воронаヴァローナ
 取立ての仕事で先輩二人の後に続き池袋の街を歩いていたヴァローナの耳に、まさかここで聞けるとは思ってもみなかった声が届いた。
 聞き慣れたロシア語。だがこの声はヴァローナがロシアを離れるよりも早くあの極寒の地を去ってしまったものであり、彼女がどんなに情報を求めても決して辿り着けなかった特別な“女性”のものだった。
(それが何故、今になって―――)
 驚愕と喜び、それから糠喜びの後の寂しさを少しでも軽減させるための「そんなまさか、聞き間違えだ」という気持ちがぐちゃぐちゃに混ざり合ったまま、ヴァローナは声がした方へ振り返る。人混みはただの路傍の石と化し、仕事仲間の二人ですらその存在を頭の中から完全に消し去った彼女はそうして、見た。見つけてしまった。
 一歩踏み出して手を伸ばせば届くような距離に、黒髪の、自分よりも数年年上であるはずなのにずっと年下に見える童顔の日本人女性の姿を。

царицаツァリーツァ!!」

 かつてそう呼んで慕っていた呼称を口から飛び出させ、ヴァローナは己が望むままに手を伸ばす。周りの人間などどうでも良かった。むしろ周囲の者達など自分と……否、この女性と同じ存在だとは欠片も思わなかった。ただその黒髪の女性だけを見つめて、腕を伸ばして、そして触れた感触に、淡々と人を壊しては己の知識欲を満たそうとしていた金髪の“カラス”はその青い目から熱い液体を何滴も零した。
 ヴァローナの突然の行動に先輩達―――平和島静雄と田中トムは足を止めて驚愕を露わにし、他の何も知らない群集も足を止めるか横目に見て去っていく。しかしヴァローナの意識はそんな物に割く余裕など無く、ようやく腕の中に閉じ込めた小柄な女性をもう逃がさないとばかりにぎゅうぎゅうと抱きしめた。
「つ、つぁーりつぁ?」
「ヴァローナが喋ってるんですからロシア語っすかねえ」
 トムと静雄が数歩離れた場所でそんな会話を交わす。すると金髪美人の腕の中で抱きしめられていた日本人女性が苦笑を滲ませて呟いた。
「もう、やめてよねその呼び方。『女帝』だなんて恥ずかしくて仕方ないんだよ?」
「しかし貴女は私の憧れであり唯一。また貴女の名前、それ即ち他者を統べる人間のものと記憶しています。絶対的な肯定です」
「ほんっとヴァローナは相変わらずオーバーなんだから」
 くすくすと笑いながらヴァローナの腕の力を緩めさせ、その女性は抱擁を終わらせる代わりに手を取って優しく握り締める。黒の中に僅かな青を含ませた不思議な色の双眸がヴァローナを見つめて愛しげに微笑んだ。
「久しぶりだね、ヴァローナ。綺麗な金髪も青い眼も、そしてそのちょっと変わっててとっても可愛い日本語も昔のままだ」
「みかど……」
 それが女性の名前。小柄で顔の作りも(瞳の色以外)特に変わった所などない普通の人間であるが、この女性がかつてヴァローナに見せてくれた力はその姿を完全に裏切るものであり、また共にロシアに在った頃、彼女が与えてくれた包み込むような優しさはヴァローナにとって絶対的かつ至上の宝物だった。
 しかしヴァローナが属していた『会社』との契約が切れると同時に彼女は姿を消し、以降、二度と会う事はなかった。彼女の故郷だという日本にもこうしてやって来てみたが、手がかりはゼロで諦めかけていた程である。しかし―――
「みかど……、みかど」
 そんな女性が今、目の前にいる。ヴァローナの手を握っている。
 人を壊した時の高揚とも違う、もっと胸の底から込み上げてくるものに従って、ヴァローナは握り合った掌にまるで神に祈るかのごとく額を押し付けた。
「私の唯一、私の女帝ツァーリツァ……竜ヶ峰帝人。ずっと、ずっと貴女に会いたかった」



* * *



 所変わって露西亜寿司。
 あのまま往来のど真ん中でロシア美人と日本人女性の再会劇を延々と続けさせる訳にも行かず、馴染みの露西亜寿司へと四人――静雄とトムとヴァローナと帝人――は場所を移した。
 露西亜寿司の暖簾をくぐって店長のデニスと店員もサイモンを目にした竜ヶ峰帝人は、彼らが「いらっしゃい」の「い」の字で口を固定している隙に「わあ!!」と感激したように目を輝かせて、
「デニスさんにサーミャさん! お久しぶりです!」
「……なっ、帝人の嬢ちゃんかい?」
「オー、ミカード! 久しぶりネ!」
「本当に……お別れしてから十年くらい経ってますよね。お二人とも会社を辞めてこちらに来られてたんですか」
「ソウダーヨ。日本いいトコ。帝人に教えてモラッタ通りね」
「それは良かったです」
 微笑みながらそう返す帝人。
 静雄とトムはヴァローナだけでなく露西亜寿司の店員達とも知り合いだった帝人の素性に更に驚き――そりゃあヴァローナとサイモン達が知り合いなのだから有り得ない話ではないのだが――、一体彼女は誰なんだと思いながらロシア人三人と日本人一人のやり取りを眺める。ただ判っているのは竜ヶ峰帝人と言う女性がヴァローナにとってそれはもう特別な存在であるという事だけだ。
 今もまた彼らが知るのとは違う、どこか甘えるような態度でヴァローナは己より背の低い帝人の腕をぐいぐいと引っ張って意識を自分に向けさせようと奮闘している。
「帝人、デニス達との挨拶、もう充分。肯定です。デニスとサーミャも仕事に戻るのが最良。そして帝人は私を見る、非常に推奨します」
「悪い悪い。そういやヴァローナは帝人の嬢ちゃんが大好きだったからな。……それじゃそこの四名様は奥の座敷にどうぞ。サイモン、お前はお客様にお茶だ」
「了解ヨ」
 ロシアの男二人はニヤニヤとニコニコの中間のような笑みを浮かべながら、ヴァローナに言われた通り仕事に戻る。
 四人は店の奥に設置されている畳敷きの部屋へと移動した。トムと静雄の男二人が隣同士で、そのテーブルを挟んだ正面に帝人とヴァローナの女二人が座る格好になったのは、当然の事ながらヴァローナの意志が優先されたためである。正確に言えばヴァローナが帝人の腕を放さなかったためであるのだが。
 熱い緑茶が運ばれてきたついでにセットメニューを四人前注文し、おそらくこの場で最も適当な人物―――田中トムが口火を切った。
「ま、とりあえず。先にこっちがどこの誰か名乗っとくな。俺は田中トム、んでこっちが平和島静雄。俺ら三人で取立ての仕事をしてる。ヴァローナの事は知ってんだよな」
「ええ、ロシア滞在中にお世話になっていた会社の副社長の娘さんでしたから」
 帝人は続ける。
「申し遅れました。僕は竜ヶ峰帝人と言います。御覧のとおり日本人ですが、日本と国外にいた期間は半々ですね。ロシアで契約社員をやっていたり、今は……アメリカのネブラって知ってます? 複合企業でとっても大きな所なんですけど、そこの医薬系部門で研究員の方々の護衛なんかをやってるんです」
「そのナリで護衛……?」
 女性である帝人をじろじろ眺めるのは失礼であるため控えたが、小柄な体躯の彼女に『護衛』などという身体を張った仕事ができるのかトムは正直疑問に思う。隣の静雄もそうだろう。だが帝人の話を聞いて彼女の横にピッタリくっ付いているヴァローナは否定するどころかどこか誇らしげですらあった。池袋最強と称される静雄には及ばずともそれなりの強さを身に付けているあのヴァローナが、である。
 トムの考えが解ったのか――と言うよりもトムの考えが普通である――、帝人は「見えませんよね」と小さく苦笑した。
「確かに僕にはあまり体力も筋力もありません。ですが力というのは使い方次第で結構大きな結果を出せたりするものなんですよ。……ね、ヴァローナ」
「肯定です。帝人の言葉、正しく真実。帝人の動きには無駄がありません。ゆえに帝人は私よりも小さいのに私よりずっと強い。今でもそれは変わらないと再会してすぐに理解しました」
 帝人の言葉にヴァローナが間髪置かず首肯する。
 そんな女性二人の様子を見たトムは、後輩のロシア人の過去など殆ど知らないが、おそらくヴァローナにとって竜ヶ峰帝人と言う人間はそれはもう特別な存在なのだろうと再度思った。この調子では帝人が黒といえば白いものでも黒だと肯定するかもしれない。
「ちなみに今回の来日も実は仕事なんです。ネブラに所属する日本人研究員の方がアメリカから日本にお住まいの息子さんとそのお嫁さん候補に会うとかで」
「へ? じゃあこうやって俺達と話してるけど、それは構わねえのか?」
 帝人の言う事が本当なら、彼女の仕事はその研究員の護衛である。ならば四六時中その対象と行動を共にするのが普通だと思うのだが。
 問いかけるトムに帝人は「それが……」と頬を掻いた。
「息子のお嫁さん候補という女性が凄く強くて優秀な運び屋さんらしくて。その方と行動を共にするから問題無いと暇を出されてしまいました。それでまあ、来日前に最近の池袋での出来事は粗方調べてヴァローナがいる事も判明していましたので、彼女が見つかればいいなぁくらいの気持ちで街を歩いていた訳です」
「運び屋……?」
「つか昔務めてた会社の副社長の娘がいるとか、どうすりゃ調べられんだべ」
 色々と引っかかる単語に取立ての男二人組は首を傾げる。特に静雄は知り合いの運び屋とその恋人の事をよく知っていたので、ひょっとしてあのオッサンの事か? と、帝人の護衛対象であるという“ネブラの日本人研究員”が誰かまで見当が付き始めていた。
 ちなみに平和島静雄という男は感情を外部に対して隠さない。隠せない、とも言うがそれはさて置き、初対面の人間であっても静雄の感情はある程度読み取れる。ましてや帝人は外見は幼いが立派に仕事をこなせる社会人であり、また仕事上他人の考えを読むのも得意としている。そんな訳で、帝人が静雄の考えを読むのは非常に容易い事であった。
「平和島さんは岸谷さんをご存知のようですね」
「……やっぱ新羅の親父の事か」
「ご名答です」
 ふふ、と帝人が口元を押さえる。
「まさか知り合いの女の子の仕事仲間さんが私の護衛対象の息子さんとお知り合いだとは思いませんでした。偶然ってあるんですねえ。……あ、それとヴァローナ、その息子さん……って言うか岸谷新羅さんの恋人って人なんだけど、誰だか判る? あの首無しライダーさんなんだよ?」
 かつてヘルメットで顔を隠したまま派手にやりあった黒バイクのライダーを思い出し、ヴァローナはピクリと肩を強張らせた。それに気付いているはずの帝人はあえて何も指摘せず、笑みを保ったままサラリと告げる。
「以前ご迷惑をお掛けした方だよね? 良い機会だから近々謝りに行こうか。それに実は、■■■■■
「ッ!」
「?」
「どうしたヴァローナ?」
 今の取立て業に就く前、何故ヴァローナが露西亜寿司で働く事になっていたのか。その辺の事情を全く知らない静雄とトムは頭の上に疑問符を浮かべていた。
 そしてポカンとする彼らとは対照的にヴァローナは帝人の台詞に純然たる恐怖を覚えていた。帝人の護衛対象の(将来の)娘をヴァローナが殺すつもりでいた事がバレたから、ではない。確かに彼女はヴァローナが黒バイクに謝罪する事を求めたが、おそらくヴァローナが強く拒否すれば無理強いはしないだろう。
 何故なら帝人と黒バイクの間にはそれほど強い繋がりが無いからだ。言葉を交わした事も無いだろうから繋がりは皆無と表現してもいいだろう。
 帝人はいつも優しく笑っていて気軽に手を差し伸べてくれるが、実のところ赤の他人など結構どうでもいいと思う性質を内包している。なおかつ今回は黒バイク本人も無傷であったため、その非情さは容易く外に現れていた。
 では何故ヴァローナは怯えたのか。それは帝人が隣にだけ聞こえる声で続けた台詞が原因だった。
 竜ヶ峰帝人はヴァローナに向けてこう言ったのである。
 ―――それに実は、貴女が狙ったもう一人の女の子、いるでしょ? ヤクザの娘じゃない方。 彼女は首無しライダーさんの友人であると同時に、僕にとっても大事な子だったりするんだよね。
 帝人は赤の他人に対して非情だ。しかしそうでない者に関しては異常なほど大切に扱う性質も備えていた。ヴァローナ自身が大切にされる側であるからよく解る。
 怯えるヴァローナの隣で帝人はお茶を一口啜り、湯飲みをテーブルに戻しながら、今度は向かいの静雄達にも聞こえる程度の音量で告げた。
「この街に来る前に情報は粗方調べたって言ったよね。それで僕も吃驚したんだ。貴女がもう一人知り合いになった女の子はね、僕が日本で学生をやってた時に良くしてくれた女性の娘さんなんだよ。今日はヴァローナを捜してウロウロしてたけど、日本にいる間に一度は絶対会いに行こうと思ってたぐらいでさ。ヴァローナってば本当に凄い所で繋がってるよねえ」
 カラカラと笑う帝人だがヴァローナには口元を引き上げる事すらできそうになかった。
 繰り返すが、トムと静雄の二人はヴァローナの事情を全く知らない。したがって知らぬうちに共通の知り合いが出来ていたらしいヴァローナと帝人の対照的な表情の意味も解らなかった。しかしながら新しい後輩が慕っている女性から何やら押され気味であるのは解る。ここは見守るべきか、助け舟を出すべきか。さあどうしようと男達は逡巡する。
 しかしながら彼らが行動を起こすよりも早く、
「お待ちどう様ネー。クレムリン握り四丁、お持ちシマシターヨ」
「ありがとうございます」
「ドウゾごゆっくりー」
「わあ、おいしそう!」
 注文していた寿司を持ってきたサイモンによってタイミングは失われ、帝人がにこにこと箸を割っている。その気軽さについつい静雄達も釣られそうな程だ。実際、静雄達はほとんど無意識に割り箸を持っていた。箸に手を伸ばさないのはヴァローナだけ。そんな彼女の隣で帝人は喜々として箸を持ち、
「あ、ヴァローナ。怒ってないから安心していいよ」
「……その発言、疑問が発生します」
「だって今回、本当に悪いのはヴァローナじゃないからね」
 箸で軍艦巻きを持ち上げながら帝人は言った。
「僕が怒ってるのは貴女に仕事を依頼した人間。自分では何も生み出さずに他人の『情報』っていう『血』を吸って生きてるノミ蟲野郎の事だよ」
 その瞬間、ヴァローナの正面でバキィッ!!と何かの折れる音がした。
 発生源以外の三人は驚いて視線を一箇所に集中させる。
「…………ああ、すんません。つい」
 三対の視線が揃って向けられた先、静雄が声を荒げる事なく呟いた。ただしその前に少々長めの沈黙があったのは、静雄とは付き合いも長いトムの脳裏に浮かんだ人間をこのバーテン服の後輩も想像してしまったからだろう。
 握り締めた右手の隙間から粉々になった割り箸(だった物)をパラパラと零しながら静雄のサングラス越しの双眸が帝人を見る。そうして口から零れた「まさかアンタ」という呟きに、帝人は早くも合点が行ったように「そう言えば貴方は『平和島静雄』さんでしたよね」と微笑んだ瞬間、その表情のまま“吐き捨てた”。
「お察しの通り、新宿で情報屋なんてやってる変態黒尽くめの事ですよ。ホント、あんな男さっさと死ねばいいのに」
 竜ヶ峰帝人は懐に入れた人間を異常なほど大切にする。当時殺人にしか快楽を見出せなくなっていたヴァローナの心を絡めとったのもその性質が成せる技だ。そして懐に入れた人間以外の他人に関しては非情に徹する。ゆえに帝人は本心から笑顔のままで殺害願望を繰り返した。
「なんとかこちらの罪にならない手段で消せませんかね、あのノミ蟲」
「帝人ならば可能。確定です」
 己にとって絶対的な女性から嫌われていないと知ったヴァローナは早々に先刻までの嬉しそうな表情を取り戻し、目を輝かせながら相手を全肯定している。
 異様と言えば異様。ただしこの場、このメンバーの中にはその異様さに相乗りする人間がもう一人存在していた。
「なんだかアンタとは気が合いそうだ。俺もアイツには言葉じゃ言い表せねえ程の恨みがあってな」
 ノミ蟲こと折原臨也の話題であるにも拘わらず、相手への憎しみと殺害願望を語った帝人が本心からそう言ったのだと感じた静雄は僅かな笑みさえ浮かべて言う。
 実際、これまで静雄が見てきた中で臨也を恨む者は数あれど本気で彼に仕返ししようとする人間は皆無だったのだ。そもそも仕返しする程の余裕が残っている事も少ないのだが、その少ない中でさえ誰も彼も口先だけで、行動を起こそうとはしなかった。それは人間の弱さに起因するところであり、ある意味仕方の無い事ではある。しかし静雄はそれが気に喰わなくてしょうがなかった。
 けれどこの女性は違う。静雄と同じで恐れも諦めも抱いていない。
 ある種の清々しささえ感じていた静雄に帝人も好感を覚えたようでテーブル越しにスッと手を差し出した。
「じゃあこれも何かの縁ですし、ノミ蟲撲滅同盟でも組みますか」
「おう! そりゃいい」
 パシンと軽い音を立てて触れ合う掌。双方共に笑顔だが、冗談のように見えて全く冗談ではないのが恐ろしい。ただしそう感じているのは田中トム一人だけで、ヴァローナは帝人を応援すべきか静雄の手を帝人から引き剥がすべきか葛藤しているようだった。
(一体これからどうなっちまうんだ?)
 とりあえず新宿の情報屋に死亡フラグが立ったのは間違いない。






女 帝 の 凱 旋







リクエストしてくださった千瑠様に捧げます。
千瑠様、ありがとうございました!