「これはこれは……。『上条当麻』はもう一度死んでしまったとでも言うべきかな?」
 くすりと吐息だけで笑って、竜ヶ峰帝人は上条の頬に手を伸ばした。
 両手を添えるようにして頬を包み込んだが、椅子に座ったままの上条は何の反応も返さない。輝きを失った黒瞳はぼんやりと中空を見つめ、呼吸に合わせてゆっくりと動く胸がなければ精巧な人形と間違える程だ。
 合わない視線を合わせるように腰を折っていた竜ヶ峰は荒事など知らぬほっそりとした指先でしばらく上条の顔を好きに触っていたのだが、ふと何かを思いついたように顔を上げる。その視線が向けられた先、上条当麻の後ろには彼をここまで“壊した”元凶が立っており、面白そうにこちらを眺めていた。
「ねえ、数多君」
 元凶の名は木原数多。学園都市の暗部に属する研究者の名前を気軽に呼んで、竜ヶ峰は童顔に穏やかな微笑を浮かべる。
「この子、僕がもらってもいいかな」
「俺はやりたいだけやったしなぁ、別に構わねーぜ」
「ありがとう」
「……その顔で今度は何をやらかすつもりだ?」
「んー。秘密。でもじきに判るよ」
 訝しげな木原にそう答え、帝人はだらりと身体の横に垂らされていた上条の右腕を取った。
「それじゃあ上条君、僕と行こうか」
「…………」
 ぼんやりとした上条の双眸が竜ヶ峰に向けられる。スロー映像でも見ているかのような速度で数度瞬きし、スイッチが入ったかのように薄い唇がようよう音を吐き出した。
「きはらせんせーとは、さよなら?」
 拙い、かつての上条当麻とは似ても似つかぬ喋り方。だが竜ヶ峰は笑みを深めこそすれ驚愕などは微塵もなく、「うん、そうだよ」と幼子に言うような口調で答える。
「木原先生とはこれでさようなら。今日からは僕が君の『先生』になるんだ」
「りゅうがみねせんせーが?」
「よろしくね」
「はあい」
 へにゃり、と双眸が細められた。
 一度徹底的に壊され、『先生』と名の付く者に従順であるよう躾られた上条は、伸ばされた竜ヶ峰の手をとって椅子から降りる。自分をこのような境遇に叩き込んだ原因の一人であると言うのに、そして上条の頭にはその記憶も残っているというのに、全く気にした様子がない。
「本当に壊れちゃったんだね」
 誰にも聞こえないような音量で呟き、竜ヶ峰は背後の木原に手を振った。
「じゃ、僕はこれで。結果をお楽しみに」



□■□



 竜ヶ峰帝人はとある高校の教師だ。担当教科は情報。また上条当麻が所属するクラスの副担任でもある。
 学園都市内の教師としては珍しくない部類の、教師と研究者を兼任している人物であり、あえて特徴を上げるとすれば高校生か中学生に間違われる程の童顔だろうか。ただしクラスの担任である女教師がどう見てもランドセルとソプラノリコーダーが似合う容姿をしているため、さして注目される程のものではなかった。
 性格は温厚で、生徒達からの信頼もそこそこ厚い。学園都市の裏側など欠片も知らないような、まさしく平和と平穏の象徴たる人物の一人だった。
 ゆえに、
「土御門君、上条君の事でちょっと話があるんだけど……」
(二週間前から行方不明のカミやんの名前がこの人の口から出るとは思わなかったにゃー)
 土御門元春の同級生にして悪友、また学生寮のお隣さんでもある上条は二週間前から姿を眩ませている。原因は不明。土御門もできる限りの情報網を使って探しているが、未だ有力な情報は得られていない。学園都市の表側たるこの学校では諸事情での帰省とされており、無用な混乱が起こらずに済んでいる事だけが救いと言えば救いか。
 そんな状況で深刻そうな顔をした副担任が人目を忍んで己を呼び出し、あの少年の名前を口にしたため、土御門は内心かなり驚いていた。
「先生は何か知ってんのかにゃー?」
「何かって……そうだね。それほど詳しく知っている訳ではないけれど、上条君が学校に連絡があった通りの『ただの帰省』ではない事くらいなら解ってるつもりだよ」
 童顔が眉間に皺を寄せて心配そうな表情を作る。
「ふぅん。じゃあなんでそんな事をオレに訊く? オレは確かにカミやんの隣人だが、それだけで不穏な気配満々の話を出してくるとは思えないぜい」
「そうだね」
 困ったような顔をしながら竜ヶ峰は同意した。そうして、「本当は言うつもりなんて無かったんだけど」と前置きして告げられた台詞に今度こそ土御門は驚愕を隠す余裕もなく目を見開いた。
「僕も一応、『魔術師』の存在を知る人間ではあるから」
「ッ……!?」
 学園都市の一般教師が魔術師の事を知っている? そしてそんな人間が土御門元春に二人きりでコンタクトを取ってきた?
「まさか」
「うん。黙っていてごめん。僕は君が魔術師である事を知っているよ。それに上条君がなんだか色々面倒な事に巻き込まれてるみたいだって事も。だから今回もそういう関係じゃないかって思ったんだ。しかも不在の期間が長すぎる。それが心配で……」
「オレに話を聞きにきたって訳か」
 土御門の問いかけに竜ヶ峰はこくりと頭を縦に動かした。
「僕にできる事なんて高が知れてるかもしれないけど、やるだけやりたいんだ。上条君は僕にとっても大切な生徒だから」
 眉尻を下げた笑い顔は情けないものだったが、それゆえに竜ヶ峰が心から上条の心配をしているのだと土御門には思えた。
 自分の正体を知られているらしい事には警戒心が一気に引き上がったが、この人物ならば大丈夫だろうと安堵する。上条当麻の所在に関する情報が得られない中、このような教師が味方につくのは有り難い。
 土御門は竜ヶ峰に対する印象を『ただの教師』から『信頼できる教師』に変えて、自分が現在持っている上条当麻に関する情報を開示した。
「……そっか。君でもめぼしい情報は」
「ああ。カミやんの右手は魔術も打ち消しちまうから、オレの探査術式も使えねえ」
「わかったよ」
「?」
 決心したように強い光を双眸に宿した副担任に土御門は小首を傾げる。情報通ではあるかもしれないが、いざと言うとき魔術側だろうが科学側だろうが、どちらにも対抗できなさそうなひょろい人間が何を決心したと言うのだろう。
「竜ヶ峰せんせ「君はまだ上条君の居場所に辿り着けていない。だったら僕が君を上条君の所まで導いてあげる」
 ふわりと微笑んで竜ヶ峰は歩き出した。土御門の肩に手を置いて「任せてね」とすれ違い様に告げる。
 まさかこの人の良さそうな教師は何か危ない橋でも渡るつもりなのだろうか。一般人にそんな事はさせられない、と土御門が慌てて何かを言おうとする。しかし。

 チクリ。

(え……?)
 首の後ろに小さな痛み。
 それを自覚した途端、全身をとてつもない倦怠感が襲って土御門は受け身を取る事もできず廊下に倒れ伏した。
(な……、え、どういう……?)
 視線だけで竜ヶ峰がいるであろう方向を見上げる。
 すると童顔の副担任は特に慌てた様子もなく「さすが新羅さん特製」と土御門の知らない人物名を口にしながら針のような物を白衣のポケットにしまっているところだった。
「りゅ、が……ね」
「おやすみ、土御門君。大丈夫だよ。僕が君を上条君の所まで連れて行ってあげるから」
 普段通りの穏やかな声がそう告げるのを聞きながら、間もなく土御門の意識はブラックアウトした。



* * *



「いっ……」
 頭が痛い。
 まず最初にそれを感じながら土御門は身を起こした。
 冷たい床に座り込んでぼんやりとした視界に映ったのは見知らぬ部屋。白い壁と白い天井がやけに病的で、未だ己が夢の中にいる気さえする。
 だが多角スパイとして働く土御門の頭はそれなりに優秀で、嫌でもこの状況に陥る事となった原因を弾き出した。
 記憶が途切れる直前まで会っていたのはクラスの副担任である竜ヶ峰帝人。その彼が十中八九、土御門をここに運び込んだのだろう。
(人が良さそう? いや、オレはばっちりあの笑顔に騙されたって訳だ)
 世界の裏側を知る者ならば当然のように、竜ヶ峰もただの『良い人』ではなかったのだろう。土御門を呼び出して話をしたのも、こちらの油断を誘い、隙を突いて針の先に塗った薬で気絶させるためだったのだ。オレより嘘つきだな、と容易く騙された己を嘲って、土御門はこの部屋の出入り口であろう扉に視線を向ける。
 ―――ガラリ。
「……ッ!」
「ああ、土御門君。もう起きたんだね」
 扉が開いた先にはいつもと変わらぬ穏やかな笑みがあった。
 未だ床の上に座り込んだままの土御門を眺めて竜ヶ峰は悠々と室内に足を踏み入れる。こちらを恐れた様子はない。何故なら土御門の首にはまるでペットのように首輪がつけられ、そこから伸びる鎖が部屋の隅に杭で固定されていたからだ。
「気分はどう? まだ少しダルいかな。でも後遺症が残るような薬じゃないから安心してね」
「誰が安心なんざできるか」
 指先の具合を確かめるように手を動かしながら土御門は低く唸った。
 自分がダメージを受けると知っていてもいざとなれば魔術を使うつもりである。己の動きを制限する鎖を引き千切るか、それとも竜ヶ峰本人に攻撃を加えるか。どちらがより効果的かを頭の中で計算し、土御門は好機を待つ。
(魔術一発くらいならオレの身体も耐えられる。ならばここは鎖を切って……)
 段々と近付いてくる竜ヶ峰から視線を逸らす事なく使用する魔術を決めた土御門は己の指を噛み切り、溢れ出した血で床に魔法陣を描き始める。
 それに目を留めた竜ヶ峰が片方の眉を跳ね上げたが、彼が何か行動を起こすよりも土御門の魔術が発動する方が早い。赤く塗れた指先が欲する形を描き出し―――
「だめだ、つちみかど」
 ふわり、と背後から何者かに抱きつかれ、土御門は動きを止めた。
 同時にその何者かの右手が完成直前の魔法陣に触れ、パキンと澄んだ音と共に力を消し去ってしまう。
 この声、そしてこの能力。
 まさかと思って土御門が首を巡らせると、背後から抱きしめていた人物がやわらかな微笑を浮かべていた。
「カミや、ん……?」
「ひさしぶり。おれのこと、さがしてくれてたんだよな」
 うれしい、と言って行方不明だったはずの上条当麻が土御門の肩に頭をすり付ける。
「ほんもの、なのか」
「そうだよ。そこにいるのは本物の上条当麻だ。君がずっと探していた、ね。言っただろう? 僕が君を上条君の所まで導いてあげるって」
「……はっ。お前が匿っていたならばそれも可能だな」
「匿っていたって言うか、つい先日までは別の人の所にいたんだけど。その人から譲り受けたから、今日は君をここに招待したんだよ」
 竜ヶ峰は肩を竦めて土御門の鋭い眼光を受け流す。
 それだけではなく、白衣を纏った青年は土御門に対して更なる毒を吐いた。
「ねぇ土御門君。君さ、上条君の事をどう思ってる?」
「は? そんなのただの隣人でクラスメイトで、」
「加えて悪友? あははっ、違うでしょう?」
 立ったままの竜ヶ峰は座ったままの土御門を見下ろして楽しそうに笑う。
「君、上条君を抱きたいって思った事があるんじゃない?」
「ッ!」
「“嘘つき村の村民”のくせに隠し事が下手だね」
 顔色の変わった土御門に竜ヶ峰は僅かな嘲りを含ませて告げる。だが土御門も負けていなかった。
「それがどうした」
 開き直ったと言うならばそう言えばいい。確かに竜ヶ峰の言葉は事実だ。土御門元春は上条当麻をただの友人とは見ていない。その細い体躯を押し倒して指を絡めて、欲のまま喘がせたいと思った事など数知れなかった。
「そうだぜよ。オレはカミやんを抱きたいと思っている。悪いか」
「別に悪くはないね。むしろ僕は抱きたいなら抱けばいいじゃないって思ってるくらいで」
「………………はあ?」
 本人を前にしての会話とは思えない。
 竜ヶ峰のその返答に土御門は背後の上条を窺った。
「つちみかど?」
 だが上条本人は何も気にした様子がない。いや、変と言えば変だった。どこか舌足らずな物言いと、茫洋とした目。土御門の魔術をキャンセルするためとは言え、背後から抱きついたままというのもおかしい。
 上条から竜ヶ峰へと視線を戻した土御門は正面を睨み付けた。
「カミやんに何をした」
「今更それを言う? ま、したと言えばしたし、していないと言えばしていないかな」
「はっきりさせろ」
「そんな怖い顔しないでよ」
 肩を竦めて竜ヶ峰は言う。
「上条君をね、ほんの十日ほど木原数多に預けたのさ」
「なっ」
「知っているようで手間が省けるよ。そう、学園都市じゃ有名な狂科学者・木原一族の一人にね。上条君はそこで躾られて帰ってきたんだ」
「お前っ、カミやんを何だと思ってやがる!!」
「つちみかど、うごかないで」
「ッ、カミやん!!」
 竜ヶ峰に殴りかかろうとした土御門を上条の腕が止める。乱暴に振り切る事もできず唇を噛んだ教え子を観察するかのように竜ヶ峰は両目を細めた。
「これで状況は解ったかな。じゃあ今回の本題といこうか」
「本題、だと?」
 絞り出すような声で言い、土御門は竜ヶ峰を睨む。だが竜ヶ峰は全く臆した様子もなく、「上条君」と土御門に抱きつく人物の名前を呼んだ。
「土御門君を喜ばせてあげて?」
「はい、せんせー」
 答えるや否や、上条の両の手が土御門の頬に添えられる。そして気付いた時には―――
「……ッ、カミや……っ」
「あ、ン……」
 唇を触れ合わせるだけではない。生じた隙間から舌を捩じ込んであからさまな水音を立てるキスをしながら、上条は至近距離で土御門に微笑みかけた。
 くちゅくちゅと下肢にダイレクトに響く音を立てながら口付けが交わされる。拒む事ができないのは土御門の浅ましい本能がその行為を喜んでしまっているからだ。
 永遠にも一瞬にも感じられるそれが終わった後、土御門は目元を赤くした上条から顔を逸らし、竜ヶ峰に再度視線を向ける。
「これは、どう、いう……」
「僕の願いを叶えてくれるならそれ以上もさせてあげる」
「願い、だ……?」
「うん」
 頷き、竜ヶ峰は容姿に見合った無邪気な顔でこう告げた。

「世界の緩衝材としての役目をしばらくお休みして欲しいんだ」

 土御門は多角スパイとして多くの組織・機関に情報を提供している。それは各組織間の摩擦を軽減し、この世界が大規模な争いに巻き込まれないようにするためだ。それを休めと、この青年は本気で言っているのだろうか。
「君以外にも君のような働きをしている人は結構いるみたいだけどね。でも土御門元春という人間が担っている役割は大きい。何せこの科学の街のトップ、アレイスターと面識もあるくらいだから」
「それを解っていてオレに今の任を休めと?」
「解ってるから君に言うんだよ。僕はね、好奇心が旺盛なんだ」
 好奇心が旺盛という程度では済まされない事を言いながら竜ヶ峰は遠足前の子供のようにわくわくと瞳を輝かせる。
「それこそ世界規模の戦争が起きたって良い。運の良い事に、『首』は僕の手元にあるし」
 後半の意味は理解できなかったが、竜ヶ峰は本当に世界大戦を望んでいるのだ。
 土御門は無邪気な顔でそれを望む青年にぞっとした。
「そんな事、オレが承諾すると思って……」
「土御門舞夏さんの事なら心配しなくて良いよ。彼女の安全は僕の方で保証してあげる。彼女以外にも土御門君が大切にしたい人がいるなら何とかしよう。勿論、君達二人も含めてね」
 土御門と上条の二人を順に視線で指し、竜ヶ峰はさっと両手を広げた。
 全てを迎え入れるように。全てを拒むように。全てを楽しみ、嘲るように。童顔に無邪気な笑みを浮かばせて竜ヶ峰帝人は笑う、嗤う、ワラう。
「君が守りたかった人はちゃんと守られる。その上、君は愛しい上条当麻を手に入れられる。ねえ、別に分の悪い取引じゃないだろう?」
「つちみかどは、おれがほしいのか?」
 背後の上条が土御門の胸に手を這わせ、耳元で吐息混じりにそう問いかける。
 グラつく理性。甘美な誘惑。
 耐えるように奥歯を噛みしめる土御門に白衣を纏った悪魔が囁いた。
「たった一度頷くだけでいい。それだけで君は上条君を思う存分抱けるようになるんだから」






堕 チ 






 どこかのある日の誰かの会話。

「ねえ、アレイスター。貴方は僕のこの行動さえプランに組み込んでしまうのかな?」
『そうだな。まあ君の行動はとても興味深いから、私も楽しませてもらうとするよ』
「ご期待に応えられればいいんだけど」
 朗らかに笑って青年は携帯電話のボタンを押した。
 本来の性能よりクリアな音質で交わされていた会話はそこで途切れ、青年は傍らの机に置かれた硝子の容器に微笑みかける。
「君にも楽しんでもらえるといいな」
 その声に答えた訳ではないだろうが、硝子容器の中でコポリと泡が音を立てた。







『無明の眠り』の三重様に捧げます。お誕生日おめでとうございますvv
そして誰得? 俺得! な設定に賛同してくださってありがとうございました!