仕事で依頼人と直接会う必要があり、池袋へとやって来ていた折原臨也。
　天敵とも言える平和島静雄を警戒したおかげか、無事に仕事を終えてほっとした―――のも束の間。最早お決まりのように道路標識が頭部のスレスレを掠め、今夜も“戦争”が始まった。


「でもまあ、やっぱりシズちゃんって単細胞だよね」
　静雄を上手く撒いた臨也は、街灯の光もほとんど届かない路地裏でクツクツと声を殺して笑う。
　少し前までは臨也を取り逃した苛立ちからか、遠くで静雄が何かを破壊する音も聞こえていたのだが、それももう無い。あの化物もおそらく今夜は諦めて帰ったのだろう。
「さて、俺も帰ろうかな」
　誰が聞くともなしにそう呟いて、臨也はこの場を抜けるためネオンが明るい方向へと歩き出した。終電まではまだ余裕があるが、今日は適当な所でタクシーを拾った方が賢明かもしれない。
　未だ静雄を警戒しながら、しかしやはりどこかで油断があったのだろう。
　突然暗がりから伸びて来た手に対し、臨也の反応が遅れた。
「……ッ！？」
　相手が誰かを確認する間も無く、自分の左腕を掴む手の甲にナイフを滑らせる。しかし浅い。
　臨也は舌打ちして第二撃を―――

「つかまえた」

　―――加える前によく知る声を聞いて、攻撃目標を相手の腕から未だ半分闇に浸かっている“バーテン服”の腹部に切り替えた。
　しかし。
「悪いな。どうせそこに刺されてもあんま効かねえんだけどよぉ。弟に貰った服に穴が開くのは避けたいんだわ」
　ナイフの刃が素手で握り締められ、それ以上の進行を妨げられてしまう。
　じわじわと染み出し雫となって落ちた赤を一瞥し、臨也は喉を引き攣らせた。
「シズちゃん……」
　臨也が立つ所よりも更に闇が濃くなった場所から白黒のバーテン服と金髪が姿を現す。色の濃いサングラスの所為で相手がどんな目をしているのかは判らない。しかし臨也の暗がりに慣れてきた視界には、相手の綺麗な弧を描いた口元がはっきりと映っていた。
「今のは随分と君の名前に適った登場じゃないか。なに、キレすぎて限界突破しちゃったって感じ？　それならむしろ頭の血管の一本や二本切れてくれれば良かったのに」
　いつ腕が砕かれるとも知れない状況に内心冷や汗を流しながら、それでも臨也は表面上の余裕をこれ以上崩すまいとして揶揄の言葉を並べ立てる。
　このようにがっしりと捕まった経験はほとんど無いが――そうなる前に逃げ切っていたので――、たとえ腕一本を犠牲にしても今の状況を脱した方が得策だと思う。今の台詞で静雄がこのまま臨也を投げ飛ばすか、それとも腕の骨を砕いてから次の攻撃を仕掛けてくるか（そしてその隙に臨也が相手から距離を取れるか）は判らないが、とにかく硬直しているよりはマシに違いない。
　そう考えを巡らせていた臨也だったが、ふと異変を感じて柳眉を寄せた。
（あ、れ……？）
　平和島静雄が“違う”。
　そろそろブチ切れても良い頃合なのに、その気配が全く無い。それどころか臨也の腕を折れない程度の力で拘束しつつ、静雄はうっすらと苦笑を浮かべていた。
「なあ、臨也よぉ……」
　パキン、と音がする。ナイフの刃が握力だけで折られた音だ。
　臨也の左腕を掴んだ体勢のまま静雄が一歩前進する。つられて臨也も一歩後ろに下がれば―――ここは細い路地裏。とん、と軽く、しかし絶望的な感触と共に、臨也の背中はコンクリートの壁と接触した。もう後退は許されない。
（ま、ず……ッ）
　退路を探して左右を見回そうとした瞬間、静雄の左手が臨也の頬に触れた。ナイフによって付けられていた傷口は当然ながら未だ塞がっておらず、どろりとした血が臨也の頬から顎へと伝う。
「シズちゃーん？　これは一体何のつもりかな」
　嘲るように、嫌悪するように。臨也はサングラスの奥に隠れた瞳を睨みつける。
　だが同時に頭の中では警鐘が煩く鳴り響いていた。ここは危険だ。この男は、普段の比ではなく、危険だと。
「シズ、」
「なあ。お前から見て俺はちゃんと馬鹿だったろ？」
「は……？」
　何を言っているのだろう。
　突然の静雄の物言いに臨也はポカンと呆ける。それを見てバーテン服に包まれた肩が可笑しそうに震えた。
「確かに人並み外れた怪力だが、使い方がなってねえ。だからお前は俺の攻撃を躱せる。そう思ってたんだろう？」
「だったら……どうだって言うのさ」
「いや、特にどうもしねえけど？」
　静雄が喉の奥で笑う。
「まあ、そうだな。お前が優越感を得られていたなら俺も“演じた”甲斐がある。加えて、やっぱそれでもお前が俺を嫌って警戒して、いつでも俺の事を頭のどこかで考えてくれていたなら……それはまさしく最高だ」
「…………」
　それを言うなら『最低』の間違いじゃないのか。そもそも演じていたとはどういう事だ。
　臨也の頭の中で数多の疑問と罵詈雑言が渦巻く。しかしそれは一言も表に出る事なく、否、出る暇すら与えられず、静雄が言葉を続けた。
「人間全てを愛してるなんて言ってる奴が、ただ一人別の感情を向ける相手。そういうのも意外と楽しいモンだよ。……嗚呼、でも悪いな」
　血塗れの左手に少し力を入れ、静雄が臨也の顔を上向かせる。その時、臨也には――本当なら見えないはずなのに――サングラスの下の双眸が鋭くなったのが判った。
「手前また裏でコソコソ動いてやがるだろ？　そうやって俺以外の事にかまけてる手前を見てるとよぉ……なんつーか、ムカツク？　いっそ俺の目の前に縛り付けてやりたくなるくれーにな」
「な、にを……言って……」
「ん？　そのデキのいいオツムでもまだ解んねえか？」
　頭の中で響く警鐘が最高潮に達している。―――離れろ離れろ離れろ。今すぐこの“化物”から離れるんだ。
　けれど頭の中に反して体は全く言う事を聞かない。まるで金縛りにでもあったかのように正面の人物から視線を逸らす事すらできなかった。
「だからさ、臨也」
「―――ッ」
　最早名前を呼ばれただけで息が詰まる。
「追いかけっこ（あそび）はもう終わりだ。俺は本気で手前を捕まえる事にしたから」
　一言一言、言い聞かせるようにゆっくりと。静雄は臨也の耳に口を近付けて囁きを落とす。
　隠しようも無くビクリと身を震わせた臨也に、静雄は口元を歪め―――

「大人しくしろ？」

　その声はひどく甘ったるく。
　ヒトの形をした金色の化物が愉しそうに笑った。

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