花と正義の味方



 間桐雁夜がケイネス・エルメロイ・アーチボルトの治療を始めてからしばらく経ったある日の夕刻。客人として衛宮切嗣が間桐邸を訪れた。
 いつも通りの黒ずくめで現れた切嗣はソファに腰を落ち着けて開口一番、
「ランサーのマスターと随分親しくしているらしいね」
 ついに来たか、とは思わなくもない。
 休戦により形だけとなったとは言え、一応同盟関係にある陣営からの指摘である。切嗣の世間話のような軽い口調の中には隠しきれない非難が混じっていた。
(まぁ折角脱落させられそうだったランサー陣営が復活しかかってるわけだし)
 言峰親子から流れてくる聖杯の調査の進捗状況と結果を鑑みて戦争再開の可能性は低いだろうと雁夜は思っているのだが、その情報はまだ他に知らされていない。ゆえに切嗣の心配は当然のことだろう。
 いっそのこと聖杯に願いを叶えてもらうなど期待しない方がいいと言ってやった方が良いのではないだろうか。期待する分だけそれが不可能だったと知れば絶望は大きくなる。
 だが雁夜が知る中で最も聖杯の機能に期待を寄せているのは衛宮切嗣であり、その彼に何の用意もなく聖杯の異常を伝えて「はいそうですか」で納得してくれるかどうかはひどく怪しい。せめて彼の願いを正確に把握し、彼を説き伏せられる準備くらいはしておく必要があると雁夜は思う。
「俺としても少しばかり思うところがあってな。ただ、戦争が再開されればこの分も合わせて働かせてもらうさ」
「その言葉、信じてもいいのかい」
「不安なら自己強制証文(セルフギアス・スクロール)でも書こうか?」
「……いや。その提案だけで十分だ」
 決して破れない魔術師の誓い。その話を持ち出せば、切嗣は首を振って不要だと答えた。
「君の望みは聖杯戦争で最後から二番目になること。そのためにただ一人を支援するけど、ロード・エルメロイと僕の相性を考えれば、僕の方が勝算は高い。となれば、必然適に君は僕についた方が有利だからね。わざわざ僕から彼に乗り換える利点もない。加えてギアスの話まで出してもらえたんだからさすがに信じるよ」
「それは良かった」
 うっすらと笑い、雁夜は使用人が用意した茶で喉を潤す。切嗣もそれに倣ってティーカップに口を付けた。
 僅かな沈黙が部屋に落ちる。
 カチャリ、と音がして切嗣がソーサーにカップを戻した。それを合図に切嗣が再び口を開く。
「もう一つ君から話を聞いておきたいことがあるんだけど」
「言峰綺礼のこと、かな」
「ああ」
 アインツベルンの森で雁夜は綺礼と対峙した。その際、綺礼が切嗣との対話を望んでいることを知り、アインツベルンの同盟者として可能ならばその願いを叶えると答えている。
 切嗣がこの聖杯戦争で最も危険視しているのが言峰綺礼であると知った上で、だ。
「衛宮さんが嫌なら神父にははっきり無理だって答えておくよ。その場合、向こうを諦めさせる要素があれば尚良いんだけど……そういうのってある?」
「さあね。そもそも僕はどうしてあんな男に追いかけ回されてるのか全くもって解らないんだ」
「それもそうか。じゃあまず俺が知ってる分だけでも教えないとな。……神父の経歴は知ってると思うんだけど」
 問いかけに切嗣が頷く。
 それを確認して雁夜は説明を開始した。
「調べたんなら解るだろうけど、神父は何事にもマゾなんじゃないかって思うくらい真摯的に取り組んで、そのくせ極める一歩手前で呆気なく止めてしまう。どうやらそれは……何て言えばいいのか。自分が執着できるものを探してる、かな。いや、もっと簡単に言ってしまおう。神父は自分の好きなものが解らないみたいなんだ。自分が何を望んでいるのか、自分の好きなものは、自分が美しいと思えるものは何か。解らないから空っぽで、解りたいからひたすら色んなことに取り組むけど違うと気付いて捨ててしまえる」
「やはり僕があの男の願いを推測できないんじゃなくて、そもそも相手には願いなんて無かったというわけか」
「俺も推測で話してる部分がほとんどだから断定はできないけど、おそらくは。それでまぁ、そんな男がある日、苛烈な経験を積んではあっさりとそれを捨てていく―――つまり自分と同じく大切なものを見つけられずに生きていると思われる人間の存在を知った。でもその人物は九年前にぱたりとその放浪を止めている」
「……」
 誰のことを言っているのか、思い当たるらしい切嗣はそこまで告げた雁夜に対し眉根を寄せる。ただし話を促すように自分からは何も言わない。
 雁夜はそれに小さく苦笑を浮かべて話を続けた。
「すると神父はこう考えたんだろう。その人物はきっと自身が求めるもの≠見つけたんだ、ってな。未だ迷い続けている神父本人としては是非ともその人物と会って答えが聞きたいと思う。それがただの会話で済むのか、はたまた殺し合いの中でこそ理解できるものなのかは不明だけど」
「僕は自分の大事なものを探すために戦場を渡り歩いてきたわけじゃない」
 言峰綺礼が己の同類だと思っている男―――衛宮切嗣は憮然とした表情で呟く。雁夜は「だろうな」と肯定した。ただの空虚な男をアイリスフィールや久宇舞弥といった女性達が命を賭して守るわけがない。確固たる信念―――希望があるからこそ、彼女達は切嗣と共にあるのだろう。
「差し支えなければアイリさん達が賛同する衛宮さんの願いってやつを聞きたいんだけど。ま、実を言うと俺もあんたがどうしてハイリスク・ローリターンな戦場にい続けたのかよく解っていないんだ。何かあるらしいってところまでしかね」
「そう言えば教えてなかったか」
 しばし逡巡し、そして、切嗣は告げた。
「僕は全ての人間を救いたい。この世界から戦いを失くしたいんだ」
「……恒久的な世界平和ってやつ?」
「ああ」
 雁夜の確認には力強い肯定が返される。
「僕はこれまで多数を助けるために少数を切り捨ててきた。切り捨てた中には勿論僕にとって特別な思い入れのある人物だっていたけどね、人の命に貴賤はない。本当は全て救いたかったよ。でも僕の力じゃ……人間程度の力じゃそれはなし得ない。精々が多い方を選び取るくらいだ」
「でも、聖杯は違う?」
「そうだ。聖杯があれば奇跡は起こる。人間にはできない方法で世界を救ってくれる。この世から戦いと言うものを消し去ってくれる」
「なるほど。その願いにアイリさん達が賛同したってわけか」
 これが衛宮切嗣の真実。
 世界を救いたい一心で大切なものを全て切り捨てる生き方。
 苛烈な戦場に現れたのも各勢力の姿勢や思想に拘わらず多い方≠勝たせるため。
 大切なものを何一つ見つけられずにいる言峰綺礼とは全く異なる生き方であり、つまるところ切嗣の中に綺礼が求める答えは存在しない。
 綺礼は残念がるだろう。せっかく見つけられたと思った答えが違うと知って。
(いや。それどころか怒りすら覚えるかもしれない。自分は何一つ大切なものを得られていないってのに、衛宮切嗣はせっかく手にしたものを呆気なく捨ててしまえるのだから。それも、何度も何度も)
 ソファの肘置きに頬杖をついて雁夜は胸中で独りごちた。その態度を呆れている≠ニ取ったのか、切嗣は「愚かな願いだと笑うかい?」と、こちらが首を縦に動かした瞬間に撃ってきそうな気配を纏って呟く。
「いや、呆れてなんかいないさ。あんたがどんな人生を歩んでそう思うようになったのか知らない俺がどうこう言えるもんでもないだろう。加えて確かに聖杯ならその願いを叶えてくれるだろうし」
 ただし切嗣が望むとおりに世界が変わるのは聖杯が本来の純粋無色な魔力で満たされていた場合だ。汚染されている魔力では決して彼が望む世界にはならないだろう。むしろ更なる絶望をもたらすかもしれない。
 たとえば、そう。何十億という人間の間から闘争を奪うのではなく、闘争できないレベルにまで人間を減らしてしまう、とか。
 雁夜はこちらの返答に剣呑な気配を解いた切嗣を眺めながら、教会側から完全なる聖杯戦争停止が言い渡された際にはこういう説明でもしようかと思いつく。それで納得してくれるかどうかは、切嗣の願いの強さに寄るのだろうが。
「ともあれ、そういうことなら神父がもう衛宮さんを追っかけ回さないように説得できるかもしれない。休戦中にちょっとこっちに呼ぶか俺から出向いて会ってくるよ」
「そうしてくれると助かる」
 ようやく自身が脅威と認めた男からの執着が薄れる(もしくは消える)と知って切嗣は僅かに双眸を細める。そのかすかな笑みがいずれは失意の底に沈むかもしれないことを知っている雁夜は作り笑いを返すしかできなかった。







花と狂戦士



 衛宮切嗣が帰った後、雁夜の横でゆらりと黒いもやが現れる。そのもやと共に実体化したのは狂戦士のクラスで現界している英霊―――ランスロット。
 ランスロットは切嗣が訪ねてくる前からずっと雁夜の傍らに侍っていたのだが、相手を緊張(警戒)させないため一時的に霊体化していたのだった。
「カリヤ」
 実体化して開口一番、マスターの名前を呼ぶ。しかし応える暇もなく、先程までサーヴァントの霊体化により魔力消費量が格段に少なくなっていた雁夜は俯いて口元を手で押さえた。それから間もなく嘔吐き始め、ひときわ大きく肩を震わせると、
「ぅあ……ッ」
 ぽろぽろとカスミソウの白くて小さな花が溢れ出した。
 魔力の結晶である花の香りにランスロットはごくりと喉を鳴らす。主人の病的に白い手のひらから零れた一つを摘み上げて舌に乗せれば、極上の甘味が瞬時にランスロットの身体を満たした。
 ぽろりぽろりと花は止まらない。形が小さい分、数が多いのだろうか。手のひらから溢れ出ては雁夜の膝の上や足下に落ちる花を見て、ランスロットは勿体無いと思う。それに一つ一つ拾うのは酷くもどかしい。もっと一度に多くの魔力を取り入れたいという欲がむくむくと沸き上がってくる。
「カリヤ」
 再び名前を呼びながら、気が付くとランスロットはマスターの前で膝を折って見上げる格好になっていた。呼ばれた雁夜は従者がこれからしようとしていることが予想できず、嘔吐に苦しみながらもその苦しみとは別の意味で眉根を寄せる。
「っ、……バーサーカー?」
「失礼いたします」
 指先まで黒い金属に覆われた姿のままランスロットは口元を押さえる主人の手をそっと取る。傷つけないように、しかし性急に。頭上に疑問符を浮かべる雁夜の手を退かし、そのまま頭部だけを露わにして顔を近付け―――
「バ、さ」
 雁夜の声が途中で止まる。未だ花を吐き続けていた唇はランスロットのそれにぴったりと塞がれ、白く小さな魔力の結晶は直接主人から従者へと流れ込んだ。
「……ぁ、……っ」
 途中で呼吸が苦しくなった雁夜が喘ぐように吐息を漏らす。しかしその吐息すら奪うようにランスロットは更に深く雁夜を求めた。
 まだ一応マスターの身体を傷つけないようにという配慮ができるだけの理性は残っているが、花の魔力に酔った状態では徐々にそれも怪しくなってくる。命じられても許可されてもいないのにいきなり主人の唇を塞ぐ時点で理性がないと言われればそれまでかもしれないが。
 やがて花の嘔吐が止み、雁夜の口からも全ての花を回収したランスロットは、嘔吐の所為だけではない疲れでぐったりとソファの背もたれに身体を預けている雁夜に気付いた。
 未だ至近距離にある白い肌と白い髪。色の抜けた前髪の向こうから片方だけの黒目がじろりとランスロットを睨みつける。
「なにすんだ」
「こちらの方が一つ一つ拾い上げるより早いと思いまして」
「だったらその前に身体動かして魔力消費量を上げてくれ」
「それでも零れた分はしっかり拾っておかないと」
「お前が食わなくても蟲だって俺の花は食うんだよ」
「蟲ごときに必要以上の量を与えるなんて勿体無いではありませんか」
 先程までの口付けにより普段より赤みが増した主人の唇をランスロットは尖った指先で羽のようにそっと触れた。
「冷たい」
 金属の感触に雁夜が顔をしかめる。だが触れるなとも離れろとも言わない。それは単なる偶然や言葉を選択する時の好みの問題だったのだろうが、それでもランスロットは魔力的に満たされた時とはまた違う充足感を覚えた。
「では、こうしましょう」
 ランスロットは幸福感のまま淡い笑みを浮かべて甲冑の手首から先を消し去る。露わになったその手でそっと雁夜の頬を包み込み、魔力の残滓を掬い取るように薄い唇をぺろりと舐めた。
「お前は犬か」
「貴方の下僕という意味でしたら」
「下僕は主人の口なんて舐めねえよ」
 憮然とした表情で呟く雁夜にランスロットは苦笑を浮かべる。
「愛しい主人の唇であり極上の餌が出る場所でもあるのですから、下僕だって舐めもしますよ」
「ああそうかい」
 呆れた顔を浮かべる雁夜。しかしやはり拒絶の言葉は吐かない。それはランスロットの口付けを魔力供給の一種だと思っているからか、それとも―――
 前者に違いないとは思いつつ、それでも十分だとランスロットは口元に弧を刻んだ。







花と神父



 言峰綺礼が間桐邸に招待されたのは聖堂教会による調査で聖杯の異常と戦争続行不可がほぼ確定した頃のことだった。
 ちょうど雁夜に連絡するつもりだった綺礼は呼ばれたついでにその用も済ませてしまおうと思い、二つ返事で招待に応じた。魔術の師である時臣に欠片も伺いを立てないほど逸っていたのは雁夜からの話≠ノ一つしか思い当たらなかったからだ。また一歩己が求める答えに近付いたのだと、綺礼は期待を胸に抱きながら間桐の門をくぐった。
 しかし、聖堂教会の調査結果を告げた後、さあ衛宮切嗣の話を聞こうと思った綺礼に対し、
「あー……まぁ何と言うか。神父が衛宮さんに会っても答えを得るどころかむしろ殺したくなると思うぞ」
 会える会えないの前にばっさりとそう言われた。
 一瞬虚を突かれたが、それでも綺礼は「なぜだ」と口にする。
 雁夜は苦笑を浮かべて真っ白に色の抜けた髪を掻いた。
「あんたが思ってたのとは違って、衛宮さんは空っぽな人じゃなかったんだ。今も昔も。つまり捜し物をして、それが見つからなくて、ずっと迷っていたってわけじゃない。むしろその逆。あの人、大切な人も物も何度手に入れたって全部捨ててきたタイプだよ」
「……にわかには信じられん話だな。そんな……私にとってはただ一つでさえ尊いであろうそれをなぜ容易く何度も捨てられる。なぜそれを抱えていられんのだ」
「それはね、どうやら衛宮さんの夢≠ェ理由らしい」
「夢?」
「そ。アイリスフィール・フォン・アインツベルンも久宇舞弥も魅せられた、ね。それこそアイリさんなんて自分が死んでも構わないって思う程のものだよ」
「……ああ、そう言えばあの女は器の守り手だったか。妻とした女を殺してまであの男が叶えたい夢とは何なのだ」
 それはそれは大層なものなのだろう。
 これまで綺礼がどれほど求めても手に入らなかったものを、衛宮切嗣はその夢のために何度も何度も捨ててきたというのだから。―――そうでなくては困る。そうでなくては綺礼の望みが、綺礼自身が、とんでもなく愚かな存在になってしまう。
 そんな綺礼の思考を読んだわけではないだろうが、最初に「むしろ殺したくなると思うぞ」と告げていた雁夜は小さな苦笑を口元に刻んで言った。

「衛宮切嗣は正義のヒーローになるつもりなのさ。この世界から全ての闘争を失くす、それが彼の夢だ」

「万人から闘争を奪うと? そんなもの、できるはずがない」
 平坦な口調の中に僅かな苛立ちが含まれていたことに綺礼本人は気付いていただろうか。
「闘争は人間の本能だ。それを奪うというなら……」
「そうだな。加えて今の聖杯は汚染されている。そりゃもうとんでもない叶え方をしてくれるだろうよ」
 言葉尻を失う綺礼に対し、雁夜は着物に包まれた肩を竦めて「たとえば」とそのとんでもない叶え方≠フ例を示す。
「衛宮さんがやってきたことの大規模バージョン。聖杯に入ってる反英霊……アンリマユについて俺の方でも調べてみたんだけどさ、ああいう存在がいるなら、人類を戦いができなくなる数≠ワで減らすことくらいしそうだと思ってる。だいたい三人くらいかな。二人以上いれば争いは起こり得るけど、全員が親しい間柄―――それこそ家族とかならまぁ大丈夫だろ」
「つまり世界を救いたいと思う男は結局のところ己と己の家族しか生き残れぬ世界を作り上げるというわけか」
 はっ、と嘲りの吐息が零れた。
 そんなもののためにあの男は綺礼が望んでも決して手に入れられなかった数々の何かを無惨にも捨て去って来たというのか。
 身体の奥でジリジリと炎が燃える。綺礼はまだ無表情を保っているつもりだったが、その顔を見た雁夜は「ほら、やっぱり言ったろ」としょうがなさそうな表情を浮かべていた。
「でも衛宮さんを殺すのは無しな。今あの人が死んだら穢れた聖杯の降霊に一歩近付いてしまう。諸々が片付いたら……ま、好きにしたらいいけど」
「貴様は衛宮切嗣と同盟関係にあるのではないのか?」
「それは聖杯戦争中の話だよ。そして諸々って言うのはそれも含んでる。つまり、聖杯に片が付いたら俺はもうどうでもいいってこと」
「向こうがそれを聞いたらどう思うだろうな」
「最初から俺はビジネスライクな感情しか持ってないぞ?」
「ははっ」
 雁夜にあっさりと切って捨てられる切嗣を想像し、綺礼の口元がゆっくりと弧を描く。
 身体の奥で燃える怒りの炎ではない、相手が苦しみ絶望することに対する興奮。それの名を綺礼は初めて身を持って知った。
「おいおい。嬉しそうだな、神父」
「この思いが嬉しいというのなら……そうだな、私は嬉しいのだろう」
 雁夜の言葉に頷く。
「なんということだ。どうやら私は神の下僕から酷く遠いところにいる生き物らしい」
 衛宮切嗣の絶望が嬉しいと思う。
 それに以前から―――初めて雁夜と顔を合わせた時、この白い男に狂っている己の師の哀れな惨状に自分は高揚した。また今も、雁夜の正常な右目より白濁して機能を失った左目の方が愛おしいと感じている。
「これが、こんな私が言峰璃正の胤とは……なんだこの不条理は! そしてこの不条理すら好ましく思える私は何なのだ!」
「なんか神父の押しちゃいけないスイッチ押したっぽいぞ、俺。……でもまぁ神父本人としてはどうやら吹っ切れたみたいだし、オッケーって感じなのかな」
 生まれて初めて世界に色が付いたような感覚に包まれていた綺礼は苦笑する雁夜の独り言を耳にして意識をそちらに戻す。
 正面に座す男は酷く醜く、それゆえに美しかった。色が付いた世界の中、モノクロで構成された男は綺礼の胸を強く打つ。
「……間桐雁夜」
「ん?」
「確かに衛宮切嗣は憎いが、奴には聖杯の真実を教えることでこの怒りを宥めることとしよう」
「そっか。ならよかった」
 無理矢理神父を止めるのは骨が折れそうだからさ、と雁夜は笑む。
 その笑みよりもきっと悲哀に満ちた時の表情の方が更に間桐雁夜という存在を美しく見せるだろうと思いながら、綺礼は「ただし」と付け加えた。
「代わりと言ってはなんだが、お前≠フ左目を舐めても構わんだろうか」
「…………は?」
 黒い目も白濁した目も一緒になって見開かれる。
 綺礼が雁夜に対する呼び方を変えたことにも気付いていない。ただ極々普通の人間と同じように、あまり親しい間柄ではない知人に目を舐めさせてくれと言われて呆気にとられている。
 やがて徐々に理解が追いついてきたのか、雁夜は視線を右往左往させ、けれど最終的には綺礼に向け直して尋ねた。
「俺の目を舐めたいって?」
「そのように言っている。これで怒りにまかせて衛宮切嗣の首を取りに行くのを止めると言っているのだから高い買い物ではないだろう」
 ちなみにここで言う脅し文句は雁夜が切嗣の死を悲しむからではなく、マスターを失って敗退したサーヴァントの魂が聖杯に注がれるのを危惧しているがゆえのものである。
「さあ、どうする」
「いやまぁ抉るんじゃなくて舐めるくらいなら構わないが……変な趣味だな」
「お前が私に自覚させた好みだぞ」
「うわぁ」
 本心から嫌そうな顔をして雁夜は呻く。だが「構わない」と言ったのは嘘ではないらしく、片手でちょいちょいと綺礼を招く。
「ほら、やるならさっさとやってくれ。神父の趣味が暴露された所為で時間が押してるんだ」
「また娘と買い物か何かか?」
「またって何だよ、またって。俺も結構忙しくてなかなか一緒に遊べなかったりするんだぞ。そんな中の貴重な時間なんだからな」
 近付いてきた綺礼を見上げながら雁夜は答える。その白い男の真正面に立ち、綺礼は厳しい修練で皮が厚くなった手のひらでそっと相手の両頬を包に込んだ。
「間桐雁夜、お前は美しいな」
「つまり醜いってことか。そりゃどうも」
 減らず口をたたく雁夜の左目に綺礼は唇を近付ける。躊躇いなくべろりと舌で舐めあげた眼球は、その醜悪な姿に似合わず――そして綺礼にとってはこの上もなく相応しく思える――極上の甘さを伝えてきた。







2012.05.17 pixivにて初出