「兄さん!」
そう呼ばれた人物と呼んだ人物を見比べて、周囲にいた通行人達はぎょっと目を剥いた。 なにせ前者は金髪サングラスにバーテン服の池袋最強であり、対して後者はこの近くにある高校のブレザーを纏っているが中学生にしか見えない少年だったのだから。 童顔の高校生が平和島静雄に臆する事なく駆け寄り、あまつさえ「兄」とは何事だ。―――そう、周囲の目は語っていた。キレやすい池袋最強の気に障らぬよう、かなり控え目にではあるが。 「帝人? ……ああ、学校終わったのか」 駆け寄って来た少年こと帝人の頭に手を置き、静雄はわしゃわしゃと短い黒髪をかき回す。帝人は揺れる視界をそのままに、目を細めて笑い声を上げた。 「学校帰りに買い物か? メールくれりゃ買って帰ってやんのに」 「でも兄さんは仕事中だし」 「お前なぁ、自分の兄貴に遠慮すんなよ」 呆れたような声で静雄が告げる。 帝人は静雄を兄と呼ぶが、正反対の見た目からも判るように二人の間には血の繋がりがない。帝人は静雄が小学生の時に平和島家の養子になった子供だった。 かつては血が繋がらないゆえの躊躇いや葛藤、不満・不安なども存在していたが、それもすでに過去の思い出となり、二人――ともう一人、静雄の実の弟である幽――は仲の良い兄弟である。しかしながら帝人が時折見せる“遠慮”は少年本来の性格が作用したものであるため、静雄が何度言っても無くなってくれない。親しき仲にも礼儀あり、などという言葉もあるが、やはり静雄にはそれが少しもどかしく思える。 とにもかくにも、静雄にとって帝人は年の離れた大切な弟だった。しかし――― 「ありがとう、シズ兄さん」 (……ッ) 礼を述べる弟の笑顔を愛らしいと思う一方で静雄の胸に、ぐずり、と不快感が生まれる。鋭くはない、鈍い痛みは、どこか熟れすぎて腐敗した果実を連想させた。 (なん、で……) この感覚は少し前から自覚していた。 だが今もまだ自分の中に生まれたそれの理由が解らず静雄が目を逸らすと、帝人が不思議そうに「兄さん?」と首を傾げる。 弟が自分を兄と呼ぶのは当たり前の事であるのに、そう呼ばれる事で静雄の中の不快感は更に量を増した。突発で刹那的な破壊には繋がらない、けれども相手の首に手をかけてじわじわと絞め殺したくなるような暗い衝動が鎌首をもたげる。 どうしてそんな感情を抱かねばならないのかと静雄は混乱の度合いを強め、帝人に触れていた手すら引っ込める。これ以上触れていては、いつ何時大事な弟に危害を加えてしまうか判らなかった。 「? シズ兄さん、どうし―――」 「おっ、帝人君じゃないか」 「トムさん!」 後方からの声に帝人が振り返って相手の名を呼ぶ。静雄繋がりで面識のある男性に帝人は「こんにちは」と親しげな笑みを浮かべた。 それを眺める静雄は弟の視線から逃れられた事にほっとしつつも、所用から戻ってきたトムと帝人が楽しそうに言葉を交わしている事に苛立ちを覚えずにはいられなかった。 加えて帝人に兄と呼ばれた時の不快感も継続中だ。いやむしろその感覚は帝人が他人を――それがたとえ静雄に良くしてくれる上司でも――名前で呼ぶ度に大きくなっているように思える。 (何なんだよ、くそっ) 内心で毒づくが、気分は一向に晴れない。これでは気分が晴れない事への苛立ちから周囲の物を壊してしまいそうだ。 「…………、」 多少はマシになるかと思い、静雄は煙草に火を点ける。 すると匂いで気付いた帝人が振り返り、 「あっ、ごめんシズ兄さん! お仕事中だってさっき僕が言ったのに―――」 「し、ず、お」 「……え?」 兄が突然発した三つの音に帝人はきょとんと小首を傾げる。 煙草を人差し指と中指で挟んだ静雄は、ふと思い付くままに発した言葉――と言うよりも自分の名前――に込めた意味を口にした後から気付いて、己の不快感の理由と昇華方法にようやく思い至った。ああそうだったのか、と。 判ったなら後は行動に移すだけだ。 静雄は火を点けたばかりの煙草を携帯灰皿に押し付けると、帝人に向かい合って名前通りの静かな声で告げた。 「兄さんじゃなくて静雄って呼んでみ」 「? どうしていきなり」 兄からの唐突な要望に帝人は怪訝そうな顔をする。その向こうでは静雄達が義理の兄弟である事を知る上司もまた似たような表情になっていた。 「……まあ、いいけど」 そう言うと帝人は僅かに間を置いて、 「静雄、………………兄さん」 「却下」 「ええー」 なんか恥ずかしいよ、と身長差による上目遣いで苦情を告げる弟に静雄はうっすらと苦笑を浮かべる。 「最後に『兄さん』って付いただろ」 「8つも年上の人を呼び捨てって言うのもやり辛いんだって」 「じゃあ呼び捨てじゃなけりゃいい」 その提案に帝人はしばし逡巡し、やがて照れくさそうに兄を兄ではない呼び方で呼んだ。 「静雄さん」 「ん? なんだ帝人」 「自分で言わせといて『なんだ』って返す?」 「あははっ、悪ぃ悪ぃ。なんとなくでさ」 弟の黒髪を先刻と同じようにかき混ぜながら静雄は笑う。 胸の奥にわだかまっていた不快感はもう欠片もない。帝人が自分を「静雄」と名前で呼んだだけで、一瞬にして消え去った。……いや、“だけ”という表現は不適切だろう。これは静雄から帝人への、己を兄ではなく一人の男として見て欲しいという願いの顕れだったのだから。 しかし自分ですらさっき気付いたばかりのそんな気持ちを表に出すのはまだ早いと理性が囁き、静雄は空気の半分に冗談を混じらせてニッと口の端を持ち上げる。 「お前に名前で呼ばれんのも結構いいな。俺の名前の価値が一気に上がったような気がする」 「そんな大袈裟な」 「本当だって。もう一回呼んでみてくれよ」 「えー……」 と言いつつも帝人だって満更ではないように見えるのは、己の主観だからだろうか。と否定的に思おうとする静雄だったが、実際のところ、その顔は嬉しそうに笑っていた。 □■□ (おいおい、こりゃあ) 下手に後輩を刺激するのも気が進まず、似ていない兄弟のやり取りを無言で眺めていたトムは顔に考えが出ないよう注意しながら心の中で後輩に語りかける。 (なあ静雄よ、お前は気付いてんのか? 帝人君に呼ばれた時のお前の顔が、帝人君を呼ぶ時のお前の声が、一体どんなものなのか) 帝人を前にして微笑む静雄は年の離れた兄ではない。兄などとは呼べない。 あれは、 (まるっきり恋人を前にした『男』じゃねーか) それなりに人間を見てきたトムには元々あまり隠されない後輩の纏う空気がどんなものなのか簡単に判ってしまう。しかもそれが兄としてではなく男としてのものだと気付き、何か言おうにも言葉が出ない。 (こりゃ流石に帝人君も気付いて―――) マズイな、という気持ちで後輩の弟に意識を移したトムは今度こそ感情が顔に出るかと思った。 兄に頼まれて名前呼びする弟は一見、「しょうがないなぁ」と呆れたような困ったような顔をしている。だが少年もまた比較的感情が読みやすいタイプの人間であり、トムには視線の先の彼が最早『弟』ではない事が嫌でも判ってしまった。気付かないのは当人達だけだ。 彼らを見てトムは二人が血の繋がらない兄弟である事を幸いと思って良いのか悪いのか、自分には答えが出せない――出すのは彼ら二人だ――と内心で呟く。加えて、こういった事に他人が口を挟むべきではないとも考えているため、トムは他の誰かに話して意見を求めるつもりもない。 自分が今唯一すべき事は二人に互いの気持ちを教える事ではなく、決して他人の目がない訳ではないこの場所で無自覚にこんな顔をする二人をそのままにしておかない事だろう。 (さってと) 続きは家で、静雄の仕事が終わってからにしてもらおうとトムは後輩に声をかける。 「静雄ー、そろそろ行くべ」 「っす」 「それじゃあ静雄さん、トムさん、お仕事頑張ってくださいね」 「ああ」 「兄弟水入らずの時間を邪魔しちまって悪かったな、帝人君」 「いえいえ。僕の方こそお仕事中にお邪魔しました」 ぺこりと頭を下げてから去って行く帝人。 その背を見送りながらトムは少年の台詞を思い出す。 (“静雄さん”、トムさん……か。去り際までこれたぁ、兄に頼まれたからってだけじゃねーかもな) ―――たとえば、少年自身も以前よりそれを望んでいた、だとか。 「トムさん、行きますか」 「おう。今日はあっち方面だな」 トムが応え、二人の取立て屋は池袋の街をいつも通りに歩きだす。ただ少し普段と違うのは、静雄の機嫌がいつもとは比較にならない良さを見せている事だった。 (これからどうなる事やら) トムが胸中で呟く疑問には、きっと当事者達ですら答えられない。
名前を呼んで
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