優しい世界でおやすみなさい






「・・・よ、・・・・・・ね・・・♪〜〜・・・・・・、♪」
 今日もその部屋からは唄が聞こえた。やさしいやさしいその音は(覚えているわけじゃないけど)僕も昔、母親や乳母に歌ってもらっていたもの。愛しい子のために歌う子守唄だ。
 この身長がまだ今の三分の二程度しかなかった頃、僕には大好きな姉がいた。華族の血を引く家であるせいか、姉はその活発的な性格とは裏腹に外出を厳しく制限され、しかしそれでも時折抜け出しては父や母に怒られていた。あとでこっそりと幼い僕に近寄ってきて、外で手に入れたお菓子を手の平にぽとりと落としてくれたものだ。内緒だからな、と無邪気に笑って。
 やさしい僕の姉。良家の娘としてはやや不適切な部分もあったのかもしれないが、それでも人間としてすごく魅力的な女性だった。彼女には当時婚約者がいて、半年後に結婚を控えていた。そのための準備は色々となされていたようで、忙しく習い事をする姉の姿を僕は今も覚えている。
 けれどある日を境に僕は姉を見かけなくなってしまった。姉がいた部屋はもぬけの空となり、代わりに屋敷の端―――普段誰も近付かないような部屋に厳重な鍵が付けられたのだ。
 その時の僕はどうして姉が姿を見せなくなったのか、またいつも姉の傍にいた青年がどうして急にいなくなったりしたのか、全く解らずただ困惑してばかりいた。泣いて周りの者を困らせたり、ね。けれどそんな状況も長くは続かず、長男としてこの家を支えていく役目を負っていた僕はやがて胸の隅に姉がくれた温かさを追いやり、忙しさの中に身を浸すようになっていった。
 そして今、姉が目の前から消えて十年近い歳月が流れていた。もう少年とは言えなくなった僕にも婚約者ができ、良家の娘であるその女性と一月後に結婚式を挙げることも決まっている。
 長いようで短かったこの十年。その間に僕は幼さゆえに知らなかった真実をいくつも理解するようになっていた。姉達に関することもその一つ。今思い出してもいい気のしないそれに、知らず知らず眉を顰める。
 結婚式を半年後に控えていた姉を襲った悲劇―――姉につき従っていた青年が彼女を強姦した事件は、揺るがぬものと信じられていた婚約を破棄させ、無益であるどころかこの家にとっての汚点となった彼女を屋敷の一角に閉じ込めるという結果を齎したのだ。
 しかも姉はたった一回の契りで子供を身篭ってしまっていた。そのことが明らかになったのは彼女が閉じ込められて数ヶ月経った頃だ。彼女の身の回りの世話を任されている女中達から聞いた話によると、それまでの彼女は心と身体に受けた傷の所為でかつての活発さを失い、涙を流すことも多々あったけれど、それでもあの人本来の気高さを保ち、良家の子女として振舞うことを忘れていなかった。しかし妊娠が発覚して幾日か経った後、彼女の部屋に医師と看護婦達が入って―――。
 望まれぬ子を身篭った彼女と医師。これだけヒントがあればその部屋の中で何が起こったのか予想も出来るだろう。そしてそれ以降、彼女は涙を流さなくなった。切なさと悲しみと、それから凛とした雰囲気は失われ、代わりに顔には常に穏やかな微笑が刻まれ、膨れもしない腹を撫でて嬉しそうにこう呟くようになったとか。はやくでておいで、と。
 そして幽閉されてから十月十日、彼女は部屋の隅に飾られていた人形を両手で抱き抱え、食事を運んできた女中の一人に言った。
"かわいいだろ。おれのこどもなんだ。"
 顔を青褪めさせる女中に微笑みかけ、彼女は子守唄を歌い始める。その幸せそうな表情に、女中は何も言えなかったそうだ。
 信じていた青年に犯され、その子を身篭り、しかし堕胎させられて、姉はとうとう精神を病んでしまった。それは十年経った今も変わらず、彼女はこうして扉一枚隔てた向こうで『こども』に子守唄を歌い続けている。
 閉じられた小さな世界で彼女は幻を生み、その中で生きているのだ。ずっと、ずっと。
「おまえのおとうさん、かえってくるのがおそいよなー・・・まったく、どこでなにをしているんだか。」
 子守唄が止んだかと思えば、そんな台詞が聞こえてきた。自分の『夫』が帰って来ると信じて疑わない、幸せそうな『妻』の声だ。
 それを聞くとやはりもう一つの真実は彼女に知らせないままでいた方がいいのだろうと思う。たとえ狂っていようとも心安らかにいられた方が本人にとっていいことだろうから。
「古泉一樹が貴女の元に帰ることは無いんですよ、姉さん。」(だって彼はもうこの世にいないのだから。)
 呟きが扉の向こうに届くことはない。

(これが僕なりの彼女の守り方。)








『眠り月』の織葉様に捧げます。
(織葉様宅の「蝶々堕ちた」続編SSとして企画に参加させて頂きました。)

キョンは精神を病み、しかも古泉はすでに捕まって殺されていたという展開。
弟くんが古泉のことに関わっているのか否かはご想像にお任せします。
BADエンドですみません(…)



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