池袋にシマを持つヤクザの目出井組系粟楠会、そこの専務こと若頭には愛娘が一人いる。それは組の人間ならずとも少しばかり耳の良い者ならば知っている情報である。そして今年十を迎えるその愛娘―――粟楠茜には殊更お気に入りの“少女”がいた。
少女と言っても茜のように幼くはなく、池袋にある高校・来良学園の二年生だ。ただし童顔であるため実年齢より低く見られる事もしばしば。茜と同じ黒髪や懐き具合からして、まるで一般家庭の姉妹のようだと称される事もある。勿論、姉妹という単語の頭には“年の離れた”とは付かない。 来良に通う彼女の名は竜ヶ峰帝人。 埼玉から上京してきた何の変哲もない少女であり、まさか幼い子供とは言え粟楠の血を引く人間と係わり合いになるとは思えなかった一般人。彼女の幼馴染である少年も帝人を普通の家庭に生まれた普通の少女だと信じて疑っていない。だがしかし、竜ヶ峰帝人には粟楠茜と係わりを持つ大きな理由があった。 「帝人お姉ちゃん」 茜が帝人の腰に腕を回して胸に顔を押しつける。うっとりとした感さえある呼び方は、知り合いの年上の少女に懐いているだけとは思えない何かが含まれていた。 それもそのはず。ヤクザの組長の孫であり若頭の娘である一人っ子の茜には、兄弟は勿論の事、友人さえ殆どいない。そんな状態で“切ろうとしても絶対に切れない繋がり”をその体中に巡らせている帝人は、茜にとって何よりも心休まる依存対象となり果てていたのだから。 「おねえちゃん……」 竜ヶ峰帝人は竜ヶ峰夫妻の間に産まれた子供。それが世間一般から見た事実。しかし真実は違っていた。 竜ヶ峰帝人は竜ヶ峰ひとみの腹から生まれた娘。だがその半分は茜の父、粟楠幹彌の血で形作られていたのである。 元々、茜は腹違いの姉を好いていた訳ではなかった。 帝人の優しく柔らかな物腰も、ちょっと好奇心が強くて変わった物が大好きなところも、その童顔でさえ可愛いと思う。しかし茜は帝人に好意を抱くよりも前にとても潔癖な少女だったのだ。 まず父親が妻である茜の母以外に女性と関係を持ち、その間に子供をもうけていた事が酷く汚いもののように思えていた。もっと大人になればなんとか受け入れられた事実かもしれないが、父は母を愛しているものだという清い常識しか持ち得ない少女には手酷い裏切り行為に感じられたのだ。よって父親の裏切りの結果でもある帝人の存在を知った時、茜は『大好きで大切な父親』を憎むよりも、出会ったばかりで殆ど何も知らない帝人を憎む方を選んでしまった。 しかしそれから一年も経たないうちに、たった一人を排除する事で得られた茜の美しく満ち足りた日常は音を立てて崩れ去る。 これまで絵画を売る仕事をしているとばかり思っていた父親が、実はヤクザのNo.2であり、父親と同じく大好きな祖父も粟楠会という組の長であると偶然知ってしまったのだ。 小学校の友達は茜がヤクザの娘だと知っていたから、彼女の言葉に従い、彼女に笑顔しか見せてこなかった。小学校の友達の保護者や先生達も茜がヤクザの娘だと知っていたから、彼女を丁重に扱い、決して否定などしなかった。誰も茜が茜だから接してきたのではなく、粟楠の娘だから茜にハリボテの美しい世界を見せ続けていたのである。 美しいと思っていた世界の瓦解。『ヤクザの娘』というレッテルが貼り付けられた茜に本当の意味で優しくしてくれる者など、自分を受け入れてくれる人間などいない。茜はそう思い、世界に絶望した。まだ十にも満たない時の話だ。 しかしそんな茜が絶望という暗闇の中で親の手さえ跳ね除けていた時、彼女に唯一差し出され続ける白い手があった。 それが、これまで茜が憎しみすら抱いていた竜ヶ峰帝人。 腹違いの姉はその身に茜と同じヤクザの血と、茜と全く違う一般人の血の両方を宿していた。茜にとってとても近くて、同時に遠い存在。そんな彼女がまだ茜のすぐ傍で手を伸ばしてくれている。その事実に気付いた瞬間、茜は姉の胸に顔を埋めていた。ぼろぼろに泣きじゃくって、ずっと腹の中に溜まっていた汚いものも吐き出して、それでも抱きしめ続けてくれる姉に茜が好意という名の依存を抱いていったのは、茜本人にとってはとても自然な事だった。 粟楠茜の世界は塗り変えられた。最早ハリボテの美しさも見かけだけの清らかさも要らない。自らの拠り所となる帝人がいれば、茜の世界は根源から美しく彩られているのだから。 * * * (それなのに、貴方は私の世界を脅かすんだ) 粟楠ではなく竜ヶ峰を名乗り続ける帝人は池袋で一人暮らしをしている。茜は姉が住まうアパートの一室で、姉を訪ねてきた男をギッと睨み付けた。 「あー……確かお前、帝人の妹って言う」 「粟楠茜だよ、静雄お兄ちゃん」 アパートの扉を開け、不在の家主に代わって茜は訪問者に答える。 金髪サングラスにバーテン服。長身にそれらを纏った青年は池袋で知らぬ者がいないと言える程の有名人、平和島静雄だった。 どうやら帝人から聞いたらしく、静雄は帝人と茜の関係を既に知っている。その上で――帝人が見た目通りの一般人ではなくヤクザの関係者でもある事を知った上で――静雄は帝人と恋人関係にあった。 この男が現在、茜から世界の中心を奪う可能性を最も秘めた存在。いや、現にこの男は茜にばかり与えられるはずだった手も微笑みも声も包容も言葉も、それらの半分以上を茜から奪ってしまっている。許し難い事だった。 「帝人は?」 「お姉ちゃんなら買い物。すぐ近くのコンビニだって言ってたからもう帰ってくると思うけど」 「ふうん。じゃあ俺も待たせてもらうか」 そう言って静雄は茜の返事も聞かずにズカズカと入り込む。 茜と帝人の城に不純物が混ざり込んだ。靴を脱ぐ静雄を見上げながら、茜は意外に厚い面の皮の下で嫌悪感を渦巻かせる。しかしながら静雄は帝人に好かれており、帝人は茜が静雄を邪険に扱う事に良い顔をしない。茜は静雄のためではなく姉がこちらの態度に悲しい顔をしないようにするため、最近使い慣れてきたキッチンに立ち静雄に茶を淹れてやった。 「どうぞ」 「お気遣いどうも」 静雄はニコリともしない。元々人付き合いが得意な方ではないらしいのだが、これがもし帝人の淹れた物なら、もしくは茜が淹れた物でも傍に帝人がいたならば微笑みの一つくらい余裕で浮かべてみせただろう。しかしこの男もまた茜と一部似通っていた。相手が大嫌いで、帝人が大好きだという部分が。 互いに一瞥し合い、冷たい目のまま顔を逸らす。静雄は今年で二十五になるはずだが、相手の年齢など関係なかった。“これ”は排除すべき存在であり、敵。それだけで十分なのだから。 静雄は湯呑みに手をつけない。これも茜には解っていた。と言うより、逆の立場なら自分も同じく手を出さなかっただろう。帝人が見ているならまだしも、そうではない場面でわざわざ嫌いな相手が淹れた茶を飲むほど酔狂ではない。 しかしながらその茶が冷める前に静雄は結局、一口啜る羽目になった。何故ならば――― 「ただいまー。ごめんね茜ちゃん、お留守番たのんじゃ……静雄さん!」 ガチャリと玄関のドアが開いて家主が帰ってきた。帝人は静雄の姿を確認すると驚いたようにパチパチと瞬きを繰り返し、それから嬉しそうに頬をほんのりと赤く染める。 可愛い。が、気に入らない。 茜はそんな感情を隠して「おかえり帝人お姉ちゃん!」と帝人に駆け寄り、静雄の目の前でぎゅっと抱きついた。インドア派である故か白くて細い姉の指が茜の黒髪を梳き、「ただいま」と繰り返す。幸福だった。しかしその幸福も長くは続かず、帝人の意識が静雄に向けられる。 「いらっしゃい静雄さん。ご連絡いただければ何か用意して待ってたんですけど」 「いや、俺が勝手にお前の顔を見たくなって来ただけだから。それにお前の妹がもう茶も淹れてくれたからな」 わざわざサングラスまで外して静雄は優しげな微笑を浮かべる。 池袋最強と恐れられてはいるが、静雄の容姿は元々とても整っており、キレなければ大人しそうな好青年で通じる。それを本人も理解しているのか、先刻までの茜と二人きりだった時とは全く異なる柔らかな雰囲気を纏って帝人を更に照れさせていた。 (嗚呼、はらわたが煮えくり返っちゃうよ) 茜の顔は嫉妬で醜く歪んでしまいそうだった。しかし帝人に抱きつく事でそれを隠し、静雄が微笑んだまま茜の淹れた茶を飲むのを待つ。 そして――― 「……ッ、ごほっ……ぐ」 「静雄さん!?」 突然激しく咳始めた静雄に驚き、帝人が駆け寄る。恋人の背をさすり、「大丈夫ですか!?」と必死だ。 茜はそんな姉の背中を―――否、ごほごほと咳を繰り返しながらも「大丈夫だ」と答える姉の恋人を見据えていた。驚きもせず、淡々とした目で。しかしその唇は笑みの形に歪めて。 帝人を安心させるよう答えながら静雄の視線が茜を射った。ギラギラと今にもこちらを射殺さんばかりの視線に茜はその幼顔に浮かぶ笑みを深め、音を出さずに唇を動かす。 「(その程度の毒じゃ、やっぱり貴方は死なないんだね)」 だたの茶をお前のために淹れるとでも思ったか。 そう嘲って茜は悪意ある笑みを消し、代わりに偽りの労りを顔に貼り付けて姉に近寄った。 「お姉ちゃん、救急車呼んだ方がいい?」 「え、あ……そうだね」 「いや、別にいいから」 答えたのは静雄。人のくせに人ではない体の持ち主は多少の毒物にも耐性があるらしい。もう咳も殆ど治まって、不安に駆られる帝人の頭を撫でている。 「悪かったな、ちょっと噎せただけなんだ。嬢ちゃんもすまなかった。折角淹れてくれたってのに」 ギラつく視線はひた隠しにして静雄が茜に微笑んだ。茜もまた、まるで“不安の中でも気丈に振る舞う少女”のように「ううん」と首を横に振る。 「お茶なんていくらでも淹れてあげるから、静雄お兄ちゃんも変な我慢なんてしちゃだめだよ? どこかおかしいと思ったらちゃんと病院に行ってね」 「ああ、ありがとな」 茶番だ。そして、ザマアミロ。 皮膚一枚下で茜は嗤う。それを察して静雄の視線がほんの一瞬だけ鋭さを見せた。だが帝人に気付かれる訳にはいかないそれは、すぐさま瞳の奥に隠される。 ただし茜の攻撃に対し、静雄もまたそれを受けるだけの人間ではなかった。 彼は茜が嗤う目の前でそっと恋人を抱擁すると、 「大丈夫だからそんな顔すんなって。な?」 「だ、だって……」 「帝人は心配性だなぁ」 くすくすと笑って静雄は帝人の白い額に唇を落とし、それから己の肩口に恋人の額を押しつけて彼女の視界を遮る。 そうして一方の手で髪を梳き、もう一方の手で帝人の背をゆるりと撫でながら、静雄の視線は恋人ではなく茜へと向けられ、 「(妹である前に『女』である手前じゃ、どうやったって帝人を孕ませられないだろう?)」 凶悪なまでに口の端をニイと吊り上げ、静雄は絶望する少女の眼前に勝利宣言を掲げた。
私の世界を奪う敵
(お前なんか死んでしまえッ!!) リクエストしてくださったリズ様に捧げます。 リズ様、ありがとうございました! 頂戴したリクに「静雄も帝人のこと大好きすぎて大人気ない」ともありましたので静雄さんを大人気なk……あれ? これってただ病んでるだけですねorz |