「う、わ……すごい」
 人気のない廊下に立ち、窓の向こうを眺める竜ヶ峰帝人は小さな声でそう呟いた。
 帝人の視線の先には入学してまだ幾日も経過していない高校のグラウンドが広がっている。
 本来ならば部活動勧誘に精を出す先輩方と興味のある運動部を訪ねる新入生の姿が見られるはずなのだが、生憎、今はそんな彼らの姿もない。代わりにグラウンドを占領しているのは“いかにも”な人相の悪さを持つ他校生達(たぶん)と、そんなガラの悪い人間に囲まれた一人のクラスメイトだ。
 そのクラスメイトの存在を帝人はしっかりと覚えていた。まずはその長身。平均をいくらか下回ってしまう帝人にとっては羨ましい限りである。そして入学したばかりだと言うのに金色に染められた頭髪。これは実に目を惹いた。だがそんな容姿とは釣り合わない物静かな態度が更にその人物を帝人の中に印象づけたのだった。
「平和島静雄君」
 口の中で金髪のクラスメイトの名前を呟いて、帝人は感嘆の吐息を零す。
 大勢の人間に囲まれた事に対する心配では、勿論ない。
 何せ静雄は帝人の見ている目の前でひと一人をまるでボールのように投げ飛ばしてしまったのだから。
「人間じゃないみたい」
 これもまた独り言のように。
 声が小さくなってしまったのは、別に他人――特に帝人の視線の先にいる人間達――に聞かれる事を忌避したからではなかった。本当に驚いてそんな声を出すのが精一杯だったのだ。
 現に外を見つめる帝人の双眸は興味津々と言った風に輝き、口元も緩やかな弧を描いている。
 普通とは違う刺激的な何かを求めて地元ではなく都会の高校に進学した帝人は、これこそ自分の体験したかった非日常だと胸を躍らせた。頬は僅かに赤味を帯び、耐えるようにぎゅっと拳を握る。
 その姿はまるで恋でもしているようだった。……否、帝人は本当に恋をしたのかもしれない。個人ではなく、非日常という存在に。


 入学から数週間が経った頃、その日も帝人は廊下の窓から外を眺めていた。
 グラウンドには顔も名前も知らない少年達が倒れ伏している。誰も彼も静雄に挑んで敗北した者達だ。
 しかしそんな彼らが全滅しても静雄の攻撃は止まなかった。ターゲットはボロボロになった少年達ではなく、非常に見目麗しい顔立ちをした黒い短ラン姿の少年ただ一人である。
 が、その短ランの少年はたった一人にも拘わらず未だ静雄から決定的な攻撃を喰らっていない。身軽な動きで相手を翻弄し、傷を負うどころか、その手に持った折り畳み式のナイフで静雄の制服を切り裂く程だ。
 この少年に関しても帝人は知っていた。彼は帝人と同じクラスではないのだが、その整った容姿は学校中(の女子達の間)で話題になっていたし、入学後すぐに有名になった静雄と争う姿が多くの学生を驚かせたものだ。
 そんな彼の名を折原臨也と言う。彼も帝人や静雄と同じ一年生だ。しかしながらあまり学校には来ていない。利口そうな顔をしているので出席日数等は計算しているのだろうが……。とりあえず、臨也が登校してくるとかなりの高確率で静雄との喧嘩になるのは、最早この学校における常識の範囲内であった。
 臨也と静雄の(主に静雄が)人外な争いを安全地帯から眺めつつ、帝人は目を爛々と輝かせる。
 と、その時。
「あっ……」
 帝人は驚愕の声を上げた。
 臨也のナイフが静雄の皮膚を切り裂いたのだ。場所はちょうど心臓の真上を通過するように、胸部に赤い筋が一本現れる。
 実を言うと、これまで静雄が血を流す場面を帝人は一度も見た事がなかった。静雄はそういう存在だと思っていたと言ってもいい。だがいくら強い彼でも血を流している。そんな事実を目の当たりにし、気が付けば、帝人は安全地帯を出て静雄達の元へ駆け出していた。

「平和島君っ!!」



□■□



「平和島君っ!!」

 ナイフで傷を負った静雄はその犯人を捕まえて殴り飛ばすため、校門の方へと駆けていく短ラン姿を追おうと足を踏み出した。だがその直前、聞き覚えのある声に己の名前を呼ばれて動きを止める。
 声がした方、校舎側を見やれば―――
「あー……えっと、りゅ、……クラス委員の」
「竜ヶ峰帝人、だよ」
 自分の所のクラス委員である事は覚えていたのだが肝心の名前の方は思い出せず、静雄のすぐ傍までやって来た帝人本人に苦笑を貰う。
 しかし帝人はその苦笑を一瞬で引っ込め、心配そうな顔で静雄の胸部の怪我に視線を向けた。
「平和島君、流石にその傷は手当てしなきゃ駄目だよっ」
 治療を放棄して臨也を追いかけるのは止めろと言っているらしい。
 よくも知らない他人に口を挟まれる事、そして臨也への攻撃を止めるように言われる事、それらは静雄の低い沸点を突破するのに充分な要素を持っている。だが何故か今は怒りが増すのではなく、逆に静雄の精神は落ち着きを取り戻し始めていた。帝人のあまりにも非力な見た目が静雄の攻撃する意志を削いでしまったのだろうか。
 そのまま静雄は帝人に急かされるまま――経験上、特異体質のため治療は不要だと理解していたのに――自らの意志で帝人と共に保健室へと向かった。自分でもそんな己の行動を不思議だと思いながら。


(ちっせぇ。子犬みてえだ)
 怪我の具合から帝人が救急車を呼ぼうとしたのには流石にストップをかけ、その代わりとして保健室での治療の申し出を受けた静雄は、胸の辺りでひょこひょこ揺れる黒髪を見つめ、胸中でそう呟いた。
 保健室に本来いるべき養護教諭は残念ながら不在である。その理由は静雄本人が一番よく解っているので特に疑問に思う事もない。むしろ今は居てくれなくて良かったとさえ思える程だった。こんなにも他人から無償の気遣いを感じている今は。
「やっぱり包帯だよね……」
 消毒を終えた後。上手く巻けるかな、と独り言ちながら、帝人は静雄の傷と左手に持った包帯を交互に見やる。
 チラリと視線を送ってきたのを「下手に巻いてしまっても構わない?」という疑問であると解釈し、静雄は「頼む」と頷いた。
「じゃ、じゃあ……」
 傷口にガーゼを当て、帝人は包帯を巻き始める。
 胴を一周させるため、どうしても静雄に抱きつくような格好になってしまう。他人との距離がこれほど近付いた記憶などここ最近全くなく、静雄の心臓が大きく跳ねた。
(……ッ! ああ、もうなんでコイツは)
「俺が怖くねえのか?」
 気が付けば、そう疑問を口にしていた。
「え?」
 帝人はパチリと瞬きし、不思議そうな顔で静雄を見上げた。
 大きな黒い瞳にはどうして静雄がそんな事を問うのかという疑問だけが浮かび、いつも暴れた静雄を見て他人が抱くはずの恐怖などは全く存在していない。
 しばらく首を傾げていた帝人だったが、やがてその顔に微笑みを浮かべて見せ、包帯を巻く手の動きを再開させる。
「竜ヶ峰、」
「怖くないなあ。むしろ凄いと思う。……うん、平和島君は格好いいよ」
「格好いい?」
「そう。まるでテレビの中から出てきたヒーローみたいだ」
「ヒーローって……」
 初めての例え方に驚けばいいのか、「ありえない」と呆れればいいのか。
 ただ、嫌悪している自分の力に対してそう言われても、正直あまり嬉しくない。恐れられていないと言うのには少しばかり救われるような気分にもなったが。
「俺はこんな力なんか」
「要らない? でもさ、持ってるものは仕方ないんでしょ? 捨てられるんならとっくに捨ててるだろうしね」
「…………」
 帝人の言う通りだ。
 だが解っていてもやはり嫌なものは嫌だし、他人に指摘されるのはもっと嫌だった。
 ここは怒りを爆発させるところではないと必死で自分を宥めすかし――相手は静雄に全く敵意を持っていないひ弱なクラスメイトだ――、帝人の向こうにある保健室の壁を睨みつける。
 そんな静雄の様子を察した訳ではないだろうが、
「いいんじゃないかな」
 帝人がぽつりと続けた。
「……?」
「だからね、嫌いなら嫌いなままで良いんだと思うよ。むしろその力を使って好き勝手に振る舞う事の方が問題だろうし。そう考えると、僕はその力の持ち主が平和島君みたいな人で良かったと思うんだよねえ。嫌ってるからこそ悪用もしないでしょう?」
「……、そう、なのか……?」
「今までの事を振り返ってみれば自ずと判るんじゃないかな」
 はい、おしまい。と最後に付け加えて、帝人は静雄から身を離した。
 お世辞にも上手いとは言えないが、白い包帯はそれなりの形になっている。
 静雄は己に巻かれた包帯から帝人へと視線を移した。同い年には見えない幼い容貌を眺めながら頭の中で彼の言葉を反芻していると、なんとなく心が軽くなったような気がする。
 世間一般的に静雄の力が肯定される訳ではない。だがそんな人外の力を持つ者が静雄のような人間で良かったと、帝人は言ってくれた。
「この怪我、何かあったらすぐ病院に行ってよ? どうせこんなのは応急処置でしかないんだから」
「すぐくっつくから心配いらねえよ」
「うーん、でもなあ……。できれば怪我自体、負ってほしくないんだけど」
「そうなのか?」
「当たり前だよ。なんでそこで疑問系? 僕はこれ以上平和島君が怪我するところなんて見たくない」
「……えっと、ありがとな」
「いや、お礼を言う場面じゃないと思う」
「それでもだ」
 心配されるというのは嬉しいものだった。しかも本当に怪我を負ってほしくないと言うのが解る視線を伴っていれば。

 無意識に頬の筋肉が緩んでいた静雄だが、残念ながら帝人が何を思ってそう告げたのかまでは解らない。
 静雄の(貴重な)微笑みを目の当たりにしながら帝人も笑みを浮かべ、胸中でこう呟いた。
(素敵な人外なんだから、人間みたいに弱いのは駄目だよ。ね、平和島君)
 静雄に告げた言葉の中に嘘はない。
 ただ帝人は平和島静雄の非日常的な部分に好意を持っているのだから、“人間のように”静雄が負傷するのはあまり歓迎できる事ではないのである。
 詳細を口に出さないまま、帝人は念を押すように告げた。
「もう怪我なんかしちゃ駄目だよ」






役者名による角関係