『きすけーっ!こっちだぞ!』
『坊ちゃま、走らないでください。転んだら大変です。』
『平気だよ!だってきすけが助けてくれるだろ?』
『一護坊ちゃま・・・』

一面芝生に覆われた広い庭を駆ける自分。
その後ろをつかず離れずの距離で追いかけ、いつも優しい目で見守っていてくれた男。

あの頃、世界は綺麗なものと自分の愛する者達がいて、それだけで完結していた。
閉ざされた、けれども幸せな世界で一護は笑顔を振りまいて生きていたのだ。





黄昏の庭





ふわりと身体が浮かび上がる感覚。
カーテン越しに弱々しく差し込む朝日が覚醒を促し、部屋の主人は薄らと目を開いた。

「・・・・・・・・・夢、か。」

すでに変声期を終えた青年の声が起床直後の掠れを伴ってその口から零れ落ちる。
自分の見ていた光景が夢だったことに対する落胆と、そしてそんな風に落胆を覚える自身への嘲笑が混ぜ合わさったような表情を浮かべ、青年――― 一護はベッドから身を起こした。
光の加減からして、まだ本来一護が起床する時刻ではないのだろう。
いつもなら自然に覚醒するかしないかのところで声をかけてくる執事の気配も今は無い。
一護はベッドから降り、素足のまま踝まで埋まりそうな長い毛足を持つ絨毯の上を歩く。
そしてカーテンが掛かった大きな窓の前まで辿り着くと、それを両手で勢いよく開いた。
ジャッと言う音がし、ガラス越しに光が降り注ぐ。
一護の寝室は屋敷の二階に位置しており、そこからは広大な敷地の一角を眺めることが出来た。
芝生に覆われたその場所。
夢の中で幼き日の己が駆けていた庭を見つめて一護は無意識に目を眇める。
朝日を受けて輝くのは橙色の髪。
その前髪の奥、細まったチョコレート色の双眸に色から連想されるものと同じような甘さは全く無かった。

七年前、たった十五の時にこの国有数の巨大財閥・黒崎家の当主となり、しかしその類稀なる経営手腕で一族を更なる発展へと導いた鬼才・黒崎一護。
両親の愛情を受けて幸せに笑っていた少年の面影は、もうその髪と瞳の色彩以外何も無い。
家族の死と共に黒崎家の全てを手に入れた青年は、代わりに無邪気な笑みを忘れてしまったのだから。



□■□



重厚な扉の前でノックを三回。
旦那様、と声をかけて返事を待つ。
いつもなら無言で数秒が過ぎ、男は主人を起こす為にポケットに在る鍵で部屋の中へと足を踏み入れるのだが、その日は珍しく内側からはっきりと返事があった。

「浦原か・・・入れ。」
「失礼致します。」

純白の手袋をつけた手が僅かな軋み音を立てて濃茶色の扉を開く。

「おはようございます、旦那様。」

告げて、深く一礼。
上げた視線の先に佇む、若く華奢な主人の背を見つめ、浦原は眩しそうに目を細めた。
青年が生まれる前からこの家に仕えてきた浦原の記憶には目の前の人物の幼き日が鮮明に焼きついている。
だからこそあの日々と今の主人との差に心を痛めずにはいられなかった。
朝日を受けて佇む青年の姿に幾年も前の少年の姿を重ねては、眩しいからだと言い訳をして苦しそうに目を眇めるほど。
しかし。

「本日の朝食はポーチドエッグとシーザーサラダをご用意致しました。付け合せはスコーンとカンパーニュが焼けておりますが、どちらになさいますか?」

浦原もかつて主人が自ら不要と称して切り捨てた感傷をその従者として振り払い、朝の常套句を口にした。



□■□



家族を失った一護に残されたもの二つがある。
一つは、黒崎という家。
先代・一心の血を引く、黒崎家の嫡子だった一護には家名と莫大な遺産が与えられた。
しかし一護にとってそんな物には何の価値も無い。
美しい宝石より、広大な敷地より、強い権力より、家族の方がずっと美しく尊いものだったのだから。
それでも家名を継いで更なる発展へと力を注いできたのは自身に残されたもう一つのためだった。
それは生まれた頃から共にいる、ある一人の男。
浦原喜助というこの家の執事。
家を守るために甘さを捨て、同じく“甘え”も捨て去るために姓でしか呼ばなくなってしまったが、昔も今も浦原は一護にとって大切な人間だった。
むしろ家族を失った一護にはたった一人残された、家族と同じくらい大切な人間であったからこそ、今や何事にも代えられない存在にまでなってしまっている。
一人の人間に抱くには異様とも思える感情を自覚したまま、一護は浦原をこの家に、ひいては自身に繋ぎ止めておくためという理由だけで黒崎家を守り続けているのだ。
保つだけでなく発展させて上を目指すのも、力を得て他者からの干渉を防ぐため。
余所者にただ一つ残された一護の大切なものを奪われないためだった。

午後、執務室で財閥が保有する幾つかの企業における重要案件について必要な処理を行いながら一護はパソコンのディスプレイの前で小さな笑みを零した。
まだ二十代前半だと言うのに、この年ですでに『笑み』と言えば愛想笑いと嘲笑の類しか出来なくなっている。
そのことに関して浦原が密かに心を痛めていることには気付いているけれども、彼に彼が望むような笑顔を見せてやることすら今の一護には出来ないのだ。

「感傷は全て捨てたつもりだったんだがな・・・」

ちくりと痛んだ胸に、また自嘲が零れ落ちる。
これも今朝に見た夢の所為だろうか。
最も幸せだったあの日々をくだらないと一笑に付すことも出来ず、ただそう思う自分だけを嘲った。

ディスプレイに視線を落としてキーを叩く。
これを処理した後は今夜の夕食のために用意を整えなくてはならない。
必要なことの殆どは浦原達この家に仕える者が仕事としてこなすが、此度の客人を迎えるというのは主人である一護にしか出来ないことだから。



□■□



今夜はこの家に客人がやって来る。
そのため屋敷内はそれと判らぬ程度に慌しくなっていた。
浦原も通常業務に加えて幾つかの雑務をこなしている。
念入りに銀食器のチェックを行う中、脳裏に思い浮かぶのは今夜の客人の顔。
先代の頃から度々この屋敷を訪れているその人物は名を四楓院夜一と言った。
黒崎と同レベルの力を持つ四楓院家。
その初の女当主は昔と今の一護を見知り、青年の内面を慮ることが出来る数少ない人物の一人。
立場的にも黒崎家とは相性が良く、藍染や山本と言った他の家ほど警戒せずとも済む相手である。

主人の負担が軽減されることに安堵しつつも、しかし浦原は眉根を寄せる。
夜一は確かに“良い人物”だ。
けれども彼女のまるで猫を連想させる自由奔放かつ好奇心旺盛な性格には些か疲れや、時には苛立ちすら覚えてしまう。

どうか今夜は何事も無く済みますようにと、神だか何だか解らないが、浦原はとにかくそれに祈った。



□■□



夜、客人を招いての晩餐が始まった。
長テーブルの端と端、向かい合うように腰掛け、二つの家の当主が言葉を交わしながら順に運ばれて来る料理に手をつける。

「相変わらずおぬしの所のシェフは良い腕を持っておる。」
「父が選んだ人材ですから。」

微笑を浮かべて答える一護。
しかしその返答に今宵の客人である夜一が不機嫌そうに顔を顰めた。

「一護、どうせ儂しか居らんのじゃ。そう無理に取り繕おうとするな。」

彼女の台詞に一瞬、一護の手が止まり、しかしすぐに再開されて「そうですか?」と音が滑り落ちる。

「むしろ昔からおぬしを知っている者にその態度は無礼に当たらんか?」
「貴女がそこまで仰るのでしたら・・・」

口元に緩いカーブを描いていた一護はそう言って傍らのグラスに手を伸ばす。
水を一口飲み込んだ後、グラスから離された口元にはすでに笑みの欠片も無くなっていた。
取り繕うことを止めた一護の相貌はあまりにも冷たい。
本人もそれを自覚しているからこそ一応は笑みと言うものを浮かべていたのだが、向かいの席に座る女性の様子から察するに、それは要らぬ親切だったようだ。
それでいい、と述べる女傑に一護は小さく肩を竦める。

「夜一さんは他と違って“素”でも大丈夫だから助かるよ。・・・で、今日の用件は?ただ一緒に食事がしたいだけなんて嘘だろ。」

知人が親睦を深めるためだけではなく、それ以外の事前には知らされなかった何かがあるからこそ、今宵は対外的な態度で迎えたのだ。
さて、やり手の女傑が言いだす要望とはどんなものだろうか、と思考を巡らせながら一護はテーブルの上で手を組む。
プライベート用の『一護』ではなく仕事用の『黒崎』の顔になり始めた青年を目にし、夜一は嫣然と笑った。

「ではまず、この部屋から人払いをしてもらいたいのじゃが。」
「浦原もか?」
「浦原も、じゃ。」

一護は部屋の隅に控えていた執事に視線をやり、言葉にせずともそれだけで「承知致しました。」と男が頷くのを見る。

「御用の際はベルを鳴らして御呼びください。わたくしは部屋の外で待機しておりますので。」
「ああ。」

男が退出するのを見送って一護は夜一に視線を戻した。
その目には訝しみの色。
下位の者達ならともかく浦原まで退かせるとは一体どういうつもりだろうか。
浦原は信頼の置ける者だと知っているはずの夜一の行動に一護は不審を滲ませる。

「・・・よほど重要な話なのか?」
「おぬしにとってはな。」
「不要な腹の探り合いは好きじゃない。はっきり言ってくれ。」

淡々とした物言いに夜一が楽しそうに笑う。
しかしその笑みが一護には何故か他の感情――例えば悲しみ――を隠すため上から被せられたようなものに見えた。

「・・・・・・、」
「欲しいものが一つ、ある。」
「夜一さんが欲しいもの・・・?大抵の物なら簡単に手に入るだろ。あんたなら。」
「いや、それがな・・・。実は今、儂の欲しておるものは他人の手の中にあるのじゃ。」
「具体的に言ってくれよ。あんたの頼みなら手助けしてやらないでもない。」
「おお、そうか?」

猫のような女は金眼を眇め、一護を射る。
そして。

「儂が欲しいものは―――」

彼女は『それ』を口にした。



□■□



「ふざけるなっ!」

―――ガシャン

主人の怒声、それから何かが割れる音。
部屋の外で待機していた浦原は中の異変を察知して素早く扉を開いた。

「旦那様!夜一様!一体どうなさい・・・・・・・・・旦那、様?」

浦原が目にしたのは、立ち上がり何かをこらえるように拳を握り締めて夜一を睨み付ける主人と、その周辺に散らばった夕食だったもの。
そして、そんなこの家の当主を真剣な表情で見つめ返す客人。

「・・・いくら夜一さんでも冗談が過ぎるぜ。」
「冗談ではない。本気じゃ。」

夜一の返答に、一護の視線が更に鋭さを増す。
浦原はその光景をただ唖然と眺めるばかり。

「ふざけんじゃねーよ・・・っ!」

搾り出すような声で主人が呟く。
浦原のことなど見えていないのか、他を気にする様子も無くその目には夜一だけが捉えられていた。

「あれは俺のだ!あれは、あいつは、俺だけのものなんだ!誰が渡すもんか・・・!」
「よほど執着しておるようじゃな。」
「当たり前だ。俺にはもうあいつしかない。」
「はっ!小僧が・・・意気がりおって。」

鼻で笑い、夜一が席を立つ。
今日はこれで帰らせてもらおう、と告げる客人に浦原が本来の仕事を思い出して彼女の元へと足を向ける。
しかし。

「浦原、お前はいい。他の者に送らせる。」

言って、浦原の返事を聞かぬまま使用人を呼び出す一護。
やがてやって来たメイド二人が夜一について部屋を出るのを見送りながら、浦原は己の中に生まれた何かを自覚した。
無言のまま立ち尽くす主人の横顔を見て、その何かは更に大きさを増す。
ドス黒く、どろりとしたもの。
それは主人が叫んだ『何か』、否『誰か』に対する明らかな嫉妬だった。



主人を寝室に送り、それから散らかったダイニングルームの片付けをメイドらに指示した後、浦原も自室へと引っ込んだ。
決してこれで仕事が終わったわけではない。
自分がいつもしていることはまだ幾つか残っているし、加えて四楓院家へ謝罪の書状をしたためなくてはならないのだ。
しかし、と口の中で呟いて、浦原は椅子にどかりと体重を預けた。
白い手袋をつけたまま双眸を両手で覆い、深く溜息をつく。
自覚してしまった己の想い。
誰かが、自分以外の誰かが主人の一番であることに対する憎しみ。それを生み出した原因でもある、主人への思慕。
一介の雇われ人が雇用者に抱くにはあまりにも不適切な感情。
それは傲慢なまでに強い恋情であり、独占欲だった。

「気付いてしまえば、止まらなくなる。」

愛も、憎しみも。
彼はただ、己にとって慈しみ、真摯に仕える対象でなくてはならなかったのに。

苦しげに言葉を吐き出して浦原は奥歯を噛み締めた。



□■□



「早く、気付け。そして本当の意味で彼奴を支えてやれ。・・・儂にはこれくらいしか出来んのだ。」

己の屋敷へと向かう車の中。
晩餐を途中退席した女傑は祈るようにそう呟いたが、彼女の言葉を聞いた者はただ一人としていなかった。



□■□



「・・・らしくないぞ、俺。」

部屋に戻ってから暫らくして、一護はベッドに腰掛けた状態で小さくそう独り言ちた。
先程のことはいくら相手が夜一であっても許されるようなものではない。
客人に対してああもあからさまに怒りを露わにするなど・・・。
いくら彼女の欲したものが『ソレ』であっても、だ。
もっと丁寧に、「それは流石に無理ですよ。」とか何とか言って流せば良かったのだ。
感情に任せて行動するなどという、この家を任される人間としてはあまりに幼い反応を振り返り、一護は己に反省を促す。
そう、あれでは駄目だ。
こんな態度でいては家を守れなくなってしまう。
―――しかし。

「あいつは、渡せねえんだよ・・・!」

理性とは裏腹に、心は酷く痛みを訴えた。
渡さない。渡せるわけがない。
あいつは・・・浦原は、ただ一つ手元に残った大切なものだと言うのに。
それを失うだなんて、ましてや他人のものにされてしまうだなんて、考えるだけでも全身から血が引いていくのを感じた。
彼女は一護の家とほぼ同等の力を持っている。
だからこそ彼女が強く望んだ場合、一護の意思が通じるか否かは酷く怪しくなるというのが現状である。
取られるかもしれない、という思いが思考を掠め、一護は己を強く抱きしめた。
カタカタと震える身体はあまりに頼りない。

「嫌だ・・・嫌だ。渡したくない。失いたくないんだ。他の物ならどうなったっていい。家も何も無くなってしまったっていい。だから、」

ぽたり、と絨毯の上に雫が落ちる。

「俺からアイツをとりあげないで。」



□■□



『俺からアイツをとりあげないで。』

聞いている方が切なくなる声。
それを扉の外で聞き、男はポケットに眠る鍵を握り締めた。



□■□



カチャリ、と音がする。
誰にも入室の許可はしていないというのに突如として開いたドアの方を向き、一護はそこに立っている人物を見て目を剥いた。

「うら、はら・・・?」

ただでさえ前髪が長く、加えて今は下を向いている所為でその表情を読むことが出来ない。
しかしそのことよりも男から感じ取れる雰囲気の異様さに主人であるはずの青年は息を呑んだ。

「どうか、したのか。」

そう問う間にも男は後ろ手に扉を閉めて内から施錠してしまう。
まるで捕らえた獲物を逃がさぬとでも言うように。
・・・そんな馬鹿な。
思い至った思考を慌てて否定するが、閉ざされた扉と無言のまま歩み寄ってくる男が現実として存在していてあまりにも効果が薄い。
一護は今の状況に、確かに恐怖を感じていた。

「何のつもりだ。」

それでも気丈に主人らしく怒りの意味を込めた声を出すが、男の歩みは止まらない。
磨かれた黒の革靴が絨毯を踏んで一歩一歩ゆっくりと一護に近づいてくる。

「うらは・・・っ!」

肩を掴まれ、ベッドに押さえつけられた。
ギリギリと力を加えられる右肩が痛みに悲鳴を上げる。

「ッ!浦原!お前は一体何のつもりでこんなことを!」
「ふざけんなって感じっスよね。」

聞き慣れない口調と冷めた声音にぞっとした。

「うらはら、」
「“あれは俺のだ”?“俺にはもうあいつしかない”?じゃあアタシはどうなるんスか。アタシの思いは?アタシの意思は?ねえ、どうなるんですか旦那サマ。」

そこで初めて目が合う。
翡翠色の双眸は一護の見知ったやわらかさを失くし、嘲るように歪められていた。

頭の後ろが冷たくなって脈が速くなる。
心臓が悲鳴を上げる。
男が言ったことはつまり、一護が夜一に対して叫んだ台詞に対するもので。
その意味を考えたならば、彼の意思は“そういう”ことで。

―――浦原は俺に縛られることを厭っている。

ひぅ、と呼気が漏れた。
例えもしそうであっても自分から手放す気は無かったし、だからこそ力をつけようと奮闘してきたのだけれど、本人の口から告げられた思いは一護の思考を一瞬にして真っ白に塗りつぶす。
視線や態度から一護は心のどこかで、男が口にせずとも自分を好いていてくれると、他人の誘いに乗って自分から離れて行ったりはしないと、ずっとそう思っていた。
なのにそれを目の前で否定されてしまった。
お前はただの雇い主であり、気に食わなければ他所へと簡単に移ってしまえるのだと、言われたような気がした。
こうして口調を変えて執事にあるまじき行為を働いているのも、一護の勝手な振る舞いにとうとう我慢の臨界点を突破してしまったからだと。

(浦原に、見放された。)

それは死と同義だった。
目尻から雫が零れ落ちる。
一護をベッドに押さえつけた男はそれに気付き、クスリと笑った。

「アタシが恐いんスか?ふふ・・・可哀相に。」

言いながら空いた手で一護の頬を撫でる。
そのまま首筋へと下がり、白いシャツの胸元に指を引っ掻けた。

「でもね、許してあげない。」

見上げた視線の先では表情を消し去った浦原の顔。
シャツに強い力が掛かって弾け飛んでいく釦が視界の端を掠めて行ったけれども、そんなことを気にしていられないくらい冷たい視線に背筋が凍る。

他の誰かを選ぶならアタシはアナタを壊します。
「え、今なんて・・・」

言ったんだ、と問う前に、一護の口は降って来た浦原の口唇によって塞がれた。



□■□



何故、嫌だ、と拒絶する身体を無理やり組み敷き、奪った。
ぐしゃぐしゃになったベッドの上で気絶している青年を同じベッドに腰掛けながら眺めやり、浦原は自嘲を零す。
耐えられなかった。
想いを自覚した今、彼の人が自分以外の誰かを選ぶということが浦原には耐えられなかったのだ。
渦巻く感情を少しでも落ち着かせようと無言で主人の部屋の前に立ってみれば、微かに聞こえたその青年の本心。
二度と聞きたくなかった感情の吐露を耳にした途端、視界が真っ赤に染まったのを覚えている。
あとの記憶はやや不鮮明で、自分はいつの間にか彼の人の身体を奪ってしまっていた。

いや、己の無罪を訴えるような真似は止しておこう。
心が手に入らないなら身体だけでも奪ってしまえ、と浦原は確かに自分へと命令した。
これはその結果だ。

浦原の身体にははっきりと自分が行なったことの記憶が染み付いている。
青年の混乱と涙に彩られた表情が目に焼き付き、耳の奥に残るのは悲鳴と嬌声。
手に触れた熱、貫いた時に感じた己の背徳感と歓喜の情。
どれもこれも忘れるなど到底出来そうもなく、また忘れる気などさらさら無い。
例えこれから自分が彼と離れてしまってもずっと覚えている。

「アナタはアタシを解雇するでしょう。そしたらアタシはもうアナタと会うことは出来ない。だから今夜のことは絶対に忘れません。アナタを身体だけでも手に入れることが出来たこの幸福を、身体しか手に入れられなかったこの絶望を。」

立ち上がり、浦原は一護の寝顔を見つめた。
苦しそうに歪められていないのがせめてもの救いか。
そんなことを考える自分に苦笑して腰を屈める。
呟く言葉は密やかに。
ただし、万感の想いを込めて。

「お慕いしております。・・・一護様。」

青年へと羽のような軽いキスを送り、浦原は眠るその人に背を向ける。
もうこれで最後だ。
次に会う時は、『一護』ではなく『黒崎』として、雇い主として、解雇する人間として、彼は浦原を見るのだろう。
そう思いながら一歩踏み出した、その時。

「待てよ。」

ベッドの上から声がかかった。
慌てて振り返った浦原の視線の先、気を失っていたはずの主人がはっきりとこちらを見つめている。
もしかして己の囁きを聞かれてしまったのか。
拒絶されるに違いない想いをその耳に入れてしまったことに後悔と彼の次の行動に対する恐怖を感じながら浦原は続く言葉を待った。

「今のは本当か。」
「え。」
「今の・・・お前が俺を好きだってやつ。」
「・・・はい。」
「本当なんだな?」
「本当でございます。」
「そっか・・・」
―――ならお前はここから居なくなりたいわけじゃねえんだよな。

呟く一護に浦原は怪訝な顔を向ける。

「一護、様・・・?」
「行くなよ。」

告げられた声は凛とした音の中に切ないほどの懇願が込められていた。

「何を仰って、」
「行かないでくれ。頼むから俺から離れないでくれ。」
「誰に言っているのか解っておいでですか。」
「十分理解してるよ。俺は今、俺を犯した男に対して行かないでくれと言っている。」
「なぜ!」

ならばどうしてそんなことが言えるのだ。
そう声を荒げる浦原に返されるのは青年の落ち着いた視線。
どうしてそうも優しい目をすることが出来るのだろう。
どうして己を嫌悪したりしないのだろう。
主人の言葉の意が汲み取れず、浦原は眉根を寄せる。
青年はそんな男に小さく笑って「まったく・・・」と呟いた。

「解れよそれくらい。お前、何年俺の執事やってきたんだ。」
「解りません。アナタの一番が誰であるのかすら解らなかったというのに。」
「馬鹿だな。」

はっきりと告げられた言葉に何も言い返せない。
だが浦原が黙ったままでも一護は気にした風もなく続けた。

「俺はお前を手放す気なんてないぜ。一番大切な人間をそう易々と手放せるほど俺はデキた人間じゃねえんだ。」
「一、番・・・?」

今、彼は何と言った?
その言い方は、つまり自分が彼の―――。
片手で口を塞いで瞠目する。
そんな浦原に、一護が苦笑を零した。

「やっぱ馬鹿だな。もう暫らく此処にいて自分の御主人様のこと、もっとちゃんと理解するように努めやがれ。」











■後日談■



喜助、一護様、と呼び合い、自然な微笑を浮かべる主従を前にして、猫を思わせる女傑は顔を楽しげに歪めた。

「ほほう。やはり儂の行動は正しかったということじゃな。」
「・・・は?」

何が、と問う一護に夜一はカラカラと笑う。

「発破をかけたのじゃよ。おぬしはあまりにも脆く、浦原はおぬしを支えるには行動力が無さ過ぎたからのう。」
「え、じゃあ浦原が欲しいって言ったのも・・・」
「もちろん嘘じゃ。むしろあんなロクデナシを貰い受けるくらいなら、いっそおぬしと籍を入れたいくらいじゃからな。」
「うえええ!?」
「夜一様!?」

一護の傍らで黙っていた浦原もこの時ばかりは身を乗り出して夜一の名を呼ぶ。
態度はどうであれギリギリ「様」付けだけは忘れずに済んだことを、執事暦二十年以上であることを踏まえてさすがと言うべきか、それともまだまだと言うべきか。
そんな二人に「冗談じゃ。・・・半分くらい。」と言って、またその反応を楽しみながら、夜一は確かに変わった彼らのことを心から喜んでいた。

ただ少し、一護の首筋に見える赤い点について浦原に厳しく問い詰めたくはあったけれども。








月華様に捧げます。
リクが「一護さまと浦原執事」または「浦原隊長と黒崎副隊長」のどちらかと言うことでしたので、
今回は前者に挑戦させて頂きました。
な、長いです・・・。もうちょっとコンパクトにすべきでしたか(反省)
少しでも月華様のお気に召すことが出来れば幸いです。
この度はリクエストありがとうございましたv