自分でも意味のないことだと解っている。いや、意味がないどころかマイナスだ。しかし今の俺には止められそうになかった。
「い……ッ」
 腕に走る一本の線。痛みに思わず声が漏れる。だが歯を食いしばって俺は作業を続行した。
 右手に持っているのは学生ならば大概誰でも持っているであろう文房具のコンパス。その針を左腕に突き立てて引っかく。それなりに長い付き合いのある俺のコンパスの針は先端が無様に潰れており、あまり皮膚に深く突き刺さらない。ゆえにそのまま右手を動かすことで俺の左腕には半周分の蚯蚓腫れが一本追加された。
「今日はあと一回、か」
 呟き、同じ作業を行う。
「…………、」
 真新しい三本の蚯蚓腫れ。それを眺めて思うのは本日学校で―――正確に言えば放課後にあったことだ。


 今日も今日とて俺は習慣のように部室へと赴き、朝比奈さんの給仕姿に癒され、古泉と勝敗の決まりきったボードゲームをし、ハルヒはハルヒで何やらパソコンのキーボードをものすごい勢いで連打しまくっていたかと思うと朝比奈さんと殺人可能なレベルの厚みを持った本を膝の上に広げて静かに読書していた長門を連れてどこかへと消え―――そうして俺はその背を見送って古泉と部室に取り残されていた。
 毎度思うんだが、あのパワーは一体どこから湧いて出てくるんだろうな。
「さあ、それは僕にも。ですが見ていて清々しいではありませんか。そう辟易とした顔でおっしゃらずとも」
 微笑と共に吐き出されたその言葉がグズリと俺の胸を刺す。まるで腐った果実か生肉に針が刺さったような音を頭の中でイメージしながら、俺は口の端を上げて笑ってみせる。これで、本日一回目。
 俺からすれば、あいつの行動力は真夏の空にギラギラと存在を主張している太陽だな。日向に出ても寒くてかなわん冬よりはマシだが、こうも近場で熱を放出されてちゃバテるってもんだろう。
「ですからそんなにぐったりとしていらっしゃるんですか?」
 オセロの駒を指に挟んだままクスクスと古泉は笑う。
 相変わらず綺麗な男だと思ってぼんやり眺めていると、奴はひょいと肩を竦めて言った。
「その元気さが彼女の魅力なんでしょうけどね」
 あなたも本当はそう思っているのでしょう? と向けられた双眸が如実に語る。
 たぶんこの笑顔は作ったものじゃなく古泉の本心から来るものなのだろう。そして目の前の副団長殿は自分だけでなく俺もハルヒに対してそのような好意的な思いを抱いていると半ば確信している。で、だからなのか俺がハルヒと男女の意味でくっつくことを暗に求めるのだ。
 痛ぇなあ……。これで、二度目。
「? どうかしましたか?」
「いや、なんでもない」
 そう答えながらも頭の中では腐りきった何かに針が突き刺さる醜い音。あまりにも滑稽で、今度は意識せずとも笑みが零れた。一応、自嘲には見えないよう気を遣ってはいるがね。
 胸に走る痛みと頭の中で作られる醜い音の回数は、イコール古泉が俺以外の誰かに対して好意を露わにした、もしくは俺に古泉以外の誰かへ好意を向けるよう求めた回数だ。
 いつからこんなことになっていたのか俺にもよく分からない。気が付けば今のような状態になっていて、最早放課後部室へ向かうのと同じレベルで日常の一つと化していた。
 なんて、無様なんだろう。
 確かに古泉は俺に対して妙にパーソナルスペースが狭い。しかしそれはあくまで“友人として”のものだ。古泉本人に他意があっての行動ではない。それくらい俺にも解っているさ。たとえ間近で浮かべられた微笑みに一喜一憂してしまうのが現状だとしてもな。
 無様だ。ああ、本当に無様だ。
 こちらのことなど単なる友人にしか思っていない男に世間一般から見て異常な感情を抱き、そしてその相手からは――俺の思いに気付いていないとは言え――別の少女と恋人同士になるよう勧められる。
 そして俺は勝手に傷ついて―――……。
「古泉、お前の番で止まってるぞ。早く打て」
「あはは、すみません」
 古泉が緑の盤上に駒を置く。
 相変わらずとんちんかんな場所に置かれたそれを見やりながら、俺もまた右手で駒をつまみ上げる。
 そうして俺はともかく古泉の長考を挟みながら、ハルヒ達が帰ってくるまでそのゲームは続いた。欠片すら何かを変えることなく。―――いや、ただ一つ。帰ってきた彼女達に向けられた古泉の笑顔が、また一つ俺の中に気持ちの悪い音と針が鋭く刺さる感覚を生み出して。


 蚯蚓腫れができた腕に包帯を巻いて俺はそっと目を閉じた。
 白い布の下ではじくじくとした痛みと熱がある。そのおかげで胸の中の突き刺さるような痛みは感じられなかった。
 うん。これでいい。あの痛みよりこちらの痛みと熱の方がずっといい。
 学校で古泉によってもたらされた痛みと同じ回数だけ己に傷を付け、俺はそうしてようやく気が楽になる。
「ほんと、ばかみたいだ」
 独りごち、口元には歪んだ笑み。
 本当、馬鹿みたいだ。






泥沼の独り遊び