「むぅ……」
 窓から差し込む太陽の光に照らされ、竜ヶ峰帝人はシーツに顔を押しつけて身体をぎゅっと丸めた。まだ眠い。もっと寝たい。しかも目覚ましだって鳴ってないのに。ああ、お布団が気持ちいい。半分眠ったままの頭でつらつらと考えながら、帝人の身体はなるべく陽光を避けようと窓から顔を背ける。
 肩につく程度まで伸ばされた髪が白いシーツの上に散らばり、幼い顔立ちの少女をどこか艶やかに見せていた。胎児のように丸めた身体とのアンバランスさに、ベッドサイドに近付いてきた人物は一瞬だけ立ち止まって小さく喉を鳴らす。だが少女の枕元に置かれた目覚まし時計が間もなくセットされた時間を告げるのを目で確認すると、その人物は帝人の肩に手を乗せて軽く揺すった。
「りゅうがみね、起きて。もう朝だよ」
「……まだ、ねむ」
「そうだけど、今日はお出かけの日だから」
「………………、そうでした」
 ハスキーヴォイスとでも言うのだろうか。ベッド脇に立つ人物―――人工物でありながら陽光を弾いてきらきら光る美しい金髪を持つその女性の甘い掠れ声に帝人はようよう目を開ける。
 白い瞼の下から現れた双眸は黒に青を溶かし込んだような不思議な色。今はまだサングラスに遮られていない女性のキャラメル色の瞳と視線を合わせて帝人はベッドの上からふにゃりと頬の筋肉を緩ませた。
「おはようございます、静香さん」
「おはよう、りゅうがみね」
 帝人を起こしにきた女性の名を平和島静香と言う。モデル並の身長と男どころか女ですら見惚れるような均整のとれた肢体――ただし胸部が平均以上――を持つ美しい人であるが、彼女に近付こうとする者は殆どいない。何故ならば静香はその美しい容姿からは想像もできないほどの怪力の持ち主であり、なおかつ一度キレると際限なくその力を揮うくせに怒りの沸点は限りなく低かったのである。
 よって見た目と反比例するかのように静香の周囲には人が少なかった。どれ程の美人でも殺される可能性だってある人間の傍にはいたくないだろう。彼女に近付くのは家族と昔から世話をしてくれる気のいい先輩とごく少数の友人か、もしくは彼女の力を悪用しようとする最低野郎、そして平和島静香の通称『池袋の自動喧嘩人形』を知らない者くらいである。……否、“であった”と過去形で語るべきか。
 現在、私立来良学園の二年生である竜ヶ峰帝人はこの平和島静香とルームシェアの関係にあった。一年生の時はボロボロの安アパートに一人暮らしをしていたのだが、首無しの都市伝説やその恋人の闇医者も絡んで、いつの間にやらこの美しい自動喧嘩人形と一つ屋根の下で暮らす事になったのだ。
 怖いという感情はなかった。むしろ嬉しい。何せ静香は普通じゃない事が大好きな帝人にとってはまさにその求めるものであったし、また高校入学から同居が始まるまでの一年間で静香がとても優しい女性である事を知っていたので。
(そして一緒に暮らすようになって判ったのは、静香さんがとてもスキンシップ好きだってこと)
 帝人は胸中で独りごちる。
 ベッドから身を起こした帝人の額に柔らかな感触が触れてきた。薬用のリップクリームしか塗られていない唇が寝起きの額や目尻、頬に落とされていく。それをくすぐったそうに受け入れながら、帝人は静香の唇が耳の後ろに触れた辺りで目の前の大人の女性の服をちょんと引っ張った。
「静香さん、朝ご飯にしましょう」
「ん。もう準備はできてるから。りゅうがみねは顔、洗ってきて」
「はあい」
 答えて帝人はフローリングに足を下ろす。
「それにしても静香さんはこういうの好きですよね」
 先程のスキンシップを指して言う帝人。すると静香はやわらかそうな金髪を指で弄りながら、
「りゅうがみねだけ、だよ」
「僕だけ?」
「そう。だってりゅうがみねはとても可愛いから」
「か、かわいくなんてないです……!」
 とろけるような微笑つきで言われた帝人は顔を真っ赤に染めてぼそぼそと答えた。可愛いのは静香の方だ。
「りゅうがみね、可愛い。可愛いりゅうがみねは今日あたしとお出かけだから、朝ご飯しっかり食べようね」
「は、はぃ」
 にこにこと嬉しそうに今日の予定を話す静香の笑顔に色々と大切なものを持って行かれたような気分になりながら帝人は赤い顔のまま頷く。するとまた静香の口から帝人を赤面させるための言葉が零れた。
「りゅうがみねは本当に可愛いよ」



* * *



 帝人は高校に通う学生であるため、休日は土日祝日と規則的にやってくる。しかし静香はテレクラ滞納金の取立て業をやっているため、休みの日どころか働く時間すら朝からだったり夕方からだったりとまちまちだった。
 しかし今日は珍しく帝人の休みと静香の休みが一致した日である。休みが重なったと知った日から予定を立てていた二人は仲良く朝食をとった後、共に池袋の街を歩いていた。ちなみに静香が「りゅうがみねの服を買おう。あたしが選んで買う」と言って譲らず、帝人が根負けした形である。
(僕も静香さんに似合いそうな服を見つけよう!)
 普段は仕事着としてバーテン服ばかりの静香を思い出し、帝人は意気込んだ。超有名女優である妹から送ってもらった服らしいのだが、やはり静香のような美しい女性にはもっとお洒落をして欲しい。

 だがサンシャインシティへ行く途中で予定は脆くも崩れさる。

「……」
 まず最初に何かに気付いた静香がピクリと肩を揺らし、足を止めた。
 私服姿の静香がこの街で有名な自動喧嘩人形であると判らなかった者達が立ち止まった彼女に舌打ちをする。いつもならそれだけで相手の胸倉を掴み上げてもおかしくない静香は、しかし他のものに神経を集中させており彼らには目もくれず、探るように辺りを見渡していた。
「静香さん?」
「りゅうがみね、下がってて……いや、あたしから離れちゃだめ」
「え?」
「ノミ蟲の臭いがする」
 正反対の言葉に首を傾げるも、次いで言われた名称に納得してしまう。そして帝人が導かれるまま静香の後ろに身を隠した直後、
「みっかどくーんっ!」
 くどい程に甘い菓子とキラキラ光るラメととんでもなく弾むボールを掛け合わせたらできるかもしれない声が人の群を割った。
 静香がホットミルクのような穏やかな甘さなら、この声の主は合成着色料をふんだんに使ったアメリカのケーキのそれだろう。帝人はそう思いながら、人の群を通り抜けて静香の前にまでやってきた人物を彼女の陰から眺めた。
 ファー付きの黒いコートを纏い、年齢は静香と同程度の二十代前半。ホットパンツから白く健康的な脚を惜しげもなく晒し、胸はやや控えめだが、黒髪が風に遊ぶそのかんばせは切れ長の大きな目が特徴的な大層美しい造形をしている。赤みを帯びた双眸は楽しげに眇められ、にこにこと帝人を見つめていた。
「甘楽さん……」
 帝人が名前を呼ぶと女性―――折原甘楽は殊更嬉しそうに赤い双眸を細める。だが彼女が口を開くよりも早く、ハスキーヴォイスが音になった。
「池袋には来るなって言ってるでしょ。なんで来たの」
「そんなのシズちゃんには関係ないもーん。でもまぁあえて言うなら、帝人君のいる所に甘楽ちゃんあり、みたいな? あはっ」
 計算し尽くされた“可愛い女の子の仕草”に、静香の拳がきつく握られる。
「シズちゃんって呼ぶな。その気持ち悪い動きをするな。それに何よりりゅうがみねの名前を呼ぶな!」
 アスファルトを蹴る足からパァンと小さな爆弾が爆発したかのような破裂音がした。甘楽に突っ込んでいく静香。しかし異常な膂力をフルに使った静香の一撃はひょいと躱され、甘楽が長い黒髪を片手で払いながら静香ではなく帝人に視線を向ける。
「帝人くーん。こんな野蛮な女なんかじゃなくて甘楽ちゃんとデートしようよ、デート。帝人君に似合う服、いーっぱい買ってあげるからさ!」
 少女であるはずの帝人を「君」付けで呼ぶのは甘楽だけだ。理由は以前尋ねる機会があったので訊いてみたところ、同じチャットルームを使用している事に由来しているのだとか。
 静香には話していないのだが、帝人は甘楽が主催するチャットルームのメンバーでもある。そこで帝人は田中太郎という男を演じ――つまりネナベであり――、甘楽もまたイザヤという男を演じていた。ゆえに二人にしか解らない理由だとか何とかで、甘楽は帝人を少年に対するかのように呼ぶのだ。
「あの、すいません甘楽さん。僕、今日は静香さんと予定があって」
「知ってるよー。でもぉシズちゃんといるより甘楽といた方が絶対に楽しいよ?」
「そんなの「それを決めるのはあんたじゃない。りゅうがみねだから」
 静香が飛び出し甘楽が躱した事で、帝人を含む三人の立ち位置はちょうど正三角形になっていた。
 金髪の天敵に帝人の声が遮られたとあって甘楽の顔に僅かな苛立ちが浮かんだが、それをすぐさま消し去って彼女は帝人に駆け寄る。そして静香が攻撃できないよう帝人の後ろに回り込むと、
 むにゅ。
「ひゃあ!?」
「かか、かかかかかか甘楽!?」
「やーん、帝人君ってば可愛い声ー」
 ハートでも飛ばしそうな喋り方をしつつ甘楽が腰をくねらせる。両手で帝人の胸を揉みしだきながら。
 甘楽の暴挙に帝人は真っ赤な顔で己の口を塞ぎ、静香もまた物理的な意味で仇敵の手に余る二つの塊がガッチリと鷲掴みにされている様を目の当たりにして瞠目し、口をパクパクと開閉していた。
 そんな二人の反応に甘楽は口の端を持ち上げながら帝人が驚愕を終えて怒り出す前に両手を胸から腰へと移動させ、腕でぐるりと囲い込んだ。
「相変わらず良い胸だねぇ。それに腰だって折れちゃいそう。ふふーやわらかぁい」
「ちょ、甘楽さん!? いきなりこんな事するのはやめてください!」
「いきなりじゃなきゃいいの?」
「ッ、いきなりじゃなくてもダメです!」
「もぅ、帝人君ってば我侭さんなんだからぁ」
 甘楽は片腕を腰に残し、自由になった手で帝人の頬をぷにぷにとつつく。「こら甘楽!」と静香に怒鳴られたが、帝人を盾にしている限り容易には攻撃されないので気にしていない。それどころか腰に残った甘楽の手がもぞもぞと動き出したので帝人は「ひぃ!」と小さく悲鳴を上げた。
 チャットでの付き合いもあり、実のところ帝人はそれほど甘楽を嫌っている訳ではない。むしろ新宿で情報屋をやっている彼女は帝人にとって静香とはまた別の次元で魅力的に思えた。しかしながらこれはいただけない。静香との触れ合いがスキンシップならば、甘楽の行動は最早――彼女は同じ女性だが――セクハラである。
「や、甘楽さん……っ」
「帝人君かわいいー! これはもうお持ち帰りしちゃってもいい感じ? 実はもう手錠も鎖も買ってあるんだよぉ」
 言いながら首筋を撫でられ、帝人は全身に鳥肌を立てた。チャット上の『イザヤ』も情報屋としての甘楽も好きだが、拉致監禁は全力で遠慮したい。後者の思いは帝人だけでなく静香も一緒で、甘楽がその台詞を言った瞬間に池袋最強の女性の手は同居人を拘束する腕に向かっていた。
「っと。シズちゃんってばあぶなーい。もうちょっとで甘楽の腕が複雑骨折だったじゃないの」
「別に骨折じゃなくて切断してもいいんだけど?」
 甘楽の腕から帝人を取り戻した静香は再び少女を背後に庇いながら答える。怒りで暴走しては帝人にまで被害が及びかねないため、己の神経を宥める事に全力を注ぎながら。
「ねーねー帝人くぅん。甘楽ちゃんとデートしようよー」
「だから僕は今日、静香さんと先に約束してて」
「じゃあ明日は?」
「え?」
 あっさりと言った甘楽の言葉に帝人は静香の後ろで首を傾げる。
「じゃあ明日、甘楽とデートしよう! 明日はシズちゃんも仕事で、でも帝人君はお休みでしょう?」
「何故それを……そう言えば情報屋さんですもんね」
「そうそう! だから今日は諦めてあげるから、甘楽と約束だけして、明日は一日中遊ぼうよ」
「へ? いや、あの」
「約束だよぉ。無視したら家まで押し掛けるから。じゃ、そういう事で!」
「はあ!? って、甘楽さんっ!? ……あー。行っちゃった」
 黒いコートを翻して甘楽がさっさと人混みに消えてしまった後、帝人は未だ静香の後ろに隠れたまま、はふ、と小さな溜息を吐いた。しかし静香が携帯電話を取り出し、明日の有休を取得しようとしているのに気付いて慌てて止めさせる。
「し、静香さん! 流石にそこまでは……!」
「でもりゅうがみねの貞操が危ない」
「う……、それは」
 否定できないところが悲しい。しかし家まで押し掛けると言った甘楽への対処として静香に仕事を休ませてしまうのは帝人の望むところではなかった。
「じゃあGPSを使いましょう。それで異常があったら静香さんに駆けつけてもらうって事で」
「それでりゅうがみねは大丈夫?」
「たぶん」
「(…………今夜中にものにしておこうかな)」
「へ? 何か言いました」
「ううん。なんでもない」
 綺麗な微笑みを浮かべた静香に帝人の頬が赤く染まる。静香が何を言ったのか上手く聞き取れなかったが、本人が何でもないと言うのなら何でもないのだろう。
 そして服の汚れ等がない事を確認すると、静香は帝人に手を差し出してきた。どうやら嬉しい事に当初の予想は外れて、買い物が続行可能らしい。
「りゅうがみね、行こう?」
「あ、はい。そうですね」
 差し出された手を取り、帝人が歩き出す。
「りゅうがみねに似合う可愛い服を買おう」
「静香さんに似合う素敵なお洋服も買いましょうね」






シトロン・ガール







リクエストしてくださった藍猫様に捧げます。
藍猫様、ありがとうございました!

・甘甘ラブラブ……?(シズミカ部分はなんとか達成しておりますが……)
・やっぱりシズちゃんがどこか黒い(最早拙宅のデフォルト)
・戦争サンドだけど静帝←甘寄り。
・きっとこの後で年齢制限。
……す、すみませんでした。