花と兄1
鶴野と雁夜。幼少期。



「気持ち悪いんだよ……っ!」
 己がそう吐き捨てた直後の弟の顔を鶴野は一生忘れないだろう。


 あれは、そう。弟の雁夜がようやく物心つき始めた頃だっただろうか。鶴野は既に己の魔術師としての素養がほとんど無いことを知っており、加えて自分とは異なり弟が将来有望であることを何となく理解していた。
 親からは幼心に圧し掛かる「役立たず」の視線。それに引き換えて弟は優秀。自分の家の魔術がどうやら蟲を使った気味の悪いものらしく、それを自分が継がずに済むというのはまだ魔術にまともに触れていないながらも精神衛生上大変ありがたいと思えることだったが、それでも弟に大きく劣っている己の立場は鶴野にとって受け入れがたい現実だった。
 弟が―――雁夜が可愛くなかった訳ではない。いつも暗い洋館の中、戸籍上の父親は気味の悪い老人で、本当の父と母はいつの間にか姿を消しており、使用人達は必要な仕事をこなすのみ。そんな中で鶴野に無邪気な笑みを向けてくれるのは幼い雁夜だけだった。
 ようやく意味の通った言葉を話し、また一人で歩けるようになった雁夜は鶴野を見るとパァっと顔を綻ばせて「にーちゃ!」と両手を差し出す。真っ黒な髪と真っ黒な瞳はキラキラと輝くようで、鶴野の胸に温かいものを与えてくれた。
 しかし、その幼子が苦しそうに咳をし始めれば、ややもしないうちに小さな口から小さな花がぽろぽろと零れ落ちてくる。この花こそ雁夜が鶴野より数倍、数十倍も優れていることの証。それを見た瞬間、鶴野は己の中の温かなものが一瞬で凍りつくのを感じた。
 こいつさえいなければ、鶴野はまだ一応は素質のある者≠ニして間桐の家に必要とされていただろう。けれど雁夜が生まれてしまった所為で鶴野は完全に不要なものとなった。雁夜がいなければ、雁夜がいなければ……。怨嗟のようにその言葉は鶴野の身体を巡る。
 ケホケホと咽ていた幼子はそれでも花を吐き出しきり、落ち着いた後は再び笑みを浮かべる。この子もまた親の愛情を満足に受けられず、唯一愛してくれそうなのは兄だけだと悟っていたのかもしれない。
(僕をこんなに惨めにさせておいて……!)
 ぎゅっと眉を寄せる。歯を食い縛り、罵る声を吐き出すまいと耐えた。
 そんな兄の表情をどう取ったのか、雁夜はこてんと小首を傾げると、妙案を思いついたかのように目を輝かせて己が吐き出したばかりの花を手に取る。魔力の結晶であるはずのそれは、まるで本物の花のようだ。
 小さな手に小さな花。雁夜はそれを鶴野の方に差し出して、頬を薔薇色に染めながら告げた。
「にーちゃ、これあげる!」
 それは確かに幼子の好意だったのだろう。
 自分が吐き出している花の正体を詳しく知らずとも、雁夜はこの花が特別であると理解していた。それは戸籍上の父親が大事そうに花を回収する姿を幾度と無く見ていれば当然のことだろう。ゆえに幼子はこう考えたはずだ。この花は良いもの≠セから、機嫌が悪そうな兄にこれをあげれば喜んでくれるのではないだろうか、と。
 そして雁夜はその考えを幼さゆえの短絡さで実行に移した。まさか自分が花を吐き出せるほどの魔力の持ち主であるからこそ、鶴野に劣等感を与えているとは知りもせず。
「にーちゃ!」
 さあどうぞ、と言わんばかりに雁夜は満面の笑みだ。
 それを見た鶴野もそっと微笑を浮かべる。口元だけが弧を描いた、偽りの笑みを。
(嗚呼、なんて)

「気持ち悪いんだよ……っ!」

 ぱしん、と鶴野が払ったのは弟の小さな手。乗せられていた花は宙を舞い、床に落ちる。
「に、ちゃ……?」
「気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!! この化け物め!! 人間が花を吐くなんて有り得ないだろ!? そんなもの貰って僕が喜ぶとでも思ったのかよ! お前の所為で! お前がいるから!! お前なんか、お前なんか要らなかったんだ!! 気持ち悪いっ! 僕に近寄るな!!」
 形だけの笑みは一瞬で崩れ、自分でも意味を理解しないまま心中を吐き出した。
 真正面に睨みつけた弟の顔は呆け、それからじわじわと脳に伝わってきた痛みにくしゃりと歪める。だが目の縁を赤くして潤ませながらも、そのまろい頬に涙が流れることはない。幼い瞳は兄を見上げ、それから下を向き、弾き飛ばされた花を捉える。そしてよたよたと歩いてその花を回収すると、再び兄を見上げた。
「……なんだよ」
「ごめんなしゃい」
「っ!」
 きっと雁夜はとても敏い子供だったのだ。だから泣きも喚きもせず、その現状を受け入れた。
 兄の突然の暴挙に対し、雁夜は眉をハの字に下げて笑う。
「かり、」
「かりゃは、もう、にーちゃにちかづきません」
 そう告げると、雁夜は花を持ったままとてとてと鶴野に背を向けた。わざと花を回収していったのは鶴野が「気持ち悪い」と言ったからだろう。
 一人残された鶴野は自分が弟に吐き捨てた言葉と弟の顔を思い出してガクリと膝を折る。
「ぼ、ぼくは……」
 特別な魔術回路を備えているのも、花吐き病を患っているのも、それは全て雁夜の所為ではない。加えてあの子はこれからきっとおぞましい間桐の魔術に染められていく。本来ならば鶴野が受けるべき苦難をあの子が全て背負うのだ。
 それを理解しているはずなのに、降って湧いた一時の激情によって鶴野は弟のひたむきな愛情を振り払ってしまった。雁夜にとって見知らぬ父母よりも戸籍上の父である男よりも、実兄の言葉の方が何倍も価値のあるものだったかもしれないのに。
「ぼくは……僕は……」
 鶴野は両手で顔を覆う。弟の気配はもう感じられない。


 ごめんね。ありがとう。きれいだよ。
 その言葉が告げられぬまま、そうして間桐の子供は大人になる。







花と兄2
大人になった雁夜から見た鶴野。



「あ、慎二くん? 久しぶりー。元気にしてた?」
『     』
「うん」
『             』
「へぇ、そっかぁ。いやいや、楽しそうで何より。そっちの生活にも随分慣れたみたいだし、そろそろ彼女でもできたかい?」
『        』
「え? まだそんな齢じゃないって? でもそっちは日本より早熟だって言うし」
『                         』
「あはは! ごめんごめん。冗談だよ。おじさんが悪かった」
『      』
「うん。うん、そうだね。こっちはそろそろ聖杯戦争が始まるから、それが終わったら一度帰っておいで。鶴野兄貴―――君の父さんにも会いたいだろう? それに俺としては新しくできた君の従妹にも会って欲しいしね」
『               』
「ふふ。可愛い子だよ。俺が間桐の仕事を分けようと思ってる話は知ってるよね? 将来的には君が間桐を継いで、彼女がマキリを継ぐことになるだろうから、仲良くしてくれると嬉しいな」
『                               』
「うん、うん」
『          』
「そう。じゃあ、また連絡するね」
 そう言ってカチャリと受話器を置く。現在海外にて遊学中である甥の慎二との電話を終えた雁夜は口元に淡い笑みを刻んでいた。
 現代科学を嫌う魔術師は決して少なく無く、雁夜の身近では遠坂の当主がその筆頭であったりするのだが、間桐の家では一般家庭程度の電化製品など極々普通に使用されている。先程まで甥と会話していた電話もFAX機能付きだし、雁夜の書斎には今年の春モデルのノートパソコンすら揃っていた。
 と言うか、土地管理諸々の普通の人間としての仕事などは機械が無いとやっていられない。同じ屋敷に住んでおり、その間桐が所有する土地の管理に関して基本的なことを全て担当してくれている実兄の部屋には独自にカスタマイズされたデスクトップパソコンがあったはずである。
 はず、と明確に言い切ることができないのは、雁夜が滅多なことでは兄の部屋を訪れない―――それどころか必要最低限の会話しかしないからである。
 雁夜としては普通の兄弟のように振舞ってもいっこうに構わないのだが、兄本人がそれを良しとしないのだ。自分には雁夜に対して負い目があるとして。
「気にしなくていいのに」
 ふっと淡い苦笑を浮かべる。
 兄がかつての暴言を悔いていることを間桐雁夜は十分承知していた。
 最愛の血の繋がらない娘は綺麗だと言って喜んでくれるし、幼馴染の女性は微笑んで受け入れてくれるし、その夫で雁夜にとっては非常にいけ好かない男が実は一番最初にその言葉を否定してくれた人物だったりするのだが、それでもやはり雁夜にとって花を吐くという現象を全面的かつ肯定的に受け入れることはできていない。物心がつくかつかないかという頃に手を弾かれた経験と暴言はそれ程のものだったのだ。
 兄の鶴野はそんな雁夜の状態を敏感に受け取って今なお幼少期の己の発言に苦しんでいるのだろう。そしてどうすれば良いのか解らないまま、ずるずると微妙な距離感を保ち同じ家で暮らし続けている。仕事の話はそれなりにするのだが、家族としての会話が弾んだ記憶はとんとない。中学を卒業する頃、雁夜が臓硯を降した件についても事後報告を淡々と済ませただけだった。
 当時は兄弟揃って恐怖の対象だった蟲蔵が臓硯ではなく雁夜の管理下に入ったことで鶴野の恐怖対象が父から弟へと移行するかと身構えたりもしたのだが、思ったほどの反応は無かった。いつもどおり兄は弟に対して必要最低限の言葉しか交わさず、済まなさそうに視線すら合わせなかった姿は今でもしっかり覚えている。
(兄貴にとっては蟲蔵よりも昔の方が重いって訳だ)
 苦笑の度合いを深め、雁夜は電話越しに聞いた甥の声を思い出した。
 甥は鶴野と雁夜の間にあったことなど欠片も知らず、雁夜にとても好意的である。幼いながらも次々期当主として雁夜から教わることが沢山あると自覚している所為か、こちらをもう一人の父親か一番の教師として捉えているのだろう。
 間桐の家に生まれながら魔術回路を持たない慎二は、本来、肩身の狭い思いをするはずだった。しかし雁夜が彼に役割を与えると決めたことで、今の慎二の自尊心とやる気が保たれている。根が真面目で努力家な甥を雁夜は上手く導くことができたという訳だ。これに関しては――仕事外であるにも拘わらず――鶴野の方から話しかけられ、礼を言われたのも記憶に新しい。
「欲を言えばもうちょっと兄弟らしい会話ができればいいんだけどなぁ」
 それはまだまだ先の話になりそうだと、雁夜は独りごちる。
 いっそ聖杯戦争に本気で取り組んで聖杯を勝ち取り、この兄弟仲をどうにかしてくれまいかと願ってみようか。そんなことを考え付く程度には、雁夜は兄のことが嫌いではなかった。他のマスターやサーヴァント達にはふざけるなと怒られそうな願いではあったが。
(……なんて、ね)
 冗談だよ冗談、と誰に言うでもなく呟いて、雁夜は自室へと引き返した。







2012.01.29 pixivにて初出

「花と兄1」
雁夜さんが「花吐き=気持ち悪い」と思ってるのは鶴野兄さんの所為だと萌える。幼少期の刷り込みで。鶴野兄さんは自己嫌悪。

「花と兄2」
普通に暮らして土地管理やってる間桐家の次々期当主は魔術回路を持たない慎二くんで、魔術側としての間桐(マキリ)の後継は桜ちゃんにしようと考えている雁夜おじさん。なので慎二くんと雁おじの仲は結構良好。慎二くんにとって雁おじは良い人。今は海外にて遊学中。ちなみに臓硯おじいちゃんの恐怖政治が無いので鶴野兄さんのアル中はログアウトです。でも負い目があるからあんまり会話できない兄さん。