昨日、三年間続いた恋人から別れを告げられた。
魔神の落胤でも構わない。ヴァチカンに睨まれていても気にしない。たとえ一生貴方の子を産むことが許されなくても、傍にいられればそれでいい。そう言ってこの手を取ってくれた女性だった。 何がいけなかったのだろう? 任務にかまけて、知らず知らずのうちに彼女との時間を疎かにしてしまっていただろうか。気に障ることでも言ってしまっただろうか。やはり悪魔の血を引くが故の身体的特徴に気味が悪くなったのだろうか。はたまた青い炎で悪魔を祓う姿に恐怖を覚えさせてしまったのだろうか。 「慢心してたのかなぁ。アイツは俺を選んでくれたんだって」 「おや、『慢心』だなんて言葉ご存知だったんですね」 「うっせー、バカ。それくらい俺でも知ってるっつの」 「それは失礼」 場所は正十字学園最上部に設けられたヨハン・ファウスト邸、その執務室。 くすりと吐息を零して笑うのはもう何十年何百年と変わらぬ姿をした男。白とピンクを基調にした道化のような出で立ちも出会った頃から相変わらずだ。 対する燐は彼と初めて言葉を交わした時よりも身体的な成長の跡が見られ、順当に年齢を重ねているようにも思われる。しかしその実、身体の成長は最早停止の兆しが見え始めており、彼が悪魔の血を引いていることを如実に表していた。おそらくこの身体は二十代半ば程度という今の状態で固定されてしまうのだろう。 「でもまあ、良かったじゃないですか」 「は?」 道化―――メフィスト・フェレスの言い様に燐は眉を顰める。 一体何が良かったと言うのか。燐は決して遊びで彼女と付き合っていたわけではなかったし、むしろ心から愛していた。こんなにも心を傾けたのは双子の弟や亡くなって久しい養父くらいなものだ。 無論、彼女に向けたのは弟や養父と同じ家族愛ではなく、ちゃんとした異性への愛である。その辺の混同はしていない。肉親には肉親に対する愛情を、友人には友人に対する信頼と友情を、そして恋人には情動さえ伴う炎のような感情を。 それを捧げた相手からきっぱりと別れを告げられ、どうしてメフィストは良かったなどと称するのか。やはりさすがに悪魔なだけあって、他人が悲しんだり苦しんだりする様が楽しくて仕方ないのだろうか。 こっちは後見人――燐もその弟も成人してしまったので正確には“元”がつく――の肩書きを持つ相手に心を許して今の話をしたと言うのに。 「こらこら、そうすぐに拗ねないでくださいよ」 「拗ねてなんか」 「拗ねてますよ。他人の話を最後まで聞かず勝手に勘違いして」 そう言って再び零された苦笑は、けれどどこか暖かい。はっとして燐は徐々に下がっていた視線を上げる。 「メフィスト?」 イエローグリーンの瞳が柔らかく眇められて燐を見ていた。 「もし貴方がたがこのまま続いたとして、その先にあるものは何だったと思いますか」 「その先?」 「そうです。老いゆく恋人に変わらぬ貴方、それが互いに平気だと言うのなら構いません。しかし彼女とて祓魔師だ。危険な職業についている者が寿命を全うできる可能性はあまり高くない。その上で、魔神の落胤という貴方と関係を持ち、未だサタンを憎む者達から嫌悪の目を向けられる。……貴方も奥村先生から教わったでしょうが、祓魔師は一人じゃ戦えません。貴方ほど強い力を持っているわけでもない彼女がそんな悪意の中で上手く立ち回ることができるでしょうか?」 「……ッ」 「ああ、その顔。考えないようにしていたんですか。すみませんね、わざわざほじくり返すような真似をして。ですが大事なことですよ?」 息を呑んだ燐へメフィストは執務机の椅子に腰掛けたまま続ける。 「彼女が傷つけば貴方も傷つく。おそらく彼女の方もそれを理解して貴方に別れを告げたのでしょう。貴方と彼女、双方共に最も悲しみの少ない方法で」 「……これで、よかったのかな」 「ええ。これで良かったんです。彼女も貴方も悲しみによって流す涙は必要最低限で済むんですから。また今度顔を合わせるようなことがあれば、その時は友人として笑顔で対応してあげなさい」 「うん」 いつものからかい混じりの口調ではなく、親身にこちらを思いやってくれているのだと分かるメフィストの言葉に、燐はこくりと頭を縦に動かした。 「奥村くん、いらっしゃい」 手袋に包まれた手でひらひらと手招きされ、立派な執務机を迂回して椅子に腰掛けたままのメフィストのすぐ傍まで近づく。 「メフィスト?」 「もうちょっとこちらへ」 「え? あ、わっ……」 言われるままもう一歩踏み出せば、腕を捕まれ思い切り引き寄せられた。 突然のことに踏ん張りが利かず、燐は衝撃に備えて目を瞑る。しかし予期した痛みは訪れることなく、ぽすん、と文字にするならそんな軽い音で温かいものに包まれる。 「ッ!」 「貴方は確かに『兄』ですが、私だって貴方の兄なんですよ? こんな時くらい思い出してくれませんかね」 「な、にを」 「ですから」 燐を抱き留めたメフィストは片腕を背に回し、もう片方の腕を持ち上げてぽんぽんと燐の頭を軽く撫でた。 「心の中が痛みで溢れそうなら私を頼るくらいしろと言ってるんですよ」 「ぁ……」 「私は貴方の兄です。いくら二人のためとは言え悲しい別れを体験した直後に一人で立つ必要なんてないんですよ。こんな時くらい私を使いなさい。いい年して、なんて考えず思い切り泣けばいい。ひたすら愚痴ってくれても構いません。普段『兄』であろうとする貴方にだって『弟』としての休息を取る権利はあるんですよ」 「……ッ」 そう言われてしまえば、もう耐えることはできなかった。 燐は己の『兄』に縋り付き、声を殺して泣く。本当に好きだった、彼女を愛していたのだと。眼前の布地に額を押しつけながらそう語れば、メフィストが優しく頭を撫でてくれた。 「貴方の愛しい彼女もこの別れを経て幸せになってくれるといいですね」 その言葉に燐は頷く。涙の所為でぐずぐずになった声のまま、何度も何度も。 □■□ ―――時間は遡って、二日前。 「まあ、こんなものか」 そう独りごち、悪魔―――メフィスト・フェレスはパンパンと両手を払った。 別に手が汚れるような作業はしていないのだが、これも気分だ。やはり“一仕事終えた後”には何となくこうして手を払うような動作がしたくなる。 冷めたイエローグリーンの視線の先には一人の女が転がっていた。黒いコートや胸に光るブローチから祓魔師であると察せられるが、メフィストがそれを見る目は部下に対するものなどではない。また自身の遊技を面白おかしくしてくれる玩具の一つに対するものでもなかった。 今メフィストがその女を見る目は、まさに路上の石ころを眺めるそれと同じ。―――否、むしろ更に悪い。イエローグリーンの瞳には滅多に浮かばぬ嫌悪のようなものが滲んでいた。 メフィストは基本的に無関心か興味、そのどちらかを人間に対して抱いている。自身を酷く嫌悪する人間――たとえばアーサー・O・エンジェル――を前にしても楽しそうに笑うほど。 そんな存在だからこそ、彼に嫌悪という感情を抱かれるのは人間にとって非常に好ましくない事態と言えた。 さて、運悪くメフィストに負の感情を向けられてしまった女だが、彼女が転がされているのは毛足の長い絨毯が敷かれたメフィストの執務室である。普段、燐がここを訪れた時とは違い、歓迎用のティーセットの類などは一切見当たらない。 そして床の上に仰向けで倒れている女は目を閉じて気絶していた。襟元から零れ落ちたペンダントは中央に小さな青い石を配した十字架で、それに気付いたメフィストは不機嫌そうに口元を歪める。 「分不相応な物を……」 呟き、メフィストは女の首からそのペンダントを毟り取った。鋭い眼差しで彼女を一瞥し、次いで小さな十字架に向けた視線は柔らかさを帯びている。青い輝きを放つ小さな石からはメフィストの大事な末弟と同じ力を感じることができた。 この十字架は末弟こと奥村燐が彼女にプレゼントした物だった。僅かとは言え青い炎が封じられたペンダントはそのまま下級悪魔に対する護符となる。別任務につくことも多い彼女のために燐が慣れない様子で石に力を込めていたのをメフィストはよく知っていた。何せ物に青い炎を込めてアミュレット(お守り)にする方法はメフィストが燐に乞われて教えたものだったので。 メフィストは青い石に口づけを落とし、これを当然のように身につけていた女を再び冷めた目で見下ろす。 現状、奥村燐の恋人というポジションを持っている彼女がメフィストの執務室を訪れたことを燐自身は全く知らない。また今後一切知らせるつもりもない。メフィストが彼女に何かしたと疑われる可能性を少なくしたいのは勿論だが、それ以上に燐がまたここを訪れた時、自身の恋人もここに立っていたのだと欠片でも思い出されるのが嫌だったのである。 「……ああ、違いました。『元』恋人ですね」 己の思考を一部否定してメフィストはうっそりと微笑む。 そう。つい先刻までこの女は燐の恋人だった。この場にいない燐は今も彼女を自身の恋人だと思っているだろう。しかし――― 「アインス、ツヴァイ、ドライ……さあ、起きなさい」 メフィストが声をかけると床に倒れていた女がゆっくりと目を開いた。虚ろなヘーゼルには感情というものが一切浮かんでいない。それを確認し、メフィストは頷く。 「念のため問いましょう。貴女に恋人はいますか?」 「……」 無言だが、首はゆっくりと横に振られた。 「では、貴女にとって奥村燐とはどういった存在ですか?」 「ただの知人」 「愛していない、ということですね?」 「はい」 「そうですか」 女の返答にメフィストは満足げな表情を浮かべ「結構!」と両手を打ち鳴らす。 感情操作は上手くいった。これでもう彼女は『奥村燐の恋人』ではない。今はその心だけだが、すぐに彼女は行動を起こすだろう。燐に恋人解消を申し出て、おそらくもう二度と個人的な関わりを持とうとはしない。また元々燐とは祓魔師としての実力差があったため、任務で顔を合わせることも滅多にないだろう。 この日まで三年待った。三年も待った。燐があまりにも幸せそうな顔をするから、らしくもなく『兄心』なんてものを出して己の感情を外に出さないようにしていた。しかしもう限界だった。 「あの子の隣に他人は不要だ」 燐の『元』恋人の精神を弄り倒したメフィストは全ての感情を殺がれ人形のようになった彼女を一瞥した後、退室を命じる。女は無言のまま床から起きあがってふらふらと部屋を出ていった。鍵を使ったので廊下には出ず、誰にも見咎められぬまま。 一人になった部屋でメフィストは手の中の十字架に視線を落とす。青い輝きは持ち主を変えても美しいままだ。 「至上の青は兄である私だけのものですよ……」 呟き、メフィストは十字架の先を摘んで持ち上げる。そのまま口を大きく開けて――― バキリ。 白い歯の間で銀色の十字架部分が噛み砕かれる。青い石とそれを抱く銀の台座を咀嚼し飲み込んで、メフィストはニタリと口の端を持ち上げた。 「そうでしょう? 私の愛しい末の弟」
目隠しと猛毒
『LANGSAM』の暮崎様に捧げます。 イベントではお相手していただきありがとうございましたvv メフィストさんが想定以上にヤンデレました。実は雪男も燐の恋人をあまりよく思ってなくて(ブラコンーっ!)、メフィストが壊した女性の詳細な情報を燐の耳に入れないように裏で動いてたりとか、そんな設定が無きにしも非ずなのですが書ききれませんでした(痛) 燐兄さんの兄弟は上も下も真っ黒です。しかしながらリク内容、クリアできてないですね!(涙) 何より燐がメフィに本当の意味で落ちてません。まだ兄弟愛止まりか……ッ!orz 暮崎さん! こんな感じでも大丈夫でしょうか!? 「アウトー!」な時は遠慮なくお申し付けくださいませ。喜んで書き直させていただきます! |