※「ちょっと待て」よりも過去の話となります。ネムがブラコン。






(これが、私の弟……)

己の身長程もある水槽の壁面に手を這わせてネムはそう胸中で呟いた。
水槽の中はうっすらと青味がかった透明度の高い液体で満たされており、中の様子がよく窺える。
その薄い青によりほんの少しだけ暗い色をしているオレンジ色の長い髪がふわりと水中を舞った。
きっとこの水槽から出た時にはもっと鮮やかな色を見せてくれることだろう。
今は培養液の中で成長させているため髪も伸び放題だが、ひょっとすると本人は短い方がいいと言って切ってしまうかもしれない。
だがそれもこの子には似合いそうだ。
そんなことを考えながらネムはゆっくりと背後を振り返る。

「マユリ様、この子の名前は」

何にするおつもりですか、と訊く前にネムとこのネムの弟の制作者である男は己が操作する画面を覗き込んだままズバッと言い切った。

「そんなものは知らないネ。お前が適当に決めておきたまえヨ」
「はい」

男から親としての愛情など欠片もない声が返される。
しかしそれはネムも承知の上だ。
むしろ、マユリの反応を予想していたからこそ問いかけたと言ってもいい。
なぜならマユリから新しい弟の命名件を与えられたネムは―――

(私の弟の名前を私が決める。何に、しよう)

それはそれは嬉しそうに微笑んでいたのだから。





「一護、一護。どこにいますか?」
「ここだよ姉さん」

たった一人の同胞にして最愛の弟である少年の姿を見つけて、ネムはほっと安堵の息をついた。
涅マユリの子供もしくは人形として培養液の中で適当な姿にまで育てられるため、ネムもその弟である一護も見た目には同じ世代である。
しかし少年がまだ人の形をしていなかった頃から見守ってきたネムにとって、一護は己よりずっと後に生まれた弟であり、それ故かいつもその姿を視界に入れていなければ、気配を身近に感じていなければ、心配でたまらない存在だった。

「姉さんは心配性だな。俺の方が姉さんより戦闘に特化して作られてっから、本当なら俺の方が姉さんを心配したっていいくらいなんだぜ?」
「それでも貴方は私の弟です」
「んー。そっか」
「そうですよ」

ネムが腕を伸ばすと少年は全く抵抗することなく、その細い腕の中に捕らわれる。

「一護……」
「なぁに、姉さん」
「私の一護。私の弟。私の、たった一人の同胞」
「うん。俺は姉さんのもの。姉さんの弟。姉さんの、たった一人の同胞だ」

ネムの呟きを繰り返すように一護が答えた。
その声が鼓膜を揺らすたびにネムは安堵を、喜びを、愛しさを覚える。
こんなにも己の中で感情が動くのは一護に関することだけだ。
他人には――創造主である涅マユリにすら――無表情を常とするネムが、一護の前でだけは人間のように、むしろ人間以上に感情が動き、それを行動で表そうとする。
一護が許容するから、余計に。

腕の力を強めれば「ん?」と伺うような声が返って来る。
ネムが何も言わずにいると、一護もまた黙って姉の背中に腕を回した。
着物越しにじんわりと伝わる体温がネムの高ぶった感情を静めていく。

(……嗚呼、依存している)

この弟に。父よりも近いこの同胞に。
創造主はこんなネムの変化を予想していただろうか。
ネムが一護を常時傍に置きたがっている事には気付いているようだが……。

ネムはマユリの全般的なサポート役として、一護は邪魔者の討伐やマユリが欲しがるサンプルを容易に入手するための戦闘力を持つ存在としてこの世界に生まれ落ちた。
よってその役目を果たせないようでは、いずれ創造主の手によって廃棄されてしまうかもしれない。
このままネムの一護への依存が続き、通常業務への支障が出るようであっては、そういう未来も無いわけでは無いのだ。

(怖い)

それはネムが生まれて初めて抱く恐怖だった。
自身が廃棄されることではなく、この弟と離れ離れになってしまうことへの。

「姉さん?」

ネムの身が強ばったのを感じ取って一護が首を傾げる。

「どうした?」
「……私は、」
「うん」
「私は、貴方を失うことが怖い。貴方と離れ離れになるのが怖い。今まで死を恐れたことなど一度も無かったのに」

戦って、痛いと思うことはあった。苦しいと思うこともあった。
しかし死を恐れたことは無かったのだ。
それなのに一護を想うだけで死への恐怖が沸き上がってくる。

「一護、一護、一護一護いちごいちごいちご……」
「大丈夫だ。俺はここにいるから」

ぽんぽんとあやすように、一護の手が穏やかなリズムでネムの背を叩いた。

「俺は死なない。姉さんも死なせない。そして姉さんと俺を離れ離れにしようとする奴が現れたら―――」

ネムは一護の胸に顔を埋めていたため、その時の表情は全く窺えない。
だがきっと楽しそうに笑っているのだろうと、姉であるネムは思った。

「俺が全部消してやるよ」






彼女の世界


(そこでは彼女と彼女の弟と、そしておそらくそれ以外)







リクエストしてくださったゆかり様に捧げます(2個目)。
こちらは1個目「ちょっと待て」の補足となります。
ゆかり様、ありがとうございました!