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間桐の支配者は名実共に間桐臓硯。言峰綺礼にとってそれは殊更改めて考えるまでもない事実であり、むしろ臓硯が死んだとか隠居したとかいう話の方が異常だった。 ゆえに第四次聖杯戦争から三年後、遠坂の当主たる少女の後見人をしていた綺礼の元に間桐家当主交代の知らせが届いた時、綺礼は普段浮かべている薄い微笑を消して訝しげに眉根を寄せた。 (しかも新しい当主が……) 間桐鶴野ならばまだ一応理解できる。臓硯が周囲に怪しまれないため傀儡の当主を立てたのだろう、と。しかし違った。知らせを兼ねた間桐邸への招待状でもあるそれに書かれていた新たな当主の名は――― 「……間桐、雁夜」 第四次聖杯戦争にて綺礼に利用され、最後には蟲に喰われて欠片も残さず死んでいった男の名前だった。 * * * 「代理ですまない。遠坂凜は留学の準備でロンドンへ下見に行っていてな」 「いやいや。来てくれただけで嬉しいよ。……神父」 間桐邸を訪れると、三年前と全く変わらぬ姿で間桐雁夜が綺礼を出迎えた。 綺礼を「神父」と呼ぶのも同じ。真っ白な髪も、左半身を覆う瘢痕も、白濁した左目も、陽の光を知らぬ血色の悪そうな白い肌も。ただ他者に向ける口調のみが綺礼の知るものとは違い、穏やかさで満ちていた。 「凜ちゃん、時計塔に行くんだって? 偉いなぁ」 「時計塔に行ったらすごいの?」 雁夜の台詞に反応したのは綺礼でなく、応接間のソファに腰掛ける雁夜の隣でちょこんと己も腰を下ろしている少女、桜。 今年で十になる少女は間桐の魔術に染められた紫の瞳で雁夜を見上げる。 「じゃあ桜も行った方がいい? そしたら雁夜おじさん、うれしい?」 「桜ちゃんが行きたいなら行かせてあげるけど……」 瞳と同じく紫に染まった桜の髪を梳きながら雁夜は声音と同じく穏やかに微笑む。 「おじさんは桜ちゃんと離れ離れになるとちょっと寂しいな」 「だったら行かない。桜もおじさんと一緒の方がいい!」 「ありがとう。桜ちゃん」 べったりと甘えて腰に抱きついてきた少女を右腕で受け止め、雁夜はそのままの格好で綺礼に苦笑を浮かべた。 「ごめんね、神父。俺が甘やかした所為か、桜ちゃんってば本当に甘えん坊になっちゃって」 「構わないが……」 遠坂から間桐へ養子にやられ、おぞましい蟲共に陵辱の限りを尽くされた少女は心を凍らせていたはずだ。そんな少女を助けるために間桐雁夜は急造の魔術師となり、そして文字通り命を削って聖杯戦争に挑んだ。結果は戦争終盤まで生き残るも敗北し、少女の目の前で蟲に喰われて死んだと言う。おかげで少女は更に心を閉ざしたのだが――― 今、綺礼の目の前に広がる光景はそんな過去をことごとく打ち砕くものだった。 間桐雁夜は生きていて、間桐桜は笑えるようになっていて。そして、彼らを狂わせた諸悪の根元である間桐臓硯の姿が見えない。 不可解極まる状況に綺礼が言葉を詰まらせると、雁夜はそれを理解していると言わんばかりの表情で小さくクスリと吐息を零した。 「神父、あんたの疑問はもっともだ。間桐雁夜は第四次聖杯戦争で負けて、そして死んだ」 「では貴様は誰だ。なぜその姿でその名を名乗っている」 「怖い顔になってるよ、神父。桜ちゃんが怯えてしまう」 抱きしめる格好のまま右手で少女の目を覆い、雁夜は彼女の視界を奪う。桜はその手を振り払うどころか安心しきったようにもっと雁夜へと身を預けた。 「……なあ、神父。あの化け物ジジイがどうやって長い時を生きてきたか、あんたは知ってるか」 「いや」 「そっか。じゃあちょうどいいかな。その生き永らえ方ってのが、今、あんたの目の前にある」 そう言って雁夜はすっと左腕を伸ばした。身体に蟲を入れた所為で麻痺し、満足に動かせないはずの腕を。 目を瞠る綺礼に雁夜は「まだだよ」と告げる。 直後、綺礼がその言葉の意味を理解するよりも早く、雁夜の左腕が肘の辺りからぼとりと千切れ落ちた。 「……ッ!?」 腕が突然落ちたことにも驚いたが、それよりも千切れた腕の断面を見て綺礼は息を呑む。 「つまり、こういうことだ」 微笑む雁夜の視線の先。絨毯の上に落ちた腕の断面には血も肉も骨も確認できず、小さな蟲が蠢いていた。 「俺の身体は蟲に喰われ、そして俺の意思は蟲に宿って再びこの身体を作った。本来は自分の肉体と蟲を徐々に入れ替えていくらしいんだが……この辺だけは臓硯と違うな。でも結果は同じだ。俺もまたあの爺と同じように人の身体を失って蟲の身体になった。不老の半分不死ってやつにな」 雁夜がそう説明する間にも千切れ落ちた腕は断面から数多の蟲が飛び立ち、再び雁夜の身体へと戻っていく。修復された身体はすぐに何の支障もなく動くようで、雁夜は二度三度と拳を握り、再び半身不随の擬態をとった。 「ならば臓硯氏は……」 「ああ、あの爺ね」 雁夜がこうなるずっと前から蟲の身体で長い時間を生きてきた間桐の支配者。あの男はどうなっているのかという綺礼の問いかけに雁夜はあっさりと答える。 これまでで一番はっきりとした笑みを浮かべて、 「喰ったよ。身体を作るのに一年、あいつを喰うのに更に一年かかってしまったけれど。ちなみにもう一年で環境を整えて今に至ってる」 「…………」 綺礼には返す言葉が見つからなかった。 身体をボロボロにしながらも一年で魔術師になった男は、その次の実質二年で今度は身体を全て蟲に変えて間桐の支配権を奪ったらしい。 驚いた。本当に驚いた。このようなことが起こり得るのかと。 そしてその一方で……。 生家の魔術を憎み疎みながらも蟲の身体を得た男は。 己を絶対なる支配者だと信じて疑わず、哀れな息子≠嘲笑っていた老獪は。 さて、己の新たな始まりの瞬間に、来るとは思っていなかった己の最期の瞬間に、それぞれどのような表情を浮かべたのだろうか。 「……ああ、神父ってそういう顔もできるようになったんだ」 ぽつりと面白そうに、その一方で忌々しそうに、雁夜が呟く。 白と黒の双眸に映り込んだ言峰綺礼の顔は、かつて第四次聖杯戦争の結末の光景を見据えた時とよく似た表情をしていた。 □■□ 間桐雁夜が生家の地下で死亡したと知った時、ギルガメッシュの某知人は雁夜が戦場から間桐邸まで移動できたことにわずかな驚きを感じつつも、ただ淡々とした表情と声で「そうか」とだけ答えた。だが他者の感情の変化――特に悦楽に関するもの――を読み取る能力に長けるギルガメッシュは、その声にこれまでの高揚から一転して落胆の色が混じったのに気付いた。 以前マスターの調査を行った際に最も詳しく調べていた間桐雁夜は、やはり知人こと言峰綺礼にとって特別な人間だったようだ。 己が求める答えを持っているのではと執着していた衛宮切嗣とはまた違う―――綺礼にとって間桐雁夜は別の意味で執着に値する人間だったのだろう。 その理由をギルガメッシュは綺礼の本性が前面に晒された時に、雁夜が余りにも哀れな存在だったからだと思った。七人のマスターの中で誰よりも愚かで、誰よりも悲惨で、その内に抱えた憎しみが誰よりも醜悪だったからだ、と。綺礼の本性がそれを殊更好ましいものと感じ、より惨めな境遇に貶めたいと感じたからだ、と。 ギルガメッシュはその考えを三年前からつい先程まで何の疑いもなく信じていた。 しかし――― 「……嬉しそうだな、綺礼。そんなに間桐雁夜の生存……いや、復活か? ともあれそれが余程愉快であったと見える」 「それは勿論。奴が再び身体を手に入れた瞬間の様子、そして間桐臓硯が奴に敗れた時の顔を見逃したことは悔しいが、まだまだ愉悦の機会は大いにある。間桐雁夜はきっと私に更なる満足を与えてくれるだろう」 聖職者とは正反対の性質の笑みを浮かべて答える綺礼に、ギルガメッシュは「ふむ」と返した。 確かに言峰綺礼らしい返答だ。人の不幸を、悲劇を、絶望を、この男は喜びとする。ゆえに再び現れた間桐雁夜は綺礼に過去の愉悦を思い出させ、また己に新たな愉悦をもたらしてくれる存在として非常に好ましく感じられるのだろう。 だが果たしてそれだけだろうか。 ギルガメッシュは思い出す。間桐雁夜がもう永遠に失われたと知った時の綺礼の顔を。そして再び相見えた後の綺礼の顔を。人の感情の機微に聡いギルガメッシュはその中に隠された言峰綺礼という男の無意識を観察する。 (くくっ。これはこれは……随分興味深い展開ではないか) これからが楽しみだと笑う綺礼の横顔を眺めながら、ギルガメッシュもまたニヤリと口の端を持ち上げた。 綺礼はまだ気付いていない。己がどうしてこんなにも間桐雁夜の再来を喜んでいるのか。まるで年頃の恋する乙女のように間桐雁夜のことばかり考えている理由が何なのか。その口元に乗った微笑の意味を。 それらに気付いた時、綺礼は一体どんな反応を見せてくれるのだろう。 「楽しみだな、綺礼」 「ああ。実に楽しみだ」 各々異なるものに期待を寄せながら、それを知る王と知らない聖職者は共に深い笑みを己の顔に刻んだ。 2 この身体があのおぞましい蟲でできているなんて、考えただけでも吐き気がする。しかし己の本来の肉体を失った今、この子を抱きしめるには身体が必要だ。それがたとえ自分がこの世で一番嫌っているものの塊であっても。 「……桜ちゃんを守るためなら俺は何だってするよ」 人の形に姿を変えた蟲の指で、蟲の腕で、蟲の胸で、誰よりも何よりも救いたかった少女を抱きしめる。 遠坂葵の首を絞めた過去を持つ雁夜には、もう葵にも遠坂の娘である凛にも合わせる顔がない。己の召喚に応えたサーヴァントは雁夜の魔力不足により消失し、最早この世にとどまっておらず。兄は第四次聖杯戦争中に腕を一本潰された影響で臓硯がいなくなっても部屋からは滅多に出て来ない―――ひょっとしたら臓硯と雁夜を同一視し始めているのかもしれない。つまり雁夜に唯一残されたのが間桐桜という少女だけだったのだ。 ゆえに雁夜は桜のために全てを捧げると決めた。今度は償いのためではなく、己の存在意義のために。 桜のために身体を得て。桜のために間桐の支配者だった男を殺し。桜のために当主を名乗る。 魔術の庇護が無ければ魔術師達に恰好の実験材料とされてしまう少女を完全な形で守るため、雁夜は魔術を嫌悪する己の心など捨ておいて『始まりの御三家』の一角、マキリの主になった。 そんな雁夜に対する桜の答えは――― 「わたしには雁夜おじさんだけがいればいいよ」 己の絶対的な庇護者への依存。 間桐の魔術によって髪も瞳も紫色に染まった少女は、未だ光が戻りきらない双眸でただひたすらに雁夜だけを見る。 壊れた少女は治らなかった。微笑み、己の感情を表現できるようになってはいたが、かつて母親譲りの黒髪と父親譲りの碧眼で形作られていた無邪気な笑顔はもうここにはない。少し人見知りで、けれども年相応に外界へと興味を示す『遠坂桜』はいなくなってしまった。 「ごめんね、桜ちゃん」 「……? どうしておじさんが謝るの?」 過ぎた時間は取り戻せない。雁夜が間に合わなかった最初の三日間で少女の心は完全に砕かれてしまった。 謝罪はその遅れに対するものなのか、それとも治しきれなかった少女の心に対するものなのか。それは雁夜本人にも判らない。ただ己の残りの全てを桜のために使うことしか考えられなかった。 「こんなおじさんでごめんね……」 「私はおじさんと一緒にいられてうれしいよ?」 「ありがとう」 □■□ 「……桜ちゃんを守るためなら俺は何だってするよ」 彼のその言葉だけでこの小さな身体が幸福で満たされる。 その人は全てから見放された間桐桜という少女の手に落ちてきた最初で最後の私だけのもの≠セった。 家を失い、人としての尊厳を失い、自由も喜びも何もかも失った自分にもたらされた、桜のためだけに生きてくれる人。―――間桐雁夜。 かつては桜を通して母親である葵を見ていたようだったが、今はもうそんなこともない。雁夜の白濁した左目と真っ黒な右目は紛うことなく桜だけを見ている。そして桜のためだけに生きてくれている。 自分にとって初めてもたらされた絶対的な庇護者。桜はそれに依存する己を決して止めようとしなかった。依存して依存して依存して、それで雁夜を己に縛れるのなら十分だと思ったのだ。 「ごめんね、桜ちゃん」 「……? どうしておじさんが謝るの?」 雁夜の右半身に抱きつきながら間桐桜は首を傾げる。 何を謝ることなどあるだろう。桜は今、とても幸せなのだから。 「こんなおじさんでごめんね……」 「私はおじさんと一緒にいられてうれしいよ?」 素直にそう口にすれば、こちらを見下ろす二色の瞳が嬉しそうに、その一方で悲しそうに細まる。「ありがとう」という言葉は間違っていないが、もっと誇らしげに言ってくれても良いのにと思う。 (私は今、とても幸せなんだから) だから雁夜は誇ればいい。こんなにも桜を幸せにした自分という存在を。 桜はそれを言葉にする代わりにぎゅっと強く雁夜に抱きついた。 (ねぇ雁夜おじさん……桜を一人にしないでね) ―――やっと手に入れた、私だけの貴方。 □■□ 「ほほう。そうしていると生前と何ら変わらんな。いや、今の方が余程健常か」 「お前は……アーチャー? どうしてまだここにいるんだ」 桜を寝かしつけた後に蟲蔵で蟲達の様子を眺めていた雁夜は招待した記憶のない来訪者へと視線を向け、鬱陶しそうに問いかける。 始まりの御三家としてそれ相応の結界を屋敷の周囲に張り巡らせているのだが、英霊ともなれば薄紙のようなものなのかもしれない。現れた圧倒的存在感の英霊―――第四次聖杯戦争でアーチャーのクラスとして現界していた金色の王は、すでに聖杯戦争が終わって三年も経ったと言うのに平気な顔をして雁夜を見つめ返してきた。 「いくら単独行動可能なアーチャークラスであっても戦争自体が終わっていれば消えるもんじゃないのか?」 「王たる我がそう簡単に雑種の問いに答えるとでも思っているのか?」 金色の眉を跳ね上げ、赤い瞳が雁夜を睨む。だが負けずに睨み返してやれば、かの英雄王はフッと口元を緩めて「まぁ良い」と呟いた。 「貴様が生まれ直した≠ニいう事実には我としても些か興味を引かれるのでな。特別に答えてやろう」 「……生まれ直しだなんて、そんな良いもんじゃないけどな」 「そうか? 貴様が嫌悪した蟲で作られた身体だ。大層なものではないか」 「嫌味を言うためだけに来たなら帰ってくれ」 「くくっ。そう拗ねるでない」 アーチャーは可笑しそうに喉を鳴らす。 「我がこの地に存在している理由はただ一つ。受肉したからだ」 「受肉? そりゃなんでまた」 「あの戦いの最後に聖杯から溢れ出した泥によるものでな。その影響で綺礼も今や生きながら死んでいる身だぞ?」 「……?」 なんだそれは、意味が分からない。雁夜がそんな顔をして見せれば、アーチャーは説明に興が乗ったのかすらすらと後を続ける。 「貴様のサーヴァントがセイバーに敗れた後、言峰綺礼は衛宮切嗣によって一度殺されている。だが聖杯から溢れた泥により我が受肉し、その影響で我と再契約していた綺礼もまた復活したというわけだ。まぁ心の臓は動いておらんがな」 「へぇ。そりゃまた……。聖杯が汚染されてるってのは爺が残した記録で知ってたけど」 蟲の身体を手に入れてからいろいろと情報収集はしてきたつもりだが、このサーヴァントが説明した内容までは知らなかった。まさかあの目の死んだ神父が本当に死んでいたとは、などと冗談混じりに考えてみるも、やはり驚きがある。 ちなみに綺礼とアーチャーが再契約していたのも今知った。かつて時臣に父を殺されたという理由で雁夜に協力してきた綺礼だったが、思えばあの時には既に綺礼が時臣を殺し、サーヴァントを奪っていたのかもしれない。 過去を思い出した雁夜が苦い顔をすると、アーチャーがますますおかしげに口の端を持ち上げる。どうやら綺礼とアーチャーはよく似た性質を持っているらしい。少なくとも雁夜が嫌そうな顔をすればする程、彼らの機嫌が良くなっているのは事実だ。 厄介なコンビだとは思うものの、それを顔に出せば余計に喜ばせるだけである。雁夜は溜息を飲み込んで、 「説明感謝する。ついでにもう一つ答えてくれると嬉しいんだが。……一体何のためにここへ?」 物珍しさにたまたま訪れただけだろうか。この英霊なら有り得そうだ。 果たして、アーチャーの回答はほぼ雁夜が予想した通りのものだった。 「嫌悪する蟲の塊からできた男の様子を見てやろうと思ったまで。それに綺礼も貴様に会って随分と嬉しそうだったのでな」 「神父の嬉しそう≠ェ俺にとってロクでもないことってのは解る」 「ははっ! 確かにあの男の愉悦の在処は常人の幸福と真逆に位置している。せいぜいその矛盾した有様であやつを興じさせるが良い」 「……最悪」 短く吐き捨て、雁夜はアーチャーから蟲蔵の底へと視線を戻す。 こんな醜悪な生き物(間桐雁夜)を見物しに来ただけだと言うならもうこれで十分だろう。あとはアーチャーが勝手に消えるのを待つだけだ。 そう思う雁夜だったが、アーチャー自身は違うらしい。一度は雁夜に背を向けて帰ろうとしたようだったが、ふと思い出したように歩みを止める。 「そう言えば雑種よ。貴様、我のことをアーチャーと呼んだな。第四次聖杯戦争が終わり、加えて受肉し魔力を必要としなくなった我を従者(サーヴァント)≠フ名前で呼ぶのはおこがましいと思わんか?」 どうやらこの金色の王は雁夜にクラス名で呼ばれるのが気に食わないらしい。 しかしながら、 「俺、お前の真名知らないんだけど」 「ふむ。確かにそうであったな」 そのサーヴァント自身のマスターならともかく、敵陣営がそう易々と英霊の真名を知っているはずもない。納得したアーチャーは少し考えるような仕草を見せた後、雁夜に向き直った。 「我が名はギルガメッシュ。最古の王にして唯一の王である。雁夜よ、特別に我を真名で呼ぶことを許してやろう。王の慈悲だ。ありがたく受け取るが良い」 真名を明かし、また――何故か多少なりともこちらを気に入ったのか――雁夜のことを雑種ではなく名前で呼んで、アーチャーもといギルガメッシュは今度こそ本当に姿を消した。 後に残ったのは蟲蔵の縁に佇む雁夜と、蔵の底で蠢く蟲達のみ。どっと気疲れを感じながら雁夜はどうやら言峰綺礼とギルガメッシュの両名に嫌われていない≠轤オい自身の状況を察して重い重い溜息を吐き出した。 「……まぁ桜ちゃんに危害が及ばないなら良いんだけどね」 □■□ 教会に帰ってきたギルガメッシュの機嫌が妙に良さそうだと気付いて言峰綺礼は三年前から常時貼り付いている薄い微笑の中に訝しげな気配を漂わせた。 普段ならこの英雄王が上機嫌で帰って来ようがどうしようが特に関心のない綺礼であるが、何故か今日は気になってしまう。これまでと今回の間に起きた変化と言えば、先日、間桐家の当主交代の知らせを受けて間桐雁夜と再会を果たしたことくらいしかないのだが、綺礼自身の中ではそれとギルガメッシュの上機嫌が結びつかない。……少なくとも自覚している範囲では、という注釈付きだが。 しかも気になる≠フ種類が愉悦の気配を感じ取り興味を引かれたというものではなく、どちらかと言うと苛立ちに分類されるものだった。 そんな綺礼の様子に気付かぬギルガメッシュではない。そもそも綺礼の無自覚な感情まで察しているギルガメッシュは苛立つ綺礼に「鼻の良い男だ」と人の悪そうな笑みを向ける。 「何のことだ」 「綺礼よ、我がどこに行って来たかわかるか?」 質問を質問で遮り、ギルガメッシュは腕を組んで綺礼と対峙した。 問われた綺礼はこちらに答えがもたらされないことなど特に気にせず――何せ相手は天上天下の英雄王ギルガメッシュなのだから――、当然のことながら「知らない」と返す。 「本当か? 本当に予想すらついておらぬと申すか?」 「一体何なのだ。いつものように好きな所へ行き好きなように遊興してきたのではないのか」 「ふっ。本当にそう思っているならば貴様が今こうやって我に噛みつくこともないだろう。さあ、貴様が思っているままの解を示せば良い」 とは言われても綺礼には本当に英雄王が出かけた所など解るはずもない。 (…………いや。何故だ。一つだけ心当たりがある) 心当たりと言うよりは当たって欲しくない場所≠ニ言うべきか。 綺礼はふと脳裏に浮かんだ場所に、そんなまさか、と首を横に振った。だが一度浮かんだ考えは消えず、視線の先に佇むギルガメッシュの愉しそうな顔も変わらぬままだ。それどころか綺礼が思いついたたった一つの場所を既に察しているのか、血色の瞳はますます愉しそうに歪められているようにすら見える。 「申してみよ、綺礼。貴様は我が今日どこへ……否、誰の元を訪れていたと思った?」 長い沈黙が挟まれた。 答えられないのではなく、答えたくない。それを自覚した綺礼の口はより堅く閉じられる。だがこの沈黙にギルガメッシュがそうそう長く付き合ってくれるはずもない。彼の興が削がれる前に回答しなくてはならないだろう。 やがて綺礼は小さな溜息を一つ吐き、自分が回答を渋る理由も解らないまま口を開いた。 「……間桐雁夜の所か」 「やはり解っているではないか!」 愉快だという気持ちを隠しもせずにギルガメッシュは笑う。即ち、綺礼の予感は当たっていたということである。 ギルガメッシュが間桐邸を訪れた。ギルガメッシュが間桐雁夜に会った。ギルガメッシュが間桐雁夜と言葉を交わした。ギルガメッシュが―――言峰綺礼ではない人間が、間桐雁夜と。 (待て。私は何を考えた?) あの白くて歪な男が自分以外の何者かと言葉を交わしたのだと考えた瞬間、綺礼の中に明確な不快感が生まれ落ちた。 「どうした。我が雁夜と会ったのがそんなに気になるか?」 口元に弧を描きながらギルガメッシュが問う。その問いかけの中でギルガメッシュが雁夜を「雑種」ではなく名前で呼んだことが更に綺礼の中の不快感を煽った。 (何故だ。何故私はこんなにも間桐雁夜が他者に会い他者の口から語られるのを厭う) 自問するも答えは出ない。 そうやって戸惑う綺礼を眺めてギルガメッシュは笑みを深める。綺礼の中にある感情には気付いているが、こちらがそれに名前を付けてしまっては面白くなく、また今の綺礼が認めるはずもない。これは綺礼自身が気付き、認め、名付けてはじめてギルガメッシュを愉しませるものになるだろう。 「沈黙は肯定と取るぞ? まぁ安心しろ。貴様からあの醜悪な男を取り上げたりはせんさ」 「私は、そんなつもりでは……」 「どうとでも言うがよい。しかしな、綺礼。かつて貴様が己が魂の有り様を認めた時と同じく、それ≠熹Fめねば愉悦には至らんぞ」 綺礼は答えない。 そんな綺礼の様子を横目にギルガメッシュはさっさと教会の奥へと歩みを進める。あとは綺礼の困惑を肴に酒でも呑むのだろう。 ただ一人残った綺礼はギルガメッシュの背を見送るのではなく反対方向の窓に目を向ける。無意識に向いたそちら側は間桐邸がある方向だった。 「間桐雁夜……。一体、貴様は私の何なのだ」 答える者はいない。 その答えは言峰綺礼の中にしかないのだから。 1…2012.04.18 pixivにて初出 2…2012.05.13 pixivにて初出 |