語一つで静雄の胸に苛立ちのような痛みが走る。 「お前、今までどこにいたんだ」 二年程前、竜ヶ峰帝人は忽然と池袋から姿を消した。それに伴い新宿の情報屋として裏の世界では有名な折原臨也も現れなくなった。この二つの事象を結びつける者は殆どいなかったが、静雄だけは彼らが消えた理由を知っている。なにせ臨也本人が静雄の前に現れて言ったのだから。 自分の赤い眼球と引き替えに、己が帝人を貰い受けるのだと。 だから静雄は帝人が池袋から消えてどこに移ったのか、予想はついていた。しかしそれはあまりにも認めたくない事で、静雄は本人に問いかける。 「どこにって……」 それをあえて問うのか、と帝人が薄い笑みを浮かべた。 「新宿に決まってるじゃないですか。学校もちゃんとあっちに編入して、この春、無事に卒業しましたよ。それで時期もちょうどいいかなと思ったんで、」 やめろ、と静雄は思った。自分から問いかけた事だが万が一の否定ももらえなかった回答などもう聞きたくない。もう十分だと。 しかし静雄の思いとは裏腹に帝人は黒いコートを風に遊ばせながら言った。 「臨也さんの仕事を完全に引き継いだんです」 帝人が臨也の仕事を完全に引き継ぐ―――。かつての仇敵の言葉を信じるなら、それは臨也の眼が両方とも抉り取られて帝人の所有物になったという事。そして何より竜ヶ峰帝人が完全に臨也のものになってしまったという事である。 「なんで……ッ」 帝人が他人のものに、臨也のものに、平和島静雄以外の誰かのものになってしまった。 その事実を理解した瞬間、静雄は絞り出すような声で繰り返し問いかけていた。 「なんでッ! なんでアイツなんだ!?」 (俺じゃないんだ!?) 「そんなの、臨也さんが僕の欲しい物を持っていたからですよ」 「……あの赤い眼か?」 「ええ。とても綺麗でしょう?」 同意を求められてもそれが折原臨也のパーツだというだけで静雄にとっては虫酸が走る。 だが。それでも、だ。 もしその赤い眼を自分も持っていたならば―――。そんな想像を静雄もしなかった訳ではない。気が付けば己の眼に手をやっている事もしばしばあった程である。 「俺もお前の欲しい物を持っていれば」 「え?」 意図せず静雄の口から零れた小さな呟きは、かすかに帝人の耳にまで届いてしまったらしい。青と黒が混ざり合う双眸を瞬かせた帝人は小首を傾げて静雄に問う。 「どうかしましたか?」 その姿は池袋を去る前の竜ヶ峰帝人そのままで、静雄は悔しさに唇を噛む。帝人はこんなにも変わらないのに、けれどはっきりと変わってしまった。折原臨也の色に浸食され、静雄の好んだ部分がどうしようもなく穢されてしまった。 「静雄さん……?」 「なあ、竜ヶ峰」 「?」 「もし俺がお前の欲しい物を持っていて、臨也より先にお前自身を貰う対価にしたいって言ったら……。お前は“そう”ならずに俺の傍にいてくれたのか」 臨也に穢されず、純粋な青と黒のままで。 その姿のままで静雄の隣で笑ってくれていたのだろうかと問いかける。 意味がない事は解っていた。もしそれで帝人が首を縦に振ったとしても、かの少年は既に折原臨也との契約を完全な物としてしまったのだから。けれども問わずにはいられず、静雄はじっと帝人の反応を待った。 「僕が“そう”なるって表現なんですけど、」 イエスでもノーでもなく、帝人は静雄の台詞に含まれていた単語の意味に異論を挟む。 「静雄さんは僕が臨也さんに影響された……もっと言ってしまえば浸食されたとでも思っていらっしゃるんですか?」 まるでそれが事実ならば不快極まりないとでも言いたげな声と表情だった。 「確かに僕が一歩踏み出す事になってしまったのは、裏で臨也さんが色々やっていたのも原因の一つでしょう。けどそれはただのきっかけでしかない。僕が変わったのは僕自身の意志であり、他人なんて関係ないんです。それにまあ、僕が自覚している範囲では臨也さんと約束を交わすよりも前に僕は今の僕になっていましたから……そこを踏まえると、もし静雄さんが臨也さんのように何らかの交換条件を出したとしても、その時点で僕は貴方が気に入ってくれた僕ではなかったでしょうね。そしておそらく貴方は変わった後の僕を傍に置けるほど我慢強い人間じゃあない。静雄さん、貴方の問いは無意味ですよ」 だからこれからもただの知り合いでいましょう? と。帝人は無邪気な笑顔を浮かべて残酷な言葉を吐き出した。 「ああ、そうそう。僕、今は池袋で情報屋をやってるんです。静雄さんもご用の際はこちらまでご連絡を」 慣れた手つきで名刺を取り出し、静雄の前に差し出す。 呆然とする静雄がそれを受け取らずにいると、帝人は肩を竦めてその紙片をバーテン服のポケットに差し込んだ。黒い布地に映える白い紙を満足そうに見つめ、「それじゃあ」と静雄に背を向ける。 「機会があれば、またお会いしましょう」 * * * 池袋に情報屋が戻ってきた。実に四年ぶり。しかしそいつはあの折原臨也ではなく、二代目であるらしい。 静雄が帝人と再会してからさほど経たないうちに、その噂は池袋の街を確実に浸食していった。そんな噂が広がってしまうほど帝人の手腕は優秀だったのである。 どんな困難な依頼でも引き受けた限りは確実に成功させる。まだ成人すらしておらず、加えて童顔のため実年齢より幼く見られがちな容姿と相俟って、噂が人を呼び、人が噂を広めて、帝人はあっと言う間に『池袋の情報屋』としての地位を確立していった。 「僕じゃなく臨也さんにお客さんだなんて珍しいですね。でもそう言えば、貴方は臨也さんの顧客でもありましたか。いや、臨也さんが貴方の子飼いの情報屋だったと言うべきですかね。四木さん」 池袋のとあるビルの一室に帝人はいた。 ここは帝人が情報屋として活動するためのオフィスである。ソファセットのローテーブルを挟んだ対面には鋭い目つきをした壮年の男が腰を下ろしている。池袋に縄張りを持つヤクザの粟楠会、その幹部である四木だ。 まだ新宿にいた頃、臨也の仕事の手伝いで四木と顔を合わせたのは何度かあったが、池袋に戻ってきてからは初めてだった。しかし今回の来訪は情報屋・竜ヶ峰帝人に仕事を依頼するためではなく、「元」情報屋の臨也に会うためだったらしい。 仕事だと思い四木と一対一で話を始めようとした帝人に男が臨也を呼ぶよう言ったのは、つまりそういう事だろう。 「やはり僕では力不足とお思いで?」 「いえ、貴方にはちゃんと依頼したい事がありましてね。そのついでに元情報屋の顔でも見てやろうかと思ったまでですよ」 「そうですか。まあ臨也さんの方はもう四木さんの顔も誰の顔も見られなくなってしまいましたけどね」 「……?」 四木の顔が僅かに疑問を滲ませるも、帝人はそれに答えずソファから腰を上げる。「少々お待ちください」と告げて奥の部屋に引っ込み、しばらくした後、黒髪の青年の手を引いて応接室に戻ってきた。 青年は帝人によってソファまで導かれ、ゆっくりと腰を下ろす。そうして正面に顔を向けたが、彼は両目をぐるりと包帯で覆っており、視界は完全に閉ざされていた。 帝人が青年の隣に立ち、「大丈夫ですか?」と小さく声をかける。 「大丈夫だよ。ありがとう、帝人君」 青空のように澄んだ声音が青年の口から零れ落ちた。 「四木さん、お久しぶりです」 「お久しぶりです、折原さん」 青年―――折原臨也にそう言ってから、四木は臨也の隣にいる帝人に視線を向け直して頼み事を口にする。 「しばらく折原さんとお話をさせていただいても?」 「ええ、僕は構いませんよ。臨也さんもいいですか?」 「そうだね、俺も別に問題ないよ」 「わかりました。じゃあ僕は奥にいますので、何かあったら呼んでくださいね」 臨也には見えないだろうが帝人がニコリと微笑みかけ、言葉通り奥へと引っ込んだ。 帝人の姿が扉の向こうに消えると四木はそちらを眺めたまま口を開く。 「随分と献身的ですね」 「そりゃあ俺の『もの』ですから。あの子は」 愉悦に満ちた声で盲目の青年は笑う。 「その眼はどうしました?」 四木としては最初、粟楠会の情報もある程度握っているであろう「元」情報屋に今後は色々と余計なマネをしないよう釘を刺しておくつもりだった。しかし完全に視界が塞がれている様を見て、まずそちらへの疑問が湧く。 問いかけに対し、臨也は口元に緩やかなカーブを描くと、 「抉ったんですよ。この間までは片方だけだったんですけどね、ついに両目ともやってしまいました」 「……片目の時は怪我でもしたのかと思っていましたが、まさかアレもご自身の意志で?」 「ええ。今は二つとも綺麗に抉り出して帝人君が所持してると思いますよ。俺は自分の眼がどうなっているのか見て確かめる事はできませんけど」 四木が見た臨也は両目を失ってなお……否、両目があった時よりも満ち足りた雰囲気を醸し出している。帝人が臨也のものになり、臨也の眼が帝人の手に渡ったという関係性は何となく察する事ができたが、それでも正気ではないと四木は思った。 「……まったく、あれがこれから俺の仕事相手になるって?」 丁寧な口調を取り去った四木は別室にいるであろう新しい情報屋を「あれ」と称し、嫌悪とまではいかずともそれに近い感情を声に混ぜる。 確かに折原臨也の瞳の色は珍しい物だったかもしれないが、まさか他人の眼球を欲しがり、代わりとして己を差し出す者がいるとは考えた事もなかった。理解し難い。どうして高が目玉二つの対価が人間一人にもなるというのか。 「あの子は俺をヒトとは思っていないんです」 盲目になろうとも他の器官で外界の変化を察しているのだろう。 人間の観察を趣味とし、同時に己がどうしようもなくただの人である事を理解していた青年は、その観察のための眼を失った状態で己が人である事の否定を肯定するかの如く四木に告げた。 「ヒトとは思っていない?」 「自分をこう表現してしまうのもなんですが、……『美術品』でしょうか。そう。帝人君にとって俺は絵画や彫刻と同じなんです。そしてヒトではないただの鑑賞対象が何を言ったって、彼が本気に取る事はない。俺も食べて寝て喋る存在ですから、一応こちらが望む限りは色々と世話を焼いてくれますけどね」 「そうと解っていてお前は自分の眼を抉ったのか」 「答えはイエスです。俺はあの子が傍にいて喋って触れさせてくれるならそれでいい。問題らしい問題と言えば、帝人君に愛でられているであろう自分の目玉に嫉妬を覚えてしまう事ぐらいですよ」 家具の配置等を目で見て確認できない所為か大仰なものではなかったが、臨也は軽く両手を広げて現状を歓迎しているような仕草をしてみせる。 「あの子は俺のものですけど、俺は二つの眼球を介してあの子の『物』になった。四木さんも帝人君の『物』になれば解るんじゃないですか。“ここ”がどれほど居心地の良い所なのか、ね」 「誰がなるか、そんなもの」 「そうですか? 俺が知る限りじゃシズちゃんは心惹かれているようでしたけどね。まあ交換できる物を持っていなくてどうしようもなかったみたいでしたけど」 臨也はそう言い、おそらくもう二度と街中で争う事もないだろう相手をせせら笑った。 「きっと貴方もいずれはそうなる。ねえ、四木さん。この街と人々が帝人君の『物』になるまで、なりたいと望むようになるまで、どれくらいかかるのか賭けでもしてみませんか」
メシア不在の楽園
「「collection」の続編で帝人君が池袋の魔王的な…感じの」をリクエストしてくださった匿名様に捧げます。 ありがとうございました! |