アインツベルンの森1
聖堂教会からキャスター討伐の要請が出された。しかもかのサーヴァントを討ち取った陣営には令呪が与えられるというオマケつき。 衛宮切嗣との会談終了間際に使い魔を通じてその話を聞いた雁夜は、そのまま切嗣と共にアインツベルンが今回の聖杯戦争で拠点としている城へと向かった。 冬木市の背後に聳える山の中、その森に厳重な結界を張って侵入者を防いでいるアインツベルンの城。そこに足を踏み入れた雁夜はまず二人の女性に迎えられた。 「切嗣から話は伺っています。私はアイリスフィール・フォン・アインツベルン。この子はセイバー。ようこそ、Mr.間桐」 「雁夜でいいですよ、アインツベルンの姫」 「そう? じゃあ私のこともどうぞアイリと呼んでくれないかしら、雁夜」 「ありがとう。でも旦那さんのいる前で呼び捨ては心苦しいから、アイリさんと呼ばせてもらってもいいかな」 「ええ。もちろん」 淑女然とした中にどこか幼さを含ませてアイリスフィールは頷いた。 きらめく銀髪に赤い目という組み合わせ、加えて目を見張るほどの美貌。昨夜は暗がりだったこともあり、あまりよく顔を見ていなかったが、照明の下で微笑む容貌は人間よりも人形のような精巧な美しさをたたえている。 おそらく彼女は人間ではなく、アインツベルンが用意したホムンクルス。成熟した女性の見た目をしているのにどこか幼さを感じさせるのは、真実、彼女が見た目通りの年月を生きていないからだ。 そう予想をつけて、雁夜は続いて視線をセイバーへと向ける。 男物のスーツを着ておりそれが絶妙に似合っているため一瞬少年かとも見間違うが、昨夜の戦装束のことを鑑みてもセイバーは女性。アイリスフィールと対をなすような金の髪の向こうから翡翠の瞳が雁夜を見極めようと強い視線を送ってくる。 「こんにちは、セイバー。昨夜はランサーとの決闘に乱入してしまってすまなかったね」 「いえ。貴方がいらっしゃるより前にライダーの乱入がありましたから。……その」 「ん?」 凛とした雰囲気に似合わず口ごもるセイバーに、雁夜は若干幼子に対するように小首を傾げて優しく先を促した。 「貴方は我々に協力してくださると伺っています。しかしよろしいのですか? 聖杯が手に入らずとも」 聖杯に選ばれてマスターとなったのだから、雁夜にも叶えたい願いがあるはず。それに雁夜に召還されたサーヴァントもまた願いを持っているはずである。しかし雁夜は切嗣に聖杯を譲ることを前提として今回の協力を受け入れている。自身にも叶えたい願いがあるからこそ、セイバーはそれが不思議でたまらないのだろう。 「衛宮さんにも言ったけど、俺の願いはある意味で聖杯戦争のマスターに選ばれた時点で叶ってるから。魔力消費っていうやつがね。それに実は俺のサーヴァントも、もう願いは半分くらい叶っていてね。あとは昔の上司とガチンコで喧嘩させれば終了かなぁって」 「……は?」 ガチンコで喧嘩ですか? とセイバーは目を点にする。雁夜は苦笑して「また今度教えてあげるよ」と、その『上司』である少女に告げた。 (そのうち俺のバーサーカーを叱ってやってよ、アーサー王―――アルトリア・ペンドラゴン) 昨夜の戦いでセイバーの顔を見たバーサーカーからこの騎士王の情報についてはある程度入手している。そしてバーサーカーことランスロットが狂うほどに望んだ願いはアーサー王に自身のかつての不義を正しく裁いてもらうことだ。 セイバー陣営からこのように協力の申し出を受けるとは予想だにしていなかったが、これはこれで決して悪いことではない。ただし今この時点で早々にバーサーカーの顔を彼女に見られてしまうと面倒なことが起こりそうだったため、今だけバーサーカーは霊体化している。また現界しても黒い甲冑で全身を覆った戦闘スタイルでの登場になるだろう。 ゆえにそのうち=B折を見て雁夜はアルトリアにランスロットを引き合わせるつもりだった。 「とりあえず俺は必要に応じて君やアイリさんに魔力供給の補助と、バーサーカーでの援護をさせてもらうから。どうぞよろしくね」 「あ、はい。よろしくお願いします」 イギリスの人間である彼女には頭を下げる礼よりも握手の方が馴染み深いだろう。雁夜が右手を差し出せば、彼女は反射のようにさっと応えてきた。 しかし折角友好的な握手ができたのもつかの間。雁夜は望まずとも慣れ親しんだ感覚に握手を解く。「カリヤ?」とセイバーが声をかけるが、それには応えられず、右手で口元を押さえる。 「……ぐっ」 胃から喉を通り、そして唇を割って外へ。バーサーカーが実体化していないこともあり、雁夜はアインツベルンの拠点に足を踏み入れてまだいくらもしないうちに『花』を吐き出した。 ぽろりと一つ零れ落ちたかと思うと、次々に大小様々な花が床へと広がる。苦しさで雁夜は膝をつき、ごほごほと咳き込んだ。 くそ、と毒づきながら床を睨みつける雁夜はその体勢ゆえに気付かない。 花を吐き出す己をみる三対の瞳が嫌悪や驚愕ではなく、別の感情を浮かべていることに。 「ぅ……っ」 「カリヤ」 嘔吐く雁夜のすぐ傍でセイバーが跪いた。どこか茫洋とした声に聞こえたのは雁夜の気のせいか。 多少気になりつつも、実際は嘔吐感でそれどころではない。「大丈夫ですか」と背中をさすられ、俯いたまま「ごめんね」と答えるのが精一杯だ。 しばらくぽろぽろと花を零していると、睨みつける床が花で覆い隠された頃にようやく嘔吐感が治まった。 サーヴァントを召還してから控え気味だった花吐き行為がバーサーカーの霊体化により召還前と同レベルにまで戻ってしまっている。一度楽をすると元に戻ってからが辛いことをその身を持って理解しながら雁夜は顔を上げた。 「いきなりすまない。見苦しいものを―――」 お見せした、と続くはずだった言葉は、しかし己に向けられている視線に気付いて喉の奥に留まってしまう。 雁夜が顔を上げて最初に見たのはすぐ傍で彼を心配してくれていたセイバー。凛とした雰囲気の漂う彼女が心配そうに、もしくは奇妙なものでも見るような顔だったなら雁夜は驚かなかっただろう。しかし実際の彼女の顔は先程耳にした茫洋とした声と相異ない、どこかふわふわした感のあるものだった。 「せい、ばー?」 「……これが貴方の『花』ですね。昨夜も拝見しましたが、近くで見ると益々美しい。それにこの香り。こんなにも良い香りの花を私は他に知りません」 これが私に与えられるとは夢のようです、と騎士王はまさしく夢心地で告げる。 確かに花それ自体は美しい。しかしそれは三十路を目前に控えた男から吐き出された物だ。ゆえに雁夜はセイバーの反応に驚く。ただしその一方で納得もしていた。己のバーサーカーも『花』を前にした時はこんな感じだったからだ。 やはり魔力の結晶である『花』はサーヴァントにとって特別らしい。それに…… (ホムンクルスも同じってところかな) 少なくとも人間の魔術師よりはサーヴァントの方に近いだろう。 セーバーの向こう側からこちらを熱っぽい瞳で見つめてくるアイリスフィールの姿を目に留めて雁夜は心中でそう呟いた。 アイリスフィールの赤い双眸も今や雁夜が吐き出した花に釘付け状態である。傍らのセイバーが花に手を伸ばすのを横目で確認し、雁夜は自ら吐き出した花を一つ摘み上げた。そして花の香りに酔っているアイリスフィールにそれを差し出す。 「えっと、食べます?」 「……いいの?」 「ええ。もしアイリさんが気持ち悪いと思わなければ、ですが」 「ありがとう。いただくわ」 白い繊手が伸ばされ、雁夜の手から花を受け取る。彼女の方もセイバーと同じく、一挙手一投足がどこかおぼつかなかった。雁夜には判らないが、大量に吐き出された花の香りが相当なものになっているのかもしれない。 と、そこで雁夜は「あ」と声を上げた。 背後には切嗣が立っている。(おそらく)セイバーの真のマスターで、なおかつアイリスフィールの夫である男が。 これは流石に良くないかもしれない。そう思って恐る恐る振り返った雁夜だが、 「……え?」 差し出されている手に目を丸くした。 「まさか衛宮さんも?」 「何せセイバーのマスターは僕。つまり魔力供給も僕から行っているわけだし。アイリに花をくれるなら僕も貰えるよね、雁夜」 そう言って切嗣はあっさりすぎる程あっさりと雁夜に右手の甲を見せた。確かに十字架のような令呪が一画の欠損もなく刻まれている。 「まあ、そりゃそうですよね」 道理には合っている。 雁夜がまた一つ花を拾い上げて今度は切嗣に差し出すと、相手は濁った黒瞳を僅かに細めて――笑ったのだろうか―― それを受け取る。 「僕には花の香りまで判らないけど……これは、すごいな」 スミレの花をぱくりと一口で食べた切嗣はすぐに動きを止めて呟いた。黒い目が今度は僅かに見開かれている。 「甘い……でも砂糖や甘味料の甘さとは違う。まさしく魔術師が本能的に求めるものだね」 「俺にとっては無味無臭の美味くも何ともない物なんだけどなぁ」 「へぇ。まあ自分の魔力っていうのはそういうもんなんだろう」 切嗣はかすかに口の端を持ち上げて、立ち上がる雁夜に手を貸す。 「すまない」 「いや。ここじゃなんだから、とりあえずサロンにでも行こうか。これからのことについて話を詰めておきたい」 「わかった」 そう言って頷くと、切嗣がアイリスフィールの名を呼んで奥へと向かう。雁夜も切嗣の視線を受けてそれに続くが、もう一人の人物―――セイバーに切嗣が声や視線を向けることはない。セイバーは花から一度視線を外してしっかりと切嗣を見ているのに、だ。代わりにアイリスフィールが切嗣を一瞥した後、申し訳なさそうに眉尻を下げてセイバーを呼んだ。 どうやらセイバー陣営はマスターとサーヴァントの意志疎通が上手くいっていないらしい。と言うより、切嗣が一方的にセイバーを無視しているのか。 なんだかちょっとばかり面倒かもしれないなぁと思いながら、ひとまず雁夜は案内されるままこの屋敷の主人達の後に続いた。 アインツベルンの森2 再び見(まみ)えることができたその姿は、やはりどうしようもなく美しいものとして衛宮切嗣の目に映った。 アインツベルンの城に足を踏み入れて早々に花を嘔吐しだした間桐雁夜の背を見つめながら、切嗣は誰にも知られぬようそっと息を吐き出す。 切嗣はなにも他人の苦しんでいる姿を好む性質ではない。むしろ自身の内に抱える願いと他者が苦しむ姿は正反対と言えるだろう。しかし間桐雁夜が苦しみながら花を吐き出す姿だけは別だった。細い体を丸めて薄い唇からぽろぽろと花を零す様は、吐息が思わず熱を帯びる程に切嗣の心を惹きつける。 雁夜は決して他者の目を奪うような美しい容姿をしているわけではない。それならばむしろアイリスフィールの方がもっとずっと美しい。だが雁夜の吐き出す花が魔力の結晶である所為か、それともまた別の他者の感情をかき乱す要素の所為か、間桐雁夜という存在から切嗣は目が離せない。 しかも実際に花を口にしてみれば、魔術師が本能的に求めるそれは極上の甘味として認識された。人間の魔術師である切嗣がこれなのだから、サーヴァントやホムンクルスである目の前の彼女達が惚けたようになるのも致し方ないのかもしれない。 実のところもう一口花を食みたかったのだが、その欲望はこれからのことを考えてぐっと抑え、切嗣は雁夜を城の奥へと案内する。アイリスフィールに声を掛ければ、彼女ははっとしたように花から視線を外して切嗣につき従った。セイバーには相変わらず視線すら向けないが、代わりにアイリスフィールが声を掛けている。 「あ、すまない。花を散らかしたままだ」 「気にしなくていいよ」 サロンへ向かう途中、声を上げた雁夜に切嗣はそう答えた。 「僕が使い魔をやって回収させてもらうから。それで構わないかい?」 「衛宮さんがそれでいいなら。でもわざわざ悪いな。俺の方から使い魔を出すこともできるけど……」 「それには及ばないよ」 むしろそうされる方が困る。雁夜が自身の使い魔で花を回収――おそらくは食べさせるのだろう――した場合、あの花々は切嗣の手に落ちてこないという結果になるのだから。 城の主人がそう言うのだから雁夜も強く反論する気はないらしく、「じゃあよろしく」と少しばかり申し訳なさそうに眉尻を下げて笑った。 □■□ サロンに辿り着くと、先にその部屋で先に準備をしていた久宇舞弥に迎えられた。舞弥についても切嗣から簡単な紹介があった後、各人は席に着く。とは言っても、実際に椅子に腰を下ろしたのはアイリスフィールと雁夜だけなのだが。 テーブルには地図や各種紙の資料、そしてパソコンが置かれている。それらの正面に切嗣が立ち、隣にアイリスフィール、テーブルを挟んだ斜め向かいに雁夜、セイバーと舞弥はそれぞれ部屋の隅に立つ。最後の二人は不測の事態が起こってもすぐに飛び出せるポジションだ。 遠坂家とは違い、家電製品も普通に使用している間桐家の雁夜は切嗣がパソコンを操作していることにも何ら驚かない。ただその事実がアイリスフィールにとっては衝撃的だったらしく、「雁夜もこれを知ってるの?」とパソコンのモニターを指差した。 「ああ。うちにもあるんだ。間桐は土地管理のためにそういう機械をよく使うから」 おかげで魔術の種類だけでなく生活様式そのものが他の魔術師から見て外道に当たる。しかしながら現代文明の利器に慣れ親しんだ雁夜からすれば、触れもしないうちからそれを厭って何でもかんでも魔術に頼ろうとする魔術師達の方が無駄というか労力が勿体無いなぁと思ったりもするのだが。 (特に某家の当主とか) 雁夜の大事な女性は家電製品のない家事に四苦八苦していないだろうか。彼女用の乗用車があることから、そこまで原始的な生活は送っていないとは思うけれども、やはりちょくちょく話を聞く限りでは一般家庭より家電の数は少ないらしい。基本的なことは遠坂家のメイドがやるだろうが、それでも彼女が何もしないわけではあるまい。 「雁夜? どうかしたの」 「いや、なんでもないんだ」 うっかり某幼馴染を思い出して雁夜の顔が強ばったのをアイリスフィールに見咎められた。雁夜は首を横に振ってそう答えると、「始めてくれ」と切嗣に告げる。 「それじゃあ早速だけど、キャスターについて知っている情報を開示しよう。教会で監督役も言っていたけど―――」 雁夜に促され、切嗣が説明を開始した。 冬木の殺人機として巷を騒がせている者達こそがキャスターとそのマスターである。またこの数日間は特に幼い子供達の失踪事件が続いており、それも彼らが犯人であると考えられる。被害者たる子供達はちょうど切嗣の娘であるイリヤスフィールや雁夜が大事にしている桜達と同じ年頃だ。それを思うと雁夜も顔をしかめざるを得ない。 そのキャスターの正体は『青髭』の名で有名なジル・ド・レェ伯爵。セイバーを自身がかつて敬愛していたジャンヌ・ダルクと勘違いし、彼女に強い執着を見せている。探すまでもなく、セイバーがここにいるだけであちらから勝手にこの地へとやって来るであろう。 ゆえに切嗣としてはキャスターをこのアインツベルンの森におびき寄せ、そのキャスターを狙ってやってきた他の陣営を横から叩くという戦法をとるつもりらしい。 それを知った瞬間、セイバーは何の罪もない子供達が犠牲になっていくのを見過ごすのかと怒りを露わにした。確かに騎士♂、がそんな残酷なことを許せるわけがない。 効率と勝つことを求める切嗣。尊く気高くあることを至上とするセイバー。この二人の意見が交わることはなく、どこまで行っても平行線だ。それどころか切嗣は相変わらずセイバーの存在をないもののように振る舞い、彼女の言葉も怒りも完全に遮断している。 (……ま、どっちの言い分もわかるっちゃあ分かるけどな) さて、自分はどうしたいのだろうか。 雁夜は考え、どちらの意見が通っても己はそれに異を唱えることはないだろうという結論に達する。ただしそれはキャスター陣営による犠牲者が自身の大事な者達ではないというのが大前提だった。有り得ないとは思っているが、もし桜や凜に彼らの魔の手が伸びた場合、自分はきっと一片の容赦もなく敵≠叩き潰すだろう。 ただしこの場ではマスターである切嗣の意見が一番強い。アイリスフィールが強く訴えれば少しは変わるかもしれないが、勝つ♂ツ能性を最も高くしたいならセイバーの綺麗事よりも切嗣の非情で狡猾な戦法を採るべきだと彼女も理解しているはずだ。 そんな雁夜の確信に似た予想は的中し、切嗣が話は終わったとばかりに話題を変えて雁夜を客間に案内すると告げたことで、強制的に切嗣の戦法でキャスターの来襲を待つことになった。 「間桐の屋敷と行き来するよりこちらに泊まってもらった方が僕としてもやりやすいからね。構わないかい?」 「そりゃ構わないけどさ。でもいいのか?」 「勿論。ま、使用人達はいないから、自分のことは自分でしなきゃならないんだけど」 食事とかね、と付け足すのは昼間の意趣返しだろう。相手の口元が僅かに緩んでいるのを見て取って雁夜も「了解」と苦笑を返した。 アインツベルンの森3 切嗣はこの戦いを有利に進めるために間桐雁夜と手を組むと説明していた。しかしアイリスフィールは夫のその言葉は建前だろうと思っている。 (でもいいの。私だって切嗣と同じだから) 戦争には勝ちたい。聖杯を降霊させ、全ての救いを願うのは切嗣だ。 しかしそれとはまた別のところで切嗣は――― そしてアイリスフィールも、たった一つの存在に見入られ、それを欲してしまった。夜の倉庫街で目にした花を吐き出す雁夜の姿に、二人は心を奪われたのだ。 また実を言うと、アイリスフィールとしては人間の切嗣よりも魔力に敏感な自分の方が雁夜により強く惹かれていると思っている。人を愛するのではなく、生きる上での本能的な部分があれ≠欲しいと感じている、と。 (人≠ナある雁夜に対して抱くには失礼な感情かもしれないけど) しかし、その花の香りに、その花の甘みに、自分はどうしようもなく惹かれるのである。 特に花の実物を目にして香りをかいだ時などはもう理性すら怪しくなっているかもしれない。完全に我を失うことはないが、茫洋として酒に酔ったような感覚に陥る。 夕食の後、アイリスフィールは自室に戻って、そう己を振り返った。 切嗣の話が終わった時点であとはキャスターがここまでやって来るのを待つのみとなっている。切嗣と舞弥の方はまだもう少しこの城の内部に迎撃用の罠を仕掛けているのだが、少なくともアイリスフィールの仕事は森に張った結界の異常を感知するまで何もなかった。 ゆえに自室で体を休めているのだが、状況が状況なだけに落ち着かない。キャスターやそれを狩るためにやって来る他の陣営を待つという状況が。また、『花』が同じ城の中にいるという事実が。 「……。罠が仕掛けられる場所は知ってるし、そこに行かなければ問題無いわよね」 誰にともなくそう告げてアイリスフィールは立ち上がった。 部屋の中でじっとしているよりは城内を散歩でもしていた方が気も紛れるだろう。 外へ出たアイリスフィールはひとまず中庭へと向かう。 誰かを捜して話し相手になってもらうという手段も無くはなかったが、切嗣は迎撃の準備に余念がなく、舞弥に対しては苦手意識があり、セイバーは己のマスターと真っ正面から対立する意見に怒り、また悩んでいる。残る一人は雁夜だが、一対一でいる時にもし彼が花を吐いたなら、アイリスフィールは正気を保っていられる自信がない。 よって緊張感が高まる最中、誰も用が無く近寄らないであろう中庭を目的地とした。 それに中庭には沢山の白薔薇が咲いており、月夜の下で幻想的な景色を見せてくれるだろう。あの花ならばアイリスフィールも綺麗だと思うだけで、我を失ったりはしない。 果たして、中庭までやって来ると、そこには予想通りの―――否、予想以上の景色が広がっていた。 昼間に見る薔薇も美しいが、月光を浴びてぼんやりと淡く輝いている白い薔薇はまた格別。もう間もなく戦いが始まるであろう状況を一瞬忘れそうになる程、アイリスフィールの目の前に広がる光景は美しかった。 これまでの九年間を過ごしてきたアインツベルンの城では見ることのできない、雪とは異なる白。アイリスフィールは目を輝かせ、感嘆の吐息を零す。 と、そんな時だった。 視界の端で何か動くものを捉える。アイリスフィールが気付くのと時を同じくして相手側もこちらの存在に気付いたらしく、白い髪の彼―――間桐雁夜が「あ」と声を上げた。 「アイリさん?」 「雁夜……。どうしてここに?」 「暇だったからちょっと散歩しようかと思って」 「あら。私と一緒ね」 「アイリさんも?」 「そうよ。だって結界内に敵が入って来るまで私の役目は無いんですもの」 「俺も。衛宮さんと久宇さんは罠を張ってるみたいだけど、俺にはそういう技術がないから」 だから手持ちぶさたで、と雁夜は苦笑する。 わざと肩を大きく竦める仕草が戦争中とは思えない軽さを演出し、アイリスフィールの顔に自然と笑みが浮かんだ。 「それにしても衛宮さん達が仕掛けてる罠……あれ、中身教えてもらったけど、結構エグいんだね。生粋の魔術師の裏を完全にかくようなやつばっかりだった。まあ、聖杯戦争に参加するような魔術師なら致命傷を受けることも無いだろうけど……。だからこそ、俺が思うに衛宮さんには切り札があるんじゃないかな。正攻法の魔術戦しか知らない魔術師の裏の裏をかくような秘密兵器が、さ」 俺の予想あってる? と小首を傾げる雁夜にアイリスフィールは「それは切嗣本人に聞かなくちゃ」と微笑み返す。 切嗣が特別な『魔弾』を装填して放つコンテンダーを切り札にしていることはアイリスフィールも知っているが、それを彼女の口から告げるわけにはいかない。魔術師♂q宮切嗣の切り札を明かすことが許されるのは切嗣本人のみだ。 雁夜もそれは承知しているらしく、「だよね」と苦笑を深めるに終わった。ただしその表情を見るに、彼の中で予想はほぼ確信になっているようだったが。 ちなみに、もし雁夜が本気で切嗣の切り札を知りたいならば、簡単にアイリスフィールの口を割らせる方法がある。 (『花』を目の前にちらつかされたら一発でしょうね) 音にはせず、アイリスフィールは胸中で呟いた。 雁夜が魔力の結晶である花を対価に情報を要求すれば、きっとアイリスフィールは答えてしまう。ホムンクルスであるアイリスフィールにとって雁夜の花はそれほどに魅力のあるものだった。 それをしない雁夜は余程紳士なのか、それとも単に切り札には興味がないだけなのか。 「アイリさん? 急にどうしたんだ」 黙り込んだアイリスフィールを心配して雁夜が声をかける。アインツベルンの森に張られた結界を監視している彼女が口を噤んだことで、何か異常を察知したのかと思ったのだろう。 アイリスフィールは何でもないと首を横に振ろうとして――― 「……来た」 はっと赤い双眸を見開いた。 自身の魔術回路を揺さぶる感覚はまさしく侵入者がやって来たことの証。アイリスフィールは雁夜と頷きあって告げた。 「切嗣達の所へ行きましょう」 2012.04.08 pixivにて初出 |